アクセルの意気地記 第6話 その日

その日、私は休みで、ピーさんも休み。こと子を保育室に預けて昼くらいまで、超久々に映画にでもでかけようか、と前日打ち合わせていた。しかしピーが体調を崩して床から起き上がれないほどだった。こと子は昨日から下痢しているし、ピーの苦渋の声を聞いて、私はこと子を保育室に預けるのも止して今日は1日子守りに専念することにした。

冷凍の食パンを焼き、耳以外の柔らかい部分とスクランブルエッグをこと子に食べさせた。私も適当に朝メシを済ませ、昨日の風呂水で洗濯機を回した。こと子の腹下しの影響でシーツも洗わねばならず、結局2回に分けて洗濯した。風呂水給水ポンプをセットしたり洗濯の終わった衣類を干したりする間も、手持ち無沙汰のこと子はずっとグズっていて、これではピーが安らかに休めないと思い、洗濯物を干し終えるとこと子を北原児童館に連れて行った。

児童館には家庭では抱えきれないくらい様々なおもちゃがあるので、まだ言葉を話せないこと子を遊ばせるには最適である。見たことあるようなおもちゃや見たことないようなおもちゃで遊ばせていると、保育室の先生と園児がやってきて、あら、コッピがいるよ、と先生が言うと、園児3人も順番に、コッピだ、コッピ、コッピと言って近づいてこと子に触ったりした。

私は普段、保育室でこと子がまわりの園児にコッピ、コッピと言われて可愛がられてるのか、と思うとじーんとした。こと子は保育室で1番年下で、他の子らは話せはしないけど、単語を発話できるくらいなのだ。コッピというのは普段私とピーがこと子の呼称として使っているのだがそれが保育室でも浸透してるらしい。

園長先生に今日妻が体調を崩して家で寝てる旨と明日からまたよろしくお願いします、ということを話していたら、お喋り好きの先生は子供たちを器用に遊ばせながらも、逆に私にいろいろ聞いてきた。話の流れで私が音楽を、というかバンドとかギター弾語りなんかをやっていて、ということをカミングアウトすると、あら、と驚いて、私も最近ウクレレを練習し始めて、とカミングアウト。ウクレレでそれこそ園児たちと唄えるようになれれば、と練習しているらしい。それなら、お別れ会の時に是非何か歌ってくださいね、と社交辞令をもらう。

昼食のために家に戻るとピーは依然床で固まっている。メシを作りこと子に食べさせ、オムツを替え、午後はまた別の、駅寄りの児童館に行ってみる。ここは1度ピーと行ったことがあるので勝手は分かっている。平日の昼に父親がこういう場所にいるのは珍しいので、他のママ達に声をかけられたりしながらこと子を遊ばせる。同じ月齢だという女の子でもハイハイができない子がいて、こと子の突進するようなハイハイを見てその子のお母さんに羨ましがられたが、逆にその子は下の前歯が綺麗に2本生えている。こと子は歯がまだ生えない。幼児の成長は人それぞれというが、なるほどと感心した。

閉館間際に保護者を交えて、児童館のスタッフの先導による、みんなでお遊戯の時間がある。その直前に「ゲンさんですか?」と私にあだ名で声をかけてきたお母さんがいた。私は驚き、顔を拝見し、どこかでお会いしたようなしてないような、心許ない気持ちで、え〜と?と、頼りない返事しかできない。
「Hです。マユちゃんの結婚パーティーの帰りにお話しした…」
私の脳裏に確かにその時の記憶がおぼろげながら蘇ってきた。私は失礼を詫びて、それからしばらく近況を交わした。Hさんは1歳の男の子を遊ばせていた。まさか、こんなところでお会いするとは。全体、世間は狭いものだ、また感心しているとすぐにみんなでお遊戯の時間に突入し、話しはそれきりになった。

児童館のベテランスタッフが、音楽の先生顔負けの美声で歌を歌ったり、踊ったりしてくれるのを、私もこと子を操りながら真似た。こと子はまだ訳が分からないので、他の幼児が静かに座ってベテランおばちゃんのお話を聞いてる場面でも構わずハイハイでおばちゃんのもとに突進するので私は何度も立ち上がって連れ戻さねばならなかった。

帰り際に、またHさんに挨拶して私は駅の方面に向かった。私は数日前から妙にバッティングセンターに行きたい気分に侵されていて、駅の南口にあるバッティングセンターに急激に行きたくなったからだ。

映画かドラマか、はっきり覚えてないが、過去にお父さんかお母さんが赤ちゃんを背負ったままバッティングセンターでバッティングをするシーンを何かで見た気がしていて、それを実現させようと思ったのだ。南口のバッティングセンターは私の実家の近所で、テニスコートが併設されたちょっとしたスポーツ施設で、私がガキの頃からあり、私はそこで何度もバットを振り回したものだ。

