アクセルの意気地記 第4話 台湾編

私が初めて海外旅行というものを経験したのは大学1年の冬のことだった。友人に誘われるまま訪れた先はタイとベトナムで、ここで想像以上のカルチャーショックを受け、海外旅行の味をしめた私は、学生の間に出来る限り、と思い、バイトで金を貯めつつ4回ほど海を渡って異国の情緒を味わった。

その旅熱は当時、かねてからのバンド熱と肩を並べる程に高まり、自分はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、と迷ったほどであったし、あわよくばその両方を実現できたら、とさえ真剣に考えていたほどであった。

しかしひとまずはバンドマンになることを優先させるべく、土日と夜は自由になるバイトを選んだところ、貯金などできる訳もなく、私は貧乏生活に突入し、旅熱は次第にフェイドアウトせざるを得なかった。

以降、私が海外旅行を実現できたのは20代後半、第一次就職決意期の就活前に20日ほどインドに行ったのと、もう3年ほど前になるだろうか、配偶者のピーさんと新婚旅行と称して2週間ほどタイとラオスを巡ったのと、その2回きりであった。

旅人、トラベラー、ボヘミアンは孤独。旅するなら個人旅行に限る。バックパッカーの真似事をしていた当時、私はそんな風に思い込むようになっていたが、新婚旅行の際は、海外行けるなら1人でも2人でも何人でもいい、行こう行こう、と意固地な拘りはあっさり過去のものとなっていた。

それでも、きっと今後子供が生まれるような幸運に恵まれたら容易に海外などには行けなくなるだろう、という覚悟もしていた。一般的に赤ちゃんや子供を連れての海外旅行というのはハードルが高いというし、自分が行きたくても家族の同意と理解がなければ無理である。

前置きがずいぶん長くなったが、こと子が生まれて数ヶ月が経過し、初めての子育てに翻弄されていたある日、突然ピーが、台湾に行こう、と言い出した。私は勿論驚いたが、実は私とピーの共通の友人の中に何人も台湾に行った者がおり、ウチらも台湾行きたいねえ、という話しは既に夫婦の間で交わしてもいた。ただこと子が生まれてからそんな話題は出なかったし、それどころではないと私も思っていたのだ。

そんな中でのピーの台湾発言は私を驚かせたが、奥さんさえ前向きな姿勢なのであれば赤ちゃんがいてもどうにかなるだろう、と私はすぐにその案に同意した。

それからトントン拍子に話しは進行し、こと子のパスポートの手配(乳幼児でもパスポートが必要なことを知らなかったので驚いたが)、飛行機の手配、宿の手配も完了。飛行機はLCC、宿はairbnbの低価格物件を選んだので正に貧乏旅行。現地での移動にきっと重宝するに違いない、ということで軽量化タイプのバギーもジモティーでゲット。

2月中旬出発予定、期間は7泊8日ということで我々は期待を膨らませつつ過ごした。今までの旅行のようにあっち行ったりこっち行ったりや、シビアな環境での長時間の移動は赤ちゃんが可哀想なので、飽くまでも街をプラプラ歩いたり、美味しいゴハンを食べるというのを主軸にしようと我々は作戦を練った。もっとも、元より観光名所を巡るよりも街をプラプラする方が好きな私ではあるのだが…。

安い飛行機なので出発が早朝であり始発で地元の駅を出なければならず、前夜は早く寝なければならなかったのだが、夜12時前くらいだったかこと子が床で泣き出すので見に行ったら、かなりの量のミルク、というか母乳を吐いていて、私もピーも動転した。その後も嘔吐が続いたので、動揺しつつ救急センターに電話。応対の女性に事情とこと子の様子を伝えると、吐いているだけなら様子を見た方が良いとのこと。明日の朝病院に行けば良いだろう、とも言われたが病院に行くのではなく台湾に行くことになっているのだから、私とピーは顔が青ざめた。

チビゲロはこれまでにもあったが、本格的な嘔吐が初めてなので全然安心できず、ほとんど寝られずに朝を迎えた。大事をとって旅行をキャンセルするのが妥当のように思われたが、支払い済みの飛行機代も宿代も水泡に帰する。

吐いて意識が朦朧としたり、顔色が悪くなる訳でもなかったから、大丈夫かもしれない、という希望的観測と、お金がもったいない、という庶民的感性が我々を台湾旅行に引っ張り続け、私もピーも、諦めよう、と言い出せない。その代わり夜が明けて、こと子がいつも通りの表情であることを確かめつつ私は提案した。とりあえず成田まで向かってみよう。それでもし成田への途上でまた吐くようなことがあったら、その時は仕方ない諦めよう。

まだ薄暗い田無の町を出発し、緊張したまま我々は成田へ向かったが、幸いこと子はケロっとしていて何事もなく空港へ到着。そしてそのままフライトに臨むことができてしまった。やったー。

飛行機に乗り安心して、ピーと、よかったね、よかったね、と昨夜の労をねぎらい合い、私達の隣に座っていた日本アニメオタクの女子と、これから行く台北の町について、オススメを聞いたり談笑していたらこと子がまた吐いた。抱っこしてた私の上着やズボンが見事に汚れた。あー、っと私とピーはティッシュやウェットティッシュであちこち拭きながら騒いで、同時に絶望。やっぱりヤバかったのだろうか…。

