アクセルの意気地記 第16話 こと子2歳になる

こと子は先日2歳になった。生まれてからこれまでの時間を10回繰り返したらもう20歳になると思うと恐ろしい。

ともあれ、こと子の身体は単純に生まれた時の2倍くらいの大きさになっている気がする。ピーさんとの間にちょこんと寝ていた時の大きさを思い出すとほぼ倍になってしまったようだ。

大きくなってくれて嬉しいが、大きくなってくれたおかげで私やピーが寝るスペースが徐々に削られていくのはなかなか恐ろしい。そのうち布団を分けなければならなくなるんだろうが、今のところ2枚の敷布団に川の字で寝ている。

川の字で寝る家族を私はどこかで憧れていたようなところがあって、これは未だに面白い。赤ちゃんの頃は赤ちゃん専用の布団に乗せて私とピーの布団がその両脇に並んでいたのだが、部屋も狭いし、こと子が人間らしくなって、もう親の寝返りくらいじゃ潰れないようになってからは、また赤ちゃん専用の布団を退けて私とピーの並べた布団にどうにかして3人で寝るようになった。

何が面白いのかよく分からないけど、1番最後に寝る私が寝室に入ると、こと子が真横になっていることがよくあって、私はどの隙間に寝ようかな、と思う。この辺が面白いような気がするのだが、あまりに酷い時はこと子の背中と首あたりにサッと手を差し込んで持ち上げ、すかさず川の字になるようにこと子を動かし、そして寝る。先日は私が寝る時には川の字が三の字になっていて、というか、私が最後の線になって三が完成するのであるが、それも面白い。そもそも三の字も違う方向から見たら川の字になってしまうのも面白い。

川とか三とかになっていれば平和であるが、ちょっと前までこと子の寝相は奔放で、気づくと布団からはみ出ていることがしょっちゅうだった。だから川にも三にもならないことがほとんどだったが、当のこと子はまるで確固たる意志のもと布団からはみ出ているように見えるので可笑しかった。

我が家は畳なので布団からはみ出て、畳に頭を擦り付けるようにして寝てることが多かったが、それが気持ちいいのだろうか。布団と押入れの間の狭い空間に落ち込んで寝てることもよくあった。整体的観点では幼児は寝相が悪いのが普通で、どんどん上へ上へ、要するに枕の方に向かって登っていくのは健康の証だそうで、私はそういうことを知っていたから何の心配もしないが、あまりにはみ出て哀れな時は、またサッと手を入れてこと子を布団に戻した。

そんなこんなで大きくなっていくこと子には最近流行りの遊びがいくつかあって、一緒に遊ぶ時は大体それらのパターンを繰り返すのである。その内の1つがブランである。これはこと子がそう命名したので私も同様にそう呼んでいるが、ブランブランとぶら下がるからブランである。

そもそもの始まりは近所の小さな公園にある鉄棒だったと私は睨んでいる。近所の公園の隅に3段に高さが異なる鉄棒があって、こと子を遊びに行かせると、ブランコ、滑り台と順に遊具で戯れ、最後に鉄棒のところへ向かう。初めは1番低い鉄棒でも手が届かなかったこと子だが、最近ようやく棒を掴めるようになった。そうすると、当然ぶら下がることになるのだが、こと子の場合、このぶら下がる行為に恐らく他の子ども以上にアツい何かを感じたらしく、以来この公園に来ると張り切って鉄棒にぶら下がりに行くことになり、ブランする〜、と言いながら実に楽しそうだ。

このブランは鉄棒を契機に、街中のあらゆるぶら下がれそうな高さの手すりなどに応用されるようになった。駅近のショッピングモールの階段の手すりや、駅の階段やエスカレーターの手すりを見つけると駆け寄ってぶら下がる。ぶら下がっている間は自由になった両の足を揃え、腹筋を使って前方に持ち上げてみせたり、大腿筋を使って後ろに反らせてみたり、体操選手のように自分の身体を試して遊んでいる。

何でこと子はぶら下がりにこれほど夢中になるのだろう、と考えていたら変なことを思い出した。私が小学生の頃のことだが、近所の市民グラウンドでスポーツ大会があり、私はおよそスポーツ大会のような類は嫌いなのだが、どうしてか、その時は参加していて、競技としては大変地味なぶら下がりに挑戦した。その時はどうにか出来るだけぶら下がってみたに過ぎないのだが、後で私の記録がその大会で1番になったのだ。

後にも先にもスポーツに類することで抜きん出た結果を残したのはこの時だけで、私は運動音痴で、短距離に関していえば学年でお尻を争う方だったし、陸上系のスピードを要するものは特に苦手で競わされるのは苦痛だった。球技や身体を動かすことはそれなりに好きだったのに、競わされることで私は体育が嫌いだ。

脱線したが、こと子のぶら下がり好きは私のぶら下がり実績と何か関係があるのかもしれない、と思っただけでそれ以上のことはない。ただスポーツ大会のぶら下がりで優勝したことをふと思い出したことが可笑しい。

また手すりがなくても、私に「ブランする〜」と言って万歳してくることがあるが、これは手を握ってこと子を持ち上げればいいのだ。よいしょー、よいしょーと、大体3回くらい繰り返すと私の上腕筋がどうかしてくるので、「もう疲れたよ!」とわざとらしく私はこと子に弱音を垂れる。

すると今度はこと子が手を引っ張ったまま後ろに倒れようとする。ともすると後頭部が地面につくくらいまで後ろに倒れる。腕を引っ張ってそれを支えてる私は倒れたこと子を引っ張り上げて元の立ち位置まで起き上がらせる。これが楽しいらしく、また後ろに倒れようとする。これを何回も繰り返すのだが、今度はヘルニア歴のある貧弱な私の腰が悲鳴をあげるので私は何回かやったら「もうダメだ〜」と逃げ出す。

ブランの他にこと子が最近ハマっているのがアルルである。ブランにしてもアルルにしても言葉の響きがいかにも幼児らしくて可愛い。

アルルは、男女が一緒に踊る時、男性が優しく掴んだ女性の手を挙げてクルっと回すヤツなんだけど、何ていうのかね。呼び方もルーツも分からないけどみんな知ってるあれね。こと子がそれをどこで覚えたかというと、数ヶ月前に連れて行った、父の友人が経営するメキシコ料理屋。そこではディナーに合わせてマリアチ楽団が、陽気で優雅なメキシコ民謡を披露することになってて、その演奏中に興が乗った客席の外国人カップルが立ち上がって急に踊り出した。

こと子は音楽に合わせてよく身体を動かすのだけど、その時も身体を動かしながら、こと子の視線はそのカップルの踊りに釘付けになってた。楽しそうに見てるな、と思ってたけど、たまたまそれを携帯でピーが撮影してたので、後になってこと子がその動画を選んで何度も見てた。何でアルルと言いだしたのか、恐らくその演奏か歌か、はたまたそのカップルの奇声だったのか、こと子にはアルルーという響きが一緒に記憶されたんだろう。

そういう経緯で「アルルする〜」と手を挙げてこと子が近寄ってくると私はこと子の両手を取り(こと子バージョンは両手を繋ぐ)、そのままクルッと右に回したり左に回したりしてやる。されるがまま回ること子はキャッキャと声を上げて喜んでいる。
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バンドマンに憧れて 第28話 フリースタイルラップあるいは即興

私にヒップホップを教えてくれた友人のDは、私やクラッチがラップに興味を示し始めたのを察知すると、私達の前で自分で書いた詩をラップするようになっていた。インストの曲をステレオから流して彼は自作のリリックをビートに合わせてラップした。彼は読書家でボキャブラリーも多く、言葉選びのセンスもよかったので、私達は感心した。CDで漠然と聞くラップと違い、目の前の友達が書いた詩がその場でヒップホップになったので、おお、これがヒップホップかあ、と興奮した。そして私は一計を案じ、Dのラップを赤い疑惑の3人で伴奏する、ということにトライすることになった。

本場アメリカでは生バンドでラップするthe rootsというグループがいることもその時には知っていたので、これはかなりクールなことになるんじゃないか、と何度かスタジオに入った。しかしながらDはその後ラップを辞めてしまった。自分は表現者にはなれない、ということを言い残してラップを辞めてしまったのだ。詩がよかっただけに残念だったが、そのことをきっかけに今度は私もラップに挑戦してみようと思い始めたのだ。

頭韻、脚韻、頭やお尻やとにかくリズムに合わせた一定の箇所で母音を揃えればラップになる。私の感覚では、オヤジが家族の中でウケ狙いでかますサムい駄洒落と、韻を踏むのが本丸であるラップは大して違わなかった。ラップの場合重要なのはその駄洒落を音楽の中に落とし込むタイミングに尽きた。上手い下手は分からないが私はDとフリースタイルごっこのようなことをして遊んだりするようになっていた。

フリースタイルというのを知ったのもMSCや降神を教えてもらうのと同時だった。即興で、その時の思いつきでラップを組み立てていく、素人から見れば曲芸のようなものだが、これを仲間と集まって輪になってやるのがサイファーで、相手を決めてラップで対決するのがMCバトル、ということも同時に知った。今ではこのサイファーもMCバトルも市民権を得て高校生や中学生にも広まっているのは驚きである。あの頃はまだヒップホップは若干マニアックな音楽の一ジャンルだったのに。

丁度その頃、アメリカ映画の「フリースタイル」という、ヒップホップのフリースタイルにフォーカスをあてた作品が日本で上映されていて、私とクラッチはブリブリになって観に行ったものだ。映画に出てきた本場のMCバトルがかっこよすぎて、映画を見終わった後クラッチと2人で、これからはコレだな、とか言い合って、クラッチも珍しく興奮して、オレもフリースタイルやるよ、と私に宣言したりして…。

クラッチのフリースタイルはその後すぐに封印されることになったが、私はこのフリースタイル、いわゆる即興の世界に非常にインスパイアされた。とはいえヒップホップに縁がなかった私にサイファーをする友人が他にいたわけではなく、いつも通勤の往き帰りとか、当時勤めていたバイト先の配送のドライブ中なんかにフリースタイルラップの練習をしていた。

実は即興に興味を持った経緯には下地があった。学生時代に仲良くしてもらった鉄割アルバトロスケットのパンクユニットのライブに、赤い疑惑の前身バンドGUTSPOSEが呼ばれたことがあった。その時対バンで出ていたバンドが、素晴らしく美しい大人の音楽を演奏していて、私はそのバンドでギターを弾いていた小沢あきさんに心酔してしまった。

小沢あきさんのギターはクラシック、ジャズ、フラメンコ、現代音楽なんかを通過していて、即興でどんな音楽にも瞬時に伴奏をつけられるようなテクニックを伴っていた。しかもあきさんが演奏していたのはクラシックギターで、私の父が家で弾いていたものと同じ、ナイロン弦のギターで響きが懐かしく、丸くて気持ちよかった。一方対バンで出たGUTSPOSEはローファイパンクだったので私は何となく恥ずかしかったのだが、我々の演奏を当の小沢あきさんがエラく気に入ってくださったのだ。演奏が終わった私にあきさんは「お前らの曲、オリジナルなんだよな?」と質した。私が首肯すると、あきさんは私の手を強く握ってくれたのだった。

それ以来私はあきさんのギターのファンになり、あきさんの参加しているアフロオーケストラのようなバンドや、ソロや、即興のライブに足繁く通った。私はあきさんにギターを教えてもらったのではないが、あきさんのギターを聴き続けていれば即興ギター演奏ができるようになるんじゃないかと思い込んでいた。しかし、絶対音感もない、その上ある程度に音痴で、しかもギターの練習が嫌い、という私に即興演奏の道は険しく、結局諦めてしまった。

たまに、あきさんの即興音楽仲間の飲み会に呼んでもらって遊びに行ったこともあった。集まっているミュージシャンの中には音楽で喰っている敏腕の人もいたし、かなり世代が上の人も多く、彼女や奥さんも集まってきていた。その雰囲気は、野郎ばかりでいつも集まって飲んだり吸ったりしてダベっていた私の交流とは次元の違う温かさがあった。

そういう席で、依頼仕事に柔軟に対応できる人や、それが嫌でできない人、楽器がバカみたいに上手くても、喰える人、喰えない人がいる現実を知ったし、「いいよな、お前は演奏でメシが喰えてんだから」と僻みなのか嫌味なのか冗談なのか、そういう会話があったりして、「音楽で喰えること」を至上の目標としていた当時の私には刺激が大きかった。

また、ある時、私は酒の席であきさんに悩みを打ち明けたことがあった。私がやっている赤い疑惑に関して、自分はバイトでチャンスを掴むまで頑張るつもりだが、メンバーをその道連れにしていいのだろうか、という弱気で情けない相談だ。私は根拠のない自信で、いつか音楽でどうにかできるようになるだろう、と考えていたが、もしそれがうまく行かなかった場合、メンバーの人生はどうなんだろう…。

バイトでバンドをやっているのは楽しさとスリルが伴うことだが、そのまま歳を重ねていって音楽による報酬がなかった時、メンバーの人生を保障するものは何もない、ということも私は分かっていた。しかし、そんなことを心配していても解決策などない。怖いならバンドをやめればいいだけだ。あきさんもそんな相談をされて困ったことだろう。ただ、私は音楽で喰う喰わない問題が、身近にシリアスな問題として存在しているようだったあきさんに、その辺のことを聞いてもらいたかっただけだったと思う。

いくら音楽が死ぬほど好きでも、ミュージシャンシップの違いで喰えるか喰えないかは変わってくる…。その中でも小沢あきさんは拘りが強く、金銭よりも自分の音楽をひたすら追い求めているピュアさに溢れていて私はそんなあきさんの姿にかっこよさを見出していた。

あきさん周りの飲み会で、みんなで酒を飲んで興が乗ってくると、楽器を持つ人、太鼓やらその辺のものを叩く人が出てきて、俄かに即興大演奏会が始まる。私も何か叩いたりして混ざっていたが、こんな時に自分も存在感のある即興ができればいいのに、と密かに考えて、地団駄踏んでいた。

