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バンドマンに憧れて 第41話 アクセルとブレーキーの確執

アクセルとブレーキは表裏一体である。赤い疑惑のメンバー、アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーというステージネームを決める折、ブレーキーはアクセルの暴走を止める役割で、と冗談ぽく言っていたのは半分冗談ではなくて、当時のブレーキーは実際よくブレーキをかけていた。

ブレーキーがドラマーとして加わった時、それまでのドラマーにポンコツ感があったので、ブレーキーが初心者ながら安定感のあるビートを叩いた時、ヘタでもいいだろうパンクなんだからと考えていた私やクラッチは背筋が伸びたものである。ブレーキーは当初、赤い疑惑に自分が入って演奏が安定したんだ、と豪語して調子に乗っており、それは確かに間違ってはなかったのだが。

まだやりたいことや言いたいことが無尽蔵にあった若かりし私も、その頃は調子に乗ることが多々あったように思うが、ブレーキーはそこに意識的にか無意識的にかブレーキをかけるのであった。それがもちろん奏功したことも実際あったのだと思うが、ブレーキをかけられてよかったことばかりではない。むしろ1stアルバムが出てライブにも順調に誘われるようになり、忙しくなってきたこの時期は次第に様子がおかしくなっていった。

当時我々は西荻窪のリンキーディンクスタジオで週に1度、多い時は2度、必ずスタジオに入っていた。正味の話その頃はみんな時間にルーズで、大体私が1番最初に来てクラッチが来て、そして1番遅れてブレーキーが来るのだった。私も10分20分遅れることはよくあったのでメンバーが遅れてくることには寛容でいようと思っていたが、当時のブレーキーはスケールが違った。連絡なしで1時間、2時間と平気で遅れてくるのだった。

彼は加入当初は留年中の学生で、休学したり何やかんやモラトリアムを満喫していた。それで卒業してからも無職の期間がしばらくあり、そういうダラシない雰囲気で周りの連中からからかわれたり逆に評価されたりしていて、私もからかったり評価していたのだ。ただ、私の目標はバンドで食べていくことで、そうであるならばヘタウマパンクとは言ってもある程度真剣にやらねば、という矛盾するつんのめりな姿勢もあり、ブレーキーの遅刻問題が段々とストレスになっていった。

また彼は知り合いの紹介で葬儀系の派遣社員として働くようになるのだが、仕事をするようになってから、あからさまに疲弊し、練習にもダルそうに来ることなどが増えた。実際、彼の仕事は朝早くから始まり遅くまでかかる。仕事柄スーツを着ることが多い割に中身は肉体労働だったり、話しを聞いていても大変そうではあった。しかし、仕事が理由ではなく1、2時間遅れてきて、しかもゴメン、というより逆ギレ風な、不機嫌な顔で入ってくることなんかもあった(練習に来ないこともあった)。

それだけではないのだ。赤い疑惑の曲作りというのは私が作ったフレーズをスタジオで再現しながら2人に適当にベース、ドラムをつけてもらうのだが、3人とも音楽的な勘が鋭かった訳ではなく、しかもヘタウマなので、相当に時間のかかる作業だった。ベースのフレーズは私が提案することが多かったのだが、ブレーキーはそれを嫌がるのである。こう叩いて、と言っても素直になぞらずに必ずオリジナリティーを挟んで来ようとして、だけど素養があるわけじゃないから彼なりのフレーズが出来上がるまでにかなり時間がかかるのだ。

曲作りの中心である私はそういうことにイライラするのである。そしてオリジナリティーを追求するのはいいことなので、イライラを精神力で抑えてとにかく時間をかけて頑張っていた。これは要するに曲作りを進める私の力不足でもある訳だが、更に私がブレーキーに腹が立ったのは曲のダメ出しだった。

曲自体のダメ出しもあるし、イントロ、AメロからBメロへのつなぎ、終わり方、などなどいろいろなダメ出しがあった。私はダメ出しするなら代案を出せと迫ったが、具体案は出せないのである。

ブレーキーはバンドを始めた頃からよく言っていたが、「オレはバンドで食うとかピンと来ない」と。それはつまり彼が曲を生み出したりするタイプではないし、私のように成功への欲があまりない、ということでもあっただろう。だから代案を出せと言われてもそんなものはないのである。

そういったことが度重なり、私は違うドラマーだったらもっと上手くバンドが回るんじゃないか、とよく思っていた(クラッチはベースが下手だったが彼なしではバンドはやれないと思っていた…)。スタジオに入ってもストレスが溜まることが続いた。私はそれでも沓沢ブレーキーのことをどこかで好きだったし、尊重しようと思っていたのかもしれず、スタジオ内でブチ切れる、ということはなかった。

その代わりクラッチに改まって、自分の腹の内をブレーキーに伝え、改善してもらえないなら一緒にバンドやれないと言おうと思う、と相談した。クラッチは「そう思ってるならそうするしかないじゃん」と背中を押した。クラッチはいつも私の背中を押してくれる人なのだ。

いつぞやの夕刻、その日はスタジオではなく吉祥寺の井の頭公園に集まった。何で井の頭公園だったのか覚えていない。ただ話があるからとブレーキーに伝えて3人で集まったのだ。それで私が抱えているブレーキーへの不満を細かく冷静に伝えると、えっ、そうだったの? 気づかなかったよ、と言うので私は驚いてしまった。

私が彼に不満や怒りを抱えていたことを本人は大して気づいておらず気にもしてなかったらしく、そうだったのか…、と考え込む風だった。そして彼は素直に詫びて、バンドを続けたい、努力するよ、というのである。そう反応されると私もそれ以上は言えず、じゃあまた3人で頑張ろうか、ということになり、確かその日は伊勢屋で打ち上げたのだ。

実際それから後はスケールのデカい遅刻もなくなり、曲作りがスムーズになったわけではなかったが、それ以上衝突するようなことはなくなったのである。

元々私もブレーキーも強い捻くれ屋で、素直に物事を聞けなかったり、シニカルになったり、人と違うことをしようとしたり、その上マイペースという、似てる部分が沢山あった。似たもの同士の衝突と考えればそんなものだったような気もする。

思っていることは伝えないと伝わらない。恋愛や男女間の話のようでもあるが、男3人のバンドでだってそんなことがあった。むしろバンドと恋愛との共通点なのかもしれない。それくらいバンドってのは密な人間関係になり得るということなのだろう。
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アクセルの意気地記 第28話 コロナ禍の私たち

2020年の3月上旬、長尾家は台湾への家族旅行を予定していた。ピーのお腹には次女が待機していて5月出産予定。そんな時期に、という感じであったが、私とピーで(今行かなかったらもう行く機会がしばらくないかも)という懸念が強まり、半ば強行しようとしていた。

ところが、1月から徐々に話頭に登っていたコロナウィルスの感染被害が2月中も世界で広がっていて、2月の下旬には台湾政府が緊急アナウンスメントを発表した。海外から台湾に入国する渡航者に対する要請等であったが、入国後の日々の行動記録や体温管理、健康管理の徹底が盛り込まれており、どうも観光を楽しめる状況ではなくなってきているようだった。まさかの事態ではあるが、我々は様々な不安材料を案じて旅行を断念する決断をした。

折角抑えた航空券のキャンセルに関して、我々は予想だにしない損失を被ることになったが育児と関係ないので割愛。旅行断念の直後、3/13には赤い疑惑のライブ予定があったが、主催者はライブ開催の可否で悩んでいる旨を知った。その頃にはコロナ被害は日本でも大分騒がれ出していて、人が密集するライブハウスは早い段階から警戒を求められていた。結局ライブは開催されたが、その時点で社会に不穏な、閉塞的な空気が流れ込んできているのを感じない訳にはいかなかった。

そのような最中、3月中旬から下旬にかけて長尾家は、埼玉県比企郡小川町という土地に、今年1月に内見してみつけたとても素敵な中古物件を、遂に購入契約しようとしていた。これは前年の冬から急激に持ち上がり、私とピーの前のめりな勢いで一気呵成に進められていた一大移住計画の成果なのであった。2人目の子が生まれてくることが事実として迫る中、手狭になるであろう現在の賃貸アパートから、いずれは引っ越さねばならぬ必然性は、特に子育てに私よりも時間を割くことになるであろうピーにとっては早急に解決したい焦燥感からくるものであった。

新しい住処を見つけたのはよかったが、コロナの進撃は勢いを増してきて、4月中旬に予定していたピーさんの里帰り計画が危ぶまれ出した。感染者数の増加を知って心配を深めた山形の義母が、「帰るなら早めに帰って来い!」と騒ぎ出して、心構えが整ってない我々は焦ったが、感染のリスクを考えると義母の言うことに異論を挟む余地はなさそうだった。私も、この未知の、眼に見えないウィルスの蔓延に恐れをなし、妻子の早めの里帰り計画は急ごしらえで進められ、4/4、私は2人を車で山形の実家に送り届けた。既に都内からの移動は傍目を気にしなければならない段階に突入しており、私も不安に苛まれた。

この数ヶ月の間、こと子が今まで以上に私に懐くようになり、ママ大好き、というのと合わせてトト大好き(私の呼称はトト、パパ、父ちゃんの3種からランダムに選ばれる)と頻繁に抱きついてくるようになっていたので、私は里帰りでしばらくお互いが会えなくなる事態にこと子が取り乱さないか心配だった。それで、急に繰り上がった里帰りの日が近づく数日前から、いついつからこと子はママとお姉ちゃん(姪っ子達)達の家に行くんだよ、と言い含めるように聞かせた。こと子は、うん、と言って、また従姉妹達と遊べる近い未来を悟り、喜びを隠さなかったが、同時に「パパは?」という質問も忘れないくらいに成長していた。

「パパは別々で東京にいるんだよ」と教えると、こと子は不満そうに「やだ!」というので意味が伝わったのだな、と思う反面狼狽えた。やでも何でもこの後そうせざるを得ない状況がやってくるのだ。こと子に説明しながら、このマイスイートハートともうすぐ別々に暮らさなければいけなくなる未来に現実感が肉付けされ、私も動揺した。

当初中旬に予定されてた里帰り日は4/4へと繰り上げられた。山形の実家に着くと、早速こと子は従姉妹達とそれは楽しそうにはしゃぎ出した。3姉妹の末っ子キッピはこと子と年が近いので、とりわけ仲良くしており私は姪達の存在が頼もしかった。川西の実家には大きいガレージがあり、東京ナンバーの車はガレージにかくまわれた。東京からの来客が近隣に知られると厄介なので、という配慮である。

その晩は家族3人で横並びに寝たが、翌日は午後出勤になっていたので早朝に帰途に就かねばならなかった。別れ際、こと子は平常で、ホントにこれから別れ別れになることを理解しているとは思えなかったが辛い空気になるよりよかった。私は車を飛ばして東京に戻った。

4/6から東京に緊急事態宣言が宣告され、町の景色が変わり始めた。私の職場も出勤人数を調整する、と言い始め、週5勤務から週3日、または週2日しか仕事に行かなくていいようになった。周囲は皆動揺していたが、私には引越しと新居のリフォームという重大行事が控えていたため、臨時の休日は片付けと荷造り、荷物の運搬、古いお風呂の解体などに当てられたため私としてはラッキーだった。

その間数日置きにピーさんと電話で話していたが、こと子は従姉妹達と楽しくやっていて大丈夫そうだ、とのことだった。電話の途中でこと子に代わると「今ねぇねと遊んでたよー」と言う。そして私に毎回「今新しいオイチ(お家)にいるの?」「古いオイチ(お家)にいるの?」と尋ねるのだった。こと子は帰省前に2、3度新居の方にも行っていたので、住む家が変わる、ということは理解しているようだった。

4/21には全ての荷物をアパートから運び出し、大家さんに挨拶をした。こと子の出産前に父との同居プロジェクトがあり、それが私と父との喧嘩で崩壊してまたこのアパートに戻るというドタバタ劇が勃発したため途中1週間ほど空白期間があったが、結婚後今まで約7年半の楽しい思い出が詰め込まれた我が家との別れは惜しかった。誰か知ってる人がこの後住んでくれればまた来れるのにね、とピーと冗談で話していた。それくらい愛着のあるアパートだった。

アパートを引き払い新居の浴室がリフォームできるまでの間、私は実家にパラサイトすることにした。父は晩酌の相手ができるので歓迎ムードだった。そして、里帰りから1ヶ月が経とうとする5/1、オヤジと近所の友人夫妻と酒を呑んで盛り上がっていた23時過ぎ、ピーさんから着信があった。こんな時間に? と訝しんで出ると受話器の向こうでは大号泣すること子の声が鳴り響いている。

どうやらホームシックになったらしく、「おうちに帰りたい」「パパと一緒に遊びたい」ということを嗚咽の合間にやっと絞り出すのが精いっぱいで、後はずっと泣いていた。私は「あと何日したら会えるから!」と励ましたかったが、具体的な約束ができる状況じゃないので「大丈夫だよ、こと子…」と、泣き声の合間に呟くことしか出来なかった。

電話の様子をすぐに察知した父と友人夫妻は会話をやめ、スマホを握って黙る私を心配そうに見つめ、父は酔いの流れに押されてもらい泣きしていた。数十分こと子の悲鳴にも思える泣き声を聞いて、とにかくこまめに電話をしようとピーと話して電話を切った。

ピーさん曰く「今日布団に入ってすぐ、〈トトと住みたい〉〈ここはネネたちの家だもん〉と言って堰を切ったように泣き出し」たのだそうだ。ここは楽しいけど自分のお家じゃない、ということをもうすぐ4歳になること子は、ふと思い出したように、幼いながらに感じ取ったのか、と考えると感心と切なさが入り混じった不思議な気持ちになった。

翌日、テレビ電話をするとこと子はいつものこと子に戻っていて、私と話して笑っていた。私は一安心し、ピーさんと、GW中、超極秘的に私が行ってもいいか、ということを協議したが、やはり今はやめておこう、という結論にいたった。山形では県外の人と接触した人は2週間外出禁止になるという厳しい制度が臨時に敷かれており、出産の立ち会いはおろか、出産で入院する病院の出入りも県外の人は禁止になっていた。

数日後、ピーさんがSNSに上げていたこと子の写真を見たら、1ヶ月前までのこと子には見られなかった大人びた表情をしてると思ってまた切なくなった。いやいや、ただの親バカの錯覚なのかもしれないのだが…。

ROAD to 小川町 第1話 しゅうくんとはるかちゃん

しゅうくんと出会ったのは、アレはいつだったか。地元西東京市の脱原発デモに声をかけられた時のことで、こと子が生生まれて半年くらいだったはずだから2017年初頭だろうか。

西東京市の脱原発デモを主催していたのは小熊さんで、友人の母である。地元で友人というと同級生だろうと思われそうだがそうではない。私が赤い疑惑で1番盛んに活動していた2005年前後に、よくライブを観に来てくれていたヤツで、ある時私に声をかけてくれた。
「長尾さん、田無なんですよね?オレも田無なんすよ。」
彼との出会いはそんな感じ。6つくらい歳は離れてたけどすぐ仲良くなって、その頃よく遊んでた絵描きのミノケンと3人で、その頃住んでた武蔵境でラップごっこをして遊んだりした。

そんな彼の母、小熊さんは、根っからの活動家で、彼女は倅から私のことを知り、赤い疑惑を知り、そして私がソロの弾き語りで原発反対の唄を歌っていることを知って声をかけてくれたのである。

その脱原発デモは西東京市の有志の人が中心になっていたが、新宿や渋谷や丸の内方面でやるような大規模な催しではなく、20人前後のかなり小規模なデモだった。西東京市内の公道でシュプレヒコールと行進を行い、小熊さんの趣向なのだろうか、毎回デモ後の懇談会が夕暮れの公園で行われ、その際に誰かが弾き語りをすることになっていた。その演者として白羽の矢が立ち、プロテストソングを気に入ってくださって嬉しい私は2つ返事で出演を快諾した。

小熊さんは毎回音響で手伝ってくれる若者が居て、当日も来る予定だから、と教えてくれて、アンプ等も彼がいつも持ってきてるとのことだったが、私も携帯アンプを持っていたのでアンプは持参することにした。

集合場所の市役所広場に向かうべく市役所入り口あたりを通りがかる時、全身タトゥーと長めのドレッドで、明らかに田無には珍しい風貌が向こうからやってきた。私は直感で小熊さんが言ってた、音響を手伝ってくれている若者というのは彼に違いない、と思い彼に声をかけたらビンゴだった。「しゅうです。よろしくね。」彼は印象的なほど柔和で丁重な挨拶をした。私はやはり気になるので音楽の話しを最初の頃に交わしたと思うが、しゅうくんが「ハードコア経由してレゲエに」というのを聞いて、同い年だし、もうそれ以上余計なことを話さなくてもいいと思った。これが私としゅう君との出会いで、後の私の人生に小さくない影響をもたらすことになる。

デモの後、西武柳沢の飲み屋で打ち上げがあり、私は産まれて数ヶ月だったこと子とピーさんと一緒に参加した。その席でしゅう君のパートナーはるかちゃんとも仲良くなった。2人とも数年前に田無に越してきて、まだ価値観を共有できるタイプの友人にあまり出会えてないので、と我々家族との出会いを非常に喜んでいるようだった。逆に私も地元が田無とはいえ、幼馴染みで未だに繋がってる友人もおらず、音楽関係ほか普段親しくしてる友人でも近所に住んでいるのは数えるばかりだったので近所に仲良くなれそうな2人と出会えて嬉しかった。

私は東京生まれ東京育ちであるが、荻窪の病院で生まれ、幼年期は武蔵小金井のマンションに住んでいた。幼稚園の年中だったか、父が田無駅から15分ほど歩いた宅地のマンションの1室を買ったので、それから大学を出るまで私は田無の住人となった。高校までは公立に通っており、その頃までは仲良くしていた友達がチラホラいたが、私立の高校に行くようになってから疎遠になってしまった。

中学時代にロックやファッションに開眼した私はしょっちゅう吉祥寺に通い、ハードコアパンクにハマった大学時代は足繁く西荻窪に通った。いわゆる中央線カルチャー、および中央線サブカルチャーにすっかり魅了され、地元の田無はイケてないダサい町、というふうに認識が更新されていった。地元の友人と疎遠になった背景にはそのような価値観の変遷があったかもしれない。

大学を出てパンクバンド赤い疑惑を始めるタイミングで私は実家を飛び出し、当時の憧れだった街、西荻窪に居を構え、新たな人生の扉を押し開いた。バンド活動は楽しかったが、目指していた商業的成功とは程遠い状態のまま月日は流れてゆき、私は当時付き合っていた彼女と同棲するために一旦武蔵境に居を移したが、その同棲が程なく破綻し、30を目前にして私は思い入れのない地元の街田無に戻ってきた。

母が亡くなり、姉と父が実家にいたが、父と2人きりの暮らしに辟易していた姉は、私が実家に戻るのと入れ替わりで実家を出ていった。それから父と私の2人暮らしが始まり、もう、私のような穀潰しに伴侶はできないのではないか、と半ばヤケクソな気持ちになっていた頃ピーさんと出会った。

それから1年程して私は彼女と結婚した。実家を離れ、近所に2DKのアパートを見つけて住み始めた。6畳、8畳、4畳半ほどのダイニングキッチンに風呂とトイレが別々にあって6万円。古いとはいえ、欄間や磨りガラス、窓の格子など、昔ながらの温かみを感じさせる細工が至るところにあって、私とピーさんは一目惚れ。これで6万でいいんですか、と訝しむほど我々はこの家が気に入ってしまった。

安さの理由は、ただただ大家さんの商売っ気の無さからくるものであることが後で分かった。家賃は向かいの大家さんに直接対面で支払う仕組みで、私達はすぐに大家さんと仲良くなり、庭のかなりの敷地を自由に使っていいからね、とのお墨付きをいただいたのである。

その頃には、私の中で田無ダサい、などという高慢な気持ちも失せていて、私が今こうして所帯を持って、ただ何となく生きていられるだけで文句はない、という塩梅になっていた。そしてそれは長女のこと子が生まれて、より強まり、何の変哲もない西武新宿線の郊外でこうして家族で住んでいる、ということに関しては一切の不満もなかったし、私が弾き語りでサザエさんの替え歌「今日も田無」を作る頃には、腐れ縁というのにも似た、いやそれよりももう少し前向きな地元への愛着を持つようになっていたのだ。

しゅうくんと田無で巡り会ったのはそんな時なのである。しゅうくんとはるかちゃんは赤子や幼児のお守りが抜群に上手で、こと子の面倒は驚くほど積極的にこなした。子育て奮闘中だった僕らに「時には2人で映画でも観に行ったら?こと子は私達に任せて」などと言ってくれたのである。

仲良くなったとはいえ、子供を預けて夫婦で遊びに行くなんていうことはやはり気が引けるし…、と我々はそんな2人の心遣いだけで感謝感激だよね、と確かめ合っていたが、ある時、保育園に預けられない日で私が仕事、ピーさんは参加したいワークショップがあって、という事態が発生した。2人で、しゅうくんとはるかちゃんに頼んでみる…?、とどうしようどうしようと悩んでいた丁度その時、しゅうくん達からの着信が入る、というミラクルが起こった。私はこうなったらと、2人の用件を聞く前にこちらのお願いを伝えたのである。そして不在時の子守りを快く引き受けてもらえたのだ。

この件があってからこれまで、結局我々は3、4回こと子を預かってもらった。こと子は優しい2人にすぐになついていたし、我々が2人のお家にお邪魔したり、2人が我が家に遊びに来たり、2人が借りていた農園の食べ尽くせないくらいの野菜達を分け合って消費したり、そのうちに関係性は家族のようになっていったのだった。

そして昨年(2019年)の秋頃だったか、しゅうくんが私に尋ねるのである。
「長尾くん、ヒーさんと友達なの?」
ヒーさんといえば、とあるレゲエバンドのギタリストである。数年前、私はヒーさんのギタープレイに惚れ込んで、当時赤い疑惑と並行してやっていた焚き火楽団というバンドにヒーさんを誘い、一時期一緒にスタジオに入っていた時期があった。ヒーさんは程なく2人目が産まれる、ということでバンドから離れてしまったのだが…
「今度ヒーさんの移住先でウチウチのパーティーやるから長尾くんも参加しない?」
としゅうくんが畳みかけてくる。ヒーさんが移住? まだよく分からないが、ヒーさんが東京からそこまで遠くない田舎に家を買ったらしく、そこでアンオフィシャルなイベントを企んでいるようだ。その田舎町というのが小川町といい、何とはるかちゃんの実家なのだそうだ。

私は田舎に憧れがあるし、音楽付きのホームパーティーなんて最高じゃん、と請け合った。しゅうくんとはるかちゃんは定期的に宇宙祭りというイベントを企画しているのだが、その日は番外編でお客さんは招かず、ヒーさんのバンドとしゅうくんの弾き語り、それに私の弾き語り、後は適当に、と情報はそれだけだった。(つづく)

バンドマンに憧れて 第40話 男は寝るな

「東京フリーターブリーダー」制作前に原付きで飲酒居眠り運転の事故で右脚を骨折し、初の地方ツアーの予定を台無しにした話しを書いたが、実はアルバム制作期に私はそれとはまた別の交通事故を起こしている。アルバムのジャケットに写っているのは、当時のバイト先であった染色会社のばあちゃん社長だが、私が事故ったのはその会社で事務の仕事をしていた時期だ。

ヘルニアを発症して飲食の仕事を辞めてから、私は肉体労働を離れ、「事務」という職種をやるようになっていた。染色業務のお手伝いという募集を見て、私は事務ではなくクリエイティブ系の仕事に携われるかもしれないと思い、腰が心配だが応募したのだ。

面接で、すごく興味があるんですが、実は以前腰を痛めていて…、ということを話すと、実質会社の全てをしきっていたヒロシさん(社長の倅)は、実は事務も足りないんだけど事務で入らないか、と促してきた。作業の方はやはりかなりの肉体労働なので、腰に不安があるなら辞めといた方がいい、とのことだった。金に余裕などない私はとりあえず働けるならいいか、と妥協して事務職についた。

何とも不思議な職場だった。中井駅から神田川沿いに下落合方面に少し歩いたところにあったその染色会社は、トタンの波板で全面つぎはぎのように覆われた工場で、一見廃墟のようにも見えた。一階入り口にお客さん対応の応接間があり、その奥にヒロシさんの仕事場と、大きな製版台が、そして2階は1面で幟や旗のシルクプリントをする大きな作業場があった。

私は応接間で事務作業、配送、梱包、出荷などの任務にあたっていたが、いつも11時くらいに重役出社してくる社長の話し相手になることも大事な役割だった。当時社長は70代だったかと思うが、片脚を悪くしていていつも杖をついてびっこを引きながら歩いていた。不摂生という感じはしなかったが、それなりに肥っていて足腰に余計に負担がかかっているように見えたが、コロコロとした見た目が独特の愛嬌を讃えていた。

週刊誌を読みながら「北朝鮮とやっちまえばいいのよ」とたまに過激なことを下町口調で言ってみせることもあったが、若い時は仕事の切り盛りもしてたらしく、その経験値に裏付けられたこぼれ話達は面白かったし、私は何となくこのおばあちゃん社長のことが好きになった。

母がガンになった時、私は代替医療や民間療法のことをいろいろ調べていたが、母が前向きじゃなかったので大して実行に移せずにいたのだが、社長にビワの葉温灸のことを勧められ、私もその存在は知っていたのだが、何やかんや言い訳して躊躇していたら、「あんたがやってあげればいいだけでしょ」と叱られ、そうかと思い実行に移すと、母は意外にも受けいれてくれた。効果の程は神のみぞ知る、だが、温灸は苦しくないし気持ちがいいので母も拒まなかった。母が死んだ報せを社長にした時、社長は涙を流した。一従業員の母の死にそこまで同情してくれるなんて…。私は性別も年齢も越えた心の触れ合いを体験した気がした。

この染色会社でのバイト時代は、私が自分の人生をバンドでどうにかしよう、と最も強く考えていた時期だった。ライブのチラシをこまめに作って撒きまくったり、知人友人にこまめにライブのお知らせメールを送ったり、CDの流通や委託販売のやり取りやプロモーションなど、自分でできることを地道にこなし、曲作りや、詩作、フリースタイルの練習など、バンドに関することに没頭していた。この時期にとある先輩バンドマンに「長尾くん、男は寝ないで頑張るもんだ」という訓戒をいただいた。今ではバカバカしい根性論にしか思えないが、当時の私はその言葉に存外の影響を受けてしまった。その先輩のバンドが実際シーンの中でかなり目立っていたこともあったのかもしれない。とにかく、その時期、私はその言葉を過信して睡眠時間を削るようになった。

夜中遅くまでバンドに関連する活動をするようになった。3、4時間の睡眠が平均になり、朝は眠たかったが、目標に向かってガムシャラになる自分に幾分酔ってもいた。しかし、このガムシャラには落とし穴があった。日中、染色会社の事務でデスクワークをしていると必ず睡魔がやってきて、キーボードを打ちながら頻繁に船を漕ぐようになった。それだけならよかったが、この仕事には時々雑用の配達仕事があり、週に何度かは会社の車で浅草橋の問屋街に行ったり、所沢の縫製工場に行くことがあった。私はその運転中にも必ず睡魔に襲われるようになっていた。

当時の私が、長い人生のスケールを考えたり、想像したりする力を持ち合わせていれば、運転中睡魔に襲われることに自覚的になった時点で生活を改められたはずである。しかし、若気の至りで、私は睡眠を削る生活を改めなかった。そしてある日やらかしたのである。居眠り運転による玉突き事故。信号停止中の乗用車に後ろから追突し、その前に停まっていたゴミ収集車にも被害を与えてしまった。

大きな衝突音で目が覚めた時、車内は煙が立ち込めていて、かけていたメガネが真ん中から折れて足元に転がっていた。私は俄かに何が起こったのか自覚し始めた。すぐに煙がエアバッグの破裂によるものだと分かり心臓がバクバク鳴った。片側3車線の幹線道路での出来事で、私が焦って車から出ようとすると、先に降りていたゴミ回収のおじさんが「危ねえぞ!」と怒鳴った。3車線の最左列で玉突きしたので右手の2列は車がビュンビュンと通り過ぎていた。

しばらくして警察や救急車が集結。私と玉突きにあった乗用車の男性だけ救急車で運ばれた。私はエアバッグの衝撃で唇が切れて軽く血が出ただけであったが、念のため病院に行ったのだろうか。男性は軽いムチウチ症状を訴えていた。

病院の後は警察に行き、事故の検証やら何やらが始まった。私は起こしてしまったことの重大さに頭がボーっとしていた。警察は私の起こした事故が居眠り運転じゃなく、前方不注意によるもので、という風に、その方が処理が楽になるのか、そんな風な筋書きを作ってくれて、私はもう免許剥奪になるのかと思っていたが、救われたのだった。みすぼらしい姿になった会社の車のフロントの修理代、追突してしまった前の車の修理代(ゴミ回収車の方は大したキズじゃないので、と保証を求めなかった)、前の車の運転手のムチウチ治療代、それらはすべて保険で賄われたので、あの足の骨折事故に続き、私は保険の重大さを思い知った。

後日、前の車に乗っていた被害者の方のお見舞いに行かねばならなかったのだが、この時、社長が、ついていってやる、と申し出てくれた。私は、このような事態に対する経験値も皆無に等しかったし、お詫びのしようもない100%こちらに非のある事柄なので、どんな心づもりでお見舞いに行けばいいのか全く分からない状態だったので、この社長の申し出はホントに心強いことだった。

病室で「この度はウチの若いのが大変なご迷惑を…」という挨拶から始まり、当たり障りない世間話を社長がしてくれたおかげで、私は隣で小さくなっていればよかった。この顛末は実は「東京フリーターブリーダー」の歌詞カードの最後の見開きで長文で綴っているのだが、未だに、自分で読んでも泣けてしまう…。

居眠り運転で玉突き事故。あまりに愚かな過失なので、ガンセンターで入院中だった母にも、母の看病で気忙しかった父にもこのことは内密にした。母に、こんなみっともない倅のやらかしのせいで更なる心労を与えたくなかったし、実際バレなくてよかったと思っている。

その後、私は流石に改心し、人並みの睡眠を貪るようになった。バンドがやりたいなら、死んでは元も子もないのである。

アクセルの意気地記 第27話 遊ぶ

私の仕事が終わって田無の小さな自宅に帰るのは大体20時〜21時頃である。遅い時は22時前後になってしまうこともある。

家に帰るとこと子とピーさんが待っている。私が帰る頃には夕飯の準備をしていたり、夕飯を先に食べていたり、ダラダラしていたりする。こと子は1人で遊んでいるか、携帯かアイパッドでアニメなどを見ていたりする(こと子は最近「ねえ、アイパッドでネットフリックス観たい」なぞと言うのである!)。

映像に縛られず1人で遊んでいるだけの時は、私がドアをガチャリとやる音や気配で玄関まで「父ちゃん!」と元気よく言いながら迎えてくれる時もあり、それは至福の瞬間であるが、携帯やアイパッドに縛られてる時は一切姿を見せない。お帰り、も言ってもらえない。こと子が出てこないと寂しいのだが、それよりも既に携帯やアイパッドの中毒になっている事実たるや。

明らかに目が悪くなるだろうし、見始めると終わりがなくなるから30分とか1時間とか制限を設けるのだが、「時間になったら終わりだよ」と言い聞かせ、「うん!」と約束を交わしても、時間が来て携帯なりアイパッドなりを取り上げると取り乱して泣き始める。泣き方が本気なので閉口するが、改めて映像の中毒性の高さに驚嘆する。

私が帰宅して夕飯を食べ終わると一服して皿洗いに突入する。皿洗いは私の使命である。であるが、このタイミングでこと子が「お父さん遊ぼう」とやってくることがある。というか映像を見てない時はそういう流れになる。1度遊んでやると、(夕飯の後は父ちゃんが遊んでくれる)と脳みそにプログラムされるのだろう。

通常、私は皿洗いの後風呂洗いをしたりピーさんと、こと子の風呂入れを分担したりするのだが、皿洗いは2人が床についた後に回してもいいのである。後で確保される予定の自分の時間が削られるだけである。ただ、その自分の時間が尊いので、できるだけはやく済ませてしまいたいが、「遊ぼう」と誘われて、それをシカトしたらこと子との日々の貴重な触れ合いの時間はなくなってしまう訳で、私は皿洗いを止めて遊ぶことにするのである。

まだこと子が2歳の頃は、一緒に遊ぼう、と言われてもどういう遊びができるのだか皆目見当がつかなくて、私も難儀した。私にしてみれば何でもかんでも初体験なのだ。

こと子がオモチャを転がして畳の部屋と台所、玄関、そしてまた畳の部屋、という具合にグルグル回る。私も後をついていくだけだったり、同様にオモチャを転がしてみたりする。

「次は何しようか?」とこと子が言う。私は何も思いつかないので、う〜ん、と唸る。じゃあ、滑り台しよう、と言う。これは私が椅子に座って上半身を逸らし、下半身も棒にして斜めに伸ばし、こと子を持ち上げて真っ直ぐになった私の身体を滑らせるのである。滑走距離は50cm程度だが、面白い、もう一回、と言って喜ぶ。

バーチャル滑り台にはもう1つパターンがあり、それはぐちゃぐちゃにになってる掛け布団の上に乗って高くなってるところから低くなっている方に滑るのである。滑ると言ってもぐちゃぐちゃの掛け布団の上は物理的に滑らないのである。どうするかというと滑らずに「シュー!」とか言いながら足と膝で尺取りながら進むのだ。「ハイ、じゃあ次はトトの番ね」と必ず言われるので、私も同じことを真似してやるのである。これを何セットか繰り返したりする(大抵同じことを何回も繰り返すのである)。

「ボールぽんぽんしよう」というのもある。これは分かりやすくていい。風船の時もあれば、どこでいつ入手したのか分からない柔らかいミニバレーボールの時もある。初めは風船を優しくポンと飛ばしてやっても受け取ることすらままならなかったのが、いつの間にかキャッチできるようになった。凄いじゃん、と褒めると得意気な顔をする。

初期の遊びで印象に残っているのは「わぁ、しよう!」とこと子が言っていたところの遊びだ。何のことかと思い、何が始まるのかドキドキしていたが、正解はしゃがんでから、「わぁ!」と元気に声を出し、手を広げながらジャンプして立ち上がるだけであった。これは数えるくらいしかやらなかったが、私の心に残っている。一緒にわぁした時の屈託のないおかしさが忘れられない。

こと子が3歳になってからは口が達者になって遊びのバリエーションが広がってきた。コミュニケーションの幅が広がると父ちゃんは俄然楽になってくる。そしてこと子は最近ままごと期に突入したようだ。

おままごと、というと幼児の遊びの典型でイメージは昔から変わらない。ただ、オレは男子だったのだからおままごと的な遊びは記憶にない。私はやり方が分からないがこと子のセリフに相槌をうったり答えていたりすれば及第のようだ。

こ「何屋さんですか、って言って」
私「何屋さんですか?」
こ「ジュース屋さんよ。何にしますか?」
私「うーん、オレンジジュース」
こ「オレンジジュースは売り切れです」
私「えー、じゃあ何があるんですか?」
こ「桃のジュースならあるわよ(こと子は、さほど食べたことないのに桃贔屓である)」
私「じゃあ桃のジュースお願いします」
こ「はーい(後ろを向いて両手を動かして何やらやっている)。ハイ、できましたー」
私「わーい、はいお金。うーん美味しい!」
こ「どう?甘くて美味しいでしょう?!」

これが1セット。この次は私がジュース屋さんになる。それでそのままこと子が飽きるまで繰り返すか、私が、あ、お風呂止めに行かないと、なぞと言って無理矢理終わらせるかどうかである。ジュース屋さんの他にアイス屋さん、お医者さん、美容院、というバリエーションがある。

私は子どもができるまで子どもの扱い方や遊び方が分からず苦手意識の塊だった。しかしこんな風に実際育ててみると、意外と簡単で、遊び方が分からない時は子どもに聞けば教えてくれるのだということが分かる。なーんだこんなもんなんだ。
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