アクセルの意気地記 第7話 我が子可愛さに

赤ちゃんは遊ぶことが仕事、と何かに書いてあったが、子育てをしてみるとなるほど納得する。首が座り、腰が座り、ハイハイができるようになればそこら中にあるものを握ったりくわえたり、振ったり、叩いたり、とにかくじっとしてられなくて勤勉に仕事に励む。

手で握れる物なら何でもおもちゃになってしまうのだが、握り心地や、形状、触ったりした時の音などで好き嫌いがはっきりしてくる。こと子は箸やペンなど、細長い棒状のモノが好きで、私が食事をしていると箸を奪い取ろうと強い力で引っ張る。その箸で皿やらそこら辺を叩いては楽しそうにしている。

ぬいぐるみなどは分かりやすく反応がよくて、中でもクラッチ家からお下がりでもらった白いうさぎのぬいぐるみが大好きだ。近づけると顔をくしゃくしゃにして喜んで抱きしめたりするので、困った時はこのうさぎを連れてくる。他にも実家でホコリを被ってたリスや、振るとキュッキュと鳴くペンギンや、クマのぬいぐるみがそのままリュックになったやつなど、眼、鼻があって動物らしきものは、何かしらの生物であると認識できるらしく、なおかつフワフワの触り心地がこと子を興奮させるらしい。しかし、クラッチ家は男の子でうさぎのぬいぐるみは全然ウケなかったらしく、不思議だが、こういうところに早くも男子、女子の違いが出ているのだろうか。

こと子は4月から保育室に通えることになった。保育室というのは認可型小規模保育というカテゴリーで、そこは定員5名なので丁寧に子供を見てくれる、というのが利点らしい。ウチから歩いて5分かからない、とにかく近くていい。そもそも、もともとピーが週2、3回のバイトだったので、保育園に応募してもダメだろうと思っていたのだが、どういうくじ運なのか通ってしまった。しかも世帯収入の低い我が家の保育費は1万円以下で済んでビックリした。

保育室には幼児向けのいろんなおもちゃが置いてあり、私は面談の時にそれらを解説してもらいながら眺めた。その中で、丸いものを丸い穴に落とすだけのおもちゃがあって、私にはそれが印象的だった。

丸いものが丸い穴に入って落ちる、という大人からしたら何でもない道理が赤ちゃんには面白いらしい。私は感心した。そうだ赤ちゃんにとってはすべてが未知の世界なんだ。

とある日、用事があって近所のハードオフに行った。子供のおもちゃコーナーを何気なく見ていると、ある木製のおもちゃが目に止まった。一辺10数センチの立方体で中は空洞。1つの面が開閉式になっていて開けるといろんな形に整形された木片が入ってる。表面が正方形、長方形、三角形、台形、丸、楕円、などいろんな形をした、厚みのある木片だ。立方体の3つの面にそのいろんな形の穴が穿ってあり、その穴にそれぞれの木片を、形を合わせて立方体の中に落として遊ぶだけのおもちゃだ。

私は保育室で見たおもちゃのことを思い出してそれが欲しくなった。木のおもちゃ、というだけで魅力だし、それぞれの木片はカラフルなペンキが塗られてて楽しいし、何しろ中古で300円とお値打ちではないか、というわけで買ってみた。

不思議そうに見つめること子を前に、私がデモンストレーションでオレンジの円柱を丸い穴に合わせて箱の中に落としてみた。すると眼を見開き、歯のない口をあんぐりと開けてこと子が私を見上げた。(あぁ〜!)と、声は出さないけどとにかく、最大限に驚いた表情なのだ。その表情が可愛すぎて、純粋すぎて、私はこと子を抱きしめずにはおれなかった。

この驚きのあんぐり顔はその木の箱のおもちゃで遊ぶ時以外にも驚いた時に発動するようになった。その顔を見ると私もつられて「あぁ〜!」っと声をあげて、ビックリ顔で一緒に驚くのが楽しかった。保育室の先生は「顔の半分が口になる」と表現していたが言い得て妙である。

さて、さきほどの木の箱であるが、穿った穴と同じ形の木片を落とすのがこのおもちゃの面白みなのだが、まだその仕組みが分からないこと子は、開閉可能な面を開けてそのまま木片を、その大きく開いた面から、穿った穴を通さずに中に放り込んでも同じあぁ〜! の表情を私に向けてきた。おもちゃの設定を無視してもこと子が面白ければオールOK。要するに箱の中に何かを入れたり取り出したりすることが面白いらしいのだ。

その面白みのせいでこと子はゴミ箱からティッシュやらゴミを取り出したり、ゴミじゃないものをゴミ箱に入れて、あぁ〜! と1人で楽しそうだ。ある時私の爪切りを、目の前でゴミ箱に放り込んでいたのを眼にした私は、(仕方ない、後でゴミ箱から救出しよう)と思いながら忘れてしまった。

