バンド漫記 第15話 キャンパスライフと私の居場所

根がクソ真面目な私は将来の夢がロックンローラーであったのにも関わらず、学力を判定する毎度のテストでも変に力んで一生懸命になってしまう傾向があり、その為高校の担当教師から、君は今の成績なら法学部も希望できると言われていた。中大の法科というのはかなり有名な学部らしいことを私はその時知ったのだが、まさか法律の勉強なんて微塵も興味が湧かなかった。そもそも先にも触れた通り中途半端な反抗心で大学行きたくない、と親を泣かせた経緯もあり、私は何学部を志望するのが妥当なのか全く分からなかった。

結局、私が選んだのは文学部の英米文学科だった。どちらかといえば国文学が好きで英米文学には何の興味もなかったのだが、とりあえず英語を勉強しておけば将来何かの役に立つかもしれない、とどこかで海の向こう側への興味がくすぶってたのだろうか。

中大の文学部は八王子の山の中にあり、通学はなかなか大変で、しかし長閑な、自然を抱く丘の中腹にあり、のんびりするには悪くない場所であり、東京を距離を置いて眺めるのにも最適な場所でもあった。

大学に入るといろんな地方から上京してきた面白い輩と沢山知り合える、と少しく期待していたが、入学して私が入ったクラスにいた連中は何ともつまらない人間の集まりにしか見えなかった。地方から来た学生は服装もダサいし、みんな周りの人間といかに仲良くなるかで必死になっているようにしか見えず、エスカレーターで上がった呑気な附属校生である私はそんな周囲をバカにして見ていた。高校でパンクやインディーズ、アングラといった価値観の洗礼を受けた私は相当に捻くれ、簡単に、また軽率に他人を蔑むような癖がついてしまっていたのだ。

生意気ざかりの私はガリ勉高校に入った時と同様か、それ以上の失望感を大学でも味わったが、せめて面白いサークルでも見つければ面白い人達がいるに違いない、と片端からリサーチしてみた。テニスサークルなど、集団合コンしたいだけだろ、みたいなチャラチャラした不愉快なサークルばかりが目について、結局、私を興奮させるようなサークルは見当たらなかったが、唯一美術研究会というサークルは異様なオーラを放っているように見えた。サークル勧誘の担当であるらしい方の風貌が明らかに異彩を放っていて、まるで世捨て人の気配すら感じさせ、熱心に勧誘してこない感じも私の注意を引いた。もちろん美術に興味はあるが自分のやりたいのはバンドだし、とも思ったが面白い人を探すのはここがいいかもしれない、と思い飛び込んでみた。

美術研究会、通称美研は、中大でも一応の歴史があるのだろう、キャンパスの端っこにあったサークル棟にサークル室を持っていた。そのサークル棟自体がいかにも学生闘争を想起させるような雰囲気を醸し出していたのだが、その中でも特に怪しいオーラが美研のサークル室には漂っている気がした。そこに出入りしてる人は実際怪しい人が多くて私は少し嬉しくなった。そして、怪しい人が多いのは美研だけでなく、隣の部屋にサークル室を構えていたフリーバードという全学連系のサークルも同様に怪しく、美研とフリーバードは所属メンバーがごっちゃになっていることが段々分かった。

そこで出会う人は明らかにアウトローな雰囲気をみんな持っていて、現役大学生ではないだろう老けた人もいれば明治の文豪のような風貌の人もいたし、ベルサイユの薔薇に出て来そうな中性的でガタイのいい人がめちゃくちゃ小さいランドセルをしょっていたり、とにかく理解不能な人達がいっぱいいて面白かった。

そのサークル棟で明らかに寝泊まりしてるらしい人もいて、私はここでボヘミアンとか、ヒッピーとか、左翼とかマルクスとか、普通の教育ではあんまり積極的に教えてもらわないキーワードをいろいろ知ることができた。

彼らは決して人当たりが良いわけではなく、これでは新入生が居つく訳ないよね、というちょっとした排他性があったので美研に入り浸るのは私の他に数名いたかいなかったか。それでも私はその中にいればいろいろ面白いことが起こるのではないかと思いそれなりに居座ってみたりしていた。そして、美研の人がやっていた「おしばな」というバンドにベーシストとして加わったり、それなりの交流をしていたのだが、それでも私はどこかで疎外感に似た何か、どうしてもそこが自分の居場所ではないような気持ちをずっと引きずっていた。

そんな中、大学1年の終わり頃であったか、私が高校から続けていたハイパーニトロのベースを弾いていたナリ君が新しいサークルを作ろうよ、と私に仕向けてきた。その頃私は美研に出入りしながらもバンドメンバーを含む、附属校上がりでチャラチャラしたサークル活動に馴染めずにいた数人と、キャンパス内で緩やかなコミュニティを形成しつつあった。ナリ君はそのメンバーでサークルを作ろうと言い出したのだったが、自分が会長になるのは億劫でその役を私に押しつけてきたのだ。

押しつけてきた、と言っても、丁度私も自分の居場所を作りたいと思ってたところだったので、面白そうだ、やろうやろう、ということになって私が代表になった。そこに集まっていた連中の興味対象がアングラな音楽、映画、漫画などのサブカルチャー全般だったので、私は「インディーズ研究会」にしようと思いついた。先に触れた通り当時はまだ「インディーズ」というワードにヒップなニュアンスが漂っていたのだ。

そういう訳で「インディーズ研究会」なるサークルが発足し、翌大学2年時の新入生歓迎期間から早速我々はチラシを作って会員を増やすべく奮闘した。しかし内弁慶なメンバーばかりで年下の学生を引き抜くのは容易ではなく、また興味を示す若者も少なかった。しかし、それでも数名の後輩が何となくいつくようになり、気がつくと段々サークルらしい雰囲気になっていった。

美研のような老舗のサークルでもないので部室があるわけでもなく、我々はいつもキャンパスの中央ステージ(略して中ステ)の一角を陣取り、つまらない授業の合間に、または授業を抜け出しては集まって屯し、ダベったりボール遊びしたりするような無邪気な活動が続いた。

メンバーも元附属校上がりの連中だけではなくなって、地方からやってきた輩や少ない人数ではあったものの女子も加わり、私はつまらない同級生、つまらない授業、つまらない学歴社会を回避するようなつもりでただただ集まっては時間を浪費するようになった。同時に何となくフィットしなかった美研には行かなくなってしまった。

