アクセルの意気地記 第5話

私の恋人の、あ、いや、私の娘のこと子は、この世にやってきて先日で10ヶ月を生き抜いたことになった。めでたい。

半年くらいからずり這いという匍匐前進で動き始め、今ではハイハイ、つかまり立ちとあっという間に進化してしまった。

フェイスブックとか、友人の情報交換とかだったりがとても役に立って、子供服なんかはホントに大量にいただくことができて大変助かった。が、その中で男の子モノなのか迷彩柄のものが混ざっていて、ピーと整理している時にそれを見た私は、「さすがにそれは…」と言って、次の人に回すコーナーに入れてもらった。例の安保法制が強行採決された時、レフトウィングな私は非常に憤り国会前のデモなんかにも参加していた。結局、法案は通ってしまったのでこれからの自衛隊のあり方は変わってくるかもしれないし、将来我が子に赤紙が来ることも100%否定はできない。みんな油断するな。

無関心の国民が多数なのは知っていたけど、こんなご時世だから我が子が迷彩柄の服を来て匍匐前進、というかずり這いをして近づいて来たらいくら親バカでも流石に私は嫌だ。そんな姿は冗談でも見たくない。安倍や石破がコスプレして楽しんでいればよい。そんな訳でくださった方には申し訳ないけど、お姫様、あ、いや、女の子だしその迷彩柄はスルーしました。

子供服なんてこれまで何の興味もなかったのに、我が子の着てる子供服を見ていると段々子供服自体に愛着が湧いてきたりして、ミッフィーとかキティーとかプーさんとか、やつらの凄さ、可愛さが私のハートを揺さぶるようになった。沢山貰い物して充分なのに、ピーはビーキッズという近所の子供古着屋でなにかにつけて新たに服を買い集めた。安いし、私も子供服キュンが分かるようになってきてしまったので、ある程度許容してたら子供服の量が凄いことになってきた。

ずり這いやらハイハイやらで、私を見つけたこと子がニコっと痛快な笑顔を見せたかと思うと奇声を発して凄い速さで近づいてくるようになった。「そのうちハイハイで近づいて来るようになるんだもんね〜、ヤバいよねぇ…」などと期待を膨らませていたのも束の間、現実に目の前のこと子が走って、いや、這いずって近づいてくる…。こんなに可愛くていいのか、こんなに幸せでいいのか、私は親になった喜びを噛み締めた。

離乳食もいつの間にか始まって、こと子はまだ歯が生えないのに食欲旺盛で、おいおいそんなに食えるのかよ、と突っ込みたくなるほど貪る時もある。いつの間にか離乳食が始まったと思ったらいつの間にか固形の野菜や米を、歯ぐきだけでガツガツ食べるようになってしまった。バナナやサツマイモは大好物で我々が千切ってる間にも口を大きく広げて身を乗り出してきて恐ろしい。一時期はティッシュをむしって食べるのが流行って、結局食べ物ではないと分かったのか、気づいた私が口の中に手を突っ込むとよだれと咀嚼で圧縮されたティッシュの固まりが取り出されるのだった。

つかまり立ち、というのにも段階があって初めはつかまり立つこと自体が大変なので、両手でちゃぶ台を必死に掴み、お尻を突き出したまま、身体はくの字なりでプルプル震えてる。そしてすぐに脚の筋肉が堪え切れなくなってそのままの姿勢で泣き出す。つかまり立ったはいいけど、今度は座れなくなってしまうのだ。その度に、ハイハイ、と言ってこと子を座らせてあげる。

でもそんな期間もすぐ終わり、くの字なりだった姿勢もピンと背筋が伸びてきて、途端に人間めいた立姿になっている。両手でプルプルだったのも片手で涼しい顔をし始めた。ぎこちないがそこから座れるようにもなって成長著しい。

しかし、このつかまり立ちに余裕が出てきてからは、片手でちゃぶ台を抑え、空いた片手でちゃぶ台の上を荒らし始めるので私達の食事がさあ大変。生まれたばかりの時もなかなか大変だったが、今度はまた別次元の大変さだ。並べたオカズやゴハンをこと子がつかまり立ちしたところから遠くにやる。私達は遠くのオカズを取ったりしながら食べるのだが、ちゃぶ台がそもそも小さいので限度があり、最終的にはちゃぶ台から畳にオカズの皿を下ろしたりして、結局ちゃぶ台で食べてる風情、というか意味がなくなってくるから面白い。ちゃぶ台に向かっているのにちゃぶ台を使わずに畳に直に置いた料理を結果的に食べている。

つかまり立ちを覚えてからはちゃぶ台に限らず何でも掴まって立とうとする。座っていれば膝に掴まってもたれかかってくるし、寝ているピーはよくこと子によじ登られている。そのまま2人で寝ていることもよくある。愛らしい姿だ。最近では立っている私の足に掴まって立っている。私が洗い物に集中していてアプローチを無視してると泣き出す。

言葉はというとまだまだ難しい。とはいえこと子はよく喋っている。初めは、「アー」「アオー」「ンコッ」という感じだったが気づけば「アンマァ」とか「マンマァ」とか言ってじゃみるようになって可愛い。その他日本語で表記できそうもない音声を発して、機嫌のいい時は1人でずっと喋っている。真似すると喜ぶ。

