アクセルの意気地記 第8話 おーいしょと歩く

かわいいかわいいと思っていても、赤ちゃんをあやすのはなかなか難しい。ピーがいる時にあやすのは気が楽だが、私が1人で面倒みないといけない状況では不安になるし、どうしても持て余してしまう。パパにはリーサルウェポンとしてのおっぱいがないのだから。

赤ちゃんに、赤ちゃんの視点になってバア、とか、赤ちゃん言葉で接触を図るのもそれなりに気概と気合が必要である。もう少し上手くやれないかな、と思うが、そう生易しいものではないし、持って生まれた才能というのもあるだろう。

これまでの子守で私が赤ちゃんとのタイマンを最も迫られたのは、ピーが風呂に入ってる間のつなぎの時間である。ものの15分くらいでも初めはなかなか大変だった。こと子の好きなおもちゃとか、ぬいぐるみとか、お腹に乗せたりだとか、抱っこしたりだとか、いろいろやってもどうかすると泣かれてしまう。ハイハイができるようになる頃からは無闇矢鱈と泣き喚くことも多少減り、大分事情が変わってきて、ピーの風呂の間泣かせないで一緒に遊ぶことができるようになってきたが、一通りのこと子マニュアルを私がやった後にさあ次は何してアソボウカ?と沈黙してしまうと、急にソッポを向いて、「マンマ」とか言いながら風呂に向かってハイハイで消えて行くこと子の後ろ姿を見送る時の私の切なさよ。

そのままほっておけば、風呂のドアの前に座り、今度はバンバンとドアを叩き出す。そうなったら私はピーに、役立たずの旦那として舐められてしまうので、そうなる前に連れ戻す。もう一度やり直させてください。さながら失恋した青年よろしく。

そうこうしてる内にもこと子はつかまり立ちを覚え、遂にはつかまらない立ちを覚えた。初めはフラフラしていたけど、次第に背筋を伸ばして立てるようになった。こちらが、おおっ、と驚いてみせると、こと子はどうだ、と言わんばかりの得意顔である。

つかまり立ちから歩き出すまではあっという間だよ、と先輩諸氏から言われて、そんなものなのか、と私は思いこませれて、いつ歩くかいつ歩くかと胸を焦がせて日々過ごしていたのだが、一向に歩き出す気配がない。実はこの拙文を認めた数日前に、遂にこと子がよちよちと歩き出すようになったのだが、「つかまり立ちから歩き出すまではすぐだよ」という実感は全然なくて、実際かれこれ2.3ヶ月くらいかかったんじゃないかな。どうでもいいか。

話が前後するし脱線するが、数カ月前からこと子が、目が合った私やピーやその他の大人に向かって両手を斜め前方に突き上げるポーズを覚えた。赤ちゃんなら誰でもやるだろう、この抱っこしてポーズだが、両手を広げてグイと突き上げてくる時、こと子の口は必ずトンガらせてタコみたいになっている。内に秘めたる不満の大きさが伝わってきて憎めないし可愛いし。こんなことをされて抱き上げない訳にはいかないではないか。

このやろう、かわいいな、と思ってしゃがんで脚にチカラを入れ、よし、と立ち上がる。私は過去にヘルニアを経験しているのでこのように膝から立ち上がらないと腰痛の再発に発展しかねないのだ。

ある日、私がいつも通りこと子を抱え上げようと脚に力を入れて踏ん張って立ち上がると、腕の中にいること子が「おーいしょ!」というのでビックリした。何を急に、よいしょと言う役目はこっちなんだが、と思ったが、それから何度もこと子を抱え上げる度にこの「おーいしょ!」が飛び出した。その度にピーと可笑しくて笑っていたのだが、どうしてこうなったのかが段々と推測できた。

こと子が持ち上げられる時に掛け声をかけるようになったのは、きっと保育室で、恐らく年輩の保母さん達が子どもを抱える時には決まってよいしょ、と言っているからだろう。で、抱えられること子が同情してなのか一緒においしょ、と言うことになったのだろう。想像するとありありとその情景が浮かんでくる。

その後こと子は何か不満になると私やピーに向かって両手を伸ばすケースが増えた。こうすれば抱っこしてもらえると学習したのだろう。そうなると、余程のことがない限り我々はこと子を抱き上げなくてはならないが、その重労働の始めに腕の中のこと子に「おーいしょ!」と応援されると何だか脱力しつつ愉快になってしまうのだ。

