アクセルの意気地記 第9話 おもちゃと絵本、そして断乳

子どもができるとお金がかかるから、とよく言われているが、服とかおもちゃは周囲から大量に譲ってもらったし、赤ちゃんのうちは食費も大してかからないし、ウチは世帯所得が低いので保育料も大したことなくて、今のところは首を絞められるほどではない。

こと子が1歳の誕生日を迎えた時にこと子に電子トイピアノを買ってあげようということになったが、これとて凄い高いものではないけど我が家にしては珍しく新品で1万円以上のお買い物。私がPCの脇に置いていたMIDIキーボードはPCに繋がないと音が出ないのだが、その鍵盤をこと子がよく弄るのでピーが折角なら音が出る鍵盤を触らせたい、と言い出し、それでトイピアノを買おうとなったのだ。

初めそのリクエストを聞いた時は、邪魔になるし、とか、まだ理解できないだろうし、とか難癖をつけて渋ってみせたが、自分でもう一度よく考えてみたら、私も鍵盤楽器を触りたいかも、と思うようになりすぐ心変わり。しかも誕生日プレゼントということでオヤジが買ってくれるということなので反旗はそっと折り畳んだ。

購入したトイピアノが届いたその日に1番それを弄ったのは難癖をつけようとしていた私だった。これ、弾き語りの飛び道具として使えるかも、などとあらぬ妄想まで広げて楽しんでいた。

その赤いKORGのトイピアノは一流メーカーの製品だけあって音は良好。音色も20種以上選べて、さらに内蔵された曲サンプルも20種以上あり、まだメロディを弾けずに鍵盤を乱暴に叩くだけしかできなかったこと子でも楽しめる仕様だった。初めは乱暴に叩くだけだったこと子もその内にポロリン、ポロリンと単音で音を出すようになったが、メロディの概念がないのですぐに飽きて別のおもちゃへと移る。

電子ピアノ導入と同時期に、今度はパッドが数個配置されている、雲みたいな形のおもちゃサンプラーもいただいた。パッドに何種類かの効果音やパーカッション、動物の鳴き声なんかがインストールされていて、モードを切り替えるとある程度のバラエティーで音遊びができる。これにもサンプル音源が入っていて、ただその曲を流すだけでも子どもは楽しめる。丁度、打ち込みやDTMに私が興味を持ち始めていたところだったので、私も楽しい。

パッドを叩くより、むしろサンプル曲を流すボタンを押し、曲に合わせて興奮して身体をくねらせることの方が楽しいのか、こと子はそのおもちゃを私のところに持ってきて電源を入れろ、という意味で「コレー、コレー」という。私が電源を入れると、「ゆかいな牧場」や「きらきらぼし」など皆んなの馴染み深い曲が数小節流れては止む。止んだらまた押す。するとまた次の曲が流れる。KORGのトイピアノと違って音が安っぽいのでピーはすぐに飽きて、私がおもちゃサンプラーに入っている曲を口ずさむと頭がおかしくなるからやめて、という。私はこと子と一緒にこのサンプラーの前でしばしば身体をくねらせている。

斯様に一段階前進した仕様のおもちゃを好むようになったこと子に、最近もう1つ大きな遊びが増えた。絵本である。絵本に興味を寄せるようになる時期というのはその赤ちゃんに依るのだろうか、前まで見向きもしなかった絵本に急にこだわるようになった。

家に早い段階から準備されていた絵本が数冊あり、それらを読んで聞かせるとあからさまにテンションをあげて笑ったり、叫んだり、仕草を真似たり、言葉を真似たりするようになった。活字好きの私としては非常に嬉しい変化だったし、ピーさんの風呂中の子守にも最適だ。

数冊あった中でも絵のタッチや色合い、または言葉のテンポなどで好き嫌いがはっきりして、福音館書店の「がたんごとんがたんごとん」や「ぺんぎんたいそう」は特にお気に入りで、しばらくの間は定番だった。

私は、遂に我が子に絵本の読み聞かせをする日が来たのか、とそれだけでしばらくは染み染みとしてしまった。そして自分でも不思議なほど、すっと読み聞かせのお兄さんになってしまい、感情豊かにことばを読み上げているのだ。心配していたが恥ずかしさというものがこの段階ではなくなっているのだ。何ということか。

ゆっくりページの中の言葉を読み終わろうとすると、こと子が乱暴にページをめくろうとして、下手すると一気に最後のページに飛んでしまったりするので、私はこと子の指の皮脂がちゃんと1ページだけをめくれるように、以下のページを抑えてやる。こと子のページのめくり方は容赦がないので「がたんごとんがたんごとん」は折れ曲がったり、ゴハンのついた手で触ったりでボロボロになってしまった。最近は子供が大きくなった友人からのおさがりで「だるまさん」シリーズや「ももんちゃん」シリーズが書庫に追加されたのだが、こと子はそれらをすぐに気に入って「がたんごとんがたんごとん」や「ぺんぎんたいそう」への執着が剥がれてしまったのか、ないがしろにされていて悲しい。

