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長尾玄武という本名で歌うことにした

私の本名は「長尾玄武」と書いて「ながおはるたけ」と読む。「玄」というのを「はる」と読むことは一部の漢字マニアには可能かもしれないが、人名訓として調べられるものの、学校の先生始め第3者にズバリ読み当てられた、ということはない。

武将のような名前でカッコいい、ということを子どもの頃よく言われ、羨ましがられたが、それは長尾景虎、武田信玄、この日本史上に名を残す2人の名将の字面からのイメージによるものと、幼いながらも分かっていた。が、それは嬉しいことではなく、私は言われるたびに苦笑いした。というのは私には男らしさの自覚が十分でなかったし、実際モヤシのような痩せ型で、運動もダメなら腕相撲なんかも滅法弱かったからだ。何しろ親に剣道をやらされたのに、小手が痛いのが嫌ですぐ辞めたほどで、武将とは遠くかけ離れた部類の人間であるという自覚が強かったくらいだ。

そんな体たらくで、武将のようでカッコいい、と名前を褒められても私には嫌味のようにさえ聞こえてくるので閉口せざるを得なかった。

しかし、その武将的なということでなく個性的な、という意味では私は何となく「玄武」という名が嫌いでもなかったし、中国の四神の名前を由来にしてつけた、という父の説明を聞いて、それならば、武将っぽさなど忘れて、とりあえずもっと堂々としていればいい、と思うようになったのも本当だ。武将よりも神様に由来という方がおこがましいような気もするが、亀と蛇が合体した神様なのでとりあえず個性的だと思うことの方が作用した。

さて、私は高校生の頃にフォークやローファイ(ヘタクソだったりクオリティーが低かったりを憚らない音楽ジャンル)という音楽と出会い、ギターで自作の曲を作るという趣味を始めた。ギターのテクニックには自信がなかったが、適当なコード進行を作り、適当な歌詞をつけて、という曲作りの作業は割りとスラスラできた(今はそんなにスラスラできないが)。

当時、重ね録りをするためのMTRという機械がバイト代を貯めれば買える時代だったので、そのMTRを手に入れてからは、ギターを弾き、ベースを弾き、ドラムマシンでリズムをつけて、というようなことをやり始めた。確か高校2年生くらいの時だったはずだ。

普通、フォークソングと言えばギター1本で歌を歌う、そのシンプルさが魅力でもあり、強みでもある。しかし、私はギター1本で弾き語りをする度胸とテクニックがありそうもなかったので、とりあえずそのMTRで重ねて作った曲をカセットテープに落とし、それを作品として近しい友人に売ったか配ったのかしたらしい。

そのデビュー作品にどんな曲を収録したのか覚えてもいない。とりあえず仲が良くて個性的なセンスの絵を描いていたマチャミという友達が描いた、宇宙人のような絵に「ねろ」と名前をつけて芸名としたことだけ覚えている。フランダースの犬に出てくる少年「ネロ」の純真さと、歴史人物辞典で見た魔性皇帝「ネロ」の邪悪さ。相反する2つのキャラを孕んだ感じが面白いかも、とその高校生当時の刹那的な感覚で私のプロジェクトは「ねろ」となった。

その後バンドを並行してやるようになるのだが、いろいろの事情から「ねろ」は作品を作り続け、「1人で弾き語りをする」という行為も進んでやるようになった。もちろん、その際も何となく「ねろ」という名義で活動しており、活動名義をあまり深く考えてなかったのだが、高田渡など、フォークのビッグネームを知るようになってからは、ステージネームを本名にする潔さに憧れ始めた。

それでも「ねろ」という名義を今まで続けたのは、小山田圭吾がソロプロジェクトを「コーネリアス」としたような、ソロプロジェクト流儀に身を任せようとしていたからなのだが、最近のようにバンド活動が以前よりできず、自ずとソロの弾き語りの機会が増えるようになると、ステージネームが「ねろ」というのは、はっきり言って分かりづらいのではないか、ということが気になっていた。私は圧倒的にバンド「赤い疑惑」の人間として知られ、アクセル長尾という芸名で知られているからである。

ましてや私はコーネリアスでもないし、それどころか、弾き語りのライブを告知してもお客さんを全然呼べないような無名のしがないおじさんなのである。

私が弾き語りのオファーを受けると、大概フライヤーには「ねろ(akaアクセル長尾)」または「ねろ(from赤い疑惑)」と表記されてしまい、その方が周囲、界隈の人からは分かりやすいからなのであるが、それはどうにもこうにもややこしさ孕んでいる。そしてソロプロジェクト名義の浸透のしなさをはっきり物語っていて、何となくすっきりしないところがあった。

もう重ね録りを本分とするような活動スタンスでもないし、ギター1本の弾き語りスタイルもある程度できるようになったし、潔く本名を使ってしまおうか、という欲求が上記諸事情と相まってきた。

私は遂に本名を解禁することにした。「ねろ」という名義が嫌になったというよりは、もう本名を出した方がグッとくるし、分かりやすい唄のラインナップになっているのではないか、と思うに至ったからであり、これから10年20年歌いたいのなら本名の方がきっといろいろの面でいいと思うからなのである。
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バンドマンに憧れて 第37話 母の死と家族

「東京フリーターブリーダー」の製作中の正月、西荻線路沿い風呂なし6畳の我がアジトの電話が鳴った。出ると珍しく実家の父からだった。

レーベル業を始めようと思っていた我が住まいにはFAX付き電話機が設置されていて(FAX1つあればレーベルができると雑誌で読んだので)、たまに実家の母から「元気にやってるか?」という様な挨拶が解像度の乏しいFAX特有の味わいで届くことがあったが、父が電話をかけてくるというのはかなり異例のことだった。父は、話がある、と言い、そして、実はお母さん、癌が見つかったんだ、と付け加えた。

私の頭は真っ白になった。そのあとどういう会話をしたかも覚えていない。電話を切った後、私は込み上げてくる嗚咽を抑えることなくひたすら泣いた。「ビーチボーイズ」の反町隆で泣いたのとはまた別次元で、それは終わりのない悲しみのように思えた。

止まらない嗚咽と涙の中で私は母のことをそんなにも慕っていたのだな、と思い改めた。大学卒業後の身の振り方、その一点のみでぶつかり合った。フリーターでバンドマン目指すという私の決意を最後まで肯定してくれなかった母。それでも一人暮らしの私を心配し、報せや差し入れを事欠かなかった母。

青二才だった私は独り立ちのために家を出る時も、いつかそれなりに成功した大人になって親孝行してやるんだ、と浅はかなことを考えていた。それなのにタイムリミットが一気に眼前に現れ、私は悲しみの底に突き落とされてしまった。

母は胃癌で、体調不良を隠していたこともあり、発見段階でステージ3の末期だった。告知を受けた時から1年持つか持たないか、というような深刻な状況だった。

焦りに焦った私はまず、闘病する母の看病とサポートにおいて、自分に何ができるのかを真剣に考えた。そしてすぐに気づいたのが家族との和解だった。和解と「東京フリーターブリーダー」の製作中の正月、西荻線路沿い風呂なし6畳の我がアジトの電話が鳴った。出ると珍しく実家の父からだった。

レーベル業を始めようと思っていた我が住まいにはFAX付き電話機が設置されていて(FAX1つあればレーベルができると雑誌で読んだので)、たまに実家の母から「元気にやってるか?」という様な挨拶が解像度の乏しいFAX特有の味わいで届くことがあったが、父が電話をかけてくるというのはかなり異例のことだった。父は、話がある、と言い、そして、実はお母さん、癌が見つかったんだ、と付け加えた。

私の頭は真っ白になった。そのあとどういう会話をしたかも覚えていない。電話を切った後、私は込み上げてくる嗚咽を抑えることなくひたすら泣いた。「ビーチボーイズ」の反町隆で泣いたのとはまた別次元で、それは終わりのない悲しみのように思えた。

止まらない嗚咽と涙の中で私は母のことをそんなにも慕っていたのだな、と思い改めた。大学卒業後の身の振り方、その一点のみでぶつかり合った。フリーターでバンドマン目指すという私の決意を最後まで肯定してくれなかった母。それでも一人暮らしの私を心配し、報せや差し入れを事欠かなかった母。

青二才だった私は独り立ちのために家を出る時も、いつかそれなりに成功した大人になって親孝行してやるんだ、と浅はかなことを考えていた。それなのにタイムリミットが一気に眼前に現れ、私は悲しみの底に突き落とされてしまった。

母は胃癌で、体調不良を隠していたこともあり、発見段階でステージ3の末期だった。告知を受けた時から1年持つか持たないか、というような深刻な状況だった。

焦りに焦った私はまず、闘病する母の看病とサポートにおいて、自分に何ができるのかを真剣に考えた。そしてすぐに気づいたのが家族との和解だった。和解というと大げさだが、私は母と父に対し自身の進路について何の理解も得てない状態だったし、親に反抗して家を飛び出した設定だったので、母の闘病をサポートするにはまず家族、とりわけ父と距離を縮めなければならないと思い至った。

それまで私の中で、父はよく知っているようでよく分からない、何か得体の知れない人物で、正直なところ接触を避けたいくらいの存在だった。高校生くらいの時からほとんどサシで会話をしなくなったし、大学在学中も会話は少なく、卒業後の進路に関する母とのせめぎ合いの折に時々登場しては、母の肩を持って、バンドをやるのはいいが、ちゃんとした仕事につけ、などと高みから私を戒めるくらいだったのだから、私の父への不信感は不思議なことではなかったはずだ。

しかし、その転機が母の癌告知と、その少し前にふとしたきっかけで読んだ、父の半生記のような文章だった。それは父の母校の大学のギタークラブか何かの冊子に寄稿したらしい、父の思春期から30代半ば頃までの回想録で、その内容は、正に私が今こうして認めているバンドマン記のような、おちゃらけた青春譚だったのである。

母からは度々デリカシーがない、とか下品とか酒臭いなどと遠ざけられ、あまり家にも帰ってこない、あの強面の父の青春記の貧乏話や、失敗談などの数々が、私のその当時の貧乏生活が滲ませていた趣きと大して変わらないものだったことが図らずも分かってしまったのだ。そのことは驚きとともに、私にとっては何となくこそばゆくも嬉しいようなことだった。そして父に少し好感を持つようになった。

そんなこともアシストとなり、私は母の看病に向けて父となるべく話す機会を設けるように計らった。母の寿命を少しでも伸ばしてあげたいという気持ちは、父と姉と私とで当然一致した。この頃から父と酒を飲んで話す、ということが増えることになった。父は私が勝手に想像していたよりお茶目で愛のある人物なんだと段々分かってきた。

父は鈍感なので、私が故意で接触を図っていたことに気づいてないようだったが、普段は母や姉に鼻つまみにされがちだったから私と距離が縮まってきて嬉しそうに見えた。

母ががんセンターに入院していた時期に、荻窪の祖母が亡くなった。祖母の家で母の親戚が集まってしんみり飲んでいた日だったろうか、母の兄弟、つまり叔母達が、闘病中の母に対する父のサポートや配慮が足りないのではないか、ということをやんわり言い始め、それが多少なり当たっていたとしても構図的に父が悪者みたいな流れになってしまった。父は頑固で自分の意見を曲げない悪い癖があるが、酒を飲むとそれがエスカレートするため、叔母達と口論に発展しそうになったので、私が父を制して仲裁をした。その時父は私の胸ぐらを掴み、お前に何が、と言って顔を歪ませていた。その時私は父を制したのではあるが、叔母達よりも父の味方をしたかった。ガンの妻を持った父の気持ちが叔母達に一刀両断されるのは私は何となく辛かった。

そんなこともあったが、自分の努力の賜物か、私と父の距離は少しずつ縮まった。とはいえ、父は現代医療に望みを託し、私はといえば、当時から信仰していた東洋医療や代替医療界隈におけるガンの知見を調べまくった。

玄米菜食、東城百合子の家庭医療、びわ温灸、などなど、世間的には眉に唾をつけられるような民間療法などにのめり込み、自分も実践し、そういう世界に詳しい友人から、気持ちは分かるが程々にした方がいい、と諌められることもあった。

確かにこういった代替医療、民間医療の世界は科学的データは少なく、患者本人の意志に依るようなところも大きい。私が勧めるそれらの治療法に、癌の告知という現実を前に落胆し力を落としていた母は、気持ちは嬉しいが…、と乗り気になることはなかった。それに気づいた私は、無理に勧めることは控え、例えばびわ温灸やこんにゃく湿布など、単純にあったかくて気持ちいい、と母が感じるモノだけは試してみたりしていた。

ちなみに、築地のがんセンターに入院していた母の見舞いに行き、代替医療の併用はオススメしないが禁止はしない、という医師の控えめな許諾のもと、びわ温灸をどうしても試したかった私。びわ温灸セットに必要な炭への着火に、バーナーによる燃焼が欠かせない。とはいえ病室内でバーナーで炭に着火などしたら警報機が鳴ってつまみ出されるだろう。仕方がないので、がんセンターの駐車場の隅で、不審者と思われないように身を潜めながらシュボーッとやったことは忘れられない。

他にも玄米を炒って相当な時間をかけて重湯のようなものを作ったり、振り返れば徒労のようなことをいろいろ試したが、母の食欲はもはや風前の灯だったし、周囲からは苦々しく見られるし、最終的には私も現代医療の効果に期待するしか術がなくなってしまった。

母はネガティブな感情に引っ張られがちで、癌に負けるてたまるか、というような意欲を見せることはなかった。見舞いに行くたび、私はどういう顔をしていいか分からず、何を話していいかも分からず、でも、突っ張っていたが母のことを愛していると伝えたくて1度だけ手紙を書いた。残された母との時間を大切に過ごしたかった。

がんセンターで抗がん剤の治療を受け、胃の切除までしたが母の調子が上向きになることはなく、医師も家族をいたずらに喜ばせるようなことは言わなかった。

家族で話し合い、終末医療というのだろうか、病院で重たい時間を過ごすよりは、ということで最後は自宅で家族と一緒に過ごした。ある日、突然母が苦しいと言い、様子を見ると、腹水が溜まり下腹部を膨らませてしまった。すぐにまた病院に運ばれたが、それから1週間ほどで亡くなってしまった。

長く辛い闘病姿を見てきた私は母が死んでなんとなくホッとした。抗がん剤で無闇に生を引き延ばしているような感じがして辛かった。本人はもっと辛かったろう。

母が闘病してる間、私は曲が作れなくて、でもこんな一生のウチでもなかなか体験しないであろう、この時期の気持ちをカラっと歌うことができたらいいな、と空いた時間で、それも長い時間をかけて一編の曲を書いた。「なんとなく人生」という、それはドラマのような展開の、長い長い曲になってしまった。

母の死は私に、家族という存在についてをもう一度考えさせてくれた大きな契機だった(結婚や子どもについて考えるようになったのは確実にこのことがきっかけだった)が、もう一つ決定的な現実を教えてくれた。それは「人生、お前の思い通りにはいかないんだぞ」、ということであった。

それまで私は、根拠のない自信で武装をし、自分はミュージシャンになって活躍することになるんだ、と信じ込んでいた。誰に笑われようが信じれば叶う、と思い込んでいた。

しかし、そんな風に信じれば叶うのなら、母のガンも家族の熱心な看病で治ってくれるはずだったんじゃないか。私は抗いようのない現実があることを母の死で痛烈に味わった。それは私のバンド人生における、初めての動かし難い痛烈な挫折であった。

アクセルの意気地記 第24話 こと子じゃなくてプリンセ(シェ)スー!

ブログを少しお休みしてる間に、髪は伸びる、背丈も伸びる、ウンチはトイレでできる、おしっこもたまにならトイレでできる、両足閉じてジャンプができる、ペットボトルの蓋を開けられるようになる。挙げればキリがないが日々成長していくのが分かる。

言葉を覚えるスピードもどんどん加速して、「とうちゃん喉乾いた〜」と言われた時は驚いた(それがクレヨンしんちゃんの物真似であったことに後で気づく)。言葉は家族の会話や、保育園での交流、そしてネットフリックスで観る動画アニメなどから着々と吸収していく。

少し前に吃りが激しくなって心配したが、時間とともに気にならなくなってきた。ググると、言葉を吸収する時期における幼児の吃りは珍しいことではないそうだ。

絵本は今「ぐりとぐら」にハマっていて、結構な頻度でせがまれて読むことになっている。この「ぐりとぐら」という絵本のことは私もよく覚えている。覚えているということは好きだったからである。姉とか従姉妹のことまでなぜか思い出す。従姉妹からもらったのかもしれない。

今数十年の歳月を隔て、私が声に出して読む。ページをめくる毎に、こんな物語だった、こんな動物が確かに出てきた。エモーショナルな気持ちと共に、すぐに脳は私にそういうことを思い出させた。

こと子が他の絵本よりも特別にこの本に夢中になっているのを見るにつけ、この作品がいわゆる名作であり、絵や、言葉の使い方、テンポに魔法がかかっていたことが分かる。だから私も好意的に覚えているのに違いない。

何度も読んでいるうちに、こと子が部分部分のセリフを重ねてくるようになった。特にパンケーキ作りの材料の部分「いちばん おおきな おなべ、こむぎこ、ばたー、ぎゅうにゅう、おさとう、ぼーると あわたてき、えぷろんを2まい、まっち、りゅっくさっく。」はお気に入りで元気よく声をあげる。ピーさんと一緒に実際に卵を割ったり、泡立て器で混ぜ混ぜしたりしてママのお手伝いをした最近の記憶が、菓子作りに対する興味をグッと持ち上げているようである。

「ぐりとぐら読んでー」ということこのリクエストをはぐらかして誤魔化そうとしていたら、こと子はダダこねずに1人でページをめくり始める。おでんくんの時と一緒でいつのまにか前半の数ページを記憶して読み上げている。まだひらがなを読む能力はないはずなので、脳が特殊な力を発揮して文章を音で覚えてしまうのだろうか。幼児の声で紡がれる物語のなんと可愛らしいこと…。

こんな風に書き出すと如何にもこと子がいい子ちゃんのように感じるかもしれないが、イヤイヤ期は絶賛続いていて、一旦イヤイヤモードに入るとまだまだ骨が折れる。

先日羽村の動物園へ、こと子とデートした時のこと、閉園時間が近づいてきたので、そろそろ帰ろうか、ママに会いに帰ろう、と門をくぐった。羽村動物園は都内で唯一の市営動物園なのだそうだが、その為か駅から歩いて20分くらいかかる辺鄙な場所にある。動物園から駅に向かって少し歩くと左手に大きな公園がある。私は往路でこの公園の存在には気づいていた。幅の広いデカい滑り台や、アスレチック仕様の滑り台、都心の公園ではあまり見かけない上り棒ほか、豪華な遊具が並んでいるので、動物園に行く前にこと子がここで遊ぶ、と言いださないか心配になった。しかし往路ではこと子の注意がそちらに向かなかったようで難なく通過できたのだが、復路で遂に公園の存在を見つけたこと子は、動物園の時よりもテンションを上げて、「ここで遊ぶ〜」と叫びながら公園に走り込んでいった。

もうこうなったら仕方がない。少し遊ばせて満足したら帰ろう、と考え直した私はこと子がそれぞれの遊具で一通り遊ぶのを保護観察し、そして「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と誘った。すると、帰らないー、と言い張る。まだ遊ぶのだと聞かない。私は、じゃあ最後に1回だけ滑ろうか、と大きな滑り台の前でダダをこねてること子と一緒に階段を登って一緒に滑った。もうこれ以上遅くなりたくない、と思っていた私は滑り終わるや強引にこと子を抱き抱えて公園を後にした。

こと子は納得がいかなかったようで、私の腕の中で「もっと遊びたかったぁ〜」と泣き叫んでいる。こと子が全力で泣き出すと顔が四角になる。こと子を抱えながらバギーを押すのは難儀で、100mくらい歩いてから私はこと子をバギーに乗せようとしたが、こと子は泣きじゃくりながら身体を海老反りにさせて意地でも乗るものかと頑張る。

私は一旦諦め、というかお手上げ状態になってこと子がその歩道上で大声で泣き叫ぶのを、泣き叫ぶままにさせて空を見上げた。

今まで生きてきて、街中で、買ってほしいものを買ってもらえなかった幼児が、道端で泣いたり暴れたりして親を困らせるシーンを飽きるほど見てきた。その度に、もし自分が親の立場だったら、どういう作戦で切り抜けるのだろう、と考えたりしていた。とはいえ、こうしたらいいのだろう、という答えは導き出せなかったし、直後には忘れてしまう。

今こうして泣きじゃくり、泣き喚く幼児を持って私はやはり途方に暮れている。タイムアウト。いい歳を重ね、親になったが、こんな時に子を黙らせる術などあるのだろうか。私はこと子の泣く勢いが弱まるのをただ待った。そして泣きくたびれた頃、コッピ、そろそろママが家に帰ってくる時間だから一緒に帰ろう、ね、ね、とゆっくり諭すように話しかけた。それでもまたしばらく泣いていたが、ふと、ママのとこに帰る〜、と言い出して、しかも自分からバギーに座った。

ホッと一息ついてバギーを押し始めたらこと子はすぐに大人しくなった。あれ、と覗き込むと疲れ果てて寝ていた。

そんなこと子だが、やっぱり何やかんや女の子。知らないうちに女の子っぽいしぐさや、言葉遣い、目つきを身につけ始めている。そして、当然のように「お姉さん」に憧れ始めた。ウンチをトイレでできるようになったこと子の次の課題はオシッコである。

オムツからパンツに代わる過程には「お姉さんパンツ」と呼ばれるものが存在し、こと子はお姉さんに近づきたいのでお姉さんパンツを時々試しては、失敗してお漏らしをしてしまったりする。

ピーさんと私は、こと子のお姉さん憧れを利用して、お風呂や歯磨きを嫌がる時、言うことを聞かない時に、そんなんじゃお姉さんになれないよ、といって脅かす。絶対的な効果はなくても一定の効力がある。

逆に褒める時も、例えば服を自分で着れた時、脱げた時、すごい、お姉さんみたいじゃん、と褒めるとこと子は得意顔になる。オトナに近づくことは子どもの憧れである。私も歳をとることでオトナの男に少しずつ近づくのを好ましく、誇らしく感じていたことを思い出す。誰しもそんなもんだろう。

こと子がお姉さんに憧れ出したのはそういう訳で違和感なく受け取っていたのだが、ある時、
「こと子、今日は何して遊んだの?」
と話しかけると、
「こと子じゃないよ、プ・リ・ンセ(実際はシェ)・スゥ!」
とすかさず返されて私は吹き出さずにはいられなかった。女の子らしさというものを私はナメていた、と思った。女の子らしさというのはここまで無邪気に自身を持ち上げることができるのか、と感心するより他なかった。

そらからしばらく、こと子はプリンセスで、私が、こと子、とか、こと子ちゃん、とか、コッピー、と言うたびに、プリンセスだよ、と言い直された。ピーさんが、外でもこんなこと言ってんのかなぁ、と苦笑していたけど、実際保育園などでプリンセスと公言していたらしい。

成長も早ければマイブームもすぐに過ぎ去る。こと子がプリンセスじゃなくなるのも、きっと時間の問題だろうと思っている、寂しいようだけれど。

バンドマンに憧れて 第36話 漁港、森田さんと赤い疑惑「理由なき反抗」

「東京フリーターブリーダー」に収録した新宿アルタ前お囃子ゲリラには実は続編があった。

32話で触れた通り、新宿アルタ前周辺を練り歩き、メンバー3人でお囃子とアカペラ合唱を披露した、そのゲリラライブの動画をエンハンスド映像(当時流行ったPCでのみ再生できるCDの特典映像)としてアルバムに収録する計画を立てていた。ゲリラライブだけだとショボいし面白くないので、そのゲリラライブの模様を先輩バンドマンに観てもらいに行く、という脈絡のない筋書きでコント仕立てにしよう、ということになっていた(ユーモアの要素にやたらこだわっていた)。

そしてそこで登場してもらうことになった先輩バンドマンというのが漁港の森田釣竿船長であった。

森田さんとの出会いは、学生時代に遡る。レスザンTVなどを中心にハードコアやポストパンクのインディーズライブに足繁く通っていた時期のことだ。

その頃森田さんは「the般若」という癖の強いハードコアバンドをやっていた。ライブを始める際に入場シーンがあり(赤い疑惑はこれに影響を受けた)、森田さんは筋骨隆々の肉体を大きく膨らませながらワイヤー仕掛けの火の玉をぶら下げて、オーディエンスを睨み、脅かしながらステージに上がる。私は(こうぇ〜)とビビりながらも、その後披露されたストイックでどこか和風で、何となくFUGAZI、何となくDISCORDなハードコアミュージックと、「テメエこの野郎」というビートたけし節な罵倒語を散りばめた、しかし深く練られたギャグを連発する森田さんのMCにすっかり魅せられて私はすぐに釘付けになった。相当怖そうだけど、この人のユーモアセンスとパンクの捉え方には、何か深いものがあるに違いない、と直感した私は、それから森田さんに声をかけ、the 般若のファンになった。

森田さんのMCを聞いていると、当時大好きでバイブルにしていた夏目漱石の「坊ちゃん」を彷彿とさせる、所謂下町っ子然とした喋り方、怒り方を初めて生で聞いてるような感じがした。この人は怖いけど、同時に相当頭のいい人なんだろうということをも連想させる知性が、下らない、下品な表現の中に潜んでいるようだった。

その頃森田さんは「キクチレコード」という、これまたレスザンTVに負けず劣らずな、パンクで下らなくて節操ないレーベルを運営していて、レスザンTVでいう「メテオナイト」のようなカオスな看板イベント「キクレコ祭り」というイベントを定期的に開催していて私は衝撃を受けた(私が赤いプロダクションという自分のレーベルを作ったのもレスザンやキクレコのおかげだ)。

キクチレコードの名前の由来はthe 般若でドラムを叩いていたキクチさんから取ったらしいのだが、キクチさんというのがまた強烈なキャラで、パンチパーマをあてて、ライブの時は赤いフンドシを締めて上半身裸だった。キクチさんと森田さんの関係は特別なものだったのか、詳しくは分からないが、いつかキクチさんは失踪してしまい、ドラマーを替えて般若はしばらく活動していた。

その後もしばらくは、キクチレコードは続いていたけど、飽きてしまったのか、段々フェードアウトしていったのだと思う。そしてこれはまだ私が赤い疑惑を始める前の頃だったと思うが、森田さんにthe 般若のライブオファーをしたところ、長尾くん、悪いけど今般若活動してないんだよ、とつれないお返事。私は食い下がって、森田さんが出てくれれば何でもいいんですが、というような図々しいお願いをさらに打った。すると、今ちょっと考えてるユニットがあるんだけど、それでいいかな、超下らないけど、とまた森田さんらしい謙遜した物言いで返答があった。

そのユニットというのがその後インディーシーンで特異な注目を浴び、一瞬メジャーまで駆け上り、割とすぐにインディーに戻って、最終的にはライブハウスのみならず漁業組合など、漁業関係のイベントなどで活躍することとなる「漁港」というバンドだった。

代々浦安で魚屋を営む森田家の倅である森田さんは、もっと魚が売れてくれないと、といつも真剣に語っていた。だから漁港というのは魚屋である本業とパンクと打ち込みをミックスさせた唯一無二のプロジェクトで、下らないことを死ぬ気で貫徹する森田さんの演出力に裏打ちされた説得力のあるパフォーマンスを武器に客のハートを端から鷲掴みにしていくのだった。

赤い疑惑が「東京フリーターブリーダー」を作っていた頃、漁港の人気は高まっていて、そのエンターテイメント性の高さから、いくつものメジャーレーベルが目をつけオファーが舞い込んだりしていた。私はバンドで売れたい、と切に願う身の程知らずだったため、そういう流れを側で見ていて非常に興奮していた。

我々は先輩、後輩というパンクやロックの世界から無縁でいることができていた(体育会系が嫌で文化系になったのだから当然上下関係というのは苦手だったし避けていた)が、思い返すと森田さんとの間には唯一抗いがたい関係性があった。だから森田さんはメジャーレーベルからのラブコールを受けていた時期、しょっちゅう我々に連絡をくれ、今〇〇って人と飲んでるから来いよ、と酒の席に呼んでくれるのだった。

しかし、酒が苦手で、というか酒の席の振る舞い方や酒の飲み方が今より全然分かってなかった私は、そういう場に出た時に器用に振舞うこともできなければ、面白いこと一つも言えなかった。それにメジャーの人とコネができて有名になったとしてもそれが本望なのか謎だった。森田さんには呆れられたかもしれないが、私は言い訳をして誘いを交わしたり、断ったりするようになっていった。

それでも森田さんとは関係が途切れた訳ではなくむしろ特典映像に出演してもらってくだらない芝居を一緒にやったりして関係は続いていた。そしてそれはもしかしたらその撮影の打ち上げの席だったかもしれない。アルバムリリースの後だから05年か06年頃のことだ。とにかく森田さんの地元で飲もうよ、ということになり浦安の居酒屋で飲んだ時に事件は起こった。

美味い肴を出してくれる森田さんの馴染みの店で楽しく飲んだ。といっても私はたくさん飲めないので、こういう時はクラッチが男らしく飲んでくれる。ブレーキーも付き合い上手というか、それなりに飲んでみんなでいい感じになり、もう終電もないしウチで飲み直そう、ということになり森田さんの実家に行くことになった。

外に出るとクラッチの様子がどうもおかしい。酔い方が深くなっていて、ちょっとヤバい感じ。私とブレーキーはこの頃のクラッチが酒で理性を失うことが稀にあることを知っていたので、何となく心配になり始めた。

しかし、クラッチは気勢をあげて、森田さんよりもハイテンションで歩き出す。私とブレーキーはヒヤヒヤしながら後につく。するとクラッチが路肩に並んでいたチャリを蹴り倒した。これはやっぱりマズい展開だ。手に負えない感じになっている。

クラッチの悪酔いは特に目上の人と一緒に飲んだりする時に頻発する、というデータがあったがまさに今日はビンゴ。森田さんはそれでもクラッチの粗相にキレずに面白がっている。森田さんも酔っている。

途中、我々を呼び止めて森田さんが立ちションをする。するとクラッチが森田さんのションベンを両手で掬って森田さんの肩で拭いたのである。これはヤバいヤバい、と頭を抱えたが、森田さんはそれでも笑っていた。松田、コラ、テメエ、と言いながら笑っている。余程我々のことを気に入って面白がってくれているんだ…。

そして森田さんの実家のマンションに着いて階段を上がり、廊下を歩いた。既に壊れていたクラッチが、今度はマンションの、もちろん森田さんの家ではない御宅の窓の柵に頭突きを始めたのだ。プツンと、森田さんの表情が変わりクラッチの胸ぐらを掴むと、敷地内の人気のない場所へ連行してクラッチをぶっ飛ばした。私と、ブレーキーと、深海さん(漁港の森田さんの相棒)はそれを止めようと、間に入ろうとしたけど森田さんの腕力の前に為すすべはなく、また、クラッチにいささかの弁護の余地もないので、結果的には横で佇んでいることしかできなかった。

ぶっ飛ばされても酒にヤラれているクラッチは反抗的な眼差しを森田さんに向けていた。そのまま外で説教を受け、その後我々がどうしたかはっきり覚えていない。他人事のようだが、全てが映画の1シーンのようだった。ただ翌日スタジオの予定があって、いつもの練習スタジオにやってきたクラッチの顔はお岩さんのように腫れていて、私は泣きそうな、情けない気持ちになったことを思い出す。

この思い出は、クラッチの悪酔いが原因だったとはいえ、あの頃の、どこに向かって進めばいいか分からずにストラグルしていた赤い疑惑というバンドの岐路だったように感じている。赤い疑惑史上最も情けなく、大人になれないモラトリアムの中で残した理由なき反抗、という気がする。ハードコアパンク出身にこだわった、喧嘩と縁のない中流階級のボンボンたちが味わったほろ苦い思い出である。

ちなみに、後日、当日のことを全然覚えてないクラッチは直々に森田さんに詫びを入れている。その後も漁港とはちょこちょこ共演したりする機会もあり、森田さんとの関係はいまだに楽しく続いている。

アクセルの意気地記 第23話 いこいの森公園にて

その日は休日で、掃除、洗濯、片付け業務などを淡々とこなした。遅めの昼食を済ませると、すでに15時を過ぎようとしている。天気も良いので私は公園に行こうと考え始めた。

自宅から15分程歩いたところにいこいの森公園という、割りと最近できた大きめな公園があるのだ。どうせ行くならギターを持って行こう。そこでこと子に、公園行こうか、と聞くと、うん、行く、とあっさり賛同した。

このやり取りを側で聞いていたピーさんはスマホ中なのかリアクションがない。これは無理に誘うよりこと子と2人で出かけてピーさんに1人の時間を作ってやるのがいいだろう、とそう考えた。

ギターを背負いこと子を誘う。玄関を出てバギーを持って行こうとすると、こと子は、歩く、と主張する。帰りのこともあるので、それでもバギーを手にすると、今度は、乗る、と手のひらを返す。私はホッとしてバギーを押して歩き出す。いこいの森までこと子のペースで歩いたら30分近くもかかってしまうのだから。

ローソンのある武蔵境通りに出て右折。まっすぐひばりヶ丘方面に進む。この辺は左手に広大な東大農場の敷地が広がっており大変空が広い。タイミングが良ければパノラマに近い夕陽を拝むこともできる。

途中、公園手前のファミマに入る。公園で日中にギターとくりゃビールがほしい。350ml1缶でいいんだ。しかしコンビニに入れば何か買ってもらえるという条件反射を身につけていること子にも何かを買わねば…。

アレルギー対策で添加物や乳製品、砂糖過多な飲み物はNGにしている。そうなると水かお茶が無難なところだが、それだとこと子が聞かない。中庸とって野菜ジュース。野菜ジュースだけでも何種も並んでいるが成分表示上余計な添加物の少ないものを探す。ツマミはむき甘栗。これは塩も砂糖も添加物も入ってない。

張り切って公園に向かうと、通用路となる石畳みの道沿いに河津桜が満開に咲いている。濃いピンクがはち切れんばかりである。
「ほら、コッピ、河津桜だよ。咲いてるねぇ」
「カワヅザクラ?」
今、こと子は知らない言葉が出てくるとおうむ返しして語尾を上げる。語尾を上げられたら私は適当に、うん、と答えるだけだ。

公園の入り口にはスケーターが集うスケート広場や運動場、管理事務所、遊具広場などが並んでいる。その先に芝生敷きのエリアがずっと奥まで広がり、両脇は樹々と金網とが外界とを隔てている。左手には広大な東大農場、右手には竣工からそう経っていないだろう新しいマンションが聳えている。

これまで何度か友人を誘い、この芝生の上でピクニックを楽しんできた。そして今日も同様に、入り口からさして遠くない位置に狙いを定め、敷物を敷いてギターをおろした。

ビールと野菜ジュースを取り出してこと子と乾杯。すかさず剥きグリを取り出す。口にほうばると甘みがジワっと広がって美味い。あんまり買わないけど美味いよねこれ。食い意地旺盛なこと子も負けじと剥きグリの袋に手を突っ込んで食べる。恐らくこの手の剥きグリを食べるのは初めてじゃないかな。
「おいしい?」
「うん、おいしい」
こと子はいつも誰かに言わされてるかのようなトーンでおいしいと答える。それがなんかいい。

酒のつまみとしては甘いし、格好のものではないが、私はこと子のペースに負けないように袋に手を突っ込む。こと子も気に入ったようで次から次へとクリをほうばるのですぐになくなってしまった。私は手を拭いてギターを取り出した。

ポロンと音を出すとすぐにこと子が「だけどもやって」と私に迫る。これは想定内の反応だ。こと子は私の弾き語りの「幸せは君の疫病神」という曲をやってくれ、と言っているのである。歌詞の中に「だけども今でもどうにかこうにか」というフレーズが出てくるのだが、その歌い回しが気に入っているのか、曲名のように「だけども」と呼んでくれている。家でギターの練習をしようとギターを取り出すと、最近では必ずこの曲をリクエストされるのだ。

リクエストにお応えして私はその曲を演奏し始める。1人で練習してるのと変わらないようにも思えるが、たとえ我が娘1人だけだとしても、聴いてくれる相手がいるというのは心持ちが違う。私は上機嫌になる。

しかし、「だけども」が終わって、別の曲を弾き始めるとすぐにこと子は退屈し始める。これも想定内のことであった。
「ゾウさん乗る」
とこと子が言い出した。
はて、それは遊具広場にあるバネ付きの乗り物のことかな。
確かにあそこの遊具広場にはゾウと虎とリスだかアライグマだかのバネ遊具が3つ並んでいたな。思い出した私は
「ゾウさん、あそこの広場にあったね。トト(私のこと)ここいるから、遊んできていいよ」
と伝えた。口から出たと同時に、私は娘を試すつもりになっているのに気づいた。

ここから遊具広場はちょっとした樹木の茂みに隠れて見えないが、距離は大したことない。走れば数十秒で確認に行ける程だ。とはいえこと子は親目から離れて遊ぶことは、例えば友人やなんか、誰か見てくれる人がいる場合以外経験したことがない。でもすぐそこだし大丈夫じゃないか、こういう機会を経て子どもも成長するんじゃないか。

ビールで酔ってるせいなのか、私はそう軽く考えて、遊んできていいよ、と言ったのだ。とはいえこういう場合、こと子が1人で行くことはなく、「いやん、一緒に!」とごねられて大体同行するのだが、この時は「うん、じゃあ行ってくる」と、活き活きした返事が返ってきたのだ。

私は、逆に大丈夫かな、と僅かに心配したが、靴を履いていそいそと準備してること子を見て、大丈夫だろう、と思った。それにこと子は10mくらい歩いたところでこちらを振り返り、「トトはここで待ってるんだよ!」と、親が子どもに言い聞かせるような忠告をしてくれるのであった。これを聞いて安心した私は、こと子が樹木の茂みの陰に見えなくなるのを、ギターを弾き、歌いながら見送った。

そらから3曲くらい弾き語りの練習を続けていたが、斜陽の加減で空が若干暗くなってきた気がし、こと子のことが急に気になりだした。ギターをしまい遊具広場に早足で歩いた。急ぎつつも、マイペースなこと子は1人で真剣に遊んでいるだろう、と想像していた。

茂みを通り過ぎて遊具広場に目を向けると思わぬ光景が待ち構えていた。遊具に囲まれた砂場の脇で、泣いてること子を中心に子ども6、7人、そして親御さん2、3人が輪になってこと子に話しかけているのである。いけねー、コレは完全にヤラかしだ、と慌てて私は「すいません、ウチの子ですー!」と大きい声を出しながら駆け寄った。

その時私に投げかけられた彼らからの視線は恐ろしく冷たいものだった。まるで、汚らしいモノでも見るかのような蔑みの表情である。子どもたちも、親御さんたちの私に対する態度と似たような、異界のモノを眺めるような視線を私に向けていた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、どうもどうも…」
頭をかきながらも私は円の中に入っていった。
「泣いてましたよ…」
その中の1人の親御さんがとても冷淡に私に言い放った。いやあ、すいません、と何度も頭を下げながらも、その苦言を耳にして私の心は何だか反抗的な気持ちになってきた。

何だい、確かに我が娘を放ったらかしてビール飲んで呑気にギター弾いてたオヤジの私に非はあるのだろう。だけどそんな眼で睨までもいいではないか。私は頭を下げながらもこと子を回収し、抱えて輪の外へ出た。

私は小さい頃からみんなと違うことをしようとしたり、天邪鬼だったり、目立とうとしたり、物心ついてからはそういうことを意識的にやったりして生きてきた。親になって丸くなったかな、と思っていたけど、こういう状況に直面すると脱線してしまいたくなる。こういう能天気な親もいるんだ、変わったヤツもいるんだ、と世間に表明してみせたくなる。そうじゃないとあーしなきゃいけない、こーしなきゃいけない、で世間は窮屈になる。

いい加減な親に見えたかもしれないが、そんなオヤジでも娘とは実はこんなに仲良しなんだぞ、ということを彼らにアピールしようと反旗を翻した私は、やたらわざとらしくポジティブな感じでこと子と遊び始めた。

すぐに機嫌を取り戻したこと子はゾウさんにも乗ったし、私などは虎さんに乗ってバッタンバッタンとしたりした。飛び石の様に配置された、作り付けの切株の遊具に乗って、キャッ、キャとこと子とはしゃいだりした。しかし私の頑張りも虚しく、周囲にいた家族たちは我々に目もくれず三々五々散って行ってしまった。ちょっ、と舌打ちをしてこと子と芝生に戻り、(そういえばあの時彼らにギターを見られなくてよかったな)などと思いながら私は帰り支度を始めた。
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