この「おーいしょ」はそんな風に抱き上げられるための掛け声で使われていたが、後日こと子の主体性をもって使われるようになった。ウチの近所に少し変わった公園がある。幼児がいつでも気軽に遊べるようにオモチャのトラックやら乗り物が放置されているのだ。それら遊具のほとんどは風雨に晒されるため、変色してボロボロになっており、夜などにその公園を見ると遊具の墓場みたいでそれはそれで奇妙なのだが、近隣の子育てママ達はそんなことは気にせずに、すっかりその遊具で子ども達を日中遊ばせている。

その公園はホントにウチから目と鼻の先にあるので、私も何度もこと子を連れて行き遊ばせているのだが、つかまり立ちができるようになってからは、それらの遊具にこと子が俄然興味を示すようになったので遊ばせてみると、オモチャのトラックを押して1人で歩き出したではないか。よちよちと一歩ずつ前進すること子の口からは例の「おーいしょ!」が飛び出したのだ。足を一歩前に出す度におーいしょ、と言っている。一歩ずつその掛け声をかけるのは彼女にとっての一歩が大変難しい動きだからであろう。

よいしょ、とか、よっこいしょ、とかその手の掛け声は、ともするとジジくさい、ババくさい、と言われ、確かにそんな印象もあり、そう思われたくないからなるべくよいしょ、と言わないように我慢してる人すらいるかもしれない。ところが、保育室のおばちゃんに影響を受けた我が娘はその掛け声を覚え、抱き上げられる時以外でも歩く時に自然とその掛け声が飛び出すようになったのである。それからしばらくの間、おーいしょ、おーいしょ、と言いながらつかまり歩きしたり、我々が手を引いてあんよの練習する時もおーいしょ、おーいしょ、と言うので可笑しかった。

このこと子のおーいしょ話を職場の後輩で、何かというと、よいしょ、とか、よっこらしょと口にする若者に話したら、自分、ついつい使っちゃうんですよねえ、と恥ずかしそうにしていたが、彼は彼なりに、そうやって掛け声を発した方が力が出やすいということを知っているようだった。私も実際よいしょの掛け声にそういう効用があるのかも分からない、と信じ始めているのだが、その職場のよいしょ君は、それを裏付けるように、力を入れる時に声を出した方が力が出やすい、という学者か何かの研究の成果が存在してるのです、というようなことを言っていた。別に学者が言い出さなくても、掛け声で力が出やすくなる、なんていうことは驚くに足るようなことではない気もするが、私はなるほど、と思った。

ということは、よいしょとかよっこらしょというのを口にしちゃう若者がバカにされるのは異常事態なんじゃないか、とまで私は思い始めた。私はそもそも、よいしょ否定派ではなく時々つい口から漏れてしまうことがあるのを昔から自覚していたが、これからは遠慮なくよいしょ、よいしょとやっていこうと思った。育児とは関係ない話になってきたようだけど、私はこと子のおかげでそんなことに気づいたり影響を受けたりし始めているこの頃なのである。
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バンド漫記 第20話 アジア貧乏旅行と新バンド結成

大学を卒業した2000年の4月に私は2ヶ月間のアジア貧乏旅行に出た。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を陸路で回った。この旅には裏テーマがあり、それはベトナムのサンドイッチとして有名なバインミーの研究をするというものだった。

というのも前回ベトナムを訪れた時にそのバインミーの美味しさに感動し、屋台でやっているバインミー屋さんの姿を見て、コレだ、これを日本でやったらウケるに違いない、と思い込み、将来の生業にできれば、と軽く考えていたからなのだ。そうなのだが、そういうテーマを決めておけば旅に出る説得力が演出されるんじゃないか、と思っていたのも事実で、私はその旅でバインミー屋台の実態を調査したのだが、その後実際に日本でバインミー屋台をやることはなかった。結局そこまでの情熱を注げなかったのだ。

しかし、2ヶ月間のアジア放浪は本当に楽しいものだった。自由な長期旅行に出ている間の、あのハイな気分というものは物凄い。あんなに刺激的な2ヶ月を私はそれ以降持っただろうか。一泊数百円の安宿を転々とし、長距離バスで国境を越える。いろんな国のバックパッカー達と触れ合い、地元の人たちとも密に触れ合ったりすることもできた。騙されたり、スリにあったり、お腹を壊し続けたり。またウィードカルチャーを知ったのもこの時で、私はこのカルチャーにも大きな影響を受けてしまった。

旅の間、当時ハマっていたウェディング・プレゼントというイギリスのバンドの疾走感溢れるナンバーを旅のBGMにして、これからやってくる私の第2の人生のことをワクワク想像しながらいろんなことを考えていた。世界はとてつもなく広くて、自分の存在は何てちっぽけなんだろう、と陳腐な感慨に満たされながらも、前向きに生きてけば必ず明るい未来が待っている、という妙な全能感にも襲われたりしていた。お前はそのままでいいんだよ、というスタンスをウィードに教わったのも私の心を癒してくれた。そして存分に旅を楽しみながらも、早く日本に帰って本気のバンドを始めてやるんだ、というある種の焦燥感にも駆られていたのだ。

