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アクセルの意気地記 第20話 こと子と言葉

喋り始めるとホントにそれまでの幾倍も可愛くなりますよ、と以前同僚に言われたのを、私はまあそうでしょうね、とクールに聞き流し、落ち着いたフリを装っていた。が、いざ、娘が言葉を覚え、そして声に出して発話し始めた時の興奮は、私の想像を軽く越えていていた。何とも言われぬ。超絶いとおしい、とでも申そうか…。

感激してるのも束の間、こと子が、単語と単語を結びつけて文章にして声を発するようになるのに大して時間はかからなかった。保育園の影響も大いにあるのだろう。

この発話のメカニズムを分析すると、子どもは大人や周りの子どもの会話に耳をそばだて、どういう状況でどういう言葉や文章が話されているのかを注意深く観察する。そしてまず真似てみて、それが周りの人に理解されたことが分かると味をしめ、それらを覚え、のち応用し始める、という流れをたどっているように見える。

そのように思ったのには、私の(大して熱量のない)英語学習と、そのメカニズムがほとんど同じであると感じたからである。私は外国人が滞在するシェアハウスで物件管理の仕事をしているのだが、日常会話程度の簡単な英語力を求められる。働くのに、厳格な英語力の審査がある訳ではなく、海外旅行に行ったことがあり、ホントに片言でも、とにかく外国人と簡単なコミュニケーションができれば、まあ務まる仕事なのではあるが。

私は大学4年まで英語を学んでいたが、海外旅行に行って、初めて自分が全然英語が話せないことが分かり、ジェスチャーや度胸の重要性を噛み締めたクチだが、この仕事を始めて、以前よりは英語のヒアリングに少しは慣れてきたような気がする。

職場内にも外国人のスタッフが多いので、私はスタッフ同士の英語の会話や、お客さん同士の英語の会話などに耳を傾け、どういうシチュエーションでどういう言葉が使われるのかに耳をそばだてている。全然成長しないなぁ、と思っていたけど、初めて海外旅行に行った時と比べればある程度進歩したような気がするのだ。

そんな私の(不真面目ではあるが)英語の勉強と、こと子の言葉の吸収は、ノウハウがどうも似ている。1歳時の頃にこと子が「よいしょ」という言葉を比較的早い段階で覚えたのは、保育園の先生達がこと子を持ち上げる時によいしょ、よいしょと言ってたからに違いない、と踏んでいる。

よく会ったり、よく話したりする友人や同僚の言葉遣いが、気がついたら移ってしまった、なんてことがあるが、ゼロから言葉を覚える幼児にとっては周りに現れる全ての人が言葉の先生となる。だから保育園の園児や先生、それに私やピーさんが師となる訳だが、1番近くにいるピーさんの影響は当然大きくなっていて、ピーさんと同じイントネーションで、同じセリフをこと子が言ってきたりするのだから、それが可笑しい。

何か許可を求めた時の「うん、いいよ〜」、何かお願いした時の気の抜けた「はーいっ」という返事、私がヘンテコな表情をした時の「そ〜の、か〜おぉ」、などなどである。

言葉の先生になるのは人間だけじゃなくて、今の世代の子たちはインターネットやスマホの影響が計り知れないことは誰も否定しないはずである。ネットもスマホも、こと子は気づいたら大好物になってしまっていて、悲しいかな私もピーも、それぞれのレベルでなるべく見せないように努力をしている。

それでもとにかく便利なので時々見せる。その間に自分のことをやる、といった具合である。

しかし、そのこと子のケータイ(スマホ)への執着といったらなかなか凄いものがある。彼女にとってのケータイはアイフォーンの写真アプリのみなのであるが、1度開いたら1時間くらいは平気で見てる。写真アプリといっても好物は動画で、今まで私やピーさんが撮った動画を際限なく見返しているのだ。

スマホ世代とはよくいったものだが、タッチパネルの使い方などお手の物で、ダブルクリック、上下左右のスワイプ、大人が教えなくてもあっという間に使いこなしていること子がいる。動画を見ながら、私宛てのLINEが入って、小さなポップアップのメッセージが画面上部に表示されるや否や、それを人差し指でもって、スッと上へなぞって画面から消し去った、その所作を初めて見た時は驚いた(スティーブ・ジョブズはとんでもない利器を発明したものだ…)。

スマホやネットの依存はどうかと思う反面、親がそれらに依存している矛盾もあり、そういうものから言葉や社会のことを学べる側面も否めない。もちろん、活字好きの私としては絵本もないがしろにできないと感じているけどね。

何にせよ、自分の子が脳みそをフル回転させながら喋ったり、喋ろうとしたりする姿、そしてそのあどけない声色とたどたどしさ、それらは全てがいとおしいくくるおしい。

例えば、さっき帰宅した時、まだ靴も脱ぎ切らないで玄関に立っている私に、こと子は「あのね」と言ったのだが、うん、と相槌を打ったら、あのね(うん)…、スヌーピーのね(うん)、リュックにね(うん)、ハンバーグ入ってるの、とどっか明後日の方角を向いて一生懸命に言葉を探しては呟いた。そうなの? と、私は驚いて、そういえば昨日そのリュックの中にこと子と膨らんだ風船をいれたことを思い出し、はて、こと子は風船のことをハンバーグと言ってるのだろうか、と案じながらこと子のスヌーピーのリュックを鴨居から外して中を広げてみたら、昨日膨らんでいた風船が1/3ほどに縮んでいた。

