コトコト1週間 1話

8/18

 朝起きると見知らぬ生き物がピーと私の間に横たわっている。いや、見知らぬ生き物ではない。これは私の娘、こと子である。昨日、オヤジと車で、山形のピーの実家からピーとこと子を連れて帰ってきたのだ。

 こと子の名付け親は私である。確か30以上あったと思うが、私が挙げたあまたの候補が次々とピーに却下される中、「ことこ」は可愛いかもと言うので決まった。

 響きだけで決めたので漢字を当てるか考えたが「琴」だと意味が限定的すぎる。「言葉」「言の葉」の「こと」もあるな、とも考えたが「言子」だと変である。そこでどちらの意味も緩やかに含ませようと平仮名にすることに思いついた。

 「こと子」。いいじゃないか。思いついて平仮名の元の漢字を調べたら「己止子」となった。己を止める、というのはつまりエゴを抑える、という様にやや強引に解釈し、ワガママにならないように、という願いもトリプルで含ませて「こと子」。

 ピーがカレー好きだからコトコト煮込んで、こと子、というのも1番最後に付け足した。名前を聞かれて「こと子と言います」と紹介したらそれだけで可笑しい。

 朝メシを簡単に済ませて出勤。仕事が朝から忙しかった。太っちょのカップルが住んでいた部屋がカビと汚れが凄かったので、ツネさんとほぼ1日その部屋の整備に尽力した。

 私はタイルカーペットの張り替え。ツネさんは壁紙の張り替え。ツネさんは仕事の大先輩で、段取りが非常に上手く、私はツネさんの助手のような立場で働いているのだ。

 作業中、物凄い雨と物凄い雷に見舞われ、なかなかエキサイティングだった。整備が終わらず少し残業になったが、これはいつものことである。

 19時半に会社を出て、赤ちゃん用のボデソープを買って急いで帰宅した。急いで帰宅したのは早くこと子に会いたいからである。こんなにワクワクする仕事の帰り道は生涯初めてだと思った。

 その日の夜、私はこと子を初めて風呂に入れた。

8/19

 6時半に起きる。隣にこと子がいる。家族が増えたのである。またまだ不思議だ。可愛いな、可愛いな、と思いながら昨夜ピーが浸水させた玄米を炊く。

 炊いてる間にゴミ出しと庭の鉢の水やり、そして洗濯機を回す。庭の鉢にはミニトマト、白オクラ、春菊、枝豆などが育っている。素人菜園だからロクなもんではないが植物が伸びるのを毎日眺めるだけでも楽しいものだ。

 洗濯物を干す余裕がなかったので残りを、授乳しているピーにお願いして出勤。快晴。

 人形町の大きな物件に住んでた若い、ややワガママな女性客の苦情対応でイレギュラーの引越し業務。恒さんと20時半まで残業して何とか完了。よく汗をかいた。

 急いで帰宅しこと子の風呂。遅くなったのでベビーバスで洗ってやって済ます。晩飯は玄米リゾット。こと子とピーの就寝に合わせて寝る。

8/20

 仕事休みにつき8時半頃起床。夜中も明け方も泣けば授乳しているピーには頭が上がらない。

 こと子がオシッコで布団を汚したので天気が心配だが洗濯。朝ご飯の用意。カボチャサラダとナメタケソーメン。

 今日は久しぶりの赤い疑惑ライブで14時に家を出るので、それまでに用事を済ませようとピーとこと子と田無駅まで。ピーが散髪の間、私がこと子を預かり、内祝いの買い物など済ませる。

 初スリングで赤子を抱いたが腹巻きより温かくて気持ちい。こと子もよく寝てて私は助かった。散髪後のピーと帰宅途上ゲリラ豪雨に見舞われ、余計な傘の買い物。こと子が濡れないようにと、庇いながら帰るとバッグも靴もぐちゃぐちゃ。せっかく洗った洗濯物も濡れてしまい、急いで取り込む。

 そして、また大慌てで下北へ向かうも赤い疑惑のライブリハに遅刻。

 今日のイベントは出会って20年くらい経つ友人、DIEGOの久保君企画。彼にはずっとお世話になっている。彼のお母さんにもお世話になっている。そしていつも久保君の企画は最高である。

 昔馴染みのバンドや、大好きなSUPERDUMBも出てて始終楽しく、幸せな夜だった。

 赤い疑惑のライブも快調で沢山褒められた。Tシャツが久々に3枚も売れたので売上げをメンバーに手渡す。

 ライブが終わって、また急いで帰宅する。玄関にGが出た、というピーの悲鳴がLINEに流れた。帰宅早々G掃討作戦に乗出すも見つけ出せず、面目果たせず。

8/21

 弁当持って出勤。ピーさん得意のワッパ飯が復活。快晴。

 そば屋のそば運搬手伝い業務、閉鎖物件の閉鎖処理業務に専心。ここのところ運搬業務が続いており、やや腰に違和感あるので細心の注意を払う。

 業務の中途、ホームセンターでゴキ対策グッズを数点購入。これでゴキ出現の阻止を図りたいところだが、そう簡単に解決しないのがG問題の悩ましいところである。

 少し残業して急いで帰宅。ゴキ忌避スプレーを玄関に撒き、ブラックキャップを設置。ゴキの侵入口としてはどうも玄関が怪しいのでその辺を重点的に。

 晩飯にアサリとトマトのペペロンチーノ、カボチャサラダ、味噌汁、ぶどう。こと子を風呂にいれ、自分も風呂に。

 久しぶりにネットでCDが売れたので対応と出荷作業に着手するもこと子が泣き出し、ピーと私で代わり番こに抱っこしてあやす。最終的にはおっぱいで黙らせ就寝。出荷作業を明日に回し草臥れたので就寝。

8/22

 遅番。台風で朝から嵐。田無駅に行くまでに傘が崩壊す。防水性のトレッキングシューズと雨具という出で立ちで出勤。

 大島、錦糸町、門前仲町で作業。雨風ともに油断ならず、SNSで西武多摩湖線が崖崩れで脱線の報。防水性のトレッキングシューズもすぐに浸水して用をなさない。

 夕刻、入谷の閉鎖作業を終わらせ御苑のランドリーを清掃し帰社。雨足は大分落ち着いてきた。

 デザイナーの友人とミュージシャンの友人を私の仲介で引きあわせる、という呑みがあり、退勤後職場付近の中華で一献。私が主催だが、実は子供が戻ってきたばっかりでそろそろ、と22時頃締めてもらい帰路。

 帰ると子守に疲弊したピー。隣にはなかなか寝付かないこと子。状況を察しこと子を抱っこして散歩。北原六星会の路地をフラフラ歩きまわる。寝ついたかな、と思い部屋に戻り横に寝かすと、ふとまた起きてぐずる。折角ピーが寝ているのでまたすぐにこと子を連れ出す。

 そんなことを3、4回繰り返し、最終的にはママのおっぱいでようやく落ち着く。私も草臥れて就寝。叔父からのお祝いへのお礼を手紙で認めるつもりがズルズル後延ばしになっている。明日こそは。

8/23

 昨夜疲れてたのか9時まで爆睡。今日も遅番なので遅刻ではない。洗濯機を回しておかゆを食べる。出勤。

 本日は亀有で退室業務が2件。亀有はウチの会社でも1番遠い物件。高速を使っても1時間以上かかる。軽い旅行気分だ。

 大島で物件の漏水があり確認。お客さんのベッドが完全に濡れている。シェアハウス経営はボロい物件のリノベーションが多いので漏水なんかは頻繁に起こる。驚いていられない。

 恒さんに入谷物件の閉鎖業務確認をしてもらい、鶯谷でゴミを回収し、御苑のランドリーを掃除して帰社。本日も盛り沢山だった。

 白ごまと卵を買って帰宅。夕飯はソーメンと餃子。ピーの料理熱は子守りをしながらも健在で感心する。ピーが戻ってきてワッパ弁当も復活し大変助かっている。

 こと子を風呂に入れ、その後子守りを交代しピーを風呂へ。こと子は昨日よりは落ち着いていて、おっぱいで大人しくしてくれた。疲れ切ってまたも手紙を書けずに就寝。

8/24

 ちょっと発酵気味なカボチャサラダと義母が作った最高に美味いトウモロコシを食べて出勤。

 人形町の物件がネズミ騒動で閉鎖になるということで、閉鎖業務を兼ねた清掃。部屋の各所にネズミの糞が落ちていたので、実際頻繁に現れたのだろう。こんな部屋は貸し出せない。浴室のタイル目地に蔓延るカビが結構落ちるのでカビキラーでゴシゴシ。

 ピーのワッパ弁当を食う。ハマグリの様な焼き貝が入っていて驚いたが、後で聞いたらホンビノス貝だとのこと。聞いたことない貝だ。旨い。

 食後、蔵前で消火器交換、大島で雨漏りの原因を業者に見てもらう。漏れ部真上のバルコニーにウレタンの亀裂、サッシ周りのコーキングの亀裂などが原因では、とのこと。こんな小さな亀裂でも雨漏りの原因になる。

 退室者の対応をしてから門仲でカーテンの設置、電球交換をして帰社。こと子の守りがあるので急いで残務を済ませる。アスタでパクチーを買って帰宅。

 晩飯はアジの干物とキンピラ、キュウリの梅漬け、トマトとインゲンの鶏出汁スープ。田無駅近くの豆腐屋裏メニューで買う豆乳で作った特製プリンをデザートに。

 風呂を早めに入れてこと子と風呂に入り、ピーがおっぱいあげて私が抱いて揺らすと、今日はすんなり寝てくれた。と、思いきや、やはりその後何度かぐずり、抱き上げて胸の上でうつ伏せにさせて疲れさせたり、あの手この手でどうにか眠ってもらった。

 子どもができるとバンドどころじゃなくなると聞いていたけど、なるほど、こんな感じではなかなか自分の時間を確保するのが難しいはずである。しかし、何故か心地いい。今はとりあえずこれがいい。こと子と時間を過ごすのが楽しいのだ。
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初産奮闘記

6/28

 こと子(私とピーの第一子)の予定日6/27から1日経つがまだ置賜からの連絡はない。仕事帰りにオヤジからメシでも食いに来ないかと電話。時期が時期で特に予定を入れてなかったので気軽に応じ実家でオヤジと晩餐。オレはいつでも車で動ける様酒は飲まない。