そんなことを今さら言ってもしょうがない。もう後は台北で病院を探すしかない。2人で暗澹たる気持ちに沈んだのだが、吐いた後のこと子はやはりケロっとしていた。

結局その後嘔吐は止まったので宿に着いてからも病院は行かず、旅を楽しみながら経過観察をしているウチに嘔吐は止まり、しかしちょっとした風邪なのか下痢をしていたけど、最終的に病院の世話になることもなく旅程を終えることができたのだ。

台北は地下鉄の便が整っててバギーが大活躍だったが、台南では地下鉄がなく、自転車を借りての観光が基本であるという現実に直面し、抱っこ紐を携帯し忘れた私達は手をこまねいた。

困った時のインターネット、というわけでピーが抱っこ紐の代用はないかと調べ出したところ、バスタオルを対角線の角で結び、簡易抱っこ紐というかスリングのように赤ちゃんを抱きかかえる方法が見つかり、早速試してみたらこれがなかなか使えた。台南での自転車移動はそのやり方でこと子を抱え、片手で補助的にこと子を抑えつつ、前かごにバギーをはみ出し気味に差し込み、慎重に運転してあちこち走った。異国で自転車を漕いで走り回るのは何とも楽しいものだ。

私達は7泊8日の旅程で街を歩き回り大衆料理を食べて食べて、東京では味わえないのんびりした時間の中で親切な台湾の人々と触れ合い、観光名所にも大してアプローチせずとにかく街歩き。こと子のことを心配しながらもあちこち連れ回してすっかり楽しんだ。

さて、そんな風に楽しかった台湾旅行だが、まだ乳飲み子である乳幼児を海外に連れて行くのは正直に言えば大変な面も沢山あった。飛行機内では当然何度もぐずったし、泣かれたら立ち上がってあやし、座っていても抱っこのまま寝られたらそのままの体勢でじっと我慢してなきゃならない。宿でも安心して放牧(抱っこから床や畳、絨毯など地面にリリースすることを我々はそう呼ぶ)できるスペースはベッドの上しかなかったし、買い物でも観光でも何でも、バギー上のこと子が泣けば抱っこしなければ収まらず、抱っこしたまま歩いたり、階段を上ったり、何かを待ち惚けたり、なかなか体力が要る。

オムツを替えるのも外だと一苦労で、今回の旅の最中、飲食店の裏口やマーケットの片隅でコソコソ替えたこともあったし、小さい赤ちゃんのいるお宅に、すいません、オムツを替えさせてください、と頼み込んで場所を貸してもらったこともあった。
食事中も、座高のかなり低いバギーだったせいでこと子はすぐに機嫌を損ねて泣いた。仕方ないので代わり番こに抱っこしながら食べた。赤ちゃんを抱っこしながら食べるのは、左の手で赤ちゃんを抱えて、その腕をなるべくテーブルから離して右手で食べる。抱えた左手がテーブルに近づくとすぐに赤ちゃんは食べ物を荒らし始めるからだ。

もちろん嘔吐に下痢に、大事には至らなかったものの、体調を崩した時の心配は海外では余計に増える。台湾は日本語がある程度受け入れてもらえそうだが、英語が通じない他の国に行ってたら心配はさらに増えるだろう。

とはいえ、台湾はというと噂通り、どこにいても周りの人たちが優しくしてくれたし、困っているとどこからともなく日本語を話せる人がやって来ていろいろ助けてくれる。バギーで移動してるだけで、いろんな人たち(特におばちゃん)が、まあカワイイわね〜、と可愛がってくれた。

道徳とかモラル、文化の違いなのか、電車での優先席の扱い方も丁寧で、赤ちゃんを見るとすぐに譲ってくれたし、東京のように優先席なのに元気なヤツらが我が物顔で座って澄ましてるなんてこともなかった(これは台湾在住の友人も言ってた。儒教の関係でしょうか?)。

そして何より今回の旅で私はこと子と今まで以上に仲良くなることができた、というか距離が縮まったというか。休みの日以外、普段は朝と晩の数時間しか一緒に居られないのに、この旅行中は四六時中一緒に行動していた訳で、自然と抱っこしてる時間、戯れる時間が多く、オムツもいっぱい替えた。そのせいか、気のせいか、こと子もこれまで以上に私をパパ認識するようになってくれたみたいだ。

帰国便の飛行機がLCCのせいか、何と4時間も遅延した。赤ちゃんがいるので遅い帰国を避けるため、夕方に着く飛行機を選んだのに成田に着いたのが20時半。疲れ果て、京成線に乗るのがシンドくてチョイスした新宿行きのリムジンバスに乗り込むとすぐ寝てしまったこと子を抱きかかえながら、みんな無事に帰ってくることができて本当によかった、と台湾旅の濃密な時間を振り返りながら私はしみじみと思った。
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代行運転

夕方父から電話が入る。私は外回りの仕事なのでプライベートの電話がかかってきても、比較的対応することができる。父の電話の用件は、「要らないと言ったけど、やはり車の代行を頼む」であった。

数週間前から車の代行を私に頼みたい旨の連絡があり、私は当日仕事だから遅くなるので断っていた。その代わりに姉が代行を引き受けたらしく、話はまとまったものと思われたが、姉が、「やっぱりできない」ことになったらしく、当日になって父はまた私に、遅くなっても構わないので、と電話してきたのだった。

父が代行運転を頼む時は、事情が毎度ほぼ同じで、父が顧問を務めるバラライカ楽団のコンサート本番の日である。コンサートが終われば楽しい打ち上げが待っているわけだが、楽団の機材庫と化した私の実家、つまり父の自宅から、毎度父が運転して楽団の機材を会場に運び込むことになっており、となると帰り父は酒を飲めないことになる。

飲兵衛の父にとって、打ち上げで酒が飲めないのは、コンサートに繰り出すモチベーションも楽しみも半減してしまうようなので、その事情を知っていて、尚且つたまに経済的支援、といってもいい歳して定期的な小遣いを貰ってるわけではないが、こと子のことやら何かと支援を受けている立場の私は、そんな父のお願いは断りづらい。

当日になって、やはり代行を頼む、とSOSを投げてきた父に、私は不承不承、遅くなってもいいなら、しょうがない、やりますよ、と答えて電話を切った。不承不承答えるのは父に恩を着せるためなのか、私がただ単に面倒くさいからなのか、自分でもよく分からないが、そのどちらもあるような気がした。

私が社用のハイエースで現場から帰社し、残務処理をしている間も、父から、今コンサートが終わって、とか、東新宿駅のイタ飯屋に入った、とか細かく電話が入るので閉口して適当に受け応えをしていた。

コンサートの会場は新宿文化センターで、私は以前にも1度代行で現地に赴いていたので何となく場所の検討はついていたのだが、それが東新宿駅から目と鼻であることには今回の件で初めて気づいた。東新宿駅なら職場から至近にある新宿西口駅から1駅分である。不承不承引き受けたものの、大した労ではないな、と考えながら大江戸線に乗ろうとしたところでまた父から着信があったが、どうせ、今どこだ、とか、まだか、などと私を急かせる連絡に違いないと推察し、わざわざ出るのをよした。もうあと10分もしないうちに着くのだから。

東新宿の駅を出て、言われた通りA3出口からエスカレーターで地上に上がってゆくと、上がったすぐ右手にそれらしい洋食屋があった。これかな、とガラス張りの店内を観察すると、それらしい団体は見当たらない。いつもなら20名前後の楽団員が集合して、やんや、と楽しそうに酒を飲んでいることになっていて、そんな集団はいないし、5、6人の団体がいたが違うよな、とその席から焦点を外そうとした時、その団体の、こちらから一等手前に座っている人物だけがこうべを垂れて眠っているらしいのに気づき、もしや、としゃがんでもう1度よく見ると、おお、オヤジじゃないか、もう潰れてるのかぁ…。

私は颯爽とイタ飯屋に入っていき、店の奥のその団体の席にグングンと近づいていった。「お待たせしましたっ!」と声をかけると、眠ったまま気づかない父以外のみんなが一斉にこちらを振り向いて、ああ、ハルさん、来た来た、と口々に騒いだ。打ち上げ途中で出来上がって就寝してしまった父を持て余していたのか、迎えにきた私は必要以上に歓迎されてしまった。

父は私が着いたことも、まわりのメンバーが私の到着を賑やかに歓迎したことにも気づかずこうべを垂れたままだ。何だかすいませんね、と私が代行運転のためにやってきたことを労って皆さんが口々に礼を言うので、私は、今日は何時から、と逆に聞き返すと、17時からです、とAさんが教えてくれた。なるほど、飲み始めてもう2時間半が経過している。帰った人もいるのか、始めはもっと参加者がいたのかもしれない。それにしても最近の父は飲み始めてから潰れるまでが早いのだ。人と飲む場合はより酒が進むのか、その加速度が増す。

私の挨拶が済むとメンバーが口々に、長尾さん、長尾さん、息子さんがいらっしゃいましたよ、と父に呼びかけてくれ、私は父の身体を叩く。すると目覚めた父が、ここはどこだ、と言わんばかりに焦点定まらぬ目つきで周りを見回す。そして私の顔を認識してきまり悪そうに微笑み、来たか、と感心している。私もきまりが悪いので父のバッグを持ち、行くよ、と声をかけるが、反応して立ち上がった父の足もとが怪しい。

テーブルを囲んでいたのは父を含めた男性3名と女性3名であったが、顔見知りの女性2人がすかさず立ち上がり、父を両脇から支えてくれる。本来なら私が率先して介抱するべきである気がするが、2人の優しさに甘えて私は歩き出す。

店を出て車が置いてある新宿文化センターの駐車場に向かう。私が歩く後ろを2人の女性に声をかけられガイドされながら父が千鳥足でついてくる。見事な千鳥足である。踏み出す足が交互に右に行ったり左に行ったりして、楽しそうである。面倒見る側は大変だが、酒に弱く、この程度までに酔えない私からすると何だか羨ましいようでもある。

