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アクセルの意気地記 第23話 いこいの森公園にて

その日は休日で、掃除、洗濯、片付け業務などを淡々とこなした。遅めの昼食を済ませると、すでに15時を過ぎようとしている。天気も良いので私は公園に行こうと考え始めた。

自宅から15分程歩いたところにいこいの森公園という、割りと最近できた大きめな公園があるのだ。どうせ行くならギターを持って行こう。そこでこと子に、公園行こうか、と聞くと、うん、行く、とあっさり賛同した。

このやり取りを側で聞いていたピーさんはスマホ中なのかリアクションがない。これは無理に誘うよりこと子と2人で出かけてピーさんに1人の時間を作ってやるのがいいだろう、とそう考えた。

ギターを背負いこと子を誘う。玄関を出てバギーを持って行こうとすると、こと子は、歩く、と主張する。帰りのこともあるので、それでもバギーを手にすると、今度は、乗る、と手のひらを返す。私はホッとしてバギーを押して歩き出す。いこいの森までこと子のペースで歩いたら30分近くもかかってしまうのだから。

ローソンのある武蔵境通りに出て右折。まっすぐひばりヶ丘方面に進む。この辺は左手に広大な東大農場の敷地が広がっており大変空が広い。タイミングが良ければパノラマに近い夕陽を拝むこともできる。

途中、公園手前のファミマに入る。公園で日中にギターとくりゃビールがほしい。350ml1缶でいいんだ。しかしコンビニに入れば何か買ってもらえるという条件反射を身につけていること子にも何かを買わねば…。

アレルギー対策で添加物や乳製品、砂糖過多な飲み物はNGにしている。そうなると水かお茶が無難なところだが、それだとこと子が聞かない。中庸とって野菜ジュース。野菜ジュースだけでも何種も並んでいるが成分表示上余計な添加物の少ないものを探す。ツマミはむき甘栗。これは塩も砂糖も添加物も入ってない。

張り切って公園に向かうと、通用路となる石畳みの道沿いに河津桜が満開に咲いている。濃いピンクがはち切れんばかりである。
「ほら、コッピ、河津桜だよ。咲いてるねぇ」
「カワヅザクラ?」
今、こと子は知らない言葉が出てくるとおうむ返しして語尾を上げる。語尾を上げられたら私は適当に、うん、と答えるだけだ。

公園の入り口にはスケーターが集うスケート広場や運動場、管理事務所、遊具広場などが並んでいる。その先に芝生敷きのエリアがずっと奥まで広がり、両脇は樹々と金網とが外界とを隔てている。左手には広大な東大農場、右手には竣工からそう経っていないだろう新しいマンションが聳えている。

これまで何度か友人を誘い、この芝生の上でピクニックを楽しんできた。そして今日も同様に、入り口からさして遠くない位置に狙いを定め、敷物を敷いてギターをおろした。

ビールと野菜ジュースを取り出してこと子と乾杯。すかさず剥きグリを取り出す。口にほうばると甘みがジワっと広がって美味い。あんまり買わないけど美味いよねこれ。食い意地旺盛なこと子も負けじと剥きグリの袋に手を突っ込んで食べる。恐らくこの手の剥きグリを食べるのは初めてじゃないかな。
「おいしい?」
「うん、おいしい」
こと子はいつも誰かに言わされてるかのようなトーンでおいしいと答える。それがなんかいい。

酒のつまみとしては甘いし、格好のものではないが、私はこと子のペースに負けないように袋に手を突っ込む。こと子も気に入ったようで次から次へとクリをほうばるのですぐになくなってしまった。私は手を拭いてギターを取り出した。

ポロンと音を出すとすぐにこと子が「だけどもやって」と私に迫る。これは想定内の反応だ。こと子は私の弾き語りの「幸せは君の疫病神」という曲をやってくれ、と言っているのである。歌詞の中に「だけども今でもどうにかこうにか」というフレーズが出てくるのだが、その歌い回しが気に入っているのか、曲名のように「だけども」と呼んでくれている。家でギターの練習をしようとギターを取り出すと、最近では必ずこの曲をリクエストされるのだ。

リクエストにお応えして私はその曲を演奏し始める。1人で練習してるのと変わらないようにも思えるが、たとえ我が娘1人だけだとしても、聴いてくれる相手がいるというのは心持ちが違う。私は上機嫌になる。

しかし、「だけども」が終わって、別の曲を弾き始めるとすぐにこと子は退屈し始める。これも想定内のことであった。
「ゾウさん乗る」
とこと子が言い出した。
はて、それは遊具広場にあるバネ付きの乗り物のことかな。
確かにあそこの遊具広場にはゾウと虎とリスだかアライグマだかのバネ遊具が3つ並んでいたな。思い出した私は
「ゾウさん、あそこの広場にあったね。トト(私のこと)ここいるから、遊んできていいよ」
と伝えた。口から出たと同時に、私は娘を試すつもりになっているのに気づいた。

ここから遊具広場はちょっとした樹木の茂みに隠れて見えないが、距離は大したことない。走れば数十秒で確認に行ける程だ。とはいえこと子は親目から離れて遊ぶことは、例えば友人やなんか、誰か見てくれる人がいる場合以外経験したことがない。でもすぐそこだし大丈夫じゃないか、こういう機会を経て子どもも成長するんじゃないか。

ビールで酔ってるせいなのか、私はそう軽く考えて、遊んできていいよ、と言ったのだ。とはいえこういう場合、こと子が1人で行くことはなく、「いやん、一緒に!」とごねられて大体同行するのだが、この時は「うん、じゃあ行ってくる」と、活き活きした返事が返ってきたのだ。

私は、逆に大丈夫かな、と僅かに心配したが、靴を履いていそいそと準備してること子を見て、大丈夫だろう、と思った。それにこと子は10mくらい歩いたところでこちらを振り返り、「トトはここで待ってるんだよ!」と、親が子どもに言い聞かせるような忠告をしてくれるのであった。これを聞いて安心した私は、こと子が樹木の茂みの陰に見えなくなるのを、ギターを弾き、歌いながら見送った。

そらから3曲くらい弾き語りの練習を続けていたが、斜陽の加減で空が若干暗くなってきた気がし、こと子のことが急に気になりだした。ギターをしまい遊具広場に早足で歩いた。急ぎつつも、マイペースなこと子は1人で真剣に遊んでいるだろう、と想像していた。

茂みを通り過ぎて遊具広場に目を向けると思わぬ光景が待ち構えていた。遊具に囲まれた砂場の脇で、泣いてること子を中心に子ども6、7人、そして親御さん2、3人が輪になってこと子に話しかけているのである。いけねー、コレは完全にヤラかしだ、と慌てて私は「すいません、ウチの子ですー!」と大きい声を出しながら駆け寄った。

その時私に投げかけられた彼らからの視線は恐ろしく冷たいものだった。まるで、汚らしいモノでも見るかのような蔑みの表情である。子どもたちも、親御さんたちの私に対する態度と似たような、異界のモノを眺めるような視線を私に向けていた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、どうもどうも…」
頭をかきながらも私は円の中に入っていった。
「泣いてましたよ…」
その中の1人の親御さんがとても冷淡に私に言い放った。いやあ、すいません、と何度も頭を下げながらも、その苦言を耳にして私の心は何だか反抗的な気持ちになってきた。

何だい、確かに我が娘を放ったらかしてビール飲んで呑気にギター弾いてたオヤジの私に非はあるのだろう。だけどそんな眼で睨までもいいではないか。私は頭を下げながらもこと子を回収し、抱えて輪の外へ出た。

私は小さい頃からみんなと違うことをしようとしたり、天邪鬼だったり、目立とうとしたり、物心ついてからはそういうことを意識的にやったりして生きてきた。親になって丸くなったかな、と思っていたけど、こういう状況に直面すると脱線してしまいたくなる。こういう能天気な親もいるんだ、変わったヤツもいるんだ、と世間に表明してみせたくなる。そうじゃないとあーしなきゃいけない、こーしなきゃいけない、で世間は窮屈になる。

いい加減な親に見えたかもしれないが、そんなオヤジでも娘とは実はこんなに仲良しなんだぞ、ということを彼らにアピールしようと反旗を翻した私は、やたらわざとらしくポジティブな感じでこと子と遊び始めた。

すぐに機嫌を取り戻したこと子はゾウさんにも乗ったし、私などは虎さんに乗ってバッタンバッタンとしたりした。飛び石の様に配置された、作り付けの切株の遊具に乗って、キャッ、キャとこと子とはしゃいだりした。しかし私の頑張りも虚しく、周囲にいた家族たちは我々に目もくれず三々五々散って行ってしまった。ちょっ、と舌打ちをしてこと子と芝生に戻り、(そういえばあの時彼らにギターを見られなくてよかったな)などと思いながら私は帰り支度を始めた。
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バンドマンに憧れて 第35話 試行錯誤のパフォーマンス

「東京フリーターブリーダー」リリースから次のアルバムを出すまでの2〜3年間は最もバンド活動が勢力的だった時期で、遮二無二動き回っていたので思い出すことも多い。という訳でこの時期の回想がしばらく続く。

この頃までの私は、ライブにおけるMCを必要以上に重視しており、またライブ中に芝居染みた下らないコントや、ちょっとした仕掛けを盛り込んだりしていた。それはライブに笑いの要素を盛り込みたい、という当時のポリシーがあったからだと思う。

そんな笑いの要素と、かっこつけてMCも控えてクールを気取ることとは全く正反対の要素で、私はそのバランス感をよく考えていたが、それに対する答えは未だに出ていない。とにかくこの時期の赤い疑惑はいろんなことを試していた。

MCに関しては、漁港という先輩バンドや当時人気急上昇中だったロマンポルシェの影響を受けた。ハードコア系のバンドはMCで笑いを取ろうとすることは少ないし、そもそも不必要である。しかし私はハードコア的な外見をまとい、MCで笑える男気を見せる漁港やロマンポルシェを真似しようと思い、リハーサルが終わり本番が来るまでの長い空き時間(逆リハという制度があり、長い場合は5、6時間待たねばならぬこともあり、この時間をいかに過ごすかはバンドマンにとって重要な問題である)に1人で公園などに行ってMCのネタを緻密に考えていた時期があった。喋りたい内容を紙に書いて暗記するのである。

甲斐あってと言っていいのか分からないが、仕込んだネタをMCで喋るとそれなりに受けていた。それで調子に乗って毎回毎回仕込みに時間をかけていたのだが、MCが受けても肝心のギターや歌で力を発揮できない時がままあり、次第に喋ることを綿密に仕込んでいるのがバカらしくなってきて、段々とMCに割く時間は少なくなっていった。赤い疑惑の楽曲も初期の頃より作り込んだ長いものが多くなり、あんまり余計なことを喋ってると演奏時間がなくなってしまう、などの問題もあった。

芝居染みたコントと書いたが、それはいずれも赤い疑惑のアカペラ入場シーンに組み込まれた。歌いながら客席を縫ってステージに近づく過程でシュールな芝居を試みたりしていた。これも先述の漁港や、もっと前に書いた鉄割アルバトロスケットに感化されたものだった。例えば、傘をさしながら(何故傘をさしていたのか覚えていない)客席を歩き、途中で<胃腸虚弱なリーダーという設定の>私が倒れ、倒れた私にメンバーが養命酒を飲ませて私が復活する、とか、「振り返るなオンザロード」という曲を一曲目で披露する前に、私が<夢を追いかけがむしゃらに頑張る青年>役を、クラッチが<そんな青年を叱咤激励するヤクザな兄貴>役を務め、それぞれその役を大根芝居で演じてみせたり、「住基ナンバー」という(住民基本台帳の制度をディスった)曲の最後に、ステージに急ごしらえした紙めくりをめくって、事前にお客さんに配っていた数字と、私が紙をめくって現れた数字が同じ人がビンゴ、そのお客さんに景品を差し上げる、など、パンクバンドとしては相当意味不明なことをやっていた。

私はそれらを個性的なバンドの醸成に必要と考えていたのかもしれないが、そういう試みも肝心の演奏がおろそかになるという本末転倒な傾向を回避するために長続きせず終息していった。また、これらの意味不明なパフォーマンスも、自分が考えついたことをやっていたからよかったものの、芝居染みたことを他人に強制されるのは私は大嫌いだった。

というのはこの頃、我々のミクスチャーな音楽性と存在感とで、前回も触れたようにパンク系から始まり、インディーポップ系、ギターポップ系、アングラ系など毛色の異なるイベントに沢山出ていたのであるが、とある、<あからさまに売れたそうな雰囲気のバンドが集まる系のイベント>に出た時のことだ。私は、売れたくてしょうがないぜ、といった感じが表面に溢れ出ている対バン達をダセエな、と思っていたのだが、イベントの最後になって、リーダーが全員雛壇に出て行って今日のイベントについて面白おかしく感想を述べてイベントの締めを括るというようなことが予定されていた。

私は非常に戸惑った。やってください、と言われてないことをやって面白がられることは本意だったのに、面白いこと言ってください、という業界風な挑発ノリに対応するのは本意ではなかったので冷や汗をかいた。もはやどんな風に切り抜けたのかも覚えてないが自分はこういうことがヘドが出るほど嫌いなのだな、と悟った。

他にもこの時期には「わくわく赤い疑惑」というフリーペーパーを刷ってライブで配るということもしていた。フリーペーパーを作ることと文章を書くことは学生時代に散々やっていたことなので勝手は知っているし、お客さんからの反応もよかったのでこれはしばらく続いた。私がブログで書いているような雑文やライブ告知、そして沓沢ブレーキーのダメ男コーナーなど下らない内容で、チラシのようにして配っていた。

こうした音楽以外の部分の活動は、赤い疑惑というバンドの謎を深めるための装置として、また反対に、ちょっと怖い人たちと思われがちだった赤い疑惑がこんなにファニーな親しみやすいヤツらだぜ、という懐柔の装置として、私は半分意識的にやっていたのである。いずれにしても人気を得るために私が考えついた戦略だった。

それらの活動が功を奏したのかは分からないが、赤い疑惑の人気のピークというのはちょうどこの時期だった。誘われるライブの数も多ければ、お客さんの動員がある程度あったのもこの時期なのである。前売り予約メールが20名前後ある(そんなもんかと思われるかもしれないけど、これは今では考えられない数字)時もあり、ライブで知らないお客さんに話しかけられる、ということもこの時期が1番多かった。

赤い疑惑のズッコケ気味のキャラや上記のようなサブカル体質に近寄ってくる変わった女子達もいた。女の子にウケるということはこの時期に初めて体験した訳だが、鼻の下を伸ばすようなものではなかった。どういう訳かその頃近寄ってきた女の子お客さんには病んでる鬱系の子が多くて、握手を求められて出された子の右の手にはリストカットのキズ痕が何本も走っていたり。会ったことない北海道の女性からもらった長めの(重めの)メールに対して、割りと真剣に返事したら、相手からの苦痛メールや無駄話が過剰に送られてくるようになり謎のやりとりが続き、終いには自分はもう着ないから、というメモと共に男性用の紺無地パーカーがプレゼントとして送られてきたり(貧乏性の私はそれを普通に日常着として着ていた)。また、同様の、ファンです、の後に苦痛を訴える女性からmixiで連絡があり、またこのパターンか、面倒くさいな、と適当にあしらおうとしてたら、死にたい、というメッセージと共に手首に包丁を当ててる画像が送られてきたこともある。

さすがにこういう経験をしてお客さんとの距離の測り方を真剣に考えるようになったが、この時期が人気のピークだったので、それ以降その手のヘビーなお客さん問題にはほとんど巻き込まれていない、というのが現実である。

アクセルの意気地記 第22話 子育てとイヤイヤ期

子どもを育てることの面白みややり甲斐は形容しがたいほどに大きなものである。それは子どもが欲しい、と具体的に思うようになる前までの自分には到底想像のしようもなく、分かりようのないことだった。

昔、母が亡くなる前、胃がんで闘病していた時(私が25歳で15年も前のことだが)、私は足繁く実家や母の入院先などに通い、母との時間をできるだけ持つようにしていた。とはいえ実の親子で、母に死が迫ってるからといって、深いテーマの会話ができる訳ではなく、そんなに話せるトピックがあった訳でもないのだ。しかし、私は母にどうしても聞きたいことがあって、それはこういう時じゃないと聞けないことだった。

というのは、母にとって人生の中での生き甲斐、1番楽しかったこととはどういうことなんだろう、ということだった。母はいつも明るく、優しく、父や私と違って控えめで自分が前に出ることのないタイプの女性で、生涯かけて何か一つのことに夢中になっていたり、これといった継続的な趣味があった訳ではなかった(若い頃はクラシックギターを弾いていたが)。だからそれだけに私は母の生き甲斐がどういうものなのか分からなかったし、1番楽しかったことは何なのかということを聞きたくなってしまったのだ。

ガンの告知以降、母は目に見えて後向きになり、持ち前の明るさは影を潜めてしまった。何で私がガンになるのか、という答えの出ない問いかけから抜け出ることができないような感じで、また、その気持ちと比例して時とともに衰弱していった。そんな母を見ていて私は母の人生とはどんなものだったのか、どんなことが楽しくて生きてきたのだろう、という疑問が素朴に浮かび上がってくるのだった。

そして確かがんセンターの病室でだったと思う。私は俄かに母に聞いたことがあった。お母さんの人生で、1番楽しかったことって何、と。母は息子のストレートな問いかけに驚いていたようだったが、ちょっとの間考えて口を開いた「そうねえ、あんた達2人を育てたことかな」。2人というのは私と姉のことである。

私はあまりにも意外な返答にビックリした。まさかそんなことを言われるとは思ってなかったし、その母の喜びの中に私が登場していることを知って涙を禁じ得なかったが、泣いてる姿など見せたくないので必死にこらえた。私がビックリしたのは子どもを育てるのがそこまで大きな喜びなのだろうか、という率直な疑問だった。そしてそれをきっかけに私は子どもを持つ、ということに大きな興味を持つようになったのだ。

そして今こうして自分も子育てを始めて、あの時の母の返答が決して珍しいことでも突飛なことでも何でもなくて、至極真っ当な、偽りのない言葉だったのだな、ということが理解できるようになった。終わりの見えないようにみえる労苦と大変さを差し引いても、それくらい子育てはやり甲斐のあることのように感じる。今のところはね。

幼い頃ににほん昔話や、それに類する昔話で、しばしば登場していた「子どもを授かって家族仲良く幸せに暮らしました」というそれだけの描写を、子どもの頃はふーん、そういうもんかな、という風に思っていた。子どもが生まれて家族で過ごせるだけでそんなに幸せなのかしら、ということを半分信じて半分不思議に思っていた。しかし実際赤ん坊を抱いた時の尊い気持ちや、始めてこと子と手を繋いで歩いた時の感動とか、例を挙げれば枚挙に暇がないが、ただ子どもが家族の中に加わっただけでもたらされる喜びというのは計り知れないものがあるのだった。

そうやって考えると、人類が営々と脈々と、飽きず諦めずに子を産み育てることを繰り返してきたことにも、そうか、そうか、そうだったんだな、と何かを発見した少年のように納得してしまう。そして偽りだらけのこの世の中や、周囲の人々にも愛ある眼差しを向けることができるようになった、ような気がしている。

さて、イヤイヤ期という言葉は子どもが生まれる前からよく聞いていた。ただ、初めは私はそのふざけたようなネーミングが嫌で、(それは全ての子どもにやってくるのだろうか、ウチの子に限ってイヤイヤ期などなかった、なんてことがあるのではないだろうか)、と眉に唾をつけて聞いていたのだ。

しかし、それは日が昇って沈むように当たり前にやってきた。魔の2歳児などという言葉もよく聞いたが、魔の2歳はつまりイヤイヤ期な2歳ということのようだ。だから2歳になったら大変だろうと心構えをしていたが、こと子は2歳になる少し前からイヤイヤ期に突入していたのではないか、と振り返って思う。

親の言ってることが次第に分かってきて、言葉や文章を少しずつ真似するようになると同時にこと子に自我が芽生え始めたようだ。それは2歳になる前からだったと思うが、その頃から何か不満があるとギャーギャー泣いて自分をアピールするようになった。

これはイヤイヤ期と呼んでいいのではないか、そんな風に感じさせるほど、その、こと子の泣く姿はいささか執拗で激しかった。今(2歳半)より言葉の表現力が乏しく、自分の不満を親に伝えられないのもあったのだろう。泣き出すとなかなかなだめることが出来なかった。

おかしかったのは、寝る前だったかと思うが、こと子が畳の上に立って激しく泣き出した。イヤーーー、と嘆きながら泣き叫んでいる。私とピーで宥めたり見守ったりしていたのだが、本人は座ったり、バタバタ跳ねたりして泣き止まない。「嫌だ!」という拒否の構えを一向に崩そうとしない。バタバタと身体を振り乱したり、畳を叩いたり、理性にコントロールされたオトナから見ると滑稽に映るが、最終的には右足、左足交互に高く上げて跳ねるようにして、部屋の向こうまでドタバタ行ったかと思うと戻ってきてまた絶望的に畳に突っ伏した。私はこと子のそんな姿に半分呆れながらも、その有り余るエネルギーの放出の様に半分感動した。これはワガママであり、自分を通せない、また表現できない幼児の剥き出しの姿なのだ、と思うと感慨深かった。

最近はイヤイヤ言うのも大体何かしらの不満の背景があって、それを聞き出して取り除いてやるとケロっと機嫌を直すことが多いので少し慣れてきたが、ひとたび「ママがいい〜」で泣き出されると私は無力な父親に早変わり。たまに機転を利かしてこと子のイヤイヤを誤魔化せる時もあるがダメな時はダメでピーさんに登場してもらう。しかし「ママがいいー!」というからピーさんに来てもらっても「ママがいいー」と、もはや口癖のようにそのまま泣き続けることが多いのもイヤイヤ期だからだろうか。

イヤはイヤでも自分ができることを私やピーさんがやろうとして怒る時も多い。クツを履けるの履かせようとして「いやん、自分で!」と言う。ボタンできるのにボタンをつけてあげると「いやん!」といってもう一度外して自分でやり直す。エレベーターに乗って私がボタンを押すと、いやん、とこと子に言われるのが分かってからは抱えて押させてあげる。家に帰って鍵を開けようとすると、こと子が下からいやん、と言う。ピーが「自分で開けたいんだよね」といって鍵を渡してこと子を持ち上げる。こと子は覚束ない手先で鍵を挿して回して開けた。

この手のイヤイヤは自律に向かうイヤイヤなのだろうと思うと微笑ましい。オムツを替えるのも、服を着せるのも、保湿クリームで入浴後ケアするのも、歯を磨いてやるのも、初めは、めんどくせえなぁ、という感じだったが慣れてしまえば何でもない。家事と同じである。いや、家事とは違って終わりがある。それにしても私はこと子が女の子だからなのか、「イヤ」を表現する時にそうなってしまう「いやん」という言い方が、少し腹立たしくも、なんだかんだ好きである。

バンドマンに憧れて 第34話 ハードコア出身の肩書き

26話で当時の音楽的趣味の大きな変遷があったことを綴った。それまでずっと崇めてきたハードコアパンクという音楽自体に次第に飽き始め、ヒップホップやレゲエ、ワールドミュージックを聴き始めるようになった時期のことである。

私は極端な性分なのか、飽きたと思ったら、時々思い出して聴きたくなる、ということもなく、事実上その頃からハードコアパンクはおろかロックやオルタナの類までほとんど聴かなくなってしまった。それでもその頃唯一平行してハマってたロックがニールヤング&クレジーホースで、それはジム・ジャームッシュが撮った『イヤー・オブ・ザ・ホース』という半ドキュメンタリー映画があまりにも面白かったからだ。

私はその映画を何度も観ながらクラッチ、ブレーキーと「同じメンバーでバンドを長く続けること」の美学を確認しあい、身体に染み込ませていった。その美学は、身近なところでは、尊敬していたレスザンTVの人たちが、年齢を気にせずにスカムな音楽や、およそ落ち着きのない音楽をやりたい放題やり続けているのを横目で見ていたことにも影響されていた。いつかオッサンになっても、いつかジジイになっても、たとえ売れても売れてなくても、とにかく長く続けていこう。そういう美学を我々3人は共有していくことになった。

さて、バンドを長く続けるのはいいが、ハードコアパンクに飽き始めた頃の私にはいろいろな問題があった。それらはいずれも今振り返ればすべて取るに足らないことだが、当時の私には1つ1つが悩ましい問題だった。

まず、その頃のライブの半数くらいは馴染みのハードコアパンク界隈のライブで、ということはライブに声をかけてもらうのは嬉しいが、対バンを見るのがシンドい、という問題があった。ハードコアパンク系のライブで、異ジャンルの音は交えずにハードコアならハードコアだけを集める傾向があったのは不思議なことじゃない。その頃は他のジャンルでも同じ音楽性のアーティストが集まるイベントの方が普通だったと思う。以前書いたようにECDやサ上とロ吉のようにパンク界隈のイベントに積極的に出るヒップホップアーティストもいたが、そんなエキサイティングなイベント(2010年頃からは異ジャンルアーティストが集うイベントの方が一般的になった)はまだラディカルな存在だったと思う。

という訳で赤い疑惑は「東京フリーターブリーダー」リリース以降いろんなタイプのイベントに声をかけられるようになったが、そのうち半分くらいを占めていたハードコアまたはパンク系のライブではほとんど「対バンを見ない」という高飛車な態度にならざるを得なかった。これは私に限らず、クラッチもブレーキーもである。

では、ハードコアやパンク系以外のイベントだとどうだったかというと、これは実はパンク系より酷くて、一応リハの時に音の感じを聴いたりして判断していたが、非パンク系で面白いと思えるバンドがほとんどいなかったため、結局対バンの演奏を見ない、という厚顔な判断を下していた。

また、そんな風に周囲のバンドやシーンに馴染めないでいるところに、「自分達はハードコア出身だから(ナメんなよ)」というプライドが頭をもたげていて、私たちは浮いていた(に違いない)。対バンの人とのコミュニケーションでも舐められないように、と思っていたし、自分は曲者であるぜ、ということを仄めかすような態度だったと思う。

ハードコアという音楽には歴然とした思想があり、「オレたちはそういう思想をベースに活動してるんだよ」という信念が私とクラッチの間には暗黙の約束事のようにあった。ちなみにブレーキーはパンクにもハードコアにも特別な思い入れがあった訳ではないので、我々のハードコアへの拘りは理解に苦しんでいる様子だった。どちらかというと「オレはレゲエのリディムを叩きたい」というようなことを漏らしていて私をイラつかせた(私もレゲエの曲を演りたいがどうやって作ればいいのかその時はわからなかった)。

またもう一つの些細な問題は、ハードコアパンクとは、音楽的にはかけ離れたラップやレゲエなどを導入することは、ハードコア界隈パンク界隈の諸先輩方並びに馴染みのバンドから非難の的とならないだろうか、という懸念であった。何という下らない思い込みに私は縛られていたのだろうか。結果的にジャンルを横断した曲調を披露したところで赤い疑惑が界隈の人に青い眼で見られることはなかった。ただの杞憂だったのである。

音楽的な好みとしてパンクやハードコアを聞かなくなったのに、自分たちがそういう音楽を作って演奏して楽しい訳がない。赤い疑惑結成当初は、よりハードコアパンク出身であることを強調しようとしていたが、音楽的趣味の変遷によってそういった拘りに齟齬が生じてきてしまったのだ。その葛藤の中で生まれたのが「東京フリーターブリーダー」で、このアルバムのリリースで、先にも書いたように我々の活動範囲は劇的に広がった。それまでハードコアやパンクの界隈の人達を中心に面白がられていただけだったのが、もう少し幅広い層のお客さんに評価してもらえるようになっていった。

その頃抱えてたハードコア由来の悩みがもう一つあった。それは、売れたいかどうか、という問題であった。

ハードコアパンクはDIYじゃないとあり得ない。だから商業的成功というのはハードコアパンクと対極的なものなのである。私はジュンスカイウォーカーズを見てバンドマンになりたい、と目覚めた訳で、その時出来上がった私の将来のビジョンはバンドマン、ロックスターであり、それを仕事に生きていることだったのである。

それが、いつの間にかパンクにハマり、ハードコアにハマり、インディーズやアンダーグラウンドの美学に開眼してしまった。それでいて「将来は売れてるだろう」という根拠のないビジョンが同居していくのである。コアでいて人気がある、そういう都合のよいイメージの中に赤い疑惑は活路を見ようとしていた。

しかし、仲良くしていたパンク、ハードコア系のバンドや先輩たちからは、私のように「もっと売れたい」という俗っ気がほとんど感じられなかったし、実際そうだったのだと思うが、そういう空気の中で私は「売れたい」という欲望から逃れられないことを後ろめたく思ったりしていた。だから杞憂であるのにその頃の私はハードコアパンクの呪縛に囚われているかのように錯覚していたのかもしれない。

今振り返ると、そんな風にハードコア出身であることにこだわっていたことが懐かしくも可笑しくも思えるが、音楽の趣味なんて押し付けられるものではないし、感覚的なもので、ジャンルそのものに飽きてしまったら、その時にときめく音楽に純粋にアプローチすればよいと思う。「東京フリーターブリーダー」リリース以降は、ではどうすればレゲエやワールドミュージックの要素を3ピースのロックバンド形態に落とし込めるだろうか、という試行錯誤の繰り返しとなった。ただ、ハードコアの思想的な部分はそれから現在に至るまで私の芯にこびりついているような気がするのである。

アクセルの意気地記 第21話 アイドルと赤い疑惑

こと子がアイフォンの動画の虜になっていることは既に書いたと思うが、数ヶ月前から毎回、執拗に、とにかく繰り返し観ている動画がある。観ているというか、観ながら携帯を畳の上に置いて立ち上がり、その動画に合わせて身体をクネクネさせている。

これは、数ヶ月前にとあるイベントで観たあヴぁんだんどというインディーアイドルユニットの唄とダンスの1部を撮ったものである。子ども向けのイベントだったので沢山の幼児に紛れてこと子も真近でその一部始終を観ていたのであるが、その時はアイドルの動きに合わせ、多少身体を動かしたりしていたものの興奮しているというより、目を奪われて呆然としている風に私には見えていた。

初めてアイドルのパフォーマンス接したこと子の、魂抜き取られたような感じが面白かったので、その時は私だけでなくピーさんもケータイ動画を撮っていた。だから、後になってこと子が私の携帯を見る時も、ピーさんの携帯を見る時もあヴぁんだんどの動画が入っているので、こと子は半ば中毒のようにその動画を見続け、気がつけば彼女たちの振り付けを、必死に、とはいえ完成度は低いが、とにかく真似して踊るようにまでなってしまった。

私はバンドの唄でも幾度か歌っているくらいアイドルというのが苦手である。いや、アイドルそのものが苦手というより、むしろどちらかというとアイドルに熱狂してしまう大衆心理のようなものが嫌いなのかもしれない。そもそもアイドルが好きで夢中で追いかけてます、という男性や女性がマジョリティーではないことはわかっているが、それでもアイドルブームは歴然としてあるのである。ここ10年くらいは赤い疑惑が出入りしているインディーズライブ界隈にも雨後の筍のごとくアイドルグループが対バンに入ってくるということが当たり前になったりしていた。それくらいの盛り上がりは実際にあって、主にライブハウスで地道に活動するアイドルは地下アイドルと呼ばれているらしい。

それでアイドル嫌いな私も、(なるほど、アイドルと一口にいっても色んなタイプがあるんだなぁ)、と呑気に感心したりしていた訳だが、それでも私のアイドルへのイメージが向上した訳ではなかった。アイドルブームは今説明したインディーズ(地下アイドル)に波が来ているのかのように感じていたが、メジャーを見渡せば見渡したでこれまたAKBを筆頭に数え切れないくらいのアイドルグループが(しかもAKBスタイルの大所帯アイドルばかりが)ウヨウヨするようになっていて、私は余計に日本国民のアイドル信仰ぶりに頭が痛くなるのである。

震災以降、無茶苦茶を繰り返している政府に憤っている私は、アイドルに夢中になっている間に政府が好き放題やってるじゃないか、とアイドル現象を政治無関心の象徴のように判じてみたが、よく考えてみたら、特別アイドルではなくてもテレビやスポーツや、その他雑多な個人的関心ごとに夢中になっているために政治に無関心になってる人は幾らでもいるだろうから、アイドルブームだけを責めるのはお門違いなのかもと思い直した(と同時に制服向上委員会というアイドルが原発反対運動に参加していたことや、自分の音楽的覚醒の端緒が光GENJIであったことなどを思い出す…)。

そんな私のアイドル嫌いに以前、部長という友人が「アイドル崇拝は遡れば卑弥呼から長い歴史があるからね〜」と冗談なのか何なのか分からないことを言ってきたので、それで煙に巻かれた気がし、以来私はアイドル崇拝の善悪は棚上げしたままほったらかしている。

私のアイドル感などどうでもいいのであるが、こと子は動画を観ながら踊りだすと、私がいれば必ず「トト、見て〜!」と私を呼ぶことになっている。誰かに見てもらえないとアイドルは完結しないのである。私は、すごいねー、などと言いながら呆れていて、本当はその動画の音声が聴こえるだけで何だか白けて嫌だなぁ、などと最初は思っていたのだ。しかるに、あまりの熱中ぶりに、こと子のこの楽しそうな表情は、あヴぁんだんどのおかげだな、などとちょっと見直していた。そんなある日、ダンスのキメの部分で両手の人差し指で相方(あヴぁんだんどは2人組である)を可愛く指差すくだりがあるのだが、「トト見て〜!」で顔を上げた私の視線にこと子の指差しがばっちりハマって私は恋する男子のように射抜かれてしまったのである。

私はここへきてうかつにも、なるほどアイドルもバカにできないものかも、と思い始めたのであるが、ちょっとよく考えてみたら、赤い疑惑というのもアイドルみたいなものの遠からずではないか、とも思い始めるのである。それを証明するかのように、こと子があヴぁんだんど動画の熱中からほどなくして、今度は赤い疑惑の演奏動画を、あゔぁんだんど動画と併せて夢中で観るようになっていたのである。

その動画は、立川の砂川という場所で毎年秋に行われている、砂川まつりという市民まつりに昨秋赤い疑惑が出た際のもので、会場は屋外、雑木林の中の小さな公園といった感じで、天気もよくピースフルな空気に満たされたとてもいいライブ動画なのである。演奏しているのはレゲエ調のアンチキャピタルロックンロールという、資本主義社会の暴走を憂えた左寄りの内容なのだが、繰り返しその動画を観ていたこと子は、気づいたらその歌詞をなぞって歌うようにまでなっていたのである。

私のハートはためらいがちに歓喜した。それは、自分の唄が小さな子どもでも真似したくなるような魅力を秘めていたことがわかったから、などいろんな意味からであるが、歌詞の意味を知らずに「ケンリョクニハキッパリトノー!」とかわいい声で我が娘にコブシを挙げられた日には痛快な気分にならざるを得なかった。

その動画よりも以前にこと子はピーさんに連れられて赤い疑惑のライブを既に2、3回は目撃していた。昨年行ったCD発売記念のイベントもその内の1つだ。私はこと子が生まれてからほとんどバンド活動をやれていないので、レコ発前の時期は自宅で繰り返しギターと歌の練習をしていた。

自宅で唄の練習といっても実際に歌うわけではない。自宅で歌を歌う気になるのは1人の昼下がりくらいだが、1人で昼下がり家にいるなんてことは最近ほとんどない。なのでほとんどは家族がそばにいる状況の中、口パクでやるのである。歌詞をおさらいすることと、ギターを弾きながら詩を思い出すくらいの練習なのである。

家族を持った、具体的には手のかかる幼児を抱える貧乏ミュージシャン達は皆どうやって練習しているのか。私が周りの友人に聞いた統計だとほとんどが妻子の寝た後のキッチンだというのである。これは実は私も同じなのである。だから私はこれをキッチンロックと呼んでいる。

そういう訳で、その時はまだ妻子が起きていた状況だったが、私がキッチンに立ってエレキギターを掻きむしっていたら、こと子がそれをあざとく見つけた。そしてなんと私の部屋に落ちていた、洗濯して仕舞う前の状態だったステージ衣装のハチマキを拾って私に持ってきたのである。そして、これして、これして、と畳みかけてきた。今はライブちゃうんやでー、と豪快に突っ込みを入れたくなったがその健気な娘の姿に私は泣き崩れる寸前だった。

とうちゃん、本気の時はこれ巻かないと、という訳である。その時、こと子はもう既にライブというかコンサートというか、お客さんがいて、演奏する人がいて、そして父はギターを弾いて歌う人で、ということを理解し始めているのだ、と思った。私はこと子の夢を裏切らないようにその時はこと子から受け取ったハチマキを額に結んで練習した。

また、それ以外でも、私の部屋の押入れが開いていて、その上段の衣装ハンガーにかかっている、私が赤い疑惑のライブの時に羽織っている南米風柄の派手なシャツをこと子が見つけると、「あー、ととのかっこいいだよー」と言うようになったのである。それがステージ衣装であることを記憶してくれているのも嬉しいが、何故かそのステージ衣装含め赤い疑惑のステージを「かっこいい」という言葉で表現するのを聞いて私はまた泣き崩れそうになるのである。

何しろ、こと子が生まれる直前、いろいろテンパっていた私は、(もうバンドなんて辞めてしまおうか…)などとヤケクソ気味の諦念に取り憑かれていたのである。今カミさんのお腹の中にいる娘が大きくなった時、父親が赤い疑惑なぞという暗いバンドをやっている、なんてことに劣等感を抱いたりしないだろうか、などという杞憂に取り憑かれ、半ば本気で悩んだりしていたのだ。だから、まだ年端のいかぬ幼児とはいえ、こと子が父のバンド活動を、かっこいい何か、とカテゴリーしてくれたのには本当に励まされた。

いずれ物心がついて私の披露している音楽に違和感や嫌悪感を抱くかもしれなくても、もはや私は気にしないだろう。幼児の頃に一瞬でも赤い疑惑かっこいいと思ってくれたなら他に望むことはない。あヴぁんだんどと並列でこと子のアイドルとして一瞬でも貢献できたならなんて素敵なことだろう。何しろこれを書いている間にもこと子は前ほどあヴぁんだんどではなくなってきているのである。幼児の移り気は秋の空。赤い疑惑がいつソッポを向かれようとももう私は平気である。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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