代行運転

夕方父から電話が入る。私は外回りの仕事なのでプライベートの電話がかかってきても、比較的対応することができる。父の電話の用件は、「要らないと言ったけど、やはり車の代行を頼む」であった。

数週間前から車の代行を私に頼みたい旨の連絡があり、私は当日仕事だから遅くなるので断っていた。その代わりに姉が代行を引き受けたらしく、話はまとまったものと思われたが、姉が、「やっぱりできない」ことになったらしく、当日になって父はまた私に、遅くなっても構わないので、と電話してきたのだった。

父が代行運転を頼む時は、事情が毎度ほぼ同じで、父が顧問を務めるバラライカ楽団のコンサート本番の日である。コンサートが終われば楽しい打ち上げが待っているわけだが、楽団の機材庫と化した私の実家、つまり父の自宅から、毎度父が運転して楽団の機材を会場に運び込むことになっており、となると帰り父は酒を飲めないことになる。

飲兵衛の父にとって、打ち上げで酒が飲めないのは、コンサートに繰り出すモチベーションも楽しみも半減してしまうようなので、その事情を知っていて、尚且つたまに経済的支援、といってもいい歳して定期的な小遣いを貰ってるわけではないが、こと子のことやら何かと支援を受けている立場の私は、そんな父のお願いは断りづらい。

当日になって、やはり代行を頼む、とSOSを投げてきた父に、私は不承不承、遅くなってもいいなら、しょうがない、やりますよ、と答えて電話を切った。不承不承答えるのは父に恩を着せるためなのか、私がただ単に面倒くさいからなのか、自分でもよく分からないが、そのどちらもあるような気がした。

私が社用のハイエースで現場から帰社し、残務処理をしている間も、父から、今コンサートが終わって、とか、東新宿駅のイタ飯屋に入った、とか細かく電話が入るので閉口して適当に受け応えをしていた。

コンサートの会場は新宿文化センターで、私は以前にも1度代行で現地に赴いていたので何となく場所の検討はついていたのだが、それが東新宿駅から目と鼻であることには今回の件で初めて気づいた。東新宿駅なら職場から至近にある新宿西口駅から1駅分である。不承不承引き受けたものの、大した労ではないな、と考えながら大江戸線に乗ろうとしたところでまた父から着信があったが、どうせ、今どこだ、とか、まだか、などと私を急かせる連絡に違いないと推察し、わざわざ出るのをよした。もうあと10分もしないうちに着くのだから。

東新宿の駅を出て、言われた通りA3出口からエスカレーターで地上に上がってゆくと、上がったすぐ右手にそれらしい洋食屋があった。これかな、とガラス張りの店内を観察すると、それらしい団体は見当たらない。いつもなら20名前後の楽団員が集合して、やんや、と楽しそうに酒を飲んでいることになっていて、そんな集団はいないし、5、6人の団体がいたが違うよな、とその席から焦点を外そうとした時、その団体の、こちらから一等手前に座っている人物だけがこうべを垂れて眠っているらしいのに気づき、もしや、としゃがんでもう1度よく見ると、おお、オヤジじゃないか、もう潰れてるのかぁ…。

私は颯爽とイタ飯屋に入っていき、店の奥のその団体の席にグングンと近づいていった。「お待たせしましたっ!」と声をかけると、眠ったまま気づかない父以外のみんなが一斉にこちらを振り向いて、ああ、ハルさん、来た来た、と口々に騒いだ。打ち上げ途中で出来上がって就寝してしまった父を持て余していたのか、迎えにきた私は必要以上に歓迎されてしまった。

父は私が着いたことも、まわりのメンバーが私の到着を賑やかに歓迎したことにも気づかずこうべを垂れたままだ。何だかすいませんね、と私が代行運転のためにやってきたことを労って皆さんが口々に礼を言うので、私は、今日は何時から、と逆に聞き返すと、17時からです、とAさんが教えてくれた。なるほど、飲み始めてもう2時間半が経過している。帰った人もいるのか、始めはもっと参加者がいたのかもしれない。それにしても最近の父は飲み始めてから潰れるまでが早いのだ。人と飲む場合はより酒が進むのか、その加速度が増す。

私の挨拶が済むとメンバーが口々に、長尾さん、長尾さん、息子さんがいらっしゃいましたよ、と父に呼びかけてくれ、私は父の身体を叩く。すると目覚めた父が、ここはどこだ、と言わんばかりに焦点定まらぬ目つきで周りを見回す。そして私の顔を認識してきまり悪そうに微笑み、来たか、と感心している。私もきまりが悪いので父のバッグを持ち、行くよ、と声をかけるが、反応して立ち上がった父の足もとが怪しい。

テーブルを囲んでいたのは父を含めた男性3名と女性3名であったが、顔見知りの女性2人がすかさず立ち上がり、父を両脇から支えてくれる。本来なら私が率先して介抱するべきである気がするが、2人の優しさに甘えて私は歩き出す。

店を出て車が置いてある新宿文化センターの駐車場に向かう。私が歩く後ろを2人の女性に声をかけられガイドされながら父が千鳥足でついてくる。見事な千鳥足である。踏み出す足が交互に右に行ったり左に行ったりして、楽しそうである。面倒見る側は大変だが、酒に弱く、この程度までに酔えない私からすると何だか羨ましいようでもある。