それで後日、爪切りがないぞ、ないぞ、と探し回り、たまりかねてピーにも爪切りを知らないか、と救いを求めたが一向に見つからない。丁度燃えるゴミを出す前日の夜、ふと数日前にこと子が爪切りをゴミ箱に放り込んだ瞬間の映像が脳裏をよぎった。

私は興奮しながらゴミ箱を漁った。爪切りはそれなりの重さがあるので、汚い芥をかき分けてゴミ箱の底に手を伸ばすと果たして爪切りがあるではないか。私は安堵して奇跡的な爪切りの救出に満悦した。

こと子はまだしゃべらないが、最近では「マンマ」「ワンワン」など多少表記可能な単語を発する。その中で「ドンバ」というのがあって、響きが面白いので、真似して面白がっていたら、それが段々「ボンバ」になり、状況によっては「マンバ」になったり「ドンドンバ」に変わったり、「ドンベ」と言ったかと思えば最終的には「ドンベシ」となった。

こと子の中では何かしらのタイミングや動機があってそれらの言葉を発してるのであろうはずで、そう考えると興味深い。2歳くらいになったらどういう意味だったのかこと子に聞いてみようとピーが言ってるが、そんなことは可能なのだろうか。しかし、幼児に胎児の時の、つまりお母さんのお腹にいた時のことを聞くと覚えていて話してくれる子たちがいるらしい。だとすると後で「ドンバ」の意味も分かることがあるかもしれない。

「バ」という濁音は発音しやすいのだろうか。こと子にいないバーを教えるとすぐに気に入って、いないいな〜い、をこっちが言うと嬉しそうに「バア」と答えるようになった。初めは布を使って顔を隠したりしてたので、垂れ下がるカーテンの下で、カーテンの裾を引っ張って自分の顔を覆い、顔を覆った布を振り払っては「バア」と言っている。これは自作自演であって1人でやっているのである。愛おしい。

最近では私が仕事から帰るとダッシュでハイハイして来たりして胸キュン度は最高潮である。こんな体験を世の中の父親たちはさりげなく体験していたのかあ、と思うと不思議な気持ちになる。我が子可愛さに、という響きだけ長年何となく聞き流していた。そりゃあ自分の子供は可愛いのだろう、と何となく想像していたものだが、実際の可愛いさ、というのは想像を遥かに越え、私は生きる力を、活力を、こと子からもらっているようだ。
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バンド漫記 第19話 大学卒業を目前に控えて

My gutspose!
Oh your gutspose!
Your gutspose!
Oh my gutspose!
Everybody wanna do it once a day!
Everybody wanna do it once again!

これは私が学生時代に全力を注いだバンド、GUTSPOSEのテーマソングである。オレのガッツポーズ、お前のガッツポーズ! 1日1回ガッツポーズ! いつかまたガッツポーズな! という極めて下らない詩を、ショボい稚拙なバンドサウンドに乗っけて私とクラッチが叫んでいる。

私はギターとコーラス担当で、ピンボーカルは松ちゃん。松ちゃんはいい声の持ち主で、ハードコアパンクへの熱情は私と同程度に持っていたが、私が作った曲にメロディを乗せるという段階ではなかなか音痴であった。また、ハードコアボーカルとして最も大切な、客を威嚇する度胸に欠けており、まず正面を向いて歌う、ということすら満足にできなかった。だから松ちゃんはいつもドラマーであるヤギの方に身体を捻ったり、または天井をエモーショナルに見つめて歌うという情けない有様であったが、私は「ショボいパンク」ということに誇りを抱いていたので大して文句を言った記憶もない。

私が所有していたMTRを使って録音して作ったCDRは「a cup of H/C...」と題した。これは一杯のコーヒーと一杯のハードコアをかけたジョークだ。音楽媒体ではハードコアを略してH/Cと表記することがあり、それをパロった訳である。内容は、私が当時入れ込んでいたSSTという米インディーレーベルの代表バンドであったBLACK FLAGやMINUTEMENの要素にその他オルタナティブロックやエモーショナルパンク、そして憧れていた日本のレーベル、レスザンTVの要素などをごちゃ混ぜにしたような楽曲が並んでいる。オリジナリティはあるが自分で聞きかえしてみてもなかなか酷い代物である。

その頃、西荻窪界隈にレスザンTVやfruityに憧れた同世代の小さなハードコアシーンが形成されつつあり、GUTSPOSEもその末席に加わっていた。私はそこでカクバリズムで大成功を収める(カクバリ)ワタル君や、絵描きとして活躍し、後年赤い疑惑のアー写撮影などをしてくれることとなる箕浦健太郎や、赤い疑惑のアートワークを手掛けてくれるようになる2x、カメマンなどとの出会いがあった。その界隈でGUTSPOSEは一定の評価を受けていたのだが、私はその時既にGUTSPOSEを解散させることを決意していた。

GUTSPOSEのメンバーで、ベーシストであったナリ君は固い企業に就職を決めており、ドラマーのヤギもまた就職を決めていた。ヤギは私のように、音楽でどうこうしようとか、バンドマンとしてこのまま活動する自信がない、ときっぱり言った。一方ナリ君は就職しながらでも続けたそうであったが冷酷な私は、ナリ君の希望を排し、就職を選ばなかった松ちゃんと新たにバンドを結成することを考えていた。そして記憶がはっきりしないがGUTSPOSEは私が大学を卒業する前に正式に解散した。前に進みたい私にバンド解散への未練は一切なかった。

大学生活も終盤を迎え、周囲が就活で大騒ぎしてるのをよそ目に、私は就職せずにフリーターになって本格的にバンド活動に専念する日々をワクワクしながら過ごした。そして就職しないで社会に出る、という他の連中と違う道を選択したことを華々しく自分に印象づけるために卒業直後の2000年4月から2ヶ月間東南アジア放浪の旅に出る計画を立てた。「好きにしろ」と言った両親はいよいよ私のバカな計画に呆れていたが、もう何も言わなかった。

この頃の私は自分の価値観以外のモノは認めない、というとんでもなく利己的で愚かなポリシーを持っていた。もともと天邪鬼で、王道なものやメジャーなものに対する反感の姿勢は高校の頃から培われており、家庭でも母や姉が見ているテレビ番組や音楽番組をけなしてみせたり、フリッパーズギターやオザケンを好む同年代の女子をバカにしてみせたり、ちょっとバックパッカーの真似事をしたからといって、当時流行っていた旅恋愛番組「あいのり」をこきおろし、こんなのはホントに旅じゃない、などと揶揄したりしていた。

そのように世間をディスる傾向は些細な事柄にも及び、私が追いかけていたインディーシーンのバンドに対しても善し悪しをハッキリさせなければ気が済まなかった。また就活している学生全員をバカにしてみせたり、ひねくれ方がこじれ始めていた。しかし、私がそのような過度な批判やディスを繰り返していたのは自分のやっていこうとしている、フリーターでバンドを頑張るという選択や、今現在やっているバンド、GUTSPOSEの不甲斐なさへの裏返しでしかなかったような気がする。私はその後も、もちろん今でもそのようなひねくれ気質を多少なり持っていると自覚しているが、社会に出る手前のこの時期が最も拗れていたように思う。

元々ジュンスカイウォーカーズに憧れて、ロックスターを夢見て始めたバンド人生であったが、気がつけばパンク、ハードコア、アンダーグラウンドなどとかなり偏った世界にハマってしまっていた。しかし、ハードコアに心酔しながらも私の中で小さな変化がこの頃から生じ始めてもいた。それは信頼しているレーベル買いなどでハズレを買う回数が増えたり、大好きなレスザンTVからのリリースでも全然ピンと来ないものがあったり、そのように盲目的に信奉し、ほとんど信仰していた価値観に懐疑を抱くような機会が増えてきたのである。

一旦、疑念が起き上がってくるとその傾向は止まらなくなる。私はパンクやハードコア、または広く全般的なロックのファンでありオタクであったのだが、それらの音楽のリズムのベースになっている8ビート、4ビート、2ビートという縦に刻めるリズムに飽き始めたのである。と同時に私が牽引したイン研のメンバーの影響でレゲエに興味を持ち始めるようになったのだ。レゲエといえばヒップホップと同じくらい自分とは違う人種のやってる音楽で全く良さが分からない、とそれまでの私は判断していたのであるが…

また、この頃の衝撃の出来事としてたまとの再会がある。何気なくチケットぴあをパラパラと見ていたら、私の音楽熱を小6の時に覚醒させた「さよなら人類」のあのたまが、地元の近隣である吉祥寺の曼荼羅という小さいライブハウスでライブをやっていることが分かって、メジャーからインディーに移って以降まったく追いかけてなかったたまというバンドに再度、私は急激に興味をそそられ、早速聴きに行ってみたのだ。

たまはインディーに移ってからもその音楽的魅力を変質させることなく、極めてマイペースに自分たちの音楽を続けていて、デビュー当時過度にクローズアップされていた外見的異様さも落ち着いた分、より歌のよさが前面に出ている印象を受けた。結果的に私はそこで観たたまのライブに大号泣してしまい、日本語で歌う歌の素晴らしさを再度認識することになる。

ずっと憧れて追いかけていたfruityは既に解散しschool jackets、your song is goodと名前を変え、スカパンクから変則ファストコア、エモコア、最終的にダンスバンドへと変貌を遂げていた。パンクに飽き始めていた私はそのような非パンク系音楽やポストロックなどに対する注意をより高めていくことになっていったが、それでも自分の核はハードコアパンクなのだ、という拘りを捨てきれずにいるのだった。

アクセルの意気地記 第6話 その日

その日、私は休みで、ピーさんも休み。こと子を保育室に預けて昼くらいまで、超久々に映画にでもでかけようか、と前日打ち合わせていた。しかしピーが体調を崩して床から起き上がれないほどだった。こと子は昨日から下痢しているし、ピーの苦渋の声を聞いて、私はこと子を保育室に預けるのも止して今日は1日子守りに専念することにした。

冷凍の食パンを焼き、耳以外の柔らかい部分とスクランブルエッグをこと子に食べさせた。私も適当に朝メシを済ませ、昨日の風呂水で洗濯機を回した。こと子の腹下しの影響でシーツも洗わねばならず、結局2回に分けて洗濯した。風呂水給水ポンプをセットしたり洗濯の終わった衣類を干したりする間も、手持ち無沙汰のこと子はずっとグズっていて、これではピーが安らかに休めないと思い、洗濯物を干し終えるとこと子を北原児童館に連れて行った。

児童館には家庭では抱えきれないくらい様々なおもちゃがあるので、まだ言葉を話せないこと子を遊ばせるには最適である。見たことあるようなおもちゃや見たことないようなおもちゃで遊ばせていると、保育室の先生と園児がやってきて、あら、コッピがいるよ、と先生が言うと、園児3人も順番に、コッピだ、コッピ、コッピと言って近づいてこと子に触ったりした。

私は普段、保育室でこと子がまわりの園児にコッピ、コッピと言われて可愛がられてるのか、と思うとじーんとした。こと子は保育室で1番年下で、他の子らは話せはしないけど、単語を発話できるくらいなのだ。コッピというのは普段私とピーがこと子の呼称として使っているのだがそれが保育室でも浸透してるらしい。

園長先生に今日妻が体調を崩して家で寝てる旨と明日からまたよろしくお願いします、ということを話していたら、お喋り好きの先生は子供たちを器用に遊ばせながらも、逆に私にいろいろ聞いてきた。話の流れで私が音楽を、というかバンドとかギター弾語りなんかをやっていて、ということをカミングアウトすると、あら、と驚いて、私も最近ウクレレを練習し始めて、とカミングアウト。ウクレレでそれこそ園児たちと唄えるようになれれば、と練習しているらしい。それなら、お別れ会の時に是非何か歌ってくださいね、と社交辞令をもらう。

昼食のために家に戻るとピーは依然床で固まっている。メシを作りこと子に食べさせ、オムツを替え、午後はまた別の、駅寄りの児童館に行ってみる。ここは1度ピーと行ったことがあるので勝手は分かっている。平日の昼に父親がこういう場所にいるのは珍しいので、他のママ達に声をかけられたりしながらこと子を遊ばせる。同じ月齢だという女の子でもハイハイができない子がいて、こと子の突進するようなハイハイを見てその子のお母さんに羨ましがられたが、逆にその子は下の前歯が綺麗に2本生えている。こと子は歯がまだ生えない。幼児の成長は人それぞれというが、なるほどと感心した。

閉館間際に保護者を交えて、児童館のスタッフの先導による、みんなでお遊戯の時間がある。その直前に「ゲンさんですか?」と私にあだ名で声をかけてきたお母さんがいた。私は驚き、顔を拝見し、どこかでお会いしたようなしてないような、心許ない気持ちで、え〜と?と、頼りない返事しかできない。
「Hです。マユちゃんの結婚パーティーの帰りにお話しした…」
私の脳裏に確かにその時の記憶がおぼろげながら蘇ってきた。私は失礼を詫びて、それからしばらく近況を交わした。Hさんは1歳の男の子を遊ばせていた。まさか、こんなところでお会いするとは。全体、世間は狭いものだ、また感心しているとすぐにみんなでお遊戯の時間に突入し、話しはそれきりになった。

児童館のベテランスタッフが、音楽の先生顔負けの美声で歌を歌ったり、踊ったりしてくれるのを、私もこと子を操りながら真似た。こと子はまだ訳が分からないので、他の幼児が静かに座ってベテランおばちゃんのお話を聞いてる場面でも構わずハイハイでおばちゃんのもとに突進するので私は何度も立ち上がって連れ戻さねばならなかった。