Aさんが私を気づかってか、
「長尾さん、こんなんで同居は無理よ、絶対無理よぉ」
と私にも父にも聞こえるように言っている。これは私が娘を持つにあたり軽率に計画した同居プランがあっさり破綻した経緯を、Aさんが何かの拍子で知ったらしく、というよりバラライカ楽団の荷物を実家に置いている関係からか楽団メンバーは長尾家の事情をいろいろ知っているようで、その同居破綻の悲劇を少し軽妙な口吻のジョークとして言ってくれているのだろう。私は嬉しくなって、そうですかね、やっぱり無理ですよね〜、とAさんに相槌すると、
「無理よ。長尾さん、他人だからいいけど、家族だったら大変だろうなあ、と思うもん。推測だけどねぇ」
私は感心して聞いていた。AさんもBさんも、そんなことを言い合って笑いながら父を支えて歩いている。父は聞こえてるのか聞こえてないのか分からないが、半分寝たままフラフラしてて、実に愉快そうである。
「この先のエレベーターを上がれば新宿文化センターです。」
と、2人に教えてもらい、私は、ここまでで大丈夫です、と礼を告げた。半分夢見心地の父は2人の女性に挨拶しつつ抱擁、というか別れのハグをしている。私は父のこういう振る舞いはあまり目にしないが、酔った末にこうなることは想像に難しくない。父は愛の人である。Aさんが「長尾さんから愛を貰いましたので大丈夫ですから〜」と笑いながら上手に対応してくれている。優しい人達だ、と私はまた感心しながら自分も頭を下げて別れ、ベロベロの父を促してまた歩き始める。

新宿文化センターの駐車場入口に警備員がいて、千鳥足の父が進行方向に躊躇した私を追い抜いてその警備員に向かって右手を右のこめかみに掲げ、ご苦労様と言わんばかりに一瞬立ち止まって敬礼。そのまま千鳥足で駐車場へと通じる坂を下りていくのを、警備員が呼び止める。大丈夫ですか、と大きな声を出すので、代行で運転しますから、と後から警備員の脇を通る私が言うと、警備員も、ああ、そうでしたか、とまたオーバーに笑って安堵したようだった。

車に乗り助手席ですぐまた眠りについた父か、新宿を青梅街道から中野に抜ける辺りで急に目を覚まし、
「おい、ここはどこだ?」
と乱暴に聞くので、
「中野坂上!」
と私も乱暴に答えた。
「お前の会社はこの辺か?」
とこれも今日3回目くらいの質問なので
「違う、新宿西口!」
とまた乱暴に答えた。
南阿佐ヶ谷を通過するあたりと家に到着する寸前の中学校の前の路で、突然隣で寝てたはずの父が私の肩に手を伸ばしてきたので気味が悪くて条件的に振りほどいた。さっき女性とハグしたノリで変な夢でも見てるのかもしれない。

マンションに到着し、私のお役も御免になるかと思いきや、父が、楽器だけは下ろしとかないと、と呟き、千鳥足で荷台に向かう。荷台にはバスバラライカ、コントラバスバラライカ、バスドラムなどそれなりにデカい荷が積んであり、流石に私も見ていられず、デカいバラライカ2つを率先して運び、父はその千鳥足でバスドラムとボストンバッグかなんかを運んでいた。

車の鍵を戻して父に、じゃあ、と言って別れるともう21時近くになっていて、しかし、この実家から私のアパートまでの足はなく、30分弱くらいは歩かねばならない。私は早く帰宅してピーと晩御飯を食べてこと子を風呂に入れなければならないのだ。私はさっき車で来たのと反対方向に、母校である中学校沿いの薄暗い道を歩き出した。

アクセルの意気地記 第3話

生まれてからしばらくの間、赤ちゃんは赤ちゃん用のバスタブなんかにお湯を張って沐浴をさせることになっている。沐浴なんて言葉は、20代後半、インドに自分探しの旅に行った時、ガンジス河岸でぬめった地面に足を取られ、濁った水の中にざんぶと落っこちて以来聞かなかったが、赤ちゃんの身体を洗い清めてやる時にも沐浴という言葉を使うらしい。赤ちゃん用のバスタブにお湯を溜めて、赤ちゃんの首から上が水に浸からないように片手で支えながら、もう片方の手で石鹸つけたり湯をかけてあげたりするのだが、これがなかなか難しい。

幸い、こと子はピーの里帰りで産まれたこともあり、生まれて1ヶ月半ほどは山形の彼女の実家にいたので、実はこの沐浴に関しては私は山形に行った時に1、2回やったのみである。こと子が東京に帰って来てからはもう大人と一緒に浴槽に入れてよい、ということになっていたからだ。

赤ちゃんのお風呂は旦那さんが入れるもの、とそんなルールがどうやってできたのか知らないが、昨今の子育て慣習ではそうなっているらしい。私も仕事から帰ってきてからの数時間、または休みの日しかこと子と一緒にいられない──そんな当たり前のことに今さら気づいた──ので快く風呂入れの任務を担当することになった。引き受けたはいいものの始めの頃はしょっちゅう泣かれて大変だった。抱え方が悪いからか、私が緊張してるからか、または私の洗い方が乱暴だからか、お湯が熱すぎるか、ヌルすぎるか。試行錯誤を繰り返しながらも段々慣れてきて、こと子も風呂に入れられることに慣れてきたのか大泣きの回数は減ったけど未だに頭を洗う時だけは泣かれる。

頭を最後に洗い流す時に泣かれるが、湯船に浸かると大抵、う〜、とか、あ〜とか、何か満足気な嘆息を漏らして落ち着く。これは大人と同じである。それからこと子が溺れないように私はこと子の両脇を抱えながら話しかけたり、話しかけなかったりし、その間こと子は風呂温度調整の為に購入した細長いプラ製の湯温計を握り、それを弄ぶか、それを片方の手で握りながら、もう片方の手で栓の鎖に手を伸ばすので、鎖にこと子を近づけて握らせてやる。大体そういうモノを握らせていれば大人しくしていてくれる。