Aさんが私を気づかってか、
「長尾さん、こんなんで同居は無理よ、絶対無理よぉ」
と私にも父にも聞こえるように言っている。これは私が娘を持つにあたり軽率に計画した同居プランがあっさり破綻した経緯を、Aさんが何かの拍子で知ったらしく、というよりバラライカ楽団の荷物を実家に置いている関係からか楽団メンバーは長尾家の事情をいろいろ知っているようで、その同居破綻の悲劇を少し軽妙な口吻のジョークとして言ってくれているのだろう。私は嬉しくなって、そうですかね、やっぱり無理ですよね〜、とAさんに相槌すると、
「無理よ。長尾さん、他人だからいいけど、家族だったら大変だろうなあ、と思うもん。推測だけどねぇ」
私は感心して聞いていた。AさんもBさんも、そんなことを言い合って笑いながら父を支えて歩いている。父は聞こえてるのか聞こえてないのか分からないが、半分寝たままフラフラしてて、実に愉快そうである。
「この先のエレベーターを上がれば新宿文化センターです。」
と、2人に教えてもらい、私は、ここまでで大丈夫です、と礼を告げた。半分夢見心地の父は2人の女性に挨拶しつつ抱擁、というか別れのハグをしている。私は父のこういう振る舞いはあまり目にしないが、酔った末にこうなることは想像に難しくない。父は愛の人である。Aさんが「長尾さんから愛を貰いましたので大丈夫ですから〜」と笑いながら上手に対応してくれている。優しい人達だ、と私はまた感心しながら自分も頭を下げて別れ、ベロベロの父を促してまた歩き始める。

新宿文化センターの駐車場入口に警備員がいて、千鳥足の父が進行方向に躊躇した私を追い抜いてその警備員に向かって右手を右のこめかみに掲げ、ご苦労様と言わんばかりに一瞬立ち止まって敬礼。そのまま千鳥足で駐車場へと通じる坂を下りていくのを、警備員が呼び止める。大丈夫ですか、と大きな声を出すので、代行で運転しますから、と後から警備員の脇を通る私が言うと、警備員も、ああ、そうでしたか、とまたオーバーに笑って安堵したようだった。

車に乗り助手席ですぐまた眠りについた父か、新宿を青梅街道から中野に抜ける辺りで急に目を覚まし、
「おい、ここはどこだ?」
と乱暴に聞くので、
「中野坂上!」
と私も乱暴に答えた。
「お前の会社はこの辺か?」
とこれも今日3回目くらいの質問なので
「違う、新宿西口!」
とまた乱暴に答えた。
南阿佐ヶ谷を通過するあたりと家に到着する寸前の中学校の前の路で、突然隣で寝てたはずの父が私の肩に手を伸ばしてきたので気味が悪くて条件的に振りほどいた。さっき女性とハグしたノリで変な夢でも見てるのかもしれない。

マンションに到着し、私のお役も御免になるかと思いきや、父が、楽器だけは下ろしとかないと、と呟き、千鳥足で荷台に向かう。荷台にはバスバラライカ、コントラバスバラライカ、バスドラムなどそれなりにデカい荷が積んであり、流石に私も見ていられず、デカいバラライカ2つを率先して運び、父はその千鳥足でバスドラムとボストンバッグかなんかを運んでいた。

車の鍵を戻して父に、じゃあ、と言って別れるともう21時近くになっていて、しかし、この実家から私のアパートまでの足はなく、30分弱くらいは歩かねばならない。私は早く帰宅してピーと晩御飯を食べてこと子を風呂に入れなければならないのだ。私はさっき車で来たのと反対方向に、母校である中学校沿いの薄暗い道を歩き出した。
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アクセルの意気地記 第3話

生まれてからしばらくの間、赤ちゃんは赤ちゃん用のバスタブなんかにお湯を張って沐浴をさせることになっている。沐浴なんて言葉は、20代後半、インドに自分探しの旅に行った時、ガンジス河岸でぬめった地面に足を取られ、濁った水の中にざんぶと落っこちて以来聞かなかったが、赤ちゃんの身体を洗い清めてやる時にも沐浴という言葉を使うらしい。赤ちゃん用のバスタブにお湯を溜めて、赤ちゃんの首から上が水に浸からないように片手で支えながら、もう片方の手で石鹸つけたり湯をかけてあげたりするのだが、これがなかなか難しい。

幸い、こと子はピーの里帰りで産まれたこともあり、生まれて1ヶ月半ほどは山形の彼女の実家にいたので、実はこの沐浴に関しては私は山形に行った時に1、2回やったのみである。こと子が東京に帰って来てからはもう大人と一緒に浴槽に入れてよい、ということになっていたからだ。

赤ちゃんのお風呂は旦那さんが入れるもの、とそんなルールがどうやってできたのか知らないが、昨今の子育て慣習ではそうなっているらしい。私も仕事から帰ってきてからの数時間、または休みの日しかこと子と一緒にいられない──そんな当たり前のことに今さら気づいた──ので快く風呂入れの任務を担当することになった。引き受けたはいいものの始めの頃はしょっちゅう泣かれて大変だった。抱え方が悪いからか、私が緊張してるからか、または私の洗い方が乱暴だからか、お湯が熱すぎるか、ヌルすぎるか。試行錯誤を繰り返しながらも段々慣れてきて、こと子も風呂に入れられることに慣れてきたのか大泣きの回数は減ったけど未だに頭を洗う時だけは泣かれる。

頭を最後に洗い流す時に泣かれるが、湯船に浸かると大抵、う〜、とか、あ〜とか、何か満足気な嘆息を漏らして落ち着く。これは大人と同じである。それからこと子が溺れないように私はこと子の両脇を抱えながら話しかけたり、話しかけなかったりし、その間こと子は風呂温度調整の為に購入した細長いプラ製の湯温計を握り、それを弄ぶか、それを片方の手で握りながら、もう片方の手で栓の鎖に手を伸ばすので、鎖にこと子を近づけて握らせてやる。大体そういうモノを握らせていれば大人しくしていてくれる。

赤ちゃんはのぼせやすいというので、数分してこと子の身体に赤みが浮かんできたら抱きあげて母ちゃんを呼ぶ。タオルを抱えたピーにこと子を渡すとその時は何故か毎回、ご苦労であった、と言わんばかりに快心の笑みを私に向ける。そしてそのまま温度計を握っているのでそれを奪い返したり、そのままにしたりする。先日、その温度計がこと子の手から滑り落ちて私の足の甲に落下して思わず声をあげた。温度計は壊れなかったが足の甲に青アザができた。

大晦日でこと子は6ヶ月になった。腰も安定してきて抱っこするのが楽になった。元旦には私が毎年年始に初日出を拝みに訪れる御岳山の御嶽神社に、こと子を連れて行って初詣をした。昨年は身重のピーと共に訪れているのでこと子はその時はお腹の中にいたことになる。

御岳山山頂で初日出を拝むには、夜中から動き出さないといけない。未明の山頂の外気は低すぎるので、今年はこと子のことも、授乳させるピーのことも心配で、初日の出は諦めて1日の昼に参拝することにした。山頂の御嶽神社には、ケーブルカーの降り口から30分弱だが舗装道を歩いて上がって行かねばならない。張り切った私が抱っこ紐でこと子を抱えて上がった。山上の澄んだ空気を存分に味合わせてやろうと思ってたがこと子はほとんど寝ていた。

あくる日、ピーがこと子を連れて帰省した。私は仕事の都合で行かれなかったのだが、その約1週間ほどの帰省から帰ってきてこと子は俄かに人間味を帯びてきた。ような気がした。発声のバリエーションが増えて言葉にならないながらもよく喋るようになり、ずり這いで動き回る。そして何より嬉しいのが、パパ見知りしたあの日はどこへやら、私の存在を明確に認識し出して笑みを浮かべるようになったことだ。少し離れた位置からでも私なりピーなりを見つけると、豪快に笑顔を見せるようになったし、ずり這いで我々のところに一直線に向かってきたりする。こちらの問いかけに何となく反応する。いつ話し出したり、歩き出したりするのか分からないが、そうなったらどれだけ楽しいのだろうと、こと子の微妙な進化を目の当たりにしてワクワクしながら、同時にもう少しゆっくりでいいぞ、と時の経過の早さにビビってもいる。

前回、娘は恋人、という戯言を述べたが、そのバカらしい仮定は日々強まって否定する方が難しくなってきた。だから肯定するしかない。そして親バカにはなりたくない、とも思っていたが、それも否定する方が虚しい気もしてきたので親バカで上等ということにする。娘が可愛いか、と尋ねられようもんなら、可愛い、カワイイ、かわゆい、キャワイイ、何でもいいけど、100回くらい繰り返し言えそうなくらい可愛い。これは動物的本能なんだから仕方ないではないか。でもこの親愛なる感情ばかりは子供ができる前には想像しきれなかった。

それだけではなくて、こと子が生まれて日々接してる内に、元々持ってた子供アレルギーみたいなものがなくなってきた。歪な青年時代を送った私にとって、長らくの間、子供または幼児とコミュニケーションを取ることは何かしらのハードルがあった。バカにされたらどうしようとか、どんな風に話しかけたらいいんだろう、とか、余計なことばかり考えて頭でっかちになって自分の殻を破れない。しかし、そんな苦手意識もこと子の世話をしてる内にどこかへ行ってしまって、前まで何故あんなに悩んでいたのか分からない。でちゅまちゅ的な発話でさえ今なら造作もない。

他人の子の可愛さが分からない、という類いのことを言い出すオトコは結構多くて、自分も多分に漏れずそんな感じになるのかな、と思っていたが、これもこと子の世話をしているウチに赤ちゃんとか子供の、その存在自体の可愛らしさというものに気づいてしまい、もう、とにかく子供は可愛いや、ということになってしまった。

仕事で運転などしていて窓外にすれ違う、鮮やかな、お揃いの色の帽子を被って連なって歩く、またはトロッコに乗せられて運ばれてゆく保育園児たちを見てはうっとりし、町や公園で見かけるガキどものたわいもない、または超ハイテンションなやり取りを見てニンマリし、果ては、これは子供とはいえないけど、高校生カップルの初々しい恋愛姿などを見てホンワカした気持ちになったり。どうやらこの感覚はピーも同じであるらしく、2人乗りで自転車をこぐ高校生のカップルとすれ違った後にお互い顔を見合わせて、いいよね〜、とこの温かい気持ちを確かめ合ったりした。

赤ちゃんや幼児の成長は早いというが、半年を過ぎたこと子を観察していると、なるほど、あっという間に大きくなってしまいそうである。この稿を認めてる間にもこと子は刻一刻と変化し成長してしまうのであって、そうだとすると、私の記録したいことも、そうこうしているウチに遂に書ききれぬまま、先に急がねば追いつけなくなりそうで心配である。

バンド漫記 第16話 GUTSPOSE誕生

ハイパーニトロとは私が高校生の時に結成したパンクバンドで、振り返るたびに顔が赤くなるほどダサいバンド名である。結成当時はメロコア、スカコアが流行り始めた頃で、何となくそんな雰囲気の響きでカッコいい、と思ったのであろう。

始めはUKロックや米オルタナロック、メロコア、スカコアのコピーを試行錯誤しながらトライし高校3年の時にボロボロのデビューライブ。演奏の拙さは「オレたちはパンクバンドだから」という最強の通行手形でもって誤魔化し、大学に入ってからは落胆することもなく果敢にオリジナルソングを作り始めた。

大学に入る頃には流行りのメロコアよりもレスザンTVなどの癖のあるハードコアに傾倒し始めていたので、そういう個性的な音を目指しスタジオ練習を繰り返した。更にハイパーニトロという名前のダサさに気づいて早急にバンド名を改定せねば、と松ちゃんと私は新たなクールなバンド名を考えながらキャンパスをウロウロしていた。

丁度その頃エモーショナルパンクというパンクのジャンルが人気を博し始めていて、我々も影響を受け、英単語を何個か並べてエモい雰囲気を出すバンド名を列挙して出してみたりしていた。当時そのような英単語を何個か並べたぼんやりした名前のバンドが多かったのだ(有名どころだとat the drive inとかget up kidsとかpromise ringとかね)。しかしそういうぼんやりエモいバンド名は幾らでも考えられそうだったので、結局オリジナリティーに到達しづらい。そこでレスザンTVを見習って遊び心の感じられるバンド名を考えることにした。ハードコアパンクを目指しながら、外見も内面もハードコアから程遠い我々にピッタリなヘボい名前を考えあぐねたのだ。

大学1年の年に我が中央大学八王子キャンパスにガッツ石松が招聘された。招聘といっても大学のイベントサークルがガッツ石松を面白おかしくイジる、というやや下品なイベントを企画していたのだ。私と松ちゃんがいつも通りキャンパスを歩いていると歩廊でガッツ石松イベントの立て看板にぶつかった。

私はガッツ石松イベントに特別な感興を抱いてもいなかったのだが、その看板を見た途端に「ガッツポーズ」というガッツ石松本人が由来であるらしいフレーズが頭を掠め、コレはバンド名に使えるのではないか、と閃いた。松ちゃんにその場でアイディアを伝え、そのバカらしいバンド名のニュアンスを即座に理解してくれた松ちゃんと意気投合してすぐに決定となった。我々が敬愛していたレスザンTVのパンクバンド「GODS GUTS」にも何となく響きが似てるしいいじゃん! メンバーのナリ君とヤギも異議なしで、確かそんな経緯とノリで決まったはずである。

結成当初は曲として成立しないほどのスキルだった我々も根気よくスタジオを繰り返すうちに段々オリジナルソングが出来てきた。ボーカルの松ちゃんは私の作った曲に訳のわからない詩をつけてシャウトするようになった。ハードコアはシャウトが基本なのである。そして曲がある程度できてくると今度はライブをやりたくなってくる。

ライブハウスでライブをやるためには高いノルマを払ってブッキングしてもらうか、自分達で好きなバンドを集めて企画としてやるかのほぼ2択である。後者の方が楽しいことは間違いないが、後者には知名度と人脈と企画力のスキルが必要で、お客を集められないと結局高いお金をライブハウスに納めなければならない。

知名度も人脈もない私達はとりあえずブッキングしてもらおう、ということになり、数回はライブハウスによるブッキングをお願いし、チケットノルマを捌けずにお金をライブハウスに巻き上げられた上にライブハウスのブッキング担当にお説教を聞かされることになる。これはブッキングスタッフが、そのバンドが今後人気を得るためのアドバイスという建前なのだが、そのルールは腑に落ちないモノである気がした。

ライブハウスが無名のバンドを見つけ出してタダでライブをやらせてあげて、その上でここがよくない、あそこは良いからその調子で頑張れ、と叱咤激励をするなら道理にかなっている。しかしライブハウスのためにお金を払って出演しているのに、その上で、「まずチューニングができてない」とか「演奏があってない」などの、主観的かつ保守的で為にならない説教をされるのではたまらない。このライブハウスのノルマ制度は日本独特のモノだと聞くし、そもそもオレたちはパンクバンドだぞ、他人の指図で動かされてたまるか。

我々はすぐにブッキングでライブをやらせてもらうことを放棄した。そしてスタジオ練習を続け、ライブハウス通いを続け、常に刺激的なインディーパンクバンドをみつけては憧れ続けた。とりわけレスザンTV絡みのライブは8割方押さえていたし、そんなこんなで1週間に1度はライブハウスに通うような日々が続いた。

さて、これは残念なことであったがレスザンTV界隈のイベントは入る時はそれなりに入るが大方は客が全然いないことが多かった。今は無き西荻WATTSというライブハウスは一時期レスザンTVのイベントが頻繁に行われていて、我が家から割と近いライブハウスということで足繁く通っていたのだが、これが悲しくなるほど客がいないことが多かった。私がこんなに熱を上げているシーンがそのように不人気な状況にあることを私は何度も何度も悔しく思っていた。

ところがそんな風に客が少ない上に果敢に出演バンドのメンバーに話しかけてみたりする私は、遂にレスザン界隈の方々に存在を覚えてもらえるようになっていった。そしてブッキングがダメならこうやって顔見知りになったインディーバンドを呼んでイベントを企画してみよう、ということを思いついた。

とはいえそれを1人で仕切るのは自信ないし、それでは、ということで私の運営していたインディーズ研究会のメンバーを巻き込んで学園祭に合わせて企画してみたらどうか。特にサークルらしい活動はなく、ただたむろして駄弁るだけだったイン研メンバーも私の企てに賛同してれたのでこのライブ企画は何とか実現することができた。

レスザンTV界隈の他にも、我々が憧れていた、DIYパンクを標榜して活動するパンクバンド達にも声をかけた。彼らはライブハウスに頼らずあちこちの自治体のホールなどを利用して、機材を持ち込み、PAもセルフで行い、自分達だけのライブイベントを成功させていた。そういう自主運営やDIYもアメリカのハードコア・パンクシーンのやり方を真似ていることなどを知り、我々もDIYなやり方を真似てみたのだ。

先述の西荻WATTSの名物店長であったエビコさんに協力してもらいながら我々は何とか大学キャンパス内の、さして広くもないごく普通の教室を使って10バンドほどを招聘した大掛かりなライブイベントを何とか成功させることができた。この時出演バンドへのギャラをどうしたのかあまり覚えていないのだが、出したとしてもほんの少額だったはずで、出てくれたバンドの誠意によってイベントが成り立ったのは言うまでもないことである。

勿論、このイベントの先頭バッターは我々GUTSPOSEで、企画イベントに先輩バンドを呼んでおいて自分達が前座をやって存在をアピールする、というやり方は定番でもある。そしてこのGUTSPOSEの前座を見たGODS GUTSの浅沼さんが、こんなショボいパンクバンドはなかなかいない、と絶賛してくれたらしく、狙い通りに、というか幸運なことに、それ以降我がGUTSPOSEはレスザン界隈のイベントに呼んでもらえるようになり、DIYパンクシーンにも繋がりができ、また同世代で多摩美や武蔵美でハードコアパンクをやっていた連中とも親しくなり、そうして段々とブッキングではないライブに呼ばれて出演する、という活動ペースを掴みかけたのであった。つづく

アクセルの意気地記 第2話

ピーとこと子と3人の新たな生活が始まり、畳の和室二間の私のアパートは一気に賑やかになった。こと子の身体はまだ小さくても、ひとたび泣き出せば我が家全体に響き渡る。

ウチのアパートは木造で隣のウチの話し声や、上の部屋のオジさんのオナラなんかも聞こえることがあるくらいなので、逆にこと子の泣き声でクレームを入れられないか心配になる。子供の騒ぐ声や泣き声が不快だからと、保育園が建てられないというニュースが流れる時代である。油断はできないが、かといってこれはどうしようもない問題で、もし今後クレームが入ったらその時はその時であるが、この狭い東京で生息するのなら子供の騒ぐ声や泣き声くらい我慢するのが人情である。

こと子は子供といってもまだ赤ん坊で、里帰りから戻ってきた最初の1、2ヶ月はひっきりなしに泣いた。赤ん坊が泣くのは当たり前である。腹がへっているか、排泄をして下半身が不快であるか、今の体勢が不快であるか、眠いのに眠れないか、大体そんなところの不満によるものだという。しかし、マニュアル通りに考えていても、泣き止ませるのは思ったほど簡単なことではなく、泣いて嫌がること子を上手にあやすことが自分にはほとんどできないことが分かってかなりショックだった。

私は仕事以外の時間はなるべく子守か家事など、ピーのバックアップに捧げようと力んでいたが、家事はまだしも赤ん坊を静かにあやすことの困難さに直面して戸惑った。もっとうまくやれるのではないか、と思っていたから苦笑の連続でもあった。上手くいかないのは人生と同じである。

確か2ヶ月目くらいの頃であったと思うが、私が抱っこした途端に毎回物凄い拒絶反応を示してこと子が泣きじゃくることが続いた。泣かれ、失望しても割合根気のある私であったが、これはどうしようもない、と驚くほどの嫌がり方で、しかし見兼ねたピーがやってきて私の手からこと子を抱き上げると、今までの拒絶は何だったの、と首を傾げたくなるほどにほぼ毎度ピタリと泣き止むので、呆れると同時にこれは何かしらの父親アレルギーなのではないかと疑った。

ピーは、諦めないで触れ合えば改善するから頑張って、と私の尻を叩いたが、こと子の拒絶反応が明確になってくるとピーも拒絶され続ける私に同情し始めた。その後ネットでそういう事例を調べたら、赤ちゃんによっては「パパ見知り」と称する、父親を拒絶する時期があるということが書いてあり少し安心した。この時期が長引くと数ヶ月続くこともある、とも書いてあり怖気づいたが、幸い2週間もしないうちにこと子のパパ見知りは終わった。

2ヶ月、3ヶ月の頃までは授乳の回数も頻度も多く、1時間おきとか2時間おきに授乳しなければならない、ということを子育てをして初めて知って驚きを隠せなかったが、表情もまだ少なく、泣いてばかりの赤ちゃんとずっと向き合って世話しなければならない母親のシンドさは想像を遥かに超えていた。だから私はバンド活動もほぼ休止してひたすらにできる家事や抱っこやらをしたが、それでもピーは疲弊していた。しかし、そういうシンドさを吹き飛ばすような、家族が増えたことに対する喜びと、こと子の笑顔とがピーを支えただろうし、私を支えていた。

首が座らないウチは抱っこするのも、持ち上げ方やら、角度やら、なかなか難しくていろいろ試行錯誤を重ねた。腕の中で静かになって寝てくれたような時の充足感は体験したことのない幸福感を伴うものだった。また、あやし方がまるで分からない私はひたすらピーのあやし方を盗み、参考にした。そういうことに関しての能力は、さすが母性というものなのか、度々私を驚かせたものだ。ピーにこんな才覚があったのか、と度々私は驚嘆し、尊敬し直し、同時に彼女がやることをことごとく真似ていった。

4ヶ月くらいになると首が安定してきて、笑顔や発声のバリエーションも増え、振り回す手足も元気いっぱいで、見ているだけで楽しく、私達はことあるごとにこと子が生まれてきてくれたことに感謝していた。彼女も私も、これまで生きてきて、何か何処かに満たされないわだかまりのようなものを抱いていた。少なくとも私はそうであったし、「私には音楽が」というような変なプライドがあり、そんな拘りから解放されずにいたようなところがあったのは確かで、そういうことにも気づかされたし、新たな目標ができた喜びは私を満たしてくれた。曲が生み出せなくなってもこの子をしっかり育てられれば、それはとても素晴らしい、代え難い人生の成果ではないか、と思えてきて肩の荷が軽くなったような気さえしていた。

こと子が生まれて間もない頃、私は誰かから、「娘さんですか、もう長尾さんもデレデレじゃないですか? 娘は永遠の恋人みたい、と言いますからね」と言われてビックリした。デレデレかどうかは知らないけど、娘が恋人? 私は、いやいや、冗談でしょう、まさか…、と答え実際に声を出して笑ったものだった。娘が可愛いのは分かるけど、恋人ってねえ、まさか…、と純粋に可笑しいと思えたし、物の例え、ただの誇張だろう、ぐらいに考えていた。

ところがである。そうやって数ヶ月世話をしていると、パパ見知りされた時、風呂に入れて泣かれた時、逆に私がふざけて上手く悦ばせられた時、私は相手が女子であり、この子には絶対に嫌われたくない、という感情が無意識に溢れてきて、そんな風にして、この子に嫌われたくないと思う瞬間は、まさに恋人に対する感情と瓜二つになってしまったことに気づいて急激に恥ずかしくなった。言われて、まさかね、とバカにしていたことが、言い得て妙であったことに後で気付いたというわけだ。恥ずかしくなったが、その嫌われたくない、という気持ちは大切なものだとも思ったし、恥ずかしがることでもない、当たり前のことにも思えた。

私はこれまでに愛とはなんぞや、ということを、一般的な青年男子並みに考えていた。女性を好きになったり、想いを告げたり、想いが通じて付き合うことになってみたり、そういうことを経験しても、それは恋という感覚、または情という感覚の範囲でしかなかなか捉えきれない。無償の愛、という言葉はよく聞くが、それが自分の内から感じられないと私はそんなものの存在を信じることができなかったのだ。しかし、いざ子供が生まれて育てている内に、それを愛と呼んで差し支えないだろう、と感じさせる、自分以外の人間に対する深い恋慕のような感覚をジワジワと抱くようになっていた。

それはこと子に対しては無論、こと子を生み、献身的に育ててくれているピーに対してもである。こんなことを表明するのは恥ずかしいが、いいんだ、いいんだ、恥ずかしがることなんかない。愛という感覚を偉そうに語りたい訳じゃなくて、その感覚の端っこの方だけかもしれないが自分の手で掴めたことが何だか嬉しいのだ。アクセルも子供ができたらいろんなことがいい方向に進むよ、と私に豪快に言ってのけた子持ちの友人があったが、彼の言葉が子育てをしているいろんな瞬間に思い出された。

私は日本型社会人としてうまく適応することができず、長らくフリーターとして凌ぎ、どうにかこうにかやってきたが、36歳の時にようやく自分でも苦痛を感じずに働ける職場を見つけて正社員となった。とはいえ世間的に言われる、いわゆる低所得労働者である。フリーター時代よりは多少稼ぎは増えたが余裕はない。今はこと子を預けることなく、ピーにずっと面倒見てもらっているので共稼ぎでもない。それでやっていけるのか全く心もとなかったが、良心的で親切な大家さんに出会うことができたり、周囲の人間から子供服やら何やら、自分達で購入しなくても事足りるレベルで譲ってもらったり、親からの祝賀的な援助があったり、今まで通りの質素な生活を続けてみたら以外にも私だけの給料で何とかやっていけるようだった。

養っている、と偉そうに言えるほどのものではないが、自分の労働で家族3人が何とか生きていることに驚きを感じつつ、私の第2の人生が幕を開けたのだな、という感動をことあるごとに覚えている。ピーと喧嘩をしたり、病気になったり、シンドい日々が続くことがあったり、躓いたりすることは今まで通りでも、喜んだり楽しんだり、満ち足りた気持ちに包まれたりすることは今まで以上にある。自分や自分の人生を肯定的に捉えることができるようになった。いや、肯定的にならないと家族を幸せになどできないのだ。そういうことがこと子を育ててみて何となく分かってきたことである。

扁桃炎闘病記3〜まさかの手術と退院

3日目、点滴が極端に減って一本になった。喉の視診による具合も良好で、午前の診療で医師に、もう大丈夫そうですね、予定通り土曜日退院で問題なさそうですね、と励まされて私もその気になった。昨日の時点ではステロイド剤の効き目もあるから明日の夕方くらいまで、つまり今日の夕方くらいまでの経過観察が肝要だと言っていたけど大丈夫なのかな、とチラッと心配したが、医師がそう言うなら大丈夫なんだろう、と楽観視に寄りかかることにした。職場にも経過良好で、と連絡を入れ、退院予定の翌日から出勤できる旨を伝えた。

そして外出許可も出たので午後は外出して自宅に帰った。こうなると、もう入院も退院もよく分からない状態で、私自身も困惑したが、ピーとこと子を2人きりにするのを少しでも回避できるので、有難くその状況を謳歌した。たった2日ぶりとはいえ、シャバの空気は清々しく冬の陽光は美しかった。自宅には2時間半ほど滞在したが、その間ネットフリックスで「深夜食堂」を観て泣いた。こと子は元気に這いずり回って私を楽しませた。

病院に戻って夕飯を食べてる時に、おやっ、と何だか喉の痛みがまたぶり返してるように感じた。アレだけ順調視されていたのにこの展開は私をまた戸惑わせた。同時に朝心配した、今日の夕方までの経過観察が肝要なはず、という昨日の医師の言葉を思い出し、私の不安はさらに募り始めた。ステロイドが切れてまさかのぶり返しが始まっているのでは。

その夜はぶり返した喉の痛みとその違和感による気道の異変で苦しくてまんじりともできなかった。眠りに就いたと思うと起きて、ということを繰り返し、起きるたびにどこかの病室のお婆さんの甲高い悶絶の絶叫が聞こえて心底恐ろしくなった。

翌朝、ニコニコとやってきて、どうです長尾さん、具合は、と満面の笑みでカーテンから顔をのぞかせたT医師に、痛みがぶり返してきてあまり眠れませんでした、と告白すると、T医師は血相を変えて、すぐに診ますっ、診察室に来てください、と言い放ち、本人も慌てて診察室に戻っていった。その時の医師の深刻な雰囲気だけで、私はもう絶望的な気分になり1階の診察室に暗い気持ちで降りていった。

口の中を診てすぐに、
「あー、また膿が溜まっちゃいましたね、すぐに切りましょう、ごめんなさいね」
T医師の判断は私にノーと言わせる隙を与えなかった。ごめんなさいね、というのは、昨日楽観的な判断をしちゃってごめんなさいね、ということだろうと、瞬時に推測しつつ、私は多少医師の軽率な判断を恨みがましくも思ったが、この医師の慌てようからしたら、一刻も早く膿を出さないと私のためにもならないのだ、とすぐに納得した。

「じゃあ、隣の部屋で同意書にサインしてもらいますね、ちょっといいかな」
同意書? 私は隣の部屋に移動させられ手術の同意書に名前を書かされることになった。手術には患者の同意が必要であるらしく、これから恐ろしいことが行われることへのサインであるが、あまりの展開の早さに私の頭は混乱したままだ。

サインをするとT医師は、じゃあすぐやりましょう、と言ってさっさと元の診療室に戻ってしまった。一刻も早く切って膿を出した方がよい、ということなのか、まだ朝一だし、これから通常の外来が始まるから焦っているのか分からないが、私も泣きそうな気持ちで後に続いた。

診療台に座ると年増の女性看護師が私の両側でせわしなく動き、私に薄いピンクのビニールエプロンをつけ、これを持ってください、と言い、底の浅い、歪んだ楕円のアルミの皿を、私に両の手で持たせた。オペといえばすぐ連想できるあの皿だ。私の心臓は恐ろしさのせいで一気に縮み上がりそうに思われた。

T医師が、まず局部麻酔を、と言って開かせた私の口に注射器を挿入し、ちょっと痛いですよ、と言う。私の口は押し広げられているのだから最早返答もできない。続いて針が刺さって何か注入されてるような不快な痛み。私の認識だと虫歯の治療などのように麻酔してから数分、その麻酔が効いてくるまで休憩があるはずだが、T医師は直後にまた注射針を刺した。

この時の記憶は、あまりの早業だったし、口を開けているため上を向いてるからはっきりしないが、恐らく初日に膿を出した時の注射器が挿入されたようだ。やはり痛い、痛い。T医師は、よしここだ、と言って刺した注射器を抜いたと思ったら何やら物騒な鋭機が、間髪入れずに口の中に入っていく、そして同時に信じられないような痛みが喉の辺りを襲いかかった。

私は痛みのあまり、ウグワァ〜、と声にならない呻きを挙げた。どうやら切開されたらしく、
「じゃあ、膿を吐き出してください!」
と誰かに言われたので口の中に広がった液体を、先ほど握らされたアルミの皿に吐き出した。私は痛みと血みどろの液体を前にして意識が遠のきそうだった。

T医師が、こんなに出ましたよ、と私にその血の混ざった膿の液体を確認するように促したようだったが、私は痛みのせいで動転していたし、最早そんなドロリとした液体を見る余裕などなく、無論そんな気分にもなれず一瞥して俯いた。私から皿を受け取った看護師が私を診療台から下ろして脇の中待合の席へ誘った。痛すぎて何も思考が働かない。私はまた呻いた。

看護師が、痛いですよねー、でも今がピークですから、と言って私の肩に手を差し伸べたようだった。気がつくと私は涙を流しているではないか。ホントに痛いと無意識で涙が出てくるのか。私は呆然としたまま数分の間、ただこの激痛がどうかなるのを待つしかなかったが、痛みは軽減する気配がない。が、ここにずっとこうしてる訳にはいかないし、と残りの根性で立ち上がった。医師は、切開したので、もう悪化することはないと思います、と言い私を安心させようとした。扁桃炎の菌は切開して空気に接触すると壊滅するらしい。

私の頭は回らないが、後は病室に戻って静養すればいいらしかった。痛さで自然と腰が曲がり、フラつきながらエレベーターに乗り病室に戻ってベッドに座った。一体何だったんだ、こんなに辛いのは十数年前に手術で脛を切った時以来だ、と思った。切った喉の奥の辺りに傷跡からの血や痰などが絡まっているような感じで、オエっと一気に吐き出したいが、痛くてそれもできない。気持ち悪いので何度も洗面台に行き、口に溜まってしまう何やら液体を吐き出した。

1、2時間するとようやく意識がまともになってきてスマホを観られるくらいになった。そしてまた抗生剤の点滴が始まって情けないことだが何となく安心した。痛みも徐々にではあるが減退してきてるようで、唾を飲み込むのも痛み方が傷に染みる痛みで、今までの引っかかるような強烈な痛みではなくなっている。私はようやく、これで良くなるのかもしれない、と希望の光を掴んだ。

しかし、昨晩からの喉の悪化、そして今朝の手術という流れで、私は退院予定の翌日と翌々日、つまり明後日と先明後日も朝、通院して点滴を受けに来るよう約束させられた。その為、明後日からの仕事復帰が難しくなったために、また職場に連絡しなければならなくなった。2日前に、経過良好につき、などという威勢の良い連絡を入れたばかりなので何だか気まずかったが、職場からは無理せず休んでください、と温かい返事。心苦しいことであるが、電通のようなブラック企業じゃなくてよかったと安堵した。

心配してこと子を抱いて午後やってきたピーとは、1階のロビーで面会した。病室だと文句を言われるからだが、何とも言えず切ない感じだ。点滴も効いたのか少し元気になってきた私はこと子を持ち上げて可愛がった。売店でプリンを買って2人で食べた。売店の脇の2列に並んだ長椅子の端に腰掛けて、同じように周囲に腰掛けた病人やお年寄りの中で密やかに小1時間をそうやって過ごした。

夕方、T医師がやってきて術後の経過を見たいので、とまた私を診察室に呼び出した。医師はその後膿が出てないかの確認ということでまた患部に針を刺した。膿は殆どなくなり、よくなっているという。患部に針を刺すのは一瞬で切開に比べれば何でもないが、もう痛いのは懲り懲りである。

結局、翌朝も患部に針を刺し、膿が出なくなっているのを確認すると私は晴れて退院の身となった。翌日、翌々日の通院と点滴を済ますと一週間分の飲み薬で私は驚く程に回復した。健康って何て素晴らしいことなんだろう、と私は初心に帰った。

その後職場で2人の同僚から、実は自分もほぼ同じ時期に扁桃炎やっちゃって、という話しを聞いた。2人とも通院と飲み薬で改善したという。さらに、保険のニッセイの担当女性から、私の弟が長尾さんが入院したのと同じ時期に扁桃腺に膿が溜まって同じ病院に通院していた、という話しを聞かされて驚いた。扁桃炎が、余程数奇な病気であって、それに罹患した自分の身体は何やら相当ヤバい状態なのかな、と悲観的になっていた私は、それらの話しを聞いてただ何となくよかったな、と思った。完
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