この絵本ブームのおかげで私もピーも子守のしのぎが少し楽になったが、困るのは、早く寝て1番早く目を覚ますこと子が絵本を掴んで、寝ている我々の顔の辺りに近づいてきて、「コレー」と言って絵本を顔に叩きつけることだ。別に危害を加えようとかいうことでもなく、腕の力加減のコントロールが未発達なのと、言葉が喋れないからそうなるので、怒るわけにもいかない。いてっ、とビックリして眼をこじ開けるとこと子が満面の笑みでこちらを見てるではないか。

ここ1ヶ月でこと子は遂に歩き始めて、ヨチヨチ歩くか歩かないかの時から1週間くらいで目覚ましく成長し、ほとんどハイハイはなくなってしまった。歩き出すと歩くのが楽しくて仕方がないらしく、抱っこしてても嫌がって下ろせ、と身体をバタバタさせる。靴を履かせて下ろすとあっちへフラフラこっちへフラフラ。

初めのうち、私が仕事から帰って晩飯を済ませると私の手を握ってきて、何かと思えば、その手を引っ張って玄関へと誘うのである。歩きたいから外へ連れてけ、という訳である。私は可愛いし嬉しいし楽しいので、いいよ、行くかと言って数日付き合っていたのだが、寝る時間が遅くなるという理由で母ちゃんからクレームが出たので夜のお散歩はそれきりになった。

こと子と初めて手を繋いで歩いた時のあの感覚は忘れ難い。恋人のようでも恋人じゃないし、他人じゃないし、まあ家族なのであるが、この感じたことのない尊さは一体何だろう、と胸が熱くなった。しかしこと子の身長に合わせるので私は屈まねばならず、すぐに腰が痛くなった。

夜のお散歩が流れてからすぐ断乳となった。こと子に歯が生えてきて、ピーさんが授乳で悲鳴をあげるようになったからだ。しかし、これは容易ではなく、それまでずーっと「おっぱい飲んで寝んねして」状態で眠りについていたからおっぱいなしで寝かせるのは骨が折れた。それにこと子にとって安堵の柱だった行為を無理矢理奪う訳で、何でおっぱいくれないんだろう、と気づいたこと子の泣き叫ぶ様は正直胸が苦しくなった。

そして、断乳の大変なポイントは、夜中こと子が眼を覚ましたら私が抱っこしてあやさないといけないことだった。母ちゃんが抱っこしてもすぐにおっぱいにアクセスできてしまうから、という道理でそうなんだそうだ。

いつもは夜中数回起きて泣く度に、ピーさんがすかさず授乳してこと子を黙らせていたので、私は初めのうちこそ泣き声に気づいてこと子を母の乳まで運ぶ仕事をしていたが、泣き声に慣れたのか、ピーさんの授乳が神業のように早いからか、数日でこと子が泣いても起きなくなってしまっていた。

しかし、断乳期は父ちゃんよろしく、とピーに頼まれて、なるほど、よし、分かりました。人間、覚悟が決まればどうにかなるもんで、断乳初めの夜中、こと子が泣いて起きると私もすぐに気づいて起きた。しばらく抱いてスクワットして頑張ると、そこまでこじれずにまた寝てくれた。大体10分かそれくらいだったか。それが2、3回繰り広げられるわけだが、これでまた一歩前進できるならなんてことない。

不思議なことだが、断乳して数日でこと子のおっぱいへの執着はなくなった。周囲から聞いた経験則通りだ。断乳成功である。そしてまた不思議なことだが、私がこと子の声に気づいて起きるようになってからは、ピーさんはこと子が泣いても起きなくなってしまった。が、そんなものらしい。
スポンサーサイト

バンド漫記 第21話 アウトサイダーに憧れて

少しまた話しが戻ってしまうのだが、大学在学中に私はインディーズ研究会というサークルを作り、インディーカルチャー好きの友達を得て、音楽だけではなくガロ系の漫画、単館系のインディー映画などにも相当のめり込んでいた。心の何処かにアート関連の造詣を積んでおきたい、という欲求があったことは間違いないが、有り余る時間の潰し方として自分はスポーツも麻雀もやらず、カラオケも合コンも行かず、むしろそういう俗っぽい遊びを避けてかっこつけたかった、というのもあったかもしれない。私はその頃から、バンドマンになりたい、という夢と同時にアウトサイダーになりたい、という漠然とした、曖昧模糊とした欲望を抱くようになっていた。

そんなとある日、サークルの友人とライブを観に行くために下北沢に日中から繰り出した。駅を降り南口改札を出てみると辺りが物騒な雰囲気に包まれているようだった。通行人が何かを避けて行き来してるのが分かり、その避けている対象が血まみれの白衣を着た男であることが分かった。そしてその血まみれ白衣の横にはアイスピックを片手に「オレがやった…、オレがやった…」と誰に言うでもなく周囲にブツブツ吐き散らしている男がいる。

その異様な光景に私も初めはゾッとしたが、すぐに、その2人の近くでチラシを配ってるスタッフの様なのがいることに気づいた。それで私はこれは事件ではなくヤラセだと判断できたものの、そのハプニング的パフォーマンスに面白みを見つけ、とりあえずチラシをもらった。何やら劇団のような集団の公演のチラシだ。そこには劇団Tと書いてあった。