そしてオヤジの私を認識しているのがはっきりしてきてからは、アイコンタクトなんかもしている。こと子が笑うと大変可愛いので私もニヤニヤ見つめ返す。最近は見つめ返すだけで楽しそうにしてくれるので私は堪らない。そして私は笑顔が増えた。ありがたいことだ。

私やピーがよく笑うからなのか、それはどうかよく分からないけどこと子は沢山笑ってくれる。友達があやしてくれる時もいつも楽しそうに愛想を振りまいている。街でも電車でも、特におばちゃんとかおばあちゃんとか、お姉さんとか女性にすぐに反応して笑顔を振りまくので、そこで恐ろしい浮き世の方々と、にこやかな交流が生まれて私は新鮮な気持ちになる。そして私はこと子のおかげで社交性のスキルがあがっている。ありがたいことだ。しかしあまり愛想がよいとそのうち誘拐されてしまわないか、知らない人についていってしまわないか今から心配でもある。

ピーさんが雑事や授乳で疲れ果てたりすると私は時々ピーの周りでじゃみること子を捕まえて持ち上げる。そのまま抱っこで家を出て近所の六星会の住宅地をグルグル歩き回る。ぐずっていても外に連れ出してみると泣き止むことが多く、そして歩いてると高い確率で寝てくれるからだ。

体重は8キロを超えて抱っこは抱っこでシンドいのだが、私は仕事中ずっとこと子と会えないからなのか、ただ触れ合う温かさが気持ちいいのか、とにかくこと子が好きだからなのか、もうよく分からないけどとにかく抱っこするのが好きだ。抱っこしてすぐに、ああ、重いなぁ、と弱音が喉元にやってくるのだが抱っこが好きなのだ。こと子を抱えて家を出て上手く寝かしつけることができた時は鼻高々な気持ちで、自分を褒めてやりたくなる。どうだ、凄いだろうと家に帰るとピーは疲労で寝てるので自慢する相手がいない。そして私はそおっと寝ついたこと子を床に着地させる。そおっとそおっとやる。これがまた難しいのだ。上手く寝てくれたのに数分後にまた、ギャァと泣いて目覚めることもある。そうなったらまた一からやり直しである。
スポンサーサイト

バンド漫記 第17話 海外旅行とカルチャーショック

私が大学生だったのはもう20年も前の話で、現在の大学生という生物がどのように変化しているのか私には見当もつかないが、それでも、勉学に勤しむというよりは、有り余る時間をどのように過ごすか、ということの方が大きなテーマであることは、今も20年前も、そのもっと前だってさほど変わらないのではないか。バイトで金を貯めるか、サークルに打ち込むか、恋愛に夢中になるか、遊びまくるか…。

私はというとバンドのことばかり考えていて、ライブに行ったり、CDを買うためのお金を稼ぐため、キャンパスでイン研のヤツらとダラダラ過ごす以外はイタ飯屋やらピザ屋やらでバイトをして過ごした。そして大学1年の暮れに、友人に誘われるままにタイとベトナムに、つまり生まれて初めて海外旅行というものに出かけることになったんだ。

海外旅行に気軽に行けるのも大学生ならではだ。私も人並みに海の向こうにどんな世界が広がっているのか、という好奇心を持っていたのである。たまたま友人がチョイスしたのがタイとベトナムという東南アジアの国であったことが幸いだったのか、私はこの初めての海外旅行にすっかり衝撃を受け、想像以上の興奮を味わってしまうのだった。

日本人にとって、日本より経済発展が遅れている国々、というイメージ。「発展途上国」という侮蔑的な呼称もあるが、そんな東南アジアの国々で私が触れ合った人々のエネルギッシュな姿や、とことん親切で優しくて素朴な人々は、私に強い感動を与えた。例えば、ベトナムで誰かに道を尋ねる。すると、尋ねた相手が丁寧に教えてくれるのだが、それを聞いてるうちに尋ねてない周りの人達がワラワラと集まってきて、あーでもないこーでもない、と収拾がつかなくなってしまう。おせっかいといえばそれまでだけど何かホロっとくるものがある。日本人はカネを落とすカモだと思われてるので、商人のオッチャンとか物売りのジャリに囲まれることも日常茶飯事だったけど、ごまかして逆に何かを聞いたりすると途端に親切にしてくれたりすることもあって、人の良さが透けてみえるというかなんというか。最終的にはうちに来いよ、みたいな展開まであったりする。

また例えば、オンボロの高速バス、バスといっても10人乗りのマイクロバスとか7、8人乗りののワゴン車なのだが、ボロいせいでしょっちゅう故障しちゃう。すると運転手が車の下に潜って直し始める。おお、自分で直しちゃうんだ、ってところでまず感動なんだけど、場合によっては客も直すのを手伝ったりしてて、そういう感じも新鮮で。日本みたいにクレームで怒り狂う客もいない。

また例えば、舗装されてない道が殆どで、下手打った車がぬかるみにハンドルを取られたりする。その車を道に戻すために関係ないそこら中の人がいつの間にか集まってきて、みんなで力合わせて車を押し上げてる。困った時はお互い様、という精神なのだろうが、東京育ちのひねくれ者だった私には、そんな一幕も印象的な光景だった。

屋台文化やら、町ごとに点在するやっちゃ場的市場やら、用事があるのかないのか道に人々がウロウロしていて賑やかなストリート感覚やら、いずれも、もしかしたら戦後日本はこんな感じだったんじゃないかな、と思わせるような、私の直接知らない経済発展前の日本の光景を何となく想起させる景色に私は興奮しっぱなしだった。

それから、、、そうそう、そういった異国情緒の感動に加えて、旅先で出会った「バックパッカー」達の姿も私を魅了した。当時「進め!電波少年」というTV番組で猿岩石という芸人が世界をヒッチハイクして回るスタミナ企画が人気を博していたが、私もそういう無謀な冒険にどこか心を惹かれていたのだろうか。私は少ない資金とバックパック1つで世界を放浪している欧米や日本人のバックパッカー達の姿を生で目にして、私もこういうボヘミアンになりたい、と強く思うようになった。世界中を旅して回るタフガイ達がやたらとカッコよくみえた。そしてそのバックパッカーという文化の存在が60.70年代のヒッピーカルチャーから受け継がれてきたものであることなんかもその時初めて知ったのであった。

私はすっかり海外旅行の虜になってしまった。こんな体験ができるなら、とそれからはバイト代をコツコツ貯めて何度か東南アジアやヨーロッパの国々を見て歩いた。自分もバックパッカーの端くれであるぞ、とばかりに如何に金をかけない旅に仕上げるかに情熱を注ぎ、服は手で洗濯、安いドミトリーに泊まり、矢鱈と歩く。ご飯は地元の人に混じって屋台で食し、スリにあったり、強盗にあったり、胃腸が弱いので旅の間中ずっと下痢していたり。ボッタクられるのも日常茶飯事だったが、何故かそんなスリリングな体験と優しい人々との出会いが私を興奮させ続けた。

海外を貧乏旅行しているうちに、私はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、そんな馬鹿みたいな二者択一に真剣に悩み始めた。私が知り合ったり話したりしたバックパッカー達は国に帰っては期間労働をして金を貯めてまた旅に出る、というのが定番のようだった。欧米のパッカー達は、日本のように新卒で就職しないと将来が保証されない、という概念がないらしかった。それを知って私は日本の学歴社会や新卒主義がとことんバカらしいことなんだと確信を持つようになった。

異国を自由気ままに旅していると、私がそれまで東京で見ていた、スーツをまとい草臥れた表情で通勤する所謂サラリーマンの姿がいかに珍妙なものであるかをヒシヒシと感じられるようになっていた。元々、バンドマンに憧れた中学生の頃から私はサラリーマンになるのだけは御免被りたい、と思うようになっていたので、旅先で確信したその感覚は私の人生観に強く訴えた。

当時、東南アジアで私が見た多くの人達は確かに日本人のような金銭的余裕はなさそうだった。だから学生で海外旅行をしている私はしょっちゅう不思議そうに見つめられた。そんな時私は妙な罪悪感すら感じたものだったが、財産という財産を所有できない東南アジアの市井の人達が、簡単に海外旅行に出かけられる日本人に比べて不幸だろうか。いや、そんなことはなくむしろ反対で、東南アジアで目の当たりにした素朴で親切な人達は、忙しい日本社会でストレスにまみれ、汲々と暮らす日本人より余程幸せそうに見えた。

海外をフラフラ旅をしている間は、学生なりに日常的に感じていたしがらみや将来への不安というものから解放され、「自由」という概念を身近に感じることができるようだった。同時に自分のちっぽけさと世界の広さをも知ることができ、それまで日本で生きてきて染み付いていたり教え込まれたりした常識がいろいろとひっくり返る感じがした。

やりたいようにやればいい。私は海外旅行を繰り返すうちにその想いを改めて確信した。結果的にその後フリーターになってからは海外旅行に行くだけの貯金ができず、バンドマンを続けるので精一杯になってしまい、海外旅行が実現したのは20代後半にインドに行ったのと、新婚旅行でタイとラオスに行ったきりになってしまったのだが、それでも学生の時に、特に東南アジアを放浪した経験は、バンドを続けていくことにも、自分の価値観を形成していくことにも決定的な出来事だった。

つづく

アクセルの意気地記 第4話 台湾編

私が初めて海外旅行というものを経験したのは大学1年の冬のことだった。友人に誘われるまま訪れた先はタイとベトナムで、ここで想像以上のカルチャーショックを受け、海外旅行の味をしめた私は、学生の間に出来る限り、と思い、バイトで金を貯めつつ4回ほど海を渡って異国の情緒を味わった。

その旅熱は当時、かねてからのバンド熱と肩を並べる程に高まり、自分はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、と迷ったほどであったし、あわよくばその両方を実現できたら、とさえ真剣に考えていたほどであった。

しかしひとまずはバンドマンになることを優先させるべく、土日と夜は自由になるバイトを選んだところ、貯金などできる訳もなく、私は貧乏生活に突入し、旅熱は次第にフェイドアウトせざるを得なかった。

以降、私が海外旅行を実現できたのは20代後半、第一次就職決意期の就活前に20日ほどインドに行ったのと、もう3年ほど前になるだろうか、配偶者のピーさんと新婚旅行と称して2週間ほどタイとラオスを巡ったのと、その2回きりであった。

旅人、トラベラー、ボヘミアンは孤独。旅するなら個人旅行に限る。バックパッカーの真似事をしていた当時、私はそんな風に思い込むようになっていたが、新婚旅行の際は、海外行けるなら1人でも2人でも何人でもいい、行こう行こう、と意固地な拘りはあっさり過去のものとなっていた。

それでも、きっと今後子供が生まれるような幸運に恵まれたら容易に海外などには行けなくなるだろう、という覚悟もしていた。一般的に赤ちゃんや子供を連れての海外旅行というのはハードルが高いというし、自分が行きたくても家族の同意と理解がなければ無理である。

前置きがずいぶん長くなったが、こと子が生まれて数ヶ月が経過し、初めての子育てに翻弄されていたある日、突然ピーが、台湾に行こう、と言い出した。私は勿論驚いたが、実は私とピーの共通の友人の中に何人も台湾に行った者がおり、ウチらも台湾行きたいねえ、という話しは既に夫婦の間で交わしてもいた。ただこと子が生まれてからそんな話題は出なかったし、それどころではないと私も思っていたのだ。

そんな中でのピーの台湾発言は私を驚かせたが、奥さんさえ前向きな姿勢なのであれば赤ちゃんがいてもどうにかなるだろう、と私はすぐにその案に同意した。

それからトントン拍子に話しは進行し、こと子のパスポートの手配(乳幼児でもパスポートが必要なことを知らなかったので驚いたが)、飛行機の手配、宿の手配も完了。飛行機はLCC、宿はairbnbの低価格物件を選んだので正に貧乏旅行。現地での移動にきっと重宝するに違いない、ということで軽量化タイプのバギーもジモティーでゲット。

2月中旬出発予定、期間は7泊8日ということで我々は期待を膨らませつつ過ごした。今までの旅行のようにあっち行ったりこっち行ったりや、シビアな環境での長時間の移動は赤ちゃんが可哀想なので、飽くまでも街をプラプラ歩いたり、美味しいゴハンを食べるというのを主軸にしようと我々は作戦を練った。もっとも、元より観光名所を巡るよりも街をプラプラする方が好きな私ではあるのだが…。

安い飛行機なので出発が早朝であり始発で地元の駅を出なければならず、前夜は早く寝なければならなかったのだが、夜12時前くらいだったかこと子が床で泣き出すので見に行ったら、かなりの量のミルク、というか母乳を吐いていて、私もピーも動転した。その後も嘔吐が続いたので、動揺しつつ救急センターに電話。応対の女性に事情とこと子の様子を伝えると、吐いているだけなら様子を見た方が良いとのこと。明日の朝病院に行けば良いだろう、とも言われたが病院に行くのではなく台湾に行くことになっているのだから、私とピーは顔が青ざめた。

チビゲロはこれまでにもあったが、本格的な嘔吐が初めてなので全然安心できず、ほとんど寝られずに朝を迎えた。大事をとって旅行をキャンセルするのが妥当のように思われたが、支払い済みの飛行機代も宿代も水泡に帰する。

吐いて意識が朦朧としたり、顔色が悪くなる訳でもなかったから、大丈夫かもしれない、という希望的観測と、お金がもったいない、という庶民的感性が我々を台湾旅行に引っ張り続け、私もピーも、諦めよう、と言い出せない。その代わり夜が明けて、こと子がいつも通りの表情であることを確かめつつ私は提案した。とりあえず成田まで向かってみよう。それでもし成田への途上でまた吐くようなことがあったら、その時は仕方ない諦めよう。

まだ薄暗い田無の町を出発し、緊張したまま我々は成田へ向かったが、幸いこと子はケロっとしていて何事もなく空港へ到着。そしてそのままフライトに臨むことができてしまった。やったー。

飛行機に乗り安心して、ピーと、よかったね、よかったね、と昨夜の労をねぎらい合い、私達の隣に座っていた日本アニメオタクの女子と、これから行く台北の町について、オススメを聞いたり談笑していたらこと子がまた吐いた。抱っこしてた私の上着やズボンが見事に汚れた。あー、っと私とピーはティッシュやウェットティッシュであちこち拭きながら騒いで、同時に絶望。やっぱりヤバかったのだろうか…。

そんなことを今さら言ってもしょうがない。もう後は台北で病院を探すしかない。2人で暗澹たる気持ちに沈んだのだが、吐いた後のこと子はやはりケロっとしていた。

結局その後嘔吐は止まったので宿に着いてからも病院は行かず、旅を楽しみながら経過観察をしているウチに嘔吐は止まり、しかしちょっとした風邪なのか下痢をしていたけど、最終的に病院の世話になることもなく旅程を終えることができたのだ。

台北は地下鉄の便が整っててバギーが大活躍だったが、台南では地下鉄がなく、自転車を借りての観光が基本であるという現実に直面し、抱っこ紐を携帯し忘れた私達は手をこまねいた。

困った時のインターネット、というわけでピーが抱っこ紐の代用はないかと調べ出したところ、バスタオルを対角線の角で結び、簡易抱っこ紐というかスリングのように赤ちゃんを抱きかかえる方法が見つかり、早速試してみたらこれがなかなか使えた。台南での自転車移動はそのやり方でこと子を抱え、片手で補助的にこと子を抑えつつ、前かごにバギーをはみ出し気味に差し込み、慎重に運転してあちこち走った。異国で自転車を漕いで走り回るのは何とも楽しいものだ。

私達は7泊8日の旅程で街を歩き回り大衆料理を食べて食べて、東京では味わえないのんびりした時間の中で親切な台湾の人々と触れ合い、観光名所にも大してアプローチせずとにかく街歩き。こと子のことを心配しながらもあちこち連れ回してすっかり楽しんだ。

さて、そんな風に楽しかった台湾旅行だが、まだ乳飲み子である乳幼児を海外に連れて行くのは正直に言えば大変な面も沢山あった。飛行機内では当然何度もぐずったし、泣かれたら立ち上がってあやし、座っていても抱っこのまま寝られたらそのままの体勢でじっと我慢してなきゃならない。宿でも安心して放牧(抱っこから床や畳、絨毯など地面にリリースすることを我々はそう呼ぶ)できるスペースはベッドの上しかなかったし、買い物でも観光でも何でも、バギー上のこと子が泣けば抱っこしなければ収まらず、抱っこしたまま歩いたり、階段を上ったり、何かを待ち惚けたり、なかなか体力が要る。

オムツを替えるのも外だと一苦労で、今回の旅の最中、飲食店の裏口やマーケットの片隅でコソコソ替えたこともあったし、小さい赤ちゃんのいるお宅に、すいません、オムツを替えさせてください、と頼み込んで場所を貸してもらったこともあった。
食事中も、座高のかなり低いバギーだったせいでこと子はすぐに機嫌を損ねて泣いた。仕方ないので代わり番こに抱っこしながら食べた。赤ちゃんを抱っこしながら食べるのは、左の手で赤ちゃんを抱えて、その腕をなるべくテーブルから離して右手で食べる。抱えた左手がテーブルに近づくとすぐに赤ちゃんは食べ物を荒らし始めるからだ。

もちろん嘔吐に下痢に、大事には至らなかったものの、体調を崩した時の心配は海外では余計に増える。台湾は日本語がある程度受け入れてもらえそうだが、英語が通じない他の国に行ってたら心配はさらに増えるだろう。

とはいえ、台湾はというと噂通り、どこにいても周りの人たちが優しくしてくれたし、困っているとどこからともなく日本語を話せる人がやって来ていろいろ助けてくれる。バギーで移動してるだけで、いろんな人たち(特におばちゃん)が、まあカワイイわね〜、と可愛がってくれた。

道徳とかモラル、文化の違いなのか、電車での優先席の扱い方も丁寧で、赤ちゃんを見るとすぐに譲ってくれたし、東京のように優先席なのに元気なヤツらが我が物顔で座って澄ましてるなんてこともなかった(これは台湾在住の友人も言ってた。儒教の関係でしょうか?)。

そして何より今回の旅で私はこと子と今まで以上に仲良くなることができた、というか距離が縮まったというか。休みの日以外、普段は朝と晩の数時間しか一緒に居られないのに、この旅行中は四六時中一緒に行動していた訳で、自然と抱っこしてる時間、戯れる時間が多く、オムツもいっぱい替えた。そのせいか、気のせいか、こと子もこれまで以上に私をパパ認識するようになってくれたみたいだ。

帰国便の飛行機がLCCのせいか、何と4時間も遅延した。赤ちゃんがいるので遅い帰国を避けるため、夕方に着く飛行機を選んだのに成田に着いたのが20時半。疲れ果て、京成線に乗るのがシンドくてチョイスした新宿行きのリムジンバスに乗り込むとすぐ寝てしまったこと子を抱きかかえながら、みんな無事に帰ってくることができて本当によかった、と台湾旅の濃密な時間を振り返りながら私はしみじみと思った。

代行運転

夕方父から電話が入る。私は外回りの仕事なのでプライベートの電話がかかってきても、比較的対応することができる。父の電話の用件は、「要らないと言ったけど、やはり車の代行を頼む」であった。

数週間前から車の代行を私に頼みたい旨の連絡があり、私は当日仕事だから遅くなるので断っていた。その代わりに姉が代行を引き受けたらしく、話はまとまったものと思われたが、姉が、「やっぱりできない」ことになったらしく、当日になって父はまた私に、遅くなっても構わないので、と電話してきたのだった。

父が代行運転を頼む時は、事情が毎度ほぼ同じで、父が顧問を務めるバラライカ楽団のコンサート本番の日である。コンサートが終われば楽しい打ち上げが待っているわけだが、楽団の機材庫と化した私の実家、つまり父の自宅から、毎度父が運転して楽団の機材を会場に運び込むことになっており、となると帰り父は酒を飲めないことになる。

飲兵衛の父にとって、打ち上げで酒が飲めないのは、コンサートに繰り出すモチベーションも楽しみも半減してしまうようなので、その事情を知っていて、尚且つたまに経済的支援、といってもいい歳して定期的な小遣いを貰ってるわけではないが、こと子のことやら何かと支援を受けている立場の私は、そんな父のお願いは断りづらい。

当日になって、やはり代行を頼む、とSOSを投げてきた父に、私は不承不承、遅くなってもいいなら、しょうがない、やりますよ、と答えて電話を切った。不承不承答えるのは父に恩を着せるためなのか、私がただ単に面倒くさいからなのか、自分でもよく分からないが、そのどちらもあるような気がした。

私が社用のハイエースで現場から帰社し、残務処理をしている間も、父から、今コンサートが終わって、とか、東新宿駅のイタ飯屋に入った、とか細かく電話が入るので閉口して適当に受け応えをしていた。

コンサートの会場は新宿文化センターで、私は以前にも1度代行で現地に赴いていたので何となく場所の検討はついていたのだが、それが東新宿駅から目と鼻であることには今回の件で初めて気づいた。東新宿駅なら職場から至近にある新宿西口駅から1駅分である。不承不承引き受けたものの、大した労ではないな、と考えながら大江戸線に乗ろうとしたところでまた父から着信があったが、どうせ、今どこだ、とか、まだか、などと私を急かせる連絡に違いないと推察し、わざわざ出るのをよした。もうあと10分もしないうちに着くのだから。

東新宿の駅を出て、言われた通りA3出口からエスカレーターで地上に上がってゆくと、上がったすぐ右手にそれらしい洋食屋があった。これかな、とガラス張りの店内を観察すると、それらしい団体は見当たらない。いつもなら20名前後の楽団員が集合して、やんや、と楽しそうに酒を飲んでいることになっていて、そんな集団はいないし、5、6人の団体がいたが違うよな、とその席から焦点を外そうとした時、その団体の、こちらから一等手前に座っている人物だけがこうべを垂れて眠っているらしいのに気づき、もしや、としゃがんでもう1度よく見ると、おお、オヤジじゃないか、もう潰れてるのかぁ…。

私は颯爽とイタ飯屋に入っていき、店の奥のその団体の席にグングンと近づいていった。「お待たせしましたっ!」と声をかけると、眠ったまま気づかない父以外のみんなが一斉にこちらを振り向いて、ああ、ハルさん、来た来た、と口々に騒いだ。打ち上げ途中で出来上がって就寝してしまった父を持て余していたのか、迎えにきた私は必要以上に歓迎されてしまった。

父は私が着いたことも、まわりのメンバーが私の到着を賑やかに歓迎したことにも気づかずこうべを垂れたままだ。何だかすいませんね、と私が代行運転のためにやってきたことを労って皆さんが口々に礼を言うので、私は、今日は何時から、と逆に聞き返すと、17時からです、とAさんが教えてくれた。なるほど、飲み始めてもう2時間半が経過している。帰った人もいるのか、始めはもっと参加者がいたのかもしれない。それにしても最近の父は飲み始めてから潰れるまでが早いのだ。人と飲む場合はより酒が進むのか、その加速度が増す。

私の挨拶が済むとメンバーが口々に、長尾さん、長尾さん、息子さんがいらっしゃいましたよ、と父に呼びかけてくれ、私は父の身体を叩く。すると目覚めた父が、ここはどこだ、と言わんばかりに焦点定まらぬ目つきで周りを見回す。そして私の顔を認識してきまり悪そうに微笑み、来たか、と感心している。私もきまりが悪いので父のバッグを持ち、行くよ、と声をかけるが、反応して立ち上がった父の足もとが怪しい。

テーブルを囲んでいたのは父を含めた男性3名と女性3名であったが、顔見知りの女性2人がすかさず立ち上がり、父を両脇から支えてくれる。本来なら私が率先して介抱するべきである気がするが、2人の優しさに甘えて私は歩き出す。

店を出て車が置いてある新宿文化センターの駐車場に向かう。私が歩く後ろを2人の女性に声をかけられガイドされながら父が千鳥足でついてくる。見事な千鳥足である。踏み出す足が交互に右に行ったり左に行ったりして、楽しそうである。面倒見る側は大変だが、酒に弱く、この程度までに酔えない私からすると何だか羨ましいようでもある。

Aさんが私を気づかってか、
「長尾さん、こんなんで同居は無理よ、絶対無理よぉ」
と私にも父にも聞こえるように言っている。これは私が娘を持つにあたり軽率に計画した同居プランがあっさり破綻した経緯を、Aさんが何かの拍子で知ったらしく、というよりバラライカ楽団の荷物を実家に置いている関係からか楽団メンバーは長尾家の事情をいろいろ知っているようで、その同居破綻の悲劇を少し軽妙な口吻のジョークとして言ってくれているのだろう。私は嬉しくなって、そうですかね、やっぱり無理ですよね〜、とAさんに相槌すると、
「無理よ。長尾さん、他人だからいいけど、家族だったら大変だろうなあ、と思うもん。推測だけどねぇ」
私は感心して聞いていた。AさんもBさんも、そんなことを言い合って笑いながら父を支えて歩いている。父は聞こえてるのか聞こえてないのか分からないが、半分寝たままフラフラしてて、実に愉快そうである。
「この先のエレベーターを上がれば新宿文化センターです。」
と、2人に教えてもらい、私は、ここまでで大丈夫です、と礼を告げた。半分夢見心地の父は2人の女性に挨拶しつつ抱擁、というか別れのハグをしている。私は父のこういう振る舞いはあまり目にしないが、酔った末にこうなることは想像に難しくない。父は愛の人である。Aさんが「長尾さんから愛を貰いましたので大丈夫ですから〜」と笑いながら上手に対応してくれている。優しい人達だ、と私はまた感心しながら自分も頭を下げて別れ、ベロベロの父を促してまた歩き始める。

新宿文化センターの駐車場入口に警備員がいて、千鳥足の父が進行方向に躊躇した私を追い抜いてその警備員に向かって右手を右のこめかみに掲げ、ご苦労様と言わんばかりに一瞬立ち止まって敬礼。そのまま千鳥足で駐車場へと通じる坂を下りていくのを、警備員が呼び止める。大丈夫ですか、と大きな声を出すので、代行で運転しますから、と後から警備員の脇を通る私が言うと、警備員も、ああ、そうでしたか、とまたオーバーに笑って安堵したようだった。

車に乗り助手席ですぐまた眠りについた父か、新宿を青梅街道から中野に抜ける辺りで急に目を覚まし、
「おい、ここはどこだ?」
と乱暴に聞くので、
「中野坂上!」
と私も乱暴に答えた。
「お前の会社はこの辺か?」
とこれも今日3回目くらいの質問なので
「違う、新宿西口!」
とまた乱暴に答えた。
南阿佐ヶ谷を通過するあたりと家に到着する寸前の中学校の前の路で、突然隣で寝てたはずの父が私の肩に手を伸ばしてきたので気味が悪くて条件的に振りほどいた。さっき女性とハグしたノリで変な夢でも見てるのかもしれない。

マンションに到着し、私のお役も御免になるかと思いきや、父が、楽器だけは下ろしとかないと、と呟き、千鳥足で荷台に向かう。荷台にはバスバラライカ、コントラバスバラライカ、バスドラムなどそれなりにデカい荷が積んであり、流石に私も見ていられず、デカいバラライカ2つを率先して運び、父はその千鳥足でバスドラムとボストンバッグかなんかを運んでいた。

車の鍵を戻して父に、じゃあ、と言って別れるともう21時近くになっていて、しかし、この実家から私のアパートまでの足はなく、30分弱くらいは歩かねばならない。私は早く帰宅してピーと晩御飯を食べてこと子を風呂に入れなければならないのだ。私はさっき車で来たのと反対方向に、母校である中学校沿いの薄暗い道を歩き出した。

アクセルの意気地記 第3話

生まれてからしばらくの間、赤ちゃんは赤ちゃん用のバスタブなんかにお湯を張って沐浴をさせることになっている。沐浴なんて言葉は、20代後半、インドに自分探しの旅に行った時、ガンジス河岸でぬめった地面に足を取られ、濁った水の中にざんぶと落っこちて以来聞かなかったが、赤ちゃんの身体を洗い清めてやる時にも沐浴という言葉を使うらしい。赤ちゃん用のバスタブにお湯を溜めて、赤ちゃんの首から上が水に浸からないように片手で支えながら、もう片方の手で石鹸つけたり湯をかけてあげたりするのだが、これがなかなか難しい。

幸い、こと子はピーの里帰りで産まれたこともあり、生まれて1ヶ月半ほどは山形の彼女の実家にいたので、実はこの沐浴に関しては私は山形に行った時に1、2回やったのみである。こと子が東京に帰って来てからはもう大人と一緒に浴槽に入れてよい、ということになっていたからだ。

赤ちゃんのお風呂は旦那さんが入れるもの、とそんなルールがどうやってできたのか知らないが、昨今の子育て慣習ではそうなっているらしい。私も仕事から帰ってきてからの数時間、または休みの日しかこと子と一緒にいられない──そんな当たり前のことに今さら気づいた──ので快く風呂入れの任務を担当することになった。引き受けたはいいものの始めの頃はしょっちゅう泣かれて大変だった。抱え方が悪いからか、私が緊張してるからか、または私の洗い方が乱暴だからか、お湯が熱すぎるか、ヌルすぎるか。試行錯誤を繰り返しながらも段々慣れてきて、こと子も風呂に入れられることに慣れてきたのか大泣きの回数は減ったけど未だに頭を洗う時だけは泣かれる。

頭を最後に洗い流す時に泣かれるが、湯船に浸かると大抵、う〜、とか、あ〜とか、何か満足気な嘆息を漏らして落ち着く。これは大人と同じである。それからこと子が溺れないように私はこと子の両脇を抱えながら話しかけたり、話しかけなかったりし、その間こと子は風呂温度調整の為に購入した細長いプラ製の湯温計を握り、それを弄ぶか、それを片方の手で握りながら、もう片方の手で栓の鎖に手を伸ばすので、鎖にこと子を近づけて握らせてやる。大体そういうモノを握らせていれば大人しくしていてくれる。

赤ちゃんはのぼせやすいというので、数分してこと子の身体に赤みが浮かんできたら抱きあげて母ちゃんを呼ぶ。タオルを抱えたピーにこと子を渡すとその時は何故か毎回、ご苦労であった、と言わんばかりに快心の笑みを私に向ける。そしてそのまま温度計を握っているのでそれを奪い返したり、そのままにしたりする。先日、その温度計がこと子の手から滑り落ちて私の足の甲に落下して思わず声をあげた。温度計は壊れなかったが足の甲に青アザができた。

大晦日でこと子は6ヶ月になった。腰も安定してきて抱っこするのが楽になった。元旦には私が毎年年始に初日出を拝みに訪れる御岳山の御嶽神社に、こと子を連れて行って初詣をした。昨年は身重のピーと共に訪れているのでこと子はその時はお腹の中にいたことになる。

御岳山山頂で初日出を拝むには、夜中から動き出さないといけない。未明の山頂の外気は低すぎるので、今年はこと子のことも、授乳させるピーのことも心配で、初日の出は諦めて1日の昼に参拝することにした。山頂の御嶽神社には、ケーブルカーの降り口から30分弱だが舗装道を歩いて上がって行かねばならない。張り切った私が抱っこ紐でこと子を抱えて上がった。山上の澄んだ空気を存分に味合わせてやろうと思ってたがこと子はほとんど寝ていた。

あくる日、ピーがこと子を連れて帰省した。私は仕事の都合で行かれなかったのだが、その約1週間ほどの帰省から帰ってきてこと子は俄かに人間味を帯びてきた。ような気がした。発声のバリエーションが増えて言葉にならないながらもよく喋るようになり、ずり這いで動き回る。そして何より嬉しいのが、パパ見知りしたあの日はどこへやら、私の存在を明確に認識し出して笑みを浮かべるようになったことだ。少し離れた位置からでも私なりピーなりを見つけると、豪快に笑顔を見せるようになったし、ずり這いで我々のところに一直線に向かってきたりする。こちらの問いかけに何となく反応する。いつ話し出したり、歩き出したりするのか分からないが、そうなったらどれだけ楽しいのだろうと、こと子の微妙な進化を目の当たりにしてワクワクしながら、同時にもう少しゆっくりでいいぞ、と時の経過の早さにビビってもいる。

前回、娘は恋人、という戯言を述べたが、そのバカらしい仮定は日々強まって否定する方が難しくなってきた。だから肯定するしかない。そして親バカにはなりたくない、とも思っていたが、それも否定する方が虚しい気もしてきたので親バカで上等ということにする。娘が可愛いか、と尋ねられようもんなら、可愛い、カワイイ、かわゆい、キャワイイ、何でもいいけど、100回くらい繰り返し言えそうなくらい可愛い。これは動物的本能なんだから仕方ないではないか。でもこの親愛なる感情ばかりは子供ができる前には想像しきれなかった。

それだけではなくて、こと子が生まれて日々接してる内に、元々持ってた子供アレルギーみたいなものがなくなってきた。歪な青年時代を送った私にとって、長らくの間、子供または幼児とコミュニケーションを取ることは何かしらのハードルがあった。バカにされたらどうしようとか、どんな風に話しかけたらいいんだろう、とか、余計なことばかり考えて頭でっかちになって自分の殻を破れない。しかし、そんな苦手意識もこと子の世話をしてる内にどこかへ行ってしまって、前まで何故あんなに悩んでいたのか分からない。でちゅまちゅ的な発話でさえ今なら造作もない。

他人の子の可愛さが分からない、という類いのことを言い出すオトコは結構多くて、自分も多分に漏れずそんな感じになるのかな、と思っていたが、これもこと子の世話をしているウチに赤ちゃんとか子供の、その存在自体の可愛らしさというものに気づいてしまい、もう、とにかく子供は可愛いや、ということになってしまった。

仕事で運転などしていて窓外にすれ違う、鮮やかな、お揃いの色の帽子を被って連なって歩く、またはトロッコに乗せられて運ばれてゆく保育園児たちを見てはうっとりし、町や公園で見かけるガキどものたわいもない、または超ハイテンションなやり取りを見てニンマリし、果ては、これは子供とはいえないけど、高校生カップルの初々しい恋愛姿などを見てホンワカした気持ちになったり。どうやらこの感覚はピーも同じであるらしく、2人乗りで自転車をこぐ高校生のカップルとすれ違った後にお互い顔を見合わせて、いいよね〜、とこの温かい気持ちを確かめ合ったりした。

赤ちゃんや幼児の成長は早いというが、半年を過ぎたこと子を観察していると、なるほど、あっという間に大きくなってしまいそうである。この稿を認めてる間にもこと子は刻一刻と変化し成長してしまうのであって、そうだとすると、私の記録したいことも、そうこうしているウチに遂に書ききれぬまま、先に急がねば追いつけなくなりそうで心配である。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
赤い疑惑の活動報告
およびアクセルの手記
赤い疑惑WEB

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク