バンドマンに憧れて 第25話 東京サバンナ

アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーの3人で、赤い疑惑として遂に初の音源を作ることになった。作品のタイトルは「東京サバンナ」。あなたのそばで~、あゝ暮らせるならば~、つらくはないわ~、この東京さばく~、は「東京砂漠」、こちとら「東京サバンナ」。大学を出て、バンドマンとして成功することを夢見、アルバイト生活を始めた私にとっての東京はまさに戦場だった。

そう感じていたのも東南アジアを放浪した経験があったからだろうか。あっちの世界と比べると東京シティーはあまりにも殺伐として写るのである。アルバイトの通勤時、スーツで身を固めた憂鬱気なサラリーマンで溢れ返る満員電車の中で、私は戦慄しなければならなかった。何てところで私は生活しているのだろう、と。何でみんなこんなに同じ格好をし、何て生気のない眼をしているのだろう。

当時の私の闘いは、そういう風に死んだような眼になりたくないし、みんなと同じになりたくないし、そうならないためには夢に向かって突き進み、東京での生活を楽しく勝ち取ることだと信じていた。そしてそのフィールドが東京であり、油断大敵、自己責任、弱肉強食のその都市の様相はまるでアフリカのサバンナのようではないか、と東京を喩えた。

熱くなってしまったが…、内容はかなりふざけていて、その表題曲「東京サバンナ」の他に、パンクが何で商業主義的になってるんだ、と怒っている曲や、バンドをやってるとバカにされることがあることを愚痴っている曲や、毎日仕事行って疲れて何もせず寝てしまう自分を叱咤する曲や、母校の大学にあったヒルトップという学食をモチーフにした単純に元気な曲などが、「東京サバンナ」という一つの作品にヤケクソに収められることになった。

音楽性は元々好きだったハードコアパンクに、レゲエ映画「ロッカーズ」に出てくるナイヤビンギの真似事や、丁度その頃から夢中になりつつあったアフリカ音楽のゴスペルの真似事や、ジャーマンプログレの真似事みたいなことを強引に一緒にしたような仕上がりで、混沌としている。その頃から私は雑多な要素をミクスチャーすることに意識的だったようである。

歌詞も私が随分とひねくれたモノの見方をしていたのがにじみ出ている。自分が大好きだった90年代後半の日本のインディーパンクシーンで、日本語で攻めてるバンドは驚くほど少なかった(英詩を無理してつけてるのが普通だった)ので手本がなく、腐心した記憶がある。歌詞をどんな風にのせればいいのかよく分からなかったが、その頃後追いで知った80年代のinuとかスターリンなどのハードコアパンクに衝撃を受けて、自分にしては過激な言葉を使っていたようである。ちなみに当時の日本語で歌っていた現役パンクバンドの中で、圧倒的な存在感を放ち私が影響を受けたのはfOULとブッチャーズであった。

さて、作品のファーストインプレッションとして重要なジャケットである。これは大学のサークル、イン研の友人で、出版社に就職し、まさに当時出版界のスタンダードになろうとしていたillustratorやphotoshopなどのデザインソフトを覚えたてだったホウヤにお願いすることになった。彼も私もクイックジャパンなどに代表されるサブカルチャーが大好きだったので、どれだけインパクトのあるヤバいジャケットを作るかという観点で盛り上がり、意見がまとまった。出来上がったのは私とクラッチ、ブレーキーのそれぞれ何の飾り毛もない、むしろアウトテイクっぽいヘボい写真を寄せ集め、同じく寄せ集めた画像素材でコンクリートジャングル風の町並みと対照的な青空を配し、タイトルを東京銘菓風の(実際は岩手銘菓かもめの玉子のフォントをパクった)ロゴで仕上げた。子供の頃から変な行動をとって注目を集めたり、周囲と違う行動をとることが本能的だった私にとって、如何に個性的なセンスのジャケットを世に送るか、ということにかなりの思い入れがあり、出来上がった時には非常に満足した。

印刷屋からジャケットが届くとパソコンで焼いたCDRをセットする作業が始まる。3人で封入作業を始めるとブレーキーが俄かに「ちょっと待ってよ。手袋しないと。」と言って手袋を取り出した。私とクラッチは、感覚的に手袋なんかしないでいいだろう、と思ってたので衝撃を受けた。結局その手袋案は初日だけで、作業を進めるうちにブレーキーは妥協して素手で封入することに突っ込まなくなった。

出来上がったCDRを都内のインディー系レコードショップに持ち込み、委託販売を頼んだ。委託というのは、店側が売れた枚数分だけ販売手数料を引いて依頼主に売上げを支払う仕組みのことで、お店側は大した負担にならないので大抵は受け入れてもらえるのである。大体初めは試しに5枚で、というパターンが多く、売れそうだと思われれば10枚預かってもらえた。ただ、お店にもこだわりがあるので直感的にこれは違う、と店主が判断すれば断られることもある。私はパンク系を取り扱うCD屋をメインで狙ったので断られることはほとんどなかったが、当時インディー専門店として名を轟かせていた今は無き下北のハイラインレコーズには断られた。洒落た要素を微塵も感じさせない「東京サバンナ」のジャケットを見てドン引きしたのかもしれないが、私は憮然とした。何がインディー専門だ、笑わせるな、と愚痴った。その頃の私は卑近な、バンド界隈やインディー界隈のことばかりにしか関心がなく、何かにつけて文句を垂れたりしていたのだ。

