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ROAD to 小川町 第9話 田舎暮らしと会社員

田無の実家で居候ライフを送りながら、休日のたびに小川町の新居に赴き、リフォーム作業に明け暮れる日々は続いていた。幸いと言ってよいべきか、コロナショックを受けて出勤日が制限されるようになり、5月は半月ほどが休みになったので、新居で過ごす時間はかなり確保できていた。

一月ほど前まで住んでいた2DKのアパートに暮らしていた時には想像もしなかったような広さの庭と、そこに覆い被さるような勢いで生える竹薮が壮観の裏山は、しばらく私をハイな気持ちにさせ続けた。

庭にはいろんな植木が植っており、それらが次第に何の木か判明してくると、その度に私の喜びは更新された。グミ、ユスラウメ、イチジク、東京モンには馴染みの薄い果樹が、当然の如く実をつける様子は、素直に胸を打つものがあった。

公道から我が家の敷地に一歩入ると、砂利と土、むき出しの自然が私を迎える。その圧倒的な庭の草たちは、私が行くたびに容赦なく成長していた。物件管理の仕事で、草刈りという、皆が嫌がりそうな仕事が意外と嫌いじゃないことに気づいていた私は、新居のビニールハウス内に残されいた鎌を握ってひたすら草刈りに精を出した。

裏山のタケノコは取り放題であったが、油断してタケノコを刈らずに成長を見逃すと、数日で4、5mにの竹になってしまい唖然とした。地元の人には食べなくても見つけたら倒しておくといい、と教わった。

自然溢れる庭はまた、私をすぐに野菜作りの道へと誘った。これまでアパートの敷地でプランター栽培を試したことはあったが、私は満足できず、いつか地植え野菜を育ててみたい、と夢見ていた。そして今、目の前に、イメージしていたよりも幾分も広い庭が広がっているのだ。私はホームセンターや近所の農産物直売所で売っていた野菜苗をいくつか買って、早速庭に植えてみた。

以前の住人が残したボロいビニールハウスには使い古しだが十分使える農具が一通り揃っていた。私は初めて鍬を振り回して地を耕してみた。この家が空き家になってから何年も経ったらしい庭の土は、しかしカチカチに固まっていて、1平米ほどの区画を耕すだけで滝のような汗が噴き出した。(思ってたよりキツい、これは容易じゃないぞ…)と思うと同時に、異様なアドレナリンが湧いてきて、この肉体疲労がどこか快いモノであることになんとなく気づいていた。

ある休日、その時は連休だったので泊まりがけだった。リフォーム仕事がひと段落して夕方流しに行くと、何とシンクの中でムカデが3匹ザラザラと蠢いていた。都会育ちの私には信じ難い程の大きさで、身体の節の部分は艶々と黒く、その下の蠕動する手足の部分、および触角がその黒と対照的に、はっきりと赤いのでそのコントラストが気持ち悪くてたまらない。一瞬茫然自失、そしてすぐにネットでムカデ、対処と検索し、結果お湯を沸かしてシンクの中で皆殺しにした。

あまりの恐ろしさに攻撃的になった私はムカデの死骸を焚き火でさらに始末した。その夜、私が運び込んだ寝具を整えて布団を被ろうとしたその時、布団の端からまたムカデが現れ、さっきの赤い触角が私の目と一直線に向き合い、それなりの近さだったので、ぎゃっ、と悲鳴をあげて布団を放り投げた。もしや、無残にも亡骸を焚き火で燃やした報いか…、私は恐ろしくなった。

気が動転して部屋から出たものの、このままじゃ寝れないじゃないか、と私はいい歳して身震いした。それからしばらく、そろりそろりとムカデ捜索にあたったが見つからず、怖いので酒を飲んでいつの間にか寝た。

田舎暮らし最高、と調子に乗っていたが、私は田舎の現実というものを目の当たりにした。大地をアスファルトやコンクリートで覆わない田舎生活の現実である。小川町出身のはるかちゃんにこの話しをすると、ああ、ムカデね、出る出る、と当たり前のように言うし、移住仲間のヒーサンのとこではしょっちゅう出ているそうだし、この生物との共生は避けられそうもない様子だった。

こういった新居での体験は、ひとつひとつが新鮮で、ムカデ以外は最高に楽しいものだった。しかし、月の半分になっていたとはいえ、新宿の勤務先での労働時間は対極的に不快な雰囲気に覆われていた。コロナの影響で勤務先は明らかに売り上げを落とした。会社のオーナーである、「会長」と呼ばれる経営者の爺さんはあからさまに機嫌を損ね、社員へのパワハラを強めていた。

5月のある日、そのパワハラが私にも命中した。私は会長室に呼び出され、ネチネチと因縁をつけられ、なじられた。その時、理性で保っていた何かしらの思考回路が切れるのを感じた。こんな会社もう辞めてしまえ! 会長室を出る時、その思いは自分でも驚くほど固いものになっていた。

もちろん、ここの会社員を私はこのまま定年まで続けていくのだろうか、と勤務先に対する懐疑心は少し以前からあったには違いなかった。しかしすぐさま、組んだばかりの住宅ローンのことが頭に暗い影を落とした。辞めてホントに大丈夫か? もうすぐ2人目の娘が産まれる。お前の他に3人もの家族を養えるのか? それから私は不安になり、どうするどうするという葛藤が始まった。小川町周辺で求人情報を検索してみたが、やはり田舎町である、自分にできそうな仕事がみつかりそうもなかった。

それでも私は会社を辞める方向にモードを切り換え始めていた。こんなに素晴らしい家を手に入れ、間断的にではあっても、新居で過ごす時間は私を常に癒した。本能的に、もっとこっちで過ごす時間を確保しなければならない、と考えた。そして戸惑い、そうならば、新宿までの往復4時間の通勤時間がどうしたってもったいない、と確信に向かった。何か、小川町界隈で完結する生業をみつけたい…。

その頃、ヒーさんのバンドでパーカッションを叩くやっさんに庭の管理の仕方を教わろうと家に来てもらった。ところが例の風呂のリフォームの進捗がはかばかしくなく、古い浴室解体後の始末に難儀していたので、そのことを相談してみたら、やっさんは百人力のパワープレイで解体仕事をきっちり仕上げてくれた。ここまでくれば、後は職人さんの立ち合いだけで済む。

私はすっかり感謝し、植木屋さんってこんなこともできるのか〜、と大変感心し(こんな植木屋さんは多くはないと後から分かるが…)、植木屋さんに転職するのはどんなもんだろう、とその時初めて思い出したのである。これも後々振り返れば、ジャーガイダンス。

さて、その風呂のリフォームはしかし素人の段取りの悪さでスムーズとはいえなかった。頼りにしていた左官屋さんのスケジュールと私の休みの調整で何度もハラハラしなければならなかった。いついつまでに浴槽を用意し、タイルを用意し、風呂ドアを用意し…。私は山形にいるピーさんとLINEでやりとりを繰り返した。彼女がネットで厳選した材料を取り寄せて新居に赴くたびにそれらを受け取った。2人入れる檜のデカい浴槽が配送屋から運ばれてきた時は流石に興奮した(この浴槽を浴室に運び込むのが一大事だった…)。

5/19、朝、無事次女が産まれた。私はその報せを仕事の現場で、業者立会いの合間に知り、業者の人にバレないように泣いた。そしてその数日後、住民票を移して東京都民から埼玉県民となった。つづく
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アクセルの育児記 第35話 ふみ1歳、こと子もうすぐ5歳

季節は流れ、あっという間である、先日次女のふみが1歳になった。およそ1年前、彼女が浮世にやってくる頃、私はこの移住先の小川町の新居で、家族のいない1人生活を始めたのである。ピーさんが里帰り出産で、しかもコロナ禍における制約のおかげで、私は生まれた子に逢いにいくことが許されなかった。出産1ヶ月後に初めて顔を見た赤子は、両掌でそっと包めるくらい軽く小さかった。

それからすくすくと育ち、ふみは1歳になる少し前に断乳し、同時に食事への快楽を覚えた。ご飯の時間になると、すぐに気配を察知して、ちゃぶ台に並ぶ食膳に向かい、一直線にハイハイしてくる。腹が減っている時などは、ともすると奇声を発してやってくる。

初めはスプーンでやっていたが、そのうち自らの手でむさぼるようになった。どうやら、人に喰わせてもらうより、己の手を使って食べ物を口に運ぶ方が、その過程で脳が活性化するらしいのでいいのだそうだ。私はそんなことも知らなかったが、自然教育ではそんなものらしい。気がつくと右手も左手も、顔も服もご飯だらけになっていたりする。私はそういうのが気になるので、片端からその米粒を掴まえて自分が食べてしまう。ホコリや繊維がついているかもしれないが、毒ではあるまい。

しかしまあ食べる食べる。米だけに限らず、麺もツルツル、ズルズルと、まだ小さな一本の下歯しかない口の中に面白いように吸い込まれていく。素麺なんかは掌いっぱいに掴んで口に運ぶ。柔らかい麺を握ったまま口に運んで、その指と指の間から這い出るミミズのような素麺にしゃぶりつくので、机の上はまた大惨事となる。なお、素麺は乾くのも早いので、すぐにフキンで拭きとってやらないと、後で後悔することになる。

こんな小さな身体の容積と比較しても、どうもそれは食べ過ぎではなかろうか、という量を食べ切るので呆れるが、思い起こせばこと子がこのくらいの時期もまたこんな調子で、幼児の食欲に閉口していたのではなかったか…。母乳という完全食がなくなり、(まだ歯は圧倒的に足りないが)食べ物を咀嚼することで、舌や鼻腔から色んな刺激が流れ込んでくる。しかもその美味い、という刺激は快楽の方面であって、まだ他に器用に動けない赤ちゃんにとって、食事は大イベントとなる得るのだろう。

我々のような大人でさえ食事はなかなかに侮れないイベントであるから、他に刺激の得方をさほど知らない幼児にとっては一大イベントに違いない。そう思えば、ふみのその前のめりな食欲もまんざら納得でないこともない。

それから最近のトピック、ハイハイしかできなかった彼女が初めて立ったのだ。立った、立ったと私やピーが喜んで反応するので、彼女も得意満面な笑みを浮かべている。立った状態から、その姿勢に疲れてよいしょ、と座り込むと、あ〜、と嘆息を漏らし、今立ったわねアタシ、という具合に手を叩いたりする。何かができたりすると、手を叩くことを保育園かどこかで覚えたのだろう。その原初的な自己肯定の姿は、清々しくもあり、可笑しくもあり、私も一緒に手を叩いていしまう。

さらにまた少し遡るが、音楽が聞こえたり、私やこと子やピーが歌を歌ったりすると、ふみはそれにすぐ反応を示して、手や足腰など、身体を動かすことに気づいた。四つん這いの、ハイハイの姿勢から、かかとを畳につけて踏ん張り、音楽に合わせて腰を上下させていた時は、その大胆な姿にビックリしたが、その時の姿勢といい、背筋を伸ばして立ったまま、膝を軽く屈伸させる彼女が最近よくやる踊りは、まるでレゲエダンサーのようなのである。ロンパーズという赤子服を着ている時は特にセクシーである。

音に敏感なんじゃないか、我々の子どもだからな、などと思っていたら、先日、音楽好きの友人の家に遊びに行った時、結構デカい音の出るスピーカーの前に陣取って、またぞろそのレゲエダンスを始めたので一座を大いに沸かせた。大きくなったら父ちゃんとバンドやってくれるだろうか。

一方、長女のこと子とはいうと、自転車の補助輪を外して、ちょっとだけペダル漕ぎができるようになり、ひらがなをマスターし(読みだけで書きはまだだが)、ひらがなで書かれた絵本なら、気づくと1人で声を出して読んだりしている。お尻も拭けるようになったし、歯も磨けるようになったし、順調にすくすく、といった感じである。

4月からは保育園に通い始め(ふみも預かってもらえることになった)、友達たちと元気に遊び倒しているようである。同じ園に移住仲間のヒーさんの娘やクリスチャンの娘が通っているので、私達夫婦もあらぬ心配もせず、安心して預けている。

この辺りでは評判の、子どもファーストな自然教育を標榜する知られた園で、我が娘らがいきいき遊んでいる姿を見ると、田舎に来ていい保育園に恵まれたものだな、と嬉しい気持ちになるのである。最高、最高、と言いたいところなのだが、一つ困ったことがある。というのも、この園の教育の真髄ともいえるだろう、ドロンコ教育のことなのである。

いや、もちろん、ドロンコになってハッスルする子供の姿を否定するつもりはないのである。ただ、そう、ただ、ちょっと困っているのは、それによる持ち帰りのドロンコ服の量なのだ…。1日で3着、4着は当たり前、多い時は6着、7着、といった具合で、そのドロンコ服をウタマロ石鹸で予洗いするのは主に私の役割なのである。こと子のだけならまだしも、ふみの服もすっかりドロドロになって戻ってくるので10着以上タライにぶち込んでゴシゴシしていることはザラにあるのだ。

ある時、2人を送りに行ったら、開園間もない保育園の園庭に先生たちがホースでドロンコの山(園庭には造園屋が造った山やトンネルがある)にせっせと水をかけている。私は衝動的に、(何してくれてるんだ…)と内心穏やかではなかった。それをピーさんに報告すると、「そうだよ、いつもかけてるよ、水…」と当然知っているかのような口ぶりなのである。どうやらそれがこの園の基本スタイルであるらしく、ドロをドロドロにするのが彼らの仕事でもあるのだ。しかも、園の給食員をやっている友人の女性曰く、「先生達が泥山から園児が滑るのを煽ってるからね、さあ、〇〇ちゃん行け〜って…」。

ともあれ、畑や田んぼの体験教育もあれば、山を散策するような時間もあるし、何より縦割り保育で、0歳児から6歳児までが隔たりのない、ホールのような造りの、園で遊んでいる。こと子が仲良しのたねちゃんと、年下の園児などをよく可愛がってくれていますよ〜、という微笑ましい報告も先生から聞いたりし、ほっこりとした気分になった。そんな保育園に、頭が上がらないのも確かである。そういうことを考えれば、私がドロンコ服をゴシゴシする時間くらい何でもないじゃないか、と思い込むように私は暮らしているのである。

バンドマンに憧れて 第47話 初就職と挫折、屋台とパソコンスクール

フリーター卒業を称する混迷のインド旅行から身体を壊し、這う這うの体で帰国した私は肺炎にかかって即入院という惨めな状況に陥った。飲酒運転で居眠りをし、原付で大怪我をした時以来の入院。またしても情けない現実であった。

退院してすぐにハローワークに通い、正社員になるための就職活動、というものに生まれて始めて取り組んだ。親から授かった大卒の有効性をフリーター生活で失っていた私に適合しうるような仕事は多くはないだろうことを予想していたが、果たして、前向きな気持ちで望めそうな仕事は少なかった。薄給は覚悟の上だったが、中でも幾分興味のあった印刷業界で、とある印刷会社の作業員のクチにありついた。

自転車でも行こうと思えば行ける程度の距離。割と近所の印刷会社だった。家族経営の小規模事業で、看板やサイン、家電製品向けエンボスシールなどの工業的な印刷がメインで、私が興味のあった紙媒体の印刷とはかけ離れていた。しかし、私にはとにかく「就職をする」という目的の方が大きく、やけくそな気持ちもあった。

しかし、3ヶ月の試用期間の間に私は(ここでずっと働くなんて地獄の沙汰だ…)と気づいてしまっていた。精神修養の瞑想でもたらされた敬虔な気持ちは瓦解しはじめていた。

年配の社長は気性が荒く、売り上げが思わしくないことを毎日朝礼で訓示し、作業員を威圧するのが日常だった。何故か、この会社では「トヨタ生産方式」というワードを崇高な規範のように唱えていたが、私はその感じがただただ気持ち悪く、感心を示すことができなかった。

狭く小暗い印刷工房の中で、インクまみれになりながら大きな機会をひたすら動かす作業が続く。商業用印刷なので、重いパネルや重量のある物体を階下から次々と運び上げるような肉体労働も少なくなかった。休憩所は驚くほど狭く重く息苦しく、昼などは4名ほどの作業員が小さな机で頭を寄せて、黙々と仕出し弁当を食い、世間話しさえほとんど飛びかわない。私の頭の中で、毎日「就職とは…」という問いかけが隠れようとしなかった。勤務時間の間が漆黒だった。

印刷会社での仕事に幻滅を感じていることはすぐに当時付き合っていた女性に悟られ、私は不甲斐ない気持ちに苛まれた。とはいえ、愛する人のために、という美しい目標よりも自分が壊れていくことが恐ろしく、私は結局試用期間でその会社を辞める決意をしていた。

その間、その会社のあった駅の付近で、夜になると時々メロンパンの移動販売車が営業しているのを興味深く見ていた。過去に、ベトナムサンドイッチ屋台を東京でやったら流行るんじゃないか、と夢想していたことがあったことも思い出し、こんなフーテンみたいなしのぎでメシ食っていけたらいいな、と甘い妄想が始まった。そして遂に、私はメロンパン屋のおじさんにある時話しかけ、気さくに対応してくれたおじさんに突っ込んで、メロンパン移動販売の仕事について具体的に聞いてみた。すると「興味あるの?」と言って説明を始めるのだった。

分かったことは、このメロンパン屋台はいわゆるフランチャイズと呼ばれるビジネスで、加盟料を払えば大元の会社からキッチンカーが支給され、さらに材料も大元から仕入れるのである。開業の苦労をしない代わりに先行投資で始める商売なのである。おじさんは、興味あればここに連絡してみて、と一葉の名刺を手渡すのだった。

しかし、その名刺はどうも不穏な雰囲気が漂っていた。社会経験の乏しい当時の私にも何となくそう感じさせる造りなのである。メロンパン屋台の会社という雰囲気は見あたらす、取締役の名前とその会社の事業が書いてある。私は訝しんだが、話しを聞くのはタダだろうと、勢いで電話をかけてみた。

後日、その取締役とファミレスで面接することとなった。想像していた通り、その取締役はカタギではなさそうなオーラをまとっていた。強面全開という方向でもないのだが、何か引っかかる雰囲気が滲み出ていた。取締役は、どうして今回この仕事に興味を持ったのか、という質問をしてきたので、私は同棲中の彼女と結婚しようと思っていることや、普通の会社員は自分には向いてないと思っている、というようなことをバカ正直に返事したのだが、それに対し、取締役は「分かりますよ、私が独立したのも家族を養っていくためでしたから」と私の動機に理解を示すのだった。

ひねくれ者の私はその対応がどうも胡散臭く思えて、何となく構えてしまった。この人は私にただ話を合わせてきてるのではないだろうか…。私が毎度大苦戦を繰り返してきた「仕事の面接」という儀式で、こんなに自然に私の発言に理解を示されたことはなかった。これは加盟料を払わせるための罠なのでは…。

その後取締役と話したことは、はっきり覚えてないのだが、200万円ほどの加盟料に対して、そこまでの大金を持ってない、と正直に言うと、最低50万円でも始められる、というようなオプションを提示されたことだ。結局、やるつもりならまた連絡します、という流れで退散し、私はメロンパン屋さんは忘れることにした。

諦めの悪い私は、次に当時大好きだった今川焼き屋を経営するのはどうだろう、という甘い妄想を膨らませた。尊敬する深沢七郎が小説家の傍ら、気まぐれに今川焼き屋をやっていたらしい、というエピソードも大いに関係していたかもしれない。そしてインターネットで今川焼き屋のリサーチをしていると、馴染みのある西武線沿線のとある駅の付近で営業している今川焼き屋さんが、開業支援というのをやっている、という情報にぶつかった。

そしてメロンパン屋と同じように面接しましょう、という流れになり、やはりファミレスで今川焼き屋のおじさんと向かい合うことになった。今川焼き屋のおじさんの話もメロンパン屋さんと同じような内容だったので、私は二の足を踏むことになった。

印刷屋の使用期間が終わる頃、彼女に理解を求め、いきなり知らない会社の正社員になるのはハードルが高いので、とりあえず、派遣社員というものをやってみる、と訴え、本気度をアピールするつもりも兼ね、貯金をはたいてパソコンスクールに通い、興味のあったwebプログラミング養成講座なるものに挑んだ。下心で、イラストレーターやフォトショップをもっとちゃんと覚えたい、とも思っていたのだが、webプログラマーになるためにそれらの基礎講座も含まれていたので私は敬虔な気持ちでhtmlやらCSSやらのお勉強を始めたのであった。つづく

ROAD to 小川町 第8話 コロナ禍突入どうなるマイホーム

愛する妻子が、東京でのコロナウィルス感染拡大を受けて予定より早く山形の実家に里帰りし、東京に残された私は、アパートの荷物を全てまとめ、それを小川町の新居に運び込む作業に追われることとなった。私は引っ越し屋さんに引っ越しを頼んだことがなく、それまでもいつも友人に頼んだりしながら自分で済ませていたので今回もそのつもりだったが、子ができて家族が増えた分、荷物の総量はちょっとしたものだった。

私は休日のたびに車に入るだけの段ボールを詰め込み、経費節減のため、高速なら1時間で行ける往来を下道で走った。田無から小川町まで道のりを下道で山沿いに進むと、毛呂山、越生、鳩山、ときがわなど、私は全く知らなかったが、小川町に似た美しい里山の景色を楽しむことができる。私は埼玉にもこんなに魅力的な場所が沢山あったんだという事実を、おじさんになってから知って痛快だった。

もちろん、小川町に向かうのは日中だけじゃなく夜もあったので、片道2時間の道のりを段ボール詰め込んで行き来するのは1人ではさぞ大変だったはずだ。だが、我々家族を小川町に運命づけたしゅうくんとはるかちゃんが、ほぼ毎回同伴してくれたおかげで苦行感は薄れていた。新居の押し入れの天井を直し、障子や襖を張り替え、古ぼけた風呂を大ハンマーでぶっ壊したりなど、私が計画したDIYリフォームの手伝いまでしてくれて、さらには庭で焚き火をしたり(この頃、安倍総理が、綿製の昔気質のマスクを2枚国民に配布するという頓珍漢な政策を打ち出してきて呆れて腹が立った私は、早速届いたマスクを焚き火で燃やした)、裏山の竹の子を掘りまくったり、夜は酒盛りしたり、かなり楽しい珍道中が続いていた。

しかも、緊急事態宣言を受けて私の勤め先が勤務日数を絞る判断をしたため、週の半分が休みになる非常事態になり、新居での課題が山積みだった私にはラッキーだった。楽しい新居での時間と不穏な東京での生活の相混ざった感じはそんな調子でしばらく続いた。

4月の下旬にすべてアパートの荷物を運び終わった私は世話になった大家さんに挨拶をしてアパートを引き払った。新居のローンと東京の家賃と両方払うのはもったいないではないか。そんな調子で、私は父が住む実家のマンションに転がり込んで、新居のリフォームが一段落するまでの一時的な居候ライフを決め込むことにしたのだ。

毎晩酒のツマミを数種用意し、テレビを見ながら晩酌をする父に付き合っていたら、そのうち腹の調子がおかしくなった。コロナ禍で奇妙にエキサイティングな日々だったが、会社のストレスもあるのか、家族と離れている寂しさも無意識下で作用してるのか、とにかく体調も均一ではなかった。

里帰りした妻子の元へは、出産予定日の5月下旬までに1度会いに行くつもりであったが、コロナの影響で、東京の人間が不用心に感染の少ない山形に行くべきではない、という雰囲気が出てきた。ピーの実家からも、私(東京の人間)が彼女の実家に行った場合、実家に住んでる家族が2週間外出できなくなる、という情報が入り、私は出産まではピーとこと子、そしてもう1人の赤ちゃんに会えないだろうことを覚悟しなければならなかった。

それに留まらず、ピーの話しをよく聞いてみると、その次女の出産には妊婦の両親しか立ち会いがNGとのことで、結局私は出産1か月後に家族を迎えに行くまで、新生児はおろか、みんなに会えないことが判然としてきた。つまり4月頭から6月末までの約3ヶ月も会えないことになる…。まさかそんなことになるとは思わなかった。この頃から都心部と地方の往来には見えない壁ができてしまった。

新居のリフォームの山場は風呂の改装だった。家族が新居にやってくる6月下旬までに完成させなければならない。しかも、ピーさんのたっての要望で、ありきたりなユニットバスではなく、檜の風呂を作ることになったのである。私は当時務めていた会社の仕事で、シェアハウスのリフォームに多かれ少なかれ関わっていたので、業者とのやり取りのノウハウを多少知っていた。とはいえ、ユニットバスじゃない特注風呂を請け負ってくれる業者は知らない。

そこで半分DIY、半分職人依頼で安くあげよう、という算段で思い切って始めてみたものの、これがなかなか大変だった。タイル仕上げの古ぼけた風呂と、脱衣場を友人のヘルプを借りて解体するまではスムーズに運んだが、そこから地元の大工さんと設備屋さん、ちょっと知り合いの左官屋さん、に仕事を依頼する段階で、私は狼狽ることが何度もあった。無自覚だったが、安く上げるために始めたこの工事は、つまり私が現場監督的な役割を果たさなければならない。

それなのに、建築の専門知識に乏しかった私は職人さん達の質問に正確に答えられず、職人同士の橋渡しをうまく努められず何度も冷や汗を流した。
「立ち上がりは何mmにするんですか?」
「浴槽の設置は誰がやるんですか?」
本当ならば現場監督がサクサク答えて進めるところで私がしどろもどろになり、分からない専門用語について正直に質問したり、確認しておきます、と時間を稼いで調べたり、そうこうしているうちに工期がズレ、6月末に本当にヒノキの風呂は完成するのか自信が揺らいでいた。

そんな中、5月の頭、居候先である田無の実家で、その晩はしゅうくん、はるかちゃんもいて、オヤジと4人でワイワイ酒を飲んでいた。10時半頃、突然ピーさんから着信。里帰り後、風呂リフォームの打ち合わせなどのやりとりはしていたが、こんな時間に…。出ると、
「こと子がギャン泣きで頑張って慰めたんだけど、ダメだ、ちょっと代って」
その後ろでこと子の怒涛の泣き声が聞こえている。そして受話器から激しい嗚咽が大きくなり、
「パパと一緒にお家で遊びたい…パパと一緒に…」
と、嗚咽を抑えきれず息も絶え絶えにこと子が訴えるのである。言い終えたかと思うと、また激しく泣き続けた。

里帰りで別れる時は私と会えなくなってこと子が混乱しないか、かなり心配していたが、ちょっと前にピーにこと子の様子を聞いた時は、年の近い女の子の従姉妹たちと楽しく過ごしてる、という状況報告で安心しつつ、そんなに私に依存してなかったのかな、と寂しい気すらしていたが、流石に1ヶ月経って急にホームシックにかかったのだろうか。もうお喋りも達者になった3歳の女の子とはいえ、イレギュラーな状況でストレスが溜まったに違いない。

しかも親はどうすることもできないし、何でこんなことになってるのか3歳児に説明するのも無理だし、どう励ましていいか分からない。またすぐに会えるから、と適当なことも言えないし困り果てた…。私が黙ってしまって、はたでその様子を伺っていて心配そうにしていたオヤジとしゅうくん、はるかちゃんに状況を説明し、しかし受話器の向こうのこと子に私は「大丈夫だからね」という言葉しか絞り出せず不甲斐ない気持ちでいっぱいになった。

30分もこと子が泣くのを聞き続けていた。ピーが受話器に戻って、もう一回慰めてみるね、と私に告げて電話は終わった。盛り上がっていた酒の場もドンヨリした空気に変わり、「そりゃあ、辛いだろうなあ、3歳の女の子がなぁ…」と言ったオヤジは涙ぐんでいる。私の心も灰色に包まれた。

数日後、ピーさんと電話して、あれからどう、こと子は…、とドキドキしながら尋ねると、いやあ、それがさ、あの日はあの後もかなり大変だったんだけど、翌日からまたケロッとしててね…、何か大丈夫そうだよ…。すっかり子供の気まぐれに翻弄されてしまった。我々の心傷は何だったのか、オヤジの涙は…。ともあれ、元気に戻ってよかった。ホッと胸を撫で下ろした。

アクセルの育児記 第34話 モテ期の春


人生には3回モテ期が到来する、というバカらしい物言いがあって、私もモテるタイプの男性ではないので気にかけたことがなかったが、今まさにモテ期を迎えてるかもしれない。2人の女子が私にまとわりついてくる。1人は4歳児のこと子、もう1人はもうすぐ1歳になるふみである。

私が仕事から帰ると、晩メシまでの間や食後のひと時にそのフィーバータイムが訪れる。ふみが這いずって私の膝に手をかけ、そのまま上半身を起こして立て膝で笑顔を振り撒くと、こと子も負けじと反対側の膝に腰掛けて、トト大好き、と言ったり言わなかったりしながら抱きついてくる。これをモテ期と言わずなんと云おう。そしてこれが仮に成人女性であったなら、と想像し、プレイボーイの罪深さに想いを馳せる。

小川町に越して来てからこれまで、2人の娘は保育園に預けることなく、日中はピーさんが面倒を見ていた。それ自体大変なことであるが、赤ちゃんがいて積極的に外出もできないので、こと子の方は元気を持て余しがちである。それで夜になって私が帰ってくるとこと子は遊び相手が来た、という具合に「遊ぼうよ」と私にせっつく。

私は帰宅して夕飯を食べた後は皿洗いの時間なのでそれが終わってから風呂まで、または入浴後のひと時をこと子との交流時間にしている。遊びのバリエーションは徐々に増えてきていてかくれんぼ、じゃんけん、絵本のほか「動物ごっこ」など◯◯ごっこの類で、これはごっこをつければ何でも遊びになるのでバリエーションは無限大である。

「じゃあ私がお姉さんで、トトは怪獣ね、で、ふみが怪獣に襲われてるね、いい?」
とこと子が設定すれば、それに従うだけである。この「いい?」という、設定の後に必ず添えられる確認の投げかけにNOはなく、私はいつも「いいよ」というだけだが、めんどくさくて気持ちが乗らず生返事のことがほとんどだ。ところが、私が棒読みで対応していてもこと子はあんまり気にしないらしい。

動物ごっこは定番で、私が動物にされてこと子が人になるか、私が人でこと子が動物になるか、という設定で私が動物にされた時はその動物になりきって私が人の時は動物になりきったこと子と接するのである。なにが楽しいのかさっぱりわからないが何回もやらされて、私も疲れてしまい、
「遊ぼう?」
「いいよ…」
「じゃあ動物ごっこね、いい?」
の後、YESではなく、
「ええ、やだなぁ、動物ごっこ面白くないんだもーん」
とNOを突きつけてしまった。
その後こと子がどういう反応したか判然と覚えていないのだが、最近はさっぱりやらなくなって私も安心している。

でそんなこと子の4歳なりのめんどくささと対照的にただ泣いて、時には百万ドルの笑顔を振り撒き、私やピーさんを癒す0歳児ふみの可愛さは天井知らずである。浮世で言われる「今が一番可愛い時ね」の真っ只中という感じで。

こと子がそれくらいの時にはいろんな大人に「今が一番可愛い時期ね」と言われるたび、(こと子が可愛いのは今だけじゃねえだろ)くらいのことを考えていたが、こと子を4歳まで育て上げて振り返ると、(確かにふみくらいの1歳前後の、笑顔を振り撒き始めたり、頑張って這ったり、立ったり、まだ言葉にならないお喋りをしたり、これくらいの時期が一番可愛いかもしれない)と、前言を撤回しなければならない。

しかし、これくらいの時期が一番可愛いからと、ふみちゃんカワイイねぇ、と私やピーさんが目を輝かせていると、脇にいたこと子が「ウチ(こと子の一人称はオラからウチになった)もカワイイよ」と嫉妬する。下の子ができると、大抵は両親がその赤ちゃんにかかりきりになって上の子は妬くという。それが酷くなると赤ちゃん返りといって、赤ちゃんの真似をして酷く手を焼かせるらしい。そんなことを知っていたので夫婦で事前から心配していたが、こと子は「私もカワイイよ」と主張するくらいで、「こと子ももちろんカワイイよ!当たり前じゃん」などとフォローすると、それ以上拗ねるようなことはなかった。

そんな風に一番可愛いだろう時期のふみも、母親の身体的事情があって想定よりだいぶ早く断乳することになった。普段おっぱいを飲みながらねんねする習慣の赤ちゃんが、断乳でおっぱいを貰えなくなるとそりゃあ大変な取り乱し様で、眠いのに眠れないから全力泣きである。そんな時は私の出番で、私がおんぶ紐というものを引っ張り出しておんぶをすることになっている。

こと子の時もそうであったが、ふみもおんぶがハマるのか、始めのうちギャアギャア泣いていてもおんぶをしていれば数分で静かになり、眠い場合すぐに寝息を立てる。手間取る時でも30分か1時間くらい頑張れば何とか寝てくれる。

問題は背中で寝た赤ちゃんを無事に着床させることである。抱っこで寝た赤ちゃんをそのまま床に伏せる時だって細心の注意がいるのであるから、おんぶであればさらに工夫が必要になる。おんぶの状態から紐を解いて抱っこの状態から寝かせるのがよいだろうと、初めはその作戦で対処しようとしていたが、失敗を繰り返し、つまりまた泣き出してしまい、もう一度背負う羽目になるので、最終的におんぶ紐で縛ったまま、できるだけ重力に振り回されない様に私も一緒に横になり、しばらく私の背中の温もりが赤ちゃんに触れている時間を稼いで、無事ふみが寝ついたなと思ったら、そっと紐を解いて私が抜け出す、という方法を編み出した。

とはいえ、それで朝まで寝てくれたらよいが授乳中の赤ちゃんは何度も目覚めてしまうので夜中に1、2回、多い時は3、4回、私も起きてあやしてみたり、もう一度おんぶしたり、どうしても身体的にきつい時は泣き疲れるまで泣かせて無理矢理寝かせる。

夜中にふみをおんぶしている時は、じっとしていると機嫌を損ねやすいので、私は畳の居間を歩き回る。これは修行のような苦しいものだが、そんな時私はいつもネパールのポーター(山岳地帯を歩いて重い荷物を運ぶ荷役)の少年のドキュメンタリー映画「コーラと少年」を思い起こす。その映画は主人公のポーターの少年が、あるクライアントからの依頼で、リゾート地のポカラまで何日も80キロのコーラの冷蔵庫を背負って運ぶ、という姿をひたすら追う内容で、その単純なロードムービー性に私は惹かれてすごく気に入った作品だった。

私は半年前から移住先の小川町で、植木屋の見習いになったのだが、作業がキツい時はいつもこの映画の少年のことを思い出して、あの少年の背負った重みに比べればこれくらい、という具合に奮闘の糧にしていたが、ふみのおんぶ業のたびにまた私はその少年のことを思い出すのだった。彼の荷は80キロで山岳地帯を歩く。私が背負う赤ちゃんは10キロ弱で家の中を歩いているだけである。そう思うと、何のこれしき、と頑張れるのだ。

さて、ふみとこと子は保育園に預けなかったと書いたが、本当は預けたかったし、こと子などは東京にいた時には保育園に通っていてその楽しさを知っているのでまた保育園に行きたがっていた。もちろん両親である我々もそれを望んでいたのであるか、移住後にこちらの自治体に掛け合ったら折り悪しくあぶれてしまったのだ。それで諦めていたら、新らしい保育園が来年できるというので、昨年から出していた希望が叶って、こと子もふみも入園できることになった。

そして先月(3月)、その新しい保育園の造成工事があり、閑散期の植木屋の、その場凌ぎの派遣労働者として、私はその土木工事に3日ほど土方をやりに行く羽目になった。いや、2人の娘が通う保育園を造る工事であるから光栄だし気合いが入るといえば入るが、何しろキツい肉体労働である。具体的にはその保育園の園庭のフェンスを設置する仕事で、20キロ弱のフェンスの基礎石を運んだり、それを埋める穴を掘ったり、その基礎石を固めるモルタルを練ったり、またそれを運んだりする仕事だった。私はそのキツい肉体労働の最中もコーラの自販機の少年のことを思い出していた。

これを書いているのも夜中の布団の中でさっきまでふみをおんぶしていたのである。そして明日は何と遂に2人の入園式なのであり、我が庭に植えられた立派な桜が見計らったかの様に満開に咲いているのだった。
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