そんな時に出会ったのがフリースタイルラップだった。これなら自分の個性を生かせる即興ができるのかもしれない、と考えていた。

その頃、MSCが始めたMCバトルがヒップホップ界隈で注目を集め始めていた。私がラップを始めたことを知った友人が、MCバトルへの挑戦を薦めてくれたこともあったが、大して自信もなかったし、逡巡して結局やらなかった。しかし、その後しばらくライブMCの時、気分次第でフリースタイルラップに挑戦することは何度もあった。韻が踏めなくて噛んでしまうことばかりだったが、予定調和じゃないスリルが生まれて面白かった。

結局、現在に至るまでフリースタイルラップをやり続けたわけでもなく、ヒップホップを聴き続けたわけでもないのだが、この時期にラップの練習をした経験は後にワールドミュージックのDJ業をやり出した頃に、手持ち無沙汰でやり始めたDJのサイドMCの時なんかにも生かされた。何の生産性も残さない無駄な努力は多いものだが、気づいたら武器になっていた、という努力も必ず存在する。ラップは私にとって無駄にならなかった努力であり遊びのひとつである。

アクセルの意気地記 第15話 ママがいい〜

幾つになるまでお父さんとお風呂に入るのか。これは、今まで聞いたことある友人知人からの情報によると大分まちまちだ。男の子なのか女の子なのかでも勿論違ってくるだろう。

乳児期の入浴をパパがやるのは近年の育児の傾向らしく、乳飲児の時期に父親が活躍できる数少ない舞台である。これが私のオヤジの世代だと大分事情が違ったようで、その世代の父親達は、お風呂はおろかオムツを替えたことがない人も結構いるらしい。私の父などは私が誕生した瞬間、仲間と麻雀して報せを待っていたというから吃驚。

赤ちゃんの入浴なんてのは勿論初体験の所業。初めのうちは耳の裏やら、下肢とお股の間のやら、テキトーにやってたら、もうちょっとちゃんと洗ってよ、垢がたまってるよ、と注文が入った。

ちょっとの垢ぐらいいいじゃん、と思ってどれどれよく見ると、なるほど耳の裏など、皮脂が固まってガジガジになっている。これは可哀想だ。

突っ込まれることの無いように私は日毎に娘の入浴スキルを上げていき、耳の裏もシワの間も満遍なく洗えるようになっていった。湯で温まるのは乳児も気持ちがいいらしく、眠い時以外は大人しくしてるうちに業務が終わる。

イヤイヤ期というのがあって、私はそういう世間的、普遍的な常識を初めは疑ってしまう面倒な癖があり、イヤイヤ期というのも個人差でウチの子もそんなのがやってくるんだろうか、と半分眉に唾をつけていたのだが、1歳半くらいから、コレがイヤイヤ期か〜、というあからさまな娘のダダっこ兆候を突きつけられて反省した。

「ママがいい〜!」というのが口癖となり、何か本人の思うようにならないとすぐにこの台詞と共に泣き喚く。このイヤイヤ振る舞いはお風呂の時にもいかんなく発揮されるようになり、遂に私が風呂に入れるのをも拒絶するようになり、しばらくはピーさんがお風呂係に入れ替わった。

風呂から引き上げる係りは、身体を拭いてやり、オムツを履かせ、寝間着を着せてドライヤーで髪を乾かしてやればよい、というのが通常なんだろうが、こと子は関節の裏などにアトピーのような肌荒れを起こすようになったので、皮膚科でもらったクリームと、薬局で買うアトピークリームと、ネットで買った保湿クリームを塗ることをピーさんが励行するようになってしまっていた。

私も小さい頃はアトピー性皮膚炎に悩まされ、腕や脚の関節が赤くただれ、掻くと汁が出て辛かった。皮膚科に通い薬を塗ったりして、いつしか小学生くらいにはそのような肌荒れは自然となくなっていったのだが、実の娘も同じような症状を発症したので心が痛い。

しかし、そんな、3種類もクリームを塗るの?と風呂引き上げ係りに就任した私は最初戸惑った。自分も乾燥肌で冬場は特にカサカサしてきて、仕事柄、指の先が割れたりするので自衛のためにクリームを塗ることはある。しかし、身体全体に3種類も!と最初は不平を垂れたりしたが、ピーさんの女性視点のケアは侮れず、実際そのクリーム攻撃のおかげでこと子の関節付近は、酷い状態にまでは悪化せず、子供らしいツルスベ感を維持できているようなのだ。

私は、そうだよな、女の子だもん、とかそういうことで考えを改め、真面目にクリーム塗り塗りを遂行するようになった。やると決めたら私もマメな性質で塗り漏れがないように丁寧な仕事を心がけ、そうすると初めは嫌だった面倒ごとがただのルーティーンとなり、皿洗いや掃除と同じで苦痛にならなくなる。皿洗いや掃除と違って我が娘相手だからそのうち心もこもってくる。

ある日実家に遊びに行って晩飯を父と喰い、実家の風呂に入らせてもらった時、いつも通り出てきたこと子の身体中にクリームを塗りたくっていると、父が怪訝そうな、若干蔑みの表情を伴って、「何だそれは?」と言うのだ。私は、往時はオムツもまともに替えなかっただろう父のその視線に腹が立ち憮然と、クリームだよ、保湿の!と大きい声を出した。かの世代の、子育ては家内に任せてるから、というあの世代の父親達には、この私の気持ちは到底伝わらないだろうと思い、それ以上何も言わなかった。

さて、口癖の「ママがいい〜」と泣かれると私の思考回路は停止し、もう全部諦める。言われ始めは多少傷ついたがすぐに慣れてしまい、ハイハイ、と受け流し、必要な時は泣き喚かれながらも抱っこしたりあやしたり、最終的にママのところに運んだり…。それでピーさんが抱っこすることになっても、泣き止む場合もあれば泣き止まず「ママがいい〜!」と泣き叫び続けることもあり、それを見るにつけ、ママがいい〜、というのも決まり文句なだけで、ママが抱いてもイヤイヤは簡単に収まらないらしいのがイヤイヤ期なんだろう、と結論づけた。

ただ、成長は早いもので身体も生まれた時の2倍くらいにはデカくなったし、イヤイヤで泣き喚くシーンを除いたら、泣いて私やピーを手こずらせる時間は明らかに少なくなって、おしゃべりもかなり上手になってきたので育児の楽しさはうなぎ登り。

子供が2歳、3歳になると喋り出して一気に育児が楽しくなりますよ、という知人の言葉を聞いた時、そうですか、と同意しながらも、心の中ではいやいや、0歳でも1歳でもオレは楽しんでるけどね、と強がっていた。ところが、なるほど、なるほど、喋り出して短いながらも会話が成立するようになった瞬間のトキメキは忘れ難い。これからどんどんいろんな事を覚えて私を困らせるようなことを次から次へと言い出すのだろう、という予感もなくはないが、今がいいんだ今が。今がいい〜!

バンドマンに憧れて 第27話 ステージ衣装とお囃子

デモCD-R「東京サバンナ」をリリースし、ロックや、パンクHCに飽き始め、レゲエ、ヒップホップ、アフリカ音楽にハマり始めた頃は赤い疑惑の黎明期である。オンボロのアクセル、クラッチ、ブレーキーが搭載された車が、長い長い長ーい道のりを走り始めたわけだ。ライブの時ステージで着ている衣装も、ステージに上がるまでのお囃子も、我々はこの頃から既に義務づけていた。

ライブ衣装を取り入れたのは、間抜けな芸名をつけたのと同様、どれだけ本気で「バカ」なことをやっているかをアピールしたかったためだ。私はパンクHCになる前から、そもそも人と同じことをしちゃダメだ、という思い込みが異常に強かった。だから当時流行っていたような、バンドマンはステージでも普段着で、という隣のあんちゃんスタイルは却下だった。だからと言ってスーツで気取ったり、何かジャンルのスタイルを彷彿とさせるような衣装も絶対嫌だった。

そこで捻り出した私のステージ衣装のルーツはやはり赤い疑惑結成の少し前に体験した東南アジア旅行だった。私は2度も通ったベトナムのシクロ(ベトナムの自転車タクシー)の運ちゃんが大好きだった。不真面目で客がいないと退屈そうにその辺の屋台で油を売り、旅行者が来ればカモにして運賃をふっかける。ところが当時の私のように大した目的もなく、日々街をブラブラしてる貧乏旅行者は、いい暇潰し相手だと思ったのか、やたら気さくに接してくれて、大概がみんな愛すべきオッサンばかりだった。

シクロのオッサン達が外国人をカモるのは生きるためである。私は何度か東南アジアに行くうちにそういうことがわかって、ボッタクられても気にしないことにした。とまあ、そんな風にして仲良くなったあるシクロの運ちゃんが履いてたズボンを、私が気に入ってしまい、「そのズボンかっこいいね」なんて言ったら、「かっこいいだろ、これ、ベトナム軍のズボンなんだ。お店じゃ手に入らないヤツだ。気に入ったなら10ドルで譲ってやるよ」と言い出した。

ベトナム軍?確かにアーミーらしいカーキ系統の緑の化繊で、ズボンの脇縫い線が赤で縁取られている感じは確かに軍隊っぽい…。しかし10ドルのズボンなんてのは当時のベトナムじゃ考えられないくらい高額だったので憮然としたが、私はどうしても欲しくなってしまっていたし、エピソードとしても悪くないので値切らずに買うことにした。

すると、ちょっと待ってろ、着替えてくるから、とオッサンは消え、数十分後に別のズボンを履いて戻ってきた。ニヤニヤしながら「オレが売ったってこと内緒な」と勿体つけた。私はこれをステージ衣装にしようとある時から決めていた。そして、どうせなら上半身もベトナムのシクロ運ちゃん仕様にしたい、と思いボタンダウンのシャツの、ボタンを留めずに羽織るベトナムのオッサン風を正式衣装として導入することに決めた。ベトナムに限らず東南アジアに行くとこのシャツはだけスタイルはかなりポピュラーで、だらしない感じが何とも言えずいいんだよね。

さらに、私はベトナムの少数民族の村に行った時に、可愛い子供達から売りつけられた綺麗な刺繍の紐を頭に巻くことにした。何で巻くことにしたのか分からないが、単純に気合が入るし、スターっぽくなれるんじゃないかと思ったのだろう。後々、ジミヘンの真似ですか、と何度も言われたがそういう設定ではなかったのだ。

ちなみに私がステージ衣装に変身する時に眼鏡を取るのには特別なエピソードはなく、ただ変身するのだから眼鏡を外してしまおう、くらいのことだった。眼鏡を外すと視界がボヤけるので、ライブで非現実性を味わうのにも丁度良い。それくらいのことだ。

さて、ステージ衣装のスタイルに関して、クラッチもブレーキーも何も抵抗を示さなかったのは、変な芸名をつけた時に抵抗を示さなかったのと同じくらい不思議であるが、メンバーはむしろ面白がっていた。どうせやるなら、とか言って私のエンターテイメント志向に乗っかってきた。

この傾向は更に、ステージに上がるまでに我々がずーっと行っている入場お囃子に関しても同様で、クラッチもブレーキーもこの謎の行進を楽しんでいる。このお囃子のルーツは、大学の時世話になった鉄割や、その鉄割に教えてもらった渋さ知らズ、そしてレスザンTVと同じくらい尊敬していたキクチレコードの漁港というバンドの存在、それに加えて南アフリカのンブーベという南ア版ゴスペルにある。

私はパンクバンドでありながら、出来うる限りエンターテイメント要素を大事にしたいと強く意識していた。だからライブの中に芝居染みた要素やハプニング的な要素が介在するのが面白いと思っていた。渋さ知らズも漁港も、マニアックなVHSで見た南アのンブーベのチームも、ステージに上がるまでにお客さんと同じフロアでパフォーマンスすることで客の心を簡単に掴んでいた。私はこの要素を自分達なりにローファイに遂行すれば絶対ウケるはずだ、という確信を持っていた。

結果的にこのステージ衣装計画も入場お囃子計画も、その後の赤い疑惑ライブを支える重要な要素となった。我々は出番が近づくと楽屋に集合し、曲順を確認して衣装に着替える。クラッチとブレーキーはボタンダウンのシャツを持参して胸をはだける。私は更にズボンを履き替えて鉢巻を巻く。そして手拍子を3人で打ち始めて歌を歌ったりラップしながらフロアーへ出て行く。

これが一連のルーティーンとなった。これをやることで実際気合も入るし、お客さんの注意を確実に集めることができるのである。しかし、10年前くらいのとあるライブで1度だけこの着替えで可笑しさがこみ上げて仕方なくなったことがある。

対バンで出ていたバンドに、いかにもヒッピー風なパーカッショニストがいて、彼が楽屋で堂々とウィードを巻き始めた。私はソワソワしながら物欲しそうな視線を送っていたので、彼に伝わったのか、巻いたものを私にも回してきてくれた。しかし、それがどうやらただのウィードじゃなかったらしく、私はすっかり、過剰に出来上がってしまった。

視界が軽く波打ち、楽屋内の話し声も自分の声も全てがサラウンドで響いてきて様子が違って可笑しい。そして後からクラッチとブレーキーが楽屋にやってきていつも通りシャツを脱ぎ始めるのだ。クラッチの腹はビール腹でだらしなく膨らみ、高校時代のスマートさは見る影もない。ブレーキーの胸には立派な胸毛が踊っている。それを過度な変性意識の中で目の当たりにした私は吹き出しそうになってしまった。何でこんなダサくて恥ずかしいことをメンバーは何の疑問もなくやってるんだろうか…。考えた末、これは自分が提唱したステージ衣装とお囃子なんだと気づき苦笑が禁じ得ない。そして、また同時にこんなバカなことを一緒に続けてついてきてくれるメンバーに涙が出そうなほど感謝した。

余談だが、結局その日のライブは私が使い物にならず結果はボロボロ。出来上り過ぎた私はギターをボローンとかき鳴らして歌っている自分が、ロックンロール過ぎてダサくてダサくて仕方なくなってしまい、歌いながらも消え入りたかった。きっと私の深層心理では「ロック=ダサい」という矛盾する感情が潜んでいる…。

思い出すと冷や汗が出るほどのダメライブであったが、たまたま主催者がヘロヘロの私のライブを面白がってくれたのと、ヘロヘロの私の演奏に関して何の咎め立てもしなかったメンバーの優しさが、せめてもの救いだった。

その後も今日に至るまでライブ前の着替えは欠かしたことがなく、楽屋が狭い場合は廊下の暗がりだったり、屋外の物陰だったり、屋内の物陰だったり、とにかく着替えられる場所を探してはシャツを脱ぎ、いい歳の男達がステージ上の男へと変身するのであった。

アクセルの意気地記 第14話 新しい保育園にも慣れてきて

4月に転園し、こと子は新しい保育園にも慣れてきたようである。新しい保育園は昨年度までお世話になった小規模保育施設とは異なり、一般的な規模の認可保育園であるため、これまでと事情が大分違う。

最初に用意しなければならない持ち物や、登園時に用意しなければならない持ち物がズラーッと並んだ案内を見て、ピーさんは悲鳴を上げていた。持ち物の種類も多い上にすべてに記名の義務があり、名前ハンコを用意したり、ビニールを入れるためのビニールを用意したり、何だか大変である。

その辺の面倒事はピーがやってくれたので助かったが、私が遅番の時などはこと子を保育園に送り届けることもある。大した道のりではないが、到着後にカメラ付きインターホンを押し、同時に支給されたIDカードの様なものをカメラにチラつかせ、「長尾こと子の父です」と言うとガラスのドアが解錠されて中に入れることになっている。いや、そうしないと中に入れないというセコム風な設備に違和感が否めない。

ちなみに父が孫の様子を見たさにアポなしで保育園に行ったら、アポもないしカードも持ってないしで入らせてもらえず、先生からピーが後で注意されたそうだ。父には後日、現代のセコム的保育園の実状を説明して納得してもらったが何だか不憫だった。

セコム風ドアが開いて中に入ると、すぐ右手に管理室のような小部屋があり、その小窓のところにタッチモニターが設置されている。ここで子どもの体温や親の迎え時間を入力し、母が迎えに来るのか、父が迎えに来るのかなどを予め設定しなければならない。

さて、タッチモニターをクリアすると靴を脱がせてこと子の下駄箱に靴を入れる。同時にこと子は右手の管理室の前にある水槽に走り寄る。本来なら靴を脱いだまま真っ直ぐ廊下を進めば左奥にひよこ組なのだが、オサカナブームのこと子は水槽に走り寄って「オシャカナ!」と叫ばずにはいられないようだ。

あまりトロトロしていてもアレなので、オシャカナいるねー、と適当に応答しながらこと子の手を引っ張る。廊下の右左に年齢ごとの教室があり、トイレもある。トイレの入り口に沢山ビニール袋が並んで引っ掛けてあるが、ここに日々持ち込んだスーパーのビニールに、用意されたマジックで子どものフルネームを書き、所定のフックにかける。それが終わると突き当たり左のひよこ組に入る。

ドアは子ども1人じゃ開けられない様に、子どもの手の届かない高さに鍵がついている。中に入ると1歳児のお友達たちがあっちこっちで遊んでいる。15人前後の幼児に先生は3人きりである。ほのぼの保育室は5人の幼児に3人の保母さんだったから雲泥の差がある。

この差は子どもをしっかり面倒見られるかどうか、というところに顕著に表れるため、ほのぼの保育室を回顧的に振り返ってしまうが、15人に3人の規模であるからこそ家庭へのリクエストが弱まる側面もあり、それはそれで助かるのだ。

例えばほのぼの保育室ではこと子が37.5度以上になると速攻で連絡が来て子どもを連れて帰ってくれ、ということになり、パートタイムのピーさんはしょっちゅうバイトを早退させられていて、勤め先に対して気まずそうだった。だが、新しいレイモンド保育園になってからはほとんど呼び出しをくらってない。1人で5人の面倒を見るのだから発熱に気づかないこともあるだろう。

発熱で呼び出されたとしても、他の子は分からないが、こと子の場合は大抵、夕方には平熱に戻ったりしていて、次の日まで熱を持ち越すことは少なかった。幼児は体温調節機能が未熟だから頻繁に発熱するんだそうで、そういうことが科学的に判明しているのであれば保育園も37.5度以上というお堅い基準を撤廃してくれれば、とも思うが、病状が悪化すると責任問題で、できるだけ面倒事は回避したい、ということなんだろう。

保育園に慣れてきたこと子は私にも慣れてきた(?)のか、私がこと子に慣れてきたのか、最近は2人でいても緊張感が薄らいできた。高い高いみたいに狙って笑わす方法もあるし、偶発的にこと子と共有する笑いやふとした仕草なんかが増えてくる。0歳児の時のあのプレッシャーを思い出すと泣けてくる。

歌も覚えて歌えるようになってきて、歌に対して妙な拘りを抱いてきた私のような人間には感慨無量である。我が子が目の前で、一生懸命言葉に音程らしきものを持たせて歌い出す。歌詞を省略したり言葉そのものを省略したりしていて可愛い。省略という概念もなく、親や保育士さん、保育園の友達が歌っているのを聴いて音で覚えて復唱しているのだろう。意味も6割くらいしか分かってないはずである。

そんなこと子は最近、数ヶ月前まで夢中になっていた低年齢向けの絵本にあまり食いつかなくなってきた。思い出したように、読んでくれ、と寄って来る時もあるが、大分少なくなった。その代わりに何故か小学校3年生以上を対象とした、あるインドネシアの絵本だけは特別に好きで、ここのところ毎日のように読まされる。

小学生向けなので途端に文字が多く、内容も、はるか昔、人間が神々と交流を持っていた頃の話で、神話のような壮大な物語である。元がインドネシアの影絵芝居なので、挿絵のタッチも精緻な版画のようで大人が見ても迫力があり、素晴らしいものだ。ピーがどこかで見つけて買ってきたものだが、この本の主人公の2人の兄弟、特に兄のスマントリにこと子が夢中になってしまった。

兄のスマントリと、弟スコスロノの物語なのだが、こと子はスマントリを見つけるや「オネエサン!」と叫ぶ。スマントリは髪が長く容姿端麗なのでこと子の中ではオネエサンになってしまった。スコスロノは容姿が醜い設定だが、動物や植物と交流できる特殊な能力を持つ愛らしい存在で、こと子はスコスロノ、とは発音できないので、「オトウト!」と叫ぶことになっている。

ページをめくって扉絵に牛が出てくると「ヒツジ!」と叫ぶので私が「ウシ!」と訂正すると、「うんうん、ウシ!」と言い直すものの、すかさず「メーリさんのヒーツージー」と、メリーさんの羊を全部歌い出すので物語は始まらない。

歌い終わると本編に入っていくのだが、文字が多いので私が小見出しや、初めの1、2行を読んでるウチにこと子はページをめくってしまう。そういう調子なので実は私はまだこの物語のあらすじをちゃんと分かっていない。だが、こと子はあらすじなど興味はなく絵を見たいだけで、スマントリが出てくると「オネエサン!」、スコスロノが出てくると「オトウト!」と叫ぶだけで楽しそうである。

こと子は最近オネエサンに対する憧れが強く、何かを成し遂げた時なんかも、凄いね、オネエサンみたいだね、と褒めると得意げになる。着るものも、リボンついててオネエサンみたいだね、と褒めれば喜ぶ。女の子はそういうものらしい。ところがスマントリは本当は男でオニイサンなので、何時こと子にスマントリの真実を伝えるべきか、と私は心を痛めていた。それをピーさんに相談したところ、「アタシもう何回も教えてるよ」と呆れて言われた。真実を伝えるのは残酷だが、こと子には通用してないらしい。これはオニイサンだよ、と教えても信じずにオネエサンだと言い張るオネエサン病になってしまったようだ。

それはそれとして、1、2行読んだらどんどんページをめくっていくので、物語の内容がおぼろげにしか分からない。この絵本をダメ連のぺぺさんがウチに遊びに来た時に真剣な表情で読んでいたので、さぞかし面白い内容なんだろう、と私は確信した。

物語の中程で神々のボスみたいなのが出てきて、そのページにくると、「オニだ!」とこと子は言う。確かに鬼のような形相だが実際には獅子に近い。これは獅子だよ、とこと子に説明するのもアレなので、私も、「オニだ!」と返す。「オニだ、怖い!」と私がオニの存在意義を踏まえて付け加えたところ、次からこと子は、「オニだ、コワイゾー!」と決まり文句のようにセットで言うことになった。

物語の後半で弟のスコスロノが神通力のような魔法で大地を吸い込むシーンがある。そこにはスコスロノの口に吸い込まれて行く花や鳥や蝶々が舞って描かれている。そのページにくると、こと子が、蝶々を見つけて、チョウチョ!と叫ぶ。すると、私の方を一瞥して私のリアクションを伺いながら、チョウチョ〜、チョウチョ〜、と上半身を左右に揺らし、今度は蝶々の童謡を歌い始めるので、私も追随して蝶々を歌いデュエットに入る。

この蝶々のデュエットがピークとなり、その後の物語に関してはこと子のリアクションがイマイチになる。集中力が続かないのである。最後の方はページのめくり方も雑になり、本を閉じると、満足気に「メッチ!」と言い放つ。これは絵本を読み始めた時から、お終いのタイミングでこと子が発する言葉で、私とピーはいまだにこの「メッチ」がどこからきたのか、その意味とルーツが分からず、こと子七不思議の1つとして謎のままになっている。
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