イン研が私のバンド人生とどう関係があるのかと思うかもしれない。しかし私が後年始動させることになった赤い疑惑は、この「イン研」での無駄な戯れとそのメンバーの存在が初期の起動力の一部となっていたのは間違いないし、「あの時僕らは」という曲はズバリその頃のことを歌った曲である。私はまだまだ先の、大学卒業後の身の振り方を、いつも彼らと過ごしながら何となく妄想して過ごし、漠然とした不安を解消させるために彼らと無駄な時間を潰していたのではなかっただろうか。

つづく
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コトコト1週間 2016年11月

11/18

整体のハーさんが出張整体で来宅するので部屋の片付けと昼食の準備。我々夫婦はハーさんの月一の整体で身体のバランスをとってもらっているのだ。ハーさんが整体をしながら、こないだ知らないクラブイベントに1人で行った、という話しをしたので、そうそう、私も今夜1人で未知のクラブイベントに1人で行くんだよ、と盛り上がった。

整体後、我々は姿勢がよくなるのだが、今日は休みだし夜はとんかつを食べに行こう、ということになり、近所の同僚が教えてくれたとんかつ屋に繰り出した私とピーは歩きながらお互いの姿勢のよさを讃え合った。東伏見のそのオススメのとんかつ屋までは新青梅をまっすぐ20分。ベビーカーを押して我々は何だか気持ちも清々しく、楽しく歩いた。

噂の「日の出」は昭和の佇まいを残した控えめなとんかつ屋だった。素早い動きで我々の注意を引いたおかみさんは、いかにもおいしいとんかつを揚げてくれそうな雰囲気を讃えて、出前から途中で帰ってきた柔和な表情の旦那さんと、そしてとんかつの味とセットで我々はすっかり日の出のファンになってしまった。こと子もご機嫌を損ねることなく、美味しそうにとんかつを食べる私達の姿をよだれをダラダラ垂らして眺めてくれるのだった。

満腹で帰った後こと子を風呂に入れて、安らかに眠ったのを見届けて私は久々の夜遊びに繰り出した。新宿で乗り換えて幡ヶ谷に着くと日付が変わっていた。

11/19

幡ヶ谷のクラブに南アフリカ発祥のトリッキーなハウスミュージックのDJが来日する、というので私は気になって来たのだが、途中まで楽しんだ後、今度は東高円寺のクラブで友達が回しているのが気になってきてしまい、どうしようもなくなってタクシーに乗った。普段滅多にタクシーになど乗らない私は、ここぞとばかりにオトナな気分を味わっていたが、運転手さんは、遅くまでお仕事ですか、などと頓珍漢なことを聞いた。

東高円寺で朝まで踊って、そろそろこと子とピーが起きるのではないかということが心配になってきたので外に出てみると、夜が明けているのに薄暗く、そしてすっかり雨が降っているのだった。幡ヶ谷の駅まで、新宿での乗り換えの途上、田無駅から家まで、私は傘を買うのがバカらしく、バカみたいだが雨に濡れながら走った。

息を切らして玄関を開けると、パンの焼ける美味しそうな香りがもわっと鼻を包んだ。昨晩ピーが仕込んだホームベーカリーが、まるで私の帰宅に合わせたかのように焼き上がったらしかった。雨に濡れて散々な気分が一気にほぐされるようだった。

寝起きのこと子の顔が特別に可愛かった。私は普段こと子の寝起きの顔を見てなかったことに気づいたが、こんなに可愛いならもっと寝起きを見たい、と思った。

ピーが、寝るか、ご飯食べるか、と聞いてくれるので、美味しいパンを食べてから寝ることにした。私はせめて起きている間だけでも、とこと子の子守りと朝食の準備のサポートを全力で務めた。

焼きたての美味しいパンを食べて、お言葉に甘えて床に着き、ようやく眠りに着こうか着くまいか、という絶妙のタイミングでイシダさんがドアを叩いた。ピーが授乳してたらしく出てくれとお願いされて、ハッとして私が出ると、日曜日の憲法を守る会の出欠を取りに来たという。イシダさんは共産党のおじいちゃんで私を気に入ってくれてちょこちょこ挨拶に来てくれるのだが、日曜日は仕事だし、私は寝ぼけていて対応がお粗末になっていたかもしれない。

床に戻るとストンと寝てしまい、軽く寝るつもりがピーに起こされた時はもう16時前だった。今日は保育園の申請の関係で市役所に行かなければならないのだった。急いで身支度を済ませ市役所へ。保育課は土曜日だが臨時的にやっているらしく、保育園に何とか子供を預けたい真剣な表情のお母さん達が集まっていて神妙な空気だった。

帰りに駅で買物をし、家にある野菜を集めて札幌一番の味噌ラーメンを作って食べた。初冬の冷気で冷えた身体がポカポカ暖まった。こと子はよだれを垂らして眺めていた。

11/20

お弁当を作りながらピーが歌ってるメロディが爆風スランプの「さよなら文明」と同じなので、爆風スランプ?と聞くが違ったらしい。確かに世代が違うが、気になってきたので出勤の電車でyoutubeを調べていたら「つよししっかりしなさい」というアニメの主題歌だった。リンクをピーに送ると、そのアニメは知ってるが曲は知らない、と。

直後に爆睡中のこと子の画像と、その顔が稲中みたいじゃない?とピーから。私はある時期からアニメ嫌いで稲中も人気があったのは知ってるが、見たことなかったのでそれで会話は終いになった。

グループ会社のそば屋の蕎麦をA君と運んでいたら、そば屋にテレビクルーの取材がやってきて、自慢のインドカレーをリポーターがわざとらしく褒め称えている。私は過去にこのそば屋の自慢のカレーを食べたが大して美味いとは思わなかった。それよりもニラ天玉そばが1番美味いのに、と賄いのニラ天玉そばをすすりながら思った。

ホームセンターでインターホンを購入し、門仲の物件で作業。馴染みの内装屋のBさんが仕事に息子を同伴していた。Bさんが仕上げた部屋でワッパを食べながらBさんと少し世間話。Bさんはギタリストでもあり、バンドを長く続けてきた私に作曲のコツを教えてほしい、と言ってくれたのだが、難解な質問なので満足の得られる返事ができなくて残念だった。

帰宅するとピーはこと子のウンチと夕飯の仕込みで大わらわだったので、すぐにこと子の着替えをし、夕飯ができるまで風呂の壁に滲んできたカビの清掃に取り組んだ。バランス釜の古い風呂場なので天井が高いため、作業用に買っておいた脚立が大活躍。

夕飯を食べてこと子を風呂に入れ、こと子とピーが寝てから私は気がかりだった喪中はがきの作成に着手。年賀状にしろ、挨拶状にしろ、私はテンプレートの何かを使うのが苦手でつい自分流の手造り感を出そうと余計な努力をしてしまう。結局1時くらいに草臥れて残りを後回しにして就寝。

11/21

緑豆を甘く煮たものに餅を入れ、お汁粉にして朝メシにしている横でピーがパッタイを作っている。パッタイは私のお弁当になった。出勤。

東京駅付近の物件で退室をした後、矢来町の倉庫で備品を搬入。門前仲町の物件の、昨日Bさんが仕上げてくれた部屋で備品の組み立てやペンキ塗り。途中でピーから電話があり、今日締め切りの保育園申請で、私の会社で書いてもらう書類に漏れがあった、と慌てている。それで急遽会社に連絡をし、ピーを私の会社まで来させることに。数時間後、無事書類の提出ができたと連絡が入りホッと一息。

帰り道は恒さんと一緒だったので子育ての話にひとしきり花が咲いた。雨が降ってフロントガラスがギザギザに東京シティーを映していた。

残業も少なめに帰宅するとピーとこと子が台所で横になっていた。申請手続きで大変だったろう。我々は簡単な夕飯にしよう、とパンとスープで済ませた。こと子は静かにしている。

こと子を風呂に入れ、ピーに授乳してもらい寝かせる。寝たかと思うとむずかり出し、私があやすと、オマエじゃない、と大泣きされた。風呂から出てきたピーにまた授乳してもらいようやくこと子は寝ついた。喪中はがきを完成させて就寝。

11/22

朝起きるとピーが饅頭を仕込んでいる。朝から凄いな、と思って見てみると色が茶色がかっていて、どうやら全粒粉である。普通の小麦粉を切らしていたとのことだが、せいろで蒸し上げられた全粒粉饅頭は豪華な味がした。

出勤し、今日は後半まで電車とバス移動。日本橋の物件の退室ゲスト立会いを済ませ、錦糸町へ。錦糸町の北口を改めて歩くと、なかなか個性的な味わいの店が多いことに気づく。昭和風の喫茶店や洋食屋に目が奪われる。

錦糸町の物件の定期清掃を済ませ、今度はバスで大島の物件へ。初めて使うバスなのでちゃんと目的地に着けるかハラハラした。何とか無事辿り着き饅頭弁当で腹を満たし20分ほど仮眠。

起きたらまた定期清掃。バイト時代はずーっとこの定期清掃をやっていた訳だが、久々に定期清掃に入って掃除の美学について改めて考えていた。

日が暮れる頃パートナーが車で到着。そこからは2人でリフォーム部屋の整備と写真撮影。シェアハウス業とはとどのつまり不動産業である。

残業になったので急いで帰宅し、風呂掃除。風呂場のタイルの一角に幼虫のような、綿で覆われた小さな物体を発見。興味をそそられ、流さずに放置。晩メシ、風呂を済ませ喪中はがきを完成させて就寝。

11/23

休日。木造アパートで冬を越すのに、今年から幼児がいるので寒さ対策が必要になり、先日ホームセンターで買っておいた断熱シートを貼る作業。寝室として利用してる8畳間の4枚並んだ窓の下半分に緩衝材のようなそのプラの断熱シートを貼る。霧吹きによる水分のみでくっつく不思議なグッズだ。

部屋の掃除機がけも済ませ、家族で花園神社の酉の市へ。歌舞伎町を通ってゴールデン街に抜け、裏通りから入る。昔、サブカル好奇心でここの酉の市で見世物小屋を見に来たことがあったがあれから何年も経った。

日中の酉の市は初めてだったが、有名なだけあってとにかく混んでいる。混雑を懸念してベビーカーではなく抱っこ紐で来たが正解だった。見まわすと子連れの家族も多い。去年ピーがミニ熊手を買って来ていたが、熊手は年々大きくしていくのだそうだ。私は熊手を買うことに馴染みがないし思い入れがないので、買うのは構わないけど、どんどん大きくなるのは困る、と思った。

結局2000円のを1つ買い求めて屋台でもつ煮と味噌おでんを食べた。私は熱燗を頼みポカポカしてきた。帰りは表の靖国通り沿いの、ここも屋台で賑わう歩道を冷やかし、ベビーカステラを買って、それを食べながら西武新宿へ。

始発で座れたのだが、日本酒が効いてすぐ寝てしまい、抱っこしていたこと子が不恰好に垂れ下がっていくので、こと子が泣き出し、隣からピーに注意され、ハッとして立ち上がった。それであやしてみたが、どうにもぐすつくので結局ママが抱っこ。

帰宅してぼんやりしてると父から電話。角上(近くにある鮮魚店)で買い物したからお前のとこで一緒にメシを食べよう、と例にないことを言う。ピーも特に異論はなかったので承諾。いつもは我々が実家に行くのだが、我家に父が来て呑むのは初めてだ。

簡単に部屋を整理して父を迎え、ワイワイと宴の準備。イカの刺身、サザエの壷焼き、ツブ貝の和え物、レバー煮、青梗菜炒め、カボチャの煮ころがし、海藻大根サラダなど賑やか。ある程度満たされたところでこと子が機嫌を損ねたのでピーが寝室に連れて行く。

その後差し向かいで父と飲んでいたが話題も尽きるし、隣の部屋からは機嫌の直らないこと子の泣き声。そろそろ風呂なのでなんとなく食卓を片づけながらオヤジに無言の圧力をかけたが、私が皿を洗ったりしながら振り返ると、父が私の部屋のレコード棚にもたれて潰れている。ビール後の日本酒で回ったらしい。

父をそのままにして風呂を沸かし、こと子の風呂を済ませた。風呂場の謎の物体は何と幼虫ではなくキノコで、はっきりとしたフォルムのキノコになってやたら丈を伸ばしていた。このキノコ事件に関してはピーも面白がって観察していた。

風呂後のこと子をピーが寝かしつけてくれる頃、私が父を起こし帰宅を促す。父は持ってきたはずの手袋がない、ない、としばらくフラつく足取りで右往左往していたが、見つからず諦めて帰っていった。

ピーは疲れたのかこと子を寝かしつけたまま隣でダウン。私はギターを取り出し少し弾き語りの練習をして寝た。

11/24

噂通り朝から雪が降っている。11月の段階で雪が降るのは54年ぶりだそうだがとにかく寒い。昨晩の残り物を食べて出勤。雪の影響で西武線20分以上の遅れで大混雑。

出社して事務処理後、門前仲町の退室整備に向かう。結構降っていたように思えたが路面に積雪はなく、スリップの心配はなさそうだった。

退室のお客さんはイスラエル人で「mor ory」という表記の名前。何と発音するのかまったく分からぬが、優しい人あたりのナイスガイに見えた。

部屋の整備を終え、昼食。曲げわっぱはその素材の特徴から、詰めたゴハンが美味しくなると言われているが、それを初めて味覚で明確に認知した。朝食べた炊きたてゴハンよりもっちりしっとりしているじゃないか。

腹が膨れて仮眠を取り、午後は大島、錦糸町、田端を巡回。田端の乾燥機に不具合の報告があったのでどれどれ試してみると、ガゴガゴガゴー、ゴゴゴーと聞いたことのない音をあげている。しかもドラムが回らない。どうしようもなさそうなので電源を抜いて業者に連絡。

帰社して事務処理とスケジュール提出。年末年始のシフト出しが悩ましい。何しろうちの会社は昨年から年中無休となったので年末年始に交代で出勤しなければならない宿命にある。隣で一緒に悩んでいた、二カ月違いの娘を持つ河野君が、うちの子ついに夜泣きが始まって、と苦い顔で報告してくれる。噂に聞く夜泣き、こと子もそのうち爆発するのだろうか。

帰宅してうどんの後こと子を風呂に入れたら、すぐに全力で泣き始めた。初めてではないし、さっさと済ませてしまおうと、泣かれるまま粛々と洗い、湯船に浸からせたが一向に泣き止まず、今までに1、2を争うボリュームで泣きじゃくるのだった。

風呂後のおっぱいでもぐずついているので、ピーを風呂に入れるために私が抱っこ。いつものことながらこの時間のぐずつきに私は無力ですぐに泣き出した。これはピーが風呂から上がるまでダメかもしれない、と半ば諦めながら私は家の中を歩き回りながら揺らし抱っこを続けた。歩いても、揺らしてもこと子は横隔膜を痙攣させながら泣くのをやめない。

5分10分と奮闘し、完全に諦めかけたその時、何のはずみでかこと子のはげしい呼吸が落ち着いてきた。これは、イケるかもしれない、と思うと同時にどんどん静かになってきた。こと子は私の方は一切向かずに一点を見つめているが、ゆっくりゆっくりと顔を私の胸に預けるようにし、ふとまた背筋で起き直りそんなことを繰り返しながら遂に顔を私の胸に埋めて寝てしまった。泣き続けられ少なからず動揺していた私に、シアワセだな、という感覚が、こと子のよく肥えた四肢の重みと共にズッシリと降りてきた。私は眠ること子を抱えながら、得意気な顔で、ピーが風呂から上がるのを待っていた。

アクセルの意気地記 第1話

ピーがこと子を産んだのは、米沢牛で有名な米沢の病院である。米沢は彼女の実家である山形県東置賜郡川西市から車で20分くらいの距離である。

彼女の実家にはご両親と妹夫妻が住んでおり、その義妹夫妻には娘が2人いる。ピーは初めての出産だったので子育て慣れしている義母と義妹に頼って里帰り出産をすることになっていた。

私は子どもが生まれてくることで興奮していたので、里帰りする、と言われて寂しく思ったが、かといって私に力になれる経験もなければ自信もないので首肯せざるを得なかった。

里帰り出産というのも珍しいものでもないらしく、実際里帰りして、実家にかなり助けられた、という体験談や後日談などを私もいくらか耳にしていたので、逆に産後生活の面倒を見てもらえることを考えると、反対意見を差し挟む余地もなさそうであったし、私も実際助かるのだ。

しかし、ちょっとした長尾家内の衝突があってピーの里帰りが2ヶ月ほど繰り上がり、里帰り期間が4月の頭から8月の中旬まで、およそ4ヶ月半にまで伸びてしまって私は少々狼狽していた。狼狽していたが、里帰りを早めたことは英断だったと思うし、今では過ぎた話しであって、こと子が生まれてからは長尾家の平和もすっかり元通りになったのではないか、と思っている。

ピーの長い里帰り期間、私は東京から妻の実家の川西まで何度も足を運んだ。根っからの貧乏性、というか貧乏のせいで、今まで遠出の時は幾度も世話になっていた深夜高速バスを、川西に行く時も初めは利用したのだが、終着の米沢に早朝に着いたり、東京に戻るために米沢を深夜に出たりするのは向こうのご両親に気を遣わせたり迷惑をかけることがハッキリしてきたので、2回目からは新幹線で往復するようになった。

ピーがこと子と東京に戻ってくるまで、片道1万円弱の新幹線での往復を5、6回は繰り返したのではないかと思うが、そんなことが可能になったのはひとえに私が正社員になってからようやくのことである。長いバイト時代にはほとんどお金が余分に残ることがなかったからだが、かといってその新幹線の切符を買うのも、正社員とはいえ世間的にはかなりの安月給なので、節制による工面の結晶には変わりがないのだ。

しかしながら新幹線での移動は私に少なからぬオトナの気分を味合わせた。深夜バスに乗り慣れてるとはいえ、新幹線の乗り心地たるや別格である。二等だろうが上等、上等。米沢まで2時間ちょっとで着いてしまうのがあっけなく、寂しいくらいであった。

新幹線の乗り心地は最高だが、何度も、それこそ通い妻ならぬ通い旦那のようにピーの実家にお邪魔し、お世話になるのはいささか気まずかった。義母も義父も私にとことん優しく、送り迎えなども、私が気を遣って遠慮しようとしても、そんな遠慮が逆に失礼になるようなところもあり、すっかりいろいろと、何から何まで尽くしてもらって私は小さくならざるを得なかった。

こと子が生まれてきたことは別途書いた通りであるが、出産後数日山形で過ごした後は、また私だけ東京に戻り、妻子が戻ってくるはずの木造アパートで寂しく独りで大人しく暮らした。子が生まれる前の1人暮らしはまだ何となく気楽なものであったが、生まれてからはこと子のことで頭がいっぱいになってしまい、2人が帰るのを首を長くして待機するしかなかった。

その間私は我がアパートの住空間を出来うる限り住みやすいようにデザインしたり細工したりはしていたのだが、どうにもこうにもこと子のことが気になるので、ピーにお願いして毎日こと子の写メを1枚ずつ送ってもらうことにした。写メがLINEに届くと私はプレゼントを開けるような気持ちで丁寧にそれを眺めては頰を緩ませた。初めてこと子が笑顔を見せるようになった時は動画が送られてきたが、私は何とも言われない愛おしい気持ちに召されて、その動画をことあるごとに見た。まるで脳に焼き付けるような勢いでアイフォンを握っていた。

そしてまた生まれてから上京してくるまでの1ヶ月半の間にも私は2度ほどあちらに通った。おかげで山形は遠くない、という感覚さえ掴み、米沢の駅前も見慣れた風景になっていった。

最初の滞在時はピーの産後入院中に帰京せねばならなかったが、その後2回目に訪れた時、当たり前だがこと子はピーの実家の一員となって皆から可愛がられていた。小1と幼稚園児の2人の姪が、抱っこしたい、と言って並んで足を前に延べて座り、両手を膝の上に差し出し、こと子を受け取るのを待つ姿はたまらなく愛おしかった。まだ首が座らない幼児の抱っこが注意を要することだけは知っているらしかった。

私はその最初の滞在時にこと子を抱っこして、散歩に行ってくると言って、何となく家の周囲の、川沿いの小道やらを検討なしに歩き出した。こと子はそのうちに眠ってしまい、少し重くなったような気がしたが、こと子と今私は2人きりになったのだ、という感覚が私の身体を駆け巡り抱いたことのない心のゾワゾワを感じた。この子を守ってやらなきゃならない、という大いなる使命が漲るような感じであった。

私はこのままこと子を持って帰りたい、このまま歩き回っていようか、などと非現実的なことを考えながらも、心配されてもつまらぬので、特に心の高揚を悟られないように何食わぬ顔で戻った。

それから1ヶ月ほど過ぎてピーとこと子の帰京時期を云々する感じになったが、ピーの実家はお盆に親族が集まるので、お披露目の意味も込めて、それまでは居残る方がいいだろう、となった。私はそれは仕方がない、と思っていたが、早くピーとこと子と3人の暮らしを味わいたかった。

そしてお盆明けの何日に戻ってくるか決める段になると、今度は8月いっぱいはこっちに居ればいいじゃない、と義母が言い出したという。私の休みのスケジュールと義父母の休みのスケジュールが合わせづらかったこともあるが、孫のこと子がすっかり可愛くなってしまっていたのかもしれない。

私はもう待ちきれない、という気持ちだったので、泣き落としじゃないけれど、「玄ちゃん(私のことだが)が可哀想だから」とピーから義母に再交渉してもらうよう懇願した。情に訴えれば何とかなるのではないかと思っていたし、ピー本人も東京の友人に早く会いたいとかいうことで早めに帰りたい気持ちは募っていたのだ。

義母への交渉は、とはいえ難なく成立し、結局8/16に私と父が車で川西までピーとこと子を迎えに行き、翌8/17に帰京という段取りになった。しかし、日程が決まった後で、そういえば8/17は平日だから義父母も仕事が始まっているはず、義父母不在のところから、今まで散々世話になった妻と娘を連れて帰るのはあまりにも心象が悪いだろう、と心配になってきた。かといって8月中に休みを振り返られそうな余裕もないし、と頭を悩ませてそのことをピーに打ち明けたら、なんのことはない、義母はわざわざ仕事を休みにしてくれたようだった。

先にサラッと書いたがピーが長期にわたり里帰りしたのには私と父の喧嘩が起因していたので、こと子を引き取りに行く際の父はかなり畏まった雰囲気だった。そして私がネットで調べた限りでは、里帰りでお世話になった妻の実家には金銭的な謝礼を包むのが習わし、とのことだったので、私が5万、そして父が、ワタシも出す、と強く申し出たので父から5万、それを重ねて包んで義母に受け取ってもらった。

チャイルドシートは義妹ファミリーから譲ってもらい、我々は高速を飛ばして帰京した。田無に戻ってくる頃には夕飯時を逸していたので、外食しよう、赤ちゃんいるからファミレスがいいかもね、とすき焼きのどん亭に入った。私もピーも疲れていたが、ファミレスとはいえ普段気軽に手を出せないすき焼きということでテンションが高まった。しかし食べ始めて間もなくこと子が泣き出し、ピーも私も抱いてあやしたが泣き止まない。そのうち激しく泣き出したので私とピーで代わる代わる外に連れ出し、食べかけのすき焼きを大雑把に胃に詰め込んで、半ばは食べ残してどん亭を後にした。

父は見慣れない孫のむずかりにやや困惑し、ピーは、コッピも疲れてたんだよね、それなのに賑やかなとこ来てごめんねぇ、と言って一緒に泣いている。生まれてから今日まで、こんなに激しく泣いたことはなかったらしかった。私も泣き止ますことができるわけでもなく、子守りの洗礼を一気に浴びるような思いだった。

翌朝眼が覚めると、和室に敷かれた私とピーの布団の間で人形が眠っていた。もちろん人形ではなくまぎれもない私の娘なのだが、人間未満というか、非常に可愛いのだが、まだ不慣れな私には何か不思議な生物が横たわっている、というような感覚で、しかしこれからの長い道のりを想像してワクワクせずにはいられなかった。

バンド漫記 第14話 パンク・ハードコア、インディーズ!

高校生になってから私は、ファッションオタクだった姉の影響でファッション誌なるモノを買うようになり、オシャレなヤツになるんだ、と人一倍服装に気を使うようになっていた。オシャレな格好をしてこだわりの音楽をチョイスする。これは当時のティーンの間ではありふれた発想である。

私は高校生の間はずっと地元のマクドナルドでバイトして小遣いを貯めていたが、その用途はCD購入とライブ、そして洋服を買うことでほとんどが消えていた。

オシャレ願望は相棒の松ちゃんも同時に抱えていたのでしょっちゅう連れ立って原宿や代官山へ洋服を買いに行った。洋服屋が開店する11時頃に集合してとにかくあっちの店こっちの店と歩き回り、店が閉店する20時まで飽きもせず行ったり来たりするのだ。

ロックスターはオシャレをするものだと確信していたし、パンクやモッズ、グランジなど、音楽から生まれるファッションがあることを知ったのもファッション熱に拍車をかけた。

私は生まれてこのかたずっと貧乏性という病に罹患しているのだが、洋服も新品よりも古着の方が質感、コスパの面で私を魅了したということもあり、私は安めの古着で味のあるものを探すのに精力を注いでいた。

音源を掘るときと同じく、こんな服見つけちゃいました、というのを松ちゃんなり連れの友人なりに見せては得意になった。私の通ったガリ勉高は制服だったのでオシャレを自慢できるのは学校以外の時間に限られていたが、当時撮った私服時の写真を見てみると、やたら背伸びしてオシャレしようと努めていた自分の姿に恥じらいを禁じえない。

ちなみにこの頃、私は2回ほど当時全盛期を迎えていたチーマーなる不良集団に2回ほどカツアゲにあっている。場所は今や平和さながらの原宿キャットストリートであり、信じられないかもしれないが当時は人気も店も少なく、多くの善良なる高校生がこの近辺の路地裏で小遣いを搾取されたことであろう。

さて、当時は洋服代と同程度の出費をCD購入に費やしていたわけだが、古着と同様、中古CDの存在を知った私は、新品1枚の金額で中古なら2枚、3枚、場合によっては4枚、5枚もCDが買えるのか、という事実に気がつき興奮し、CD屋通いにも次第に熱が入っていく。

中でもディスクユニオンの存在は相当デカかった。私の行動範囲では吉祥寺店が通いやすく、そこが正に聖地となり、足繁く通っては中古ロックコーナーで目を皿のようにして時間を費やした。CDの背表紙の字面をずっと眺めていると、子供の頃から胃腸の弱かった私はしばしば腹痛に襲われ、決まって向かいの伊勢丹の2階のトイレに駆け込み、いつかそのトイレも聖地化した。

私は基本的に、当時ロックのバイブルとして毎号購入し読み耽っていたロッキンオンで暗記したアーティスト名などを頼りに、ロックコーナーを全般にディグっていた。しかしレスザンTVと出会ってからはレーベルやインディーズという存在を意識するようになり買い物のガイダンスが増えた。しかもレスザンのライブに通ったりしているうちに、レスザンTVがお手本にしているアメリカのレーベルでSSTやdischordというパンク・ハードコア系のレーベルがあるということを知り、それからはその両レーベルの作品を見つけると、まるで宝物でも発見したかのような気持ちで飛びついては購入し、帰宅してすぐに聴いてピンとこなくても、いつかこのよさが分かる日が来るだろう、と考え、そのレーベルの作品をやたら神聖化するまでになっていった。

SSTもdischordもアメリカではいわゆるインディーレーベルで、そのうちにKレーベルだとかSUBPOPだとかいくつもの米インディーレーベルを知るようになり、レーベル名だけでCDを漁る"レーベル買い"なるテクニックをいつの間にか身につけ、ディスクユニオンで買わなければ気が済まないCD量も次第に増えていく一方であった。

一般の音楽好きが知らない世界に足を踏み込んでいる興奮が私を捉え、聖地ディスクユニオンの棚を徘徊するのが大学生の頃まで私の快楽の1つになっていった。もちろん他のCDショップに行くこともあったが、ディスクユニオンでは私が夢中になっていた日本のインディーズシーンの情報が豊富に仕入れられる利点もあり、他とは別格であったし、何より中古CDの価格が安かったのだ。

前回、私が夢中になったサブカル誌に関して語ったが、その中の「インディーズマガジン」は私が高校3年生になるかならぬかくらいの時期に創刊され、それを手にした時の衝撃も未だに忘れがたい。インディーズという世界をfruityやレスザンTVを通じて体験し、その世界についてもっともっと知りたい、と思っていた時期だったからなおのことであった。

それは丁度ハイスタンダードがインディーズでブイブイいわせていた時期で、第1号にはそんなハイスタの他にもGUITAR WOLF、eastern youth、ブッチャーズ、ロリータ18号、PEALOUTなどその後有名になった錚々たるバンドのインタビューが掲載されるなど、今考えてもかなり豪華な誌面になっていた。

更にインディーズマガジンには毎号、掲載アーティストの楽曲が一曲ずつ収録された付録CDがついていた。この付録CDスタイルは当時まだ例が少なく画期的で、インディーズバンドを沢山知りたいと思っていた私は本当にワクワクして毎号楽しみにしていた。そしてその付録CDで知り得たインディーズバンドの音達は、実際に私がそれまで好きだったユニコーン、スパゴー、ブルーハーツなど数々のメジャーバンドが醸し出しているロックとは全然違う雰囲気を感じた。それははちゃめちゃさだったり、繊細さだったり、バカらしさだったり、ドッキリするような詞世界だったり、今まで聞いて知ってきたロックのセオリーを覆すほどの強いインパクトをいろんなインディーズバンドが放っていた。(それでも当時はまだまだ英語で歌うバンドがインディーズにはメロコア以外でも何故か多く、そこだけはずっと私には腑に落ちなかったが…)

また、インディーズマガジンには日本の過去のインディーズシーンのことも特集されていたし、インディーズでCDを作る方法や、作ったCDを流通させる方法、インディーズでライブを企画する方法など、私が知りたかったことがぎっしり解説されていた。私はインディーズのライブに通い、インディーズマガジンを読んでいるうちに、私が当面進むべき道はこのインディーズというヤツだ、という思い込みに囚われていった。

今ではインディーズというと大して新鮮味のないカテゴリーの言葉となって久しいが、当時(95年)は割りとマニアックな音楽カテゴリーの言葉として、まだそこまで浸透していなかった。とにかく人と違うことがしたい、と思っていた私にはピッタリだったし、何よりやりたいことを躊躇なく表現しているインディーズバンド達の虜になってしまっていたのだ。

丁度同じくらいの時期に知り得た先述のアメリカ・インディーズの音と日本のインディーズの音とを聴き漁り、私は本当にインディーズが好きになってきて堪らなくなってしまった。そしてそれらインディーズバンドの個性的な音が生まれてくるのは、メジャーレコード会社による、バンドの音や見せ方への介入がまったくないことが大きな要因であることがはっきりしてきた。

私はロックシーンにメジャーとインディーズという構図あることを学び、そして個性と自由度の面ではインディーズが圧倒的に面白いものなんだ、と気づき始めた。しかも普段通っているライブハウスのシーンとインディーズシーンは直結していて、そこに代え難いリアリティーを見出し、どんどんどんどんインディーズにハマっていった。私の夢はロックスターになりロックでメシを食うことであり、その無謀な目標は中学生の頃から変わっていなかったが、ジュンスカを目指していた私は過去のものとなり、パンク・ハードコア、インディーズという世界が目の前に広がっていくのを感じた。私はここから出発し、いずれメジャーから声をかけられるような想像を逞しくし、大学に入ったらいよいよオリジナルバンドを始動させるのだ、と根拠のない自信とともに意気揚々と構えていた。


第1話から読む

コトコト1週間 2016年10月

10/18

8時半起床。休日。

夕べ、本郷さんがいらっしゃったのでいろいろ作った惣菜の残りで朝ご飯。食後は、洗濯、掃除、部屋の片付け。いろんな友人知人からいただいた赤ちゃん服を整理して衣装ケースに詰め込む。自分たちであまり買わなくても済むくらいの量でパンパンになってる。

ピーが赤ちゃん服を整理してる間こと子をゆっくりあやす。数日前から、パパ見知りというやつなのか、私が抱っこすると全力で泣き出す傾向があり、私は悲嘆に暮れていたのだが、今日まで4日ほど休みが重なって家でこと子と触れ合う時間が増えたせいか、また昨日あたりから徐々に受け入れてもらえるようになったようで安堵。

昼過ぎて片付けを中断し、友人のハルちゃんが1日店長で食事を出してる阿佐ヶ谷のお店に家族でお出かけ。ベビーカーで電車に乗るのはまだ2回目。

ハルちゃんのゴハンは動物性の食物を使わない優しさゴハンプレート2種、という感じだったが、細かい工夫が随所に散りばめられてて美味しかった。途中でsoupのミヤナカ君も現れ、楽しい再会。こと子を抱っこしてもらった。

帰りはピーが寄りたかったという子供服屋さんで買い物をし、節約のために鷺宮まで30分くらい歩いた。すっかり日も暮れて家に帰ると19時半。

ピーが授乳やらなんやらしてる間に晩ご飯を作る。豚と長ネギの甘味噌炒め、キャベツとヒジキの梅和え、ルッコラの胡麻和え。食べ終わってこと子がぐずるので風呂に入れたが、湯船に浸けると嫌がりギャン泣きされる。風呂後の授乳の後にもピーを助けようとこと子を抱っこするもまたギャン泣き。もう一度おっぱいあげたら寝た。我々も就寝。

10/19

晴れ。卵納豆ご飯で出勤。

朝一錦糸町の退室で物件付近を歩いているところに門仲に住む友人と遭遇。もうすぐ2歳になるという娘がいて可愛らしく、癒された。

錦糸町を終え大島の物件へ。昼食にピーのワッパ飯を食べてる最中、納豆卵焼きを掴む瞬間に箸が折れた。縁起が悪いこともなかろうが卵焼きで箸が折れるとは。

ミナカタ氏と合流し、玄関の鍵番号の交換。最近家賃未納で夜逃げしたお客さんが勝手に入れないように、この対策はマニュアルになっている。そこへやってきたスウェーデンのお客さんとしばし立ち話。スウェーデンでは病院も学校も無料だと言い、日本の大学は高すぎて諦めたそうだ。日本の大学の学費の高さは世界有数だと聞いたことがある。

大島から門仲に移動し水道クレーム、ドアクレーム対応。最後は田端で民泊の準備。鏡や時計、コルクボードなど設置し帰社。

退勤後は急いで帰宅しこと子のお風呂。今日も暖かかったし、昨日泣かれたしで湯温をぬるめにしてみたら泣かずに大人しく浸かってくれた。

風呂後はオイルサーディンとナスのカレーうどん。なかなか辛くて汗にじませ。食後はTwitterで私好みの曲を呟いてくれるミトコンさんオススメの曲達を聞いて心踊らせる。ピーとこと子が寝たので自分も就寝。

10/20

晴れ。6時半に起きてこと子としばし戯れ、後、ピーと落花生剥き。今日は落花生ゴハンを炊いてくれるらしい。その間こと子を先日購入したバンボ(赤ちゃん用椅子)に座らせていると、ニコニコしていたと思ったらミルクを真っ直ぐ、相当な量で前方に吐き出して大騒ぎ。出勤。

午前中は矢来町、門前仲町。ホームセンターでブラブラ買い物。防火パネルのような資材を探したが見つからない。防火パネルは諦めて店を出るとピーから着信。私が渡すべきお金を渡してなかったので、残金が300円しかないと。こんな時便利なネットバンキングで送金。

昼メシ。落花生ゴハンが美味い。メシの途中業者に呼び出され止水栓交換のための立会い。4.5万くらいかかると言われる。戻って休憩。ちょっと前まで寒かったのに残暑復活で汗ばんでいる。

午後は大島、錦糸町、蔵前、秋葉原。お腹の調子が悪い。帰社する際に銀行に用事がありたまたま停まった処に鯛焼きの名店、神田達磨発見。前から気になってた店だったので思わず2つ購入し、ピーにLINE。

帰社後は面倒くさい事務処理に苦戦して20時前に退勤。田無でクイックバーバーしたかったが間に合わず、帰宅して風呂入れ。昨日に続き湯温を温めに調整し、うんうん、とコミュニケーション取りながら。今日も静かに入ってくれたな、そろそろあがろうかな、というタイミングで眉間に皺が寄った。次の瞬間ギャーっと大号泣。

風呂後はおっぱいで寝てくれたが、このペースだと朝の出勤前と風呂の時間しかこと子と触れ合えないのか、ということに気づく。

こと子が静かに寝た後、ピーとピーナツご飯を食べて、またぞろ南アのハウスをyoutubeで集中して聞き、ピーの寝るタイミングに合わせて就寝。

10/21

昨日ほどではないが暖かい。こと子は寝ている。センブリを煮出し、納豆卵ゴハン食べて出勤。

午前中はテレビ台の組み立て、インターホンの設置、モップ掛けや鏡の設置など、新規オープン物件の田端でドタバタ。
一緒に作業していたマツオさんに子育てのことを聞かれたので、嬉々として答える。基本的に子育て話しも我が子自慢も、ウザがられそうな気がして求められるまでしないことにしているからだ。マツオさんはコミュニケーションの達人で、私の話しを丁寧に、かつ面白そうに聞いてくれる。人格者だなぁ。

マツオさんと別れて昼休憩。ワッパを食いながらSNS。沖縄県民を土人呼ばわりした機動隊やそれをほぼ容認した大阪府知事、他人事のようにトボける沖縄担当相に怒り心頭に発する。そして鳥取で震度6の地震。全原発を早く止めてほしい。

午後は錦糸町でタオルハンガーの設置に電球交換、鶯谷で備品搬入にゴミ回収をして帰社。リフォームの申請書を四苦八苦して仕上げて退勤。

帰宅し、すぐにこと子とお風呂。しかし今日は洗い始めから泣き出し、無理矢理湯船につけるまでずっと泣かれる。難しい。

夕飯はきつねうどん。田無駅前のお気に入りの豆腐屋の油揚げだ。食後皿洗いして南アのハウスを聴いて寝る。

10/22

遅番なので遅く起きる。ピーが弁当の準備をしている8時半。朝めしは昨晩のうどんの残り、サツマイモと梨のクリチ和え。出勤前に時間があったのでハマってる南アハウスのお気に入りの曲を、ピーに2曲聞いてもらうと、ごめん、両方同じに聞こえる、と。なるほどそうかも。

11時に出社し千駄ヶ谷でハイエースをピックアップし、吉祥寺の閉鎖物件へ。コダマくん、コウノくんと夜までひたすら閉鎖作業。途中近所の、鯛焼きを売ってる木材屋に行き、まな板と鯛焼きを買う。鯛焼きはピーへのお土産である。

閉鎖作業はハードでなかなか終わらず結局19時半頃まで作業。そこからなんやかんやして帰社したら21時。残務をこなし、コウノくんと初めてのオフィス締めと施錠にトライするも、鯛焼きを忘れたりいろいろトラブって時間を浪費。田無に戻ると23時を回った。

遅くなったのでピーにこと子の風呂を頼んだが、1人で風呂入れするのはなかなかハードなので申し訳ない。帰宅して私は夕飯をピーは鯛焼きを食べて眠る。

10/23

休日。7時半起床。快晴につき掛け布団を干し洗濯。パンが無性に食べたくなり、しかし行きつけのガタンゴトンは休みなのでググッて朝からオープンしてる近所のパン屋を探し、東伏見のパン屋まで原付で。

少し体育会系の気合いを感じるそのパン屋は朝から大混雑。数点買って帰宅して朝ごはん。塩バターあんパン、フィッシュサンド、ピザなど味は悪くなかった。

今日は昼から友人が来宅予定で持ち寄り饗宴なので仕込み。ピーはラムのカレー、私は秋刀魚のスパイス焼きと春菊の豆板醤きのこサラダ。こと子が泣けばその都度中断でなかなかスムーズに進まぬが、最近導入されたおんぶ紐とバンボが幾らか負担を軽減してくれている。

13時前後にアカネちゃん、ハルちゃん、タケマルくんがやってくる。みんな心のこもったお祝いの品を提げてきてくれて感無量である。持ち寄りのオカズに留まらずハルちゃんは油持参でその場で里芋のコロッケを揚げてくれた。

みんなこと子を愛でてくれて、こと子はこと子で来客時はあまりぐずつかず、笑顔で愛嬌を振りまいている。みな愛する我が家の風情を褒めてくれるので、いつも通り実家同居大失敗騒動などを話す。今では笑い話だが、我々は1度このアパートを引き払い、実家同居をしくじり、数日後にまたこの部屋を借り直して戻ってきたのである。珍騒動には違いないがそれくらいこの部屋を気に入っていた。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、3人が帰るのを見送りがてらこと子を連れて駅まで。みんなを見送って軽く買い物をし、1000円カットで、ピーにリクエストされた通りコボちゃんヘアーにしてもらう。腰が痛い。

帰宅して宴の残り物などで晩を済ませ、こと子を風呂に入れ、寝かしつけた後youtube。

10/24

今日も晴れ、今日も休み。しかし、朝から腰が痛んでこと子を抱き上げるのにも難儀する。

朝めしにTwitterで覚えた素麺チヂミを作ってみたところ、これがピーに大好評。ネギ、ゴマ、かつお節、豆板醤にすだちなど薬味が大活躍。

ピーが家の片づけをしてる間にへたったズボンの染色。染料はホームセンターで入手済みの化学染料。熱湯を沸かして染料を溶かし、飛沫被害のないように庭で撹拌。よくすすいで陰干し。綺麗な茶色に染まった。

大好評だし茹で麺も余ってたので昼も素麺チヂミ。夜のご馳走に備えて控えめに昼食。

今夜は、山口から叔父が上京してくるのに合わせてこと子のお食い初めを執り行う予定で、その為の赤飯を炊き、煮しめを作る。こと子の衣装やらバンボやら荷物が多いのでタクシーを捕まえて実家に。

久しぶりの叔父と挨拶し、儀式の準備。鯛と吸い物は父が用意してくれた。19時過ぎて姉がやってきたタイミングで神前の和室に集まり、ネットで検索したやり方をなぞってお食い初めを行なった。

こと子にはビーキッズで買った古着の着物をピーが着せてあげた。父が箸を持ちエアー食事の儀式。歯固めにタコと梅干し。こと子は多分よく分かってないから、これは大人が満足する為の行事なのだろう。

お食い初めを済ませて晩餐。父が作ったいくら入りちらし寿司と刺身が豪華である。父が実家の神社を継がずに末弟である叔父に神主を継いでもらった時の裏話など聞く。

こと子の風呂事情もあり21時においとま。姉もそれを潮に帰り仕度。酒がまわりテンションが上がってきている父と叔父を残しタクシーで帰宅。タクシーを使うなど、大人になったものだ、と思う。

私もビールで大分いい感じになっていて、風呂の中で寝てしまい、とおちゃん死んでるかと思ったよ、ちょっと、というピーの叱咤で目覚め、こと子を受け取り沐浴。湯船につけてる間、友人のアドバイスを思い出し、あんまりこと子を凝視しないで他所に視線を向けたり目を瞑ったりしながらあやしてみたところ、こと子の顔に楽しい時の表情が浮かび、何やらいろいろと発声を始めた。今までにない手応えだったので、よっしゃと思いながら余所見8割こと見2割を続けた。が、たまたま今日は機嫌がいいだけなのかもしれない。

風呂後におっぱいをあげてるピーの横に得意げに寝そべり、2人を温かい目で見守っていると「酒臭い!」と他所を向かれてしまった。
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