さて、店舗での「東京サバンナ」の売れ行きはどうであったか…。大概作品を作ってお店に卸したら、あまたあるその他のインディー作品群の中に埋もれて1、2枚だけ売れて終わる、というパターンがほとんどである。その場合お店は取り扱い点数が多過ぎるのと、販売手数料も大して取れないのとで、わざわざ依頼主に売上げの報告などしてくれない。精算をしたかったらお店に連絡して売上げを聞き、もし売れてたら請求書と領収書を用意してまたお店に出向かなければならない。これがなかなか面倒くさい。「東京サバンナ」は500円で販売したので、お店で売れた場合は大抵7掛けで1枚350円の利益なので1枚、2枚の売上げを精算しに行くと電車代だけで消えてしまうようなものである。

私は「東京サバンナ」以降、プレスしたCDを作ってく過程でも自主製作を続けたので、東京に限らず地方のインディーショップにも発送して卸して、という作業を健気にやっていくことになるのだが、売上げを回収できることの方が少なかった。それでも、全く縁もゆかりもない地で自分たちの作品が他人に届くことは尊いことだと思って続けた。多くのインディーアーティスト達はそんな想いでプロモーションを兼ねて委託販売をお願いし続けていることだろう。

これも後年、自主系の音源やzineを取り扱うお店の店主に聞いた話しだが、委託で預かっている商品の売上げに関して全部依頼主から請求が来たら店が潰れるよ、とのことである。だから自主製作、自費出版系のグッズを取り扱うお店がある事自体有難いことのようにも思える。依頼主側の利益が微々たるものであるように販売側の利益も大きなものではないだろうから。

脱線したが、赤い疑惑の処女作である「東京サバンナ」であるが、実際は売れなかった訳ではなかった。というのもライブでの手売りというのがあって、これが堅調にジワジワと売れていた。500円という廉価であることもあったかもしれないが、我々のふざけたパンクセンスを面白がってくれる主に同世代の若者達がそれなりに反応してくれていた。

また、パンクのCD・レコードの専門販売で有名な高円寺のBASEという店では委託で預けた「東京サバンナ」が売れ続けたのである。委託品がスムーズに売り切れた場合はお店側から連絡がくるのである。「売り切れましたよ」という報告を初めて聞いた時の興奮は忘れ難いものだ。スタッフによる「四畳半のミニットメン」というキャッチコピーがハマったらしい。ミニットメンというのは当時私が最も好きだったアメリカのファンキーなパンクバンドである。その形容には感激したが、(実際は六畳の風呂なしなんだがなぁ)と思っていた。しかし四畳半という方が叙情的な感じがするのでそこは方便である。とにかく、それ以降BASEでは10枚単位で作品を卸すことができ、トータル10回以上のバックオーダーが入ったのだ。そんなこんなで、印刷屋に出した1000枚のジャケットがなんやかんやでなくなってしまった。

まだCDの売上げが低迷する前の時代である。インディーで3000枚売れれば大したもんだ、とも言われていた時代である。作品がとにもかくにもそのように売れたことは私にジワジワと、自分はバンドマンとして歩み始めたんだ、という自信と希望を与えてくれたことは確かであった。

つづく
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アクセルの意気地記 第12話 ベトナムへ行く

赤ちゃんだったと思ってたらもう子供である。0歳児の子と比べると体格の差が歴然。大きくなった。訳分からず泣きじゃくることも随分減ったし、会話までにはならなくとも、こっちが言ったことを真似したり、こっちが言ったことの意図を理解して行動してくれることも増えてきた。

こっちにおいで、とか、椅子持ってきて、とか、手って繋いで、とか、そういうことが、まだ気まぐれではあるが少しずつ伝わるようになってきている。そんな風にリアクションが出てくると、子育てもより一層楽しくなってくる。成長というものをこんな風にありありと感知できるのは小さな子供を持つ親の特権なのかもしれない。同時に、この時期のこの表情や振る舞いは今だけなのだ、と思うと毎度胸を締め付けられるような…。おい、しっかりしろ。

とはいえ自我の目覚めというほどにはまだ遠いか。善悪の判断など持ち得ようはずがない。だから飲み物こぼしたり、皿を割ったりして怒られても、なんで怒られてるのかも分からないだろう。怒ると大体唖然とした顔でこちらを見るか、怒られてるとも知らず、へへへ、と笑ったりする。

善悪といえば、子育て中に不思議に思ったことがあるのだが、どうだろうか。もうだいぶ前のことだが、こと子が物を掴んだり離したり渡したりということが自由にできるようになったころ、同時に「どうぞ」という、相手に何かを差し上げる行為を覚えた。

私がこと子に、たとえば彼女がボール持っていたとして、そのボールちょうだい、と手を差し出したとする。するとこと子は、どうぞ、と言って素直に渡してくれることもあるのだが、結構高い確率でそのボールを渡そうとしつつ、ニヤリと笑ったかと思うとその手を後ろに引っ込めるのである。私がさらに、ちょうだいよぉ、とまた手を伸ばすと、こと子は更に手を後ろに隠し、またニヤリと笑うのである。

何も珍しい光景ではない。私の数少ないこれまでの幼児との触れ合いの中でも、ほとんど同様の、幼児特有のこのような意地悪をされたことが何度もある。それくらい普遍的なことなのだろう。