懐かしいな、と思いながらバッティングしているお客さんのところまで行き、少し観察してみたが、いや、これは、やっぱりこと子を背中に背負ったままでは無理ではないか、と弱気になった。こんなことで万が一ケガでもさせたらピーさんに会わせる顔がない。私はもう一度自分がバットをスイングする感じをイメージしてみたが、やっぱり危ないにキマッてる、と思い直し、受付のにいちゃんに怪訝な目を向けられながらも諦めて立ち去った。

帰宅すると6時近くなっていて、依然ピーは床で寝ている。こりゃ夕飯も自分がやらねば、そういえば昨日、冷蔵庫に手羽元と鯛が買ってあるから、と聞かされていて、手羽元はゴボウと梅煮にしたい、というピーの計画も聞いていた。私はピーの期待に応えるべく手羽元とゴボウの梅煮、そして鯛はタイ飯、それに味噌汁を作ることにしてまた台所で奮闘。

こと子はつまらなくなってぐずり出し、見兼ねたグロッキーのビーが床寝のまま授乳してくれたりしておとなしくなったが、またこっちに戻って来てグズったりして、途中抱き上げてご機嫌とりをしたり、煮物を煮てる間に風呂を入れたり、それはそれは大わらわ。しかも今夜は久方ぶりのバンド練習が控えていて、段々時間に追われ出し、バタバタとこと子と風呂に入り、慣れない1人子守り風呂を遂行し、ゴハンを食べさせ、自分も食べて、後は頼むとピーに託して家を出た。原付に乗りながら、世間の母ちゃん達は毎日これを1人でこなしてるんだもんな、ホントすごいよな、それで夜中は何度かおっぱいまであげて、ホントにすごいよ、マジリスペクトだな、と思った。

赤い疑惑のスタジオは約半年ぶりであった。いつものように集合して練習が始まるまで20分くらい世間話。ギターを握り、歌ったり叫んだりしてやはり楽しい。数曲復習して休憩。同じく子育て中のクラッチに今日は1日子守で大変だったよ、風呂を1人で入れんの大変じゃない?などとこぼしてみると、「そう?オレ、1人で風呂は平気かな…」と同情してくれないので悔しかった。股ぐらに子供を座らせてその間に自分も洗って、と手順を教えてくれたので、悔しいながらも私はなるほど、と相槌を打った。

練習が終わりスタジオの店長と久しぶりにお喋りした。バイトのスタッフが知らない若者に代わっていた。クラッチ、ブレーキーと別れ帰宅すると寝室は静まり返っていて、無事2人とも寝ついたようで安心した。

その日から幾度か、私は悔しいので1人子守風呂を積極的にこなし、もうお手の物である。
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バンド漫記 第18話 ハードコア信仰と就職放棄

レスザンTVを追っかけてるウチに私はハードコアパンクの虜になった。ハードコア、略してHC。音楽的には早めな2ビートに、歪んだ、しかし簡素なパワーコードの進行を反復させながら、ボーカルが主に不条理なことに対する怒りをシャウトする。もちろん叫ぶ内容は限定されないが、こういったパンクの一形態は、矛盾や綺麗事をあちこちに抱えた現代社会に対する個のアティチュードとしては崇高で男らしいものに感じられ、HCに魅せられた多くの若者と同様に私はHC信者になりつつあった。

権力や世間や常識などに抗い、常に弱者の視点に立ち、音楽活動面においてはメジャーを退け、誰の指図も受けずインディーで行動し、DIYを体現していく。社会に対しても自分に対しても、常に問いかけをやめぬストイックな姿勢。でありながら集団行動や世間が苦手なアウトローな輩でも馴染みやすいオープンな土壌がパンクやHCには存在していた。

一見強面のHCシーンだが、我々のような都会育ち文化系のボンボンが軟弱な音とルックスでHCをやっても文句など言われない。レスザンTVのようなユニークなハードコアのあり方を知って、私は自分でもハードコアパンクを演奏できるはずだと思っていた。HCの懐は深く優しかった。

私が松ちゃんと結成したGUTSPOSEというバンドは、そういった本来はエッジのきいた音楽であるHCを自分達流に解釈しながらヘッポコなパンクサウンドを作り続け、レスザンTV界隈の西荻HCシーンの先輩達によくしてもらいながら、オリジナルのカセットテープとCDRを自主製作して発表するまでにいたった。

私がやっていたサークル、インディーズ研究会のメンバーはしょっちゅうライブに顔を出してくれていたが、皆、GUTSPOSEのライブを「見ているこっちがハラハラする」と評し、私達の演奏の拙さにいつも注目していたが、一部ではその我々の演奏のショボさを本気で評価してくれる人もいた。忘れもしない、あのロマンポルシェの掟ポルシェさんにも、西荻のWATTSで「お前達、絶対上達しちゃダメだぞ」などと絶賛されるほどだったが、私は上達したくないわけではなかったので嬉しいやら悲しいやら。

また、この時期はバックパッカーくずれの海外旅行をしたり、鉄割アルバトロスケットという前衛パフォーマンス集団の周りをウロウロしたり、要するに有り余る時間があったので、私はGUTSPOSEにとどまらず他のバンドでドラムを叩いたり、先述の掟ポルシェ氏の相方であるロマン優光(プンクボイ)氏のバンドでベースを弾いたりもしていた。それは崇拝していたレスザン谷口さんが、3つも4つもバンドを掛け持ちでやってるのを見て、その自由さに影響を受けたからだった。バンドを1つに絞る必要などない、という考え方は私にはかなり新鮮で、いろいろやればやるほど楽しいじゃん、と思い込むようになっていた。

高校の時MTRの宅録からスタートした、私の弾き語りであるねろもこの時期に再開していた。なにしろGUTSPOSEのようなショボいHCバンドでこの先それを生業にしようとは、バカの私でも流石にそれは無理だろうと踏んでいた。だから弾き語りならもっとポップなだけの売れ筋の曲が作れるだろう、と軽率に信じ込んでいたのだ。それでまた10数曲入りのMD(MDが一瞬出回った時期に)をねろで作った。なかなかの自信作だったので早速プロモートしようと果敢にキャンパスの野外で演奏活動をしてみたのだが、これがてんでまともに演奏できない、歌えない。

宅録作品では何度も何度もやり直しながら作るし、多重録音で伴奏も重ねてるから曲としてましなカタチになっていたかもしれないが、実際ギターと歌だけで人前でやってみたらこれがまあ全くお粗末な仕上がりで、自分の、それまで疑問視していた歌唱力に対しても自信を失ったし、それ以降弾き語りはあまり積極的にやらなくなってしまった。

大学も3年の終わりが近づくと、周囲の学生が俄かに「就活」にソワソワし始めた。私がその頃最も毛嫌いしていた現象の1つであり、同じサークルの、サブカル好きの仲間たちまで就活し始めるのを見て私は失望していた。漫画とか音楽とか映画とか、とことん好きなモノがあるのに将来を不安視して手堅い道を選ぶのか、つまらねえな、と私はそんなことばかり考えていた。パンク、HCや海外旅行を経て、私は造反有理というか、とにかく世間や社会にツバ吐いたり背を向けたりして生きていくアウトサイダーこそが男の道だろう、くらいに思い詰めていた。

実家では母に「あんた就職どうするのよ?」と迫られ、私は大学に行くか行かないかで揉めた時と変わらず、バンドをやるから就職しないよ、と答え、母をホントに失望させた。この時は、普段登場しないオヤジがいよいよ出てきて、お前どういうつもりなんだ、と睨んだ。頑固な私に手を焼いた母がオヤジに陳情したのだろう。私は、卒業したらフリーターになってバンドを続ける固い決意を表明し、バカ真面目に自分が進むであろうインディーズというカテゴリーのことや、インディーズとメジャーの違いなどを熱を入れて語った。勿論、母も父も理解できず呆れていた。

両親は結局、私が何を言っても頑としているので、ある時期から、もう好きにしろ、と諦めた。その代わり、自分で生計を立ててやってくんだぞ、と念を押したが生意気な私は、そのつもりだよ、と憮然と返答し、しかし胸がカッカッと燃えるように熱くなっているのを感じていた。今思えば、母のその「もう好きにしろ」という啖呵が、私の背中を後押ししてくれたのだと思える。ありがとう、母ちゃん。

両親には見栄を張ったものの、私は実は心の奥底で不安だった。周りのみんなが就活に勤しんでいるのを、表面的には飄然とバカにしていたが、自分がミュージシャンとしてやっていけるのか、ハッキリ言って未知数過ぎて幾度も不安に陥った。しかし、家族に張った見栄が自分の拠り所となり、きっとどうにかなる、と思い込むようにしていた。

この頃、あの幻覚作用のあるマジックマッシュルームというのが流行っていて(非合法になる前で)、ある日友人とマジックマッシュルームでトリップしていた時、ギターが超絶うまかった友人の弾くビートルズのブラックバードを聞いて、突然号泣してしまったことがあった。私は突然自分が号泣してしまったので狼狽えたが、その時感じた悲しみというのが、「僕の尊敬するレスザンの人達のライブはいつも何であんなに人が入らないのだろう」という何とも様にならないものだった。余程心の奥底にこれからの人生に対する不安を秘めていたに違いない。

自分が憧れるようなパンクやハードコアでは売れないかもしれない。あんなにかっこいいのに、それでは食っていけないかもしれない…。

以前触れた通り、当時はインディーズというジャンル自体が隆盛を極めた時代で、ハイスタンダードをはじめ、多くのメロコア、スカコアバンドがメジャーデビューしていた。ただ、それ以外のパンクバンドでも、大好きだったブラッド・サースティー・ブッチャーズがメジャーからCDを出したり、尊敬していたイースタンユースなどが自主レーベルで人気を爆発させていたり、新しい流れが多少あったので私の心の救いは、そういう現象に絞り込まれていた。

元はレスザンからリリースしていたが、ギターウルフやDMBQのようにメジャーに進出したヘンテコなバンドも意外にあった。これは我々が当時憧れていたアメリカのHCやオルタナティブシーンでも同じ状況だったので、自分のやりたいようにバンドをやってメジャーになるのも不可能ではない、と信じることは荒唐無稽な話でもなかった。

若さというものは恐ろしいもので、私はそんな風にバンドで食っていけるのか心の奥で不安を抱えていたのに関わらず、自分は絶対ロックで食うようになるのだ、という相反する根拠の無い自信をも常に持ち続けていた。大学生最後の年が迫り、そして1990年代が終わろうとしていた。

つづく

アクセルの意気地記 第5話

私の恋人の、あ、いや、私の娘のこと子は、この世にやってきて先日で10ヶ月を生き抜いたことになった。めでたい。

半年くらいからずり這いという匍匐前進で動き始め、今ではハイハイ、つかまり立ちとあっという間に進化してしまった。

フェイスブックとか、友人の情報交換とかだったりがとても役に立って、子供服なんかはホントに大量にいただくことができて大変助かった。が、その中で男の子モノなのか迷彩柄のものが混ざっていて、ピーと整理している時にそれを見た私は、「さすがにそれは…」と言って、次の人に回すコーナーに入れてもらった。例の安保法制が強行採決された時、レフトウィングな私は非常に憤り国会前のデモなんかにも参加していた。結局、法案は通ってしまったのでこれからの自衛隊のあり方は変わってくるかもしれないし、将来我が子に赤紙が来ることも100%否定はできない。みんな油断するな。

無関心の国民が多数なのは知っていたけど、こんなご時世だから我が子が迷彩柄の服を来て匍匐前進、というかずり這いをして近づいて来たらいくら親バカでも流石に私は嫌だ。そんな姿は冗談でも見たくない。安倍や石破がコスプレして楽しんでいればよい。そんな訳でくださった方には申し訳ないけど、お姫様、あ、いや、女の子だしその迷彩柄はスルーしました。

子供服なんてこれまで何の興味もなかったのに、我が子の着てる子供服を見ていると段々子供服自体に愛着が湧いてきたりして、ミッフィーとかキティーとかプーさんとか、やつらの凄さ、可愛さが私のハートを揺さぶるようになった。沢山貰い物して充分なのに、ピーはビーキッズという近所の子供古着屋でなにかにつけて新たに服を買い集めた。安いし、私も子供服キュンが分かるようになってきてしまったので、ある程度許容してたら子供服の量が凄いことになってきた。

ずり這いやらハイハイやらで、私を見つけたこと子がニコっと痛快な笑顔を見せたかと思うと奇声を発して凄い速さで近づいてくるようになった。「そのうちハイハイで近づいて来るようになるんだもんね〜、ヤバいよねぇ…」などと期待を膨らませていたのも束の間、現実に目の前のこと子が走って、いや、這いずって近づいてくる…。こんなに可愛くていいのか、こんなに幸せでいいのか、私は親になった喜びを噛み締めた。

離乳食もいつの間にか始まって、こと子はまだ歯が生えないのに食欲旺盛で、おいおいそんなに食えるのかよ、と突っ込みたくなるほど貪る時もある。いつの間にか離乳食が始まったと思ったらいつの間にか固形の野菜や米を、歯ぐきだけでガツガツ食べるようになってしまった。バナナやサツマイモは大好物で我々が千切ってる間にも口を大きく広げて身を乗り出してきて恐ろしい。一時期はティッシュをむしって食べるのが流行って、結局食べ物ではないと分かったのか、気づいた私が口の中に手を突っ込むとよだれと咀嚼で圧縮されたティッシュの固まりが取り出されるのだった。

つかまり立ち、というのにも段階があって初めはつかまり立つこと自体が大変なので、両手でちゃぶ台を必死に掴み、お尻を突き出したまま、身体はくの字なりでプルプル震えてる。そしてすぐに脚の筋肉が堪え切れなくなってそのままの姿勢で泣き出す。つかまり立ったはいいけど、今度は座れなくなってしまうのだ。その度に、ハイハイ、と言ってこと子を座らせてあげる。

でもそんな期間もすぐ終わり、くの字なりだった姿勢もピンと背筋が伸びてきて、途端に人間めいた立姿になっている。両手でプルプルだったのも片手で涼しい顔をし始めた。ぎこちないがそこから座れるようにもなって成長著しい。

しかし、このつかまり立ちに余裕が出てきてからは、片手でちゃぶ台を抑え、空いた片手でちゃぶ台の上を荒らし始めるので私達の食事がさあ大変。生まれたばかりの時もなかなか大変だったが、今度はまた別次元の大変さだ。並べたオカズやゴハンをこと子がつかまり立ちしたところから遠くにやる。私達は遠くのオカズを取ったりしながら食べるのだが、ちゃぶ台がそもそも小さいので限度があり、最終的にはちゃぶ台から畳にオカズの皿を下ろしたりして、結局ちゃぶ台で食べてる風情、というか意味がなくなってくるから面白い。ちゃぶ台に向かっているのにちゃぶ台を使わずに畳に直に置いた料理を結果的に食べている。

つかまり立ちを覚えてからはちゃぶ台に限らず何でも掴まって立とうとする。座っていれば膝に掴まってもたれかかってくるし、寝ているピーはよくこと子によじ登られている。そのまま2人で寝ていることもよくある。愛らしい姿だ。最近では立っている私の足に掴まって立っている。私が洗い物に集中していてアプローチを無視してると泣き出す。

言葉はというとまだまだ難しい。とはいえこと子はよく喋っている。初めは、「アー」「アオー」「ンコッ」という感じだったが気づけば「アンマァ」とか「マンマァ」とか言ってじゃみるようになって可愛い。その他日本語で表記できそうもない音声を発して、機嫌のいい時は1人でずっと喋っている。真似すると喜ぶ。

そしてオヤジの私を認識しているのがはっきりしてきてからは、アイコンタクトなんかもしている。こと子が笑うと大変可愛いので私もニヤニヤ見つめ返す。最近は見つめ返すだけで楽しそうにしてくれるので私は堪らない。そして私は笑顔が増えた。ありがたいことだ。

私やピーがよく笑うからなのか、それはどうかよく分からないけどこと子は沢山笑ってくれる。友達があやしてくれる時もいつも楽しそうに愛想を振りまいている。街でも電車でも、特におばちゃんとかおばあちゃんとか、お姉さんとか女性にすぐに反応して笑顔を振りまくので、そこで恐ろしい浮き世の方々と、にこやかな交流が生まれて私は新鮮な気持ちになる。そして私はこと子のおかげで社交性のスキルがあがっている。ありがたいことだ。しかしあまり愛想がよいとそのうち誘拐されてしまわないか、知らない人についていってしまわないか今から心配でもある。

ピーさんが雑事や授乳で疲れ果てたりすると私は時々ピーの周りでじゃみること子を捕まえて持ち上げる。そのまま抱っこで家を出て近所の六星会の住宅地をグルグル歩き回る。ぐずっていても外に連れ出してみると泣き止むことが多く、そして歩いてると高い確率で寝てくれるからだ。

体重は8キロを超えて抱っこは抱っこでシンドいのだが、私は仕事中ずっとこと子と会えないからなのか、ただ触れ合う温かさが気持ちいいのか、とにかくこと子が好きだからなのか、もうよく分からないけどとにかく抱っこするのが好きだ。抱っこしてすぐに、ああ、重いなぁ、と弱音が喉元にやってくるのだが抱っこが好きなのだ。こと子を抱えて家を出て上手く寝かしつけることができた時は鼻高々な気持ちで、自分を褒めてやりたくなる。どうだ、凄いだろうと家に帰るとピーは疲労で寝てるので自慢する相手がいない。そして私はそおっと寝ついたこと子を床に着地させる。そおっとそおっとやる。これがまた難しいのだ。上手く寝てくれたのに数分後にまた、ギャァと泣いて目覚めることもある。そうなったらまた一からやり直しである。

バンド漫記 第17話 海外旅行とカルチャーショック

私が大学生だったのはもう20年も前の話で、現在の大学生という生物がどのように変化しているのか私には見当もつかないが、それでも、勉学に勤しむというよりは、有り余る時間をどのように過ごすか、ということの方が大きなテーマであることは、今も20年前も、そのもっと前だってさほど変わらないのではないか。バイトで金を貯めるか、サークルに打ち込むか、恋愛に夢中になるか、遊びまくるか…。

私はというとバンドのことばかり考えていて、ライブに行ったり、CDを買うためのお金を稼ぐため、キャンパスでイン研のヤツらとダラダラ過ごす以外はイタ飯屋やらピザ屋やらでバイトをして過ごした。そして大学1年の暮れに、友人に誘われるままにタイとベトナムに、つまり生まれて初めて海外旅行というものに出かけることになったんだ。

海外旅行に気軽に行けるのも大学生ならではだ。私も人並みに海の向こうにどんな世界が広がっているのか、という好奇心を持っていたのである。たまたま友人がチョイスしたのがタイとベトナムという東南アジアの国であったことが幸いだったのか、私はこの初めての海外旅行にすっかり衝撃を受け、想像以上の興奮を味わってしまうのだった。

日本人にとって、日本より経済発展が遅れている国々、というイメージ。「発展途上国」という侮蔑的な呼称もあるが、そんな東南アジアの国々で私が触れ合った人々のエネルギッシュな姿や、とことん親切で優しくて素朴な人々は、私に強い感動を与えた。例えば、ベトナムで誰かに道を尋ねる。すると、尋ねた相手が丁寧に教えてくれるのだが、それを聞いてるうちに尋ねてない周りの人達がワラワラと集まってきて、あーでもないこーでもない、と収拾がつかなくなってしまう。おせっかいといえばそれまでだけど何かホロっとくるものがある。日本人はカネを落とすカモだと思われてるので、商人のオッチャンとか物売りのジャリに囲まれることも日常茶飯事だったけど、ごまかして逆に何かを聞いたりすると途端に親切にしてくれたりすることもあって、人の良さが透けてみえるというかなんというか。最終的にはうちに来いよ、みたいな展開まであったりする。

また例えば、オンボロの高速バス、バスといっても10人乗りのマイクロバスとか7、8人乗りののワゴン車なのだが、ボロいせいでしょっちゅう故障しちゃう。すると運転手が車の下に潜って直し始める。おお、自分で直しちゃうんだ、ってところでまず感動なんだけど、場合によっては客も直すのを手伝ったりしてて、そういう感じも新鮮で。日本みたいにクレームで怒り狂う客もいない。

また例えば、舗装されてない道が殆どで、下手打った車がぬかるみにハンドルを取られたりする。その車を道に戻すために関係ないそこら中の人がいつの間にか集まってきて、みんなで力合わせて車を押し上げてる。困った時はお互い様、という精神なのだろうが、東京育ちのひねくれ者だった私には、そんな一幕も印象的な光景だった。

屋台文化やら、町ごとに点在するやっちゃ場的市場やら、用事があるのかないのか道に人々がウロウロしていて賑やかなストリート感覚やら、いずれも、もしかしたら戦後日本はこんな感じだったんじゃないかな、と思わせるような、私の直接知らない経済発展前の日本の光景を何となく想起させる景色に私は興奮しっぱなしだった。

それから、、、そうそう、そういった異国情緒の感動に加えて、旅先で出会った「バックパッカー」達の姿も私を魅了した。当時「進め!電波少年」というTV番組で猿岩石という芸人が世界をヒッチハイクして回るスタミナ企画が人気を博していたが、私もそういう無謀な冒険にどこか心を惹かれていたのだろうか。私は少ない資金とバックパック1つで世界を放浪している欧米や日本人のバックパッカー達の姿を生で目にして、私もこういうボヘミアンになりたい、と強く思うようになった。世界中を旅して回るタフガイ達がやたらとカッコよくみえた。そしてそのバックパッカーという文化の存在が60.70年代のヒッピーカルチャーから受け継がれてきたものであることなんかもその時初めて知ったのであった。

私はすっかり海外旅行の虜になってしまった。こんな体験ができるなら、とそれからはバイト代をコツコツ貯めて何度か東南アジアやヨーロッパの国々を見て歩いた。自分もバックパッカーの端くれであるぞ、とばかりに如何に金をかけない旅に仕上げるかに情熱を注ぎ、服は手で洗濯、安いドミトリーに泊まり、矢鱈と歩く。ご飯は地元の人に混じって屋台で食し、スリにあったり、強盗にあったり、胃腸が弱いので旅の間中ずっと下痢していたり。ボッタクられるのも日常茶飯事だったが、何故かそんなスリリングな体験と優しい人々との出会いが私を興奮させ続けた。

海外を貧乏旅行しているうちに、私はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、そんな馬鹿みたいな二者択一に真剣に悩み始めた。私が知り合ったり話したりしたバックパッカー達は国に帰っては期間労働をして金を貯めてまた旅に出る、というのが定番のようだった。欧米のパッカー達は、日本のように新卒で就職しないと将来が保証されない、という概念がないらしかった。それを知って私は日本の学歴社会や新卒主義がとことんバカらしいことなんだと確信を持つようになった。

異国を自由気ままに旅していると、私がそれまで東京で見ていた、スーツをまとい草臥れた表情で通勤する所謂サラリーマンの姿がいかに珍妙なものであるかをヒシヒシと感じられるようになっていた。元々、バンドマンに憧れた中学生の頃から私はサラリーマンになるのだけは御免被りたい、と思うようになっていたので、旅先で確信したその感覚は私の人生観に強く訴えた。

当時、東南アジアで私が見た多くの人達は確かに日本人のような金銭的余裕はなさそうだった。だから学生で海外旅行をしている私はしょっちゅう不思議そうに見つめられた。そんな時私は妙な罪悪感すら感じたものだったが、財産という財産を所有できない東南アジアの市井の人達が、簡単に海外旅行に出かけられる日本人に比べて不幸だろうか。いや、そんなことはなくむしろ反対で、東南アジアで目の当たりにした素朴で親切な人達は、忙しい日本社会でストレスにまみれ、汲々と暮らす日本人より余程幸せそうに見えた。

海外をフラフラ旅をしている間は、学生なりに日常的に感じていたしがらみや将来への不安というものから解放され、「自由」という概念を身近に感じることができるようだった。同時に自分のちっぽけさと世界の広さをも知ることができ、それまで日本で生きてきて染み付いていたり教え込まれたりした常識がいろいろとひっくり返る感じがした。

やりたいようにやればいい。私は海外旅行を繰り返すうちにその想いを改めて確信した。結果的にその後フリーターになってからは海外旅行に行くだけの貯金ができず、バンドマンを続けるので精一杯になってしまい、海外旅行が実現したのは20代後半にインドに行ったのと、新婚旅行でタイとラオスに行ったきりになってしまったのだが、それでも学生の時に、特に東南アジアを放浪した経験は、バンドを続けていくことにも、自分の価値観を形成していくことにも決定的な出来事だった。

つづく

アクセルの意気地記 第4話 台湾編

私が初めて海外旅行というものを経験したのは大学1年の冬のことだった。友人に誘われるまま訪れた先はタイとベトナムで、ここで想像以上のカルチャーショックを受け、海外旅行の味をしめた私は、学生の間に出来る限り、と思い、バイトで金を貯めつつ4回ほど海を渡って異国の情緒を味わった。

その旅熱は当時、かねてからのバンド熱と肩を並べる程に高まり、自分はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、と迷ったほどであったし、あわよくばその両方を実現できたら、とさえ真剣に考えていたほどであった。

しかしひとまずはバンドマンになることを優先させるべく、土日と夜は自由になるバイトを選んだところ、貯金などできる訳もなく、私は貧乏生活に突入し、旅熱は次第にフェイドアウトせざるを得なかった。

以降、私が海外旅行を実現できたのは20代後半、第一次就職決意期の就活前に20日ほどインドに行ったのと、もう3年ほど前になるだろうか、配偶者のピーさんと新婚旅行と称して2週間ほどタイとラオスを巡ったのと、その2回きりであった。

旅人、トラベラー、ボヘミアンは孤独。旅するなら個人旅行に限る。バックパッカーの真似事をしていた当時、私はそんな風に思い込むようになっていたが、新婚旅行の際は、海外行けるなら1人でも2人でも何人でもいい、行こう行こう、と意固地な拘りはあっさり過去のものとなっていた。

それでも、きっと今後子供が生まれるような幸運に恵まれたら容易に海外などには行けなくなるだろう、という覚悟もしていた。一般的に赤ちゃんや子供を連れての海外旅行というのはハードルが高いというし、自分が行きたくても家族の同意と理解がなければ無理である。

前置きがずいぶん長くなったが、こと子が生まれて数ヶ月が経過し、初めての子育てに翻弄されていたある日、突然ピーが、台湾に行こう、と言い出した。私は勿論驚いたが、実は私とピーの共通の友人の中に何人も台湾に行った者がおり、ウチらも台湾行きたいねえ、という話しは既に夫婦の間で交わしてもいた。ただこと子が生まれてからそんな話題は出なかったし、それどころではないと私も思っていたのだ。

そんな中でのピーの台湾発言は私を驚かせたが、奥さんさえ前向きな姿勢なのであれば赤ちゃんがいてもどうにかなるだろう、と私はすぐにその案に同意した。

それからトントン拍子に話しは進行し、こと子のパスポートの手配(乳幼児でもパスポートが必要なことを知らなかったので驚いたが)、飛行機の手配、宿の手配も完了。飛行機はLCC、宿はairbnbの低価格物件を選んだので正に貧乏旅行。現地での移動にきっと重宝するに違いない、ということで軽量化タイプのバギーもジモティーでゲット。

2月中旬出発予定、期間は7泊8日ということで我々は期待を膨らませつつ過ごした。今までの旅行のようにあっち行ったりこっち行ったりや、シビアな環境での長時間の移動は赤ちゃんが可哀想なので、飽くまでも街をプラプラ歩いたり、美味しいゴハンを食べるというのを主軸にしようと我々は作戦を練った。もっとも、元より観光名所を巡るよりも街をプラプラする方が好きな私ではあるのだが…。

安い飛行機なので出発が早朝であり始発で地元の駅を出なければならず、前夜は早く寝なければならなかったのだが、夜12時前くらいだったかこと子が床で泣き出すので見に行ったら、かなりの量のミルク、というか母乳を吐いていて、私もピーも動転した。その後も嘔吐が続いたので、動揺しつつ救急センターに電話。応対の女性に事情とこと子の様子を伝えると、吐いているだけなら様子を見た方が良いとのこと。明日の朝病院に行けば良いだろう、とも言われたが病院に行くのではなく台湾に行くことになっているのだから、私とピーは顔が青ざめた。

チビゲロはこれまでにもあったが、本格的な嘔吐が初めてなので全然安心できず、ほとんど寝られずに朝を迎えた。大事をとって旅行をキャンセルするのが妥当のように思われたが、支払い済みの飛行機代も宿代も水泡に帰する。

吐いて意識が朦朧としたり、顔色が悪くなる訳でもなかったから、大丈夫かもしれない、という希望的観測と、お金がもったいない、という庶民的感性が我々を台湾旅行に引っ張り続け、私もピーも、諦めよう、と言い出せない。その代わり夜が明けて、こと子がいつも通りの表情であることを確かめつつ私は提案した。とりあえず成田まで向かってみよう。それでもし成田への途上でまた吐くようなことがあったら、その時は仕方ない諦めよう。

まだ薄暗い田無の町を出発し、緊張したまま我々は成田へ向かったが、幸いこと子はケロっとしていて何事もなく空港へ到着。そしてそのままフライトに臨むことができてしまった。やったー。

飛行機に乗り安心して、ピーと、よかったね、よかったね、と昨夜の労をねぎらい合い、私達の隣に座っていた日本アニメオタクの女子と、これから行く台北の町について、オススメを聞いたり談笑していたらこと子がまた吐いた。抱っこしてた私の上着やズボンが見事に汚れた。あー、っと私とピーはティッシュやウェットティッシュであちこち拭きながら騒いで、同時に絶望。やっぱりヤバかったのだろうか…。

そんなことを今さら言ってもしょうがない。もう後は台北で病院を探すしかない。2人で暗澹たる気持ちに沈んだのだが、吐いた後のこと子はやはりケロっとしていた。

結局その後嘔吐は止まったので宿に着いてからも病院は行かず、旅を楽しみながら経過観察をしているウチに嘔吐は止まり、しかしちょっとした風邪なのか下痢をしていたけど、最終的に病院の世話になることもなく旅程を終えることができたのだ。

台北は地下鉄の便が整っててバギーが大活躍だったが、台南では地下鉄がなく、自転車を借りての観光が基本であるという現実に直面し、抱っこ紐を携帯し忘れた私達は手をこまねいた。

困った時のインターネット、というわけでピーが抱っこ紐の代用はないかと調べ出したところ、バスタオルを対角線の角で結び、簡易抱っこ紐というかスリングのように赤ちゃんを抱きかかえる方法が見つかり、早速試してみたらこれがなかなか使えた。台南での自転車移動はそのやり方でこと子を抱え、片手で補助的にこと子を抑えつつ、前かごにバギーをはみ出し気味に差し込み、慎重に運転してあちこち走った。異国で自転車を漕いで走り回るのは何とも楽しいものだ。

私達は7泊8日の旅程で街を歩き回り大衆料理を食べて食べて、東京では味わえないのんびりした時間の中で親切な台湾の人々と触れ合い、観光名所にも大してアプローチせずとにかく街歩き。こと子のことを心配しながらもあちこち連れ回してすっかり楽しんだ。

さて、そんな風に楽しかった台湾旅行だが、まだ乳飲み子である乳幼児を海外に連れて行くのは正直に言えば大変な面も沢山あった。飛行機内では当然何度もぐずったし、泣かれたら立ち上がってあやし、座っていても抱っこのまま寝られたらそのままの体勢でじっと我慢してなきゃならない。宿でも安心して放牧(抱っこから床や畳、絨毯など地面にリリースすることを我々はそう呼ぶ)できるスペースはベッドの上しかなかったし、買い物でも観光でも何でも、バギー上のこと子が泣けば抱っこしなければ収まらず、抱っこしたまま歩いたり、階段を上ったり、何かを待ち惚けたり、なかなか体力が要る。

オムツを替えるのも外だと一苦労で、今回の旅の最中、飲食店の裏口やマーケットの片隅でコソコソ替えたこともあったし、小さい赤ちゃんのいるお宅に、すいません、オムツを替えさせてください、と頼み込んで場所を貸してもらったこともあった。
食事中も、座高のかなり低いバギーだったせいでこと子はすぐに機嫌を損ねて泣いた。仕方ないので代わり番こに抱っこしながら食べた。赤ちゃんを抱っこしながら食べるのは、左の手で赤ちゃんを抱えて、その腕をなるべくテーブルから離して右手で食べる。抱えた左手がテーブルに近づくとすぐに赤ちゃんは食べ物を荒らし始めるからだ。

もちろん嘔吐に下痢に、大事には至らなかったものの、体調を崩した時の心配は海外では余計に増える。台湾は日本語がある程度受け入れてもらえそうだが、英語が通じない他の国に行ってたら心配はさらに増えるだろう。

とはいえ、台湾はというと噂通り、どこにいても周りの人たちが優しくしてくれたし、困っているとどこからともなく日本語を話せる人がやって来ていろいろ助けてくれる。バギーで移動してるだけで、いろんな人たち(特におばちゃん)が、まあカワイイわね〜、と可愛がってくれた。

道徳とかモラル、文化の違いなのか、電車での優先席の扱い方も丁寧で、赤ちゃんを見るとすぐに譲ってくれたし、東京のように優先席なのに元気なヤツらが我が物顔で座って澄ましてるなんてこともなかった(これは台湾在住の友人も言ってた。儒教の関係でしょうか?)。

そして何より今回の旅で私はこと子と今まで以上に仲良くなることができた、というか距離が縮まったというか。休みの日以外、普段は朝と晩の数時間しか一緒に居られないのに、この旅行中は四六時中一緒に行動していた訳で、自然と抱っこしてる時間、戯れる時間が多く、オムツもいっぱい替えた。そのせいか、気のせいか、こと子もこれまで以上に私をパパ認識するようになってくれたみたいだ。

帰国便の飛行機がLCCのせいか、何と4時間も遅延した。赤ちゃんがいるので遅い帰国を避けるため、夕方に着く飛行機を選んだのに成田に着いたのが20時半。疲れ果て、京成線に乗るのがシンドくてチョイスした新宿行きのリムジンバスに乗り込むとすぐ寝てしまったこと子を抱きかかえながら、みんな無事に帰ってくることができて本当によかった、と台湾旅の濃密な時間を振り返りながら私はしみじみと思った。
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