赤ちゃんはのぼせやすいというので、数分してこと子の身体に赤みが浮かんできたら抱きあげて母ちゃんを呼ぶ。タオルを抱えたピーにこと子を渡すとその時は何故か毎回、ご苦労であった、と言わんばかりに快心の笑みを私に向ける。そしてそのまま温度計を握っているのでそれを奪い返したり、そのままにしたりする。先日、その温度計がこと子の手から滑り落ちて私の足の甲に落下して思わず声をあげた。温度計は壊れなかったが足の甲に青アザができた。

大晦日でこと子は6ヶ月になった。腰も安定してきて抱っこするのが楽になった。元旦には私が毎年年始に初日出を拝みに訪れる御岳山の御嶽神社に、こと子を連れて行って初詣をした。昨年は身重のピーと共に訪れているのでこと子はその時はお腹の中にいたことになる。

御岳山山頂で初日出を拝むには、夜中から動き出さないといけない。未明の山頂の外気は低すぎるので、今年はこと子のことも、授乳させるピーのことも心配で、初日の出は諦めて1日の昼に参拝することにした。山頂の御嶽神社には、ケーブルカーの降り口から30分弱だが舗装道を歩いて上がって行かねばならない。張り切った私が抱っこ紐でこと子を抱えて上がった。山上の澄んだ空気を存分に味合わせてやろうと思ってたがこと子はほとんど寝ていた。

あくる日、ピーがこと子を連れて帰省した。私は仕事の都合で行かれなかったのだが、その約1週間ほどの帰省から帰ってきてこと子は俄かに人間味を帯びてきた。ような気がした。発声のバリエーションが増えて言葉にならないながらもよく喋るようになり、ずり這いで動き回る。そして何より嬉しいのが、パパ見知りしたあの日はどこへやら、私の存在を明確に認識し出して笑みを浮かべるようになったことだ。少し離れた位置からでも私なりピーなりを見つけると、豪快に笑顔を見せるようになったし、ずり這いで我々のところに一直線に向かってきたりする。こちらの問いかけに何となく反応する。いつ話し出したり、歩き出したりするのか分からないが、そうなったらどれだけ楽しいのだろうと、こと子の微妙な進化を目の当たりにしてワクワクしながら、同時にもう少しゆっくりでいいぞ、と時の経過の早さにビビってもいる。

前回、娘は恋人、という戯言を述べたが、そのバカらしい仮定は日々強まって否定する方が難しくなってきた。だから肯定するしかない。そして親バカにはなりたくない、とも思っていたが、それも否定する方が虚しい気もしてきたので親バカで上等ということにする。娘が可愛いか、と尋ねられようもんなら、可愛い、カワイイ、かわゆい、キャワイイ、何でもいいけど、100回くらい繰り返し言えそうなくらい可愛い。これは動物的本能なんだから仕方ないではないか。でもこの親愛なる感情ばかりは子供ができる前には想像しきれなかった。

それだけではなくて、こと子が生まれて日々接してる内に、元々持ってた子供アレルギーみたいなものがなくなってきた。歪な青年時代を送った私にとって、長らくの間、子供または幼児とコミュニケーションを取ることは何かしらのハードルがあった。バカにされたらどうしようとか、どんな風に話しかけたらいいんだろう、とか、余計なことばかり考えて頭でっかちになって自分の殻を破れない。しかし、そんな苦手意識もこと子の世話をしてる内にどこかへ行ってしまって、前まで何故あんなに悩んでいたのか分からない。でちゅまちゅ的な発話でさえ今なら造作もない。

他人の子の可愛さが分からない、という類いのことを言い出すオトコは結構多くて、自分も多分に漏れずそんな感じになるのかな、と思っていたが、これもこと子の世話をしているウチに赤ちゃんとか子供の、その存在自体の可愛らしさというものに気づいてしまい、もう、とにかく子供は可愛いや、ということになってしまった。

仕事で運転などしていて窓外にすれ違う、鮮やかな、お揃いの色の帽子を被って連なって歩く、またはトロッコに乗せられて運ばれてゆく保育園児たちを見てはうっとりし、町や公園で見かけるガキどものたわいもない、または超ハイテンションなやり取りを見てニンマリし、果ては、これは子供とはいえないけど、高校生カップルの初々しい恋愛姿などを見てホンワカした気持ちになったり。どうやらこの感覚はピーも同じであるらしく、2人乗りで自転車をこぐ高校生のカップルとすれ違った後にお互い顔を見合わせて、いいよね〜、とこの温かい気持ちを確かめ合ったりした。

赤ちゃんや幼児の成長は早いというが、半年を過ぎたこと子を観察していると、なるほど、あっという間に大きくなってしまいそうである。この稿を認めてる間にもこと子は刻一刻と変化し成長してしまうのであって、そうだとすると、私の記録したいことも、そうこうしているウチに遂に書ききれぬまま、先に急がねば追いつけなくなりそうで心配である。

バンド漫記 第16話 GUTSPOSE誕生

ハイパーニトロとは私が高校生の時に結成したパンクバンドで、振り返るたびに顔が赤くなるほどダサいバンド名である。結成当時はメロコア、スカコアが流行り始めた頃で、何となくそんな雰囲気の響きでカッコいい、と思ったのであろう。

始めはUKロックや米オルタナロック、メロコア、スカコアのコピーを試行錯誤しながらトライし高校3年の時にボロボロのデビューライブ。演奏の拙さは「オレたちはパンクバンドだから」という最強の通行手形でもって誤魔化し、大学に入ってからは落胆することもなく果敢にオリジナルソングを作り始めた。

大学に入る頃には流行りのメロコアよりもレスザンTVなどの癖のあるハードコアに傾倒し始めていたので、そういう個性的な音を目指しスタジオ練習を繰り返した。更にハイパーニトロという名前のダサさに気づいて早急にバンド名を改定せねば、と松ちゃんと私は新たなクールなバンド名を考えながらキャンパスをウロウロしていた。

丁度その頃エモーショナルパンクというパンクのジャンルが人気を博し始めていて、我々も影響を受け、英単語を何個か並べてエモい雰囲気を出すバンド名を列挙して出してみたりしていた。当時そのような英単語を何個か並べたぼんやりした名前のバンドが多かったのだ(有名どころだとat the drive inとかget up kidsとかpromise ringとかね)。しかしそういうぼんやりエモいバンド名は幾らでも考えられそうだったので、結局オリジナリティーに到達しづらい。そこでレスザンTVを見習って遊び心の感じられるバンド名を考えることにした。ハードコアパンクを目指しながら、外見も内面もハードコアから程遠い我々にピッタリなヘボい名前を考えあぐねたのだ。

大学1年の年に我が中央大学八王子キャンパスにガッツ石松が招聘された。招聘といっても大学のイベントサークルがガッツ石松を面白おかしくイジる、というやや下品なイベントを企画していたのだ。私と松ちゃんがいつも通りキャンパスを歩いていると歩廊でガッツ石松イベントの立て看板にぶつかった。

私はガッツ石松イベントに特別な感興を抱いてもいなかったのだが、その看板を見た途端に「ガッツポーズ」というガッツ石松本人が由来であるらしいフレーズが頭を掠め、コレはバンド名に使えるのではないか、と閃いた。松ちゃんにその場でアイディアを伝え、そのバカらしいバンド名のニュアンスを即座に理解してくれた松ちゃんと意気投合してすぐに決定となった。我々が敬愛していたレスザンTVのパンクバンド「GODS GUTS」にも何となく響きが似てるしいいじゃん! メンバーのナリ君とヤギも異議なしで、確かそんな経緯とノリで決まったはずである。

結成当初は曲として成立しないほどのスキルだった我々も根気よくスタジオを繰り返すうちに段々オリジナルソングが出来てきた。ボーカルの松ちゃんは私の作った曲に訳のわからない詩をつけてシャウトするようになった。ハードコアはシャウトが基本なのである。そして曲がある程度できてくると今度はライブをやりたくなってくる。

ライブハウスでライブをやるためには高いノルマを払ってブッキングしてもらうか、自分達で好きなバンドを集めて企画としてやるかのほぼ2択である。後者の方が楽しいことは間違いないが、後者には知名度と人脈と企画力のスキルが必要で、お客を集められないと結局高いお金をライブハウスに納めなければならない。

知名度も人脈もない私達はとりあえずブッキングしてもらおう、ということになり、数回はライブハウスによるブッキングをお願いし、チケットノルマを捌けずにお金をライブハウスに巻き上げられた上にライブハウスのブッキング担当にお説教を聞かされることになる。これはブッキングスタッフが、そのバンドが今後人気を得るためのアドバイスという建前なのだが、そのルールは腑に落ちないモノである気がした。

ライブハウスが無名のバンドを見つけ出してタダでライブをやらせてあげて、その上でここがよくない、あそこは良いからその調子で頑張れ、と叱咤激励をするなら道理にかなっている。しかしライブハウスのためにお金を払って出演しているのに、その上で、「まずチューニングができてない」とか「演奏があってない」などの、主観的かつ保守的で為にならない説教をされるのではたまらない。このライブハウスのノルマ制度は日本独特のモノだと聞くし、そもそもオレたちはパンクバンドだぞ、他人の指図で動かされてたまるか。

我々はすぐにブッキングでライブをやらせてもらうことを放棄した。そしてスタジオ練習を続け、ライブハウス通いを続け、常に刺激的なインディーパンクバンドをみつけては憧れ続けた。とりわけレスザンTV絡みのライブは8割方押さえていたし、そんなこんなで1週間に1度はライブハウスに通うような日々が続いた。

さて、これは残念なことであったがレスザンTV界隈のイベントは入る時はそれなりに入るが大方は客が全然いないことが多かった。今は無き西荻WATTSというライブハウスは一時期レスザンTVのイベントが頻繁に行われていて、我が家から割と近いライブハウスということで足繁く通っていたのだが、これが悲しくなるほど客がいないことが多かった。私がこんなに熱を上げているシーンがそのように不人気な状況にあることを私は何度も何度も悔しく思っていた。

ところがそんな風に客が少ない上に果敢に出演バンドのメンバーに話しかけてみたりする私は、遂にレスザン界隈の方々に存在を覚えてもらえるようになっていった。そしてブッキングがダメならこうやって顔見知りになったインディーバンドを呼んでイベントを企画してみよう、ということを思いついた。

とはいえそれを1人で仕切るのは自信ないし、それでは、ということで私の運営していたインディーズ研究会のメンバーを巻き込んで学園祭に合わせて企画してみたらどうか。特にサークルらしい活動はなく、ただたむろして駄弁るだけだったイン研メンバーも私の企てに賛同してれたのでこのライブ企画は何とか実現することができた。

レスザンTV界隈の他にも、我々が憧れていた、DIYパンクを標榜して活動するパンクバンド達にも声をかけた。彼らはライブハウスに頼らずあちこちの自治体のホールなどを利用して、機材を持ち込み、PAもセルフで行い、自分達だけのライブイベントを成功させていた。そういう自主運営やDIYもアメリカのハードコア・パンクシーンのやり方を真似ていることなどを知り、我々もDIYなやり方を真似てみたのだ。

先述の西荻WATTSの名物店長であったエビコさんに協力してもらいながら我々は何とか大学キャンパス内の、さして広くもないごく普通の教室を使って10バンドほどを招聘した大掛かりなライブイベントを何とか成功させることができた。この時出演バンドへのギャラをどうしたのかあまり覚えていないのだが、出したとしてもほんの少額だったはずで、出てくれたバンドの誠意によってイベントが成り立ったのは言うまでもないことである。

勿論、このイベントの先頭バッターは我々GUTSPOSEで、企画イベントに先輩バンドを呼んでおいて自分達が前座をやって存在をアピールする、というやり方は定番でもある。そしてこのGUTSPOSEの前座を見たGODS GUTSの浅沼さんが、こんなショボいパンクバンドはなかなかいない、と絶賛してくれたらしく、狙い通りに、というか幸運なことに、それ以降我がGUTSPOSEはレスザン界隈のイベントに呼んでもらえるようになり、DIYパンクシーンにも繋がりができ、また同世代で多摩美や武蔵美でハードコアパンクをやっていた連中とも親しくなり、そうして段々とブッキングではないライブに呼ばれて出演する、という活動ペースを掴みかけたのであった。つづく

アクセルの意気地記 第2話

ピーとこと子と3人の新たな生活が始まり、畳の和室二間の私のアパートは一気に賑やかになった。こと子の身体はまだ小さくても、ひとたび泣き出せば我が家全体に響き渡る。

ウチのアパートは木造で隣のウチの話し声や、上の部屋のオジさんのオナラなんかも聞こえることがあるくらいなので、逆にこと子の泣き声でクレームを入れられないか心配になる。子供の騒ぐ声や泣き声が不快だからと、保育園が建てられないというニュースが流れる時代である。油断はできないが、かといってこれはどうしようもない問題で、もし今後クレームが入ったらその時はその時であるが、この狭い東京で生息するのなら子供の騒ぐ声や泣き声くらい我慢するのが人情である。

こと子は子供といってもまだ赤ん坊で、里帰りから戻ってきた最初の1、2ヶ月はひっきりなしに泣いた。赤ん坊が泣くのは当たり前である。腹がへっているか、排泄をして下半身が不快であるか、今の体勢が不快であるか、眠いのに眠れないか、大体そんなところの不満によるものだという。しかし、マニュアル通りに考えていても、泣き止ませるのは思ったほど簡単なことではなく、泣いて嫌がること子を上手にあやすことが自分にはほとんどできないことが分かってかなりショックだった。

私は仕事以外の時間はなるべく子守か家事など、ピーのバックアップに捧げようと力んでいたが、家事はまだしも赤ん坊を静かにあやすことの困難さに直面して戸惑った。もっとうまくやれるのではないか、と思っていたから苦笑の連続でもあった。上手くいかないのは人生と同じである。

確か2ヶ月目くらいの頃であったと思うが、私が抱っこした途端に毎回物凄い拒絶反応を示してこと子が泣きじゃくることが続いた。泣かれ、失望しても割合根気のある私であったが、これはどうしようもない、と驚くほどの嫌がり方で、しかし見兼ねたピーがやってきて私の手からこと子を抱き上げると、今までの拒絶は何だったの、と首を傾げたくなるほどにほぼ毎度ピタリと泣き止むので、呆れると同時にこれは何かしらの父親アレルギーなのではないかと疑った。

ピーは、諦めないで触れ合えば改善するから頑張って、と私の尻を叩いたが、こと子の拒絶反応が明確になってくるとピーも拒絶され続ける私に同情し始めた。その後ネットでそういう事例を調べたら、赤ちゃんによっては「パパ見知り」と称する、父親を拒絶する時期があるということが書いてあり少し安心した。この時期が長引くと数ヶ月続くこともある、とも書いてあり怖気づいたが、幸い2週間もしないうちにこと子のパパ見知りは終わった。

2ヶ月、3ヶ月の頃までは授乳の回数も頻度も多く、1時間おきとか2時間おきに授乳しなければならない、ということを子育てをして初めて知って驚きを隠せなかったが、表情もまだ少なく、泣いてばかりの赤ちゃんとずっと向き合って世話しなければならない母親のシンドさは想像を遥かに超えていた。だから私はバンド活動もほぼ休止してひたすらにできる家事や抱っこやらをしたが、それでもピーは疲弊していた。しかし、そういうシンドさを吹き飛ばすような、家族が増えたことに対する喜びと、こと子の笑顔とがピーを支えただろうし、私を支えていた。

首が座らないウチは抱っこするのも、持ち上げ方やら、角度やら、なかなか難しくていろいろ試行錯誤を重ねた。腕の中で静かになって寝てくれたような時の充足感は体験したことのない幸福感を伴うものだった。また、あやし方がまるで分からない私はひたすらピーのあやし方を盗み、参考にした。そういうことに関しての能力は、さすが母性というものなのか、度々私を驚かせたものだ。ピーにこんな才覚があったのか、と度々私は驚嘆し、尊敬し直し、同時に彼女がやることをことごとく真似ていった。

4ヶ月くらいになると首が安定してきて、笑顔や発声のバリエーションも増え、振り回す手足も元気いっぱいで、見ているだけで楽しく、私達はことあるごとにこと子が生まれてきてくれたことに感謝していた。彼女も私も、これまで生きてきて、何か何処かに満たされないわだかまりのようなものを抱いていた。少なくとも私はそうであったし、「私には音楽が」というような変なプライドがあり、そんな拘りから解放されずにいたようなところがあったのは確かで、そういうことにも気づかされたし、新たな目標ができた喜びは私を満たしてくれた。曲が生み出せなくなってもこの子をしっかり育てられれば、それはとても素晴らしい、代え難い人生の成果ではないか、と思えてきて肩の荷が軽くなったような気さえしていた。

こと子が生まれて間もない頃、私は誰かから、「娘さんですか、もう長尾さんもデレデレじゃないですか? 娘は永遠の恋人みたい、と言いますからね」と言われてビックリした。デレデレかどうかは知らないけど、娘が恋人? 私は、いやいや、冗談でしょう、まさか…、と答え実際に声を出して笑ったものだった。娘が可愛いのは分かるけど、恋人ってねえ、まさか…、と純粋に可笑しいと思えたし、物の例え、ただの誇張だろう、ぐらいに考えていた。

ところがである。そうやって数ヶ月世話をしていると、パパ見知りされた時、風呂に入れて泣かれた時、逆に私がふざけて上手く悦ばせられた時、私は相手が女子であり、この子には絶対に嫌われたくない、という感情が無意識に溢れてきて、そんな風にして、この子に嫌われたくないと思う瞬間は、まさに恋人に対する感情と瓜二つになってしまったことに気づいて急激に恥ずかしくなった。言われて、まさかね、とバカにしていたことが、言い得て妙であったことに後で気付いたというわけだ。恥ずかしくなったが、その嫌われたくない、という気持ちは大切なものだとも思ったし、恥ずかしがることでもない、当たり前のことにも思えた。

私はこれまでに愛とはなんぞや、ということを、一般的な青年男子並みに考えていた。女性を好きになったり、想いを告げたり、想いが通じて付き合うことになってみたり、そういうことを経験しても、それは恋という感覚、または情という感覚の範囲でしかなかなか捉えきれない。無償の愛、という言葉はよく聞くが、それが自分の内から感じられないと私はそんなものの存在を信じることができなかったのだ。しかし、いざ子供が生まれて育てている内に、それを愛と呼んで差し支えないだろう、と感じさせる、自分以外の人間に対する深い恋慕のような感覚をジワジワと抱くようになっていた。

それはこと子に対しては無論、こと子を生み、献身的に育ててくれているピーに対してもである。こんなことを表明するのは恥ずかしいが、いいんだ、いいんだ、恥ずかしがることなんかない。愛という感覚を偉そうに語りたい訳じゃなくて、その感覚の端っこの方だけかもしれないが自分の手で掴めたことが何だか嬉しいのだ。アクセルも子供ができたらいろんなことがいい方向に進むよ、と私に豪快に言ってのけた子持ちの友人があったが、彼の言葉が子育てをしているいろんな瞬間に思い出された。

私は日本型社会人としてうまく適応することができず、長らくフリーターとして凌ぎ、どうにかこうにかやってきたが、36歳の時にようやく自分でも苦痛を感じずに働ける職場を見つけて正社員となった。とはいえ世間的に言われる、いわゆる低所得労働者である。フリーター時代よりは多少稼ぎは増えたが余裕はない。今はこと子を預けることなく、ピーにずっと面倒見てもらっているので共稼ぎでもない。それでやっていけるのか全く心もとなかったが、良心的で親切な大家さんに出会うことができたり、周囲の人間から子供服やら何やら、自分達で購入しなくても事足りるレベルで譲ってもらったり、親からの祝賀的な援助があったり、今まで通りの質素な生活を続けてみたら以外にも私だけの給料で何とかやっていけるようだった。

養っている、と偉そうに言えるほどのものではないが、自分の労働で家族3人が何とか生きていることに驚きを感じつつ、私の第2の人生が幕を開けたのだな、という感動をことあるごとに覚えている。ピーと喧嘩をしたり、病気になったり、シンドい日々が続くことがあったり、躓いたりすることは今まで通りでも、喜んだり楽しんだり、満ち足りた気持ちに包まれたりすることは今まで以上にある。自分や自分の人生を肯定的に捉えることができるようになった。いや、肯定的にならないと家族を幸せになどできないのだ。そういうことがこと子を育ててみて何となく分かってきたことである。
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