しかし、いざ我が子のそのような行動を前に、私は人間の本性というものを見るような気がしたのである。つまり人間というのは教えられたりしなくても、もともと悪の素質があるのではないか、ということである。悪とは言わないまでも意地悪なこころ。穢れなきおさな子の御心にも悪魔が隠れて住んでいる。

もちろん、大概において人間は性善説に基づいていると思うことも揺るぎなく、その証しにこと子は「どうぞ」といって何かを渡してくれたり、食べ物を私の口に運んできてくれたりもする。その時のこと子の顔は、慈愛の気と得意の気が混ざったような何ともいえぬ表情になる。

昨年の冬、こと子が8ヶ月の時に台湾に家族旅行に行った。幼児連れの海外旅行は困難、という世間の思い込みを覆すべく敢行してみたのだが、これがなかなか充実の旅路となったので、丁度1年後の去る2月頭から中旬にかけて、今回はベトナムへとひとっ飛び(正確にはLCC乗り継ぎでふたっ飛び)。

昨年の台湾は充実したとはいえ、1歳に満たない子を連れての旅はそりゃ大変だった。それに比べれば今回はこと子がおっぱいを卒業し、しかも歩けるようになったのだから気持ち的にも体力的にも少し余裕があった。

自ら動けるようになったこと子は、我々がこと子を乗せて歩くために持参したバギーを見ると、毎度興奮気味に「のる〜」と言いながら押したがった。こと子はバギーに乗るよりも押して歩く方に魅力を感じるらしく、我々が折り畳みのバギーを拡げてこと子を乗せようとすると、海老反りになって泣いて嫌がる。だから急いで移動しなきゃいけない時以外はあまり使わなかったのだが、ないとないで大変なのだ。

こと子は自分より多少大きくても同じ子供だと判断すると、初めは視線で追いかけて見つめ、そのあとジワジワと近づいていく。積極的なのだ。調子がいいときは「あーそーぼ」と言いながら近づいていく。今回の旅のように相手が日本人の子どもじゃなくても関係なく「あーそーぼ」とアプローチしていくので私はニヤニヤしてみていた。

空港では異国のお友達と、喋らずともフラフラ交流したり、ベトナムに行けば現地の子ども達にフラフラと近づいていく。きっかけが掴めず相手側に気にかけてもらえない場合もしばしばだが、それでもこと子は一定の距離まで近づいて観察する。じっと見ている。子ども以外でも犬や猫やニワトリを見つけると一定の距離まで近づいて止まり、観察する。ちなみにベトナムではニワトリは売り物として街中でよくみかけるし、郊外にいけば昔の日本のように飼っている家が多い。

一定の距離を保つのは本人の臆病さからのようだが、そのように距離を保って観察する時、こと子はうんこ座りになる。これがまたかわいい。大人はうんこ座りが簡単に出来ない人、要するにバランス取れずに後ろにひっくり返ってしまう人もいるが、こと子はすっと腰を下に下ろすとうんこ座りになる。私のように脚を開かないでも、膝を閉じて無理なくすっと座る。そうやって籠に閉じ込められたニワトリを1.5mほどの距離感でじっと観察していた。

ベトナムではこんにちは、というのに「シンチャオ」という。ピーがそれをこと子に覚えさせていて、何故かついでに「シェシェ」という中国語をセットにして教え込んでいた。何日目かにはこと子はそれらを容易に復唱できるようになっていた。

フエというベトナムの古都に行った時はエアビーアンドビーで抑えた宿が、中心地からはだいぶ離れていて最初は心細かったのだが、森の中の洒落た庭付きコテージの様相で、何だか凄かった。どこまでがホストの敷地なのか判然としないほど広い庭で我々はかなりリラックスした。

庭内には放し飼いの子犬と猫が走り回っていて、こと子は大興奮。観光にはやや不便な立地だったものの、こと子の満面の笑みを見て私とピーはハイタッチ。この少し変わった宿はゲイの男性が管理しており、LGBT歓迎を標榜し、その主人の恋人も含め個性溢れる、国際色豊かな旅人が集まっていた。

そこで交わされる言語は英語だったので、私の貧相な英語がある程度役立ち、連れ立って晩ご飯を食べに行ったり、庭でバーベキューをしたり、充実した時間を過ごしたのだが、この後、こと子の外国語レパートリーが増えていた。シンチャオ、シェシェ、と発した後に「オーバイガッ」と言うのである。オーマイガッのことであるとすぐに分かったが、これは私が発したことはないので、大人の英会話を聞いてたこと子の脳に強烈な印象を残したものと思われる。確かに英語の口語の中でも最もポピュラーな感嘆表現である。この程度の日本の幼児にも発音しやすいフロウ、いや発音したくなるフロウなのだな、と私は面白く思った。しかもこと子は「オーバイ」で頭を上げ、「ガッ」のくだりで首を縦に振ってこうべを垂れるのだ。幼いながらもオーマイガッのニュアンスを捉えている…。

今回の旅もメインの楽しみはベトナムご飯を満喫する、ということだったが、それに次いで楽しかったのはレンタルバイクであった。ベトナムはバイク社会で、ほとんどの市民は車ではなくバイクで動き回る。日本のような厳しい交通ルールはないのでバイクをレンタルするのに免許はいらないし、2人乗りもオーケー。というか現地の家族は親子4人で乗っている姿も見かける。そんな感じなのでバイクを借りて3人乗りに挑戦したらこれが思いのほか楽しかった。

初めはこと子をおんぶ紐で背負って私が乗った後ろにピーが座る、というスタイルだったが、地元の幼児連れ3人乗りを観察してみると、幼児を大人の間のシートの隙間にただ跨らせて乗っけているだけだ。で、とりあえずそれを真似してみたら意外とハマった。我々はホイアンでバイクを借りて味をしめ、フエでもハノイでもバイクを借りた。バイクといってもオートマのスクーター。私は原付きの免許しか持ってないのでね。レンタル代は1日500円くらい。ゴミゴミとバイクが行き交う街中から郊外の畑中までこと子とピーを乗せてフラフラドライブしたことは忘れ得ぬ思い出になった。

オムツ替える場所がなくて土産屋の店裏の階段で無理矢理替えさせてもらったり、食べ歩きに調子づいて夫婦でお腹壊したらこと子も同時に下痢したり、ゲストハウスのホットシャワーが弱くてこと子に号泣されながら身体洗ったり、子連れのシンドさがなかった訳ではないが、ことあるごとに愛すべきベトナム人の素朴で優しい人情に触れて我々は大満足だった。

帰りのトランジットで寄った中国の広州の空港内で、美しいインド人女性がこちらに近づいてきて目を丸くさせて話しかけてきた。まあ、なんて可愛い子なの、とこと子を絶賛し、写真を撮らせてくれ、という。親バカ鼻を伸ばしどうぞどうぞ。最後に握手をするとその女性の手には見事なヘナタトゥーが描かれていた。

風呂

風呂に入って怒るヤツはいないよな、とTさんが言った。確か温泉は最高だよな、とかそういう類の話をしていた時だ。特に目新しいことを言ってる訳ではないが、私はTさんの言い方も含めておかしくなって笑った。

どんなに悪いヤクザの親分だって、喧嘩上等の不良のにいちゃんだって風呂の湯に浸かってる間は、身体の凝り固まった細胞が弛緩して、脱力し、安らぎのひと時を過ごしているに違いない。少し熱いくらいのお湯に身体を鎮める時には、オォ、とかアァとか思わず恍惚の声が漏れるかもしれない。

で、当然ながら私も昔から風呂が嫌いだと思ったことは一度もなく、銭湯や温泉などでの入浴は、どんな時でも最高のレクリエーションだ。ところが私の人生でも風呂を軽視せざるを得ない期間があった。大学を卒業し、友人と同居生活を1年ほど続けた後に私が始めた6畳間風呂なしアパート時代のことだ。

風呂なしアパートに住むことにしたのは勿論家賃が安かったからだが、同時に露骨な貧乏生活を演出したかったからでもあった。私は当時、ミュージシャンとして成功を収める夢を持っていて、その成功ストーリーの序盤は「風呂なし貧乏生活時代」で飾られるのがいい、とバカなことを考えていた。そういう訳でそのアパートでの風呂なし生活が確か2年ほど続いたのだが、その間私は風呂に入らなかったのである。

今振り返るととんでもないことだが、風呂なしなら銭湯に行くのが当然なのに私はそれをしなかった。何故なら銭湯代が高いと感じていたから。ただそれだけである。ではその間どうしたのかと言うと頭をキッチンのシンクで洗い、身体はタオルで拭いていたのだ。いや、記憶の回路を頑張って辿ってみたが、身体をタオルで拭いていた記憶があんまりないのはどうしたことか。

まあそれは置いといて、しかし、とはいえ夏場には華麗なる裏技を考案して私は行水して身を清めていた。私が借りた西荻の風呂なしアパートは中央線の高架に平行に沿った建物で、アパートの細長い側面は線路に面していたのでそちらに隣人はおらず、また、線路と直角に交差する道路に面した側の反対、要するにアパートの裏側には猫の額ほどの小さな砂利のスペースがあった。そこは線路と反対側の隣の家からもうまく死角になっていたので、夏の晴れた日に私はバケツに水を入れてそこに運び、バシャーっとやっていたのである。鷹揚にシャンプーまでしていた。その裏技を隣に住んでた中国人のヨウさんが目ざとく見つけて、「ソレイイネ」と言ったと思うやもう次の日にはヨウさんも真似して屋外行水をやるようになってしまった。

大きく脇道に逸れてしまったが、そういう訳で私はその期間ほとんど湯船に浸からなかったのだ。たまーに実家に呼ばれて顔を出した時なんかに入らせてもらう風呂が唯一の入浴になっていた。

その後風呂なしアパートを卒業してからは私がミュージシャンとして成功するあらすじは夢物語としてフェイドアウトするのだが、とにかく以降は風呂に入っている。ただ実家にいる時からその傾向はあったが、冬など面倒くさくて一日置きに風呂に入るという行動パターンが出来てそれで不足は感じてなかった。

ところが、2年前にこと子が生まれ、それからというもの風呂はほぼ欠かさず毎日、ということになった。こと子を寝かせる一連のルーティーンの中に入浴が、優先すべき重要事項として君臨するようになったからだ。特に夏場など、代謝のいい幼児の新陳代謝は凄まじく、1日頭洗わないと、汗かいて乾いてを繰り返した頭が大変香ばしいことになってしまう。

そういう育児の都合で私は毎日風呂に入る習慣が身についてしまったので、風呂とは何ぞや、とまた頻繁に考えるようになってしまった。そして何と気持ちのいい習慣を日本人は発明したのだろう、と深い感動が温かい湯の中で生まれてくる。そんなところへ我が家は海外旅行を2度やって、台湾とベトナムに行ったのだが、困ったことにはそのどちらの旅先でも風呂などなかったのだ。

風呂がない。ないならないで仕方ない。幼児だからといって風呂に入れないと死んでしまうわけではない。その間こと子はずっと湯船に浸かれず、シャワーだけで過ごしたのだが、旅が終わってしまえばそんなことは忘れてしまう。でもそれらの旅が、私に改めて風呂について考えさせる契機をもたらした。

風呂の湯に浸かりながら風呂とはなんと素晴らしいカルチャーなんだろうか、と考える。海外では湯船に浸かる文化を持つ国の方が少ない気がするが何故なのか。何故日本には風呂があるのか。何故日本人はみんな風呂が好きなのか…。

さて、風呂が何故心身の健康に資するのか最近私なりに導いた仮説はこうだ。風呂に入ると体温があがるので免疫が高まる、はずである。ですよね。で、具合が悪くて発熱する、ということがある。これは体温を上げてばい菌などを殺すための身体の防衛作用だという。熱に弱いばい菌が多いということなんだろう。果たしてそうだとすれば、日々入浴で一時的にでも体温を上げることは免疫機能の活性化につながるはずである。よって日々の入浴はヒトを元気にさせるのである。あまりにも普遍的なことを熱弁していて恥ずかしい。

思い出すことがある。先に書いた風呂なしアパート時代にやった風邪のことだ。風邪の症状や経過には人それぞれの傾向があって、誰でも大体その人なりの風邪の乗り越え方がある。私の場合はノドにきて、鼻にきて、痰が固まってきたら治るのだが、その経過の期間が、その風呂なしアパート時代はやたら長かったのだ。熱が出て何日もバイトを休まなければならない時もあった。しかし、最近の私の風邪は、仕事を休むほどこじらせることが少ない。また元来弱い私の胃腸だが、風呂なし時代は殊更に弱っていたような気がする。

風呂のもたらす健康的利点は侮れない。1人暮らしの人なんかは1人で湯を張るのは経済的でないし、面倒もかかるのでシャワーだけで済ませる人が多いかもしれないが、それは非常にもったいない。風呂を面倒くさがって風邪をこじらせるべきではない。

それにしてもこの風呂文化が日本に独特である点は何とも不思議な感じがする。欧米人の場合は湯をためてもその中で身体を洗ったりして、次の人が同じ湯に入るということはあり得ないと聞く。バスタブがあっても毎日入ることはないとも聞く…。

毎日風呂に入るようになり、大概は私がカミさんを呼んで子どもを連れてきてもらい、こと子を風呂に入れ、終わるとまたカミさんを呼んでこと子を引き渡す。それが終わると私は1人湯に浸かりながらボーっと考え事をする。風呂の素晴らしさについて改めて感謝する。そして束の間、ただボーっとできる1人の時間の到来を祝福しつつ目を閉じたりしてると寝てしまい、折れ戸の外から少し苛立ったトーンで、まだー?とやってくるカミさんの声でハッとし、そそくさと立ち上がるのである。

バンドマンに憧れて 第24話 屈辱のボイトレ〜アクセル、クラッチ、ブレーキー誕生

沓沢が加入してから赤い疑惑の演奏はかなり前進した。というよりも正確には少しマシになった、というべきか、とにかくドラムが安定するとバンドサウンドは一気に引き締まるものだ。その頃、松ちゃんはリズム感がまったくダメだったからベースのキレは悪く、私は私でギターを流暢には弾けなかったし、ボーカルもやらなければいけないので、マシになったとはいえ演奏の程度はたかが知れたものであった。だから沓沢のドラムの安定感はかなりの支えになったのだが、調子のいい沓沢はすぐに図に乗って生意気なことを言い始めた。なんと私の歌のクオリティが低い、と言い出したのだ。

これには流石に私も憮然としてしまった。何を入ったばっかのバンド初心者が偉そうに、とダメキャラを売りにしていた沓沢にディスられたことにカチンときてしまった。しかし、実はバンドで歌うことに関してはそもそも最近始めたばかりのようなものだし、もともと自信がなかったこともあって、沓沢の指摘は図星をついているのだった。私は何と生意気なヤツをメンバーに入れてしまったもんだろう、と思いながらもディスられた悔しさと、ミュージシャンとしてやっていくには歌がダメなら致命的ではないか、という焦燥感に苛まれしばし思い悩んだ。スタジオ練習時の自分の歌を録音して聴くとその煩悩は募る一方であった。

私はミュージシャンとして成功するんだという中学生からの夢にこだわっていたこともあり、この沓沢からの辛辣な批判はかなり突き刺さるものがあった。パンクやローファイなら許される価値観を沓沢はバッサリと、そしてあっさりと否定してくれたのだ。パンクスは音楽を、または楽器を習ったり、ひたすら練習して上手くなったりしてはいけない、ダサいというような思い込みがあった私だが、あまりの悔しさから「歌が上達する本」のようなものを図書館で借りてきて読み始めたりしたのだ。

その類の本をパラパラと見て、たとえば割り箸を口に挟んだまま歌う練習をするんだとか、やれ呼吸法だとか、何やら巷に溢れる歌が上手くなるためのいろいろなアドバイスを少し試してみたりした。しかし、どうもしっくりこない。元々が練習嫌いなのもあるが、これじゃ全然ダメだと思った。それで次の手段として私はインターネットでボイストレーニングのスクールを調べ始めた。他人に頼ろうという訳だが、習い事だなんて、自分が超ダサいと思っていた行動だ。ところがその時はヤケ糞半分、ホントに上手くなったら儲けもん、というテンションになり、やや興奮気味に西荻から近い阿佐ヶ谷のスクールに目星をつけた。

とはいえその当時は日中飲食のアルバイトをしていただけで小遣いに余裕はなかったので、かなりリーズナブルなスクールを選んだはずだった。私が訪れたのは阿佐ヶ谷駅から歩いて1、2分の、線路脇にあるかなり建坪の狭い雑居ビルの一室だった。ワンルームのアパートのような間取りだったかもしれない。とにかく狭くて殺風景な部屋で、私は若い女性の先生と2人きりでレッスンなるものをこなした。もろに音楽スクール出身です、というような私の感覚からは程遠いタイプの女性だったので、2人きりとはいえど私は一切エロい気持ちになったりはしなかった。

しかし、正味1時間ほどのレッスンだったか、その先生はとにかく一生懸命やってくれた。とりあえず声を張る時に使う腹筋の場所と、その筋肉を使った声の出し方を何度も何度もバカみたいに教えてくれた。それを意識しながら、高校生の時、軽音部でやらされた声だし練習と同じ、「ドレミファソファミレドー」というのを先生の伴奏に合わせてキーを上げ下げしながら発声した。

私はバカらしいな、何でこんなことやってんだろう、と片方で思いながらもなけなしの小遣いでレッスンしているので片方では結構真面目に頑張った。月に何日通ったか、もう覚えてないが結局金銭的な都合と、単純に飽きてしまったというようなことからたった3ヶ月で私はリタイヤしてしまった。

ところがこの3ヶ月の発声訓練は効果があった。スタジオ録音で聴く自分の歌声が明らかに変わったのだ。といっても上手くなったという訳ではなく、相変わらず音程が揺れる音痴な感じは変わらなかったのだが、発声の感じが変わっただけで随分聞こえがよくなったのだ。

それに対するメンバーの反応をもはやどうもよく思い出せないのだが、それ以降は沓沢に歌についてディスられることはなくなった。そういうわけであれが最初で最後のボイトレとなったのだが、おかげで自分の中でも歌うことが前よりずっと楽しくなった。同時に、習い事なんて、とバカにしていた己を恥じ、何事も決めつけはよくない、と悟ったのだった。

そんなこんなで何とか前向きに活動する中、沓沢加入以降の新しい曲が少しずつ出来上がっていった。そこで私は自前のMTRで、完成した曲を録音して発表することにした。CDプレスや流通のことは分からなかったのでCD-Rで録音したものを焼いて安い価格で販売することにした。プレスされたCDでなく簡易なCD-Rでも、印刷したジャケットで飾れば、数少ないとはいえインディー系のレコ屋に持っていけば直接卸せることはgutsposeの活動を経て知っていたし、とにかく早く自分たちの作品を人に聞かせたかった。

そしてジャケットを構想する段階で私はメンバーのクレジットをどうするべきなのか考える必要があった。日本人のロックアーティストの場合、英米にかぶれて姓名を逆にしてアルファベット表記をするか、または本名なり芸名なりを日本語表記するか、そのどちらかが一般的である。私の場合、「かっこつけることはかっこ悪い」という美学(早川義夫の「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」の存在を知らずに)を持っていたのでアルファベット表記案はまずないな、と思った。日本人なら日本語で堂々と表記しろ、ってことはゆるぎなかったんだが、本名を漢字でそのまま表記するのもそれはそれで堅苦しい気がした。

この頃の私および赤い疑惑にとって、ユーモアやギャグセンスは非常に大事な要素だった。私は中学の時に大好きだったニューロティカや、大学時代に感銘を受けたロマンポルシェ、漁港などのシュールなギャグセンスを漂わせるアーティストの影響を多大に受けていたので、パンクなのにギャグってたり、ハードコアなのにプッと吹き出しちゃうようなエッセンスは赤い疑惑にも導入したいと真剣に考えていた。また憧れていたレスザンTVの谷口さんのスカムな音楽のように、音そのものにギャグセンスを感じるものも好きだった。

そういう訳で、私はメンバーに芸名をつけよう、しかも、サンプラザ中野のようにカタカナ表記を入れてちょっとしたハズシた雰囲気を取り入れよう、と考えた。そして出てきたのがアクセル長尾というネーミングだった。

何でアクセルという洋名を引っ張ってきたのか、今では閃きの経緯まではしっかり思い出せないのだが、ガンズのアクセル・ローズの存在が大きかったのは間違いない。ということはガンズの熱狂的なファン?まさかまさか、私はそれまでガンズアンドローゼズの曲は一曲も聴いたことがなかったのだ。しかし、何故かガンズのアクセル・ローズといえば破茶滅茶なおバカ野郎キャラ、というイメージが私の中で出来上がっていて、バカなアウトローを目指す私は勝手にアクセルという名前を拝借する気になったのだ。

さらに私はロックンローラーに憧れていた割に、スターのようにハイテンションに振る舞い客を盛り上げるような性格でないことを自覚しており、むしろどちらかというとダウナーというかポケーっとしてる人という印象を周囲に抱かれていることも知っていた。ネガティブだったりシニカルな側面があることも自覚してたので、ステージ上では変身してその逆のアッパーなキャラをアクセル全開で演じるつもりでもあった。

アクセル長尾という芸名を思いついた時、瞬時に閃いたのはアート・ブレーキーというジャズドラマーの名前だった。私はジャズにほとんど入れこんだことはないので、アート・ブレーキーがどういうキャリアを背負いどういう性格のドラムを叩く人なのかまったく知らなかった。今もまったく知らない。知らないけど、いいのだった。アクセル・ローズすらよく知らないアクセル長尾が命名するのだからそこはもうどうでもよかった。

問題はそんな一方的な命名にドラマーの沓沢本人が納得するのか、ということであるはずだ…。それが、これもどうもよく思い出せないのだが、難航した記憶はなく、むしろアート・ブレーキーから取っているのだから満更でもない反応だった気がする。有名なジャズドラマーということならば詳しく知らなくても、何となくカッコいいと思ったに違いない。それに、まず私がふざけた芸名をつけた時点でそれに反対しなかったのだから、そういうカタカナ混じりのおちゃらけた命名を悪く思ってなかったのだろう。

それでドラマーがブレーキーに決まったら、じゃあ松ちゃんはどうする?ということになり、誰からともなく、アクセルとブレーキがあるならクラッチでしょう、となり、松ちゃんはその時から松田クラッチになった。今振り返ると何でそんなふざけた芸名を好んで取り入れたんだろう、と不思議で仕方ないが、恐らくカッコつけることがカッコ悪いと思っていた私の捻くれの表出だったのだろう。

メンバー命名の後、得意の後付けで「車はアクセル、ブレーキ、クラッチ、どれか1つでも機能しなかったらもう走れない」とか「アクセルのA、ブレーキーのB、クラッチのCでABC!」などと言い合っては笑い、妙な団結心を共有し始めたのだった。

つづく

アクセルの意気地記 第11話 ペッタンペッタン

こと子の成長を詳らかに記録するつもりでいたが、詳らかにするにはヒマが足りなく、またそれに伴う気力も持続するのが困難で、こと子も遂にこんなことができるようになった、などの発見は次から次へと更新されていき、どうしよう、どうしよう、と思っているうちに忘れていったり過ぎ去ったり。保育園の連絡帳のように毎日記録するくらいでないと、とっても間に合わない。

保育園といえば…こと子を預けているのは小規模保育の保育室というカテゴリーなので保育室と呼ぶが、その保育室が今年の3月をもって閉鎖されてしまうことになった。その保育室は60近くの室長先生の熱意に基づき運営されていて、室長先生の自宅のリビングが拠点であり、預ける時は我が家から歩いて5分ほどの、その先生のお宅に連れて行くことになっている。

ある日、私が休みの日で日中家にいた時だが、ピーの携帯に室長先生から電話があり、珍しく長話をしているな、と隣でそっと様子をうかがっていたらその内アイフォンを握るピーが、そうなんですか、としみじみ応えながら泣き始めてしまった。私はどんな会話が交わされているのか想像もつかなかったが、電話が終わって話しを聞いたら先生のお身体の具合が悪く、保育室を閉めなければならなくなった、ということを伝えられたのだそうだ。

お身体の具合というのは、どうやら元から患っていたガンの活動が身体的に顕著になってきた、ということらしかった。ピーも私もあの元気いっぱいの先生がガンを患っているなんてまったく気づかなかったし、そもそも身体の不調を認識しながら、でも元気なうちは大好きな保育の仕事に従事していたいという熱意によってあの保育室が運営されていたのか、ということを後から想像すると胸が詰まった。

先生はこういうカタチで閉鎖してしまい、保育室に預けてるご家族や子ども達自身に迷惑がかかってしまうことを涙ながらにピーに説明してくれたらしく、それでピーも涙腺が緩んで2人で泣きながらの会話になってしまったようだった。小規模保育というのは5人までの定員で2、3人の保育士がその子達の面倒をみる、というもの。ささやかな規模ながら、幼児と先生のバランスが濃密で、他の保育園より保育内容は行き届いたものであるだろうことが特徴らしかった。実際、私達はすっかり頼りにしていたのだが、元々小規模保育事業は2歳までの幼児が対象になっているのでこと子を預けられるのは2年しかなく、その後はいずれにしろ転園しなければならなかったので、転園が1年早まっただけ、という結論をいえばそれまでだが、せっかく保育室のお友達と仲良くなり、先生達のことも大好きになったこと子が次の4月から、また急に未知なる環境に放り出されることを想像すると不憫だった。

こと子は次から次へと言葉を覚えて発音するようになってきているのだが、たまに私の仕事が遅番とか休みとかで保育室までこと子を送りに行くと先生やみんなに「ハヨウ(おはよう)」と叫ぶ。元気で良いけど、トーンが少しキツめであまり行儀のいい感じではないのが可笑しい。

これに限らず覚えた言葉の中でも欲求を表現する類いの言葉はエゴイスティックな響きを帯びている。遠慮という概念を知らないのだから仕方ない。こと子は食い意地が張っていて保育室でもお友達の分まで食べようとするくらいらしいのだが、私がゴハンをあげている時なども、これまたぶっきらぼうに「ねえねえ!」という。語気に勢いがあるので何でしょう、と返すと、「もっとー!」と更に大声をあげる。見ると皿が空になっている。幼児の割に食べ過ぎじゃないかと心配して少しゴハンを追加すると、すぐにたいらげてまた「もっとー!」と叫ぶ。

とはいえ万事がそんなテンションな訳ではなく、絵本を持ってきて、読んで、という時には「これ、たい〜」と無愛想に小声で言う。これ読みたい、ということである。で、読んであげて、読み終わると大体「もっかい?」と語尾を上げて言う。語尾が上がるのは疑問形な訳ではなく、もう一回よんでくれませんか?という促しの語尾上がりである。この「もっかい?」ってのが飛び切り可愛いので私は毎度キュンとするのだが、これが何度も続いて3回も4回も同じ絵本を読まされると流石にシンドくなってくる。まあでも多くて3、4回。後はまた別の絵本を持ってくる訳です…。

この「もっかい?」がかわいいのでピーさんが私に、「これサンプリングしなくていいの?」とニヤニヤ迫ってきた。私は、確かにこれはサンプリングしてもいいかも、と思いアイフォンのガレージバンドを起ち上げたが、タイミングを逃して未だに録音できてない。スッパマイクロパンチョップ先輩は子供が出来てから音楽を作り始めたというけど、その感覚が多少なりとも理解できそうである。

そもそも私はこと子が生まれる何年も前から例えば「大きな栗の木の下で」や「大きなノッポの古時計」などの童謡を、そのメロディーの美しさを再発見して替え歌にしてカバーしたりしていたほどだが、最近こと子がハマってるYouTubeの幼児向け音楽なんかにも私の心を揺すぶるものがあるようである。中でも「ボウロのうた」というのが名曲で、私はこれもカバーしたいと考えている。しかもこと子のために買ったトイピアノで演奏したらさぞかしいいだろう、と密かに企んでいたりするほどである。他にも「どうぶつかぞえうた」っていうのも凄くよくってね。

ところでこのYouTubeの子供向けチャンネルに「東京ハイジ」なるチャンネルがあり、これには大変お世話になっている。というのはこのチャンネルでは幼児向けの唄やアニメが沢山見られるのだが、どれもクオリティが割と高くこと子もピーも私もお気に入り。歯みがきの歌、うんちの歌、お着替えの歌など、幼児の自立心を促すモノも多く、歯みがきもお着替えもこと子はこれらの曲のおかげで前向きに取り組むようになっていて感心してしまう。そして何よりこのチャンネルを流しっぱなしにしてれば、こと子は1時間くらいは飽きずにPCのモニターかぶりつきになるので、その間大人たちは家事や自分のやりたいことができたりするのである。

また、アイフォンも同様の便利さがあり、これをこと子に与えるとしばらく黙って没入していてくれる。幼児が画面のタッチやスクロールを瞬時にマスターするのを見ると改めてスティーブ・ジョブズの発明に嘆息が漏れる。こと子は特にピーのアイフォンに撮り貯められた自分の動画を見るのが好きで、1月の頭に西宮に遊びに行った時の動画を繰り返し繰り返し見て喜んでいる。西宮の友人は天然酵母のパン屋さんで、その友人の師匠のパン屋さんの軒先で行った餅つきの動画の中毒となってしまった。

当日こと子は小さいかいなで半ば無理矢理杵を握らされ、周りの大人たちに操られるように餅つきに参加した。餅つきを主導した3人の忍者が(サンニンジャーという洒落を連発していた)、こと子の餅つきに合わせて「ペッタン、ペッタン!」と威勢よく掛け声をかけた。そんな16秒の動画がこと子を虜にしたようで、当日の餅つきの時、本人は自分が何をやっているのか大して訳分かっておらずポーカーフェイスだったのに、後で自分が餅つきしている映像を見て興奮してしまったらしく、帰京後、なにかにつけてこと子はこの動画を見る見る、とうるさく言い募るようになってしまった。こと子は「ケータイ!」とか「ペッタン!ペッタン!」と事あるごとにねだるようなトーンで迫ってくるようになり、それが病的なレベルなのでピーも私も困惑している。

実はその同じ日のイベントで私はギターの弾き語りを頼まれたので、先述の「大きな栗の木の下で」の替え歌など何曲か歌ったのであるが、その動画もピーのケータイに残されていたので、こと子がこの動画を見ながら「大きな栗の木の下で」のメロディーと歌詞を覚えてソラで歌えるようになってしまったことは私としては嬉しいというか、なんというか。しかしそうは言ってもケータイ依存、YouTube依存は我々の危惧するところでもあった。目も悪くなろうし、そのほかの楽しい遊戯そっちのけになってしまったらピュアなハートを失ってしまうのではないか、などと考えながら。しかし私もピーもケータイ依存性だし、ケータイもYouTubeも我々の負担を画期的に軽減してくれるので、これは矛盾を孕んだ永遠の問いかけでもあるのである。
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