アクセルの意気地記 第11話 ペッタンペッタン

こと子の成長を詳らかに記録するつもりでいたが、詳らかにするにはヒマが足りなく、またそれに伴う気力も持続するのが困難で、こと子も遂にこんなことができるようになった、などの発見は次から次へと更新されていき、どうしよう、どうしよう、と思っているうちに忘れていったり過ぎ去ったり。保育園の連絡帳のように毎日記録するくらいでないと、とっても間に合わない。

保育園といえば…こと子を預けているのは小規模保育の保育室というカテゴリーなので保育室と呼ぶが、その保育室が今年の3月をもって閉鎖されてしまうことになった。その保育室は60近くの室長先生の熱意に基づき運営されていて、室長先生の自宅のリビングが拠点であり、預ける時は我が家から歩いて5分ほどの、その先生のお宅に連れて行くことになっている。

ある日、私が休みの日で日中家にいた時だが、ピーの携帯に室長先生から電話があり、珍しく長話をしているな、と隣でそっと様子をうかがっていたらその内アイフォンを握るピーが、そうなんですか、としみじみ応えながら泣き始めてしまった。私はどんな会話が交わされているのか想像もつかなかったが、電話が終わって話しを聞いたら先生のお身体の具合が悪く、保育室を閉めなければならなくなった、ということを伝えられたのだそうだ。

お身体の具合というのは、どうやら元から患っていたガンの活動が身体的に顕著になってきた、ということらしかった。ピーも私もあの元気いっぱいの先生がガンを患っているなんてまったく気づかなかったし、そもそも身体の不調を認識しながら、でも元気なうちは大好きな保育の仕事に従事していたいという熱意によってあの保育室が運営されていたのか、ということを後から想像すると胸が詰まった。

先生はこういうカタチで閉鎖してしまい、保育室に預けてるご家族や子ども達自身に迷惑がかかってしまうことを涙ながらにピーに説明してくれたらしく、それでピーも涙腺が緩んで2人で泣きながらの会話になってしまったようだった。小規模保育というのは5人までの定員で2、3人の保育士がその子達の面倒をみる、というもの。ささやかな規模ながら、幼児と先生のバランスが濃密で、他の保育園より保育内容は行き届いたものであるだろうことが特徴らしかった。実際、私達はすっかり頼りにしていたのだが、元々小規模保育事業は2歳までの幼児が対象になっているのでこと子を預けられるのは2年しかなく、その後はいずれにしろ転園しなければならなかったので、転園が1年早まっただけ、という結論をいえばそれまでだが、せっかく保育室のお友達と仲良くなり、先生達のことも大好きになったこと子が次の4月から、また急に未知なる環境に放り出されることを想像すると不憫だった。

こと子は次から次へと言葉を覚えて発音するようになってきているのだが、たまに私の仕事が遅番とか休みとかで保育室までこと子を送りに行くと先生やみんなに「ハヨウ(おはよう)」と叫ぶ。元気で良いけど、トーンが少しキツめであまり行儀のいい感じではないのが可笑しい。

これに限らず覚えた言葉の中でも欲求を表現する類いの言葉はエゴイスティックな響きを帯びている。遠慮という概念を知らないのだから仕方ない。こと子は食い意地が張っていて保育室でもお友達の分まで食べようとするくらいらしいのだが、私がゴハンをあげている時なども、これまたぶっきらぼうに「ねえねえ!」という。語気に勢いがあるので何でしょう、と返すと、「もっとー!」と更に大声をあげる。見ると皿が空になっている。幼児の割に食べ過ぎじゃないかと心配して少しゴハンを追加すると、すぐにたいらげてまた「もっとー!」と叫ぶ。

とはいえ万事がそんなテンションな訳ではなく、絵本を持ってきて、読んで、という時には「これ、たい〜」と無愛想に小声で言う。これ読みたい、ということである。で、読んであげて、読み終わると大体「もっかい?」と語尾を上げて言う。語尾が上がるのは疑問形な訳ではなく、もう一回よんでくれませんか?という促しの語尾上がりである。この「もっかい?」ってのが飛び切り可愛いので私は毎度キュンとするのだが、これが何度も続いて3回も4回も同じ絵本を読まされると流石にシンドくなってくる。まあでも多くて3、4回。後はまた別の絵本を持ってくる訳です…。

この「もっかい?」がかわいいのでピーさんが私に、「これサンプリングしなくていいの?」とニヤニヤ迫ってきた。私は、確かにこれはサンプリングしてもいいかも、と思いアイフォンのガレージバンドを起ち上げたが、タイミングを逃して未だに録音できてない。スッパマイクロパンチョップ先輩は子供が出来てから音楽を作り始めたというけど、その感覚が多少なりとも理解できそうである。

そもそも私はこと子が生まれる何年も前から例えば「大きな栗の木の下で」や「大きなノッポの古時計」などの童謡を、そのメロディーの美しさを再発見して替え歌にしてカバーしたりしていたほどだが、最近こと子がハマってるYouTubeの幼児向け音楽なんかにも私の心を揺すぶるものがあるようである。中でも「ボウロのうた」というのが名曲で、私はこれもカバーしたいと考えている。しかもこと子のために買ったトイピアノで演奏したらさぞかしいいだろう、と密かに企んでいたりするほどである。他にも「どうぶつかぞえうた」っていうのも凄くよくってね。

ところでこのYouTubeの子供向けチャンネルに「東京ハイジ」なるチャンネルがあり、これには大変お世話になっている。というのはこのチャンネルでは幼児向けの唄やアニメが沢山見られるのだが、どれもクオリティが割と高くこと子もピーも私もお気に入り。歯みがきの歌、うんちの歌、お着替えの歌など、幼児の自立心を促すモノも多く、歯みがきもお着替えもこと子はこれらの曲のおかげで前向きに取り組むようになっていて感心してしまう。そして何よりこのチャンネルを流しっぱなしにしてれば、こと子は1時間くらいは飽きずにPCのモニターかぶりつきになるので、その間大人たちは家事や自分のやりたいことができたりするのである。

また、アイフォンも同様の便利さがあり、これをこと子に与えるとしばらく黙って没入していてくれる。幼児が画面のタッチやスクロールを瞬時にマスターするのを見ると改めてスティーブ・ジョブズの発明に嘆息が漏れる。こと子は特にピーのアイフォンに撮り貯められた自分の動画を見るのが好きで、1月の頭に西宮に遊びに行った時の動画を繰り返し繰り返し見て喜んでいる。西宮の友人は天然酵母のパン屋さんで、その友人の師匠のパン屋さんの軒先で行った餅つきの動画の中毒となってしまった。

当日こと子は小さいかいなで半ば無理矢理杵を握らされ、周りの大人たちに操られるように餅つきに参加した。餅つきを主導した3人の忍者が(サンニンジャーという洒落を連発していた)、こと子の餅つきに合わせて「ペッタン、ペッタン!」と威勢よく掛け声をかけた。そんな16秒の動画がこと子を虜にしたようで、当日の餅つきの時、本人は自分が何をやっているのか大して訳分かっておらずポーカーフェイスだったのに、後で自分が餅つきしている映像を見て興奮してしまったらしく、帰京後、なにかにつけてこと子はこの動画を見る見る、とうるさく言い募るようになってしまった。こと子は「ケータイ!」とか「ペッタン!ペッタン!」と事あるごとにねだるようなトーンで迫ってくるようになり、それが病的なレベルなのでピーも私も困惑している。

実はその同じ日のイベントで私はギターの弾き語りを頼まれたので、先述の「大きな栗の木の下で」の替え歌など何曲か歌ったのであるが、その動画もピーのケータイに残されていたので、こと子がこの動画を見ながら「大きな栗の木の下で」のメロディーと歌詞を覚えてソラで歌えるようになってしまったことは私としては嬉しいというか、なんというか。しかしそうは言ってもケータイ依存、YouTube依存は我々の危惧するところでもあった。目も悪くなろうし、そのほかの楽しい遊戯そっちのけになってしまったらピュアなハートを失ってしまうのではないか、などと考えながら。しかし私もピーもケータイ依存性だし、ケータイもYouTubeも我々の負担を画期的に軽減してくれるので、これは矛盾を孕んだ永遠の問いかけでもあるのである。
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バンドマンに憧れて 第23話 赤い疑惑の成り立ち

大学卒業後、天狗なる新たなバンドを結成し、空回りを始めて約1年が過ぎようとしていた頃事件が起きた。

その頃、私は大学からの友人だった女性に恋し始めていた。卒業後に急に仲良くなって、彼女は私とシマケンが住んでた家によく遊びに来るようになり、自然と3人で楽しく遊んでいた。ある日、私の不在時に彼女がウチに遊びに来ていたのに気づいた私はその時初めて異変を感じた。鈍感といえばそれまでだが、いつの間にか彼女とシマケンは出来ていたのだった…。

彼女に対する私の気持ちをシマケンには伝えていたはずなので、この展開は私には腑に落ちなかった。「手を出すな」なんてワイルドなことをシマケンに対して忠告した訳ではないし、そんな柄でもないので、2人が相思相愛になったからといって文句を言うのは筋違いというか、みっともないので、私は素早く諦めることにした。が、とはいえ、「実はそういう展開になっている」、または直接的に「オレ、彼女のこと好きになっちゃった」とかそういった類の挨拶がシマケンから事前になかったことだけがショックでショックでショックだった。

その問題が発覚してから私はシマケンに対して、絶交とは言わないまでも強い不信感を抱くようになってしまい、もう流石に一緒にバンドはやれない、という決断を下すにいたった。シマケンはシマケンで、クビにされたショックを隠しきれない様子だったが、私の意志伝達がきっぱりしていたから納得せざるを得なかった。

そしてシマケンとの同居生活はそれを機に破綻し、私は同じ西荻窪に風呂なしの6畳間を借りることとなり、シマケンは彼女を連れて沖縄に行ってしまった。余談になるが、後年シマケンと私は仲直りし、過ぎた過去を笑い、あの時は悪かった、とお互い反省して握手をした。そして彼女との付き合いが遊びではなく、遂には結婚して所帯を持つに至った時、彼の、彼女の人生のストーリーを素直に祝福することができた。彼は沖縄の陶芸工房で8年くらい修行して今では立派な職人になり、彼女の実家の群馬の田舎に登り窯を作った。

さて、6畳風呂なしのアパートで新たなバンド生活を始めた私だが、天狗のドラムが抜けてしまったので代わりの人間を見つけなければいけなかった。そこでイン研の後輩でドラムを覚え始めていたシュウちゃんにしばらく叩いてもらうことになった。

そんなある日、我が家でいつも通り松ちゃんとフワフワダラダラしていた時だ。ケーブルテレビにファミリー劇場という、古い昭和のバラエティーやドラマなどのみを専門に流すチャンネルがあるのだが、私は気に入ってそのチャンネルをしょっちゅう垂れ流しで見ていた。その時も同様にファミリー劇場を見るでもなくつけっぱなしにしていたのだが、その時画面に大きく「赤い疑惑」という文字が浮かび上がった。その言葉の語感のインパクトに私はび~んときて、コレだ、これをバンド名にしよう!と興奮して言った。松ちゃんも同様にピンときてたらしくお互いにニヤリと笑った。

天狗というバンド名にどこか違和感を抱いていたのだろう。その日から天狗は赤い疑惑と改名した。バンド名は日本語で、できればハードコア的なニュアンスを含むものにしたいと、常より思っていたのでこの名前はビンゴだった。そして私はシマケンとの気まずい一件を、何とか笑い話に昇華しようと思い、後付けで赤い疑惑というバンド名の由来にしたら面白いだろう、などと下らない妄想を楽しんでいた。

赤い疑惑という名前を掲げて我々は下手くそなりに出来上がっていった曲を自分のMTRで録音し、カセットテープの作品を作った。そしてもうオーディションなどという健気な努力をすることなどせず、gutspose時代に培ったパンク系のバンド人脈を頼ったりして地味にライブ活動を続けていたが、手伝ってくれていた後輩のシュウちゃんは就職するためにバンドを抜けることになってしまった。

振り出しに戻った私と松ちゃんはドラマー不在の穴をどうしたもんかと思いあぐねた。外部にメン募を出すという発想は、我々には違和感があった。飽くまでも「友達とバンドをやる」ということに拘っていたのだろう。そして1人の仲間に白羽の矢を立てた。

彼は沓沢といい、私と同い年で、イン研のメンバーだった。サークルに入る前から同じ英米文学科だったのでよく見かけていた。変わり者らしく髪の毛の一部を緑のメッシュで設えていたり、ジーパンにポップな柄の布を貼りつけて独創性をアッピールしていたり、目につく輩だった。その彼が私とは違う中大付属校の出身で、付属あがりの変わり者が集まっていたイン研に入ってきたのだった。

私もその頃は酒屋の前掛けでエキセントリックなバックを作ったりし、独創的なファッションに力を入れていたので彼のそういった部分に同情的だったが、学生のうちは特別に仲良く遊んだりしたという訳でもなかった。ただ彼も音楽が好きで、我々が足繁く通っていたインディーシーンのライブについてきたり、gutsposeのライブにしょっちゅう来てくれたり、とにかく近いところにずっと居た友人だった。

彼は当時、the boomおよび宮沢和史に心酔していて、それを聞いた時私はいつもの癖で、ダサい趣味をしているな、と軽くバカにしたりしていたし、彼はなおかつ私や松ちゃんのようにパンクに対して特別な思い入れを寄せていた訳ではないので、まさかその後一緒に音楽をやることになるとは思ってもいなかった。

彼はイン研の中でもその面倒くさがりな性格から、本人が望んでいたかは分からないが次第にダメキャラを定着させていき、メンバーからそのダメさを面白がられ確固たるダメポジションを築いていた。その最たるものが休学で、彼は自分探しをする、というような建前で大学を半年間休学したのだが、そんなことをしたって何も変わりはしないだろう、と周りは騒然と彼のその言動をなじったり、話しのネタにしたりしていた。私も当時作っていたフリーペーパーに休学する彼へのインタビューなんかをしてからかっていた。休学をした彼は特別重要な発見や進路開拓をした様子もなく大学に戻ってきてみんなを安心させ笑わせてくれた。

私が現役で大学を卒業し、松ちゃんは1年留年して卒業した。しかし沓沢はダメ大学生の本懐とばかりに2年目の留年に突入していた。そして2人目のドラマーが去り、困っていた私と松ちゃんは、溜まり場になっていた私の家に、留年学生の気楽さから毎度フラフラ遊びにきていた沓沢に白羽の矢を立てたのだった。その時点では彼のダメキャラに注目していたのだ。憧れのレスザンTVの先輩達がクズやカスがやるパンクというスタンスを標榜していたのに準じて、このダメな男をドラマーにしてしまおう、とその時は半ばいい加減に声をかけたのだ。

また、我々がレゲエにハマっていたのと呼応して、というよりむしろ私よりもかなり彼はレゲエに夢中になっているようだったので、その辺のセンスに期待したのかもしれない。ところが、当の本人は微妙な反応をしめした。バンドをやりたくない、という訳ではなく彼はどうせやるならベースがいい、と生意気にも拘りをみせてきた。レゲエのベースのかっこよさに心酔しているようだった。私は何度も、そんなこと言わねーでやってくれよ、と頼み続け、半ば嫌々スティックを握ってもらった。何しろ彼は暇だったから。

もちろん彼にバンド経験などなく、ドラムも正真正銘の初心者だったのだが、どういう才能なのか、最初にスタジオに入った時からなかなかキレのあるドラムを叩くのだった。シマケンやしゅうちゃんより明らかに筋がある。我々は、あのダメの沓沢がこんなドラミングを、と目を白黒させた。

我々が驚いて絶賛するのと、彼自身も意外とスムーズに叩けるのが分かったのとで沓沢は割りとすぐにドラマーとして加入する意志を固めていった。ドラムを叩く面白み、バンドでセッションする面白みにエキサイトしたに違いない。スタジオを重ねる毎に彼のドラミングは安定感を醸し、ローファイパンクを自認していた私や松ちゃんの演奏は、恥ずかしながら、むしろ初心者の彼に引っ張られるような感じになっていた。現在に至る赤い疑惑はこんな風にして産声をあげたのである。

つづく

アクセルの意気地記 第10話 羽根木公園で

羽根木公園に着くと、我々は荷物をどかっとおろし、出店の準備にとりかかった。出店用タープを張るのに私はこと子をおんぶ紐で背負う必要があった。天気は悪くないが曇りがちで空気がよく冷えていた。ピーさんが持ってきてくれたカイロを背中に貼った。

今日は子ども向けのイベントで、私は共同運営に関わっている気流舎のブースのお手伝いと、便乗して鹿肉料理を販売するピーさんのお手伝い、つまり子守に徹するべくやってきたのだ。

タープを張り終えるとモモさんやピーさんが店のレイアウトを始める。私は手持ち無沙汰になったのでこと子を抱えて会場をウロついた。準備をしている各店舗やブースを眺めて気になると声をかけたりして歩いた。子どもを連れているとこういう時の他人との接触がしやすくなっていることに気づく。

イベント開始時刻を過ぎても人は疎らで、このままでは気流舎の売り上げもピーの鹿肉の売り上げも大丈夫だろうか、と心配がよぎった。風は相変わらず冷たい。

私は気流舎のブースに戻ったり、会場をウロついたりを繰り返した。こと子を地面に下ろすと楽しそうにてくてく歩き出して、油断すると会場を飛び出して公園内のあらゆる方角へと勝手に進んでいってしまう。私は抱えたり、下ろしたり追いかけたりを繰り返す。

午前中、ひとつところに開かれたDJブースからアフリカ系の音が流れ始めたので私は自然とそちらに引っ張られていった。私はアフリカ音楽の虜なのだ。こと子を抱えたままブースの前で身体を揺らしていたら主催側のおねえさんがブースの前に出てきて何かMCを始めたので、私はそそくさとブースから離れた。するとすぐ隣で、枯れ枝で色えんぴつを作ろうショップがテントを張っていた。

子を持つ前までの私であったら素通りしている雰囲気だったが、私の腕の中にいる生き物の存在が私の足を引き止めた。向こうのブースでカレーを売ってるピーさんも、子守のオレにはこと子が喜ぶような行動をとってほしいと期待しているはずである。

枯れ枝えんぴつ屋さんはNHKの図工番組なんかに出てきそうな、ツナギを着たいかにもなお兄さんだった。子どもがナイフを使える年齢ならば子どもが創作を楽しむところだが、こと子は道具を使う能力がないので、材料を渡され枯れ枝を削り始めるのは私である。ここへきて、私はこと子のプレジャーに漬け込んで自分が鉛筆を削りたかったことに気づいた。

こと子を膝に乗せて肥後守というナイフで削り始める。こと子は最初のうちは興味深げに見ていたがすぐに飽きた様子で私の懐から抜け出そうとバタバタし始めた。私が選んだ桜の木は固く、私の作業は困難を極めたので、こと子をリリースしてみた。はじめのうちは私の周りをウロウロしていて、私は枯れ枝とこと子の姿を交互に注視しながら作業を進めた。

気を利かせたお兄さんが、そばにいた小学生くらいの娘にこと子を見守るように言いつけてくれて、しばらく私は真剣に枯れ枝削りに従事することができた。後でピーさんに報告した時に感心してもらえるように細部まで丁寧に仕上げようと私は必死になった。

その内、お兄さんの娘さんはこと子の子守に飽きたのか、ちょっと遊びに行ってくる、と言ってどっかに消えてしまったので、私はまたこと子の存在を気にかけながらソワソワと作業を続ける羽目になった。こと子はもはや靴も履かずにそこらへんの芝生を徘徊し始めている。目の届く範囲ならまあいいや、と私は作業を続けた。

すると後続のお母さんがやってきて、2人の息子たちが鉛筆作りを始めた。ほうほう、2人とも小さいのにナイフが使えるのか、と感心しつつ、気をつけて使うんだよ、などと、余裕のアドバイスなどしていたが、2人の息子たちは私より先に鉛筆作りを終えてしまった。帰ろうとしたお母さんが、何やら探してウロウロするのと、こと子の姿が見えないことに同時に気づいた私は焦って手を止めた。

どうやら2人の息子さんのうち1人の子の靴を探してるようだ。私は作業を中断して立ち上がり、テントの上り口で外を見回すとすぐにこと子の姿を見つけた。隣のブースのガチャガチャの前で他の子に紛れて立っている。コッピ!と声をかけると、笑ってこちらに戻ってきた。

戻ってきたこと子の足にはブカブカの見慣れないスニーカーが左右逆にくっついていて、私は狼狽して靴を探しているお母さんにお詫びした。お母さんは笑って許してくれ、靴を取られた息子は苦笑していた。

昼近くなると、一般のお客さんが急激にワラワラと増え始めた。カレー販売のピーが心配になり気流舎ブースに戻るとピーとモモさんがてんてこまいになって接客していて、ピーのフード販売のサポート役だったモモさんは鹿肉のソーセージを焼くフライパンから立ち上がる黒煙に包まれて大変なことになっていた。コンロの周りに敷いた民族系の布が油染みになっている。私は少しサポートに回ったが手伝えることが少なかった。

午後になっても人の入りは盛況で会場ははしゃぎ回る子ども達と、その父母で賑わい続けていた。私の友達も家族でやってきてどんどん和やかな雰囲気に包まれていった。

そして私はこと子を抱っこしたり放置したりして時間を過ごす。こと子は歩くのを覚えたてなので、とにかく隙さえ見つかればあっちにフラフラ、こっちにフラフラと歩いて行ってしまう。家にいる時もそうだが、どうやら境界に惹かれるらしくイベント会場から抜け出し、羽根木公園の出口の方まで歩いて行く。段差があると私の手を求める。私の手を引っ張りながら上がったり下がったり。

イベント中はほとんど曇りだったが、時たま太陽が雲の切れ目から顔を出すと、一気に身体中の細胞が喜んで解れる気がした。時節柄日没が早いのでイベント終了時刻も早い。ピーさんの鹿のカレーとウィンナーも無事売り切れてホッとした頃かほりちゃんが娘のらくちゃんを連れてやってきた。らくちゃんはこと子と約1ヶ月差なので最近よく遊ばせてもらっている。

こと子とらくちゃんが何となく再会を果たすが、2人とも息は揃わず、またすぐにそれぞれで遊び始める。ふと眼を向けると、その辺の落ち葉の上でこと子が蹴つまずき倒れ、立ち上がるのに必死になっている。立ち上がろうとしてうまくいかず、バランスを失ってもう1度こけた。それでも諦めないこと子は目の前で談笑していた知らないママの、タイパンツのようなゆとりのある青いズボンが、目の前手の届く距離にあったものだから、藁にもすがる思いで両手を伸ばした。側から観察していた私は流石にこれはマズいかな、とドキドキしたが、案外と、当の知らないママはそのことに気がつかない様子なので私は手を出さなかった。知らない人のズボンを手綱に果たして立ち上がったこと子であったが、立ち上がった瞬間にまたバランスを崩してうしろへ倒れてしまった。そこで泣き出したので私はようやくこと子を抱き上げた。

それから折角かほりちゃんが来てくれたので、と私はピーさんと店番を交代し、桃さんと何となく片づけをしながらチャイを売ったりした。仕込んだ料理も全て売れ、ハードワークから解放されたピーさんはこと子を連れ、かほりちゃんとらくちゃんと、楽しそうに出かけてしまうとしばらく帰ってこなかった。

バンドマンに憧れて 第22話 レゲエの誘惑と天狗のゆくえ

レゲエを初めて意識したのは高校生の時だ。当時テレビ神奈川で放映していたビルボードトップ40という音楽番組で聴いたのだ。この番組はアメリカのオリコンみたいなもんで、毎週だったかな、全米チャート40位以内にランクインした曲のMVをひたすら流していた。

私が高校生だから90年代の初めの頃だと思うが、全米チャートでUB40というバンドがエルビス・プレスリーのバラードをカバーして大ヒットをかましていた。珍しく母が、プレスリーの曲だからか反応して、いい曲ねと言っていたのを思い出す。私は単純にいい曲だとは思ったが、当時はオルタナティブロックやパンクロックにハマりかけていた時期なので、特に思い入れを持つことはなかった。

それに前後してビッグ・マウンテンやインナー・サークルなどのバンドもビルボードのチャートでヒットしていて、私はそれがレゲエという音楽であることを知ったのだが、当時ヒップホップに対して抱いたのと同様の違和感、というか自分が志すものとは違う、という強い印象があり、もちろんその頃はハーブもラスタファリズムもボブマーリーも知らないし、ロックやパンクの方が断然クールだと感じて特別な注意を向けなかったのだ。

それから大分後になって、大学の後半の頃、サークルのオタク仲間の間でレゲエが流行り始めた。パンクシーンの先輩バンドの中にはレゲエやダブを取り入れるバンドが現れ始め、そういうのに影響された部分もあったかもしれない。私もその頃にはレゲエはミーハーな音楽ではなく、どちらかというとクールな音楽なんだ、ということに徐々に気付き始めていた。

パンクやハードコアのタテの揺れ方からレゲエのもっさりとした横の揺れ方に気持ち良さやかっこよさを見出すようになった私と松ちゃん、同居人のシマケンやイン研の仲間たちは、しょっちゅう家に集まってフワっとしてレゲエを聞いたり、飽きもせず繰り返し何回も名作レゲエ映画「ロッカーズ」を観たりしてダラダラしていた。大学時代のサークルの溜まり場が我が家になったような感じだった。

またその頃0152と書いて「オイゴニ」と読ませるレーベルがルーツロックレゲエのコンピカセットをリリースして話題を集めていたが、我々もそれらのカセットを聞いて、何だか最先端のオシャレな音楽を聞いているような錯覚にとらわれていた。パンクとはベクトルが違えどレゲエも不良の音楽なのだ、ということも分かってきて我々は尚更好きになった。

また、レゲエに私が興味を持つ少し前の大学卒業後の東南アジア旅行中にレゲエへのガイダンスとなるような新しい音楽に出会ったことも印象深い。アンコールワットで有名なカンボジアのシュムリアップでのことだったと思う。湖畔のゲストハウスで、湖に突き出したムーディーなラウンジに居合わせたヒッピー風バックパッカーが何やら音楽を聴いていた。ポータブルの小さいスピーカーだったが、そこから流れてくる音楽に私はやたらと惹きつけられたのだった。

それはフォークのような、レゲエのような、それともローファイか宅録か?そのもっさりとしたスピード感とゲームの効果音のようなサンプリングが所々散りばめられた音楽に、独特の塩辛い声。まるで聴いたことのないテイストだけど、どこかにパンクの要素まで感じる…。私は堪らなくなって彼らにこの音楽は何なんだ?と片言の英語で迫ると、ああ、これかい、と気さくに答えてくれる。これはマヌ・チャオというアーティストのファーストアルバムさ、と答えるのである。

私はよく分からないのでアーティストのスペルを書いてもらった。更にこのCDがベトナムのCDR屋さんで売ってたことも教えてもらったのだ。丁度カンボジアからベトナムに陸路移動しようという旅程だったので私は興奮して、manu chaoというメモをしっかり握りしめた。

後日サイゴンの街角のCDR屋さんで私は目当てのマヌ・チャオのCDRを、バックパッカー向け定番、という感じで並べられていたボブ・マーリーの「レジェンド」と一緒に購入した。因みにCDR屋さんというのは、当時恐らく著作権管理の概念がまだ浸透してなかったであろう国において、海外のポップスのCDを、著作権を無視してCDRにコピーしまくって販売していたお店のことだ。ベトナム以外にも当然存在していただろうと想像するが、ベトナム滞在中に私は何度も遭遇した。私はどういう動機でかアフリカのギターの名手、アリ・ファルカ・トゥーレの作品などもその時買っていた。

マヌ・チャオがマノネグラという、日本でも人気があったフランスのミクスチャーバンドのメンバーだと知ったのは旅から帰ってしばらくしてからだった。何しろインターネットがまだ身近なものになるかならないかの時期だったからだ。後年ワールド・ミュージックにハマる頃にはマヌ・チャオの音楽が、パンクから始まってレゲエ、ヒップホップなどを吸収し、さらにはラテン・アメリカのフォルクローレなどにも影響を受けていたことを知り、出会った時期に受けた彼の音楽独特の不思議な無国籍感のルーツを知ったのだった。

さて一方、フリーターデビューと共に新たに始めたバンド活動の方はというと相変わらずショボい仕上がりでパッとしなかったが、バンド名の命名には力が入った。私はどうせならバンド名も日本語で勝負するのがいいのではないか、と思っていて、天狗舞という名前はどうか、ということになって松ちゃんもいいね、となった。シマケンは軽いヤツなので異議はない。もちろん日本酒の名前をそのままパクっただけである。

天狗舞というバンド名は、もっとシンプルな方がいい、ということですぐに天狗という名前に変更された。めちゃくちゃな演奏レベルのままライブも2度か3度やったはずだったが、何故かその頃、松ちゃんがやっぱりバンドを辞める、と唐突に言い出したのだ。いやいや、始まったばかりじゃんか、と私は狼狽した。

私がそれまでに最も感化されてきたパンクやハードコア、そしてレスザンTVなどへの思い入れはほぼ松ちゃんとのみ共有してきたもの、という自覚があったので困り果てた。私は何かを牽引する力が周りの人よりあるのだな、とサークルやらバンド活動やらフリーペーパー編集活動などから自己診断をしていたが、人を強引に動かしたり責めたりするようなことには向いておらず、松ちゃんを引き止めるのも無理矢理にはできなかった。

それでも松ちゃん以外の人間とバンドをやるなんてことはその時点では考えられなかったので、私は一策を講じた。確か、このライブを最後に辞める、と松ちゃんが決めていたライブで、私は白い安物のシャツの背中にデカデカと「お前なしでオレはハードコアパンクは続けられない」というようなニュアンスの英語のメッセージをマジックで殴り書きし、上にシャツを羽織った。ライブの途中でそのシャツを脱ぎ捨て、松ちゃんにその背中をわざと見せるようにライブを続けたのだ。

何というキザで野暮なことをやったんだろう、と思うが、何とこの一策で松ちゃんは安易にカムバックすることになったのである。後でこのことを本人に確かめてみたら、あの時バンド(天狗)を辞めようとしたのは、当時彼が掛け持ちしていた、幼馴染とやってるバンドの、その幼馴染のバンマスに、「タケシ(松ちゃんのこと)、お前は玄ちゃん(私のこと)から少し離れて自立した方がいい」とアドバイスされたのがきっかけだったそうだ。それくらいその頃の松ちゃんには迷いがあったのだ。夢見がちで自信過剰だった私が、バンドの道を共に進もうと誘ったばっかりに、色々悩んでいたに違いない。この頃松ちゃんは留年で大学にまだ籍を置いていた状況だったから尚更いろいろ考えていたかもしれない。そして翌年大学を卒業して松ちゃんもフリーターとなる。私達の、不器用で頼りなく、パッとしないバンドライフの幕開けであった。

アクセルの意気地記 第9話 おもちゃと絵本、そして断乳

子どもができるとお金がかかるから、とよく言われているが、服とかおもちゃは周囲から大量に譲ってもらったし、赤ちゃんのうちは食費も大してかからないし、ウチは世帯所得が低いので保育料も大したことなくて、今のところは首を絞められるほどではない。

こと子が1歳の誕生日を迎えた時にこと子に電子トイピアノを買ってあげようということになったが、これとて凄い高いものではないけど我が家にしては珍しく新品で1万円以上のお買い物。私がPCの脇に置いていたMIDIキーボードはPCに繋がないと音が出ないのだが、その鍵盤をこと子がよく弄るのでピーが折角なら音が出る鍵盤を触らせたい、と言い出し、それでトイピアノを買おうとなったのだ。

初めそのリクエストを聞いた時は、邪魔になるし、とか、まだ理解できないだろうし、とか難癖をつけて渋ってみせたが、自分でもう一度よく考えてみたら、私も鍵盤楽器を触りたいかも、と思うようになりすぐ心変わり。しかも誕生日プレゼントということでオヤジが買ってくれるということなので反旗はそっと折り畳んだ。

購入したトイピアノが届いたその日に1番それを弄ったのは難癖をつけようとしていた私だった。これ、弾き語りの飛び道具として使えるかも、などとあらぬ妄想まで広げて楽しんでいた。

その赤いKORGのトイピアノは一流メーカーの製品だけあって音は良好。音色も20種以上選べて、さらに内蔵された曲サンプルも20種以上あり、まだメロディを弾けずに鍵盤を乱暴に叩くだけしかできなかったこと子でも楽しめる仕様だった。初めは乱暴に叩くだけだったこと子もその内にポロリン、ポロリンと単音で音を出すようになったが、メロディの概念がないのですぐに飽きて別のおもちゃへと移る。

電子ピアノ導入と同時期に、今度はパッドが数個配置されている、雲みたいな形のおもちゃサンプラーもいただいた。パッドに何種類かの効果音やパーカッション、動物の鳴き声なんかがインストールされていて、モードを切り替えるとある程度のバラエティーで音遊びができる。これにもサンプル音源が入っていて、ただその曲を流すだけでも子どもは楽しめる。丁度、打ち込みやDTMに私が興味を持ち始めていたところだったので、私も楽しい。

パッドを叩くより、むしろサンプル曲を流すボタンを押し、曲に合わせて興奮して身体をくねらせることの方が楽しいのか、こと子はそのおもちゃを私のところに持ってきて電源を入れろ、という意味で「コレー、コレー」という。私が電源を入れると、「ゆかいな牧場」や「きらきらぼし」など皆んなの馴染み深い曲が数小節流れては止む。止んだらまた押す。するとまた次の曲が流れる。KORGのトイピアノと違って音が安っぽいのでピーはすぐに飽きて、私がおもちゃサンプラーに入っている曲を口ずさむと頭がおかしくなるからやめて、という。私はこと子と一緒にこのサンプラーの前でしばしば身体をくねらせている。

斯様に一段階前進した仕様のおもちゃを好むようになったこと子に、最近もう1つ大きな遊びが増えた。絵本である。絵本に興味を寄せるようになる時期というのはその赤ちゃんに依るのだろうか、前まで見向きもしなかった絵本に急にこだわるようになった。

家に早い段階から準備されていた絵本が数冊あり、それらを読んで聞かせるとあからさまにテンションをあげて笑ったり、叫んだり、仕草を真似たり、言葉を真似たりするようになった。活字好きの私としては非常に嬉しい変化だったし、ピーさんの風呂中の子守にも最適だ。

数冊あった中でも絵のタッチや色合い、または言葉のテンポなどで好き嫌いがはっきりして、福音館書店の「がたんごとんがたんごとん」や「ぺんぎんたいそう」は特にお気に入りで、しばらくの間は定番だった。

私は、遂に我が子に絵本の読み聞かせをする日が来たのか、とそれだけでしばらくは染み染みとしてしまった。そして自分でも不思議なほど、すっと読み聞かせのお兄さんになってしまい、感情豊かにことばを読み上げているのだ。心配していたが恥ずかしさというものがこの段階ではなくなっているのだ。何ということか。

ゆっくりページの中の言葉を読み終わろうとすると、こと子が乱暴にページをめくろうとして、下手すると一気に最後のページに飛んでしまったりするので、私はこと子の指の皮脂がちゃんと1ページだけをめくれるように、以下のページを抑えてやる。こと子のページのめくり方は容赦がないので「がたんごとんがたんごとん」は折れ曲がったり、ゴハンのついた手で触ったりでボロボロになってしまった。最近は子供が大きくなった友人からのおさがりで「だるまさん」シリーズや「ももんちゃん」シリーズが書庫に追加されたのだが、こと子はそれらをすぐに気に入って「がたんごとんがたんごとん」や「ぺんぎんたいそう」への執着が剥がれてしまったのか、ないがしろにされていて悲しい。

この絵本ブームのおかげで私もピーも子守のしのぎが少し楽になったが、困るのは、早く寝て1番早く目を覚ますこと子が絵本を掴んで、寝ている我々の顔の辺りに近づいてきて、「コレー」と言って絵本を顔に叩きつけることだ。別に危害を加えようとかいうことでもなく、腕の力加減のコントロールが未発達なのと、言葉が喋れないからそうなるので、怒るわけにもいかない。いてっ、とビックリして眼をこじ開けるとこと子が満面の笑みでこちらを見てるではないか。

ここ1ヶ月でこと子は遂に歩き始めて、ヨチヨチ歩くか歩かないかの時から1週間くらいで目覚ましく成長し、ほとんどハイハイはなくなってしまった。歩き出すと歩くのが楽しくて仕方がないらしく、抱っこしてても嫌がって下ろせ、と身体をバタバタさせる。靴を履かせて下ろすとあっちへフラフラこっちへフラフラ。

初めのうち、私が仕事から帰って晩飯を済ませると私の手を握ってきて、何かと思えば、その手を引っ張って玄関へと誘うのである。歩きたいから外へ連れてけ、という訳である。私は可愛いし嬉しいし楽しいので、いいよ、行くかと言って数日付き合っていたのだが、寝る時間が遅くなるという理由で母ちゃんからクレームが出たので夜のお散歩はそれきりになった。

こと子と初めて手を繋いで歩いた時のあの感覚は忘れ難い。恋人のようでも恋人じゃないし、他人じゃないし、まあ家族なのであるが、この感じたことのない尊さは一体何だろう、と胸が熱くなった。しかしこと子の身長に合わせるので私は屈まねばならず、すぐに腰が痛くなった。

夜のお散歩が流れてからすぐ断乳となった。こと子に歯が生えてきて、ピーさんが授乳で悲鳴をあげるようになったからだ。しかし、これは容易ではなく、それまでずーっと「おっぱい飲んで寝んねして」状態で眠りについていたからおっぱいなしで寝かせるのは骨が折れた。それにこと子にとって安堵の柱だった行為を無理矢理奪う訳で、何でおっぱいくれないんだろう、と気づいたこと子の泣き叫ぶ様は正直胸が苦しくなった。

そして、断乳の大変なポイントは、夜中こと子が眼を覚ましたら私が抱っこしてあやさないといけないことだった。母ちゃんが抱っこしてもすぐにおっぱいにアクセスできてしまうから、という道理でそうなんだそうだ。

いつもは夜中数回起きて泣く度に、ピーさんがすかさず授乳してこと子を黙らせていたので、私は初めのうちこそ泣き声に気づいてこと子を母の乳まで運ぶ仕事をしていたが、泣き声に慣れたのか、ピーさんの授乳が神業のように早いからか、数日でこと子が泣いても起きなくなってしまっていた。

しかし、断乳期は父ちゃんよろしく、とピーに頼まれて、なるほど、よし、分かりました。人間、覚悟が決まればどうにかなるもんで、断乳初めの夜中、こと子が泣いて起きると私もすぐに気づいて起きた。しばらく抱いてスクワットして頑張ると、そこまでこじれずにまた寝てくれた。大体10分かそれくらいだったか。それが2、3回繰り広げられるわけだが、これでまた一歩前進できるならなんてことない。

不思議なことだが、断乳して数日でこと子のおっぱいへの執着はなくなった。周囲から聞いた経験則通りだ。断乳成功である。そしてまた不思議なことだが、私がこと子の声に気づいて起きるようになってからは、ピーさんはこと子が泣いても起きなくなってしまった。が、そんなものらしい。
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