扁桃炎闘病記2〜点滴による急回復

耳鼻咽喉科の医師による紹介状を受け取った私は、そのままの足で500mほど離れたN総合病院へ向かった。ここは私が幼い時に何度も通った病院で、建物は古ぼけていて、私の母がある時期ここの医師に不信を抱き、それ以来市内にもう1つあるS総合病院を利用するようになったため、私自身もN総合病院はあまり対応がよくないイメージだった。

しかし、もはやあれから20年ほど私は田無の総合病院の世話になっておらず、特にその病院に対する不信感なんかも忘却してしまっている。病院の気質も変わったかもしれない。今はもうこの喉の苦しみを解放してくれるならどんな病院でもいい。

入口を潜ると、見覚えのある景色が広がる。自動ドアが開くと、左手前を受付にして真っ直ぐに廊下が50mほど伸びてその左右に内科、外科、耳鼻咽喉科、小児科、消化器科、整形外科など外来が並んでおり、廊下中央と脇にズラーッと並べられた椅子にはむせ返る程の病人が座っている。こんな風に混み合った外来の様子自体が数十年前の光景と全く同じで、私はいささか困惑した。あまりにも不慣れなところに来た気がした。

受付に紹介状を見せる。チラっと隣の受付で慌ただしく接客を行なっているぽっちゃりした女子に目を奪われる。この顔、何処かで見たことがある、っつうか、絶対中学時代の同級生だ。そこまでは分かるのに名前すら出てこない。ただその澄んだような瞳が印象的で容貌を覚えているものの名前が分からない。

私は恥ずかしいので彼女に気づかれないように紹介状を受諾してもらい、そして耳鼻科の前で待つように言われた。入院患者枠は特別なのだろうか、大して待たされることなく私の名が呼ばれ、新たにN総合病院の担当医師となるT医師が、先ほどの耳鼻咽喉科の医師を更に上回るほどの爽やかな表情で私を迎え、先ほどと同じように鼻カメラチェックと、直接口を開かせて私の喉を検査した。

既に注射器による膿の吸い出しを終えた後だったので、
「とりあえず今日は点滴で様子を見ましょう。それで、もしまた明日以降必要であれば吸い出し、酷い時はちょっと切って膿を出しましょう。今日はもう嫌ですよね。注射、痛いですからね、アレ」
と爽やかにT医師が言ってのけた。私の苦しみを気遣ってくれるのは有難いが、最悪切開が必要なのか。私はやや暗澹たる気持ちになった。

診療はそれだけで終わり、私は入院患者として必要なレントゲン撮影、心電図、血液検査などもろもろの検査を受けて回り、昼を過ぎてようやく病棟に案内された。

病棟も病室も想像以上にボロく、また、私が入院した3階フロアにはほとんど末期を匂わせるご老人しかいない。何だか情けない気持ちになったが、入院病棟なんていうのはこんなもんだろう、とも思えたし、これまでの数えるばかりの入院体験でも似たような環境に置かれた気がしてきた。とはいえ、廊下を歩く度に、周囲の部屋の入口から自然と眼に入ってくる、干物のように痩せてしまい、苦渋の表情を浮かべて寝たきりになっている婆さんの姿などを眺めて、何だか凄いとこに来てしまったな、という感慨を払拭できないでいた。

すぐに、点滴が始まった。まだ8度代の熱があり、昨晩からろくにモノを口にしてないので点滴が有難い。しかし、これでもか、と生理食塩水やら抗生剤やらを含む何本もの液体を点滴投与され、少し不安になる。一体私の喉は治るのだろうか。

まだ頭がボーっとして横になると直ぐに寝てしまう。気がつくと連絡しておいたピーの声がしてこと子を抱えて姿を現した。着替えやら必要なものをたくさん持って来てくれている。インフルエンザが流行っているので乳幼児の面会はNGと聞いていたが、あっさり通過して入って来ている。私は念のため乳幼児はNGらしいんだけど、と伝えたがナースステーションの人にオーケーをもらったらしくもうよく分からない。

ピーにこれまでの治療の経緯や、大体5日目安の入院になりそうなこと、などを話す。さっきまで話すのもシンドかったのに話せるようになってる自分にも驚く。程なくして連絡しておいた父もやってくる。いきなり私のベッドが賑やかになった。

父は、自分も幼い頃扁桃腺をよく痛めて何度も病院に通ったこと、そして最終的に扁桃腺を切除し、それから以降は何ともなくなった、という昔話を披露した。私はそんな事は初耳だったので驚いた。昔は扁桃腺を切るのが普通で、今はそんな乱暴なことは容易にしない、という話しは何となく聞いたことがあったが、まさか父が扁桃腺を切っていたなんてことは露も知らなかった。

ピーと父が帰ってまた1人になったが抗生剤が効いているのか、喉の痛みがほとんどなくなってしまい、熱も下がってしまった。私は病院の治験に驚き、これならもう明日退院でもいいじゃないか、くらいに思った。

晩の病院食が何の苦痛もなく食べられて私は神に感謝した。思わず完食した膳に向かって手を合わせた。何でもないようなことが、幸せだったと思う〜、ザ・虎舞竜の曲が脳内で再生されるようだった。

その夜私は、やはりまだ身体が疲れ切っていたのだろう、消灯と同時に直ぐに眠りについたが、老人ばかりの病棟であるせいか、病室内がやたら暑苦しく感じられ、眠るたびに大量の汗をかいて頻繁に目を覚ました。ピーが沢山持って来てくれた着替えも底をつき、このままだと風邪を引いてしまうので、仕方なく汗だくのシャツを、洗面所に併設されたランドリーの乾燥機にかけて乾かしては着替え、また底をついては乾燥機にかけて、と夜中に病棟内をウロウロした。

翌日も体調はよく、病院食も問題なく食べられるし、思ったよりも楽勝なんじゃないか、と思わせた。T医師も、うん、経過良好ですね、このまま順調に行くんじゃないですか、と楽観的なことを言ってくれる。
「ただ、昨日から点滴してるステロイド剤はかなり強力なクスリなので明日の夕方くらいまで慎重に経過を見ましょう。ステロイドが切れてぶり返すことがありますから」
楽観的な一言の後にそう釘を刺した。

2日目もいろいろの点滴をしたが、本を読んだりスマホをいじったり、特段退屈しない。

午後、ピーがこと子を連れて面会に来た。しばらくお喋りしてたらこと子が泣き出して、何だか気まずいのでピーが帰り支度を始めてたら看護師がやってきて、乳幼児の面会はNGなんです、と怒られてしまった。昨日はスルーされてたはずなのに、うーむ、この問題はグレーゾーンなのだな、と思った。

表面的には院内でインフルエンザの感染が激しいので乳幼児の出入りを禁じているのだが、もしかしたら子どもの泣き声問題なんかも絡んでるのではないか。余計な詮索をしても仕方ない。明日からはまた別の対策を考えよう。

夕飯時に今度は父が慌ただしくやってきて、秩父に行ってきたのだか何だかで土産を乱暴に置いて帰った。ビニール袋の中にカブの千枚漬けとプリンが3つ入っていたが、そのうちの1つはカラメルが溢れ出していて大変なことになっていた。私のベッドには冷蔵庫など無いことにも気づかなかったらしく、仕方ないので窓の外にそっと土産袋をしまった。

その日の夜は21時の消灯後も全く眠れず、音楽を聴いたり、手元灯で内田百間の「第1阿房列車」を読んだりしたが眼が冴えてしまう。消灯前から隣のオジさんのベッドから漏れるテレビ音が気になっていたが、消灯後もずっと漏れている。どうやらイヤホンの音が爆音で漏れているような感じである。

私はテレビが嫌いで5年ほど前に捨ててしまって以来見てないので、恐らくテレビ音の不快については人一倍敏感である。特にバラエティ番組の騒音がイヤホン越しにシャリシャリ伝わってくるような事態はことさら質が悪いではないか。眠れない私は追い詰められた。

24時頃になってもまだ漏れている。その癖イビキも漏れてくるのを確認した私は、彼がもはやテレビなど見ていないのに、電源を落とし忘れて寝落ちしてしまってることを確信し、遂にナースステーションに泣きついた。看護師の姉さんは、ありがとうございます、と私に礼を言い、すぐに私の病室まで駆けつけてくれ、隣の男性に、これ消しますよ〜、と声がけしてさっさと消してくれた。もっと早く、消灯直後に申し出ればよかったな、などと思いながら、ネットで調べた安眠のツボを3つ試したら、バカみたいにあっさり眠ってしまった。つづく
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扁桃炎闘病記1〜喉が痛い!まさかの入院!

1月9日、数日前より違和感があった右喉の痛みが一昨日あたりから激痛に変わり、唾を飲み込むのも痛くなった。一昨晩はそのせいで気道にも異変があるのか夜中何度も起きてしまったし、昨晩も同じく1時間毎に目が覚めてしまい苦しい夜を過ごした。

今日は仕事で、朝は幸い賄いの蕎麦だったので何とか食べられたが味がいつもと違って美味しく感じられなかった。勤務中から次第に声を出すのが困難になり出し、昼はパンを食べようとしたが喉の痛みはピークに達してきたようで口を開けるのも咀嚼も苦痛でしかない。買ってしまったモノだから無理矢理食べたが、味わうなどという贅沢な感覚は抱けず、泣きそうになりながら半端に咀嚼した固体を激痛を堪えて嚥み下すしかなかった。そして次第に痛みは右耳にまで達し始めた。

こんな日に限って仕事のスケジュールはハードで11時間くらい働いてクタクタになって帰宅。熱を測ると38.5度。ピーさんが用意してくれたお粥を口に運ぶものの結局それすらも苦痛でほんの数口で辞めてしまった。飲み物も飲めない、唾も飲めない、幸い明日から2連休なので明日の朝一で病院に行くと決意。風呂には入らず、ピーが風呂に入る間の子守りを余力で踏ん張るも、マスク姿で熱持ちの父ちゃんは嫌なのだろう、抱っこし続けてもずっと泣かれてしまう。

耳まで痛くなってしまったので、今度は横になるのも工夫が必要になった。私は普段腰痛の関係で枕を使わないで寝ているのだが、この喉と耳の痛みのせいで枕なしだとどうしても横になると苦しい。部屋にあった薄めの座布団を2つに折って右側を下にすると何とか横になれた。

日中から唾も飲み込めなくなっていて、唾が口に溜まるたびに何とかして吐き出していたのだが、そんなことでは眠れないのでバケツを枕元に置いて横になってみた。身体は草臥れているので眠ったが、やはり何度も起きては唾を吐いたりした。喉から耳にかけての違和感が尋常でなく、痰も絡んでいるような気持ち悪さが振り切れないのだが、痰をオエっと出すのも相当な痛みを覚悟する必要があるし、実際やろうとしても痛さでうまくいかない。

うつらうつらして、眠ったとおもったら呼吸が苦しくて目覚めて唾を吐き出し、時計を見て、まだ1時間しか経ってないのかよジーザス、とそういうことを繰り返して朝を迎えた。

熱は変わらず38度代を維持しておりボーっとしている。ピーさんが用意してくれたカリンの蜂蜜湯を痛みを堪えて少しずつ飲む。もちろん朝食は摂らずインタネットで予約した近所の耳鼻咽喉科に向かう。

実は2日前にこの喉の激痛は単純な風邪ではないかもしれない、と密かに思い始めていた。昨年の夏に、主に子供か、余程免疫力の低下した大人じゃないと感染しないという溶連菌、というウィルスにかかった時も似たような喉の激痛と39度代の高熱が出た。高熱が出るのが溶連菌の特徴なので、今回の場合は何だか違うような気がしていた。

何だろうと思いを馳せていた時、昨年同い年の同僚が扁桃炎という病気にかかり、飲食ができなくなって会社を休んだことがあったことに思い至った。扁桃炎じゃないか、他に喉の痛み系の病名を知らないのもあって私はそういう風に決めていて、溶連菌の時に親切にしてくれた保谷の内科に受診しようと思っていた。

しかし、昨日私のツイートを見た友人から、喉だけじゃなく耳まで痛いなら咽頭炎の可能性もありますから耳鼻咽喉科がいいですよ、とアドバイスをもらった。それで調べてみると確かに咽頭炎というのも疑わしいし、そもそも扁桃炎でも耳鼻咽喉科で対応してくれることが分かり、急遽田無の、行ったことはないが評判の悪くなさそうな、割りかし新し目の耳鼻咽喉科を予約したのだった。

ネットで予約したのでおよその待ち時間も把握でき、家を出るのも待ち状況を見ながらでよいので、受付をしてから程なくして診察してもらえた。

私より幾分若そうな、そして対応も嫌味のない医師で、私が書いた問診を見て、すぐにある程度予想がついたらしく、とりあえず口の中を覗き込んだ。
「これは扁桃炎が悪化してますね。扁桃炎には段階があって薬だけで治せる段階もあるのですが」
私の予想は外れてなかった。病名がついて何だか少し安心した。医師が続けた。
「扁桃炎が悪化すると扁桃腺の周囲までが腫れてきます。で、さらに悪化すると腫れている部分に膿が溜まっちゃうんですよ。長尾さんの場合、そこまで来てます」
私は安心したのも束の間、ことの深刻さに目の前が暗くなるようだった。
「これがさらに悪化すると気道を圧迫して呼吸困難に陥ります。可哀想ですが入院を強くお薦めします。」
おぉぉ、マジですか、まさかの入院宣告。医師がちょっと気道を見させてください、と俄かに細くて節のついた鼻カメラというのを、私の断りを得て鼻に押し込んでいった。違和感はあるが大して痛くもない。
「このモニターでカメラの映像を確認できるので是非ご覧ください」
というのでモニターに目を向けると私の鼻毛が極太にウジャウジャと、しかもハナクソを絡みつかせて投影され、大変見苦しい。鼻のテッペンまで行って折り返して、もうよくわからない肉の襞の連続である。そのうちに、コレが喉ボトケです、とM字の粘膜が写し出されたがM字の片方の山が明らかにだらしなく垂れ下がっている。それが膿で腫れた箇所らしく、応急処置として、そこに注射針を刺してできるだけ膿を摘出します、と恐ろしいことを言われる。

私は多少臆したが、この苦しみから少しでも早く解放されるのであればと容認。霧状の麻酔を口腔内に吹きつけられて、イキマスヨ、という医師の掛け声と共に針の刺さる痛みを覚えるがのたうち回る程ではない。刺した注射器を医師がそっと引っ張り何やら吸い出してる感覚が伝わる。これはなかなか痛い。はい、と言って引き抜いた医師が見せてくれた注射器にはドロっとして黄味がかった白い液体が溜まっていた。

どうですか、多少違いますか、と医師に尋ねられ、唾を飲み込んで見ると幾分引っかかりが緩和された気がする。それでもまだ膿は大分残ってるようで、後は入院先の医師にお任せする、ともう私の役割は終わったかのようなことを言う。残った膿は入院先で同様に針で摘出するか、ことによると切開で一気に取り出す必要があるかもしれない、とまた私を脅かし、では紹介状を書きますから、受付で待っててください、と締めくくった。

私は待合いに座り、もうすっかり入院することに観念していた。入院はしたくないです、などと抵抗する余地は幾らでもありそうではあった。しかし私自身がこの苦しみに相当に参っていたし、呼吸困難なる物騒なワードをちらつかされたら、いくら自然治癒力を標榜する私でもビビってしまった。入院となれば仕事を休まねばならなくなることとピーさんに迷惑かけることを、一瞬不安に思わないでもなかったが、事情を伝えればなんとかなるだろう、と大人しく医師の言葉に、はい、と首をうなだれるしか仕方がなかったのだ。つづく

コトコト1週間 2016年12月

12/18

休日。先日ジモティーで交渉成立したベビーサークルを3000円で譲り受けるべく朝一で実家の車を借りて中野の出品者宅へ。こと子がずり這いを始めてがむしゃらにうごめく様になったので、ピーにベビーサークルの必要性を訴えられていた。手造りしても高くつくし時間もないし、かといって新品買うのはそれはそれで高いし、と思案していた折にジモティーで頃合いのものを見つけられた。

ベビーサークルを車載して家に戻りピーとこと子を乗せて国分寺のカフェへ。何でもナチュラル系カリスマ衣服デザイナーの展示会。オレも好きだと思う、とピーに言われていたけどなかなかのお値段なので私はサラッとやり過ごした。隣の雑貨屋さんで月桃茶を買った。ピーの貧血対策である。

帰宅して車を実家に戻し今度は幡ヶ谷にオープンした友人のお店で忘年会。ワールドミュージック好きが高じて誘われるままにDJなんかをやりだした頃からの夜遊び仲間達の集まりで、子育て期に入った4.5組の親子を含む20人くらいが集合し、時間も15時からとファミリー向け。

ちょっと前までだったら子育てなんてまさかね、という感じだった酒飲み達が子供をあやしてる。母乳を終わらせたママたちは酒も飲んでいる。ピーは山形人で酒も強いがまだまだ母乳なのでジンジャエールを飲んでいる。私はビール2杯でヘロヘロになり、料理が美味いのでみんなと話すのもそこそこに食い意地を張る。酔いが回って子供達がウロチョロして大人もみんなニコニコ談笑してて楽しい。こと子も人がワイワイやってるところでは、そういう平和な空気に飲み込まれるのか割合機嫌を崩さない。

18時頃から三三五五に皆解散していく。私は新宿からの西武新宿線で爆睡してしまいピーに起こされて下車。帰宅後に炭水化物を食べたい、とまだ食い意地が張って味噌もちを食べようとしてたら、あ、コロッケ食べるの忘れてた、と2日か3日前にピーが買って食べ忘れていたコロッケのことを思い出して彼女が言った。流石にヤバいよね、捨てよう、とピーが続けたが、酔っ払いの私は、もったいない、と言って食べた。その後味噌もちも焼いて食べた。

12/19

朝起きると体調の異変を察知した。何だか気分が悪い。便意を感じトイレに行くとシャーっと水便が出た。ヤバい、と思いながら3、4回トイレに行き、遅刻してはマズい、と自分を奮い立たせて家を出た。

いつも通りの電車に乗ったものの、上石神井を過ぎたあたりで今度は吐き気がしてきた。次の鷺ノ宮に近付くまでにこれは吐く、ヤバい、と確信。せめて電車を降りて…、と何とか鷺ノ宮まで我慢し、ドアが開いた瞬間にホームの縁に駆けつけて嘔吐。幸い液体ばかりの嘔吐で臭いも酷くなかったが、通勤時間で、ホームに溜まってる通勤者からの視線が痛い。吐いてムカツキはひと段落し、次の電車に乗り込む。後始末の駅員に申し訳ない。

出社してからも下痢を繰り返し、外回りの仕事である私は辛い1日を過ごさねばならなかった。昼休憩は1時間、何も食べずに全力で眠った。退勤間際に上司に必ず病院に行くように重々言われ、面倒臭いな、と思ったが我が家には6ヶ月弱のこと子がいるし、同僚にもし万が一、と感染の可能性が心配になり、結局地元の大きな病院の時間外診療に行った。

熱を測ると38度あり、医師は、恐らくウィルス性胃腸炎で嘔吐物、排泄物に直接触れない限り感染しない、と言ってくれた。お約束の整腸剤、胃薬、下痢止め、嘔吐止めなどの薬をもらい帰宅。ピーが作ってくれた梅粥を食し、薬を飲んだ。ピーはあの昨晩のコロッケが原因じゃないか、といい、私も確かに食あたりならコロッケ説が濃厚かもしれないと思った。念のためこと子の風呂はピーにお願いして私は風呂に入らず寝た。

12/20

薬が効いたのか吐き気もなく下痢も止まった。天に感謝しパンを少量食べて出勤。

門前仲町で退室作業をこなし、別部屋の残務を済ませ午後1時過ぎ。休憩は銀座で取ることに決めていたので銀座に行きグループ会社の蕎麦屋で蕎麦を食べてアップルストアへ。

銀座に行きたかったのはアップルストアでSIMフリーのアイフォンを買うためで、私は悲願の脱ソフトバンクに邁進していた。初めて入ったアップルストアは、どこでアイフォンを売ってるのか、どこがレジなのか、赤いTシャツを着た店員は沢山いるのに、お会計はこちら、などの分かりやすい表示が皆無なので要領を得ない。ニコニコとした笑顔が不自然な店員たちの1人を捕まえて聞くと、あそこに並んでください、と言われ、言われたままに並んでいると10分くらいで用事が済んだ。アイフォンは買えたがアップルストアはもう来たくないな、と思った。

今日は会社の忘年会で、昨日の胃腸炎で出られるか不安だったものの蕎麦も美味しく食べられたし私の愛すべきメンテ部の飲み会なので出ることにし、午後の仕事を済ませ帰社して職場近くの居酒屋へ。少し遅れて到着した私は成り行きまかせに着席し、あんまり話したことないタイ人のアンシャリさんの横になったのでひたすらアンシャリさんと話した。後半は目の前に座っていた、普段はあんまり話さない韓国人のジャン君と話した。家は賃貸ではなくマイホーム購入に限るという話しを傾聴。

一次会が終わり、飲兵衛チームは二次会へと移ったが私はこと子の風呂業があるので帰った。病み上がりで酒を飲んだせいか就寝前に喉の異変を感じたので足湯をして寝る。

12/21

休日。足湯のおかげで喉の痛みが軽減されたがあまり食欲がない。今朝はこと子の初離乳食、ということでピーが張り切って重湯を作っている。風邪気味の私にも都合がいい。3人でお粥を囲んで朝食。初めは小さじ一杯で良いのだそうだが、意外にもこと子は積極的で小さじ2杯半くらいペロリとすんなり食べて、我々は笑った。こりゃ食いしん坊になるかもしれない。

食後すぐに実家に車を借りに行き立川へこと子のパスポートを取りに、また立川へ行ったついでにIKEAにピーが切望していたスパイスボックスを買いに行った。IKEAはあまり好きでないので最低限の買い物で、と念を押したが子供グッズには私も制限できなかった。結局細々としたものがカートに積まれてゆき、我々にしてはそれなりの買い物になった。食欲は引き続き湧かず昼はパンをひとかけら食べた。

田無に戻って車を返し自宅に戻り、程なくして整体のハーさんがやってきた。私は健康診断で軽度の左室肥大を指摘されていたので、心臓に重点を置いた施術をしてもらったら激痛の連続で何度も身悶えた。

ピーが施術を受けてる間は私がこと子を約1時間あやさねばならず、案の定すぐにぐずり出し、とにかく抱っこしながら部屋をウロついたり、揺らしたり、この間先輩ママに教えてもらった抱き方を試したりしてたら程なくして静かになり、遂に私の腕の中で眠ってしまった。至福の時間。しかし、重い、鉛のように重い…。

ハーさんは帰っていったが不思議なことにダルかった身体がどうやら整体後に引き締まり、俄然食欲が復活してきた。うどんがどうしても食べたくなった私が夕飯を作ることになった。食後はピーとやや揉めながらも台湾旅行の計画を練り、風呂に入って就寝。

12/22

曇り。昨晩のうどんのつゆの残りで雑煮を作って朝飯とする。食欲が戻り、美味しく食事が摂れる幸せを改めて実感。出勤。

南砂のニトリ、門仲のコーナンでリフォーム部屋に入れる備品の買い物。組み立て家具やら電化製品など大きいカートに満載してハイエースで運搬。何だか寒くなく、むしろ暖かい。昼はオヤジが仕込んで日が経ってしまったシメサバを焼いた焼きシメサバ弁当。

午後はグループ会社のホテルで行われるクリスマスパーティ用料理をハイエースで運搬する、というイレギュラー業務。暖かい、と思ってたら風が強くなり雨もぱらつく。今日はやたら運転している。ピーからこと子を児童館に連れて行って遊ばせてる画像が届く。最近気分転換に近所の児童館を利用してるらしく私も嬉しい。

帰宅すると豚汁と豚じゃがが迎えてくれ、食べ終わってからこと子をおんぶして皿洗い。初めておんぶ紐を使ってみたが、初めぐずついたもののそのうち寝てしまった。かわいい。

風呂を焚いてこと子を洗い、ピーの風呂の間またこと子を抱っこしてあやす。ずーっとびゃあびゃあ泣いていたが、ピーが上がる頃、昨日に引き続き私の腕の中で寝た。なんて可愛いんだろう。一仕事やり終えて一服し、お楽しみの南アハウス鑑賞に耽ってから就寝。

12/23

遅番なので子守りをして離乳食をこと子にあげて出勤。ランドリー清掃と退室立会いなど。二段ベッドの運び出しをしていると身体の異変に感づく。何だか風邪がぶり返してきてようなダルさである。

昼休憩を済ませ、家具の組み立て、皿の運搬、寝具交換などをこなしながらも熱が上がってきてる実感がある。何とか仕事を終わらせ、薬局でマスク、手袋、除菌スプレーなど感染防止アイテムを買って帰る。

熱を測ると39.2度。こと子が朝食べた離乳食の残りを私が食べ、解熱剤を飲んで手袋をはめてこと子を抱っこ。ピーが風呂に入る間ずっとギャン泣きされ、私はこと子をあやす体力もなく、ただただ泣く子を無感動に抱いているだけである。

風呂後にこと子が寝た後、調子悪い時に行うくるぶしまでの足湯をし、ホッカイロを腰と首に当ててさっさと寝る。何回か起きては着替え、トイレに行き、水分補給をして寝て…。

12/24

クリスマスイブ。解熱剤がかなり効いたのだろう37度代まで下がった。こと子にお粥をあげながら私もお粥を召し上がる。病人に離乳食は丁度良い。

熱は落ち着いたが解熱剤による強引な治癒でもあるし、先だっての緊急診療は簡易的な胃腸炎対応でしかなかったので、改めて信頼してる地元の内科に行く。家に赤ちゃんがいなかったらこんなに慎重にならぬであろう…。

内科ではインフルの検査もしてもらったが引っかからず、余計な薬も出されなかった。下痢が止まっているなら、咳による菌の飛散を防止するマスクさえしてれば感染も心配ないとのことなので安心して帰宅。ピーとこと子を連れ出してひばりヶ丘のそば屋に行き、美味しい蕎麦を食べる。

帰りにチキンを買って帰宅。ピーが晩の仕込みをする間、こと子をあやす。普段は洗わない手をよく洗って遊ぶ。しかしマスクは圧倒的にウケが悪い。私が笑いかけてもしかめ面をしている。パパの顔がマスクとメガネで覆われているから怖いだろう。ピーの仕込みが終わり1時間眠らせてもらう。

夕飯は我が家なりのクリスマス仕様でチキン、温野菜サラダ、スープ、パン。体調は悪化せず食欲もあり美味しく頂く。食後には手作りのフルーツパイが出てきて感動。こと子のお風呂は今日もピーにお願いして就寝。

12/25

37度代だった熱がついに平熱に下がった。感激。今日はもともと仕事が忙しい予定で、体調不良で休むのは避けたかったので助かった。

グループ会社のそば屋の蕎麦を運んだ後、新規リフォーム部屋への家具やら備品を運搬。熱が引いたので平常通り動ける快活さよ。

昼前からバイトのアキヨシ君にサポートに入ってもらいながらペンキ塗装と家具組立て設置など。すぐに日が暮れて寒くなってくる。病み上がりなので腰にカイロを貼ってきてよかった。気がつくと19時で急いで帰り支度。新宿の事務所にゴミを運んで帰宅すると21時半。

少しして近所の鍋会からピーとこと子が帰宅。素手でこと子を抱き上げ、マスクをとって、私も元気になったので全力であやすと最高の笑顔が返ってくる。溜めておいた風呂に入りこと子を沐浴してやる。

風呂後におっぱいでこと子が寝た。私は皿洗い。ピーが風呂から上がってくる頃、寝てたはずのこと子がむずかり出した。元気な私は飛んで行って抱き上げた。最近こと子がスムーズに入眠してくれる例の抱え方で揺らしてやると上手い具合にすっと寝てくれた。よしよし、慎重に慎重に、と体を傾けてこと子を布団に延ばすと、やんぬるかなウギャアと喚いて起きてしまった。

バンド漫記 第15話 キャンパスライフと私の居場所

根がクソ真面目な私は将来の夢がロックンローラーであったのにも関わらず、学力を判定する毎度のテストでも変に力んで一生懸命になってしまう傾向があり、その為高校の担当教師から、君は今の成績なら法学部も希望できると言われていた。中大の法科というのはかなり有名な学部らしいことを私はその時知ったのだが、まさか法律の勉強なんて微塵も興味が湧かなかった。そもそも先にも触れた通り中途半端な反抗心で大学行きたくない、と親を泣かせた経緯もあり、私は何学部を志望するのが妥当なのか全く分からなかった。

結局、私が選んだのは文学部の英米文学科だった。どちらかといえば国文学が好きで英米文学には何の興味もなかったのだが、とりあえず英語を勉強しておけば将来何かの役に立つかもしれない、とどこかで海の向こう側への興味がくすぶってたのだろうか。

中大の文学部は八王子の山の中にあり、通学はなかなか大変で、しかし長閑な、自然を抱く丘の中腹にあり、のんびりするには悪くない場所であり、東京を距離を置いて眺めるのにも最適な場所でもあった。

大学に入るといろんな地方から上京してきた面白い輩と沢山知り合える、と少しく期待していたが、入学して私が入ったクラスにいた連中は何ともつまらない人間の集まりにしか見えなかった。地方から来た学生は服装もダサいし、みんな周りの人間といかに仲良くなるかで必死になっているようにしか見えず、エスカレーターで上がった呑気な附属校生である私はそんな周囲をバカにして見ていた。高校でパンクやインディーズ、アングラといった価値観の洗礼を受けた私は相当に捻くれ、簡単に、また軽率に他人を蔑むような癖がついてしまっていたのだ。

生意気ざかりの私はガリ勉高校に入った時と同様か、それ以上の失望感を大学でも味わったが、せめて面白いサークルでも見つければ面白い人達がいるに違いない、と片端からリサーチしてみた。テニスサークルなど、集団合コンしたいだけだろ、みたいなチャラチャラした不愉快なサークルばかりが目について、結局、私を興奮させるようなサークルは見当たらなかったが、唯一美術研究会というサークルは異様なオーラを放っているように見えた。サークル勧誘の担当であるらしい方の風貌が明らかに異彩を放っていて、まるで世捨て人の気配すら感じさせ、熱心に勧誘してこない感じも私の注意を引いた。もちろん美術に興味はあるが自分のやりたいのはバンドだし、とも思ったが面白い人を探すのはここがいいかもしれない、と思い飛び込んでみた。

美術研究会、通称美研は、中大でも一応の歴史があるのだろう、キャンパスの端っこにあったサークル棟にサークル室を持っていた。そのサークル棟自体がいかにも学生闘争を想起させるような雰囲気を醸し出していたのだが、その中でも特に怪しいオーラが美研のサークル室には漂っている気がした。そこに出入りしてる人は実際怪しい人が多くて私は少し嬉しくなった。そして、怪しい人が多いのは美研だけでなく、隣の部屋にサークル室を構えていたフリーバードという全学連系のサークルも同様に怪しく、美研とフリーバードは所属メンバーがごっちゃになっていることが段々分かった。

そこで出会う人は明らかにアウトローな雰囲気をみんな持っていて、現役大学生ではないだろう老けた人もいれば明治の文豪のような風貌の人もいたし、ベルサイユの薔薇に出て来そうな中性的でガタイのいい人がめちゃくちゃ小さいランドセルをしょっていたり、とにかく理解不能な人達がいっぱいいて面白かった。

そのサークル棟で明らかに寝泊まりしてるらしい人もいて、私はここでボヘミアンとか、ヒッピーとか、左翼とかマルクスとか、普通の教育ではあんまり積極的に教えてもらわないキーワードをいろいろ知ることができた。

彼らは決して人当たりが良いわけではなく、これでは新入生が居つく訳ないよね、というちょっとした排他性があったので美研に入り浸るのは私の他に数名いたかいなかったか。それでも私はその中にいればいろいろ面白いことが起こるのではないかと思いそれなりに居座ってみたりしていた。そして、美研の人がやっていた「おしばな」というバンドにベーシストとして加わったり、それなりの交流をしていたのだが、それでも私はどこかで疎外感に似た何か、どうしてもそこが自分の居場所ではないような気持ちをずっと引きずっていた。

そんな中、大学1年の終わり頃であったか、私が高校から続けていたハイパーニトロのベースを弾いていたナリ君が新しいサークルを作ろうよ、と私に仕向けてきた。その頃私は美研に出入りしながらもバンドメンバーを含む、附属校上がりでチャラチャラしたサークル活動に馴染めずにいた数人と、キャンパス内で緩やかなコミュニティを形成しつつあった。ナリ君はそのメンバーでサークルを作ろうと言い出したのだったが、自分が会長になるのは億劫でその役を私に押しつけてきたのだ。

押しつけてきた、と言っても、丁度私も自分の居場所を作りたいと思ってたところだったので、面白そうだ、やろうやろう、ということになって私が代表になった。そこに集まっていた連中の興味対象がアングラな音楽、映画、漫画などのサブカルチャー全般だったので、私は「インディーズ研究会」にしようと思いついた。先に触れた通り当時はまだ「インディーズ」というワードにヒップなニュアンスが漂っていたのだ。

そういう訳で「インディーズ研究会」なるサークルが発足し、翌大学2年時の新入生歓迎期間から早速我々はチラシを作って会員を増やすべく奮闘した。しかし内弁慶なメンバーばかりで年下の学生を引き抜くのは容易ではなく、また興味を示す若者も少なかった。しかし、それでも数名の後輩が何となくいつくようになり、気がつくと段々サークルらしい雰囲気になっていった。

美研のような老舗のサークルでもないので部室があるわけでもなく、我々はいつもキャンパスの中央ステージ(略して中ステ)の一角を陣取り、つまらない授業の合間に、または授業を抜け出しては集まって屯し、ダベったりボール遊びしたりするような無邪気な活動が続いた。

メンバーも元附属校上がりの連中だけではなくなって、地方からやってきた輩や少ない人数ではあったものの女子も加わり、私はつまらない同級生、つまらない授業、つまらない学歴社会を回避するようなつもりでただただ集まっては時間を浪費するようになった。同時に何となくフィットしなかった美研には行かなくなってしまった。

イン研が私のバンド人生とどう関係があるのかと思うかもしれない。しかし私が後年始動させることになった赤い疑惑は、この「イン研」での無駄な戯れとそのメンバーの存在が初期の起動力の一部となっていたのは間違いないし、「あの時僕らは」という曲はズバリその頃のことを歌った曲である。私はまだまだ先の、大学卒業後の身の振り方を、いつも彼らと過ごしながら何となく妄想して過ごし、漠然とした不安を解消させるために彼らと無駄な時間を潰していたのではなかっただろうか。

つづく

コトコト1週間 2016年11月

11/18

整体のハーさんが出張整体で来宅するので部屋の片付けと昼食の準備。我々夫婦はハーさんの月一の整体で身体のバランスをとってもらっているのだ。ハーさんが整体をしながら、こないだ知らないクラブイベントに1人で行った、という話しをしたので、そうそう、私も今夜1人で未知のクラブイベントに1人で行くんだよ、と盛り上がった。

整体後、我々は姿勢がよくなるのだが、今日は休みだし夜はとんかつを食べに行こう、ということになり、近所の同僚が教えてくれたとんかつ屋に繰り出した私とピーは歩きながらお互いの姿勢のよさを讃え合った。東伏見のそのオススメのとんかつ屋までは新青梅をまっすぐ20分。ベビーカーを押して我々は何だか気持ちも清々しく、楽しく歩いた。

噂の「日の出」は昭和の佇まいを残した控えめなとんかつ屋だった。素早い動きで我々の注意を引いたおかみさんは、いかにもおいしいとんかつを揚げてくれそうな雰囲気を讃えて、出前から途中で帰ってきた柔和な表情の旦那さんと、そしてとんかつの味とセットで我々はすっかり日の出のファンになってしまった。こと子もご機嫌を損ねることなく、美味しそうにとんかつを食べる私達の姿をよだれをダラダラ垂らして眺めてくれるのだった。

満腹で帰った後こと子を風呂に入れて、安らかに眠ったのを見届けて私は久々の夜遊びに繰り出した。新宿で乗り換えて幡ヶ谷に着くと日付が変わっていた。

11/19

幡ヶ谷のクラブに南アフリカ発祥のトリッキーなハウスミュージックのDJが来日する、というので私は気になって来たのだが、途中まで楽しんだ後、今度は東高円寺のクラブで友達が回しているのが気になってきてしまい、どうしようもなくなってタクシーに乗った。普段滅多にタクシーになど乗らない私は、ここぞとばかりにオトナな気分を味わっていたが、運転手さんは、遅くまでお仕事ですか、などと頓珍漢なことを聞いた。

東高円寺で朝まで踊って、そろそろこと子とピーが起きるのではないかということが心配になってきたので外に出てみると、夜が明けているのに薄暗く、そしてすっかり雨が降っているのだった。幡ヶ谷の駅まで、新宿での乗り換えの途上、田無駅から家まで、私は傘を買うのがバカらしく、バカみたいだが雨に濡れながら走った。

息を切らして玄関を開けると、パンの焼ける美味しそうな香りがもわっと鼻を包んだ。昨晩ピーが仕込んだホームベーカリーが、まるで私の帰宅に合わせたかのように焼き上がったらしかった。雨に濡れて散々な気分が一気にほぐされるようだった。

寝起きのこと子の顔が特別に可愛かった。私は普段こと子の寝起きの顔を見てなかったことに気づいたが、こんなに可愛いならもっと寝起きを見たい、と思った。

ピーが、寝るか、ご飯食べるか、と聞いてくれるので、美味しいパンを食べてから寝ることにした。私はせめて起きている間だけでも、とこと子の子守りと朝食の準備のサポートを全力で務めた。

焼きたての美味しいパンを食べて、お言葉に甘えて床に着き、ようやく眠りに着こうか着くまいか、という絶妙のタイミングでイシダさんがドアを叩いた。ピーが授乳してたらしく出てくれとお願いされて、ハッとして私が出ると、日曜日の憲法を守る会の出欠を取りに来たという。イシダさんは共産党のおじいちゃんで私を気に入ってくれてちょこちょこ挨拶に来てくれるのだが、日曜日は仕事だし、私は寝ぼけていて対応がお粗末になっていたかもしれない。

床に戻るとストンと寝てしまい、軽く寝るつもりがピーに起こされた時はもう16時前だった。今日は保育園の申請の関係で市役所に行かなければならないのだった。急いで身支度を済ませ市役所へ。保育課は土曜日だが臨時的にやっているらしく、保育園に何とか子供を預けたい真剣な表情のお母さん達が集まっていて神妙な空気だった。

帰りに駅で買物をし、家にある野菜を集めて札幌一番の味噌ラーメンを作って食べた。初冬の冷気で冷えた身体がポカポカ暖まった。こと子はよだれを垂らして眺めていた。

11/20

お弁当を作りながらピーが歌ってるメロディが爆風スランプの「さよなら文明」と同じなので、爆風スランプ?と聞くが違ったらしい。確かに世代が違うが、気になってきたので出勤の電車でyoutubeを調べていたら「つよししっかりしなさい」というアニメの主題歌だった。リンクをピーに送ると、そのアニメは知ってるが曲は知らない、と。

直後に爆睡中のこと子の画像と、その顔が稲中みたいじゃない?とピーから。私はある時期からアニメ嫌いで稲中も人気があったのは知ってるが、見たことなかったのでそれで会話は終いになった。

グループ会社のそば屋の蕎麦をA君と運んでいたら、そば屋にテレビクルーの取材がやってきて、自慢のインドカレーをリポーターがわざとらしく褒め称えている。私は過去にこのそば屋の自慢のカレーを食べたが大して美味いとは思わなかった。それよりもニラ天玉そばが1番美味いのに、と賄いのニラ天玉そばをすすりながら思った。

ホームセンターでインターホンを購入し、門仲の物件で作業。馴染みの内装屋のBさんが仕事に息子を同伴していた。Bさんが仕上げた部屋でワッパを食べながらBさんと少し世間話。Bさんはギタリストでもあり、バンドを長く続けてきた私に作曲のコツを教えてほしい、と言ってくれたのだが、難解な質問なので満足の得られる返事ができなくて残念だった。

帰宅するとピーはこと子のウンチと夕飯の仕込みで大わらわだったので、すぐにこと子の着替えをし、夕飯ができるまで風呂の壁に滲んできたカビの清掃に取り組んだ。バランス釜の古い風呂場なので天井が高いため、作業用に買っておいた脚立が大活躍。

夕飯を食べてこと子を風呂に入れ、こと子とピーが寝てから私は気がかりだった喪中はがきの作成に着手。年賀状にしろ、挨拶状にしろ、私はテンプレートの何かを使うのが苦手でつい自分流の手造り感を出そうと余計な努力をしてしまう。結局1時くらいに草臥れて残りを後回しにして就寝。

11/21

緑豆を甘く煮たものに餅を入れ、お汁粉にして朝メシにしている横でピーがパッタイを作っている。パッタイは私のお弁当になった。出勤。

東京駅付近の物件で退室をした後、矢来町の倉庫で備品を搬入。門前仲町の物件の、昨日Bさんが仕上げてくれた部屋で備品の組み立てやペンキ塗り。途中でピーから電話があり、今日締め切りの保育園申請で、私の会社で書いてもらう書類に漏れがあった、と慌てている。それで急遽会社に連絡をし、ピーを私の会社まで来させることに。数時間後、無事書類の提出ができたと連絡が入りホッと一息。

帰り道は恒さんと一緒だったので子育ての話にひとしきり花が咲いた。雨が降ってフロントガラスがギザギザに東京シティーを映していた。

残業も少なめに帰宅するとピーとこと子が台所で横になっていた。申請手続きで大変だったろう。我々は簡単な夕飯にしよう、とパンとスープで済ませた。こと子は静かにしている。

こと子を風呂に入れ、ピーに授乳してもらい寝かせる。寝たかと思うとむずかり出し、私があやすと、オマエじゃない、と大泣きされた。風呂から出てきたピーにまた授乳してもらいようやくこと子は寝ついた。喪中はがきを完成させて就寝。

11/22

朝起きるとピーが饅頭を仕込んでいる。朝から凄いな、と思って見てみると色が茶色がかっていて、どうやら全粒粉である。普通の小麦粉を切らしていたとのことだが、せいろで蒸し上げられた全粒粉饅頭は豪華な味がした。

出勤し、今日は後半まで電車とバス移動。日本橋の物件の退室ゲスト立会いを済ませ、錦糸町へ。錦糸町の北口を改めて歩くと、なかなか個性的な味わいの店が多いことに気づく。昭和風の喫茶店や洋食屋に目が奪われる。

錦糸町の物件の定期清掃を済ませ、今度はバスで大島の物件へ。初めて使うバスなのでちゃんと目的地に着けるかハラハラした。何とか無事辿り着き饅頭弁当で腹を満たし20分ほど仮眠。

起きたらまた定期清掃。バイト時代はずーっとこの定期清掃をやっていた訳だが、久々に定期清掃に入って掃除の美学について改めて考えていた。

日が暮れる頃パートナーが車で到着。そこからは2人でリフォーム部屋の整備と写真撮影。シェアハウス業とはとどのつまり不動産業である。

残業になったので急いで帰宅し、風呂掃除。風呂場のタイルの一角に幼虫のような、綿で覆われた小さな物体を発見。興味をそそられ、流さずに放置。晩メシ、風呂を済ませ喪中はがきを完成させて就寝。

11/23

休日。木造アパートで冬を越すのに、今年から幼児がいるので寒さ対策が必要になり、先日ホームセンターで買っておいた断熱シートを貼る作業。寝室として利用してる8畳間の4枚並んだ窓の下半分に緩衝材のようなそのプラの断熱シートを貼る。霧吹きによる水分のみでくっつく不思議なグッズだ。

部屋の掃除機がけも済ませ、家族で花園神社の酉の市へ。歌舞伎町を通ってゴールデン街に抜け、裏通りから入る。昔、サブカル好奇心でここの酉の市で見世物小屋を見に来たことがあったがあれから何年も経った。

日中の酉の市は初めてだったが、有名なだけあってとにかく混んでいる。混雑を懸念してベビーカーではなく抱っこ紐で来たが正解だった。見まわすと子連れの家族も多い。去年ピーがミニ熊手を買って来ていたが、熊手は年々大きくしていくのだそうだ。私は熊手を買うことに馴染みがないし思い入れがないので、買うのは構わないけど、どんどん大きくなるのは困る、と思った。

結局2000円のを1つ買い求めて屋台でもつ煮と味噌おでんを食べた。私は熱燗を頼みポカポカしてきた。帰りは表の靖国通り沿いの、ここも屋台で賑わう歩道を冷やかし、ベビーカステラを買って、それを食べながら西武新宿へ。

始発で座れたのだが、日本酒が効いてすぐ寝てしまい、抱っこしていたこと子が不恰好に垂れ下がっていくので、こと子が泣き出し、隣からピーに注意され、ハッとして立ち上がった。それであやしてみたが、どうにもぐすつくので結局ママが抱っこ。

帰宅してぼんやりしてると父から電話。角上(近くにある鮮魚店)で買い物したからお前のとこで一緒にメシを食べよう、と例にないことを言う。ピーも特に異論はなかったので承諾。いつもは我々が実家に行くのだが、我家に父が来て呑むのは初めてだ。

簡単に部屋を整理して父を迎え、ワイワイと宴の準備。イカの刺身、サザエの壷焼き、ツブ貝の和え物、レバー煮、青梗菜炒め、カボチャの煮ころがし、海藻大根サラダなど賑やか。ある程度満たされたところでこと子が機嫌を損ねたのでピーが寝室に連れて行く。

その後差し向かいで父と飲んでいたが話題も尽きるし、隣の部屋からは機嫌の直らないこと子の泣き声。そろそろ風呂なのでなんとなく食卓を片づけながらオヤジに無言の圧力をかけたが、私が皿を洗ったりしながら振り返ると、父が私の部屋のレコード棚にもたれて潰れている。ビール後の日本酒で回ったらしい。

父をそのままにして風呂を沸かし、こと子の風呂を済ませた。風呂場の謎の物体は何と幼虫ではなくキノコで、はっきりとしたフォルムのキノコになってやたら丈を伸ばしていた。このキノコ事件に関してはピーも面白がって観察していた。

風呂後のこと子をピーが寝かしつけてくれる頃、私が父を起こし帰宅を促す。父は持ってきたはずの手袋がない、ない、としばらくフラつく足取りで右往左往していたが、見つからず諦めて帰っていった。

ピーは疲れたのかこと子を寝かしつけたまま隣でダウン。私はギターを取り出し少し弾き語りの練習をして寝た。

11/24

噂通り朝から雪が降っている。11月の段階で雪が降るのは54年ぶりだそうだがとにかく寒い。昨晩の残り物を食べて出勤。雪の影響で西武線20分以上の遅れで大混雑。

出社して事務処理後、門前仲町の退室整備に向かう。結構降っていたように思えたが路面に積雪はなく、スリップの心配はなさそうだった。

退室のお客さんはイスラエル人で「mor ory」という表記の名前。何と発音するのかまったく分からぬが、優しい人あたりのナイスガイに見えた。

部屋の整備を終え、昼食。曲げわっぱはその素材の特徴から、詰めたゴハンが美味しくなると言われているが、それを初めて味覚で明確に認知した。朝食べた炊きたてゴハンよりもっちりしっとりしているじゃないか。

腹が膨れて仮眠を取り、午後は大島、錦糸町、田端を巡回。田端の乾燥機に不具合の報告があったのでどれどれ試してみると、ガゴガゴガゴー、ゴゴゴーと聞いたことのない音をあげている。しかもドラムが回らない。どうしようもなさそうなので電源を抜いて業者に連絡。

帰社して事務処理とスケジュール提出。年末年始のシフト出しが悩ましい。何しろうちの会社は昨年から年中無休となったので年末年始に交代で出勤しなければならない宿命にある。隣で一緒に悩んでいた、二カ月違いの娘を持つ河野君が、うちの子ついに夜泣きが始まって、と苦い顔で報告してくれる。噂に聞く夜泣き、こと子もそのうち爆発するのだろうか。

帰宅してうどんの後こと子を風呂に入れたら、すぐに全力で泣き始めた。初めてではないし、さっさと済ませてしまおうと、泣かれるまま粛々と洗い、湯船に浸からせたが一向に泣き止まず、今までに1、2を争うボリュームで泣きじゃくるのだった。

風呂後のおっぱいでもぐずついているので、ピーを風呂に入れるために私が抱っこ。いつものことながらこの時間のぐずつきに私は無力ですぐに泣き出した。これはピーが風呂から上がるまでダメかもしれない、と半ば諦めながら私は家の中を歩き回りながら揺らし抱っこを続けた。歩いても、揺らしてもこと子は横隔膜を痙攣させながら泣くのをやめない。

5分10分と奮闘し、完全に諦めかけたその時、何のはずみでかこと子のはげしい呼吸が落ち着いてきた。これは、イケるかもしれない、と思うと同時にどんどん静かになってきた。こと子は私の方は一切向かずに一点を見つめているが、ゆっくりゆっくりと顔を私の胸に預けるようにし、ふとまた背筋で起き直りそんなことを繰り返しながら遂に顔を私の胸に埋めて寝てしまった。泣き続けられ少なからず動揺していた私に、シアワセだな、という感覚が、こと子のよく肥えた四肢の重みと共にズッシリと降りてきた。私は眠ること子を抱えながら、得意気な顔で、ピーが風呂から上がるのを待っていた。
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