また、さっきは遅い夕飯を食べている私のところに、プラスチック製の腕輪を右手と左手にぶら下げてやってきて、「どっちがいい?」と聞いてくるのである。左手のはオレンジで、右手のピンクのより一回り大きい。私は大人だし男だから左手のオレンジを指差し、こっちがいいな、と返答した。するとこと子はなんとしたものか、右手のピンクのを私の方に少し差し出して、「こっち?」と問いかけるのである。(いやいや)と私は鼻を鳴らし、「トトはこっちがいいな(私はトトと呼ばれている)」ともう1度オレンジの方を、今度は手に持って触ってみると、こと子は、そんなことは聞こえない風な顔をして、「こっち?…こっち?」と、またピンクの方を私に差し出してくるのであった。

と、まあ、こんな感じでこと子との会話は、毎度腹の底から可笑しくなったり、いとおしくなったりするのである。

私は子供を持つまで、この、「いとおしい」というのが、どういう感情なのか分からなかったが、子どもに対して湧き上がってくる感情は、当然今まで体験したことのないもので、「いとおしい」というのはこういう感覚なのかもしれない、と気づいた。覚えたての言葉を1語1語一生懸命喋る子どもの姿はホントにいとおしいものである。
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バンドマンに憧れて 第32話 東京フリーターブリーダー

ラップの歌詞を書いたはいいが、ギターを弾きながらラップをするということは生易しいことではなかった。しかし、当時の私には、成功物語のためなら、我武者羅にやればそれもやれないことはないだろう、くらいに考える若さがあった。

ベースを弾いたことなかったクラッチがベースを弾き、ドラムを叩いたことなかったブレーキーがドラムを叩いているバンドである。パンクやローファイのスピリットは意外にも強靭なもので、私は下手でもいいからトライが重要だと思っていた。

ベースを上手く弾けず、裏拍の取り方が分からず何度も何度もスタジオで、そうじゃない、そうじゃない、とやり直し、とにかく時間をかけてクラッチがベーシストになっていったように、私は私で家で、またスタジオで何度も何度も練習を繰り返してギターを弾きながら歌うことや、また弾きながらラップする、ということを身体に染み込ませようと努力した。テクニックを高めるための練習は嫌いだが、やりたいことのための練習は苦じゃなかった。

ブレーキーにディスられて、その悔しさに、おぞましいボーカルスクールに通ったときのような妙な向上心で、私はロックバンドにラップを取り入れる、という画期的と思われたアイディアをカタチにするために頑張った。

それにその頃の私は「とにかくみんなを驚かせたい」という想いが人一倍強く、ヒップホップをパンクバンドがやったらみんな驚くだろう、と単純に考えていた。そういう野心やモチベーションが、薄給のアルバイト生活を支えてくれていたことも事実であった。

努力の甲斐あって、と言っていいのか分からないが、アホみたいに繰り返し練習してるウチに、リズムの正確さは置いといても、ギターを弾きながら自作の詩をラップできるようになった。

我々はその「東京フリーターブリーダー」という曲を軸に、当時ほかに演奏していた曲や、アルバム用に私が急ごしらえしたボーナストラックをまとめてアルバムを作っていった。

ボーナストラックを多用していたのはニューロティカというベテランパンクバンドの初期の作品に強い影響を受けていたからである。またハードコアパンクの先輩でフィッシュロックバンド漁港やレスザンTVの影響もあり、その頃は、CDの中にふざけた要素がないとダメだと思っていた。赤い疑惑というシリアスな感じのするバンド名のイメージをどんどんぶっ壊したい、という気持ちがあったこともそんな風にさせたのかもしれない。

さて、そのボーナストラックには、夢に向かって生きるフリーターを、サラリーマンがけちょんけちょんにバカにする寸劇や、レゲエ映画「ロッカーズ」に影響を受けまくって作ったナイヤビンギ(太鼓を中心にしたラスタファリアンの儀式音楽)風の曲、そして新宿の街を、ライブでの登場さながらにお囃子しながら手を叩き、歌い練り歩くという、謎のフィールドレコーディングのトラックなどを入れた。

この路上デモのような録音を入れたのには、自分達の音楽をストリート系として位置づけたい、というヒップホップかぶれな思惑があった。普段ライブの登場でやっているオリジナルアカペラお囃子で、新宿を練り歩いたらさぞかしみんなビックリするであろう。ただそれだけのことであった。

当日は撮影隊のオーヤン(後に大変有名になる)の他、エキストラとして、大学からの腐れ縁であるイン研の連中や、ライブで声かけてくれた年下のお客さんなどが集まり、我々のお囃子にしっぽりとついてきてくれた。新宿アルタ前から始めて、東口に向かう横断歩道を渡り、中洲のような、あのステージがある辺りまで「わっわっわっ赤い疑惑!」というリズムで囃して行って最後にアカペラでハモって終わり。

