コトコト1週間 2016年9月

9/18

 日曜日。休日。朝食にナメタケそうめんと昨日の残り物。天気不良。洗濯できず。ここ1、2週間冴えない天気が続いてこと子の布おむつも部屋の中でぶら下がっている。

 ピーが体調不良で床に着いているのでこと子をあやしたり、片づけをしつつSNSで軽く世間の具合をチェック。片付いたとこから掃除機がけ。天気が悪いと掃除機をかけてもすっきりしない。

 家賃を払いに向かいの大家宅を訪れるも今日も不在。大家さんが入院中で、ご子息に家賃を渡す手筈になっているがなかなかいらっしゃらないのでもう3回ほど空振りしている。

 昨日の洗濯物があまり乾いてないのでコインランドリーへ。帰りがてら濡れ縁に渡す特大の突っ張り棒を購入。帰宅して設置。

 ピーの復調は難しそうなので授乳と静養に専念してもらい昼ごはんを作る。とり胸肉とダイスカットにした野菜のマヨディップトーストで。

 昼食の後は充電アンプ音出しチェック。というのも次の日曜に地元西東京市の原発いらないイベントで弾語りで招かれたから屋外出張弾語り用に、機材の有無とそれがちゃんと使用可能かどうか確かめなければいけない。

 数カ月前の引越しのバタバタからマイクスタンドはあるか、とかアンプにギターとマイクの2ライン同時に音が出せたか、など心配な点があった。しかしボロい木造アパート内での音出しは憚られたので音が出るかだけ微音で確認。ホコリを被ったマイクスタンドも捜索完了。

 夕刻、買い物がてらいつもはピーに任せてること子のお散歩に。買い物メモを忘れたことに気づきやたら無駄足を稼ぎながら、パンパースSサイズを薬局、牛乳やら味噌やらをいなげやで。いなげやから戻る道すがら小雨。バギーを押して小走り。大事は免れる。

 帰ったら夕飯の準備。ピーはまだ復調せず。さんまの干物を焼き、小松菜と油揚げの菜焼き、きゅうりのニンニクいため、余ったそうめんのすまし汁を作る。

 食事中からこと子がむずかるので、食べ終わったらバタバタと風呂に入れて就寝。最近はこと子の就寝に合わせて寝るようになったので12時前には床に着く。こんなに生活が一変するとは、育児のもたらす変化は想像以上だ。

9/19

 こと子の授乳で6時頃目覚める。残念なことに今日も雨。授乳後、しかも朝の授乳後のこと子は機嫌がよく、私の顔を見て笑うようになった。微笑まれると私はとろけそうな気持ちになる。これをシアワセと呼ばずして何であろう。と思いながら2度寝。

 改めて7時起床。昨日の惣菜で簡単な弁当を詰め込み出社。朝一、グループ会社の蕎麦の運搬。これは同僚の中でも評判の悪い仕事だが、蕎麦を運んだら賄いに美味い蕎麦が食える決まりなので私は張り切ってやっている。今日は鶏ささみ天そばを食した。

 鶯谷で倉庫ドアの補修、お客さん宛郵便受けの再設置。備品搬入。蔵前でも備品搬入を済ませ倉庫で昼食。後、ローソンカフェラテ。私はこのローソンのカフェラテが好き。

 午後は門仲、大島、錦糸町を回る。雨が降り止まない。途中、合流したアキヨシに、この雨はいつまで続くの、と聞くと、明日の朝までは続くみたいですよ、と(後で週間天気を確認したところ向こう5日間くらいずっと雨マークだった…)。

 19時帰社、20時退社。ピーに頼まれて田無駅で玉ねぎ買って帰宅。野菜が高騰しているのも台風の影響らしい。晩飯はピー特製焼うどんとカレースープ。発汗。食べたそばから皿洗って風呂入れて入浴。こと子を洗っていたらオシッコされた。我が毛深きももに滴るシッコは生ぬるくて妙な感触だった。就寝前、ピーとオナラ論争。

9/20

 やはり雨。気分的にも晴れない。ここ1週間くらいまともに洗濯ができていない。納豆煮卵ご飯を食べて出社。

 秋葉原の物件で退室整備。移動でトーマスマプフーモを聞いている。最近また大好きなマプフーモの音源をたびたび聞いて癒されている。何て色褪せないアーティストなんだろう。

 鶯谷で退室整備後ワッパ弁当で昼食、のち昼寝。午後は門仲、ホームセンター、秋葉原と周って小菅。雨がいよいよ激しくなってる。

 小菅の物件は閉鎖予定で最後のお客さんの退室立会い。インド人とその友達のインド人でもう10年も日本で働いているという。愛嬌のある出っ歯のインド人で、雨が凄いので北千住の駅までハイエースで送ってあげる。インドの人は何で数学とかコンピューターが得意なんだ?と聞くと、日本人もそうじゃないか、と返されて何も言えなくなった。

 定時の退勤時間を過ぎたが残務で鶯谷、田端と周って帰社。申請書など書いていたら21時前に。雨は降り続いている。急いで帰宅してこと子を風呂に入れ晩飯。風呂後にむずかること子をいろいろに抱っこして、寝かしつけてはむずかり、むずかっては寝かしつけて、と4回ほどその行程を繰り返し、しかし最後はママのおっぱいで就寝。

9/21

 昨日の雨は台風の影響だったらしい。今朝は通り過ぎて、晴れはしないが降らずに曇り。雨よりは幾分か気分がいい。出勤すると、韓国から嫁さんを連れて帰ってきたOJから韓国土産をいただく。渡された袋の中に、有難いことにこと子の肌着も入っていた。

 今日は終日IKEAでお買い物。ということでミナカタ、マツオさんとハイエース2台で船橋のIKEAへ。高速で約1時間、ナビが案内した海よりのだだ広い工場地帯に無愛想なニュータウン。そこにIKEAが聳えていた。

 新規オープン物件の家具や備品を1日かけて掻き集める。私はIKEAのようなグローバル企業が基本的に嫌いであったが、今回改めて見ていたらキッズコーナーが充実していて、どうにもこうにも気になって仕方ない。こと子のためならIKEAも受け入れられそうな自分がいる…。私情を持ち出してキッズコーナーの探索したい衝動にかられたがミナカタ、マツオ両氏は子供がいないし、実際目的の家具などの買い物が余談を許さないくらい大変だったので横目で通過。

 昼食はフードコートで摂ることになり、私は両氏がフードコートの食事を摂ってる陰で持ち込みのワッパ弁当を食べた。もちろん、持ち込みを見回るような野暮なスタッフはおらず事なきを得る。

 午後もIKEAの無闇にだだ広い店内を、あっち行ったりこっち行ったりしながら買い物。これだけでアトラクション要素があるので家族連れにウケるのも納得。買い物を終えて、ハイエースに満載の荷物を田端の物件に運ぶも、まだフロア工事が完成しておらず搬入できない。想定外であったが諦めて別途矢来町の倉庫に搬入。

 帰宅すると鍋にサムゲタン。これはOJが前回の韓国帰りにくれたお土産だ。そういえば昨晩明日はサムゲタンにするね、とピーが言っていた。しかし今朝OJから韓国土産を新にもらう事は知らなかったはずだ。これはテレパシーの類だろうか。

9/22

 起きて早々ピーと栗を剥く。朝から栗ゴハンを炊いてワッパに詰めてくれた。相変わらず晴れずに雨。出勤。

 そば屋の蕎麦運搬。雨脚が強まり、車に積んであったカッパを着て作業。ここまでの雨だと試練である。作業終了後、賄いでニラ天玉そばを朝食に。

 蔵前の物件でレター配布、備品組立て入れ替え等。シェアハウスの運営にはニトリやIKEAの安価な組立て家具が欠かせない。

 倉庫で弁当。栗ゴハン、卵焼き、ナスのソテー、手羽先の甘煮、どれも美味い。朝必死に剥いた栗もホクホクで甘味があり労が報われた感。

 午後は門仲でゲスト布団の搬入を済ませ、ホームセンターで買い物。どさくさに私用の買い物も。家具作りのダボに必要な皿取錐、埋木錐を購入。最後は錦糸町で退室立会い。雨弱まる。退勤。

 夕飯も栗ご飯と残り物いろいろ、それにひじきの味噌汁。最近ピーもひじき好きになって嬉しい。そしてやっぱ栗ご飯、うーん、また作りたい、ほどに美味い。こと子を風呂に入れると少し熱かったか妙な顔をした。

9/23

 休暇。昨晩の残り物で朝食を済ませ、やろうやろう、と思ってなかなか着手できずにいたピーのレコード箱造り。材料はシマホで数日前に購入してあったパイン集成材。採寸してシマホで既にカットしてもらったが、玄関に置いといたら湿気で一部歪んでしまった。

 昨日買った皿取錐をインパクトに装着し、ビス打ちの下準備。ビスの位置は目見当で適当に打ち込んだ。ビス頭を隠すダボに今回初めてチャレンジしようとしたが、飛び出したダボを板の表面を傷つけずに切る為のアサリのないノコギリを用意しなくてはならないことが判明し、またシマホに行くことに。

 その前に、と今日は昼メシを私がプロデュース。キュウリの豆板醤和え、キンピラゴボウにそうめん。食後、実家に車を借りに行き、シマホまで家族でドライブ。ついでに掃除機を新調。最安値で6000円也。帰りがけ東伏見のカレー屋たらちゃんのカレーを夜用にテイクアウト。

 帰宅してレコード箱作りの仕上げ。ダボを打ち込み、買ってきた鋸で裁断。おお、美しい。これだけで何だか素晴らしい仕上がり。久しぶりに物作りの快感を味わう。そしてたらちゃんのカレーで晩餐。

9/24

 本日は早朝会議があり、5時半起床、6時半出勤。ピーも起きて弁当を作ってくれた。今日も曇り空。もう1週間太陽が出てないらしい。

 早朝会議は土曜日の早朝に時々開催される。私の勤め先のグループ会社の面々が集まり恐い会長のお話しをひたすら聞いたり、たまに意見を言わされたりする会議で、私のような平のメンテナンススタッフも時たま招集される。ひたすら眠かったりダルかったりする罰ゲームのような任務。背筋を伸ばして耐える。

 会議の後、門仲の退室立会い。5年間住んだお客さんの割りに綺麗だな、と思いデポジット返金して部屋を細かく見てみると、シンクとシャワーのお湯の蛇口が壊れている。シンクの蛇口は直ったがシャワーの混合栓は交換が必要だ。雨が降ってきた。
昼メシを食べて現場をバイトのアキヨシに託し、小菅の物件に移動。ツネさんと合流し、壊れた壁の修繕など大家に返す前の閉鎖作業。雨止む。

 終えて鶯谷の配管漏水をツネさんに確認してもらい私は矢来町の倉庫に備品組立ての進捗を確認に。そしてさらに門仲に戻って壊れた混合栓の採寸、見積もり依頼、マットレス交換、椅子搬入。帰社して事務処理終えると21時を過ぎた。

 急いで帰ってそのままこと子を風呂に入れる。ちょっと前に量った時は5.5キロくらいだったが、もう6キロは超えただろうか、持ち上げるたびに増える重みに恐怖を感じる。

 風呂からあがり、ピーと晩餐。ご飯の時もこと子を横に置いておく。観賞用にもいいし、ぐずり対策にもよい。風呂からあがったピーをマッサージして就寝。

9/25

 日曜日。休日。原発いらない西東京デモ当日。晴れ! 何日ぶりかのご来光である。

 ピーと、何だかパン食べたいねということになり、こと子を連れていなげやに。さつまいものパン、クリームパン、スモークサーモンサンド、ホテルブレッドを購入。

 朝食を貪る我々の横でこと子が先日買った6000円の掃除機の段ボールに向かって何やら必死に話しかけている。最近とみオーとかアオーとか言葉以前の声を発するようになってきて楽しい。

 久しぶりの快晴につきひたすら洗濯と洗濯物干し、乾いた衣類の畳み作業を繰り返す。我家は木造アパートの1階で庭がある。我々のものではないが大家さんが好きに使ってね、と言ってくれているので洗濯物を干すスペースもそれなりに確保できているのは有難い。難点は夏はヤブ蚊が大量に発生すること。夏の洗濯物作業は蚊との闘いである。

 15時、田無市役所の広場に到着。ギターやアンプなどは、係の方が前もって現地に届けてくれているので持ち物は水筒だけ。デモ前の集会で、友人リクの母で主催者でもある小熊さんにマイクを向けられ、参加者として原発について一言話す。いろいろなデモに参加してきたが、そのような抗議運動に参加するきっかけとなったのが311で反原発は原点で、このことだけはこれからもずっと反対を表明していきたい旨を挨拶した。

 集会の途中でピーがこと子を連れてやってきた。リクとミサさんもわざわざ田無までデモに参加しに来てくれた。参加者は50人くらいだろうか。年配の方中心だが30代らしき若者も数名いた。

 田無駅前を練り歩き新青梅街道に出て東伏見公園に向かう。下手すると地元の知り合いに遭遇するかもしれなかったが、私には何の恥ずかしさも後ろめたさもないのだ。むしろ地元の同級生やらに偶然出会って、アイツあんなことやってんだ、と原発について考えるきっかけを与えたい、とも考えたほどだった。幸い沿道の市民の目線は冷たくはなく、時々子供たちが興味津々で見つめる。

 北原交差点に差し掛かるところでピーが私に囁く。コトピにおっぱいあげてくる。この交差点から路地を入ると我がアパートがあるのでこと子の給水ならぬ給乳。デモ隊はそこから30分ほど歩いて東伏見公園に。

 まだ整備されて間もない新しい公園である東伏見公園の東屋でゲンパツイラナイト。授乳終えたピーも追いついた。私の弾語りは先日の音出しリハの甲斐なくアンプの調子が悪く、苦戦しなければならなかった。冷や汗ものだったが終わってみたら持ち込んだCD5枚が完売(こんなことは奇跡に近い)。何人かに直接よかったですよ、と声をかけてもらい私は安堵した。

 西武柳沢駅近くの居酒屋で打ち上げがあり、そこには大熊町の町会議員さんなんかも参加されていてリアルな福島の話しも聞けた。高円寺から数年前にこの辺に引っ越してきて、時々このデモの手伝いをしてるというラスタな方とも面識ができたり何だか楽しい席だった。

 こと子とピーを伴い少し早めに打ち上げを辞して帰路。途中いなげやで梨を買って帰る。1個250円。高い。

 帰宅後梨を食べながら今日の私の弾語りのシュールな写メをピーに見せてもらう。そして私の震えるような頼りないような歌声に合わせてこと子がアオーアオーとしきりに反応して声を絞り出している動画を続けて見せられた。私は胸がキュンキュンして仕方がなかった。

ベトナム

 20年ほど前には発展途上国なる乱暴な言葉で一括りにされていた東南アジア諸国からのシェアハウス利用者が、ここ数年で顕著に増えている。タイ、ベトナム、ミャンマー、韓国、中国などの国から、若い学生が、出稼ぎではなく、日本に勉強しに来たりインターン(私はこの言葉の意味を完全に把握していない)しに来たりするようになっている。

 下町の某物件で、昼時、リビングに集まっていた4人の若者と話す機会があった。聞いてみると2人はベトナム人、1人は韓国人、残りは恐らく欧米の子で、皆明るく、時々、破裂するような笑い声を出して談笑している。

 ベトナムの子がいることが分かって私は思わず声をかけて会話に少しお邪魔してしまった。私はベトナムにひとかたならぬ思い入れがあり、つい口出ししたくなってしまうのである。

 「私はベトナムには2度行ったことがあるよ」、とこれはベトナムの子を見つけると定型句のように毎度持ち出すとっかかりであるが、大抵の相手はそれを驚いて、ベトナムのどこに行ったのか、と聞いてくる。ハノイか?サイゴンか?と聞いてくるのである。

 そこで私はすかさず「ハノイ・トゥー・サイゴン!」とやや誇らしげに答える。すると相手はもっと驚いて、そこから細かい地名や食べ物の話などが続いて、とはいえそれ以上深い話ができる訳ではないのだが、私はそれである程度満足してしまう。

 今回、下町の某物件で話した若いベトナム人の女の子はかの東大に経済の勉強をしに来てる、と言った。私は、ベトナムの若い子が、東大で、経済を、と染み染み感じ入った。私がベトナムに行ったのは、しかし、もう15年以上前だよ、と伝えると彼女はまた驚いて、それじゃあ、もうすっかり今のベトナムは様変わりしたわ、と言い、新しいベトナムを見にもう一度ベトナムに来て、と笑顔で言うのである。

 そんな会話を交わしながら、私はベトナムに行った時のことを、また思い出した。私が学生時代に友人に声をかけられて初めて行った海外旅行先がベトナムだった。初めての海外旅行、しかも日本より経済的に貧しい国(以下、便宜上経済貧国と書く)ということで何もかもがカルチャーショックであった。

 空港を出た途端に群がるシクロ(自転車タクシー)やタクシーの運転手達。観光地では空港と同様に少しでも油断をしてると、すぐに物売りや物売りの少年に囲まれてしまう。

 日本では一部の特殊な地域を除いてほとんどなくなってしまった屋台文化が、表に出ればどこにでもあり、暑いのにもちろんクーラーもなく、しかし屋台で食べた食事はその屋外という情緒からか、全てが美味しく、私の中で変えがたい思い出となって残っている。

 経済貧国に行くと騙されたり、不衛生だったりが嫌で敬遠する人も多いかもしれないが、私は初めてのベトナム旅行のその全てが愛おしい体験だった。騙されたりしたことも、スリにあったことも、ずっとお腹を壊していたことも、全部差し引いても、ベトナム人のしたたかさや、優しさや、おせっかいや、タフさ、憎めない愛嬌などに圧倒されていた。日本と似た田園風景も、ベトナム女性のアオザイも美しかったし、フォーやバインミーなど、庶民の食事の1つ1つが私には愛おしかった(経由で立ち寄ったタイの料理のように辛いものが少なく、私にはフィットした)。

 私はそのベトナム旅行において、同時に欧米の──もちろん日本人も数多くいたが──バックパッカー文化を知り、衝撃を受け、そういうこと全てにハマってしまった。そしてそれから5回ほど私は海外を放浪する旅に出ることになった。

 私が渡航した先はタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、インドネシア、インド、そして南欧の3カ国。南欧を除いては総じて物価が激安で、貧乏旅行とはいえ現地の人から見たら優雅な旅に見えたかもしれない。しかし、そういった経済貧国に足を踏み入れて、どこでも共通して強く感じたことは、私が知っている東京の人々よりも、経済貧国の人々の方がエネルギッシュだったり、活き活きしていることだった。もちろん、よく働く、という側面もあるのだが、シクロドライバーのように客が来なくて毎日道でダラダラしてるようなおっちゃん達の表情ですらも屈託がなく爽快な感じがした。そういう土地で見た人々の眼は明らかに東京の電車で見かけるサラリーマンの雰囲気とは180度違っていた。

 バックパッカー体験は私の人生観を大きく変える体験であった。ところがバックパッカーをやってみたところで世界の経済情勢格差に対する矛盾のようなテーマに関しては、考える機会が多くあったものの、自分を納得させるほどの解は得られなかった。

 比較的豊かな経済状況の国の旅行者が、経済貧国に旅行に出れば安い経費でいろんな旅ができてしまう。例え日本から旅に出たフリーターの貧乏旅行だろうが、貧しい国の人からしたら飛行機に乗って海外旅行できるというのは驚異に値することだった。

 私はフラフラとベトナム他アジアの国を歩いていた時、町の暇そうなおっちゃん達と仲よくなることが度々あったが、「何で君は若いのに海外旅行なんかに来られるんダ?」という質問を、おっちゃんに限らず度々受けた。その度に自分は、旅行には来てるけど日本ではアルバイトなんで貧乏なんだよ、と懐ろを読まれるのが嫌でそう答えていたが、説得力はなかった。現地人からのそういう純粋な質問は私に何かひっかかりのようなものを遺した。

 確かに彼らからしてみれば1人で気ままな旅行に来ている若者が羨ましくもあるだろう。飛行機に乗るなんて考えたこともなかっただろう。彼らからしたらフリーターだろうが私は金持ちなのだ。

 それなのに私はケチケチした貧乏旅行しかできなかったし、その国際的な格差に対する矛盾には未だに答えられない。同じような不可思議を旅人の多くが共有してるのだろうとも考える。

 しかし、その答えは分からぬが、私はこうして今、ベトナムから若い学生が日本に勉強のために留学しに来てるような社会情勢を知る。今はまだベトナムでは比較的裕福な家庭の子だけの特権なのかもしれない。それでも、あと数年したらもっとそのチャンスは下々の庶民にまで広がるかもしれない。そう考えると何だか少し救われるような気持ちになった。

 私がバックパッカーをやっていた当時は日本と経済貧国との格差は縮まることなく並行したまま時が流れるんじゃないか、という錯覚を抱いていた。しかし、明らかに今まで先進国と呼ばれた日本、ひいては欧米諸国の経済は緩慢になっている。そして中国のように経済貧国が景気がよくなる時というのは一気に急激な変化が起こるものらしい。日本の高度経済成長だってそうだっただろう。

 まだまだ世界の格差や偏りや抑圧は終わらないが、私の把握できる範囲でこのような世界の変化を感じられたことは嬉しいことだった。日本も日本以外のアジアを見下す姿勢を改めて、友好関係を良好に気づきながら交流していくべきだ。

 私は東京にいても、次々と出来上がる高層マンションや高層ビル、度デカい複合型スーパーに辟易し、まだ昭和の匂いを留めた鄙びた商店街や町並みを見つけては喜んでいるような懐古趣味のある人間で、はっきり言って変化は恐ろしい。私が15年程前に見た東南アジアの景色が経済の活性化で急激に変化していることも何となく寂しい。とはいえ変化を否定しても始まらず、受け入れながらも肯定的に生きないと勿体無いし、第一愚痴っぽくなってしまうのが嫌ではないか。先日娘が産まれてくれたおかげで、そういう前向きな思いは強くなった。

 まだ20歳前後の若きベトナムの子との会話から私は小さな喜びをみつけた。

バンド漫記 第12話 誤摩化す進路

 母と進退のことでさんざん揉めた挙句、私は自分の未成熟さをどこかで打ち消すことができず、まだ社会に出るより、時間稼ぎ的に大学に行くのも悪くないかもしれない、と考えた。また音楽学校というのも実際はどうかな、と思った。自分の好きになったパンクはそんなところで発展しないだろうし、親の反対を押し切り自分で働きながら自腹で専門学校に突き進むほどの熱も高まらないので、やはり無難に大学に行こうと決めた。そしてこれは大前提だが、私は大学附属の高校に通っていたのであり、余程踏み外さない限りエスカレーターで大学に進むことができたのである。

 私が、やはり大学に、と決断した最も大きな期待には、いろんな友達を作れるかもしれないという希望的観測があった。何故そんなことを中心に考えたかというと、教育実習で高校に教えにきていた現役大学生の女性の話しを真に受けたのだった。大学に入ったら、いろんな地方から東京に出て来た生徒と沢山知り合うことになる。それはとても素晴らしいことで云々、という美談を、私はそんなものかもしれない、と捻くれ者の癖に割合純粋にそう信じてしまったのだ。

 いや、そう思い込むことで大学行きへの煩悶から早く解放されたかっただけだったのかもしれない。とにかくそう決めて仕舞えばいろいろ楽な気がして、張り切ってまたロックのことに集中できるようだった。

 私と松ちゃんはfruityを追いかけながらライブハウス通いを続け、いろいろのメロコアやスカコアのバンドを知った。当時のそういったインディー系パンクバンドは英語で歌うのが何故か暗黙の前提になっていて、私はそこだけがどうにも釈然としなかったが、そういうもんだろうと思って楽しんでいた。

 そして高校2年生の終わり頃だったかと思うが、遂に松ちゃんとパンクバンドを始めることになった。

 松ちゃんはボーカルを希望していたので私がギター、ドラムには、軽音部の私のバンドでもドラムを叩いてくれていたヤギにお願いし、そしてベーシストには私と松ちゃんの仲良しだったナリ君が興味を示したのでお願いすることになった。重要なバンド名は私の一存で「ハイパーニトロ」と命名した。何ともダサい名前だが当時の私がメロコアっぽさをイメージしてつけたもので、自分はなかなかよい名前だろう、くらいに考えて澄ましていた。

 バンド練習は軽音部の倉庫兼練習部屋だったところを、誰も使ってない時に無断で使用したり、西荻のRDSを借りてやったりした(以降赤い疑惑に至りその後現在まで我々はそのリンキーディンクスタジオ西荻窪店を愛用することとなる)。

 私の人生を賭した初めてのパンクバンド、ハイパーニトロは、しかしこれまた想像を絶するお粗末な演奏しかできなかった。耳コピが得意だった私がベース初心者のナリ君にベースのフレーズを、ここを押さえて、次はここを押さえて、というように伝える。しかしそれがなかなか上手くいかない。さらに松ちゃんのボーカルもなかなか酷くて、何でそこで歌い出すんだよ、というタイミングで入ってくる。音痴というのとは異なり音楽的な感が圧倒的に欠落しているように思われた。

 決して私のギターもヤギのドラムも上等の代物でもなかったが、ナリ君のベースと松ちゃんのボーカルをカタチにすることが第一関門であるということだけは即座に見極めることができた。とはいえ私の中で演奏が下手であることはそこまで致命的だとは考えていなかった。それはパンクというジャンルの持つ寛容さに依っていた。我々が仕入れたパンクの意義には、下手くそでも初心者でもやっちまえ、それがパンクだ、という思い込みがあった。

 パンクから派生していったオルタナティブロックにも夢中だった私はまた「ローファイ」と呼ばれるジャンルが存在することを知った。ローファイはハイファイの対義語というところから定着したジャンルで、要するに「下手くそ」だったり「音質が悪」かったりする、そういう音楽こそ味わい深いだろう、というものだった。勿論、ただ下手なだけじゃなく、下手なんだけど何か惹かれる良さがあればあるほどいい。何しろローファイはフュージョンやプログレ、ハードロックなど技術至上主義に向かっていた音楽シーンに、突如パンクが出現したのと同じような仕組みで持て囃され出したのだろう。

 私は当時ローファイと呼ばれ、人気のあったセバドーというアメリカのバンドに衝撃を受けた。明らかにノイズの入ったような録音、歌い間違えや咳払いなどが当たり前に入っているようなボーカルにスッカスカの音圧。これらが生み出す力の抜けたニュアンスの歌達は私にとって非常に尊い趣きに感じられた。

 早弾きが全然できなかった私にとって、パンクやローファイとの出会いは劇的であった。確かハイパーニトロを結成したのと同じくらいの時期に私はバイト代でMTRという多重録音機材を買い求め、セバドーよろしく宅録に挑戦し始めた。

 曲のアイデアだけは無尽蔵に湧いてきそうであった当時の私にとって、このMTRという機材は格好の玩具となり、私は次から次へと重ね録りを試し、遂に表裏2曲ずつ入りのカセット作品を完成させた。

 私は友人が書いた宇宙人の様なイラストをジャケットにあしらい、ユニット名を「ねろ」として発表し、それなりの満足感を得た。周囲からの反応は覚えていないが、とにかくそこから出発して結局今でも「ねろ」という名義で弾語りをやっているのだから我ながら感心する。

 そのようにして私は下手くそでも味で勝負、という志向に染まっていくのである。そして、fruityの追っかけをやる内にfruityの耳コピを始めるのだが、問題はfruityの音源がないことだった。いくら人気があっても音源がリリースされないバンドは珍しくない。しかしfruityはオムニバスに1曲参加という小憎い戦略(意図的だったかは不明)を繰り返していてそこからしかfruityの録音物を聞くことができなかった。

 そしてそのfruityが参加していたオムニバスの中でも、一際存在感の異様なCDが私と松ちゃんを虜にすることとなった。それはレスザンTVというレーベルからリリースされた「サンタVA」というアルバムだった。緑のジャケに有刺鉄線のリボンがかけられたB級なデザインのそのCDにはモールでできたローファイなサンタの人形がついていた。

 何でそんなおまけが、ついてくるのかよく分からなかったが、肝心の内容が更に不可解だった。fruityはいつも通りメロディアスでハイテンションでキャッチーな楽曲だったが、その他のアーティストは、日本語で歌われていたブラッドサースティーブッチャーズ以外ほとんどが容易には理解ができなかった。

 容易に理解できないロックはいくらでもあるが、大体のロックは洋楽の何かを真似てできたもの、という印象があった。しかしながらレスザンTVのオムニバスはオルタナを聞き始めていた私にもなかなかルーツが分からず、分からないけど何か気になる感じが拭いきれなかった。

 そして、気になる感じを引きずったままその「サンタVA」のレコ発があること、そしてそのライブにfruityも出ることを知った我々はとりあえず行ってみよう、ということになった。少し勝手が分かりつつあったメロコアやスカコアとはまったく違う世界のライブであろうことは疑いようがなく、松ちゃんと心を躍らせながら、このライブの後間もなくして閉店することになる伝説のライブハウス、新宿ロフトに向かうのだった。



第1話から読む


コトコト1週間 1話

8/18

 朝起きると見知らぬ生き物がピーと私の間に横たわっている。いや、見知らぬ生き物ではない。これは私の娘、こと子である。昨日、オヤジと車で、山形のピーの実家からピーとこと子を連れて帰ってきたのだ。

 こと子の名付け親は私である。確か30以上あったと思うが、私が挙げたあまたの候補が次々とピーに却下される中、「ことこ」は可愛いかもと言うので決まった。

 響きだけで決めたので漢字を当てるか考えたが「琴」だと意味が限定的すぎる。「言葉」「言の葉」の「こと」もあるな、とも考えたが「言子」だと変である。そこでどちらの意味も緩やかに含ませようと平仮名にすることに思いついた。

 「こと子」。いいじゃないか。思いついて平仮名の元の漢字を調べたら「己止子」となった。己を止める、というのはつまりエゴを抑える、という様にやや強引に解釈し、ワガママにならないように、という願いもトリプルで含ませて「こと子」。

 ピーがカレー好きだからコトコト煮込んで、こと子、というのも1番最後に付け足した。名前を聞かれて「こと子と言います」と紹介したらそれだけで可笑しい。

 朝メシを簡単に済ませて出勤。仕事が朝から忙しかった。太っちょのカップルが住んでいた部屋がカビと汚れが凄かったので、ツネさんとほぼ1日その部屋の整備に尽力した。

 私はタイルカーペットの張り替え。ツネさんは壁紙の張り替え。ツネさんは仕事の大先輩で、段取りが非常に上手く、私はツネさんの助手のような立場で働いているのだ。

 作業中、物凄い雨と物凄い雷に見舞われ、なかなかエキサイティングだった。整備が終わらず少し残業になったが、これはいつものことである。

 19時半に会社を出て、赤ちゃん用のボデソープを買って急いで帰宅した。急いで帰宅したのは早くこと子に会いたいからである。こんなにワクワクする仕事の帰り道は生涯初めてだと思った。

 その日の夜、私はこと子を初めて風呂に入れた。

8/19

 6時半に起きる。隣にこと子がいる。家族が増えたのである。またまだ不思議だ。可愛いな、可愛いな、と思いながら昨夜ピーが浸水させた玄米を炊く。

 炊いてる間にゴミ出しと庭の鉢の水やり、そして洗濯機を回す。庭の鉢にはミニトマト、白オクラ、春菊、枝豆などが育っている。素人菜園だからロクなもんではないが植物が伸びるのを毎日眺めるだけでも楽しいものだ。

 洗濯物を干す余裕がなかったので残りを、授乳しているピーにお願いして出勤。快晴。

 人形町の大きな物件に住んでた若い、ややワガママな女性客の苦情対応でイレギュラーの引越し業務。恒さんと20時半まで残業して何とか完了。よく汗をかいた。

 急いで帰宅しこと子の風呂。遅くなったのでベビーバスで洗ってやって済ます。晩飯は玄米リゾット。こと子とピーの就寝に合わせて寝る。

8/20

 仕事休みにつき8時半頃起床。夜中も明け方も泣けば授乳しているピーには頭が上がらない。

 こと子がオシッコで布団を汚したので天気が心配だが洗濯。朝ご飯の用意。カボチャサラダとナメタケソーメン。

 今日は久しぶりの赤い疑惑ライブで14時に家を出るので、それまでに用事を済ませようとピーとこと子と田無駅まで。ピーが散髪の間、私がこと子を預かり、内祝いの買い物など済ませる。

 初スリングで赤子を抱いたが腹巻きより温かくて気持ちい。こと子もよく寝てて私は助かった。散髪後のピーと帰宅途上ゲリラ豪雨に見舞われ、余計な傘の買い物。こと子が濡れないようにと、庇いながら帰るとバッグも靴もぐちゃぐちゃ。せっかく洗った洗濯物も濡れてしまい、急いで取り込む。

 そして、また大慌てで下北へ向かうも赤い疑惑のライブリハに遅刻。

 今日のイベントは出会って20年くらい経つ友人、DIEGOの久保君企画。彼にはずっとお世話になっている。彼のお母さんにもお世話になっている。そしていつも久保君の企画は最高である。

 昔馴染みのバンドや、大好きなSUPERDUMBも出てて始終楽しく、幸せな夜だった。

 赤い疑惑のライブも快調で沢山褒められた。Tシャツが久々に3枚も売れたので売上げをメンバーに手渡す。

 ライブが終わって、また急いで帰宅する。玄関にGが出た、というピーの悲鳴がLINEに流れた。帰宅早々G掃討作戦に乗出すも見つけ出せず、面目果たせず。

8/21

 弁当持って出勤。ピーさん得意のワッパ飯が復活。快晴。

 そば屋のそば運搬手伝い業務、閉鎖物件の閉鎖処理業務に専心。ここのところ運搬業務が続いており、やや腰に違和感あるので細心の注意を払う。

 業務の中途、ホームセンターでゴキ対策グッズを数点購入。これでゴキ出現の阻止を図りたいところだが、そう簡単に解決しないのがG問題の悩ましいところである。

 少し残業して急いで帰宅。ゴキ忌避スプレーを玄関に撒き、ブラックキャップを設置。ゴキの侵入口としてはどうも玄関が怪しいのでその辺を重点的に。

 晩飯にアサリとトマトのペペロンチーノ、カボチャサラダ、味噌汁、ぶどう。こと子を風呂にいれ、自分も風呂に。

 久しぶりにネットでCDが売れたので対応と出荷作業に着手するもこと子が泣き出し、ピーと私で代わり番こに抱っこしてあやす。最終的にはおっぱいで黙らせ就寝。出荷作業を明日に回し草臥れたので就寝。

8/22

 遅番。台風で朝から嵐。田無駅に行くまでに傘が崩壊す。防水性のトレッキングシューズと雨具という出で立ちで出勤。

 大島、錦糸町、門前仲町で作業。雨風ともに油断ならず、SNSで西武多摩湖線が崖崩れで脱線の報。防水性のトレッキングシューズもすぐに浸水して用をなさない。

 夕刻、入谷の閉鎖作業を終わらせ御苑のランドリーを清掃し帰社。雨足は大分落ち着いてきた。

 デザイナーの友人とミュージシャンの友人を私の仲介で引きあわせる、という呑みがあり、退勤後職場付近の中華で一献。私が主催だが、実は子供が戻ってきたばっかりでそろそろ、と22時頃締めてもらい帰路。

 帰ると子守に疲弊したピー。隣にはなかなか寝付かないこと子。状況を察しこと子を抱っこして散歩。北原六星会の路地をフラフラ歩きまわる。寝ついたかな、と思い部屋に戻り横に寝かすと、ふとまた起きてぐずる。折角ピーが寝ているのでまたすぐにこと子を連れ出す。

 そんなことを3、4回繰り返し、最終的にはママのおっぱいでようやく落ち着く。私も草臥れて就寝。叔父からのお祝いへのお礼を手紙で認めるつもりがズルズル後延ばしになっている。明日こそは。

8/23

 昨夜疲れてたのか9時まで爆睡。今日も遅番なので遅刻ではない。洗濯機を回しておかゆを食べる。出勤。

 本日は亀有で退室業務が2件。亀有はウチの会社でも1番遠い物件。高速を使っても1時間以上かかる。軽い旅行気分だ。

 大島で物件の漏水があり確認。お客さんのベッドが完全に濡れている。シェアハウス経営はボロい物件のリノベーションが多いので漏水なんかは頻繁に起こる。驚いていられない。

 恒さんに入谷物件の閉鎖業務確認をしてもらい、鶯谷でゴミを回収し、御苑のランドリーを掃除して帰社。本日も盛り沢山だった。

 白ごまと卵を買って帰宅。夕飯はソーメンと餃子。ピーの料理熱は子守りをしながらも健在で感心する。ピーが戻ってきてワッパ弁当も復活し大変助かっている。

 こと子を風呂に入れ、その後子守りを交代しピーを風呂へ。こと子は昨日よりは落ち着いていて、おっぱいで大人しくしてくれた。疲れ切ってまたも手紙を書けずに就寝。

8/24

 ちょっと発酵気味なカボチャサラダと義母が作った最高に美味いトウモロコシを食べて出勤。

 人形町の物件がネズミ騒動で閉鎖になるということで、閉鎖業務を兼ねた清掃。部屋の各所にネズミの糞が落ちていたので、実際頻繁に現れたのだろう。こんな部屋は貸し出せない。浴室のタイル目地に蔓延るカビが結構落ちるのでカビキラーでゴシゴシ。

 ピーのワッパ弁当を食う。ハマグリの様な焼き貝が入っていて驚いたが、後で聞いたらホンビノス貝だとのこと。聞いたことない貝だ。旨い。

 食後、蔵前で消火器交換、大島で雨漏りの原因を業者に見てもらう。漏れ部真上のバルコニーにウレタンの亀裂、サッシ周りのコーキングの亀裂などが原因では、とのこと。こんな小さな亀裂でも雨漏りの原因になる。

 退室者の対応をしてから門仲でカーテンの設置、電球交換をして帰社。こと子の守りがあるので急いで残務を済ませる。アスタでパクチーを買って帰宅。

 晩飯はアジの干物とキンピラ、キュウリの梅漬け、トマトとインゲンの鶏出汁スープ。田無駅近くの豆腐屋裏メニューで買う豆乳で作った特製プリンをデザートに。

 風呂を早めに入れてこと子と風呂に入り、ピーがおっぱいあげて私が抱いて揺らすと、今日はすんなり寝てくれた。と、思いきや、やはりその後何度かぐずり、抱き上げて胸の上でうつ伏せにさせて疲れさせたり、あの手この手でどうにか眠ってもらった。

 子どもができるとバンドどころじゃなくなると聞いていたけど、なるほど、こんな感じではなかなか自分の時間を確保するのが難しいはずである。しかし、何故か心地いい。今はとりあえずこれがいい。こと子と時間を過ごすのが楽しいのだ。

初産奮闘記

6/28

 こと子(私とピーの第一子)の予定日6/27から1日経つがまだ置賜からの連絡はない。仕事帰りにオヤジからメシでも食いに来ないかと電話。時期が時期で特に予定を入れてなかったので気軽に応じ実家でオヤジと晩餐。オレはいつでも車で動ける様酒は飲まない。

 出産はまだなのか、などと四方山話をしてるところに置賜の父タカシから、瞳の陣痛が始まったのでこちらに向かってください、とLINEが入る。話題を無理やり遮ってオヤジにその旨を伝え、今から出ると。オヤジには勿論その経緯は事前に伝えてたのでそのまま車を借りて山形に向かう。22時頃出て深夜2:45くらいに米沢の病院に着いた。

6/29

 病院に着くと山形の母ヒロコが入院したピーに付き添ってくれていた。ピーはまだ余裕がありそうな表情だったが、実際10分置きくらいで陣痛がくるので私は心配でいたたまれない。陣痛が始まってどの位で生まれるのかという認識がボンヤリしていた私に、母ヒロコは大体明日(厳密には今日)の昼くらいだろうと予測を発してくれたのでそんなもんなんだろうと、またボンヤリ思った。

 陣痛を何度も繰り返すうちに何もしてないのはアレなので、ピーの臀部を(厳密には肛門周辺を)ボールで押す作業に乗り出す。これは先に出産立会いを経験した友人からのアドバイスだったのだが、実際ピーも痛みの軽減になるらしく続けてくれるよう頼むので、間断なくやってくる陣痛の度に私は一生懸命お尻を押した。腰をさするのもいいらしく、それをひたすら続けた。その役割を母ヒロコも時々交代してくれて手伝ってくれたがなかなか力のいる作業なので私がむしろ率先した。

 本来なら陣痛が始まって12~16時間くらいでいよいよ分娩に入るのが平均的だそうで、母ヒロコもそんな検討で昼頃、と予測したのだろう。しかし、通常陣痛と陣痛の間がどんどん短くなる経過であるはずが、ピーの陣痛の間隔はなかなか縮まらなかった。

 予測した昼を過ぎても様子は変わらない。主治医や助産師さんは陣痛の間隔が2分くらいになり、子宮口がしっかり開かなければ分娩には入れないという。ピーの子宮口はまだあまり開いてないのだという。なんだか不安な緊張感が我々を包み始めた。安産整体なども積極的にやったりしたのに、あんまり効果なかったのかな、と不安が不安を倍増させる。加えて昨晩から寝てない私と母ヒロコは付き添いだけで朦朧とし始めた。しかし1番不安で痛くて苦しいのはピーであるので付き添いもとにかく必死に言葉少なく、ひたすら陣痛が来るたびの尻押しやマッサージにあたるのみである。

 間隔はなかなか短くならなかったが痛みはどんどん強くなっていくようで、ピーの痛みに対する悲鳴もどんどん加速していき、陣痛が始まって24時間経過したあたりから、いよいよ我々は不安に包まれていった。24時間を越えたら難産、というくらいの認識はあったのでこれからどうなるのかハラハラした。主治医も助産師さん達も、まだまだですねえ、と言ったり、でもお腹の子は元気ですから、と数値を見ながら言ったりしたが、具体的なことはなかなか言わないので私は不安だけでなく医院に対する不満すらも巣食い始めてしまった。何しろ子を産まねばならぬピー自身が長引く陣痛の恐怖と痛みで戦意を喪失しかけていくのが明らかにかんじられ、ジリジリした空気が病室を満たし始めていたからだ。

6/30

 通例では子宮口が10cmくらいは開かないと分娩には入れないという。しかし6/30になって陣痛の痛み方が激しくなってきているのにピーの子宮口は3.5cmくらいまでしか開いてないらしく、それを知らされたピーはどんどん追い込まれた。私はもう眠気に苛まれて、意識は朦朧とするしピーの苦しみを見ているのも辛く、先が見えない不安の中で、キタ、というピーの陣痛の報せの度にハッと目を覚まして相変わらず尻を押したり腰をさすったりしていた。母ヒロコは時々ピーを言葉で励ますが最早疲労と眠気で疲れきっているのが分かる。それでも陣痛の間隔を測る携帯アプリで必死に記録を続けてくれた。

 このままどこまでこの終わりの見えない闘いが続くのだろうとテンパっていると、ピーの様子が変わった。陣痛の痛みを、助産師さんのアドバイスに忠実に呼吸法で克服しようと懸命になり始めたのだ。それまではマイペースに自分のやり方でやり過ごそうとしていたのだが、その呼吸法を意識的に取り入れ始めて今までより大人しくなっているようだった。私は眠気のあまりその変化に甘えてうたた寝を沢山していたような気がしたが後でピーから聞いたらあの時はとにかく必死に痛みをただ我慢していたのだそうだ。

 そうこうしている内に世が明けていったが、呼吸法の効果があるのかないのか再び陣痛ごとにピーは激しい痛みを訴えるようになり、もうムリ、とか、もうヤダ、とか、絶望的な調子が絶叫とともに吐き出されるようになると、時々は頑張れ頑張れと励ましていた私も絶望的に引っ張られてしまった。これだけ痛がってるのになかなか陣痛の間隔ぎ狭まらないし、それで、ここへくるまでは陣痛促進剤とか帝王切開とかは絶対やりたくない、と気を張っていたピーも、それらを使って楽になれるなら、と弱気な発言まで飛び出した。私も同様に促進剤や切開など避けて出産できると過信していたのに、ピーの苦しみを見ていたらそれらを全否定する勇気もなくなってしまった。

 しかし、光は決して我々を見放さなかった。朝の検診の段階で子宮口が遂に7.5cmまで広がってきた、もうあと少しだ、きっと昼頃には生まれますよ、ようやく主治医が具体的なことを言ってくれたのだ。そのセリフは疲労と不安と不満と、半ば絶望に包まれていた我々を一気に覚醒させた。終わりが見えるということがどれだけ力を与えてくれることか、我々はそれを身にしみて感じ体に残された体力と気力を振り絞った。

 絶望に包まれかけていたピーもそこから一気に前向きになった。叫んで苦しみながらもフー、フーと呼吸法を死に物狂いで続け、お腹の子と会えるその瞬間のためにとにかく頑張り続けた。その姿は私を感動させずにはおかなかった。天真爛漫だけど打たれ弱く泣き虫のピーにここまでの気力と意地と健気さがあったとは。私はその辺りから半泣きでずっとサポートを続けた。

 昼が近づき遂に分娩台に上がれるまでに子宮口が開いてくれた。先生の予測した昼頃というのは少し過ぎそうだったがあと1~2時間できっと赤ちゃんに会えるのだ、というところまできた。分娩室には1人しか付き添えないため母ヒロコは隣の控え室に残り、私だけ手術衣装に着替えさせられ分娩室に入った。

 一昨日の夜から休むことなく痛みに襲われているピーは疲労しきっているが赤ちゃんにもうすぐ会える、という希望が最後の踏ん張りをかなりパワフルなものにさせていた。陣痛のタイミングでいきむ彼女は別次元の女性に見えた。私は涙を垂らしながら付き添ったが、不謹慎にもあまりの眠気で何度か落ちそうになった。旦那さん、ご気分悪いですか?と助産師さんに言われたが、気分がわるいのではなく眠いのであった。

 14時丁度、我々の子供が生まれた。こんなにヘビーな出産になるとは私もピーも母ヒロコも予想してなかったので、その感動と達成感は並大抵のものではなかった。ことピーに関しては一生に一度か二度かの大仕事を達成したのである。あまりの苦しみのため本人も涙すら出なかった、と後で漏らしていたが、それくらいの難行だったのだ。

 新生児室に連れて行かれる前に私は赤子を抱っこさせてもらい、ピーは寝たまま赤子に乳を飲ませる儀式をした。その時のピーの安らかな表情は忘れ得ぬほど美しいものだった。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
赤い疑惑の活動報告
およびアクセルの手記
赤い疑惑WEB
赤い疑惑CD販売↓
赤い商店

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
リンク