帰り際に、またHさんに挨拶して私は駅の方面に向かった。私は数日前から妙にバッティングセンターに行きたい気分に侵されていて、駅の南口にあるバッティングセンターに急激に行きたくなったからだ。

映画かドラマか、はっきり覚えてないが、過去にお父さんかお母さんが赤ちゃんを背負ったままバッティングセンターでバッティングをするシーンを何かで見た気がしていて、それを実現させようと思ったのだ。南口のバッティングセンターは私の実家の近所で、テニスコートが併設されたちょっとしたスポーツ施設で、私がガキの頃からあり、私はそこで何度もバットを振り回したものだ。

懐かしいな、と思いながらバッティングしているお客さんのところまで行き、少し観察してみたが、いや、これは、やっぱりこと子を背中に背負ったままでは無理ではないか、と弱気になった。こんなことで万が一ケガでもさせたらピーさんに会わせる顔がない。私はもう一度自分がバットをスイングする感じをイメージしてみたが、やっぱり危ないにキマッてる、と思い直し、受付のにいちゃんに怪訝な目を向けられながらも諦めて立ち去った。

帰宅すると6時近くなっていて、依然ピーは床で寝ている。こりゃ夕飯も自分がやらねば、そういえば昨日、冷蔵庫に手羽元と鯛が買ってあるから、と聞かされていて、手羽元はゴボウと梅煮にしたい、というピーの計画も聞いていた。私はピーの期待に応えるべく手羽元とゴボウの梅煮、そして鯛はタイ飯、それに味噌汁を作ることにしてまた台所で奮闘。

こと子はつまらなくなってぐずり出し、見兼ねたグロッキーのビーが床寝のまま授乳してくれたりしておとなしくなったが、またこっちに戻って来てグズったりして、途中抱き上げてご機嫌とりをしたり、煮物を煮てる間に風呂を入れたり、それはそれは大わらわ。しかも今夜は久方ぶりのバンド練習が控えていて、段々時間に追われ出し、バタバタとこと子と風呂に入り、慣れない1人子守り風呂を遂行し、ゴハンを食べさせ、自分も食べて、後は頼むとピーに託して家を出た。原付に乗りながら、世間の母ちゃん達は毎日これを1人でこなしてるんだもんな、ホントすごいよな、それで夜中は何度かおっぱいまであげて、ホントにすごいよ、マジリスペクトだな、と思った。

赤い疑惑のスタジオは約半年ぶりであった。いつものように集合して練習が始まるまで20分くらい世間話。ギターを握り、歌ったり叫んだりしてやはり楽しい。数曲復習して休憩。同じく子育て中のクラッチに今日は1日子守で大変だったよ、風呂を1人で入れんの大変じゃない?などとこぼしてみると、「そう?オレ、1人で風呂は平気かな…」と同情してくれないので悔しかった。股ぐらに子供を座らせてその間に自分も洗って、と手順を教えてくれたので、悔しいながらも私はなるほど、と相槌を打った。

練習が終わりスタジオの店長と久しぶりにお喋りした。バイトのスタッフが知らない若者に代わっていた。クラッチ、ブレーキーと別れ帰宅すると寝室は静まり返っていて、無事2人とも寝ついたようで安心した。

その日から幾度か、私は悔しいので1人子守風呂を積極的にこなし、もうお手の物である。

バンド漫記 第18話 ハードコア信仰と就職放棄

レスザンTVを追っかけてるウチに私はハードコアパンクの虜になった。ハードコア、略してHC。音楽的には早めな2ビートに、歪んだ、しかし簡素なパワーコードの進行を反復させながら、ボーカルが主に不条理なことに対する怒りをシャウトする。もちろん叫ぶ内容は限定されないが、こういったパンクの一形態は、矛盾や綺麗事をあちこちに抱えた現代社会に対する個のアティチュードとしては崇高で男らしいものに感じられ、HCに魅せられた多くの若者と同様に私はHC信者になりつつあった。

権力や世間や常識などに抗い、常に弱者の視点に立ち、音楽活動面においてはメジャーを退け、誰の指図も受けずインディーで行動し、DIYを体現していく。社会に対しても自分に対しても、常に問いかけをやめぬストイックな姿勢。でありながら集団行動や世間が苦手なアウトローな輩でも馴染みやすいオープンな土壌がパンクやHCには存在していた。

一見強面のHCシーンだが、我々のような都会育ち文化系のボンボンが軟弱な音とルックスでHCをやっても文句など言われない。レスザンTVのようなユニークなハードコアのあり方を知って、私は自分でもハードコアパンクを演奏できるはずだと思っていた。HCの懐は深く優しかった。

私が松ちゃんと結成したGUTSPOSEというバンドは、そういった本来はエッジのきいた音楽であるHCを自分達流に解釈しながらヘッポコなパンクサウンドを作り続け、レスザンTV界隈の西荻HCシーンの先輩達によくしてもらいながら、オリジナルのカセットテープとCDRを自主製作して発表するまでにいたった。

私がやっていたサークル、インディーズ研究会のメンバーはしょっちゅうライブに顔を出してくれていたが、皆、GUTSPOSEのライブを「見ているこっちがハラハラする」と評し、私達の演奏の拙さにいつも注目していたが、一部ではその我々の演奏のショボさを本気で評価してくれる人もいた。忘れもしない、あのロマンポルシェの掟ポルシェさんにも、西荻のWATTSで「お前達、絶対上達しちゃダメだぞ」などと絶賛されるほどだったが、私は上達したくないわけではなかったので嬉しいやら悲しいやら。

また、この時期はバックパッカーくずれの海外旅行をしたり、鉄割アルバトロスケットという前衛パフォーマンス集団の周りをウロウロしたり、要するに有り余る時間があったので、私はGUTSPOSEにとどまらず他のバンドでドラムを叩いたり、先述の掟ポルシェ氏の相方であるロマン優光(プンクボイ)氏のバンドでベースを弾いたりもしていた。それは崇拝していたレスザン谷口さんが、3つも4つもバンドを掛け持ちでやってるのを見て、その自由さに影響を受けたからだった。バンドを1つに絞る必要などない、という考え方は私にはかなり新鮮で、いろいろやればやるほど楽しいじゃん、と思い込むようになっていた。

高校の時MTRの宅録からスタートした、私の弾き語りであるねろもこの時期に再開していた。なにしろGUTSPOSEのようなショボいHCバンドでこの先それを生業にしようとは、バカの私でも流石にそれは無理だろうと踏んでいた。だから弾き語りならもっとポップなだけの売れ筋の曲が作れるだろう、と軽率に信じ込んでいたのだ。それでまた10数曲入りのMD(MDが一瞬出回った時期に)をねろで作った。なかなかの自信作だったので早速プロモートしようと果敢にキャンパスの野外で演奏活動をしてみたのだが、これがてんでまともに演奏できない、歌えない。

宅録作品では何度も何度もやり直しながら作るし、多重録音で伴奏も重ねてるから曲としてましなカタチになっていたかもしれないが、実際ギターと歌だけで人前でやってみたらこれがまあ全くお粗末な仕上がりで、自分の、それまで疑問視していた歌唱力に対しても自信を失ったし、それ以降弾き語りはあまり積極的にやらなくなってしまった。

大学も3年の終わりが近づくと、周囲の学生が俄かに「就活」にソワソワし始めた。私がその頃最も毛嫌いしていた現象の1つであり、同じサークルの、サブカル好きの仲間たちまで就活し始めるのを見て私は失望していた。漫画とか音楽とか映画とか、とことん好きなモノがあるのに将来を不安視して手堅い道を選ぶのか、つまらねえな、と私はそんなことばかり考えていた。パンク、HCや海外旅行を経て、私は造反有理というか、とにかく世間や社会にツバ吐いたり背を向けたりして生きていくアウトサイダーこそが男の道だろう、くらいに思い詰めていた。

実家では母に「あんた就職どうするのよ?」と迫られ、私は大学に行くか行かないかで揉めた時と変わらず、バンドをやるから就職しないよ、と答え、母をホントに失望させた。この時は、普段登場しないオヤジがいよいよ出てきて、お前どういうつもりなんだ、と睨んだ。頑固な私に手を焼いた母がオヤジに陳情したのだろう。私は、卒業したらフリーターになってバンドを続ける固い決意を表明し、バカ真面目に自分が進むであろうインディーズというカテゴリーのことや、インディーズとメジャーの違いなどを熱を入れて語った。勿論、母も父も理解できず呆れていた。

両親は結局、私が何を言っても頑としているので、ある時期から、もう好きにしろ、と諦めた。その代わり、自分で生計を立ててやってくんだぞ、と念を押したが生意気な私は、そのつもりだよ、と憮然と返答し、しかし胸がカッカッと燃えるように熱くなっているのを感じていた。今思えば、母のその「もう好きにしろ」という啖呵が、私の背中を後押ししてくれたのだと思える。ありがとう、母ちゃん。

両親には見栄を張ったものの、私は実は心の奥底で不安だった。周りのみんなが就活に勤しんでいるのを、表面的には飄然とバカにしていたが、自分がミュージシャンとしてやっていけるのか、ハッキリ言って未知数過ぎて幾度も不安に陥った。しかし、家族に張った見栄が自分の拠り所となり、きっとどうにかなる、と思い込むようにしていた。

この頃、あの幻覚作用のあるマジックマッシュルームというのが流行っていて(非合法になる前で)、ある日友人とマジックマッシュルームでトリップしていた時、ギターが超絶うまかった友人の弾くビートルズのブラックバードを聞いて、突然号泣してしまったことがあった。私は突然自分が号泣してしまったので狼狽えたが、その時感じた悲しみというのが、「僕の尊敬するレスザンの人達のライブはいつも何であんなに人が入らないのだろう」という何とも様にならないものだった。余程心の奥底にこれからの人生に対する不安を秘めていたに違いない。

自分が憧れるようなパンクやハードコアでは売れないかもしれない。あんなにかっこいいのに、それでは食っていけないかもしれない…。

以前触れた通り、当時はインディーズというジャンル自体が隆盛を極めた時代で、ハイスタンダードをはじめ、多くのメロコア、スカコアバンドがメジャーデビューしていた。ただ、それ以外のパンクバンドでも、大好きだったブラッド・サースティー・ブッチャーズがメジャーからCDを出したり、尊敬していたイースタンユースなどが自主レーベルで人気を爆発させていたり、新しい流れが多少あったので私の心の救いは、そういう現象に絞り込まれていた。

元はレスザンからリリースしていたが、ギターウルフやDMBQのようにメジャーに進出したヘンテコなバンドも意外にあった。これは我々が当時憧れていたアメリカのHCやオルタナティブシーンでも同じ状況だったので、自分のやりたいようにバンドをやってメジャーになるのも不可能ではない、と信じることは荒唐無稽な話でもなかった。

若さというものは恐ろしいもので、私はそんな風にバンドで食っていけるのか心の奥で不安を抱えていたのに関わらず、自分は絶対ロックで食うようになるのだ、という相反する根拠の無い自信をも常に持ち続けていた。大学生最後の年が迫り、そして1990年代が終わろうとしていた。

つづく

アクセルの意気地記 第5話

私の恋人の、あ、いや、私の娘のこと子は、この世にやってきて先日で10ヶ月を生き抜いたことになった。めでたい。

半年くらいからずり這いという匍匐前進で動き始め、今ではハイハイ、つかまり立ちとあっという間に進化してしまった。

フェイスブックとか、友人の情報交換とかだったりがとても役に立って、子供服なんかはホントに大量にいただくことができて大変助かった。が、その中で男の子モノなのか迷彩柄のものが混ざっていて、ピーと整理している時にそれを見た私は、「さすがにそれは…」と言って、次の人に回すコーナーに入れてもらった。例の安保法制が強行採決された時、レフトウィングな私は非常に憤り国会前のデモなんかにも参加していた。結局、法案は通ってしまったのでこれからの自衛隊のあり方は変わってくるかもしれないし、将来我が子に赤紙が来ることも100%否定はできない。みんな油断するな。

無関心の国民が多数なのは知っていたけど、こんなご時世だから我が子が迷彩柄の服を来て匍匐前進、というかずり這いをして近づいて来たらいくら親バカでも流石に私は嫌だ。そんな姿は冗談でも見たくない。安倍や石破がコスプレして楽しんでいればよい。そんな訳でくださった方には申し訳ないけど、お姫様、あ、いや、女の子だしその迷彩柄はスルーしました。

子供服なんてこれまで何の興味もなかったのに、我が子の着てる子供服を見ていると段々子供服自体に愛着が湧いてきたりして、ミッフィーとかキティーとかプーさんとか、やつらの凄さ、可愛さが私のハートを揺さぶるようになった。沢山貰い物して充分なのに、ピーはビーキッズという近所の子供古着屋でなにかにつけて新たに服を買い集めた。安いし、私も子供服キュンが分かるようになってきてしまったので、ある程度許容してたら子供服の量が凄いことになってきた。

ずり這いやらハイハイやらで、私を見つけたこと子がニコっと痛快な笑顔を見せたかと思うと奇声を発して凄い速さで近づいてくるようになった。「そのうちハイハイで近づいて来るようになるんだもんね〜、ヤバいよねぇ…」などと期待を膨らませていたのも束の間、現実に目の前のこと子が走って、いや、這いずって近づいてくる…。こんなに可愛くていいのか、こんなに幸せでいいのか、私は親になった喜びを噛み締めた。

離乳食もいつの間にか始まって、こと子はまだ歯が生えないのに食欲旺盛で、おいおいそんなに食えるのかよ、と突っ込みたくなるほど貪る時もある。いつの間にか離乳食が始まったと思ったらいつの間にか固形の野菜や米を、歯ぐきだけでガツガツ食べるようになってしまった。バナナやサツマイモは大好物で我々が千切ってる間にも口を大きく広げて身を乗り出してきて恐ろしい。一時期はティッシュをむしって食べるのが流行って、結局食べ物ではないと分かったのか、気づいた私が口の中に手を突っ込むとよだれと咀嚼で圧縮されたティッシュの固まりが取り出されるのだった。

つかまり立ち、というのにも段階があって初めはつかまり立つこと自体が大変なので、両手でちゃぶ台を必死に掴み、お尻を突き出したまま、身体はくの字なりでプルプル震えてる。そしてすぐに脚の筋肉が堪え切れなくなってそのままの姿勢で泣き出す。つかまり立ったはいいけど、今度は座れなくなってしまうのだ。その度に、ハイハイ、と言ってこと子を座らせてあげる。

でもそんな期間もすぐ終わり、くの字なりだった姿勢もピンと背筋が伸びてきて、途端に人間めいた立姿になっている。両手でプルプルだったのも片手で涼しい顔をし始めた。ぎこちないがそこから座れるようにもなって成長著しい。

しかし、このつかまり立ちに余裕が出てきてからは、片手でちゃぶ台を抑え、空いた片手でちゃぶ台の上を荒らし始めるので私達の食事がさあ大変。生まれたばかりの時もなかなか大変だったが、今度はまた別次元の大変さだ。並べたオカズやゴハンをこと子がつかまり立ちしたところから遠くにやる。私達は遠くのオカズを取ったりしながら食べるのだが、ちゃぶ台がそもそも小さいので限度があり、最終的にはちゃぶ台から畳にオカズの皿を下ろしたりして、結局ちゃぶ台で食べてる風情、というか意味がなくなってくるから面白い。ちゃぶ台に向かっているのにちゃぶ台を使わずに畳に直に置いた料理を結果的に食べている。

つかまり立ちを覚えてからはちゃぶ台に限らず何でも掴まって立とうとする。座っていれば膝に掴まってもたれかかってくるし、寝ているピーはよくこと子によじ登られている。そのまま2人で寝ていることもよくある。愛らしい姿だ。最近では立っている私の足に掴まって立っている。私が洗い物に集中していてアプローチを無視してると泣き出す。

言葉はというとまだまだ難しい。とはいえこと子はよく喋っている。初めは、「アー」「アオー」「ンコッ」という感じだったが気づけば「アンマァ」とか「マンマァ」とか言ってじゃみるようになって可愛い。その他日本語で表記できそうもない音声を発して、機嫌のいい時は1人でずっと喋っている。真似すると喜ぶ。

そしてオヤジの私を認識しているのがはっきりしてきてからは、アイコンタクトなんかもしている。こと子が笑うと大変可愛いので私もニヤニヤ見つめ返す。最近は見つめ返すだけで楽しそうにしてくれるので私は堪らない。そして私は笑顔が増えた。ありがたいことだ。

私やピーがよく笑うからなのか、それはどうかよく分からないけどこと子は沢山笑ってくれる。友達があやしてくれる時もいつも楽しそうに愛想を振りまいている。街でも電車でも、特におばちゃんとかおばあちゃんとか、お姉さんとか女性にすぐに反応して笑顔を振りまくので、そこで恐ろしい浮き世の方々と、にこやかな交流が生まれて私は新鮮な気持ちになる。そして私はこと子のおかげで社交性のスキルがあがっている。ありがたいことだ。しかしあまり愛想がよいとそのうち誘拐されてしまわないか、知らない人についていってしまわないか今から心配でもある。

ピーさんが雑事や授乳で疲れ果てたりすると私は時々ピーの周りでじゃみること子を捕まえて持ち上げる。そのまま抱っこで家を出て近所の六星会の住宅地をグルグル歩き回る。ぐずっていても外に連れ出してみると泣き止むことが多く、そして歩いてると高い確率で寝てくれるからだ。

体重は8キロを超えて抱っこは抱っこでシンドいのだが、私は仕事中ずっとこと子と会えないからなのか、ただ触れ合う温かさが気持ちいいのか、とにかくこと子が好きだからなのか、もうよく分からないけどとにかく抱っこするのが好きだ。抱っこしてすぐに、ああ、重いなぁ、と弱音が喉元にやってくるのだが抱っこが好きなのだ。こと子を抱えて家を出て上手く寝かしつけることができた時は鼻高々な気持ちで、自分を褒めてやりたくなる。どうだ、凄いだろうと家に帰るとピーは疲労で寝てるので自慢する相手がいない。そして私はそおっと寝ついたこと子を床に着地させる。そおっとそおっとやる。これがまた難しいのだ。上手く寝てくれたのに数分後にまた、ギャァと泣いて目覚めることもある。そうなったらまた一からやり直しである。
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