改めてこの映像を見たところ大変迫力のない、三流サブカルバンドという趣きで赤面せざるを得ない内容だった。周囲の人々はビックリするどころか目を背けて素通りといった感じである(ジャケットのブックレットにその時の記念写真があるが、通行人の中で唯一我々のお囃子を面白がってくれたおばちゃんが1人映っている)。

とにかく、そのお囃子の録音データを9曲目に入れて、最後は今でも時々演奏している「何度だって立ち上がってやる」という曲を持ってきて10曲入りアルバムを作った。

この「何度だって立ち上がってやる」という曲ができたのは、とあるライブがきっかけだった。とにかく奇をてらう傾向の強かったその時期は、ライブでどれだけ変なインパクトをお客さんに与えられるか、というようなことばかり考えていたため、際どいことをMCで言ってみたり、ややもすると毒づいたり、そんなことがちょこちょこあったようである。その上に酔いすぎて演奏がめちゃくちゃだったり、とにかく空回りが激しかったり。

それで、その日は馴染みの大学のイン研の連中がライブに来ていて、ライブ後の打ち上げで私は散々みんなにディスられたのだ。具体的にどんな風に非難されたか覚えてないが、とにかく、今日のライブは最悪だった、という訳である。私はそこまで言われるのは初めてだったので正直凹んだ。

腐れ縁のような何にも気にしないで語り合える連中だったからこそ言ってくれたディスである。何度も赤い疑惑を応援してライブに来てくれている連中でもある。酷いライブで彼らも恥ずかしかったのだろう。それはわかった。それはわかったが、悔しくて悔しくて仕方なかった。

また丁度同じ頃、私が反町のビーチボーイズに号泣した折に天使のように私を温かく包み込んでくれた当時の彼女から、赤い疑惑を激しくディスられる、という事件があった。酒が好きで時々ネジが外れることのある人だったが、その日は夜中に泥酔状態で私の風呂なしのアパートにやってくるやいなや、赤い疑惑って一体何なのよっ、と激しい剣幕で私に迫るのだ。

訳が分からない状態でしどろもどろしていた私は最終的には、何でそんな酷いことを言うんだよ、とまたぞろ泣き出してしまう。オトナの男に突然泣かれ、俄かに我を取り戻した彼女が急に、泣かないでよ、そんなに傷つけるつもりじゃなかったんだから、と一転謝り出す始末。

直後に冷静になって話し合ったところ、彼女の古い飲み仲間のY(女性)に、あんたの彼のやってる赤い疑惑ってどんなバンドなん?とバカにするような感じで言われて、彼女は赤い疑惑のいいところを考えて伝えようと思ったのに全然うまく説明できなくて、悔しくて、私に八つ当たりしてきたようだった。だから彼氏のやってるバンドを応援したいのに、赤い疑惑の持ち味に彼女の価値観とリンクしない部分やノリがあるのを、酔った勢いで爆発させてきたのであった。

私がその頃強く意識していたハードコア根性や、アングラ精神、アウトローへの憧憬、訳のわからなさ、愚痴っぽさ、弱音、そういったものを面白いと思えない女性はむしろ普通かもしれない。音楽的なよさや、ユーモア性はさておき、赤い疑惑大好きなの、と女性が言いづらいようなオーラを纏っているかもしれないことは自分でも想像できた。

私はそういった、近い人からの厳しめの評価に、一時的に押しつぶされそうになっていた。音楽で成功しようと思って始まった、先の見えないフリーターライフを賭したバンド人生の第1関門だった。そして必死に考えていた。自分がバンドをやりたかったのは、みんなを元気にさせたいからじゃなかったかな。みんなを、うおー、って気持ちにさせて盛り上がりたいからじゃなかったかな。

アウトサイダーに憧れるあまり、自分の持ち味を腐らせている部分や、捻くれよう捻くれようとするあまりから回ってる部分や、シニカルになり過ぎたり愚痴っぽくなる傾向は、自分が本当に望んでることなのか。

いや、私はロックでもっとアゲていきたいんだ。自分もお客さんもアゲていきたい。そして私は、私をディスってくれた親しい連中の顔を想像しながら、彼らの心も身体も踊らせるような曲を作ってやろう、と思った。何度挫けても立ち上がってやろうじゃねえか、という心意気、自分への応援歌でもあるもの。

その想いと長時間のスタジオ練習が実って「何度だって立ち上がってやる」は完成した。我ながらよくできた曲だ。今まで作った曲の中でも群を抜いてポジティブなオーラに溢れている。ライブでの客の反応ですぐに分かった。この曲をラストに収録して遂に「東京フリーターブリーダー」が出来上がった。

アクセルの意気地記 第19話 おでんくん

まだこと子が1歳になるかならないかの頃、ピーが、「こと子っておでんくんに似てるよね」と言った。私はおでんくんのことを、リリーフランキーが創作したアニメかなんかだろうといった雑な認識でしか把握しておらず、おでんくんの顔もその時ははっきりとイメージすることができなかったので、ふーん、とか何とか答えて聞き流していた。

私は自分の興味のない事柄に関してワザと情報を遮断するような傾向があり(テレビが苦手で、実家でバラエティーなどかかっていると、努めて視線をテレビに向けないようにするなど)、おでんくんもそのように関係のないものとして遠ざけていたかもしれなかった。

そもそも、私はリリーフランキーのことを、何だか鼻持ちならないヤツだ、と思っていたのである。何でそうなったのかというと、私の母が胃がんで闘病していた十数年前に、リリーフランキーが「東京タワー」という、奇しくも同時期に、同じ母親の死を扱った小説を発表して一斉を風靡していたからなのだ。

私は人に勧められて「東京タワー」を読んだのだが、それなりに感動しながらも、何でいっ、オレの方が上等な「東京タワー」を書けるぞ、っと内心ライバル意識をメラメラ燃やしたのである。何を言ってるんだ、と不思議に思うかもしれないが、母の闘病と、それを看病する私の中でも、東京タワーが印象的な思い出として残っているからで、そのことを今説明する余裕も、みなさんの期待もないので省くが、とにかく増長したガキだった20代半ばの私はリリーフランキーを鼻持ちならない存在としてカテゴライズしてしまった。

この客観的には不可解であろう嫉妬と嫌悪は、リリーフランキーという人の持つ、または持っていたサブカル気風からくるものだと思われ、私のようにサブカルやアングラに青春を食いつぶされた人間にとって、その道で成功した著名人に対して、羨望と嫉妬から、何だか鼻持ちならないヤツ、というレッテルを貼ってしまう傾向があったのである。みうらじゅんや中原昌也や町田康などなどなど、アンダーグラウンドから著名になった人への妬みのような感情は30歳くらいになるまで私について回った(大体アングラから著名になる人のほとんどは、相応の才能とオリジナリティ、そして行動力があったればこそ、ということにだんだん気づくのであるが)。

さて、こと子がおでんくんに似てる、という妻の指摘を聞き流してからしばらく経った頃、私は何かの拍子でおでんくんのビジュアルを目撃した。そして、そのつぶらで黒目がちの眼と、のっぺりとして少し間の抜けた風貌、それが確かにこと子によく似てると思った。

それからまた大分時間が経ってこと子が2歳になる頃、おでんくんの絵本を2冊、ピーが何処かで入手してきた。私はその段になって、おでんくんはアニメではなくてオリジナルは絵本だったのか、ということに初めて気がついた。そしてこと子がその絵本をエラく気に入って、それから毎日のようにおでんくんを読まされる日々が始まるのだった。

そうして、おでんくんを読み聞かせるようになってすぐに、私は「おでんくん」が日本の絵本史に名を残す傑作ではなかろうか、ということに気づき、リリーフランキーを見下した自分を恥じた。イラストやキャラのユルさ、親しみやすさ、物語の、バカらしくも愛に溢れる内容…。アニメ化され、ベストセラーになる所以がふんだんに詰め込まれている。不細工な猫のぬいぐるみじゃないが、私はこと子の無邪気なおでんくんへの好意にすっかり感化され、次第におでんくんのファンになってしまった。

私が仕事から帰るのは大体20時から21時くらい。ピーがご飯の支度をしている間、こと子は「いないいないばあ」やケータイに夢中になっていたりするのだが、それらに飽きてきたタイミングに私の帰宅が重なると、待ってましたとばかりに私を捕まえて早速「ねんくんよむ?」と語尾をあげて聞いてくる。語尾を上げるのだが、これは疑問形ではなくて、おでんくん読んで、というおねだりなのである。

こと子はおでんくんのことを最初から「ねんくん」と呼んで訂正することがないのであるが、これは「燃」という名前の私達の大好きな友人に端を発するのではないかと踏んでいる。こと子は私達の友人の幾人かの名前や渾名を覚えていて、その呼び名を時々ポツリと発することがあるのだが、「燃くん」もこと子のお気に入りだ。

「ねんくんよむ?」と無垢な声で尋ねられたらば、差し迫ってやらなければならぬことのない私は断る理由がない。畳の上にあぐらをかくと、その組んだ私の脚を座布団にしてこと子が腰を下ろす。

おでんくんの絵本は2冊しか存在しないらしく、その2冊が我が家にある。それぞれ夢のハナシと愛のハナシで、その時の気分でこと子がどちらを読むか選ぶのだが、今までの幼児向け絵本に比べると文字量が多く、最後まで読むとそれなりに疲れるし、後半はこと子も飽きてきて、開いたページの文字を読み切らないウチにページをめくってしまったり、よそ見をしたりしばしば散漫になる。それでも最後まで読まされる。後半にも1、2箇所こと子のお気に入りのくだりがあるからだろう。

夢を諦めないこと! と夢を見ることの大事さを説く夢のハナシでは、糸こんにゃくのいとこんくんの髪がドレッドで、いとこんくんの夢がジャマイカに行くことであり、そんなマニアックな内容をさりげなく絵本に散りばめるあたり、リリー氏の遊びゴコロにハッとさせられる。おでん屋さんに訪れる青年の、病気の母親の胃の中でガン細胞と闘うおでんくん部隊のシーンでは、こんにゃくが身体の掃除をしてくれる、という自然療法シンパな見識が絵本の中に見え隠れしていて、私はそこでもまたハッとする。

しかし最近のこと子は、夢のハナシより特に愛のハナシが好きらしく、愛のハナシを読むのだが、愛って何ですか、という(私も赤い疑惑の曲で歌っているが)人類にとって普遍的で深いテーマをサラっと取り上げている。毎回私はこと子を喜ばそうと思ってページを捲るのであるが、そこで語られる愛についてのシンプルな投げかけにドキッとさせられてしまう。

冒頭ではまずおでんくんたちがおでん村のお祭りで踊り出す。するとこと子が、「おでーん、でんでん!」とセリフを覚えていて、立ち上がり「トトも立って!」と言うので私も立ち上がって一緒に「でんでーん!」と踊らなくてはならないことになっている。一通り踊るとまた座らされて続きを読む。

愛は人を好きになることだけど、何で好きな人を嫌いになったりすることがあるんだろう。おでんくんはピュアすぎてそのことが理解できないので長老のダイコン先生に相談したり、おでん屋さんのおじさんが好意を寄せるお客さんのココロと対話をしてみたりして愛について真剣に考える。そのくだりを読む私のココロは毎度毎度揺さぶられる。

「好きな人を嫌いになる?」
「好きだったのに?」
「どうして好きだったのにそうでもなくなるんだろう?」
かようなおでんくんのセリフを読む私は側にいるピーさんのことを思い、苦々しいきもちになったりする。嫌いになりはしなくても、一緒に長く住んで時間を共有していれば、付き合いたての恋人のような、好きで好きで、というような感覚はなくなり、また、些細なことでしょっちゅう喧嘩をしている。あんなに好きだった人なのにどうして? とおでんくんとこと子が私に迫ってきて助けを求めたくなる。

子を育てる親たちの絆を取り戻したり、再確認させたり、ちゃんと考えさせるために、それでいてあんまり深刻になりすぎないように、リリーフランキーがおでんくんというゆる可愛いキャラを使って愛についてを問うのである。私はそのくだりを読みながら、(ああ、ホントならもっと奥さんを大事にしないといけないのだ)などとココロを引き締めたり、おでんくんの優しさにジンと胸を締め付けられたりしている。そして最早尊敬の眼差しでリリーフランキー氏のことを想う。土下座してもいいだろう。

こと子のおてんくんブームは今も続いていて、私だけじゃなく、ピーさんも頻繁に読み聞かせているので、遂には序盤の数ページの文章を丸暗記してしまった。まだ文字を読む年齢には早いはずだが、誰も読んであげられる人がいない時、1人でページをめくって物語を暗誦していて私を驚かせた。

なんでも知ってるつもりでも
ホントは知らないことがたくさんあるんだよ
世界のふしぎやいろんな奇跡
もしかしたらそれは
おでんたちのしわざかもしれないのです!

さも誰かに語り聞かせているかのような、地声より一段も二段も調子を上げた、ソプラノトーンで暗誦すること子の声が今日も狂おしく聞こえてくる。

バンドマンに憧れて 第31話 ラップへの挑戦のち男泣き

(第29話の続き…)

原付の居眠り運転で左脚を複雑骨折。左脚の膝下から足の甲にかけて内出血が溜まってしまい、その膿の摘出の為入院。初の地方遠征断念を余儀なくされた。そんな私に襲いかかった自己嫌悪も束の間、1週間といえど入院生活をするにはまだまだエネルギーを持て余していたその頃の私は、暇つぶしも兼ねて、A4のコピー用紙にリリックを書き始めた。バンドでラップをやってみようと決意したのだ。

それまで友人などとフリースタイルラップの真似事でふざけていたことはあったが、ちゃんとラップの曲を作ったことはなかった。しかし当時、インディーロックシーンでラップを取り入れるバンドはほとんどいなかったので、目立ちたがりの私は、(これは画期的なアイディアではないか)、とひとり興奮していた。

ハードコアパンクからレゲエへと触手を伸ばした頃、同じく友人からの影響でヒップホップに関心を持ち始めたことを以前書いたが、この頃はハードコアパンクのイベントによくECDが出ていた。私はスチャダラパーでラップを知り、MSCと降神で日本語ラップにハマったクチだったが、その時はECDが如何に偉大な、孤高のアーティストであるのか、まだ何にも知らない状態だった。しかし、Less Than TV周辺のハードコアパンクのファンが集うライブハウスを、サンプラーを叩きMCと、時にはアバンギャルドなsaxの演奏を織り交ぜ、illshit tsuboiさんのアクロバティックなDJプレイとでやんやと盛り上げる姿に私は衝撃を受けた。

当時西荻に住んでいたこともあって今はなきWATTSというライブハウスにしょっちゅうライブを観に行っていたが、ECDはそこでも何度かハードコアのイベントに出ていた。外に遊びに行って来まーす、というアニメかなんかのセリフをサンプリングした曲がポップでヒップホップの面白さを改めて体験した。

そんなある日、WATTSでライブに出ていたECDに、思い切って持ち合わせのデモCD-R「東京サバンナ」を渡した。気さくな石田さんは私の突然の押し売りに応えて、それをもらってくださった。

後日、当時カクバリズムを立ち上げたばかりだった同世代の(角張)ワタルくんが、「赤い疑惑凄いじゃん、ECDのBBSで褒められてたよ」、と聞き捨てならないことを教えてくれた。BBSとは当時ネット空間で繁盛していた匿名の掲示板のことで、ECDは自身のBBSを持っていて、そこで赤い疑惑の「東京サバンナ」について、面白い、と取り上げてくれていたのだ。

何とも光栄なことだった。このハプニングは赤い疑惑の名前を当時のインディーシーンに広めるのに十分な威力を発揮した。赤い疑惑が個性的なパンクバンドとしてようやく一部の人に知られるようになった。

東京サバンナの反響がある程度感じられるようになり、私は次の作品をそろそろ作るべきだと考えていた。そしてその作品の主題にふさわしい曲はどんなものがいいかな、とぼんやり考えていた。そんな折りに私は原付で事故ったのである。

病院のベッドの上で、足が治ったらまた存分に頑張るぞ、と意気込み、私は曲名を思いついた。タイトルは東京フリーターブリーダー。これは当時勤めていた中井の染色屋さんの名誉社長のことをモデルにして名付けた造語で、フリーターを無条件に応援してくれるその社長の豪放なキャラに触発されたものである。

バンドマンを目指すフリーターという身の上は、想像通り社会での風当たりが悪く、特に親戚関係からの目線や、バイトの面接などで幾度も屈辱的な思いをした。ところがその染色屋のばあちゃんは職場のフリーター達を凄く可愛がっていて、事務職という仕事柄、最もそのばあちゃんの世間話やら無駄話やらの相手をする立場にあった私は、その愛情をたっぷり受けた。ぽっちゃりと太って、そのせいなのかどうか聞いたことはなかったが、右脚を悪くしていて、歩くときは右手に杖を持ち、重心を傾けて歩くその社長のことが私はとても好きだった。如何にも下町の娘らしいチャキチャキとした語り口で、大口を開けてギャッハッハと笑う姿があっぱれだった。

世代的なものもあるのか、週刊誌の右派論調に乗っかって、「北朝鮮に1発ぶちかましゃあいいのよ!」 なんて、戦後復興からバブルまでを知ってる人らしく気炎を上げたりすることもあり、それは社長、どうなんだろう、などと私は思ったりすることもあった。が、総じて私はそのばあちゃんに好感を抱いていた。名誉社長というのは、実質の職務を取り仕切っていたのが息子のヒロシさんで、社長の役目はいつも遅くに来て応接室の机にデーンと座り、たまの来客と、また世間話したりするくらいのことだったからだ。

さて、私は病床にて、夢を持ってフリーターで頑張る、自分を含む若者達にエールを送るラップを書こうと頭を悩ませた。結果的には相対論を用いてサラリーマンを揶揄する内容になったが、批判的になり過ぎないように全面的にジョークを盛り込んだ。フリーター役を自分が、そしてそれを腐す社会人役をクラッチのパートに割り振り、押し問答形式にして、更にポップにするためにサビで東京フリーターブリーダーという造語をリフレインさせた。フリーターを飼育、または擁護し、応援してくれるビッグボスというくらいの意味である。

退院後、出来上がったリリックを自慢げにクラッチに見せると、おっ、という感じのいい反応を示し、ブレーキーも興味を示したのでバンドでラップを取り入れることは即採用になった。

しかし退院したとはいえしばらく松葉杖生活でバイトにも行けず、風呂なしのアパートで静養していた自分の精神状態は決して平穏ではなく鬱屈していたらしい。家賃と生活費を払ってギリギリのバイト生活はちょっと油断すると茫漠たる不安の波に飲み込まれるのだ。

その日、私は動くに動けず家で何となくテレビを見ていた。当時付き合っていた彼女が夕方来てくれることになっていたが、私はホントに何の気なしに「ビーチボーイズ」というヒットドラマの再放送を見ていた。ひねくれ者の私にしてみれば、どちらかというとバカにする対象のトレンディドラマで、その時もバカにしながら観ていたに違いない。

反町ってイケメンなのに何か笑える、とか何とかそんなことを考えながら見ていたら、悔しいよな、ガキの頃ってさ、大人になったら何でもできるって思ってたじゃん、だけど大人になったオレたち今どうよ?、と正確には覚えてないがそんなニュアンスのセリフを反町が竹野内豊に呟くのだ。その何気ない、しかもよくありそうな陳腐なセリフが、私のその時の情けない状況とリンクしてしまい、私は過剰に動揺して泣いてしまった。

悔しかったのだ。バンドで何とか生きていってみせると親に啖呵を切って実家を飛び出したのに、居眠り運転で事故って早速親に入院費を世話してもらい、ツアーにも行けず、どんと来いと思っていた貧乏生活にも不安を覚え…。

丁度その直後、彼女が家にやってきた。部屋にふと現れた彼女を前に、私は涙が出てきたのを隠すのも所在なく、隠すのを諦めて、ビーチボーイズ見てたら泣いちゃって、と照れながら彼女に伝えようとした瞬間、その言葉は途中から嗚咽に変わってしまい、私はオイオイと声を上げて泣き崩れてしまった。

彼女は私が酷く深刻な状態にあって泣き出してしまったのをすぐに察知して、何も言わずに、いいんだよ、泣きな泣きな、と言って私を抱きしめた。私はそれで拍車がかかってかつてないほど男泣きに泣いた。そして女性の母性というものを初めて知った気がした。ひとしきり泣いた後は不思議なことに、いつにない晴れやかな心が戻ってきていた。

アクセルの意気地記 第18話 多摩動物園へ行った日

その日、私は仕事が休みで、ピーはチーズ配達のバイトだった。本来ならこういう日、つまり親のどちらかでも家で子どもの面倒を見られる日は、保育園には子どもを預けられないことになっている。それはそうなのだが、大抵の親はこのような場合、仕事があるフリをして子どもを保育園に預け、空いた時間に束の間の、自分の休息を楽しむのではないだろうか?

世間がどうであるか分からないが、私もそういう日にはこと子を保育園に預け、家事に専念したり、映画に出かけたり、ボーっとしたりしてきたのである。しかしそうやってズルしてる時は何だかんだ多少の後ろめたさが心の奥にあったりするのである。

そしてその日は朝起きぬけに、(いやいや、今日は保育園には預けず私が面倒をみよう)、と心に決めたのだ。面倒をみようというよりは、もうこと子も随分大きくなって喋れるようになってきたし、どこかデートに出かけよう、と思い立ったのである。いや、もっと私の意志ははっきりしていて、今日は多摩動物園にこと子を連れて行ってみよう、と閃いて興奮していたのだ。

洗濯をして朝食の皿を洗い、洗濯物を干す。おむつ、おやつ、水筒、着替え、スタイ、タオル、いつもなら大体ピーが用意してくれるような持ち物達を漏れなく準備。よし出発。こと子に「今日は動物園に行こうか?」と尋ねると「うん、行く」と魂の抜けたような、張りのない棒読みで答えるのだった。

さて、いよいよ家を出る段階で私はバギーを持って行くかどうかで悩んだ。公共交通機関以外の道中、こと子が歩くか、抱っこになるか、バギーを持って行けば楽だけど、その分荷物が増えるのは、こと子がバギーに乗りたがらなかった場合に大変骨である。最近はバギーなしで幾度もお出かけをしているのだし、なんとかなるかもしれない。

私はバギーなしを決断して家を出た。天気は晴れていて激しい陽気は油断ならない夏だった。

汗を拭きふきバスから電車、電車からモノレールへと乗り継ぎ、1時間強で多摩動物公園駅についた。ここは母校のキャンパスのすぐ麓の駅だから私には実はとても馴染みのある土地だった。それに在学中にも1度来たことがある。もっと言えば幼少の頃親に連れられて来たりもしたはずだ。馴染みのある土地に久しぶりに訪れるということはそれだけでエモい気持ちになる。

しかし、家で洗濯などやってたせいか、もうすでに昼の12時を回っている。動物園の中ではロクなものを食べられないだろうから、入る前に腹ごしらえをしないといけないことに気づいた。そしてこんな辺鄙な八王子の山あいには珍しいような天然酵母のパン屋さんを見つけ、こと子のパンを買い、私は隣のそば屋に入ってざるを頼んだ。こと子に少しそばをたべさせながら、さっき買ったパンを店員に見られないようにこっそり与えた。こと子はまだ1人分のそばは食べられないから、ざるの580円だけで済ませてしまい、お店に申し訳ないので逃げるように会計をして出た。

動物園の入り口に大きな象の石像が立っている。私はあっと驚いて嬉しくなり、コッピ、象さんだよ、ホラ、と言うとこと子がその象の存在に気づいて喜び、ヨタヨタ走り出した。駅から入り口の正門に向かう道は既に勾配が出来ていてこの動物園が山あいにある動物園であったことを一瞬で思い出させ、私はバギーを持って来なかったことが俄かに心配になってきた。

入場券を買って中に入ると、やはり端から上り坂である。こと子はすぐに「抱っこする〜」モードになってしまい、しぶしぶ11キロの娘を持ち上げた。左から回るか右から回るか…。なんとなく人の流れを見て右から回ることにした。人の流れといっても、だいぶ疎らで、平日の、しかも都の外れの山中の動物園への来客は、間をあけると貸切り状態になってしまうような裏ぶれた感じだった。

すぐに「アフリカ園工事中」という看板にぶつかった。アフリカといえば、象やライオンにキリン、動物園の花形達がいるエリアじゃないのか? 悔しい、残念だが諦め、すぐ先の昆虫園に行ってみた。こと子は大きな昆虫のモニュメントを珍しそうに触っていたりしたが、熱帯の植物の中で様々な蝶が無数に飛び回る楽園のような植物園の中では、怖い、などと言ってノリが悪かった。

こと子は抱っこに揺られたままなかなか下りて歩こうとはしなかった。山あいの動物園で娘を抱っこして歩くのは軽い登山に来たようなシンドさに近かった。それにこの暑さ…。先日井の頭動物園に行った時は動物と動物との間が狭かったからか、こと子は次の動物から次の動物への距離をスタスタ歩いて楽しそうだったのに、ここは動物から動物までの距離が離れてるせいか、上り下りが多いためか、積極的に歩く素振りを見せないようだった。

それでも抱っこのまま、サル、タヌキ、フクロウ、ワシや鷹の勇猛な飛翔など、私たちはそれなり鑑賞して動物園を楽しみ始めていた。しかしとにかくずっと抱っこが続いたものだから上り下り道のりに私の腕は痺れてくる。気づいたらこと子も腕の中で寝てしまったじゃないか。わたしは子どもが寝そべるのに格好なベンチを近くに見つけ、慎重にこと子を下ろした。人もほとんど通らないし、大自然の中なので私もまったりリラックスすることができた。

30分ほど経っただろうか、目を醒まし、寝ぼけ眼のこと子を起こすために私は休憩用の喫茶に入って、普段余程のことがない限り買わないソフトクリームを買ってこと子に与えた。こと子は俄然生気を取り戻し、唇の周りを真っ白に汚して嬉しそうに食べるので私は写メを連写した。しかし、閉園の17時までもう1時間半ほどなので、こと子を抱えてコアラ館に急いだ。

コアラに対し、やや特別な愛着をこと子が持っていそうだったことを感じていたので私は期待して館の中に入った。するとお化け屋敷の様に薄暗い洞窟の様な空間が広がっている。私たちのほか人もいないし私は何だか心細くなってきて、奥のコアラのケージに急いだ。

ユーカリの木が乱立するケージを見渡してもなかなかコアラの姿は見つけられなかった。コアラいるかな?とさっきまでこと子を期待させてきた分、どうしようもない焦燥感にかられた。目を皿にしてよくよく見ていたら、一本のユーカリに灰色の固まりがくっついているのが見えた。間違いなくそれはコアラだった。だったのだが、そのコアラがこちらに背を向けて昼寝をしているのがすぐに分かって落胆した。私はこと子にコアラが後ろ向きで寝ちゃってることを残念がって伝え、館を後にして次のターゲットへとまた先を急いだ。

すぐにアジアゾウのエリアにたどり着いたが、象の姿はなく、改装工事の業者がハリボテの様な造形の補修をしているばかりである。こと子に象も見せられないとは…。諦めて先に進むと、今度はヒョウが颯爽と走り回る檻の前にやってきた。そしてそこでたまたま鉢合わせた家族と、交流のタイミングができたので、私がアジア象が見られなかった話しをすると、
「アフリカ園の象はいましたよ」
と、意外なことを私に教えてくれるのだった。アフリカ園は工事中だと思い込んでいたのは私の不覚だった。アフリカ園の工事は部分的なもので、事前にそれ知っていたらこと子も象を見られたかもしれない…。しかしこれ以上こと子を抱えたまま正反対の方角のアフリカ園に戻るのは無謀に思われた。

よかったら、とその家族が悔しがってる私を哀れんで園内マップを1つ手渡してくれた。コレだ! 何で私はコレを入園した時にゲットしなかったんだろう、と自分の適当さに幻滅した。マップには工事中のエリアと、どこにどんな動物がいるか分かりやすく明示されている。アフリカ園に行っていれば象やライオンにキリン、動物園の花形達を見ることができたことも判明し、私は愕然とした。

礼を言ってその場を離れたが、時間を確認すると、あと30分で戻らなければいけない。出口でもある正門まではまだ大分距離があった。ギリギリまで動物園を楽しみたい私は、道中に残るアジアの平原コーナーに向かってこと子を抱えながら走った。そして足早にウマを鑑賞し、さらに走った。アジアの平原コーナーにいるらしいオオカミが見たかったのだ。しかしオオカミの大自然エリアは思ったよりも広く、なかなかオオカミを見つけられずグルグルしてしまった。周りにはもう誰も観覧客がいなくなり、まるで1人で登山してる時の様な心細さがまた私をゾワっとさせた。

オオカミも見られないかな、ダメかなと思い諦めかけ、念のため、と覗いたオオカミ舎に3匹のオオカミ当たり前いの様にそこにいた。オオカミ達は立派な体躯をたたえ、牙を研ぐためなのか檻の鉄柵に噛みついてヨダレを垂らしている。私が感心して見ていたら、腕の中のこと子は、明らかに今まで見たどの動物よりも目を輝かせてオオカミに見入っていた。怖くないのかな、と不思議な気持ちになった。

園内放送が流れ出したので私は早歩きで正門に急いだ。結局こと子はほとんど歩いてくれず、腕は棒の様だし歩き疲れもしたけれど、私はそれなりの充実感を覚えていた。お目当ての動物も大して見られなかったかもしれないが、動物園に2人で来たという実績に満足しかけていた。フワフワとそんなことを考えていたら、こと子が抱かれたままハッキリと
「オオカミかわいかったね」
と言った。他の動物を見ても特に感想を述べなかったこと子がそのあと何回か同じことを言った。私はその度に、
「かわいかったよねー」
と同意しながら、確かにあの威武堂々たる逞しいオオカミも、見方によっては「かわいい」とも思えるような気がして、あたたかい気持ちになってきた。

最後の最後に頑張ってオオカミを見せられて、しかも、オオカミかわいかったね、ということ子の心の上向きな機微を感じ、(奮起して多摩動物園までやってきてホントによかった)、と思った。充実した気持ちのまま象の石像の正門まで早歩きで戻ってきて、ふと門の近くの小屋の並びに目をやると、1日500円で借りられるベビーカーのレンタル屋さんが、まさかそんなところにあった。あっ、と気づいても後の祭りで、私は苦笑せざるを得ないのだった。
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