 出産はまだなのか、などと四方山話をしてるところに置賜の父タカシから、瞳の陣痛が始まったのでこちらに向かってください、とLINEが入る。話題を無理やり遮ってオヤジにその旨を伝え、今から出ると。オヤジには勿論その経緯は事前に伝えてたのでそのまま車を借りて山形に向かう。22時頃出て深夜2:45くらいに米沢の病院に着いた。

6/29

 病院に着くと山形の母ヒロコが入院したピーに付き添ってくれていた。ピーはまだ余裕がありそうな表情だったが、実際10分置きくらいで陣痛がくるので私は心配でいたたまれない。陣痛が始まってどの位で生まれるのかという認識がボンヤリしていた私に、母ヒロコは大体明日(厳密には今日)の昼くらいだろうと予測を発してくれたのでそんなもんなんだろうと、またボンヤリ思った。

 陣痛を何度も繰り返すうちに何もしてないのはアレなので、ピーの臀部を(厳密には肛門周辺を)ボールで押す作業に乗り出す。これは先に出産立会いを経験した友人からのアドバイスだったのだが、実際ピーも痛みの軽減になるらしく続けてくれるよう頼むので、間断なくやってくる陣痛の度に私は一生懸命お尻を押した。腰をさするのもいいらしく、それをひたすら続けた。その役割を母ヒロコも時々交代してくれて手伝ってくれたがなかなか力のいる作業なので私がむしろ率先した。

 本来なら陣痛が始まって12~16時間くらいでいよいよ分娩に入るのが平均的だそうで、母ヒロコもそんな検討で昼頃、と予測したのだろう。しかし、通常陣痛と陣痛の間がどんどん短くなる経過であるはずが、ピーの陣痛の間隔はなかなか縮まらなかった。

 予測した昼を過ぎても様子は変わらない。主治医や助産師さんは陣痛の間隔が2分くらいになり、子宮口がしっかり開かなければ分娩には入れないという。ピーの子宮口はまだあまり開いてないのだという。なんだか不安な緊張感が我々を包み始めた。安産整体なども積極的にやったりしたのに、あんまり効果なかったのかな、と不安が不安を倍増させる。加えて昨晩から寝てない私と母ヒロコは付き添いだけで朦朧とし始めた。しかし1番不安で痛くて苦しいのはピーであるので付き添いもとにかく必死に言葉少なく、ひたすら陣痛が来るたびの尻押しやマッサージにあたるのみである。

 間隔はなかなか短くならなかったが痛みはどんどん強くなっていくようで、ピーの痛みに対する悲鳴もどんどん加速していき、陣痛が始まって24時間経過したあたりから、いよいよ我々は不安に包まれていった。24時間を越えたら難産、というくらいの認識はあったのでこれからどうなるのかハラハラした。主治医も助産師さん達も、まだまだですねえ、と言ったり、でもお腹の子は元気ですから、と数値を見ながら言ったりしたが、具体的なことはなかなか言わないので私は不安だけでなく医院に対する不満すらも巣食い始めてしまった。何しろ子を産まねばならぬピー自身が長引く陣痛の恐怖と痛みで戦意を喪失しかけていくのが明らかにかんじられ、ジリジリした空気が病室を満たし始めていたからだ。

6/30

 通例では子宮口が10cmくらいは開かないと分娩には入れないという。しかし6/30になって陣痛の痛み方が激しくなってきているのにピーの子宮口は3.5cmくらいまでしか開いてないらしく、それを知らされたピーはどんどん追い込まれた。私はもう眠気に苛まれて、意識は朦朧とするしピーの苦しみを見ているのも辛く、先が見えない不安の中で、キタ、というピーの陣痛の報せの度にハッと目を覚まして相変わらず尻を押したり腰をさすったりしていた。母ヒロコは時々ピーを言葉で励ますが最早疲労と眠気で疲れきっているのが分かる。それでも陣痛の間隔を測る携帯アプリで必死に記録を続けてくれた。

 このままどこまでこの終わりの見えない闘いが続くのだろうとテンパっていると、ピーの様子が変わった。陣痛の痛みを、助産師さんのアドバイスに忠実に呼吸法で克服しようと懸命になり始めたのだ。それまではマイペースに自分のやり方でやり過ごそうとしていたのだが、その呼吸法を意識的に取り入れ始めて今までより大人しくなっているようだった。私は眠気のあまりその変化に甘えてうたた寝を沢山していたような気がしたが後でピーから聞いたらあの時はとにかく必死に痛みをただ我慢していたのだそうだ。

 そうこうしている内に世が明けていったが、呼吸法の効果があるのかないのか再び陣痛ごとにピーは激しい痛みを訴えるようになり、もうムリ、とか、もうヤダ、とか、絶望的な調子が絶叫とともに吐き出されるようになると、時々は頑張れ頑張れと励ましていた私も絶望的に引っ張られてしまった。これだけ痛がってるのになかなか陣痛の間隔ぎ狭まらないし、それで、ここへくるまでは陣痛促進剤とか帝王切開とかは絶対やりたくない、と気を張っていたピーも、それらを使って楽になれるなら、と弱気な発言まで飛び出した。私も同様に促進剤や切開など避けて出産できると過信していたのに、ピーの苦しみを見ていたらそれらを全否定する勇気もなくなってしまった。

 しかし、光は決して我々を見放さなかった。朝の検診の段階で子宮口が遂に7.5cmまで広がってきた、もうあと少しだ、きっと昼頃には生まれますよ、ようやく主治医が具体的なことを言ってくれたのだ。そのセリフは疲労と不安と不満と、半ば絶望に包まれていた我々を一気に覚醒させた。終わりが見えるということがどれだけ力を与えてくれることか、我々はそれを身にしみて感じ体に残された体力と気力を振り絞った。

 絶望に包まれかけていたピーもそこから一気に前向きになった。叫んで苦しみながらもフー、フーと呼吸法を死に物狂いで続け、お腹の子と会えるその瞬間のためにとにかく頑張り続けた。その姿は私を感動させずにはおかなかった。天真爛漫だけど打たれ弱く泣き虫のピーにここまでの気力と意地と健気さがあったとは。私はその辺りから半泣きでずっとサポートを続けた。

 昼が近づき遂に分娩台に上がれるまでに子宮口が開いてくれた。先生の予測した昼頃というのは少し過ぎそうだったがあと1~2時間できっと赤ちゃんに会えるのだ、というところまできた。分娩室には1人しか付き添えないため母ヒロコは隣の控え室に残り、私だけ手術衣装に着替えさせられ分娩室に入った。

 一昨日の夜から休むことなく痛みに襲われているピーは疲労しきっているが赤ちゃんにもうすぐ会える、という希望が最後の踏ん張りをかなりパワフルなものにさせていた。陣痛のタイミングでいきむ彼女は別次元の女性に見えた。私は涙を垂らしながら付き添ったが、不謹慎にもあまりの眠気で何度か落ちそうになった。旦那さん、ご気分悪いですか?と助産師さんに言われたが、気分がわるいのではなく眠いのであった。

 14時丁度、我々の子供が生まれた。こんなにヘビーな出産になるとは私もピーも母ヒロコも予想してなかったので、その感動と達成感は並大抵のものではなかった。ことピーに関しては一生に一度か二度かの大仕事を達成したのである。あまりの苦しみのため本人も涙すら出なかった、と後で漏らしていたが、それくらいの難行だったのだ。

 新生児室に連れて行かれる前に私は赤子を抱っこさせてもらい、ピーは寝たまま赤子に乳を飲ませる儀式をした。その時のピーの安らかな表情は忘れ得ぬほど美しいものだった。

バンド漫記 第11話 高校2年生

 ユニコーンのスコアを見ながら、父のクラシックギターでギターの練習をし始めたのが中学3年生の時で、高校で軽音楽部に入り、合格祝いとしてエレキを母に買ってもらった。「バンドやろうぜ」(以下バンやろ)という、バンドをやりたい若者向けの雑誌を見ながらロックギターのフレーズ練習などを繰り返した。

 ちょっとマニアックな話しだが、バンやろに掲載されていたのか、はたまた別の媒体だったかもしれないが、広告でふと目に入った「野呂一生のギター講座」というエレキギター入門者向け教材を買ったこともあった。バンやろはどちらかというとハードロック(HR)やヘビーメタル(HM)好きのための雑誌だった印象があるが、野呂一生は全く別の情緒があってよかった。

 実際、私はHR/HMにあまり馴染めなかったのでバンやろより野呂一生の教材は親しみ易かった。その教材は初級、中級、上級と別れていて繰り返し練習したが、私は中級でつまずいた。自分は練習は苦手だとその頃から思った。

 高校の軽音楽部ではHR/HMが最早当たり前の世界になっていた。だから私はがっかりしたが、幸い同学年で組んだバンドはもっと地味なバンドものを演奏できたので助かった。しかし、それでも軽音楽部内での「ギターリストといえば早弾きでしょ」という同調圧力はかなり強く、私は居心地が悪かった。実は私も始めはバンやろのスコアを見ながら早弾きの練習を繰り返してみたこともあったが、全く上達しないしできる気がしないし、好きなことをやろうと思ってすぐにきっぱり諦めてしまった。

 あのようなモノは情緒というよりは曲芸的なもので、早く弾きまくるのを競う先輩達の姿は奇妙であった。どこかオトコ達の世界という雰囲気も漂っており、ナルシスチックなものにも感じて、私は発表会ごとに先輩のバンドを軽蔑して見ていた。

 とはいえ私は味のあるギターが弾けるようになっていたかというと、全くもってダメで、上達の兆しがあまり見られなかった。そんな時に出会ったパンクという音楽は画期的だった。ギターで押さえるのが簡単なパワーコードだけでいろんな曲ができる。全てがそういう訳ではないが、いわゆる耳コピが比較的簡単にできたので、私はバンやろや教材は放り出してひたすら耳コピでギターに馴染むよう努力していった。

 高校2年生になって1年生で組んだバンドが自然消滅し、私は新しく1年先輩で3年生だったアイコさんと、消滅したバンドのドラマー、ヤギと3ピースのオルタナ/パンク系コピーバンドを組むことになった。3ピースなので私かアイコさんが歌うしかなく、またコピーする曲の多くが男ボーカルのものだったのでほとんど私が歌うことになった。

 前にも書いたように中学生の時に己の音痴ぶりに多少気づきつつはあったが、しかしどこかで歌を唄いたいという気持ちがあったのだろう。私はボーカル兼ギターという担当に果敢に挑戦したが、これはなかなか大変なことだった。まず第一にこれもまた書いた通り、私は極端に声域が低くできていて、私が歌えそうなキーの曲を探さねばならず、そこからして大変。いろいろ試した結果、自分の当時の趣味で一番歌いやすいキーのバンドはザ・クラッシュやブルーハーツだった。

 そしてギターも大して上達してないのに、それを弾きながら歌を唄うということが想像以上に難しかった。ドラマーが右手、左手、右足、左足を起用に使い分けるような身体作業を口と手で別々にやらなければならないので、自然と簡単そうな曲を選んでいたがそれでも一筋縄じゃなかった。

 私は当時の文化祭での発表会で録音されたカセットテープを後年聞き直したことがあるが、とても聞いていられる代物ではなかった。しかし恐らく、下手くそで何が悪い、というパンク的気構えに支えられたその頃の私はギターや歌に関し、露骨な努力をすることもなく、なんとなく過ごしていた。このバンドも今年までだし、オレには松ちゃんとのバンドがこれからあるのだし、とも考えていたので自分の音楽性の未成熟さに危機意識はなかった。

 しかし、問題は来年3年生になってその後卒業したらオレはどうすればいいんだろう、ということだった。私の通った中杉という高校は中央大学の付属高校で8、9割の生徒はエスカレーター式に大学に進めることになっている。オレは大学に行くんだろうか? 大学に行きたいのか、オレは? それを考えるともう何も分からなかった。でも一番やりたいことはバンドで、バンドマンになるのが夢なんだということは変わらなかった。だとしたら大学に行くことは遠回りではないか。

 バンドマンで食うことは難しいだろう、と漠然と思っていた。しかし、ライブハウスという場所を知って活き活きと活動しているインディーズのバンドを見て、私はとりあえず同じようにライブハウスで活動を始めようと思っていた。そして人気がでるようになればその内喰えるようになるだろう、とこれまた漠然と考えていた。

 私はスーツを着て苦しそうな表情で電車通勤している典型的なサラリーマン、のようなものを本能的に嫌だなあ、と思っていたので、このまま学歴社会のコースに乗っかって大学に行って、あんまり興味のないことを覚えたりして頑張って卒業してもその後待っているのがいわゆるサラリーマンなのだったら、私が大学に行くことに何の意味があるのか分からなかった。

 私は高校1年生の中途から近所のマックでアルバイトするようになっていて、その小遣いでCDやら古着やらを買ったりしていた。私はマックで脂にまみれながら働いていたがこれでお金を貰えるのだから、と結構頑張っていた。が、もし、大学に行かないとしたら私はこんな風に汗水垂らして働き続けるのか、と思うと妙に不安だった。やっぱりここは無難に大学に行って時間を稼ぐという手も捨てがたいのではないか。それかまた別に音楽専門学校なんかに行って大好きな音楽を学んだ方がいいのではないか。

 パンクに出会った私はパンクのクソッタレ精神に感化されながらも、隠しきれない中流育ちのぼっちゃん流で保守的なところがあり、将来のことがジワジワと心配になり、「音楽を学ぶ」ということにまだ魅力を感じていた幼い私は、どんなタイミングだったか思い出せぬが、将来のことを聞かれた母に「大学に行きたくない。音楽専門学校に行きたい。」と口走った。母はヒドく動揺していた。音楽専門学校に行き、バンドをやって生きていきたい、と本気で言い出した息子にすっかり落胆していた様子だった。

 私立の高い授業料を払って高校に行かせた息子が、そのままいけば中央大学に入れるというのに、いったいどういう料簡だ、しかもバンドをやる、ロックをやる、とイキガッテルけどこの子にそういう音楽のセンスがあるとは思えない、と母は思っていた。今思えば私のギターの練習や下手くそな歌を少なからず耳にしていたであろう母が私を心配したのも無理はないが、当時の私はそんなことは信じないように耳を塞ぎ、ただひたすら自分の才能というものを信じた。

 母はパンクもロックも何にも知らないんだ。オレの才能にも気づいてないだけなんだ。よしんばオレが大学に行ったって、結局その後フリーターでも何でも働きながらバンドをやり、喰えるようになるまで頑張る、というのが決まっているのだから時間もお金ももったいない。何で理解してもらえないのか、私は思春期を迎えており、親の指図で将来を決めることにただただ反抗的に構えた。その頃になると父とは普段ほとんど会話をしなかったが、将来の話しで母と私が揉めると、時々厳めしい顔で私の現実的でないビジョンを諭した。そして父に対して苦手意識を募らせた。このような両親との確執は大学を出るまでずっと続く苦い思い出である。 つづく



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バンド漫記 第10話 印象的な先生


 何度も書いた通り、私の通った中杉という高校は退屈な学校だった。しかし、松田クラッチと出会った1年生時の担任だったY先生の異様な存在感は、他の多くの退屈な教師陣の中で独特で、私は少なからずこの先生に思想的影響を受けた気がする。

 Y先生は国語の教師であったが、まだ30代くらい(あるいは20代ということもあり得たかもしれぬ)で、容姿的にもどこか若さをたたえていた。しかしその若さが悪さをするのか、教師という存在の、その存在意義に常に悩み、迷いながら指導しているような、普段は柔和な笑顔を見せているが、ふとした拍子に突然物凄い勢いでキレたりする、摑みどころのないところがあった。そのせいで一部の生徒からも何となく恐れられ、距離を取られている節が常にあった。

 私が入学して、Y先生が担任の挨拶をした初日のホームルームで、どういういきさつだったか思い出せないが、「みなさん、何か質問ありませんか?」または「何か思ってることを誰か話してください」というような、とにかく漠然とした投げかけが我々になされた。控えめな日本人の典型的高校生たる同級生タチは、1人としてそのY先生の突然のリクエストに手を挙げない。いや、挙げられない。むしろそれが当たり前という感じで、いきなり「何かないのか?」と言われても我々はポカンとしていた。

 すると、普通なら、「では、特にないようですので、今日から皆さんよろしくお願いします。また明日!」となりそうなところなのだが、現実には「何でみんな黙ってるんだ、えぇっ?」とY先生が突然気色ばんだ。「何かないですか」と我々に投げかけたあたりからY先生の雰囲気がシリアスになっていたのを感じ取っていたが、いきなり大声で怒鳴るので私も縮み上がってしまった。当然皆も黙っていると、「何もないはずないだろぉ!何なんだお前達は!」と、よく響く声で怒鳴り、教室全体が一斉に緊張感に包まれて固まるのが分かった。

 今思い出しても、その時のキレるY先生は異常だった。しかし、Y先生が芯のないガリ勉の大人しい中杉の生徒から何かを引き出そうとし、何かを与えようと試行錯誤している感じを私は無視できないとも思った。そんなに冷静に判断できていた訳ではないが、その鬼気を孕んだY先生への妙な関心が起こったのだ。それで、最初こそ私も黙っていたが、それからはY先生の質問には積極的に答える姿勢を露にした。何しろつまらない高校生活の中で唯一、違和感としての好奇心を煽る何かがY先生の中に蠢いていた気がしたのだ。

 私がよく覚えているY先生の現文の授業で、芥川龍之介の「羅生門」を読む、というのがあった。「羅生門」の本文序盤の方に、<作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた>というくだりがある。Y先生は「ここでいう「作者」は芥川龍之介のことではない」ということを、ただそれだけのことを、立ち止まって我々に教えようとしたのだ。しかし芥川龍之介の小説なんだから「作者」は芥川龍之介ではないか。受験国語しか知らない我々はそう思ってポカンとしていた。

 私も当然Y先生の問いかけの意図が分からなかったが、直感的にそこでY先生が我々に伝えようとしていることにただならぬ興味を抱いてしまった。そしてその解説を注意して聞いた。Y先生は「作品ができた時点で作者は死んだ」という、高校生には難しい芸術概念を、もっぱら受験用に文学を嫌々読むだけだった我々に、果敢にも伝えようとしていたのだった。「作者は死んだ」、私はこの概念をY先生の解説を聞き胸にしまい込んだ。そしてその後もしばらく考えていた。私がロックをやる時においてもきっと知恵になる何かがあると思った。

 「作者は死んだ」。至極簡単に言ってしまえば、作品は完成して世に出てしまった時点でそれはもはや作者のものではなく、受け手のものになってしまうということだ。そうじゃないだろうか。いくら文豪の芥川が書いた作品だろうが何だろうが、その作品を味わう人は、その作品を芥川本人から切り離して読まなければ本当じゃない、というようなことだ。

 当時の私には難しい概念だと思ったが、それは芸術全般の鑑賞態度としてとても大事なことをY先生は言ってるのではないかと私は直感した。そして同時にそれまでに教えられてきた国語理解は一体なんだったのだろうか、と愕然とした。

 我々が高校受験のために学んでいた受験国語の設問というのは、後で改めて考えてみるとどうやら滑稽なものが多かった。例えば、以下の中から作者が本当に表現したかったものはどれか、といった類いの選択問題なんかが試験の主要な部分を占めていた訳だが、あんなのもお粗末である。 受験勉強に邁進していた時は特別疑問に思わなかったが、Y先生の「作者は死んだ」理論を踏まえると、そのような選択問題に何の意味があっただろうか、と空しく感じる。むしろ、そういう風に読書に模範解答などがあるとしたら、読書の楽しみというものは皆無ではないか。Y先生の授業を受けながら私はそういうことを考えていた。

 もう1つ印象に残っているY先生の話しがある。それは「賞というもの、そのもの自体には何の意味もない」というヤツだ。果たしてその話しが授業中だったか、またはホームルームの時間だったかはっきり思い出せないのだが、Y先生が述べたその説に私は大きな関心を払った。何故なら、賞には意味または意義があるもんだと思っていたし、それは疑いようもない事実だと思い込んでいたからだが、「賞に意味はない」という考え方が意表を突き過ぎていて、何だか無視できない問題だとこれも直感したからだ。
私は手を挙げて質問した。
「賞に意味がない、どいうことが分かりません」
他の級友が特別この問題に関心を払っていた印象はなかったが、皆も同じことを思ったに違いない。私は真実を追求するような気持ちでY先生の説明を求めた。

 Y先生が実際どういう説明をしてくれたのかまで思い出せないのだが、私はその場でY先生の説明をある程度理解することができた。そしてそれは革命的な認識の刷新だった。

 ノーベル賞にしても直木賞、芥川賞にしても賞そのものに意味はない。賞なんて誰かが一方的に決めただけのもの。その人の作品価値がそれによって貶められることもなければ、増幅することもない。これは「作者は死んだ」にも通ずる感覚で、作品の価値は受け手が決めることなのだ。そうではないか。

 大人になってから、例えば、誰々は○○賞の受賞を辞退した、などといったことがセンセーショナルに取り上げられるようなニュースを見聞きするようなことが何度かあったが、受賞を辞退するようなトンがった表現者の根底には、Y先生が伝えようとしていた概念が根底にあるんだろうと思うようになり、むしろそういう考え方が自分の中でも普通になった。

 乱暴なようだが、このY先生流の教えを受けたことは、その頃丁度夢中になり始めていた「権威をとにかく嫌い否定するのを是とするパンク」の感覚にもどこかつながっているような気がしている。中学生でロックスターに憧れスタジアムクラスのバンドマンを夢見た私が、ライブハウスのパンクに出会い、自分の中での憧れの対象がシフトしようとしていたその時期に、このY先生流が私に落とした影響は少なくなかった。

 前回書いたように、丁度fruityというパンクバンドのおっかけをやり始めた時期と重なるが、その後辿り着いたレスザンTVというレーベルの異端パンクス達の存在は、賞や名声とは無縁の孤高の世界観と連帯感だった。私は分かりやすい成功や名誉だけが人生ではないのだ、と徐々にそんな価値観を肯定するようになっていった。

 Y先生の担任は結局1年生の時だけで以降はほとんど接触がなくなり、恐かったY先生も年々大人しい雰囲気になり、アイツ丸くなったよ、とその後Y先生の担任を経験した同級生はそんな風に言っていて何だか寂しい気持ちになった。

 十数年後にも同窓会で1度Y先生と再会して世間話をする機会があったが、その時もあの頃の狂気の陰はなく、ひたすらに柔和な恩師、という風だった。しかし、とにもかくにも、あの狂気の時代のY先生に教わったことは今だに、そして今後もずっと色褪せずに私の中で咀嚼され続けるのだと思っている。

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バンド漫記 第9話 初めてのライブハウス

 私は松ちゃんに誘われて、松ちゃんの友達の従兄弟のスカパンクバンドを観に行くことになった。確か高校1年生の暮れの頃ではなかっただろうか。私の生涯において初となるライブハウスでのライブ体験である。いやライブ体験というより、ポリスの解説で私をドキドキさせた「ギグ」体験だった。

 会場は新宿アンチノックである。確か白黒2色刷りのいわゆるパンキッシュなフライヤーだったと思う。私は松ちゃんと松ちゃんの幼馴染と新宿で待ち合わせて会場に向かった。休日ではなかったはずで、私と松ちゃんはハナエ・モリの制服を着ていた。世田谷区出身の2人が私より新宿の土地勘に明るいのが新鮮な驚きだった。

 私はその会場に辿りつきゾワゾワする心持ちで、何かとんでもなくエキサイティングな空間がこの先にあるんだ、という思いで小汚いビルの階段を恐る恐る地下へと降りて行ったことを覚えている。パンクのライブということだからパンクの怖いお兄さん達がいっぱいいるんだろう…。

 当時、ライブハウスはちょっと恐い場所だと思っていたし、90年代のライブハウスには実際に恐い雰囲気がパンクやハードコアのシーンには漂っていた。しかも、その当時は知る由もないが、新宿アンチノックはパンク・ハードコア界では有名なハコでもあった。階段から壁からそこら中にバンドステッカーやらフライヤーやらが汚らしく重ねて貼られている。地下の湿気のカビ臭さと嗅ぎ慣れないヤニ臭がミックスした独特のあの臭い。この日以降私はこの独特の臭いと得体の知れぬ興奮とを求め長い年月を過ごすことになるのである。

 ライブハウスの中は狭かった。スタジアムクラスのライブしか知らなかった私にはこの狭さにも意表を突かれたが、何よりも集まっている人達の派手な格好と熱気に圧倒された。男の人も女の人もオラが地元、田無では全然見かけないような気合いの入った服装をしているし、当然のことながらタバコと酒でむせ返るその熱気に、音楽を云々いう前から興奮せざるを得なかった。

 そして私の心をさらに音楽云々以前に鷲掴みにしたのは、ここで初めて目撃したモッシュ&ダイブという代物である。異様な熱気はそれのせいでもあっただろう。ステージのバンドの演奏に合わせて観客が客席中央で大きなスペースを割いて、乱暴に踊りながら輪をかいている。曲によっては、ステージに勝手に登った観客が助走して勢いよく客席に飛び込んで行く。飛び込んだ客はそれに反応した下にいる客達によってしばらくの間担ぎ上げられて、まるで大玉転がしのように客の波を漂うことになる。

 モッシュとダイブはその後のメロコアの爆発的な大衆化によって、もはや珍しい刺激的なカルチャーではなくなってしまったとは思うが、それまでの私のロック理解には全く含まれてない類いのことだったので、その時の驚きや興奮は並大抵のものではなかった。さらに私を驚かせたのはそのモッシュやらダイブやらで暴れてる人達が、喧嘩というカタチではない平和的なカタチで有り余るエネルギーを爆発していることだった。ダイブを支える下敷きの人達も大概はそのカルチャーを理解して楽しそうにしており、少なくとも喧嘩が勃発しそうな雰囲気が皆無だったことに感動した。

 私も松ちゃんも恐る恐る後ろの方から背伸びをして見ていた。すると、壁際の椅子にのっかって見ていた客が高校生の制服姿で昂揚している我々に眼をつけて、なんと声をかけて椅子の上からの特等席を譲ってくれた。恐い場所と恐い人達、と半ばビビっていた私の緊張は、そのお客さんの歓待によって氷塊した。

 対バンというライブハウスのシステムをちゃんと理解したのもこの時が初めてだ。メジャーバンドのコンサートと違い、ライブハウスでは通常、複数のバンドが順番にステージに上がり3~4時間のイベントが構成されている。当日我々の目当てだったfruityというバンドの対バンで、当時のスカパンクシーンで大人気だったlifeballというバンドを、同じイベントで一緒に観られたのは幸運なことだった。スカパンクが何なのか全く分からなかったが、lifeballもfruityもとことんキャッチーで軽快で元気いっぱいで、痛快な程のバカさ加減と楽しさがあって私には衝撃の連続だった。

 生で体感するパンクのライブがこんなにも面白く楽しいものだとは、私の想像以上であった。スタジアムで見たメジャーバンドのコンサートはバンドとそれぞれのお客さんが1対1、という感覚であったのが、ライブハウスではバンドと観客とがもっと大きなうねりの中に溶け込むような感覚だ。そこに集まった人々が織りなす空間にまったく異なる質があるのだ。私はきっとその感覚に昂揚し、上気していたに違いない。

 メジャーに対するインディーズという世界があることを知ったのもこの時だったと思うが、とにかくこの日の出来事が私の音楽感、ロック感をすっかり豹変させてしまった。そしてこの日のギグ体験をきっかけにライブハウス通いの日々が徐々に始まっていくことになった。

 一方、私自身の音楽活動はどうなったかというと、相変わらず軽音楽部でヘボいカバーバンドを続けていたが、最初に部内で結成された同期の各バンドも趣向の不一致や仲違い、単純なフェイドアウトで幽霊部員になるもの、といった要因で分裂したり再編されたり、という状況になっていた。夏の合宿の時だったかと思うが、女子バンドのヘルプに抜擢された私はギャルバンのギターを担当した。当時の高校生女子バンドの中で圧倒的な人気を博していたジュディマリを中心に数曲のライブを行った。

 バカにしていたがジュディマリのギターは異様に難解で、まともに弾けた覚えがない。それは脇に置いといて、私が参加したギャルバンによる夏の合宿ライブでオリジナルをやろうと、今では誰が言い出したのか分からないが、そういう流れになり私は張り切って曲作りに挑戦した。パンクの洗礼を受ける前だった私はジュディマリ風のメロディーをひねり出し、下らない歌詞をつけて一曲完成させた。ベースラインも簡易につけて教えてやり、その作業に苦労した記憶はなく、メンバーからの評判も上々で、キャッチーな曲だったし私は悦に入った。それが私が初めて作曲した曲であり、何だ、やっぱり作曲なんてことは大したことじゃないぞ、と調子に乗ったものである。

 その後、先述のオルタナの洗礼、パンクの洗礼、インディーズの洗礼を受けてからは早くオリジナルのパンクバンドをやりたくて仕方がなかったが、結局、私の趣味が、パンクやオルタナなどコアな領域になればなるほど同年の軽音楽部員で意気投合できるモノがいなかった。私は学校での空いた時間はほぼ松ちゃんと過ごすようになり、オルタナやパンクの話しをしたり、その当時から我々の好奇心に強く働きかけていたファションの話しなどで我々なりのクールを追い求めていた。そしていずれ松ちゃんとパンクバンドをやればいい、などとぼんやり考えるようになっていた。

 それでも軽音楽部での実質的なバンド体験もそれなりに意義があり、私が高校2年になるころには、始めに組まされたバンドは消滅しており、私と一緒にやることに前向きだったドラマーのヤギと、1コ上のオルタナロック好きの先輩女子アイコさん3ピースのバンドを組んだ。オルタナ的趣向で意気投合した私とKさんは、ハードロックでもヘビメタでもJポップでもないクールなチョイスを目指し、洋楽バンドのカバーを始めた。クラッシュ、セバドー、セラピー?、フェイス・ノー・モア、オフ・スプリング、ウィーザー、グリーン・デイなどのコピーをして私はそこそこ満足していた。

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