さて、2ヶ月のアジア放浪旅行から戻ると、私は早速実家を出る手筈を整えた。実は大学在学中、相棒の松ちゃんより密に親睦を深めていたシマケンという同級生がいて、私は彼と一緒に共同生活をすることにしたのだ。私とシマケンは、ハードコアパンクスの先輩がたむろし、私が最もお世話になっていた街、西荻窪に2間のアパートを借りることになった。

私はベトナムサンドイッチ屋さんのことは金ができた未来にお預けとし、とりあえずはアルバイト生活に突入。学生時代からバイト経験のあった飲食業界で仕事を探した。飲食業界に的を絞っていたのは料理が好きだったから、という理由の他に、美味いモノを作って目の前のお客さんに食べてもらってお金をもらう、というシンプル極まりない商売の仕組みに正義を見出していたからである。

バンドマンがバイトを探すにあたり重要なのは、スタジオに入る時間とライブに出演するための時間の確保ができるかどうかである。つまるところ平日の夜と土日が休みであることが理想で、そうなってくると一般的なサラリーマンの労働形態とさして変わらない。ここで問題なのが、飲食業界では夜と土日が掻き入れ時であるということだ。

私はフロムAやら求人誌とにらめっこをしながら、平日夜と土日が休みの特殊な労働形態の飲食バイトがないか探した。すると、この条件に敵うものが一応あるのである。会社や工場の社食や、土日休みのオフィス街にある飲食店のランチバイトなどだ。私は洒落た料理を覚えたかったこともありオフィス街の料理屋に的を絞った。すぐに青山二丁目にある創作料理屋のランチバイトが決まった。

この洒落た飲食店で私の後から鳴り物入りで料理長として入ってきたYくん、という人物が凄かった。彼はいわゆる横浜のお洒落な不良だった。ヤンキーというよりはギャングスタという感じで、クラブ遊びに喧嘩に女。サッカーが大好きらしく胸にプーマと5枚葉の墨が入っていた。私がそれまで付き合ったり仲良くしてきた文化系の連中とは全く違う世界の住人、という感じだったので初めは戸惑ったが、Y君も私のキャラを面白がってくれて、すぐに仲良くなってしまった。

私は彼に連れられて慣れない合コンや、所謂ナンパクラブである桜木町のガスパニックなんかにも行った。Y君やその仲間たちのクラブでの立ち居振る舞い、そしてナンパの仕方は見事だった。クラブ内、通りすがりのねえちゃんのオッパイやお尻を触りながら冗談を言って歩く。私はアウトサイダーに憧れていた時期だったので自分もナンパの1つくらい、と思っていたのだが、彼らのフランク極まりないやり方に衝撃を受け尻込みしてしまい、ほぼ誰にも声をかけられないまま時間を持て余すしかなかった。ガスパニックに集うセクシーなチャンネエ達の本命は米軍のプレイボーイで、そこに地元の日本人の不良どもが紛れ込んでアメ公に負けじとナンパを仕掛けてるように見えた。だから私のような文化系もやしっ子が勇気を出して声かけてみても一瞥もされなかった。私はすっかり消沈してしまった。

結局Y君のクラブ遊びについていったのは2回ほどで身の程を知って、それからはたまにオフの時に遊んだ程度なのだが、彼はギャングスタだったからウィードが好きで、それで私は日本にもウィードカルチャーが歴然と存在してることを知ってどっぷり浸かるようになってしまった。

西荻の共同生活は楽しく、極めて楽観的なバイブスの持ち主だったシマケンと楽しく暮らしていた。gutsposeを解散させた私は松ちゃんと始めるバンドのドラムに、この楽器素人のシマケンを抜擢することにした。なにしろ私の好きで聞いてる音楽をそっくり真似して聞いていたし、何しろ仲がよかったのだから自然の成り行きである。初心者でなんぼ、音痴でなんぼのパンク精神を共に肯定していた松ちゃんも異論は挟まなかった。

しかし問題は松ちゃんがもうボーカルは懲りた、と言い出し、オレはベースやりたい、とダダを捏ね始めたことだ。松ちゃんは声がいいのでボーカル向きだと思っていたが、個人の意志を尊重してベースを握ってもらい、私はギターを。すると当然ボーカルは誰がやる?ということになり、仕方なく私がやることにした。いや、正直に言えば私はボーカルをやりたかったのかもしれないが、自分は音痴だし声もシケてるし、という劣等感が私の中で大きかったのだ。そんな風に思っていたのだが、心の奥底の欲求が、この状況を理由にボーカルにトライするのを後押ししたのかもしれない。

どうせ自分が歌うなら日本語で誰も歌わないような歌を歌おう、と思った。当時のインディーパンクシーンでスタンダードになっていた英詞ブームに対する反発もあって日本語で勝負すべき、と強く思っていた。そしてみんながビックリするような、そんな歌を作ろう。

私のそうした熱意とは裏腹に新たに結成したその3ピースバンドは、学生時代にある程度カタチを残したgutspose以上に無残な演奏だった。何しろ、松ちゃんは初めてベースを握り、シマケンは初めてスティックを握ったのだ。そしてその2人ともがリズム感を持っていなかったのだ。それでも私は自分が優れた演奏者でない事も自覚していたし、何より初心者が思いつきでバンドを始めちゃう、というパンクマインドをやはり重視したくて、また、演奏技術よりもフィーリングの合う仲間とバンドをやることが重要だと考えていたので、無茶苦茶な演奏のスタジオ練習をただただ積み重ね、繰り返していた。ベースのフレーズもドラムのフレーズも私が考えてそれをコピーしてもらった。あの時の我々にはまだそんなバカバカしいことに費やす時間が溢れていたのだ。

つづく

アクセルの意気地記 第7話 我が子可愛さに

赤ちゃんは遊ぶことが仕事、と何かに書いてあったが、子育てをしてみるとなるほど納得する。首が座り、腰が座り、ハイハイができるようになればそこら中にあるものを握ったりくわえたり、振ったり、叩いたり、とにかくじっとしてられなくて勤勉に仕事に励む。

手で握れる物なら何でもおもちゃになってしまうのだが、握り心地や、形状、触ったりした時の音などで好き嫌いがはっきりしてくる。こと子は箸やペンなど、細長い棒状のモノが好きで、私が食事をしていると箸を奪い取ろうと強い力で引っ張る。その箸で皿やらそこら辺を叩いては楽しそうにしている。

ぬいぐるみなどは分かりやすく反応がよくて、中でもクラッチ家からお下がりでもらった白いうさぎのぬいぐるみが大好きだ。近づけると顔をくしゃくしゃにして喜んで抱きしめたりするので、困った時はこのうさぎを連れてくる。他にも実家でホコリを被ってたリスや、振るとキュッキュと鳴くペンギンや、クマのぬいぐるみがそのままリュックになったやつなど、眼、鼻があって動物らしきものは、何かしらの生物であると認識できるらしく、なおかつフワフワの触り心地がこと子を興奮させるらしい。しかし、クラッチ家は男の子でうさぎのぬいぐるみは全然ウケなかったらしく、不思議だが、こういうところに早くも男子、女子の違いが出ているのだろうか。

こと子は4月から保育室に通えることになった。保育室というのは認可型小規模保育というカテゴリーで、そこは定員5名なので丁寧に子供を見てくれる、というのが利点らしい。ウチから歩いて5分かからない、とにかく近くていい。そもそも、もともとピーが週2、3回のバイトだったので、保育園に応募してもダメだろうと思っていたのだが、どういうくじ運なのか通ってしまった。しかも世帯収入の低い我が家の保育費は1万円以下で済んでビックリした。

保育室には幼児向けのいろんなおもちゃが置いてあり、私は面談の時にそれらを解説してもらいながら眺めた。その中で、丸いものを丸い穴に落とすだけのおもちゃがあって、私にはそれが印象的だった。

丸いものが丸い穴に入って落ちる、という大人からしたら何でもない道理が赤ちゃんには面白いらしい。私は感心した。そうだ赤ちゃんにとってはすべてが未知の世界なんだ。

とある日、用事があって近所のハードオフに行った。子供のおもちゃコーナーを何気なく見ていると、ある木製のおもちゃが目に止まった。一辺10数センチの立方体で中は空洞。1つの面が開閉式になっていて開けるといろんな形に整形された木片が入ってる。表面が正方形、長方形、三角形、台形、丸、楕円、などいろんな形をした、厚みのある木片だ。立方体の3つの面にそのいろんな形の穴が穿ってあり、その穴にそれぞれの木片を、形を合わせて立方体の中に落として遊ぶだけのおもちゃだ。

私は保育室で見たおもちゃのことを思い出してそれが欲しくなった。木のおもちゃ、というだけで魅力だし、それぞれの木片はカラフルなペンキが塗られてて楽しいし、何しろ中古で300円とお値打ちではないか、というわけで買ってみた。

不思議そうに見つめること子を前に、私がデモンストレーションでオレンジの円柱を丸い穴に合わせて箱の中に落としてみた。すると眼を見開き、歯のない口をあんぐりと開けてこと子が私を見上げた。(あぁ〜!)と、声は出さないけどとにかく、最大限に驚いた表情なのだ。その表情が可愛すぎて、純粋すぎて、私はこと子を抱きしめずにはおれなかった。

この驚きのあんぐり顔はその木の箱のおもちゃで遊ぶ時以外にも驚いた時に発動するようになった。その顔を見ると私もつられて「あぁ〜!」っと声をあげて、ビックリ顔で一緒に驚くのが楽しかった。保育室の先生は「顔の半分が口になる」と表現していたが言い得て妙である。

さて、さきほどの木の箱であるが、穿った穴と同じ形の木片を落とすのがこのおもちゃの面白みなのだが、まだその仕組みが分からないこと子は、開閉可能な面を開けてそのまま木片を、その大きく開いた面から、穿った穴を通さずに中に放り込んでも同じあぁ〜! の表情を私に向けてきた。おもちゃの設定を無視してもこと子が面白ければオールOK。要するに箱の中に何かを入れたり取り出したりすることが面白いらしいのだ。

その面白みのせいでこと子はゴミ箱からティッシュやらゴミを取り出したり、ゴミじゃないものをゴミ箱に入れて、あぁ〜! と1人で楽しそうだ。ある時私の爪切りを、目の前でゴミ箱に放り込んでいたのを眼にした私は、(仕方ない、後でゴミ箱から救出しよう)と思いながら忘れてしまった。

それで後日、爪切りがないぞ、ないぞ、と探し回り、たまりかねてピーにも爪切りを知らないか、と救いを求めたが一向に見つからない。丁度燃えるゴミを出す前日の夜、ふと数日前にこと子が爪切りをゴミ箱に放り込んだ瞬間の映像が脳裏をよぎった。

私は興奮しながらゴミ箱を漁った。爪切りはそれなりの重さがあるので、汚い芥をかき分けてゴミ箱の底に手を伸ばすと果たして爪切りがあるではないか。私は安堵して奇跡的な爪切りの救出に満悦した。

こと子はまだしゃべらないが、最近では「マンマ」「ワンワン」など多少表記可能な単語を発する。その中で「ドンバ」というのがあって、響きが面白いので、真似して面白がっていたら、それが段々「ボンバ」になり、状況によっては「マンバ」になったり「ドンドンバ」に変わったり、「ドンベ」と言ったかと思えば最終的には「ドンベシ」となった。

こと子の中では何かしらのタイミングや動機があってそれらの言葉を発してるのであろうはずで、そう考えると興味深い。2歳くらいになったらどういう意味だったのかこと子に聞いてみようとピーが言ってるが、そんなことは可能なのだろうか。しかし、幼児に胎児の時の、つまりお母さんのお腹にいた時のことを聞くと覚えていて話してくれる子たちがいるらしい。だとすると後で「ドンバ」の意味も分かることがあるかもしれない。

「バ」という濁音は発音しやすいのだろうか。こと子にいないバーを教えるとすぐに気に入って、いないいな〜い、をこっちが言うと嬉しそうに「バア」と答えるようになった。初めは布を使って顔を隠したりしてたので、垂れ下がるカーテンの下で、カーテンの裾を引っ張って自分の顔を覆い、顔を覆った布を振り払っては「バア」と言っている。これは自作自演であって1人でやっているのである。愛おしい。

最近では私が仕事から帰るとダッシュでハイハイして来たりして胸キュン度は最高潮である。こんな体験を世の中の父親たちはさりげなく体験していたのかあ、と思うと不思議な気持ちになる。我が子可愛さに、という響きだけ長年何となく聞き流していた。そりゃあ自分の子供は可愛いのだろう、と何となく想像していたものだが、実際の可愛いさ、というのは想像を遥かに越え、私は生きる力を、活力を、こと子からもらっているようだ。

バンド漫記 第19話 大学卒業を目前に控えて

My gutspose!
Oh your gutspose!
Your gutspose!
Oh my gutspose!
Everybody wanna do it once a day!
Everybody wanna do it once again!

これは私が学生時代に全力を注いだバンド、GUTSPOSEのテーマソングである。オレのガッツポーズ、お前のガッツポーズ! 1日1回ガッツポーズ! いつかまたガッツポーズな! という極めて下らない詩を、ショボい稚拙なバンドサウンドに乗っけて私とクラッチが叫んでいる。

私はギターとコーラス担当で、ピンボーカルは松ちゃん。松ちゃんはいい声の持ち主で、ハードコアパンクへの熱情は私と同程度に持っていたが、私が作った曲にメロディを乗せるという段階ではなかなか音痴であった。また、ハードコアボーカルとして最も大切な、客を威嚇する度胸に欠けており、まず正面を向いて歌う、ということすら満足にできなかった。だから松ちゃんはいつもドラマーであるヤギの方に身体を捻ったり、または天井をエモーショナルに見つめて歌うという情けない有様であったが、私は「ショボいパンク」ということに誇りを抱いていたので大して文句を言った記憶もない。

私が所有していたMTRを使って録音して作ったCDRは「a cup of H/C...」と題した。これは一杯のコーヒーと一杯のハードコアをかけたジョークだ。音楽媒体ではハードコアを略してH/Cと表記することがあり、それをパロった訳である。内容は、私が当時入れ込んでいたSSTという米インディーレーベルの代表バンドであったBLACK FLAGやMINUTEMENの要素にその他オルタナティブロックやエモーショナルパンク、そして憧れていた日本のレーベル、レスザンTVの要素などをごちゃ混ぜにしたような楽曲が並んでいる。オリジナリティはあるが自分で聞きかえしてみてもなかなか酷い代物である。

その頃、西荻窪界隈にレスザンTVやfruityに憧れた同世代の小さなハードコアシーンが形成されつつあり、GUTSPOSEもその末席に加わっていた。私はそこでカクバリズムで大成功を収める(カクバリ)ワタル君や、絵描きとして活躍し、後年赤い疑惑のアー写撮影などをしてくれることとなる箕浦健太郎や、赤い疑惑のアートワークを手掛けてくれるようになる2x、カメマンなどとの出会いがあった。その界隈でGUTSPOSEは一定の評価を受けていたのだが、私はその時既にGUTSPOSEを解散させることを決意していた。

GUTSPOSEのメンバーで、ベーシストであったナリ君は固い企業に就職を決めており、ドラマーのヤギもまた就職を決めていた。ヤギは私のように、音楽でどうこうしようとか、バンドマンとしてこのまま活動する自信がない、ときっぱり言った。一方ナリ君は就職しながらでも続けたそうであったが冷酷な私は、ナリ君の希望を排し、就職を選ばなかった松ちゃんと新たにバンドを結成することを考えていた。そして記憶がはっきりしないがGUTSPOSEは私が大学を卒業する前に正式に解散した。前に進みたい私にバンド解散への未練は一切なかった。

大学生活も終盤を迎え、周囲が就活で大騒ぎしてるのをよそ目に、私は就職せずにフリーターになって本格的にバンド活動に専念する日々をワクワクしながら過ごした。そして就職しないで社会に出る、という他の連中と違う道を選択したことを華々しく自分に印象づけるために卒業直後の2000年4月から2ヶ月間東南アジア放浪の旅に出る計画を立てた。「好きにしろ」と言った両親はいよいよ私のバカな計画に呆れていたが、もう何も言わなかった。

この頃の私は自分の価値観以外のモノは認めない、というとんでもなく利己的で愚かなポリシーを持っていた。もともと天邪鬼で、王道なものやメジャーなものに対する反感の姿勢は高校の頃から培われており、家庭でも母や姉が見ているテレビ番組や音楽番組をけなしてみせたり、フリッパーズギターやオザケンを好む同年代の女子をバカにしてみせたり、ちょっとバックパッカーの真似事をしたからといって、当時流行っていた旅恋愛番組「あいのり」をこきおろし、こんなのはホントに旅じゃない、などと揶揄したりしていた。

そのように世間をディスる傾向は些細な事柄にも及び、私が追いかけていたインディーシーンのバンドに対しても善し悪しをハッキリさせなければ気が済まなかった。また就活している学生全員をバカにしてみせたり、ひねくれ方がこじれ始めていた。しかし、私がそのような過度な批判やディスを繰り返していたのは自分のやっていこうとしている、フリーターでバンドを頑張るという選択や、今現在やっているバンド、GUTSPOSEの不甲斐なさへの裏返しでしかなかったような気がする。私はその後も、もちろん今でもそのようなひねくれ気質を多少なり持っていると自覚しているが、社会に出る手前のこの時期が最も拗れていたように思う。

元々ジュンスカイウォーカーズに憧れて、ロックスターを夢見て始めたバンド人生であったが、気がつけばパンク、ハードコア、アンダーグラウンドなどとかなり偏った世界にハマってしまっていた。しかし、ハードコアに心酔しながらも私の中で小さな変化がこの頃から生じ始めてもいた。それは信頼しているレーベル買いなどでハズレを買う回数が増えたり、大好きなレスザンTVからのリリースでも全然ピンと来ないものがあったり、そのように盲目的に信奉し、ほとんど信仰していた価値観に懐疑を抱くような機会が増えてきたのである。

一旦、疑念が起き上がってくるとその傾向は止まらなくなる。私はパンクやハードコア、または広く全般的なロックのファンでありオタクであったのだが、それらの音楽のリズムのベースになっている8ビート、4ビート、2ビートという縦に刻めるリズムに飽き始めたのである。と同時に私が牽引したイン研のメンバーの影響でレゲエに興味を持ち始めるようになったのだ。レゲエといえばヒップホップと同じくらい自分とは違う人種のやってる音楽で全く良さが分からない、とそれまでの私は判断していたのであるが…

また、この頃の衝撃の出来事としてたまとの再会がある。何気なくチケットぴあをパラパラと見ていたら、私の音楽熱を小6の時に覚醒させた「さよなら人類」のあのたまが、地元の近隣である吉祥寺の曼荼羅という小さいライブハウスでライブをやっていることが分かって、メジャーからインディーに移って以降まったく追いかけてなかったたまというバンドに再度、私は急激に興味をそそられ、早速聴きに行ってみたのだ。

たまはインディーに移ってからもその音楽的魅力を変質させることなく、極めてマイペースに自分たちの音楽を続けていて、デビュー当時過度にクローズアップされていた外見的異様さも落ち着いた分、より歌のよさが前面に出ている印象を受けた。結果的に私はそこで観たたまのライブに大号泣してしまい、日本語で歌う歌の素晴らしさを再度認識することになる。

ずっと憧れて追いかけていたfruityは既に解散しschool jackets、your song is goodと名前を変え、スカパンクから変則ファストコア、エモコア、最終的にダンスバンドへと変貌を遂げていた。パンクに飽き始めていた私はそのような非パンク系音楽やポストロックなどに対する注意をより高めていくことになっていったが、それでも自分の核はハードコアパンクなのだ、という拘りを捨てきれずにいるのだった。

アクセルの意気地記 第6話 その日

その日、私は休みで、ピーさんも休み。こと子を保育室に預けて昼くらいまで、超久々に映画にでもでかけようか、と前日打ち合わせていた。しかしピーが体調を崩して床から起き上がれないほどだった。こと子は昨日から下痢しているし、ピーの苦渋の声を聞いて、私はこと子を保育室に預けるのも止して今日は1日子守りに専念することにした。

冷凍の食パンを焼き、耳以外の柔らかい部分とスクランブルエッグをこと子に食べさせた。私も適当に朝メシを済ませ、昨日の風呂水で洗濯機を回した。こと子の腹下しの影響でシーツも洗わねばならず、結局2回に分けて洗濯した。風呂水給水ポンプをセットしたり洗濯の終わった衣類を干したりする間も、手持ち無沙汰のこと子はずっとグズっていて、これではピーが安らかに休めないと思い、洗濯物を干し終えるとこと子を北原児童館に連れて行った。

児童館には家庭では抱えきれないくらい様々なおもちゃがあるので、まだ言葉を話せないこと子を遊ばせるには最適である。見たことあるようなおもちゃや見たことないようなおもちゃで遊ばせていると、保育室の先生と園児がやってきて、あら、コッピがいるよ、と先生が言うと、園児3人も順番に、コッピだ、コッピ、コッピと言って近づいてこと子に触ったりした。

私は普段、保育室でこと子がまわりの園児にコッピ、コッピと言われて可愛がられてるのか、と思うとじーんとした。こと子は保育室で1番年下で、他の子らは話せはしないけど、単語を発話できるくらいなのだ。コッピというのは普段私とピーがこと子の呼称として使っているのだがそれが保育室でも浸透してるらしい。

園長先生に今日妻が体調を崩して家で寝てる旨と明日からまたよろしくお願いします、ということを話していたら、お喋り好きの先生は子供たちを器用に遊ばせながらも、逆に私にいろいろ聞いてきた。話の流れで私が音楽を、というかバンドとかギター弾語りなんかをやっていて、ということをカミングアウトすると、あら、と驚いて、私も最近ウクレレを練習し始めて、とカミングアウト。ウクレレでそれこそ園児たちと唄えるようになれれば、と練習しているらしい。それなら、お別れ会の時に是非何か歌ってくださいね、と社交辞令をもらう。

昼食のために家に戻るとピーは依然床で固まっている。メシを作りこと子に食べさせ、オムツを替え、午後はまた別の、駅寄りの児童館に行ってみる。ここは1度ピーと行ったことがあるので勝手は分かっている。平日の昼に父親がこういう場所にいるのは珍しいので、他のママ達に声をかけられたりしながらこと子を遊ばせる。同じ月齢だという女の子でもハイハイができない子がいて、こと子の突進するようなハイハイを見てその子のお母さんに羨ましがられたが、逆にその子は下の前歯が綺麗に2本生えている。こと子は歯がまだ生えない。幼児の成長は人それぞれというが、なるほどと感心した。

閉館間際に保護者を交えて、児童館のスタッフの先導による、みんなでお遊戯の時間がある。その直前に「ゲンさんですか?」と私にあだ名で声をかけてきたお母さんがいた。私は驚き、顔を拝見し、どこかでお会いしたようなしてないような、心許ない気持ちで、え〜と?と、頼りない返事しかできない。
「Hです。マユちゃんの結婚パーティーの帰りにお話しした…」
私の脳裏に確かにその時の記憶がおぼろげながら蘇ってきた。私は失礼を詫びて、それからしばらく近況を交わした。Hさんは1歳の男の子を遊ばせていた。まさか、こんなところでお会いするとは。全体、世間は狭いものだ、また感心しているとすぐにみんなでお遊戯の時間に突入し、話しはそれきりになった。

児童館のベテランスタッフが、音楽の先生顔負けの美声で歌を歌ったり、踊ったりしてくれるのを、私もこと子を操りながら真似た。こと子はまだ訳が分からないので、他の幼児が静かに座ってベテランおばちゃんのお話を聞いてる場面でも構わずハイハイでおばちゃんのもとに突進するので私は何度も立ち上がって連れ戻さねばならなかった。

帰り際に、またHさんに挨拶して私は駅の方面に向かった。私は数日前から妙にバッティングセンターに行きたい気分に侵されていて、駅の南口にあるバッティングセンターに急激に行きたくなったからだ。

映画かドラマか、はっきり覚えてないが、過去にお父さんかお母さんが赤ちゃんを背負ったままバッティングセンターでバッティングをするシーンを何かで見た気がしていて、それを実現させようと思ったのだ。南口のバッティングセンターは私の実家の近所で、テニスコートが併設されたちょっとしたスポーツ施設で、私がガキの頃からあり、私はそこで何度もバットを振り回したものだ。

懐かしいな、と思いながらバッティングしているお客さんのところまで行き、少し観察してみたが、いや、これは、やっぱりこと子を背中に背負ったままでは無理ではないか、と弱気になった。こんなことで万が一ケガでもさせたらピーさんに会わせる顔がない。私はもう一度自分がバットをスイングする感じをイメージしてみたが、やっぱり危ないにキマッてる、と思い直し、受付のにいちゃんに怪訝な目を向けられながらも諦めて立ち去った。

帰宅すると6時近くなっていて、依然ピーは床で寝ている。こりゃ夕飯も自分がやらねば、そういえば昨日、冷蔵庫に手羽元と鯛が買ってあるから、と聞かされていて、手羽元はゴボウと梅煮にしたい、というピーの計画も聞いていた。私はピーの期待に応えるべく手羽元とゴボウの梅煮、そして鯛はタイ飯、それに味噌汁を作ることにしてまた台所で奮闘。

こと子はつまらなくなってぐずり出し、見兼ねたグロッキーのビーが床寝のまま授乳してくれたりしておとなしくなったが、またこっちに戻って来てグズったりして、途中抱き上げてご機嫌とりをしたり、煮物を煮てる間に風呂を入れたり、それはそれは大わらわ。しかも今夜は久方ぶりのバンド練習が控えていて、段々時間に追われ出し、バタバタとこと子と風呂に入り、慣れない1人子守り風呂を遂行し、ゴハンを食べさせ、自分も食べて、後は頼むとピーに託して家を出た。原付に乗りながら、世間の母ちゃん達は毎日これを1人でこなしてるんだもんな、ホントすごいよな、それで夜中は何度かおっぱいまであげて、ホントにすごいよ、マジリスペクトだな、と思った。

赤い疑惑のスタジオは約半年ぶりであった。いつものように集合して練習が始まるまで20分くらい世間話。ギターを握り、歌ったり叫んだりしてやはり楽しい。数曲復習して休憩。同じく子育て中のクラッチに今日は1日子守で大変だったよ、風呂を1人で入れんの大変じゃない?などとこぼしてみると、「そう?オレ、1人で風呂は平気かな…」と同情してくれないので悔しかった。股ぐらに子供を座らせてその間に自分も洗って、と手順を教えてくれたので、悔しいながらも私はなるほど、と相槌を打った。

練習が終わりスタジオの店長と久しぶりにお喋りした。バイトのスタッフが知らない若者に代わっていた。クラッチ、ブレーキーと別れ帰宅すると寝室は静まり返っていて、無事2人とも寝ついたようで安心した。

その日から幾度か、私は悔しいので1人子守風呂を積極的にこなし、もうお手の物である。
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