私は後日、同じ友人と連れ立って下町の元銭湯を改装した寄席のようなところへ潜入した。劇団Tの公演を観るためだ。その日見た、ほとんど意味の分からないショートショートの演目に、我々は衝撃を受けた。シュールでサブカル風味に覆われた怒涛のパフォーマンスの連続に、強烈なアンダーグラウンド臭を嗅ぎ取った私は劇団Tの虜になった。

その頃の私は興味が湧くととことん前のめりになって追求する体力に満ち溢れており、劇団Tの公演に関してもその後足繁く通うこととなり、その内にメンバーの方々とも話すようになり、遂には学園祭に招聘して公演を企画したこともあった。劇団Tのメンバーは流動的ではあったが大体10人前後という感じだったが、皆アウトロー臭を全開に湛えており、かつ音楽やアート全般への造詣が深く、私はこの人達と一緒にいたら自分もアウトローになれるのではないか、と思って彼らの周辺をウロウロした。レスザンTVの界隈をウロついたのと同じように。

実際彼らからビートニクのことや日本のダダ的な文化だったり、ドラッグカルチャー、マニアックな映画や音楽についていろいろ教えてもらった。彼らが主流の演劇シーンやひいては面白みのない世間一般に対し、バカを徹底しながら中指を立てている感じは、私に非常にパンク的なものを感じさせたし、またジャンル的には凝り固まってしまいがちなパンクよりも過激に映ることもあった。

私と友人は劇団Tの周辺をウロついてるうちに、彼らからちょっと手伝わないか、と声をかけられ、演目の端役で出演したり、照明などを手伝うようにもなっていった。私はあわよくばこの集団の仲間に加えてもらいたかったが、最終的にはボランティアで手伝いばかりさせられてしまうのが何だか納得がいかず、次第に次第に距離を取るようになってしまった。

しかし、彼らのアウトロー風情にかなり影響を受けたのは事実で、その影響でみっともない経験をしている。1つはナンパである。劇団Tのメンバーでナンパ師の風貌とはまったく程遠いA氏B氏が、しょっちゅう打ち上げの席でナンパ武勇伝を話していた。A氏もB氏もイケメンではなかったが、ギャグセンスが突出していて、こんな2人にナンパされたら意外性込みで、自分が女子だったらついて行っちゃうかも、とすら思えた。

私は大学卒業後に同居を始めていた初心者ドラマーのシマケンと、このA氏B氏のギャグセンスに心酔していて、彼らの口癖を真似するようにまでなっていた。そしてオレ達もナンパをしよう、ということになったのだ。この時、それまでの自分の価値観ではあり得ないと思っていたナンパというものに手を出してみたきっかけも、アウトローへの憧れが大いに混じっていた。

例えばビート文学で有名なブコウスキーが、"次々と女とヤる話し"だったり、名脇役俳優の殿山泰司が自著で綴る"チャンネエとオネンネする話し"だったり、そういった裏街道の粋なオトコ達の因果な所業に憧れたのだ。オレもスケコマシの端くれになってやろう、という訳である。柄になくとも20代の男子、性欲ははち切れんばかり。オトコの価値は抱いた女の数だ、なんて下らないことまで考えていたのだ…。(後々、このオトコの価値は抱いた女の数よりダチの数、に訂正されることに…)

ところがロックンローラーなどという好んで人前ではしゃぐ様なことに恥ずかしさを感じなかった自分なのに、ナンパとなるととても1人では無理だと思った。なので、シマケンを連れて行くことにした。シマケンは自分と笑いのツボが同じだったし、女好きだったし、ノリも紙ペラのように軽かったのですぐに、いいねやろうやろう、ということになったのだ。

西荻に住んでいた我々はバイトを終えて、若者が沢山集う吉祥寺に繰り出し、丸井から井の頭公園に向かう伊勢屋の通りや、北口のPARCOの周辺で勢いだけで声をかけ始めた。今時の女子というよりは多少サブカル臭を感じさせる子ならなんとかなるのではないか。淡い期待を抱いて頑張ったが、当然なかなかうまくいかない。

結局、2、3度の出陣で2人組を2組捕まえて、1組とは柄にもなくプリクラを撮り、その後その内の1人と後日お食事をしたのだが、全然話が盛り上がらなくてそれっきり、もう1組は、シマケンとはぐれて、私と地味な女の子2人きりになり、何と夜中に自宅まで連れて行ったものの、ギターやるんだ、何か弾いてよ、と言われ、そういうのは不得意中の不得意だったのに無理して1曲ポロポロと爪弾き、特にエロい気分になることもなく、何もせずに終わった。

これだけ労力をかけてHも果たせず、食事するにしても、まあ大体ナンパなんていったらご馳走するのが当たり前だし、奢ったりしてつまらない話をするくらいなら始めからナンパなんてしなくていいし、根がどこかクソ真面目な自分の性質を諦めて認め、軽妙洒脱でアウトローな色男を目指すなど身の程知らずなのだと認めざるを得なかったのだ。

ちなみに前回書いたバイト先の浜っ子のギャングスタに連れていかれたガスパニックで、ちょっとでもナンパを試みたのも、この吉祥寺ナンパの経験があったからだったと思うが、いずれにしても何とも言えない恥ずかしい思い出である。

もう一つ劇団Tからの影響で体験したみっともないこと、というのが万引きである。私は22か23歳の頃に万引きをして危うく捕まりそうになる経験をしているのだ。

劇団Tの準メンバーに某舞踏団で活動する方がいて、ヤクザな見た目と裏腹に物凄く優しい方だったのだが、彼が万引きの常習者、というか、万引きを万引きと感じさせない極めて自然な所作でモノを盗んでしまう。私も彼が外で販売されてた、積み上げられた弁当を1つ、目の前でそっと何気なく盗るのを見たことがあり、その何気なさと彼の無邪気さに感動したことがある。

私は罪とは何であろうかと考えた。万引きは悪いこと、犯罪、というのは小学生の頃から叩き込まれてるし、反論はない。しかし、彼のような、放浪乞食的な風情には、一般の道徳では括りきれない何かがあるのではないか、と真剣に考え、私もそれを真似してみようか、と更に考えを進めてしまったのだ。人を殺したり、傷つけたりするわけでもない。過剰消費社会の片隅で、オコボレをかき集めて生き延びるのは1つのアウトローの生き方だろう。

そんなことを考えていたある日、西荻駅前のリサイクル屋に入って商品を物色し、オーナーらしき店員のオヤジに何か商品について質問したら、余りにも横柄な返答をされて私は憤慨した。そして、その腹いせに私は外に陳列されていた500円のスニーカーをそっと掴むとそのまま店を出て家の方に歩いて行った。心臓がバクバクと波打つのが分かったが走らず、冷静を装った。すると100mも歩かないうちに、さっきの店のオヤジが後ろから走って追いかけてくるのに気づいた。バレてた。咄嗟の判断で私は立ち止まった。逃げきる自信もないし、逃げたら余計ややこしい感じになる気がしたので立ち止まってオヤジを待った。

私のところまで来たオヤジが私にどんな説教をしたのか、今となっては思い出せない。しかし、警察には届け出ないからちゃんと金を払え、というようなことを言い、私は、すいません、と謝って500円を渡した。私は消え入りたいような情け無さの中で、もう2度と万引きなどしないことを誓った。

ナンパも万引きも、私が乗りこなせる技術ではなく、アウトサイダーに憧れた成れの果てがこんなんじゃあ目も当てられない。しかし、この時期の私は、自分の殻を破るためにもがいていた。自分に似つかわしくなくても思いついたことを実行してみたかったのだ。そして、その結果、無理して自分を変えようとしても無駄なのだ、ということをいい歳になって身を以て学んだのだ。

とはいえ、レスザンTVや劇団Tなどの少しブッとんだ先輩方と接することで、私は、常識は疑うもの、という現在の自分にも引き継がれている思想を学んだ。常識通り、大学を卒業したら社会人になる、という生き方以外の道は歴然と存在していて、その中でどういう生き方を選ぶのかは自分次第なのである。私の社会人生活は斯様に無様に幕を開けていったのだった。

つづく

アクセルの意気地記 第8話 おーいしょと歩く

かわいいかわいいと思っていても、赤ちゃんをあやすのはなかなか難しい。ピーがいる時にあやすのは気が楽だが、私が1人で面倒みないといけない状況では不安になるし、どうしても持て余してしまう。パパにはリーサルウェポンとしてのおっぱいがないのだから。

赤ちゃんに、赤ちゃんの視点になってバア、とか、赤ちゃん言葉で接触を図るのもそれなりに気概と気合が必要である。もう少し上手くやれないかな、と思うが、そう生易しいものではないし、持って生まれた才能というのもあるだろう。

これまでの子守で私が赤ちゃんとのタイマンを最も迫られたのは、ピーが風呂に入ってる間のつなぎの時間である。ものの15分くらいでも初めはなかなか大変だった。こと子の好きなおもちゃとか、ぬいぐるみとか、お腹に乗せたりだとか、抱っこしたりだとか、いろいろやってもどうかすると泣かれてしまう。ハイハイができるようになる頃からは無闇矢鱈と泣き喚くことも多少減り、大分事情が変わってきて、ピーの風呂の間泣かせないで一緒に遊ぶことができるようになってきたが、一通りのこと子マニュアルを私がやった後にさあ次は何してアソボウカ?と沈黙してしまうと、急にソッポを向いて、「マンマ」とか言いながら風呂に向かってハイハイで消えて行くこと子の後ろ姿を見送る時の私の切なさよ。

そのままほっておけば、風呂のドアの前に座り、今度はバンバンとドアを叩き出す。そうなったら私はピーに、役立たずの旦那として舐められてしまうので、そうなる前に連れ戻す。もう一度やり直させてください。さながら失恋した青年よろしく。

そうこうしてる内にもこと子はつかまり立ちを覚え、遂にはつかまらない立ちを覚えた。初めはフラフラしていたけど、次第に背筋を伸ばして立てるようになった。こちらが、おおっ、と驚いてみせると、こと子はどうだ、と言わんばかりの得意顔である。

つかまり立ちから歩き出すまではあっという間だよ、と先輩諸氏から言われて、そんなものなのか、と私は思いこませれて、いつ歩くかいつ歩くかと胸を焦がせて日々過ごしていたのだが、一向に歩き出す気配がない。実はこの拙文を認めた数日前に、遂にこと子がよちよちと歩き出すようになったのだが、「つかまり立ちから歩き出すまではすぐだよ」という実感は全然なくて、実際かれこれ2.3ヶ月くらいかかったんじゃないかな。どうでもいいか。

話が前後するし脱線するが、数カ月前からこと子が、目が合った私やピーやその他の大人に向かって両手を斜め前方に突き上げるポーズを覚えた。赤ちゃんなら誰でもやるだろう、この抱っこしてポーズだが、両手を広げてグイと突き上げてくる時、こと子の口は必ずトンガらせてタコみたいになっている。内に秘めたる不満の大きさが伝わってきて憎めないし可愛いし。こんなことをされて抱き上げない訳にはいかないではないか。

このやろう、かわいいな、と思ってしゃがんで脚にチカラを入れ、よし、と立ち上がる。私は過去にヘルニアを経験しているのでこのように膝から立ち上がらないと腰痛の再発に発展しかねないのだ。

ある日、私がいつも通りこと子を抱え上げようと脚に力を入れて踏ん張って立ち上がると、腕の中にいること子が「おーいしょ!」というのでビックリした。何を急に、よいしょと言う役目はこっちなんだが、と思ったが、それから何度もこと子を抱え上げる度にこの「おーいしょ!」が飛び出した。その度にピーと可笑しくて笑っていたのだが、どうしてこうなったのかが段々と推測できた。

こと子が持ち上げられる時に掛け声をかけるようになったのは、きっと保育室で、恐らく年輩の保母さん達が子どもを抱える時には決まってよいしょ、と言っているからだろう。で、抱えられること子が同情してなのか一緒においしょ、と言うことになったのだろう。想像するとありありとその情景が浮かんでくる。

その後こと子は何か不満になると私やピーに向かって両手を伸ばすケースが増えた。こうすれば抱っこしてもらえると学習したのだろう。そうなると、余程のことがない限り我々はこと子を抱き上げなくてはならないが、その重労働の始めに腕の中のこと子に「おーいしょ!」と応援されると何だか脱力しつつ愉快になってしまうのだ。

この「おーいしょ」はそんな風に抱き上げられるための掛け声で使われていたが、後日こと子の主体性をもって使われるようになった。ウチの近所に少し変わった公園がある。幼児がいつでも気軽に遊べるようにオモチャのトラックやら乗り物が放置されているのだ。それら遊具のほとんどは風雨に晒されるため、変色してボロボロになっており、夜などにその公園を見ると遊具の墓場みたいでそれはそれで奇妙なのだが、近隣の子育てママ達はそんなことは気にせずに、すっかりその遊具で子ども達を日中遊ばせている。

その公園はホントにウチから目と鼻の先にあるので、私も何度もこと子を連れて行き遊ばせているのだが、つかまり立ちができるようになってからは、それらの遊具にこと子が俄然興味を示すようになったので遊ばせてみると、オモチャのトラックを押して1人で歩き出したではないか。よちよちと一歩ずつ前進すること子の口からは例の「おーいしょ!」が飛び出したのだ。足を一歩前に出す度におーいしょ、と言っている。一歩ずつその掛け声をかけるのは彼女にとっての一歩が大変難しい動きだからであろう。

よいしょ、とか、よっこいしょ、とかその手の掛け声は、ともするとジジくさい、ババくさい、と言われ、確かにそんな印象もあり、そう思われたくないからなるべくよいしょ、と言わないように我慢してる人すらいるかもしれない。ところが、保育室のおばちゃんに影響を受けた我が娘はその掛け声を覚え、抱き上げられる時以外でも歩く時に自然とその掛け声が飛び出すようになったのである。それからしばらくの間、おーいしょ、おーいしょ、と言いながらつかまり歩きしたり、我々が手を引いてあんよの練習する時もおーいしょ、おーいしょ、と言うので可笑しかった。

このこと子のおーいしょ話を職場の後輩で、何かというと、よいしょ、とか、よっこらしょと口にする若者に話したら、自分、ついつい使っちゃうんですよねえ、と恥ずかしそうにしていたが、彼は彼なりに、そうやって掛け声を発した方が力が出やすいということを知っているようだった。私も実際よいしょの掛け声にそういう効用があるのかも分からない、と信じ始めているのだが、その職場のよいしょ君は、それを裏付けるように、力を入れる時に声を出した方が力が出やすい、という学者か何かの研究の成果が存在してるのです、というようなことを言っていた。別に学者が言い出さなくても、掛け声で力が出やすくなる、なんていうことは驚くに足るようなことではない気もするが、私はなるほど、と思った。

ということは、よいしょとかよっこらしょというのを口にしちゃう若者がバカにされるのは異常事態なんじゃないか、とまで私は思い始めた。私はそもそも、よいしょ否定派ではなく時々つい口から漏れてしまうことがあるのを昔から自覚していたが、これからは遠慮なくよいしょ、よいしょとやっていこうと思った。育児とは関係ない話になってきたようだけど、私はこと子のおかげでそんなことに気づいたり影響を受けたりし始めているこの頃なのである。

バンド漫記 第20話 アジア貧乏旅行と新バンド結成

大学を卒業した2000年の4月に私は2ヶ月間のアジア貧乏旅行に出た。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を陸路で回った。この旅には裏テーマがあり、それはベトナムのサンドイッチとして有名なバインミーの研究をするというものだった。

というのも前回ベトナムを訪れた時にそのバインミーの美味しさに感動し、屋台でやっているバインミー屋さんの姿を見て、コレだ、これを日本でやったらウケるに違いない、と思い込み、将来の生業にできれば、と軽く考えていたからなのだ。そうなのだが、そういうテーマを決めておけば旅に出る説得力が演出されるんじゃないか、と思っていたのも事実で、私はその旅でバインミー屋台の実態を調査したのだが、その後実際に日本でバインミー屋台をやることはなかった。結局そこまでの情熱を注げなかったのだ。

しかし、2ヶ月間のアジア放浪は本当に楽しいものだった。自由な長期旅行に出ている間の、あのハイな気分というものは物凄い。あんなに刺激的な2ヶ月を私はそれ以降持っただろうか。一泊数百円の安宿を転々とし、長距離バスで国境を越える。いろんな国のバックパッカー達と触れ合い、地元の人たちとも密に触れ合ったりすることもできた。騙されたり、スリにあったり、お腹を壊し続けたり。またウィードカルチャーを知ったのもこの時で、私はこのカルチャーにも大きな影響を受けてしまった。

旅の間、当時ハマっていたウェディング・プレゼントというイギリスのバンドの疾走感溢れるナンバーを旅のBGMにして、これからやってくる私の第2の人生のことをワクワク想像しながらいろんなことを考えていた。世界はとてつもなく広くて、自分の存在は何てちっぽけなんだろう、と陳腐な感慨に満たされながらも、前向きに生きてけば必ず明るい未来が待っている、という妙な全能感にも襲われたりしていた。お前はそのままでいいんだよ、というスタンスをウィードに教わったのも私の心を癒してくれた。そして存分に旅を楽しみながらも、早く日本に帰って本気のバンドを始めてやるんだ、というある種の焦燥感にも駆られていたのだ。

さて、2ヶ月のアジア放浪旅行から戻ると、私は早速実家を出る手筈を整えた。実は大学在学中、相棒の松ちゃんより密に親睦を深めていたシマケンという同級生がいて、私は彼と一緒に共同生活をすることにしたのだ。私とシマケンは、ハードコアパンクスの先輩がたむろし、私が最もお世話になっていた街、西荻窪に2間のアパートを借りることになった。

私はベトナムサンドイッチ屋さんのことは金ができた未来にお預けとし、とりあえずはアルバイト生活に突入。学生時代からバイト経験のあった飲食業界で仕事を探した。飲食業界に的を絞っていたのは料理が好きだったから、という理由の他に、美味いモノを作って目の前のお客さんに食べてもらってお金をもらう、というシンプル極まりない商売の仕組みに正義を見出していたからである。

バンドマンがバイトを探すにあたり重要なのは、スタジオに入る時間とライブに出演するための時間の確保ができるかどうかである。つまるところ平日の夜と土日が休みであることが理想で、そうなってくると一般的なサラリーマンの労働形態とさして変わらない。ここで問題なのが、飲食業界では夜と土日が掻き入れ時であるということだ。

私はフロムAやら求人誌とにらめっこをしながら、平日夜と土日が休みの特殊な労働形態の飲食バイトがないか探した。すると、この条件に敵うものが一応あるのである。会社や工場の社食や、土日休みのオフィス街にある飲食店のランチバイトなどだ。私は洒落た料理を覚えたかったこともありオフィス街の料理屋に的を絞った。すぐに青山二丁目にある創作料理屋のランチバイトが決まった。

この洒落た飲食店で私の後から鳴り物入りで料理長として入ってきたYくん、という人物が凄かった。彼はいわゆる横浜のお洒落な不良だった。ヤンキーというよりはギャングスタという感じで、クラブ遊びに喧嘩に女。サッカーが大好きらしく胸にプーマと5枚葉の墨が入っていた。私がそれまで付き合ったり仲良くしてきた文化系の連中とは全く違う世界の住人、という感じだったので初めは戸惑ったが、Y君も私のキャラを面白がってくれて、すぐに仲良くなってしまった。

私は彼に連れられて慣れない合コンや、所謂ナンパクラブである桜木町のガスパニックなんかにも行った。Y君やその仲間たちのクラブでの立ち居振る舞い、そしてナンパの仕方は見事だった。クラブ内、通りすがりのねえちゃんのオッパイやお尻を触りながら冗談を言って歩く。私はアウトサイダーに憧れていた時期だったので自分もナンパの1つくらい、と思っていたのだが、彼らのフランク極まりないやり方に衝撃を受け尻込みしてしまい、ほぼ誰にも声をかけられないまま時間を持て余すしかなかった。ガスパニックに集うセクシーなチャンネエ達の本命は米軍のプレイボーイで、そこに地元の日本人の不良どもが紛れ込んでアメ公に負けじとナンパを仕掛けてるように見えた。だから私のような文化系もやしっ子が勇気を出して声かけてみても一瞥もされなかった。私はすっかり消沈してしまった。

結局Y君のクラブ遊びについていったのは2回ほどで身の程を知って、それからはたまにオフの時に遊んだ程度なのだが、彼はギャングスタだったからウィードが好きで、それで私は日本にもウィードカルチャーが歴然と存在してることを知ってどっぷり浸かるようになってしまった。

西荻の共同生活は楽しく、極めて楽観的なバイブスの持ち主だったシマケンと楽しく暮らしていた。gutsposeを解散させた私は松ちゃんと始めるバンドのドラムに、この楽器素人のシマケンを抜擢することにした。なにしろ私の好きで聞いてる音楽をそっくり真似して聞いていたし、何しろ仲がよかったのだから自然の成り行きである。初心者でなんぼ、音痴でなんぼのパンク精神を共に肯定していた松ちゃんも異論は挟まなかった。

しかし問題は松ちゃんがもうボーカルは懲りた、と言い出し、オレはベースやりたい、とダダを捏ね始めたことだ。松ちゃんは声がいいのでボーカル向きだと思っていたが、個人の意志を尊重してベースを握ってもらい、私はギターを。すると当然ボーカルは誰がやる?ということになり、仕方なく私がやることにした。いや、正直に言えば私はボーカルをやりたかったのかもしれないが、自分は音痴だし声もシケてるし、という劣等感が私の中で大きかったのだ。そんな風に思っていたのだが、心の奥底の欲求が、この状況を理由にボーカルにトライするのを後押ししたのかもしれない。

どうせ自分が歌うなら日本語で誰も歌わないような歌を歌おう、と思った。当時のインディーパンクシーンでスタンダードになっていた英詞ブームに対する反発もあって日本語で勝負すべき、と強く思っていた。そしてみんながビックリするような、そんな歌を作ろう。

私のそうした熱意とは裏腹に新たに結成したその3ピースバンドは、学生時代にある程度カタチを残したgutspose以上に無残な演奏だった。何しろ、松ちゃんは初めてベースを握り、シマケンは初めてスティックを握ったのだ。そしてその2人ともがリズム感を持っていなかったのだ。それでも私は自分が優れた演奏者でない事も自覚していたし、何より初心者が思いつきでバンドを始めちゃう、というパンクマインドをやはり重視したくて、また、演奏技術よりもフィーリングの合う仲間とバンドをやることが重要だと考えていたので、無茶苦茶な演奏のスタジオ練習をただただ積み重ね、繰り返していた。ベースのフレーズもドラムのフレーズも私が考えてそれをコピーしてもらった。あの時の我々にはまだそんなバカバカしいことに費やす時間が溢れていたのだ。

つづく

アクセルの意気地記 第7話 我が子可愛さに

赤ちゃんは遊ぶことが仕事、と何かに書いてあったが、子育てをしてみるとなるほど納得する。首が座り、腰が座り、ハイハイができるようになればそこら中にあるものを握ったりくわえたり、振ったり、叩いたり、とにかくじっとしてられなくて勤勉に仕事に励む。

手で握れる物なら何でもおもちゃになってしまうのだが、握り心地や、形状、触ったりした時の音などで好き嫌いがはっきりしてくる。こと子は箸やペンなど、細長い棒状のモノが好きで、私が食事をしていると箸を奪い取ろうと強い力で引っ張る。その箸で皿やらそこら辺を叩いては楽しそうにしている。

ぬいぐるみなどは分かりやすく反応がよくて、中でもクラッチ家からお下がりでもらった白いうさぎのぬいぐるみが大好きだ。近づけると顔をくしゃくしゃにして喜んで抱きしめたりするので、困った時はこのうさぎを連れてくる。他にも実家でホコリを被ってたリスや、振るとキュッキュと鳴くペンギンや、クマのぬいぐるみがそのままリュックになったやつなど、眼、鼻があって動物らしきものは、何かしらの生物であると認識できるらしく、なおかつフワフワの触り心地がこと子を興奮させるらしい。しかし、クラッチ家は男の子でうさぎのぬいぐるみは全然ウケなかったらしく、不思議だが、こういうところに早くも男子、女子の違いが出ているのだろうか。

こと子は4月から保育室に通えることになった。保育室というのは認可型小規模保育というカテゴリーで、そこは定員5名なので丁寧に子供を見てくれる、というのが利点らしい。ウチから歩いて5分かからない、とにかく近くていい。そもそも、もともとピーが週2、3回のバイトだったので、保育園に応募してもダメだろうと思っていたのだが、どういうくじ運なのか通ってしまった。しかも世帯収入の低い我が家の保育費は1万円以下で済んでビックリした。

保育室には幼児向けのいろんなおもちゃが置いてあり、私は面談の時にそれらを解説してもらいながら眺めた。その中で、丸いものを丸い穴に落とすだけのおもちゃがあって、私にはそれが印象的だった。

丸いものが丸い穴に入って落ちる、という大人からしたら何でもない道理が赤ちゃんには面白いらしい。私は感心した。そうだ赤ちゃんにとってはすべてが未知の世界なんだ。

とある日、用事があって近所のハードオフに行った。子供のおもちゃコーナーを何気なく見ていると、ある木製のおもちゃが目に止まった。一辺10数センチの立方体で中は空洞。1つの面が開閉式になっていて開けるといろんな形に整形された木片が入ってる。表面が正方形、長方形、三角形、台形、丸、楕円、などいろんな形をした、厚みのある木片だ。立方体の3つの面にそのいろんな形の穴が穿ってあり、その穴にそれぞれの木片を、形を合わせて立方体の中に落として遊ぶだけのおもちゃだ。

私は保育室で見たおもちゃのことを思い出してそれが欲しくなった。木のおもちゃ、というだけで魅力だし、それぞれの木片はカラフルなペンキが塗られてて楽しいし、何しろ中古で300円とお値打ちではないか、というわけで買ってみた。

不思議そうに見つめること子を前に、私がデモンストレーションでオレンジの円柱を丸い穴に合わせて箱の中に落としてみた。すると眼を見開き、歯のない口をあんぐりと開けてこと子が私を見上げた。(あぁ〜!)と、声は出さないけどとにかく、最大限に驚いた表情なのだ。その表情が可愛すぎて、純粋すぎて、私はこと子を抱きしめずにはおれなかった。

この驚きのあんぐり顔はその木の箱のおもちゃで遊ぶ時以外にも驚いた時に発動するようになった。その顔を見ると私もつられて「あぁ〜!」っと声をあげて、ビックリ顔で一緒に驚くのが楽しかった。保育室の先生は「顔の半分が口になる」と表現していたが言い得て妙である。

さて、さきほどの木の箱であるが、穿った穴と同じ形の木片を落とすのがこのおもちゃの面白みなのだが、まだその仕組みが分からないこと子は、開閉可能な面を開けてそのまま木片を、その大きく開いた面から、穿った穴を通さずに中に放り込んでも同じあぁ〜! の表情を私に向けてきた。おもちゃの設定を無視してもこと子が面白ければオールOK。要するに箱の中に何かを入れたり取り出したりすることが面白いらしいのだ。

その面白みのせいでこと子はゴミ箱からティッシュやらゴミを取り出したり、ゴミじゃないものをゴミ箱に入れて、あぁ〜! と1人で楽しそうだ。ある時私の爪切りを、目の前でゴミ箱に放り込んでいたのを眼にした私は、(仕方ない、後でゴミ箱から救出しよう)と思いながら忘れてしまった。

それで後日、爪切りがないぞ、ないぞ、と探し回り、たまりかねてピーにも爪切りを知らないか、と救いを求めたが一向に見つからない。丁度燃えるゴミを出す前日の夜、ふと数日前にこと子が爪切りをゴミ箱に放り込んだ瞬間の映像が脳裏をよぎった。

私は興奮しながらゴミ箱を漁った。爪切りはそれなりの重さがあるので、汚い芥をかき分けてゴミ箱の底に手を伸ばすと果たして爪切りがあるではないか。私は安堵して奇跡的な爪切りの救出に満悦した。

こと子はまだしゃべらないが、最近では「マンマ」「ワンワン」など多少表記可能な単語を発する。その中で「ドンバ」というのがあって、響きが面白いので、真似して面白がっていたら、それが段々「ボンバ」になり、状況によっては「マンバ」になったり「ドンドンバ」に変わったり、「ドンベ」と言ったかと思えば最終的には「ドンベシ」となった。

こと子の中では何かしらのタイミングや動機があってそれらの言葉を発してるのであろうはずで、そう考えると興味深い。2歳くらいになったらどういう意味だったのかこと子に聞いてみようとピーが言ってるが、そんなことは可能なのだろうか。しかし、幼児に胎児の時の、つまりお母さんのお腹にいた時のことを聞くと覚えていて話してくれる子たちがいるらしい。だとすると後で「ドンバ」の意味も分かることがあるかもしれない。

「バ」という濁音は発音しやすいのだろうか。こと子にいないバーを教えるとすぐに気に入って、いないいな〜い、をこっちが言うと嬉しそうに「バア」と答えるようになった。初めは布を使って顔を隠したりしてたので、垂れ下がるカーテンの下で、カーテンの裾を引っ張って自分の顔を覆い、顔を覆った布を振り払っては「バア」と言っている。これは自作自演であって1人でやっているのである。愛おしい。

最近では私が仕事から帰るとダッシュでハイハイして来たりして胸キュン度は最高潮である。こんな体験を世の中の父親たちはさりげなく体験していたのかあ、と思うと不思議な気持ちになる。我が子可愛さに、という響きだけ長年何となく聞き流していた。そりゃあ自分の子供は可愛いのだろう、と何となく想像していたものだが、実際の可愛いさ、というのは想像を遥かに越え、私は生きる力を、活力を、こと子からもらっているようだ。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
赤い疑惑の活動報告
およびアクセルの手記
赤い疑惑WEB

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク