アクセルの意気地記 第2話

ピーとこと子と3人の新たな生活が始まり、畳の和室二間の私のアパートは一気に賑やかになった。こと子の身体はまだ小さくても、ひとたび泣き出せば我が家全体に響き渡る。

ウチのアパートは木造で隣のウチの話し声や、上の部屋のオジさんのオナラなんかも聞こえることがあるくらいなので、逆にこと子の泣き声でクレームを入れられないか心配になる。子供の騒ぐ声や泣き声が不快だからと、保育園が建てられないというニュースが流れる時代である。油断はできないが、かといってこれはどうしようもない問題で、もし今後クレームが入ったらその時はその時であるが、この狭い東京で生息するのなら子供の騒ぐ声や泣き声くらい我慢するのが人情である。

こと子は子供といってもまだ赤ん坊で、里帰りから戻ってきた最初の1、2ヶ月はひっきりなしに泣いた。赤ん坊が泣くのは当たり前である。腹がへっているか、排泄をして下半身が不快であるか、今の体勢が不快であるか、眠いのに眠れないか、大体そんなところの不満によるものだという。しかし、マニュアル通りに考えていても、泣き止ませるのは思ったほど簡単なことではなく、泣いて嫌がること子を上手にあやすことが自分にはほとんどできないことが分かってかなりショックだった。

私は仕事以外の時間はなるべく子守か家事など、ピーのバックアップに捧げようと力んでいたが、家事はまだしも赤ん坊を静かにあやすことの困難さに直面して戸惑った。もっとうまくやれるのではないか、と思っていたから苦笑の連続でもあった。上手くいかないのは人生と同じである。

確か2ヶ月目くらいの頃であったと思うが、私が抱っこした途端に毎回物凄い拒絶反応を示してこと子が泣きじゃくることが続いた。泣かれ、失望しても割合根気のある私であったが、これはどうしようもない、と驚くほどの嫌がり方で、しかし見兼ねたピーがやってきて私の手からこと子を抱き上げると、今までの拒絶は何だったの、と首を傾げたくなるほどにほぼ毎度ピタリと泣き止むので、呆れると同時にこれは何かしらの父親アレルギーなのではないかと疑った。

ピーは、諦めないで触れ合えば改善するから頑張って、と私の尻を叩いたが、こと子の拒絶反応が明確になってくるとピーも拒絶され続ける私に同情し始めた。その後ネットでそういう事例を調べたら、赤ちゃんによっては「パパ見知り」と称する、父親を拒絶する時期があるということが書いてあり少し安心した。この時期が長引くと数ヶ月続くこともある、とも書いてあり怖気づいたが、幸い2週間もしないうちにこと子のパパ見知りは終わった。

2ヶ月、3ヶ月の頃までは授乳の回数も頻度も多く、1時間おきとか2時間おきに授乳しなければならない、ということを子育てをして初めて知って驚きを隠せなかったが、表情もまだ少なく、泣いてばかりの赤ちゃんとずっと向き合って世話しなければならない母親のシンドさは想像を遥かに超えていた。だから私はバンド活動もほぼ休止してひたすらにできる家事や抱っこやらをしたが、それでもピーは疲弊していた。しかし、そういうシンドさを吹き飛ばすような、家族が増えたことに対する喜びと、こと子の笑顔とがピーを支えただろうし、私を支えていた。

首が座らないウチは抱っこするのも、持ち上げ方やら、角度やら、なかなか難しくていろいろ試行錯誤を重ねた。腕の中で静かになって寝てくれたような時の充足感は体験したことのない幸福感を伴うものだった。また、あやし方がまるで分からない私はひたすらピーのあやし方を盗み、参考にした。そういうことに関しての能力は、さすが母性というものなのか、度々私を驚かせたものだ。ピーにこんな才覚があったのか、と度々私は驚嘆し、尊敬し直し、同時に彼女がやることをことごとく真似ていった。

4ヶ月くらいになると首が安定してきて、笑顔や発声のバリエーションも増え、振り回す手足も元気いっぱいで、見ているだけで楽しく、私達はことあるごとにこと子が生まれてきてくれたことに感謝していた。彼女も私も、これまで生きてきて、何か何処かに満たされないわだかまりのようなものを抱いていた。少なくとも私はそうであったし、「私には音楽が」というような変なプライドがあり、そんな拘りから解放されずにいたようなところがあったのは確かで、そういうことにも気づかされたし、新たな目標ができた喜びは私を満たしてくれた。曲が生み出せなくなってもこの子をしっかり育てられれば、それはとても素晴らしい、代え難い人生の成果ではないか、と思えてきて肩の荷が軽くなったような気さえしていた。

こと子が生まれて間もない頃、私は誰かから、「娘さんですか、もう長尾さんもデレデレじゃないですか? 娘は永遠の恋人みたい、と言いますからね」と言われてビックリした。デレデレかどうかは知らないけど、娘が恋人? 私は、いやいや、冗談でしょう、まさか…、と答え実際に声を出して笑ったものだった。娘が可愛いのは分かるけど、恋人ってねえ、まさか…、と純粋に可笑しいと思えたし、物の例え、ただの誇張だろう、ぐらいに考えていた。

ところがである。そうやって数ヶ月世話をしていると、パパ見知りされた時、風呂に入れて泣かれた時、逆に私がふざけて上手く悦ばせられた時、私は相手が女子であり、この子には絶対に嫌われたくない、という感情が無意識に溢れてきて、そんな風にして、この子に嫌われたくないと思う瞬間は、まさに恋人に対する感情と瓜二つになってしまったことに気づいて急激に恥ずかしくなった。言われて、まさかね、とバカにしていたことが、言い得て妙であったことに後で気付いたというわけだ。恥ずかしくなったが、その嫌われたくない、という気持ちは大切なものだとも思ったし、恥ずかしがることでもない、当たり前のことにも思えた。

私はこれまでに愛とはなんぞや、ということを、一般的な青年男子並みに考えていた。女性を好きになったり、想いを告げたり、想いが通じて付き合うことになってみたり、そういうことを経験しても、それは恋という感覚、または情という感覚の範囲でしかなかなか捉えきれない。無償の愛、という言葉はよく聞くが、それが自分の内から感じられないと私はそんなものの存在を信じることができなかったのだ。しかし、いざ子供が生まれて育てている内に、それを愛と呼んで差し支えないだろう、と感じさせる、自分以外の人間に対する深い恋慕のような感覚をジワジワと抱くようになっていた。

それはこと子に対しては無論、こと子を生み、献身的に育ててくれているピーに対してもである。こんなことを表明するのは恥ずかしいが、いいんだ、いいんだ、恥ずかしがることなんかない。愛という感覚を偉そうに語りたい訳じゃなくて、その感覚の端っこの方だけかもしれないが自分の手で掴めたことが何だか嬉しいのだ。アクセルも子供ができたらいろんなことがいい方向に進むよ、と私に豪快に言ってのけた子持ちの友人があったが、彼の言葉が子育てをしているいろんな瞬間に思い出された。

私は日本型社会人としてうまく適応することができず、長らくフリーターとして凌ぎ、どうにかこうにかやってきたが、36歳の時にようやく自分でも苦痛を感じずに働ける職場を見つけて正社員となった。とはいえ世間的に言われる、いわゆる低所得労働者である。フリーター時代よりは多少稼ぎは増えたが余裕はない。今はこと子を預けることなく、ピーにずっと面倒見てもらっているので共稼ぎでもない。それでやっていけるのか全く心もとなかったが、良心的で親切な大家さんに出会うことができたり、周囲の人間から子供服やら何やら、自分達で購入しなくても事足りるレベルで譲ってもらったり、親からの祝賀的な援助があったり、今まで通りの質素な生活を続けてみたら以外にも私だけの給料で何とかやっていけるようだった。

養っている、と偉そうに言えるほどのものではないが、自分の労働で家族3人が何とか生きていることに驚きを感じつつ、私の第2の人生が幕を開けたのだな、という感動をことあるごとに覚えている。ピーと喧嘩をしたり、病気になったり、シンドい日々が続くことがあったり、躓いたりすることは今まで通りでも、喜んだり楽しんだり、満ち足りた気持ちに包まれたりすることは今まで以上にある。自分や自分の人生を肯定的に捉えることができるようになった。いや、肯定的にならないと家族を幸せになどできないのだ。そういうことがこと子を育ててみて何となく分かってきたことである。
スポンサーサイト

扁桃炎闘病記3〜まさかの手術と退院

3日目、点滴が極端に減って一本になった。喉の視診による具合も良好で、午前の診療で医師に、もう大丈夫そうですね、予定通り土曜日退院で問題なさそうですね、と励まされて私もその気になった。昨日の時点ではステロイド剤の効き目もあるから明日の夕方くらいまで、つまり今日の夕方くらいまでの経過観察が肝要だと言っていたけど大丈夫なのかな、とチラッと心配したが、医師がそう言うなら大丈夫なんだろう、と楽観視に寄りかかることにした。職場にも経過良好で、と連絡を入れ、退院予定の翌日から出勤できる旨を伝えた。

そして外出許可も出たので午後は外出して自宅に帰った。こうなると、もう入院も退院もよく分からない状態で、私自身も困惑したが、ピーとこと子を2人きりにするのを少しでも回避できるので、有難くその状況を謳歌した。たった2日ぶりとはいえ、シャバの空気は清々しく冬の陽光は美しかった。自宅には2時間半ほど滞在したが、その間ネットフリックスで「深夜食堂」を観て泣いた。こと子は元気に這いずり回って私を楽しませた。

病院に戻って夕飯を食べてる時に、おやっ、と何だか喉の痛みがまたぶり返してるように感じた。アレだけ順調視されていたのにこの展開は私をまた戸惑わせた。同時に朝心配した、今日の夕方までの経過観察が肝要なはず、という昨日の医師の言葉を思い出し、私の不安はさらに募り始めた。ステロイドが切れてまさかのぶり返しが始まっているのでは。

その夜はぶり返した喉の痛みとその違和感による気道の異変で苦しくてまんじりともできなかった。眠りに就いたと思うと起きて、ということを繰り返し、起きるたびにどこかの病室のお婆さんの甲高い悶絶の絶叫が聞こえて心底恐ろしくなった。

翌朝、ニコニコとやってきて、どうです長尾さん、具合は、と満面の笑みでカーテンから顔をのぞかせたT医師に、痛みがぶり返してきてあまり眠れませんでした、と告白すると、T医師は血相を変えて、すぐに診ますっ、診察室に来てください、と言い放ち、本人も慌てて診察室に戻っていった。その時の医師の深刻な雰囲気だけで、私はもう絶望的な気分になり1階の診察室に暗い気持ちで降りていった。

口の中を診てすぐに、
「あー、また膿が溜まっちゃいましたね、すぐに切りましょう、ごめんなさいね」
T医師の判断は私にノーと言わせる隙を与えなかった。ごめんなさいね、というのは、昨日楽観的な判断をしちゃってごめんなさいね、ということだろうと、瞬時に推測しつつ、私は多少医師の軽率な判断を恨みがましくも思ったが、この医師の慌てようからしたら、一刻も早く膿を出さないと私のためにもならないのだ、とすぐに納得した。

「じゃあ、隣の部屋で同意書にサインしてもらいますね、ちょっといいかな」
同意書? 私は隣の部屋に移動させられ手術の同意書に名前を書かされることになった。手術には患者の同意が必要であるらしく、これから恐ろしいことが行われることへのサインであるが、あまりの展開の早さに私の頭は混乱したままだ。

サインをするとT医師は、じゃあすぐやりましょう、と言ってさっさと元の診療室に戻ってしまった。一刻も早く切って膿を出した方がよい、ということなのか、まだ朝一だし、これから通常の外来が始まるから焦っているのか分からないが、私も泣きそうな気持ちで後に続いた。

診療台に座ると年増の女性看護師が私の両側でせわしなく動き、私に薄いピンクのビニールエプロンをつけ、これを持ってください、と言い、底の浅い、歪んだ楕円のアルミの皿を、私に両の手で持たせた。オペといえばすぐ連想できるあの皿だ。私の心臓は恐ろしさのせいで一気に縮み上がりそうに思われた。

T医師が、まず局部麻酔を、と言って開かせた私の口に注射器を挿入し、ちょっと痛いですよ、と言う。私の口は押し広げられているのだから最早返答もできない。続いて針が刺さって何か注入されてるような不快な痛み。私の認識だと虫歯の治療などのように麻酔してから数分、その麻酔が効いてくるまで休憩があるはずだが、T医師は直後にまた注射針を刺した。

この時の記憶は、あまりの早業だったし、口を開けているため上を向いてるからはっきりしないが、恐らく初日に膿を出した時の注射器が挿入されたようだ。やはり痛い、痛い。T医師は、よしここだ、と言って刺した注射器を抜いたと思ったら何やら物騒な鋭機が、間髪入れずに口の中に入っていく、そして同時に信じられないような痛みが喉の辺りを襲いかかった。

私は痛みのあまり、ウグワァ〜、と声にならない呻きを挙げた。どうやら切開されたらしく、
「じゃあ、膿を吐き出してください!」
と誰かに言われたので口の中に広がった液体を、先ほど握らされたアルミの皿に吐き出した。私は痛みと血みどろの液体を前にして意識が遠のきそうだった。

T医師が、こんなに出ましたよ、と私にその血の混ざった膿の液体を確認するように促したようだったが、私は痛みのせいで動転していたし、最早そんなドロリとした液体を見る余裕などなく、無論そんな気分にもなれず一瞥して俯いた。私から皿を受け取った看護師が私を診療台から下ろして脇の中待合の席へ誘った。痛すぎて何も思考が働かない。私はまた呻いた。

看護師が、痛いですよねー、でも今がピークですから、と言って私の肩に手を差し伸べたようだった。気がつくと私は涙を流しているではないか。ホントに痛いと無意識で涙が出てくるのか。私は呆然としたまま数分の間、ただこの激痛がどうかなるのを待つしかなかったが、痛みは軽減する気配がない。が、ここにずっとこうしてる訳にはいかないし、と残りの根性で立ち上がった。医師は、切開したので、もう悪化することはないと思います、と言い私を安心させようとした。扁桃炎の菌は切開して空気に接触すると壊滅するらしい。

私の頭は回らないが、後は病室に戻って静養すればいいらしかった。痛さで自然と腰が曲がり、フラつきながらエレベーターに乗り病室に戻ってベッドに座った。一体何だったんだ、こんなに辛いのは十数年前に手術で脛を切った時以来だ、と思った。切った喉の奥の辺りに傷跡からの血や痰などが絡まっているような感じで、オエっと一気に吐き出したいが、痛くてそれもできない。気持ち悪いので何度も洗面台に行き、口に溜まってしまう何やら液体を吐き出した。

1、2時間するとようやく意識がまともになってきてスマホを観られるくらいになった。そしてまた抗生剤の点滴が始まって情けないことだが何となく安心した。痛みも徐々にではあるが減退してきてるようで、唾を飲み込むのも痛み方が傷に染みる痛みで、今までの引っかかるような強烈な痛みではなくなっている。私はようやく、これで良くなるのかもしれない、と希望の光を掴んだ。

しかし、昨晩からの喉の悪化、そして今朝の手術という流れで、私は退院予定の翌日と翌々日、つまり明後日と先明後日も朝、通院して点滴を受けに来るよう約束させられた。その為、明後日からの仕事復帰が難しくなったために、また職場に連絡しなければならなくなった。2日前に、経過良好につき、などという威勢の良い連絡を入れたばかりなので何だか気まずかったが、職場からは無理せず休んでください、と温かい返事。心苦しいことであるが、電通のようなブラック企業じゃなくてよかったと安堵した。

心配してこと子を抱いて午後やってきたピーとは、1階のロビーで面会した。病室だと文句を言われるからだが、何とも言えず切ない感じだ。点滴も効いたのか少し元気になってきた私はこと子を持ち上げて可愛がった。売店でプリンを買って2人で食べた。売店の脇の2列に並んだ長椅子の端に腰掛けて、同じように周囲に腰掛けた病人やお年寄りの中で密やかに小1時間をそうやって過ごした。

夕方、T医師がやってきて術後の経過を見たいので、とまた私を診察室に呼び出した。医師はその後膿が出てないかの確認ということでまた患部に針を刺した。膿は殆どなくなり、よくなっているという。患部に針を刺すのは一瞬で切開に比べれば何でもないが、もう痛いのは懲り懲りである。

結局、翌朝も患部に針を刺し、膿が出なくなっているのを確認すると私は晴れて退院の身となった。翌日、翌々日の通院と点滴を済ますと一週間分の飲み薬で私は驚く程に回復した。健康って何て素晴らしいことなんだろう、と私は初心に帰った。

その後職場で2人の同僚から、実は自分もほぼ同じ時期に扁桃炎やっちゃって、という話しを聞いた。2人とも通院と飲み薬で改善したという。さらに、保険のニッセイの担当女性から、私の弟が長尾さんが入院したのと同じ時期に扁桃腺に膿が溜まって同じ病院に通院していた、という話しを聞かされて驚いた。扁桃炎が、余程数奇な病気であって、それに罹患した自分の身体は何やら相当ヤバい状態なのかな、と悲観的になっていた私は、それらの話しを聞いてただ何となくよかったな、と思った。完

扁桃炎闘病記2〜点滴による急回復

耳鼻咽喉科の医師による紹介状を受け取った私は、そのままの足で500mほど離れたN総合病院へ向かった。ここは私が幼い時に何度も通った病院で、建物は古ぼけていて、私の母がある時期ここの医師に不信を抱き、それ以来市内にもう1つあるS総合病院を利用するようになったため、私自身もN総合病院はあまり対応がよくないイメージだった。

しかし、もはやあれから20年ほど私は田無の総合病院の世話になっておらず、特にその病院に対する不信感なんかも忘却してしまっている。病院の気質も変わったかもしれない。今はもうこの喉の苦しみを解放してくれるならどんな病院でもいい。

入口を潜ると、見覚えのある景色が広がる。自動ドアが開くと、左手前を受付にして真っ直ぐに廊下が50mほど伸びてその左右に内科、外科、耳鼻咽喉科、小児科、消化器科、整形外科など外来が並んでおり、廊下中央と脇にズラーッと並べられた椅子にはむせ返る程の病人が座っている。こんな風に混み合った外来の様子自体が数十年前の光景と全く同じで、私はいささか困惑した。あまりにも不慣れなところに来た気がした。

受付に紹介状を見せる。チラっと隣の受付で慌ただしく接客を行なっているぽっちゃりした女子に目を奪われる。この顔、何処かで見たことがある、っつうか、絶対中学時代の同級生だ。そこまでは分かるのに名前すら出てこない。ただその澄んだような瞳が印象的で容貌を覚えているものの名前が分からない。

私は恥ずかしいので彼女に気づかれないように紹介状を受諾してもらい、そして耳鼻科の前で待つように言われた。入院患者枠は特別なのだろうか、大して待たされることなく私の名が呼ばれ、新たにN総合病院の担当医師となるT医師が、先ほどの耳鼻咽喉科の医師を更に上回るほどの爽やかな表情で私を迎え、先ほどと同じように鼻カメラチェックと、直接口を開かせて私の喉を検査した。

既に注射器による膿の吸い出しを終えた後だったので、
「とりあえず今日は点滴で様子を見ましょう。それで、もしまた明日以降必要であれば吸い出し、酷い時はちょっと切って膿を出しましょう。今日はもう嫌ですよね。注射、痛いですからね、アレ」
と爽やかにT医師が言ってのけた。私の苦しみを気遣ってくれるのは有難いが、最悪切開が必要なのか。私はやや暗澹たる気持ちになった。

診療はそれだけで終わり、私は入院患者として必要なレントゲン撮影、心電図、血液検査などもろもろの検査を受けて回り、昼を過ぎてようやく病棟に案内された。

病棟も病室も想像以上にボロく、また、私が入院した3階フロアにはほとんど末期を匂わせるご老人しかいない。何だか情けない気持ちになったが、入院病棟なんていうのはこんなもんだろう、とも思えたし、これまでの数えるばかりの入院体験でも似たような環境に置かれた気がしてきた。とはいえ、廊下を歩く度に、周囲の部屋の入口から自然と眼に入ってくる、干物のように痩せてしまい、苦渋の表情を浮かべて寝たきりになっている婆さんの姿などを眺めて、何だか凄いとこに来てしまったな、という感慨を払拭できないでいた。

すぐに、点滴が始まった。まだ8度代の熱があり、昨晩からろくにモノを口にしてないので点滴が有難い。しかし、これでもか、と生理食塩水やら抗生剤やらを含む何本もの液体を点滴投与され、少し不安になる。一体私の喉は治るのだろうか。

まだ頭がボーっとして横になると直ぐに寝てしまう。気がつくと連絡しておいたピーの声がしてこと子を抱えて姿を現した。着替えやら必要なものをたくさん持って来てくれている。インフルエンザが流行っているので乳幼児の面会はNGと聞いていたが、あっさり通過して入って来ている。私は念のため乳幼児はNGらしいんだけど、と伝えたがナースステーションの人にオーケーをもらったらしくもうよく分からない。

ピーにこれまでの治療の経緯や、大体5日目安の入院になりそうなこと、などを話す。さっきまで話すのもシンドかったのに話せるようになってる自分にも驚く。程なくして連絡しておいた父もやってくる。いきなり私のベッドが賑やかになった。

父は、自分も幼い頃扁桃腺をよく痛めて何度も病院に通ったこと、そして最終的に扁桃腺を切除し、それから以降は何ともなくなった、という昔話を披露した。私はそんな事は初耳だったので驚いた。昔は扁桃腺を切るのが普通で、今はそんな乱暴なことは容易にしない、という話しは何となく聞いたことがあったが、まさか父が扁桃腺を切っていたなんてことは露も知らなかった。

ピーと父が帰ってまた1人になったが抗生剤が効いているのか、喉の痛みがほとんどなくなってしまい、熱も下がってしまった。私は病院の治験に驚き、これならもう明日退院でもいいじゃないか、くらいに思った。

晩の病院食が何の苦痛もなく食べられて私は神に感謝した。思わず完食した膳に向かって手を合わせた。何でもないようなことが、幸せだったと思う〜、ザ・虎舞竜の曲が脳内で再生されるようだった。

その夜私は、やはりまだ身体が疲れ切っていたのだろう、消灯と同時に直ぐに眠りについたが、老人ばかりの病棟であるせいか、病室内がやたら暑苦しく感じられ、眠るたびに大量の汗をかいて頻繁に目を覚ました。ピーが沢山持って来てくれた着替えも底をつき、このままだと風邪を引いてしまうので、仕方なく汗だくのシャツを、洗面所に併設されたランドリーの乾燥機にかけて乾かしては着替え、また底をついては乾燥機にかけて、と夜中に病棟内をウロウロした。

翌日も体調はよく、病院食も問題なく食べられるし、思ったよりも楽勝なんじゃないか、と思わせた。T医師も、うん、経過良好ですね、このまま順調に行くんじゃないですか、と楽観的なことを言ってくれる。
「ただ、昨日から点滴してるステロイド剤はかなり強力なクスリなので明日の夕方くらいまで慎重に経過を見ましょう。ステロイドが切れてぶり返すことがありますから」
楽観的な一言の後にそう釘を刺した。

2日目もいろいろの点滴をしたが、本を読んだりスマホをいじったり、特段退屈しない。

午後、ピーがこと子を連れて面会に来た。しばらくお喋りしてたらこと子が泣き出して、何だか気まずいのでピーが帰り支度を始めてたら看護師がやってきて、乳幼児の面会はNGなんです、と怒られてしまった。昨日はスルーされてたはずなのに、うーむ、この問題はグレーゾーンなのだな、と思った。

表面的には院内でインフルエンザの感染が激しいので乳幼児の出入りを禁じているのだが、もしかしたら子どもの泣き声問題なんかも絡んでるのではないか。余計な詮索をしても仕方ない。明日からはまた別の対策を考えよう。

夕飯時に今度は父が慌ただしくやってきて、秩父に行ってきたのだか何だかで土産を乱暴に置いて帰った。ビニール袋の中にカブの千枚漬けとプリンが3つ入っていたが、そのうちの1つはカラメルが溢れ出していて大変なことになっていた。私のベッドには冷蔵庫など無いことにも気づかなかったらしく、仕方ないので窓の外にそっと土産袋をしまった。

その日の夜は21時の消灯後も全く眠れず、音楽を聴いたり、手元灯で内田百間の「第1阿房列車」を読んだりしたが眼が冴えてしまう。消灯前から隣のオジさんのベッドから漏れるテレビ音が気になっていたが、消灯後もずっと漏れている。どうやらイヤホンの音が爆音で漏れているような感じである。

私はテレビが嫌いで5年ほど前に捨ててしまって以来見てないので、恐らくテレビ音の不快については人一倍敏感である。特にバラエティ番組の騒音がイヤホン越しにシャリシャリ伝わってくるような事態はことさら質が悪いではないか。眠れない私は追い詰められた。

24時頃になってもまだ漏れている。その癖イビキも漏れてくるのを確認した私は、彼がもはやテレビなど見ていないのに、電源を落とし忘れて寝落ちしてしまってることを確信し、遂にナースステーションに泣きついた。看護師の姉さんは、ありがとうございます、と私に礼を言い、すぐに私の病室まで駆けつけてくれ、隣の男性に、これ消しますよ〜、と声がけしてさっさと消してくれた。もっと早く、消灯直後に申し出ればよかったな、などと思いながら、ネットで調べた安眠のツボを3つ試したら、バカみたいにあっさり眠ってしまった。つづく

扁桃炎闘病記1〜喉が痛い!まさかの入院!

1月9日、数日前より違和感があった右喉の痛みが一昨日あたりから激痛に変わり、唾を飲み込むのも痛くなった。一昨晩はそのせいで気道にも異変があるのか夜中何度も起きてしまったし、昨晩も同じく1時間毎に目が覚めてしまい苦しい夜を過ごした。

今日は仕事で、朝は幸い賄いの蕎麦だったので何とか食べられたが味がいつもと違って美味しく感じられなかった。勤務中から次第に声を出すのが困難になり出し、昼はパンを食べようとしたが喉の痛みはピークに達してきたようで口を開けるのも咀嚼も苦痛でしかない。買ってしまったモノだから無理矢理食べたが、味わうなどという贅沢な感覚は抱けず、泣きそうになりながら半端に咀嚼した固体を激痛を堪えて嚥み下すしかなかった。そして次第に痛みは右耳にまで達し始めた。

こんな日に限って仕事のスケジュールはハードで11時間くらい働いてクタクタになって帰宅。熱を測ると38.5度。ピーさんが用意してくれたお粥を口に運ぶものの結局それすらも苦痛でほんの数口で辞めてしまった。飲み物も飲めない、唾も飲めない、幸い明日から2連休なので明日の朝一で病院に行くと決意。風呂には入らず、ピーが風呂に入る間の子守りを余力で踏ん張るも、マスク姿で熱持ちの父ちゃんは嫌なのだろう、抱っこし続けてもずっと泣かれてしまう。

耳まで痛くなってしまったので、今度は横になるのも工夫が必要になった。私は普段腰痛の関係で枕を使わないで寝ているのだが、この喉と耳の痛みのせいで枕なしだとどうしても横になると苦しい。部屋にあった薄めの座布団を2つに折って右側を下にすると何とか横になれた。

日中から唾も飲み込めなくなっていて、唾が口に溜まるたびに何とかして吐き出していたのだが、そんなことでは眠れないのでバケツを枕元に置いて横になってみた。身体は草臥れているので眠ったが、やはり何度も起きては唾を吐いたりした。喉から耳にかけての違和感が尋常でなく、痰も絡んでいるような気持ち悪さが振り切れないのだが、痰をオエっと出すのも相当な痛みを覚悟する必要があるし、実際やろうとしても痛さでうまくいかない。

うつらうつらして、眠ったとおもったら呼吸が苦しくて目覚めて唾を吐き出し、時計を見て、まだ1時間しか経ってないのかよジーザス、とそういうことを繰り返して朝を迎えた。

熱は変わらず38度代を維持しておりボーっとしている。ピーさんが用意してくれたカリンの蜂蜜湯を痛みを堪えて少しずつ飲む。もちろん朝食は摂らずインタネットで予約した近所の耳鼻咽喉科に向かう。

実は2日前にこの喉の激痛は単純な風邪ではないかもしれない、と密かに思い始めていた。昨年の夏に、主に子供か、余程免疫力の低下した大人じゃないと感染しないという溶連菌、というウィルスにかかった時も似たような喉の激痛と39度代の高熱が出た。高熱が出るのが溶連菌の特徴なので、今回の場合は何だか違うような気がしていた。

何だろうと思いを馳せていた時、昨年同い年の同僚が扁桃炎という病気にかかり、飲食ができなくなって会社を休んだことがあったことに思い至った。扁桃炎じゃないか、他に喉の痛み系の病名を知らないのもあって私はそういう風に決めていて、溶連菌の時に親切にしてくれた保谷の内科に受診しようと思っていた。

しかし、昨日私のツイートを見た友人から、喉だけじゃなく耳まで痛いなら咽頭炎の可能性もありますから耳鼻咽喉科がいいですよ、とアドバイスをもらった。それで調べてみると確かに咽頭炎というのも疑わしいし、そもそも扁桃炎でも耳鼻咽喉科で対応してくれることが分かり、急遽田無の、行ったことはないが評判の悪くなさそうな、割りかし新し目の耳鼻咽喉科を予約したのだった。

ネットで予約したのでおよその待ち時間も把握でき、家を出るのも待ち状況を見ながらでよいので、受付をしてから程なくして診察してもらえた。

私より幾分若そうな、そして対応も嫌味のない医師で、私が書いた問診を見て、すぐにある程度予想がついたらしく、とりあえず口の中を覗き込んだ。
「これは扁桃炎が悪化してますね。扁桃炎には段階があって薬だけで治せる段階もあるのですが」
私の予想は外れてなかった。病名がついて何だか少し安心した。医師が続けた。
「扁桃炎が悪化すると扁桃腺の周囲までが腫れてきます。で、さらに悪化すると腫れている部分に膿が溜まっちゃうんですよ。長尾さんの場合、そこまで来てます」
私は安心したのも束の間、ことの深刻さに目の前が暗くなるようだった。
「これがさらに悪化すると気道を圧迫して呼吸困難に陥ります。可哀想ですが入院を強くお薦めします。」
おぉぉ、マジですか、まさかの入院宣告。医師がちょっと気道を見させてください、と俄かに細くて節のついた鼻カメラというのを、私の断りを得て鼻に押し込んでいった。違和感はあるが大して痛くもない。
「このモニターでカメラの映像を確認できるので是非ご覧ください」
というのでモニターに目を向けると私の鼻毛が極太にウジャウジャと、しかもハナクソを絡みつかせて投影され、大変見苦しい。鼻のテッペンまで行って折り返して、もうよくわからない肉の襞の連続である。そのうちに、コレが喉ボトケです、とM字の粘膜が写し出されたがM字の片方の山が明らかにだらしなく垂れ下がっている。それが膿で腫れた箇所らしく、応急処置として、そこに注射針を刺してできるだけ膿を摘出します、と恐ろしいことを言われる。

私は多少臆したが、この苦しみから少しでも早く解放されるのであればと容認。霧状の麻酔を口腔内に吹きつけられて、イキマスヨ、という医師の掛け声と共に針の刺さる痛みを覚えるがのたうち回る程ではない。刺した注射器を医師がそっと引っ張り何やら吸い出してる感覚が伝わる。これはなかなか痛い。はい、と言って引き抜いた医師が見せてくれた注射器にはドロっとして黄味がかった白い液体が溜まっていた。

どうですか、多少違いますか、と医師に尋ねられ、唾を飲み込んで見ると幾分引っかかりが緩和された気がする。それでもまだ膿は大分残ってるようで、後は入院先の医師にお任せする、ともう私の役割は終わったかのようなことを言う。残った膿は入院先で同様に針で摘出するか、ことによると切開で一気に取り出す必要があるかもしれない、とまた私を脅かし、では紹介状を書きますから、受付で待っててください、と締めくくった。

私は待合いに座り、もうすっかり入院することに観念していた。入院はしたくないです、などと抵抗する余地は幾らでもありそうではあった。しかし私自身がこの苦しみに相当に参っていたし、呼吸困難なる物騒なワードをちらつかされたら、いくら自然治癒力を標榜する私でもビビってしまった。入院となれば仕事を休まねばならなくなることとピーさんに迷惑かけることを、一瞬不安に思わないでもなかったが、事情を伝えればなんとかなるだろう、と大人しく医師の言葉に、はい、と首をうなだれるしか仕方がなかったのだ。つづく

コトコト1週間 2016年12月

12/18

休日。先日ジモティーで交渉成立したベビーサークルを3000円で譲り受けるべく朝一で実家の車を借りて中野の出品者宅へ。こと子がずり這いを始めてがむしゃらにうごめく様になったので、ピーにベビーサークルの必要性を訴えられていた。手造りしても高くつくし時間もないし、かといって新品買うのはそれはそれで高いし、と思案していた折にジモティーで頃合いのものを見つけられた。

ベビーサークルを車載して家に戻りピーとこと子を乗せて国分寺のカフェへ。何でもナチュラル系カリスマ衣服デザイナーの展示会。オレも好きだと思う、とピーに言われていたけどなかなかのお値段なので私はサラッとやり過ごした。隣の雑貨屋さんで月桃茶を買った。ピーの貧血対策である。

帰宅して車を実家に戻し今度は幡ヶ谷にオープンした友人のお店で忘年会。ワールドミュージック好きが高じて誘われるままにDJなんかをやりだした頃からの夜遊び仲間達の集まりで、子育て期に入った4.5組の親子を含む20人くらいが集合し、時間も15時からとファミリー向け。

ちょっと前までだったら子育てなんてまさかね、という感じだった酒飲み達が子供をあやしてる。母乳を終わらせたママたちは酒も飲んでいる。ピーは山形人で酒も強いがまだまだ母乳なのでジンジャエールを飲んでいる。私はビール2杯でヘロヘロになり、料理が美味いのでみんなと話すのもそこそこに食い意地を張る。酔いが回って子供達がウロチョロして大人もみんなニコニコ談笑してて楽しい。こと子も人がワイワイやってるところでは、そういう平和な空気に飲み込まれるのか割合機嫌を崩さない。

18時頃から三三五五に皆解散していく。私は新宿からの西武新宿線で爆睡してしまいピーに起こされて下車。帰宅後に炭水化物を食べたい、とまだ食い意地が張って味噌もちを食べようとしてたら、あ、コロッケ食べるの忘れてた、と2日か3日前にピーが買って食べ忘れていたコロッケのことを思い出して彼女が言った。流石にヤバいよね、捨てよう、とピーが続けたが、酔っ払いの私は、もったいない、と言って食べた。その後味噌もちも焼いて食べた。

12/19

朝起きると体調の異変を察知した。何だか気分が悪い。便意を感じトイレに行くとシャーっと水便が出た。ヤバい、と思いながら3、4回トイレに行き、遅刻してはマズい、と自分を奮い立たせて家を出た。

いつも通りの電車に乗ったものの、上石神井を過ぎたあたりで今度は吐き気がしてきた。次の鷺ノ宮に近付くまでにこれは吐く、ヤバい、と確信。せめて電車を降りて…、と何とか鷺ノ宮まで我慢し、ドアが開いた瞬間にホームの縁に駆けつけて嘔吐。幸い液体ばかりの嘔吐で臭いも酷くなかったが、通勤時間で、ホームに溜まってる通勤者からの視線が痛い。吐いてムカツキはひと段落し、次の電車に乗り込む。後始末の駅員に申し訳ない。

出社してからも下痢を繰り返し、外回りの仕事である私は辛い1日を過ごさねばならなかった。昼休憩は1時間、何も食べずに全力で眠った。退勤間際に上司に必ず病院に行くように重々言われ、面倒臭いな、と思ったが我が家には6ヶ月弱のこと子がいるし、同僚にもし万が一、と感染の可能性が心配になり、結局地元の大きな病院の時間外診療に行った。

熱を測ると38度あり、医師は、恐らくウィルス性胃腸炎で嘔吐物、排泄物に直接触れない限り感染しない、と言ってくれた。お約束の整腸剤、胃薬、下痢止め、嘔吐止めなどの薬をもらい帰宅。ピーが作ってくれた梅粥を食し、薬を飲んだ。ピーはあの昨晩のコロッケが原因じゃないか、といい、私も確かに食あたりならコロッケ説が濃厚かもしれないと思った。念のためこと子の風呂はピーにお願いして私は風呂に入らず寝た。

12/20

薬が効いたのか吐き気もなく下痢も止まった。天に感謝しパンを少量食べて出勤。

門前仲町で退室作業をこなし、別部屋の残務を済ませ午後1時過ぎ。休憩は銀座で取ることに決めていたので銀座に行きグループ会社の蕎麦屋で蕎麦を食べてアップルストアへ。

銀座に行きたかったのはアップルストアでSIMフリーのアイフォンを買うためで、私は悲願の脱ソフトバンクに邁進していた。初めて入ったアップルストアは、どこでアイフォンを売ってるのか、どこがレジなのか、赤いTシャツを着た店員は沢山いるのに、お会計はこちら、などの分かりやすい表示が皆無なので要領を得ない。ニコニコとした笑顔が不自然な店員たちの1人を捕まえて聞くと、あそこに並んでください、と言われ、言われたままに並んでいると10分くらいで用事が済んだ。アイフォンは買えたがアップルストアはもう来たくないな、と思った。

今日は会社の忘年会で、昨日の胃腸炎で出られるか不安だったものの蕎麦も美味しく食べられたし私の愛すべきメンテ部の飲み会なので出ることにし、午後の仕事を済ませ帰社して職場近くの居酒屋へ。少し遅れて到着した私は成り行きまかせに着席し、あんまり話したことないタイ人のアンシャリさんの横になったのでひたすらアンシャリさんと話した。後半は目の前に座っていた、普段はあんまり話さない韓国人のジャン君と話した。家は賃貸ではなくマイホーム購入に限るという話しを傾聴。

一次会が終わり、飲兵衛チームは二次会へと移ったが私はこと子の風呂業があるので帰った。病み上がりで酒を飲んだせいか就寝前に喉の異変を感じたので足湯をして寝る。

12/21

休日。足湯のおかげで喉の痛みが軽減されたがあまり食欲がない。今朝はこと子の初離乳食、ということでピーが張り切って重湯を作っている。風邪気味の私にも都合がいい。3人でお粥を囲んで朝食。初めは小さじ一杯で良いのだそうだが、意外にもこと子は積極的で小さじ2杯半くらいペロリとすんなり食べて、我々は笑った。こりゃ食いしん坊になるかもしれない。

食後すぐに実家に車を借りに行き立川へこと子のパスポートを取りに、また立川へ行ったついでにIKEAにピーが切望していたスパイスボックスを買いに行った。IKEAはあまり好きでないので最低限の買い物で、と念を押したが子供グッズには私も制限できなかった。結局細々としたものがカートに積まれてゆき、我々にしてはそれなりの買い物になった。食欲は引き続き湧かず昼はパンをひとかけら食べた。

田無に戻って車を返し自宅に戻り、程なくして整体のハーさんがやってきた。私は健康診断で軽度の左室肥大を指摘されていたので、心臓に重点を置いた施術をしてもらったら激痛の連続で何度も身悶えた。

ピーが施術を受けてる間は私がこと子を約1時間あやさねばならず、案の定すぐにぐずり出し、とにかく抱っこしながら部屋をウロついたり、揺らしたり、この間先輩ママに教えてもらった抱き方を試したりしてたら程なくして静かになり、遂に私の腕の中で眠ってしまった。至福の時間。しかし、重い、鉛のように重い…。

ハーさんは帰っていったが不思議なことにダルかった身体がどうやら整体後に引き締まり、俄然食欲が復活してきた。うどんがどうしても食べたくなった私が夕飯を作ることになった。食後はピーとやや揉めながらも台湾旅行の計画を練り、風呂に入って就寝。

12/22

曇り。昨晩のうどんのつゆの残りで雑煮を作って朝飯とする。食欲が戻り、美味しく食事が摂れる幸せを改めて実感。出勤。

南砂のニトリ、門仲のコーナンでリフォーム部屋に入れる備品の買い物。組み立て家具やら電化製品など大きいカートに満載してハイエースで運搬。何だか寒くなく、むしろ暖かい。昼はオヤジが仕込んで日が経ってしまったシメサバを焼いた焼きシメサバ弁当。

午後はグループ会社のホテルで行われるクリスマスパーティ用料理をハイエースで運搬する、というイレギュラー業務。暖かい、と思ってたら風が強くなり雨もぱらつく。今日はやたら運転している。ピーからこと子を児童館に連れて行って遊ばせてる画像が届く。最近気分転換に近所の児童館を利用してるらしく私も嬉しい。

帰宅すると豚汁と豚じゃがが迎えてくれ、食べ終わってからこと子をおんぶして皿洗い。初めておんぶ紐を使ってみたが、初めぐずついたもののそのうち寝てしまった。かわいい。

風呂を焚いてこと子を洗い、ピーの風呂の間またこと子を抱っこしてあやす。ずーっとびゃあびゃあ泣いていたが、ピーが上がる頃、昨日に引き続き私の腕の中で寝た。なんて可愛いんだろう。一仕事やり終えて一服し、お楽しみの南アハウス鑑賞に耽ってから就寝。

12/23

遅番なので子守りをして離乳食をこと子にあげて出勤。ランドリー清掃と退室立会いなど。二段ベッドの運び出しをしていると身体の異変に感づく。何だか風邪がぶり返してきてようなダルさである。

昼休憩を済ませ、家具の組み立て、皿の運搬、寝具交換などをこなしながらも熱が上がってきてる実感がある。何とか仕事を終わらせ、薬局でマスク、手袋、除菌スプレーなど感染防止アイテムを買って帰る。

熱を測ると39.2度。こと子が朝食べた離乳食の残りを私が食べ、解熱剤を飲んで手袋をはめてこと子を抱っこ。ピーが風呂に入る間ずっとギャン泣きされ、私はこと子をあやす体力もなく、ただただ泣く子を無感動に抱いているだけである。

風呂後にこと子が寝た後、調子悪い時に行うくるぶしまでの足湯をし、ホッカイロを腰と首に当ててさっさと寝る。何回か起きては着替え、トイレに行き、水分補給をして寝て…。

12/24

クリスマスイブ。解熱剤がかなり効いたのだろう37度代まで下がった。こと子にお粥をあげながら私もお粥を召し上がる。病人に離乳食は丁度良い。

熱は落ち着いたが解熱剤による強引な治癒でもあるし、先だっての緊急診療は簡易的な胃腸炎対応でしかなかったので、改めて信頼してる地元の内科に行く。家に赤ちゃんがいなかったらこんなに慎重にならぬであろう…。

内科ではインフルの検査もしてもらったが引っかからず、余計な薬も出されなかった。下痢が止まっているなら、咳による菌の飛散を防止するマスクさえしてれば感染も心配ないとのことなので安心して帰宅。ピーとこと子を連れ出してひばりヶ丘のそば屋に行き、美味しい蕎麦を食べる。

帰りにチキンを買って帰宅。ピーが晩の仕込みをする間、こと子をあやす。普段は洗わない手をよく洗って遊ぶ。しかしマスクは圧倒的にウケが悪い。私が笑いかけてもしかめ面をしている。パパの顔がマスクとメガネで覆われているから怖いだろう。ピーの仕込みが終わり1時間眠らせてもらう。

夕飯は我が家なりのクリスマス仕様でチキン、温野菜サラダ、スープ、パン。体調は悪化せず食欲もあり美味しく頂く。食後には手作りのフルーツパイが出てきて感動。こと子のお風呂は今日もピーにお願いして就寝。

12/25

37度代だった熱がついに平熱に下がった。感激。今日はもともと仕事が忙しい予定で、体調不良で休むのは避けたかったので助かった。

グループ会社のそば屋の蕎麦を運んだ後、新規リフォーム部屋への家具やら備品を運搬。熱が引いたので平常通り動ける快活さよ。

昼前からバイトのアキヨシ君にサポートに入ってもらいながらペンキ塗装と家具組立て設置など。すぐに日が暮れて寒くなってくる。病み上がりなので腰にカイロを貼ってきてよかった。気がつくと19時で急いで帰り支度。新宿の事務所にゴミを運んで帰宅すると21時半。

少しして近所の鍋会からピーとこと子が帰宅。素手でこと子を抱き上げ、マスクをとって、私も元気になったので全力であやすと最高の笑顔が返ってくる。溜めておいた風呂に入りこと子を沐浴してやる。

風呂後におっぱいでこと子が寝た。私は皿洗い。ピーが風呂から上がってくる頃、寝てたはずのこと子がむずかり出した。元気な私は飛んで行って抱き上げた。最近こと子がスムーズに入眠してくれる例の抱え方で揺らしてやると上手い具合にすっと寝てくれた。よしよし、慎重に慎重に、と体を傾けてこと子を布団に延ばすと、やんぬるかなウギャアと喚いて起きてしまった。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
赤い疑惑の活動報告
およびアクセルの手記
赤い疑惑WEB

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク