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アクセルの意気地記 第24話 こと子じゃなくてプリンセ(シェ)スー!

ブログを少しお休みしてる間に、髪は伸びる、背丈も伸びる、ウンチはトイレでできる、おしっこもたまにならトイレでできる、両足閉じてジャンプができる、ペットボトルの蓋を開けられるようになる。挙げればキリがないが日々成長していくのが分かる。

言葉を覚えるスピードもどんどん加速して、「とうちゃん喉乾いた〜」と言われた時は驚いた(それがクレヨンしんちゃんの物真似であったことに後で気づく)。言葉は家族の会話や、保育園での交流、そしてネットフリックスで観る動画アニメなどから着々と吸収していく。

少し前に吃りが激しくなって心配したが、時間とともに気にならなくなってきた。ググると、言葉を吸収する時期における幼児の吃りは珍しいことではないそうだ。

絵本は今「ぐりとぐら」にハマっていて、結構な頻度でせがまれて読むことになっている。この「ぐりとぐら」という絵本のことは私もよく覚えている。覚えているということは好きだったからである。姉とか従姉妹のことまでなぜか思い出す。従姉妹からもらったのかもしれない。

今数十年の歳月を隔て、私が声に出して読む。ページをめくる毎に、こんな物語だった、こんな動物が確かに出てきた。エモーショナルな気持ちと共に、すぐに脳は私にそういうことを思い出させた。

こと子が他の絵本よりも特別にこの本に夢中になっているのを見るにつけ、この作品がいわゆる名作であり、絵や、言葉の使い方、テンポに魔法がかかっていたことが分かる。だから私も好意的に覚えているのに違いない。

何度も読んでいるうちに、こと子が部分部分のセリフを重ねてくるようになった。特にパンケーキ作りの材料の部分「いちばん おおきな おなべ、こむぎこ、ばたー、ぎゅうにゅう、おさとう、ぼーると あわたてき、えぷろんを2まい、まっち、りゅっくさっく。」はお気に入りで元気よく声をあげる。ピーさんと一緒に実際に卵を割ったり、泡立て器で混ぜ混ぜしたりしてママのお手伝いをした最近の記憶が、菓子作りに対する興味をグッと持ち上げているようである。

「ぐりとぐら読んでー」ということこのリクエストをはぐらかして誤魔化そうとしていたら、こと子はダダこねずに1人でページをめくり始める。おでんくんの時と一緒でいつのまにか前半の数ページを記憶して読み上げている。まだひらがなを読む能力はないはずなので、脳が特殊な力を発揮して文章を音で覚えてしまうのだろうか。幼児の声で紡がれる物語のなんと可愛らしいこと…。

こんな風に書き出すと如何にもこと子がいい子ちゃんのように感じるかもしれないが、イヤイヤ期は絶賛続いていて、一旦イヤイヤモードに入るとまだまだ骨が折れる。

先日羽村の動物園へ、こと子とデートした時のこと、閉園時間が近づいてきたので、そろそろ帰ろうか、ママに会いに帰ろう、と門をくぐった。羽村動物園は都内で唯一の市営動物園なのだそうだが、その為か駅から歩いて20分くらいかかる辺鄙な場所にある。動物園から駅に向かって少し歩くと左手に大きな公園がある。私は往路でこの公園の存在には気づいていた。幅の広いデカい滑り台や、アスレチック仕様の滑り台、都心の公園ではあまり見かけない上り棒ほか、豪華な遊具が並んでいるので、動物園に行く前にこと子がここで遊ぶ、と言いださないか心配になった。しかし往路ではこと子の注意がそちらに向かなかったようで難なく通過できたのだが、復路で遂に公園の存在を見つけたこと子は、動物園の時よりもテンションを上げて、「ここで遊ぶ〜」と叫びながら公園に走り込んでいった。

もうこうなったら仕方がない。少し遊ばせて満足したら帰ろう、と考え直した私はこと子がそれぞれの遊具で一通り遊ぶのを保護観察し、そして「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と誘った。すると、帰らないー、と言い張る。まだ遊ぶのだと聞かない。私は、じゃあ最後に1回だけ滑ろうか、と大きな滑り台の前でダダをこねてること子と一緒に階段を登って一緒に滑った。もうこれ以上遅くなりたくない、と思っていた私は滑り終わるや強引にこと子を抱き抱えて公園を後にした。

こと子は納得がいかなかったようで、私の腕の中で「もっと遊びたかったぁ〜」と泣き叫んでいる。こと子が全力で泣き出すと顔が四角になる。こと子を抱えながらバギーを押すのは難儀で、100mくらい歩いてから私はこと子をバギーに乗せようとしたが、こと子は泣きじゃくりながら身体を海老反りにさせて意地でも乗るものかと頑張る。

私は一旦諦め、というかお手上げ状態になってこと子がその歩道上で大声で泣き叫ぶのを、泣き叫ぶままにさせて空を見上げた。

今まで生きてきて、街中で、買ってほしいものを買ってもらえなかった幼児が、道端で泣いたり暴れたりして親を困らせるシーンを飽きるほど見てきた。その度に、もし自分が親の立場だったら、どういう作戦で切り抜けるのだろう、と考えたりしていた。とはいえ、こうしたらいいのだろう、という答えは導き出せなかったし、直後には忘れてしまう。

今こうして泣きじゃくり、泣き喚く幼児を持って私はやはり途方に暮れている。タイムアウト。いい歳を重ね、親になったが、こんな時に子を黙らせる術などあるのだろうか。私はこと子の泣く勢いが弱まるのをただ待った。そして泣きくたびれた頃、コッピ、そろそろママが家に帰ってくる時間だから一緒に帰ろう、ね、ね、とゆっくり諭すように話しかけた。それでもまたしばらく泣いていたが、ふと、ママのとこに帰る〜、と言い出して、しかも自分からバギーに座った。

ホッと一息ついてバギーを押し始めたらこと子はすぐに大人しくなった。あれ、と覗き込むと疲れ果てて寝ていた。

そんなこと子だが、やっぱり何やかんや女の子。知らないうちに女の子っぽいしぐさや、言葉遣い、目つきを身につけ始めている。そして、当然のように「お姉さん」に憧れ始めた。ウンチをトイレでできるようになったこと子の次の課題はオシッコである。

オムツからパンツに代わる過程には「お姉さんパンツ」と呼ばれるものが存在し、こと子はお姉さんに近づきたいのでお姉さんパンツを時々試しては、失敗してお漏らしをしてしまったりする。

ピーさんと私は、こと子のお姉さん憧れを利用して、お風呂や歯磨きを嫌がる時、言うことを聞かない時に、そんなんじゃお姉さんになれないよ、といって脅かす。絶対的な効果はなくても一定の効力がある。

逆に褒める時も、例えば服を自分で着れた時、脱げた時、すごい、お姉さんみたいじゃん、と褒めるとこと子は得意顔になる。オトナに近づくことは子どもの憧れである。私も歳をとることでオトナの男に少しずつ近づくのを好ましく、誇らしく感じていたことを思い出す。誰しもそんなもんだろう。

こと子がお姉さんに憧れ出したのはそういう訳で違和感なく受け取っていたのだが、ある時、
「こと子、今日は何して遊んだの?」
と話しかけると、
「こと子じゃないよ、プ・リ・ンセ(実際はシェ)・スゥ!」
とすかさず返されて私は吹き出さずにはいられなかった。女の子らしさというものを私はナメていた、と思った。女の子らしさというのはここまで無邪気に自身を持ち上げることができるのか、と感心するより他なかった。

そらからしばらく、こと子はプリンセスで、私が、こと子、とか、こと子ちゃん、とか、コッピー、と言うたびに、プリンセスだよ、と言い直された。ピーさんが、外でもこんなこと言ってんのかなぁ、と苦笑していたけど、実際保育園などでプリンセスと公言していたらしい。

成長も早ければマイブームもすぐに過ぎ去る。こと子がプリンセスじゃなくなるのも、きっと時間の問題だろうと思っている、寂しいようだけれど。
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バンドマンに憧れて 第36話 漁港、森田さんと赤い疑惑「理由なき反抗」

「東京フリーターブリーダー」に収録した新宿アルタ前お囃子ゲリラには実は続編があった。

32話で触れた通り、新宿アルタ前周辺を練り歩き、メンバー3人でお囃子とアカペラ合唱を披露した、そのゲリラライブの動画をエンハンスド映像(当時流行ったPCでのみ再生できるCDの特典映像)としてアルバムに収録する計画を立てていた。ゲリラライブだけだとショボいし面白くないので、そのゲリラライブの模様を先輩バンドマンに観てもらいに行く、という脈絡のない筋書きでコント仕立てにしよう、ということになっていた(ユーモアの要素にやたらこだわっていた)。

そしてそこで登場してもらうことになった先輩バンドマンというのが漁港の森田釣竿船長であった。

森田さんとの出会いは、学生時代に遡る。レスザンTVなどを中心にハードコアやポストパンクのインディーズライブに足繁く通っていた時期のことだ。

その頃森田さんは「the般若」という癖の強いハードコアバンドをやっていた。ライブを始める際に入場シーンがあり(赤い疑惑はこれに影響を受けた)、森田さんは筋骨隆々の肉体を大きく膨らませながらワイヤー仕掛けの火の玉をぶら下げて、オーディエンスを睨み、脅かしながらステージに上がる。私は(こうぇ〜)とビビりながらも、その後披露されたストイックでどこか和風で、何となくFUGAZI、何となくDISCORDなハードコアミュージックと、「テメエこの野郎」というビートたけし節な罵倒語を散りばめた、しかし深く練られたギャグを連発する森田さんのMCにすっかり魅せられて私はすぐに釘付けになった。相当怖そうだけど、この人のユーモアセンスとパンクの捉え方には、何か深いものがあるに違いない、と直感した私は、それから森田さんに声をかけ、the 般若のファンになった。

森田さんのMCを聞いていると、当時大好きでバイブルにしていた夏目漱石の「坊ちゃん」を彷彿とさせる、所謂下町っ子然とした喋り方、怒り方を初めて生で聞いてるような感じがした。この人は怖いけど、同時に相当頭のいい人なんだろうということをも連想させる知性が、下らない、下品な表現の中に潜んでいるようだった。

その頃森田さんは「キクチレコード」という、これまたレスザンTVに負けず劣らずな、パンクで下らなくて節操ないレーベルを運営していて、レスザンTVでいう「メテオナイト」のようなカオスな看板イベント「キクレコ祭り」というイベントを定期的に開催していて私は衝撃を受けた(私が赤いプロダクションという自分のレーベルを作ったのもレスザンやキクレコのおかげだ)。

キクチレコードの名前の由来はthe 般若でドラムを叩いていたキクチさんから取ったらしいのだが、キクチさんというのがまた強烈なキャラで、パンチパーマをあてて、ライブの時は赤いフンドシを締めて上半身裸だった。キクチさんと森田さんの関係は特別なものだったのか、詳しくは分からないが、いつかキクチさんは失踪してしまい、ドラマーを替えて般若はしばらく活動していた。

その後もしばらくは、キクチレコードは続いていたけど、飽きてしまったのか、段々フェードアウトしていったのだと思う。そしてこれはまだ私が赤い疑惑を始める前の頃だったと思うが、森田さんにthe 般若のライブオファーをしたところ、長尾くん、悪いけど今般若活動してないんだよ、とつれないお返事。私は食い下がって、森田さんが出てくれれば何でもいいんですが、というような図々しいお願いをさらに打った。すると、今ちょっと考えてるユニットがあるんだけど、それでいいかな、超下らないけど、とまた森田さんらしい謙遜した物言いで返答があった。

そのユニットというのがその後インディーシーンで特異な注目を浴び、一瞬メジャーまで駆け上り、割とすぐにインディーに戻って、最終的にはライブハウスのみならず漁業組合など、漁業関係のイベントなどで活躍することとなる「漁港」というバンドだった。

代々浦安で魚屋を営む森田家の倅である森田さんは、もっと魚が売れてくれないと、といつも真剣に語っていた。だから漁港というのは魚屋である本業とパンクと打ち込みをミックスさせた唯一無二のプロジェクトで、下らないことを死ぬ気で貫徹する森田さんの演出力に裏打ちされた説得力のあるパフォーマンスを武器に客のハートを端から鷲掴みにしていくのだった。

赤い疑惑が「東京フリーターブリーダー」を作っていた頃、漁港の人気は高まっていて、そのエンターテイメント性の高さから、いくつものメジャーレーベルが目をつけオファーが舞い込んだりしていた。私はバンドで売れたい、と切に願う身の程知らずだったため、そういう流れを側で見ていて非常に興奮していた。

我々は先輩、後輩というパンクやロックの世界から無縁でいることができていた(体育会系が嫌で文化系になったのだから当然上下関係というのは苦手だったし避けていた)が、思い返すと森田さんとの間には唯一抗いがたい関係性があった。だから森田さんはメジャーレーベルからのラブコールを受けていた時期、しょっちゅう我々に連絡をくれ、今〇〇って人と飲んでるから来いよ、と酒の席に呼んでくれるのだった。

しかし、酒が苦手で、というか酒の席の振る舞い方や酒の飲み方が今より全然分かってなかった私は、そういう場に出た時に器用に振舞うこともできなければ、面白いこと一つも言えなかった。それにメジャーの人とコネができて有名になったとしてもそれが本望なのか謎だった。森田さんには呆れられたかもしれないが、私は言い訳をして誘いを交わしたり、断ったりするようになっていった。

それでも森田さんとは関係が途切れた訳ではなくむしろ特典映像に出演してもらってくだらない芝居を一緒にやったりして関係は続いていた。そしてそれはもしかしたらその撮影の打ち上げの席だったかもしれない。アルバムリリースの後だから05年か06年頃のことだ。とにかく森田さんの地元で飲もうよ、ということになり浦安の居酒屋で飲んだ時に事件は起こった。

美味い肴を出してくれる森田さんの馴染みの店で楽しく飲んだ。といっても私はたくさん飲めないので、こういう時はクラッチが男らしく飲んでくれる。ブレーキーも付き合い上手というか、それなりに飲んでみんなでいい感じになり、もう終電もないしウチで飲み直そう、ということになり森田さんの実家に行くことになった。

外に出るとクラッチの様子がどうもおかしい。酔い方が深くなっていて、ちょっとヤバい感じ。私とブレーキーはこの頃のクラッチが酒で理性を失うことが稀にあることを知っていたので、何となく心配になり始めた。

しかし、クラッチは気勢をあげて、森田さんよりもハイテンションで歩き出す。私とブレーキーはヒヤヒヤしながら後につく。するとクラッチが路肩に並んでいたチャリを蹴り倒した。これはやっぱりマズい展開だ。手に負えない感じになっている。

クラッチの悪酔いは特に目上の人と一緒に飲んだりする時に頻発する、というデータがあったがまさに今日はビンゴ。森田さんはそれでもクラッチの粗相にキレずに面白がっている。森田さんも酔っている。

途中、我々を呼び止めて森田さんが立ちションをする。するとクラッチが森田さんのションベンを両手で掬って森田さんの肩で拭いたのである。これはヤバいヤバい、と頭を抱えたが、森田さんはそれでも笑っていた。松田、コラ、テメエ、と言いながら笑っている。余程我々のことを気に入って面白がってくれているんだ…。

そして森田さんの実家のマンションに着いて階段を上がり、廊下を歩いた。既に壊れていたクラッチが、今度はマンションの、もちろん森田さんの家ではない御宅の窓の柵に頭突きを始めたのだ。プツンと、森田さんの表情が変わりクラッチの胸ぐらを掴むと、敷地内の人気のない場所へ連行してクラッチをぶっ飛ばした。私と、ブレーキーと、深海さん(漁港の森田さんの相棒)はそれを止めようと、間に入ろうとしたけど森田さんの腕力の前に為すすべはなく、また、クラッチにいささかの弁護の余地もないので、結果的には横で佇んでいることしかできなかった。

ぶっ飛ばされても酒にヤラれているクラッチは反抗的な眼差しを森田さんに向けていた。そのまま外で説教を受け、その後我々がどうしたかはっきり覚えていない。他人事のようだが、全てが映画の1シーンのようだった。ただ翌日スタジオの予定があって、いつもの練習スタジオにやってきたクラッチの顔はお岩さんのように腫れていて、私は泣きそうな、情けない気持ちになったことを思い出す。

この思い出は、クラッチの悪酔いが原因だったとはいえ、あの頃の、どこに向かって進めばいいか分からずにストラグルしていた赤い疑惑というバンドの岐路だったように感じている。赤い疑惑史上最も情けなく、大人になれないモラトリアムの中で残した理由なき反抗、という気がする。ハードコアパンク出身にこだわった、喧嘩と縁のない中流階級のボンボンたちが味わったほろ苦い思い出である。

ちなみに、後日、当日のことを全然覚えてないクラッチは直々に森田さんに詫びを入れている。その後も漁港とはちょこちょこ共演したりする機会もあり、森田さんとの関係はいまだに楽しく続いている。

アクセルの意気地記 第23話 いこいの森公園にて

その日は休日で、掃除、洗濯、片付け業務などを淡々とこなした。遅めの昼食を済ませると、すでに15時を過ぎようとしている。天気も良いので私は公園に行こうと考え始めた。

自宅から15分程歩いたところにいこいの森公園という、割りと最近できた大きめな公園があるのだ。どうせ行くならギターを持って行こう。そこでこと子に、公園行こうか、と聞くと、うん、行く、とあっさり賛同した。

このやり取りを側で聞いていたピーさんはスマホ中なのかリアクションがない。これは無理に誘うよりこと子と2人で出かけてピーさんに1人の時間を作ってやるのがいいだろう、とそう考えた。

ギターを背負いこと子を誘う。玄関を出てバギーを持って行こうとすると、こと子は、歩く、と主張する。帰りのこともあるので、それでもバギーを手にすると、今度は、乗る、と手のひらを返す。私はホッとしてバギーを押して歩き出す。いこいの森までこと子のペースで歩いたら30分近くもかかってしまうのだから。

ローソンのある武蔵境通りに出て右折。まっすぐひばりヶ丘方面に進む。この辺は左手に広大な東大農場の敷地が広がっており大変空が広い。タイミングが良ければパノラマに近い夕陽を拝むこともできる。

途中、公園手前のファミマに入る。公園で日中にギターとくりゃビールがほしい。350ml1缶でいいんだ。しかしコンビニに入れば何か買ってもらえるという条件反射を身につけていること子にも何かを買わねば…。

アレルギー対策で添加物や乳製品、砂糖過多な飲み物はNGにしている。そうなると水かお茶が無難なところだが、それだとこと子が聞かない。中庸とって野菜ジュース。野菜ジュースだけでも何種も並んでいるが成分表示上余計な添加物の少ないものを探す。ツマミはむき甘栗。これは塩も砂糖も添加物も入ってない。

張り切って公園に向かうと、通用路となる石畳みの道沿いに河津桜が満開に咲いている。濃いピンクがはち切れんばかりである。
「ほら、コッピ、河津桜だよ。咲いてるねぇ」
「カワヅザクラ?」
今、こと子は知らない言葉が出てくるとおうむ返しして語尾を上げる。語尾を上げられたら私は適当に、うん、と答えるだけだ。

公園の入り口にはスケーターが集うスケート広場や運動場、管理事務所、遊具広場などが並んでいる。その先に芝生敷きのエリアがずっと奥まで広がり、両脇は樹々と金網とが外界とを隔てている。左手には広大な東大農場、右手には竣工からそう経っていないだろう新しいマンションが聳えている。

これまで何度か友人を誘い、この芝生の上でピクニックを楽しんできた。そして今日も同様に、入り口からさして遠くない位置に狙いを定め、敷物を敷いてギターをおろした。

ビールと野菜ジュースを取り出してこと子と乾杯。すかさず剥きグリを取り出す。口にほうばると甘みがジワっと広がって美味い。あんまり買わないけど美味いよねこれ。食い意地旺盛なこと子も負けじと剥きグリの袋に手を突っ込んで食べる。恐らくこの手の剥きグリを食べるのは初めてじゃないかな。
「おいしい?」
「うん、おいしい」
こと子はいつも誰かに言わされてるかのようなトーンでおいしいと答える。それがなんかいい。

酒のつまみとしては甘いし、格好のものではないが、私はこと子のペースに負けないように袋に手を突っ込む。こと子も気に入ったようで次から次へとクリをほうばるのですぐになくなってしまった。私は手を拭いてギターを取り出した。

ポロンと音を出すとすぐにこと子が「だけどもやって」と私に迫る。これは想定内の反応だ。こと子は私の弾き語りの「幸せは君の疫病神」という曲をやってくれ、と言っているのである。歌詞の中に「だけども今でもどうにかこうにか」というフレーズが出てくるのだが、その歌い回しが気に入っているのか、曲名のように「だけども」と呼んでくれている。家でギターの練習をしようとギターを取り出すと、最近では必ずこの曲をリクエストされるのだ。

リクエストにお応えして私はその曲を演奏し始める。1人で練習してるのと変わらないようにも思えるが、たとえ我が娘1人だけだとしても、聴いてくれる相手がいるというのは心持ちが違う。私は上機嫌になる。

しかし、「だけども」が終わって、別の曲を弾き始めるとすぐにこと子は退屈し始める。これも想定内のことであった。
「ゾウさん乗る」
とこと子が言い出した。
はて、それは遊具広場にあるバネ付きの乗り物のことかな。
確かにあそこの遊具広場にはゾウと虎とリスだかアライグマだかのバネ遊具が3つ並んでいたな。思い出した私は
「ゾウさん、あそこの広場にあったね。トト(私のこと)ここいるから、遊んできていいよ」
と伝えた。口から出たと同時に、私は娘を試すつもりになっているのに気づいた。

ここから遊具広場はちょっとした樹木の茂みに隠れて見えないが、距離は大したことない。走れば数十秒で確認に行ける程だ。とはいえこと子は親目から離れて遊ぶことは、例えば友人やなんか、誰か見てくれる人がいる場合以外経験したことがない。でもすぐそこだし大丈夫じゃないか、こういう機会を経て子どもも成長するんじゃないか。

ビールで酔ってるせいなのか、私はそう軽く考えて、遊んできていいよ、と言ったのだ。とはいえこういう場合、こと子が1人で行くことはなく、「いやん、一緒に!」とごねられて大体同行するのだが、この時は「うん、じゃあ行ってくる」と、活き活きした返事が返ってきたのだ。

私は、逆に大丈夫かな、と僅かに心配したが、靴を履いていそいそと準備してること子を見て、大丈夫だろう、と思った。それにこと子は10mくらい歩いたところでこちらを振り返り、「トトはここで待ってるんだよ!」と、親が子どもに言い聞かせるような忠告をしてくれるのであった。これを聞いて安心した私は、こと子が樹木の茂みの陰に見えなくなるのを、ギターを弾き、歌いながら見送った。

そらから3曲くらい弾き語りの練習を続けていたが、斜陽の加減で空が若干暗くなってきた気がし、こと子のことが急に気になりだした。ギターをしまい遊具広場に早足で歩いた。急ぎつつも、マイペースなこと子は1人で真剣に遊んでいるだろう、と想像していた。

茂みを通り過ぎて遊具広場に目を向けると思わぬ光景が待ち構えていた。遊具に囲まれた砂場の脇で、泣いてること子を中心に子ども6、7人、そして親御さん2、3人が輪になってこと子に話しかけているのである。いけねー、コレは完全にヤラかしだ、と慌てて私は「すいません、ウチの子ですー!」と大きい声を出しながら駆け寄った。

その時私に投げかけられた彼らからの視線は恐ろしく冷たいものだった。まるで、汚らしいモノでも見るかのような蔑みの表情である。子どもたちも、親御さんたちの私に対する態度と似たような、異界のモノを眺めるような視線を私に向けていた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、どうもどうも…」
頭をかきながらも私は円の中に入っていった。
「泣いてましたよ…」
その中の1人の親御さんがとても冷淡に私に言い放った。いやあ、すいません、と何度も頭を下げながらも、その苦言を耳にして私の心は何だか反抗的な気持ちになってきた。

何だい、確かに我が娘を放ったらかしてビール飲んで呑気にギター弾いてたオヤジの私に非はあるのだろう。だけどそんな眼で睨までもいいではないか。私は頭を下げながらもこと子を回収し、抱えて輪の外へ出た。

私は小さい頃からみんなと違うことをしようとしたり、天邪鬼だったり、目立とうとしたり、物心ついてからはそういうことを意識的にやったりして生きてきた。親になって丸くなったかな、と思っていたけど、こういう状況に直面すると脱線してしまいたくなる。こういう能天気な親もいるんだ、変わったヤツもいるんだ、と世間に表明してみせたくなる。そうじゃないとあーしなきゃいけない、こーしなきゃいけない、で世間は窮屈になる。

いい加減な親に見えたかもしれないが、そんなオヤジでも娘とは実はこんなに仲良しなんだぞ、ということを彼らにアピールしようと反旗を翻した私は、やたらわざとらしくポジティブな感じでこと子と遊び始めた。

すぐに機嫌を取り戻したこと子はゾウさんにも乗ったし、私などは虎さんに乗ってバッタンバッタンとしたりした。飛び石の様に配置された、作り付けの切株の遊具に乗って、キャッ、キャとこと子とはしゃいだりした。しかし私の頑張りも虚しく、周囲にいた家族たちは我々に目もくれず三々五々散って行ってしまった。ちょっ、と舌打ちをしてこと子と芝生に戻り、(そういえばあの時彼らにギターを見られなくてよかったな)などと思いながら私は帰り支度を始めた。

バンドマンに憧れて 第35話 試行錯誤のパフォーマンス

「東京フリーターブリーダー」リリースから次のアルバムを出すまでの2〜3年間は最もバンド活動が勢力的だった時期で、遮二無二動き回っていたので思い出すことも多い。という訳でこの時期の回想がしばらく続く。

この頃までの私は、ライブにおけるMCを必要以上に重視しており、またライブ中に芝居染みた下らないコントや、ちょっとした仕掛けを盛り込んだりしていた。それはライブに笑いの要素を盛り込みたい、という当時のポリシーがあったからだと思う。

そんな笑いの要素と、かっこつけてMCも控えてクールを気取ることとは全く正反対の要素で、私はそのバランス感をよく考えていたが、それに対する答えは未だに出ていない。とにかくこの時期の赤い疑惑はいろんなことを試していた。

MCに関しては、漁港という先輩バンドや当時人気急上昇中だったロマンポルシェの影響を受けた。ハードコア系のバンドはMCで笑いを取ろうとすることは少ないし、そもそも不必要である。しかし私はハードコア的な外見をまとい、MCで笑える男気を見せる漁港やロマンポルシェを真似しようと思い、リハーサルが終わり本番が来るまでの長い空き時間(逆リハという制度があり、長い場合は5、6時間待たねばならぬこともあり、この時間をいかに過ごすかはバンドマンにとって重要な問題である)に1人で公園などに行ってMCのネタを緻密に考えていた時期があった。喋りたい内容を紙に書いて暗記するのである。

甲斐あってと言っていいのか分からないが、仕込んだネタをMCで喋るとそれなりに受けていた。それで調子に乗って毎回毎回仕込みに時間をかけていたのだが、MCが受けても肝心のギターや歌で力を発揮できない時がままあり、次第に喋ることを綿密に仕込んでいるのがバカらしくなってきて、段々とMCに割く時間は少なくなっていった。赤い疑惑の楽曲も初期の頃より作り込んだ長いものが多くなり、あんまり余計なことを喋ってると演奏時間がなくなってしまう、などの問題もあった。

芝居染みたコントと書いたが、それはいずれも赤い疑惑のアカペラ入場シーンに組み込まれた。歌いながら客席を縫ってステージに近づく過程でシュールな芝居を試みたりしていた。これも先述の漁港や、もっと前に書いた鉄割アルバトロスケットに感化されたものだった。例えば、傘をさしながら(何故傘をさしていたのか覚えていない)客席を歩き、途中で<胃腸虚弱なリーダーという設定の>私が倒れ、倒れた私にメンバーが養命酒を飲ませて私が復活する、とか、「振り返るなオンザロード」という曲を一曲目で披露する前に、私が<夢を追いかけがむしゃらに頑張る青年>役を、クラッチが<そんな青年を叱咤激励するヤクザな兄貴>役を務め、それぞれその役を大根芝居で演じてみせたり、「住基ナンバー」という(住民基本台帳の制度をディスった)曲の最後に、ステージに急ごしらえした紙めくりをめくって、事前にお客さんに配っていた数字と、私が紙をめくって現れた数字が同じ人がビンゴ、そのお客さんに景品を差し上げる、など、パンクバンドとしては相当意味不明なことをやっていた。

私はそれらを個性的なバンドの醸成に必要と考えていたのかもしれないが、そういう試みも肝心の演奏がおろそかになるという本末転倒な傾向を回避するために長続きせず終息していった。また、これらの意味不明なパフォーマンスも、自分が考えついたことをやっていたからよかったものの、芝居染みたことを他人に強制されるのは私は大嫌いだった。

というのはこの頃、我々のミクスチャーな音楽性と存在感とで、前回も触れたようにパンク系から始まり、インディーポップ系、ギターポップ系、アングラ系など毛色の異なるイベントに沢山出ていたのであるが、とある、<あからさまに売れたそうな雰囲気のバンドが集まる系のイベント>に出た時のことだ。私は、売れたくてしょうがないぜ、といった感じが表面に溢れ出ている対バン達をダセエな、と思っていたのだが、イベントの最後になって、リーダーが全員雛壇に出て行って今日のイベントについて面白おかしく感想を述べてイベントの締めを括るというようなことが予定されていた。

私は非常に戸惑った。やってください、と言われてないことをやって面白がられることは本意だったのに、面白いこと言ってください、という業界風な挑発ノリに対応するのは本意ではなかったので冷や汗をかいた。もはやどんな風に切り抜けたのかも覚えてないが自分はこういうことがヘドが出るほど嫌いなのだな、と悟った。

他にもこの時期には「わくわく赤い疑惑」というフリーペーパーを刷ってライブで配るということもしていた。フリーペーパーを作ることと文章を書くことは学生時代に散々やっていたことなので勝手は知っているし、お客さんからの反応もよかったのでこれはしばらく続いた。私がブログで書いているような雑文やライブ告知、そして沓沢ブレーキーのダメ男コーナーなど下らない内容で、チラシのようにして配っていた。

こうした音楽以外の部分の活動は、赤い疑惑というバンドの謎を深めるための装置として、また反対に、ちょっと怖い人たちと思われがちだった赤い疑惑がこんなにファニーな親しみやすいヤツらだぜ、という懐柔の装置として、私は半分意識的にやっていたのである。いずれにしても人気を得るために私が考えついた戦略だった。

それらの活動が功を奏したのかは分からないが、赤い疑惑の人気のピークというのはちょうどこの時期だった。誘われるライブの数も多ければ、お客さんの動員がある程度あったのもこの時期なのである。前売り予約メールが20名前後ある(そんなもんかと思われるかもしれないけど、これは今では考えられない数字)時もあり、ライブで知らないお客さんに話しかけられる、ということもこの時期が1番多かった。

赤い疑惑のズッコケ気味のキャラや上記のようなサブカル体質に近寄ってくる変わった女子達もいた。女の子にウケるということはこの時期に初めて体験した訳だが、鼻の下を伸ばすようなものではなかった。どういう訳かその頃近寄ってきた女の子お客さんには病んでる鬱系の子が多くて、握手を求められて出された子の右の手にはリストカットのキズ痕が何本も走っていたり。会ったことない北海道の女性からもらった長めの(重めの)メールに対して、割りと真剣に返事したら、相手からの苦痛メールや無駄話が過剰に送られてくるようになり謎のやりとりが続き、終いには自分はもう着ないから、というメモと共に男性用の紺無地パーカーがプレゼントとして送られてきたり(貧乏性の私はそれを普通に日常着として着ていた)。また、同様の、ファンです、の後に苦痛を訴える女性からmixiで連絡があり、またこのパターンか、面倒くさいな、と適当にあしらおうとしてたら、死にたい、というメッセージと共に手首に包丁を当ててる画像が送られてきたこともある。

さすがにこういう経験をしてお客さんとの距離の測り方を真剣に考えるようになったが、この時期が人気のピークだったので、それ以降その手のヘビーなお客さん問題にはほとんど巻き込まれていない、というのが現実である。

アクセルの意気地記 第22話 子育てとイヤイヤ期

子どもを育てることの面白みややり甲斐は形容しがたいほどに大きなものである。それは子どもが欲しい、と具体的に思うようになる前までの自分には到底想像のしようもなく、分かりようのないことだった。

昔、母が亡くなる前、胃がんで闘病していた時(私が25歳で15年も前のことだが)、私は足繁く実家や母の入院先などに通い、母との時間をできるだけ持つようにしていた。とはいえ実の親子で、母に死が迫ってるからといって、深いテーマの会話ができる訳ではなく、そんなに話せるトピックがあった訳でもないのだ。しかし、私は母にどうしても聞きたいことがあって、それはこういう時じゃないと聞けないことだった。

というのは、母にとって人生の中での生き甲斐、1番楽しかったこととはどういうことなんだろう、ということだった。母はいつも明るく、優しく、父や私と違って控えめで自分が前に出ることのないタイプの女性で、生涯かけて何か一つのことに夢中になっていたり、これといった継続的な趣味があった訳ではなかった(若い頃はクラシックギターを弾いていたが)。だからそれだけに私は母の生き甲斐がどういうものなのか分からなかったし、1番楽しかったことは何なのかということを聞きたくなってしまったのだ。

ガンの告知以降、母は目に見えて後向きになり、持ち前の明るさは影を潜めてしまった。何で私がガンになるのか、という答えの出ない問いかけから抜け出ることができないような感じで、また、その気持ちと比例して時とともに衰弱していった。そんな母を見ていて私は母の人生とはどんなものだったのか、どんなことが楽しくて生きてきたのだろう、という疑問が素朴に浮かび上がってくるのだった。

そして確かがんセンターの病室でだったと思う。私は俄かに母に聞いたことがあった。お母さんの人生で、1番楽しかったことって何、と。母は息子のストレートな問いかけに驚いていたようだったが、ちょっとの間考えて口を開いた「そうねえ、あんた達2人を育てたことかな」。2人というのは私と姉のことである。

私はあまりにも意外な返答にビックリした。まさかそんなことを言われるとは思ってなかったし、その母の喜びの中に私が登場していることを知って涙を禁じ得なかったが、泣いてる姿など見せたくないので必死にこらえた。私がビックリしたのは子どもを育てるのがそこまで大きな喜びなのだろうか、という率直な疑問だった。そしてそれをきっかけに私は子どもを持つ、ということに大きな興味を持つようになったのだ。

そして今こうして自分も子育てを始めて、あの時の母の返答が決して珍しいことでも突飛なことでも何でもなくて、至極真っ当な、偽りのない言葉だったのだな、ということが理解できるようになった。終わりの見えないようにみえる労苦と大変さを差し引いても、それくらい子育てはやり甲斐のあることのように感じる。今のところはね。

幼い頃ににほん昔話や、それに類する昔話で、しばしば登場していた「子どもを授かって家族仲良く幸せに暮らしました」というそれだけの描写を、子どもの頃はふーん、そういうもんかな、という風に思っていた。子どもが生まれて家族で過ごせるだけでそんなに幸せなのかしら、ということを半分信じて半分不思議に思っていた。しかし実際赤ん坊を抱いた時の尊い気持ちや、始めてこと子と手を繋いで歩いた時の感動とか、例を挙げれば枚挙に暇がないが、ただ子どもが家族の中に加わっただけでもたらされる喜びというのは計り知れないものがあるのだった。

そうやって考えると、人類が営々と脈々と、飽きず諦めずに子を産み育てることを繰り返してきたことにも、そうか、そうか、そうだったんだな、と何かを発見した少年のように納得してしまう。そして偽りだらけのこの世の中や、周囲の人々にも愛ある眼差しを向けることができるようになった、ような気がしている。

さて、イヤイヤ期という言葉は子どもが生まれる前からよく聞いていた。ただ、初めは私はそのふざけたようなネーミングが嫌で、(それは全ての子どもにやってくるのだろうか、ウチの子に限ってイヤイヤ期などなかった、なんてことがあるのではないだろうか)、と眉に唾をつけて聞いていたのだ。

しかし、それは日が昇って沈むように当たり前にやってきた。魔の2歳児などという言葉もよく聞いたが、魔の2歳はつまりイヤイヤ期な2歳ということのようだ。だから2歳になったら大変だろうと心構えをしていたが、こと子は2歳になる少し前からイヤイヤ期に突入していたのではないか、と振り返って思う。

親の言ってることが次第に分かってきて、言葉や文章を少しずつ真似するようになると同時にこと子に自我が芽生え始めたようだ。それは2歳になる前からだったと思うが、その頃から何か不満があるとギャーギャー泣いて自分をアピールするようになった。

これはイヤイヤ期と呼んでいいのではないか、そんな風に感じさせるほど、その、こと子の泣く姿はいささか執拗で激しかった。今(2歳半)より言葉の表現力が乏しく、自分の不満を親に伝えられないのもあったのだろう。泣き出すとなかなかなだめることが出来なかった。

おかしかったのは、寝る前だったかと思うが、こと子が畳の上に立って激しく泣き出した。イヤーーー、と嘆きながら泣き叫んでいる。私とピーで宥めたり見守ったりしていたのだが、本人は座ったり、バタバタ跳ねたりして泣き止まない。「嫌だ!」という拒否の構えを一向に崩そうとしない。バタバタと身体を振り乱したり、畳を叩いたり、理性にコントロールされたオトナから見ると滑稽に映るが、最終的には右足、左足交互に高く上げて跳ねるようにして、部屋の向こうまでドタバタ行ったかと思うと戻ってきてまた絶望的に畳に突っ伏した。私はこと子のそんな姿に半分呆れながらも、その有り余るエネルギーの放出の様に半分感動した。これはワガママであり、自分を通せない、また表現できない幼児の剥き出しの姿なのだ、と思うと感慨深かった。

最近はイヤイヤ言うのも大体何かしらの不満の背景があって、それを聞き出して取り除いてやるとケロっと機嫌を直すことが多いので少し慣れてきたが、ひとたび「ママがいい〜」で泣き出されると私は無力な父親に早変わり。たまに機転を利かしてこと子のイヤイヤを誤魔化せる時もあるがダメな時はダメでピーさんに登場してもらう。しかし「ママがいいー!」というからピーさんに来てもらっても「ママがいいー」と、もはや口癖のようにそのまま泣き続けることが多いのもイヤイヤ期だからだろうか。

イヤはイヤでも自分ができることを私やピーさんがやろうとして怒る時も多い。クツを履けるの履かせようとして「いやん、自分で!」と言う。ボタンできるのにボタンをつけてあげると「いやん!」といってもう一度外して自分でやり直す。エレベーターに乗って私がボタンを押すと、いやん、とこと子に言われるのが分かってからは抱えて押させてあげる。家に帰って鍵を開けようとすると、こと子が下からいやん、と言う。ピーが「自分で開けたいんだよね」といって鍵を渡してこと子を持ち上げる。こと子は覚束ない手先で鍵を挿して回して開けた。

この手のイヤイヤは自律に向かうイヤイヤなのだろうと思うと微笑ましい。オムツを替えるのも、服を着せるのも、保湿クリームで入浴後ケアするのも、歯を磨いてやるのも、初めは、めんどくせえなぁ、という感じだったが慣れてしまえば何でもない。家事と同じである。いや、家事とは違って終わりがある。それにしても私はこと子が女の子だからなのか、「イヤ」を表現する時にそうなってしまう「いやん」という言い方が、少し腹立たしくも、なんだかんだ好きである。
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