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アクセルの意気地記 第29話 次女の誕生

4月下旬に次女出産のため里帰り中のピーさんから夜中電話があって、こと子がホームシックで泣き止まない、ということがあり、それから少し頻繁に連絡を取るようにしていたのだが(そのことを文章に書いたため周囲の友人達からもいろいろ心配されていたのだが)、その日以降こと子のホームシックは収まって(親戚の話せる叔母からは小さい子なんてそんなもんよ、と諌められた…)安心した私は、引き続き休みごとに小川町の新居に赴いて家のリフォームや片付けに専念していた。

この新居のリフォーム大作戦の目標は、最低でも家族が戻ってくるまでに、ボロいタイル張りの風呂を生まれ変わらせ、赤ちゃんも問題なく入浴できるようにするというもので、その苦労についても書きたいが子育てには関係ないので割愛。とにかく、降って湧いたコロナによる仕事の休みをフルに活用して、私は実家居候仮暮らしの田無と、新居のある小川町を、県外移動自粛要請を無視して往ったり来たりしていた。

しかし我が子に会えないのもなかなかツラいもので、GW中に山形にお忍びで私が行く計画も持ち上がったりもしたが、コロナ感染の社会的経過が思わしくないので断念。その時点で、出産の際、山形の入院先の病院には県内在住の、妊婦のご両親しか入れない、という辛い事実を確認していて、私はかなり凹んでいた。これももちろんコロナ感染防止のやむを得ない災いによるものだった。

では、私は一体いつ家族と会えるのだろう、と不安になってピーさんに聞いてみたものの彼女も答えに窮している。義父と電話で話した際に、「退院するタイミングで1度来ればいいさー」と、義父は励ますように言ってくれたので、しばらくそのつもりでいたのだが、また後になってピーさんから、退院後も厳しそうな雰囲気だから、もうこうなったら1ヶ月検診が終わって小川町に帰れるタイミングまで再会は辛抱しよう、と提案された。私は絶望的な気持ちになったが、会えない訳ではないしグッと堪える以外ないのか、と諦めた。

とはいえ新居の風呂のリフォームは、解体DIYと職人さんのプロの仕事を組み合わせ、素人の私が采配を振るうという、やや無謀な作戦だったので、実際は山形に行く暇が惜しいのも拭えない事実だった。が、そういう事情で、とにかく動き回っていたので、寂しさに押し潰されることもなく日々が過ぎたのも事実だった。

出産予定日の5月23日よりだいぶ早い5月14日の夜、ピーさんから、おしるしがきたかも、という報せが入った。こと子の時は予定日より出産が遅れたことを思い出し、今回も何となくそんな感じだと想定してたので少し焦った。そしてその4日後の5月18日に遂に入院となった。

前回こと子の時は、この時点で私は車を飛ばして山形に向かっていたのだが、今回は手をこまねいて東京にいる他にどうしようもない。私はどこか現実的で、まあ、大丈夫だろうと思い、その日もグッスリ眠ってしまった。翌19日の午前10時ころ、ピーさんが産まれたての次女を抱いて、やつれた笑顔を向けた写メを送ってくれた。私は仕事中だったが、嬉しくてジワっと泣いた。第一話に書いたが、長女が産まれたときは陣痛が始まってから実に40時間の闘いだったので、今回はそれよりも大分スムーズ。とはいえ、出産時のあの鬼気迫る空気を夫である私が共有せずにこの時を迎えてしまい、何となく申し訳ない気持ちにさえなった。が、とにかく嬉しかったのだ。

それから1ヶ月検診の日が決まり、私が迎えに行ける日も決まった。しかし私の風呂リフォームプロジェクトはまだ道半ばで、それが家族の帰還に間に合うのか、心配のタネはまだまだ残っている。ピーさんには、何とか間に合うよ、とは伝えていたが実はかなり不安とドキドキしていた。

必死だった私は、左官屋さんにお願いしていた土間コンクリートの一部をスケジュールの都合上DIYでチャレンジしたり、新居に遊びに来てくれてウチの庭をいじってくれる予定だった植木屋さんの友人に、庭いじりではなく解体をやってもらったり、想定外のことがいろいろ舞い込んで、瞬間的に敗北感やら焦燥感やらに苛まれることもあった。コンクリートを初めて練って打った時はいつも手伝ってくれるしゅうくんも不在で、1人でセメント臭い殺風景な風呂場で、セメント粉にまみれ、汗だくになりながら泣きそうになっていた。

しかし努力の甲斐あって、家族を迎えに行く2日前にちゃんとお湯が出て入浴できる状態にまで持ち込むことができた。6月中旬には実家の居候ライフを畳んで本格的に新居で暮らし始めていたのだが、家族を迎えに行く前日に、出来上がったこだわりの檜風呂の試浴を決行。お湯を入れるとにわかに露わになる檜の薫りに酔いしれた。

6月24日、いよいよ家族を迎えに山形へと発つ。生憎の雨模様で、曇天の暗い高速をひた走る。曇天でも、これからあと数時間もすれば愛する妻子と、そして産まれたての新生児に会えるのだ、と思うと胸が高なった。その高なりは福島から山形へと抜ける長いトンネルを出た瞬間に最高潮へ達した。それまでの宿雨が嘘のように晴れ渡る空が私を迎えたのだった。

これは神の祝福か、そんなことを考えているとピーさんから、家着く時LINEして、こと子を外に出させるから、とメッセージが届く。私はここ数日こと子との再会の感動のシーンをいろいろに想像していた。こと子が走ってきて私に飛びつく。私は走ってきたこと子を、こと子の名を呼び、抱き上げる…。もう一度イメージして、「OK」と返信した。

妻の実家に着いて車を降りると、ピーに促されるように表に出てきたこと子が、想定通り私に向かって走ってきた。そして私は、やはり想定どおり、「ことこ〜」と叫んで彼女を抱き上げた。抱き上げた瞬間に涙が出てきた。こぼれはしないが視界が霞む。その様子を携帯で撮影しているピーさんがいる。横にはもらい泣きを隠そうと努力している(風に見えた)義母がいる。こと子の背中をさすりながら、そうだ私はまだ見ぬふみ(次女の名前である)にも会いにきたのだ、と思い出し、ピーさんからふみを受け取った。

軽い、軽い、軽いなぁ。1ヶ月経ったとはいえくしゃくしゃな、まだ寝ることとおっぱいを吸うことしかできない赤ん坊が腕の中で蠢いている。こと子が、ふみを抱っこする私の足元に絡みついて離れなかった。

車の荷を下ろして寛いだ。久しぶりのこと子が凄い成長していたらどうしよう、と思っていたが、中身はそこまで変わってなさそうで若干拍子抜けした。2人きりになった時、こと子が言うのだった。
「お父さんの携帯でつよくなれる見たい…」。
何のことか分からないが、狼狽しつつも、よし、と気合いを入れ、youtubeで「つよくなれる」と検索してみた。その画面を覗き込んだこと子が「これこれ」と指をさす。なんだかよく分からないけど、久しぶりに会ったのに父ちゃんそのものよりも携帯かよ、と思わずにいられなかった。

後になってそれが鬼滅の刃というアニメの主題歌で、従姉妹の影響でこと子がハマっていた事実をピーさんから聞かされた。それから今日に至るまで、私としては生理的に受け付けないその曲を、こと子がやや恥じらいながら、謎のアイドル仕草とともに熱唱するのを、毎日聴かされているのだった。
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ROAD to 小川町 第2話 宇宙祭り

2019年11月某日、私たち家族としゅうくんはるかちゃん(以下サノ夫妻)は車で小川町に向かった。ヒーさんの移住した家でサノ夫妻が企画したイベント、宇宙祭りに参加するためである。

関越自動車道で1時間もしないうちに嵐山小川ICに着き、そこから下道で小川町市街に入っていく。何処が町のメインなのかも分からないが、何となしに道路脇に並ぶシャッターの降りた商店や、やってても古ぼけたような日用品屋などの眺めは、所謂地方の、過疎化した町の定番の光景で、こんなこと言うのは失礼だが、私が大好きな光景でもある。

(田舎に来たな、いい感じだな)と思いながら、さらにその風景の果てには、さほど高くはないが、美しい山並みが迫っている。私は何となくピーさんの実家と似たような景色であると感じた。ピーさんの実家は山形南部の広大な盆地であるが、ここはもっと規模の小さい盆地という感じである。20代のいつからか、山の見える土地に来ると安らぎを感じる自分に気がついていた。

商店の並ぶ町並みから外れたあたりで、「そこ右に入って」とはるかちゃんが後部座席から。我々ははるかちゃんの実家に着いた。ここでサノ夫妻は寝袋を調達したかったようだ。はるかちゃんのご両親が出てきて挨拶する。庭の瓶で飼われているメダカにこと子が注目していると、「少し持ってくか?」といってペットボトルにメダカを分けてくれた。

気を取り直して車に乗ってヒーさん宅を目指す。ヒーさんとかピーさんと紛らわしいが、ヒーさんは田舎暮らしを求めて小川町に移住したギタリストの友人で、ピーさんは私の奥さんである。

住所を辿って、家々が並ぶ宅地を抜けるとすぐに家と家との距離が離れ始め、畑地や森林、野生地が窓外を過ぎ行く。道は県道から左へ外れて山の方に入っていく。更に奥地感が増して期待に胸が膨らむ。遂に舗装道路が、轍の跡で幾分崩れた半舗装道路となり、緩やかな上り勾配で、既に両脇の視界は山、である。

進んで行くと右手に数軒の建物が並び、1番奥の1番大きな建物の前に数台の車が停まっている。ここだここだ!

車を降りるとヒーさんのバンドのメンバーやその仲間達が十数名、軒先やらそこここに散らばっている。私にとって馴染みの人も居れば知らない人もいる。プライベートパーティーなだけあって人数の規模は小ぢんまりしたものだ。

バケツで冷やされたビールの脇にカンパ箱があり、早速乾杯の声が上がる。建物を覗くと1階の北側は壁がボロボロで吹きっさらしの箇所もある。床は床板がなく、床下はコンクリの基礎もなく土が顔を出している。私は、(ここを改修して住むのかヒーさんは…)と驚きを隠せないが、同時にその、男の決意というやつにすっかり感心した。

「ここはお蚕小屋だったんだよ」と2階を案内してもらう。あり得ないような急勾配の木の階段を上がると、ベニヤで急ごしらえの床が貼ってあり、奥にドラムセット、ギターアンプ、ベースアンプが並んでいる。私はこれだけですっかり「ヤラれて」しまっていた。

さっき、ここへ来る車の中ではるかちゃんのお兄さんは小川町から池袋の職場へ通っている、ということを聞いた。通勤時間を少し我慢すれば今の仕事を続けながらこの辺に住めるのか…。私はヒーさん宅から眺める向かいの山の緑に吸い込まれそうにながらそんなことを考え出していた。

聞くところによると、ヒーさんはここを信じられないような廉価で買ったらしい。廉価なのかどうなのか、土地勘が働かないので分からないが、1千万円代の中古物件を探していた私からしたら、眼から鱗の金額だ。そして、何でも、家だけじゃなくて畑と田んぼ、それに山が2つも付いてきたのだという。バリューセットである。

参加者が持ち寄ったパンや惣菜やらが並んで、ボロボロの古民家パーティーは楽しく進行する。建物の西側にはヒーさんが解体で出した廃材がうず高く積まれ、脇に置いてあった無骨なドラム缶で焚き火が始まる。こんなに盛大な焚き火は東京で暮らしているならあり得ない。私は焚き火がとにかく好きで一時期焚き火楽団なるバンドやっていたほどである。

焚き火の周りでドラムサークルが始まり、私もジャンベかなんかを叩いていた。ドラムサークルというよりナイヤビンギである。向こうに座ってるピーさんはお腹に赤ちゃんがいるので酒を飲んでないはずだが、穏やかな、満ち足りたような表情をしている。長い付き合いで、その表情は今を、今この時をこの上なく楽しんでいる時の表情である。こと子は庭の水道から伸ばしてきたホースのノズルでドラム缶目がけて、プシュプシュとしぶきをかけ、楽しい、楽しいと言いながら遊んでいる。低山の谷間にこだまする太鼓のリズムと緑と焚火の中、私も幸せな気持ちに満たされていた。

思えば311以降、我々夫婦は原発事故を契機として、移住や、帰省で東京から地方に散らばっていった友人達を何人も訪ねた。必ずしも田舎に移った人ばかりではなかったが、中にはこのヒーさん宅に匹敵するような古民家や、山のそばに移り住んだ友人もあった。我々はそのたびに素敵な暮らしだねぇ、羨ましいねぇと言いながらその逗留を楽しんでいて、でもこんなとこ住んでみても仕事どうする?というのが私の悩めることだった。

原発の事故直後にはピーさんの移住ブームが高まっていて、私は移住を何度も持ちかけられたが、私は東京に友人が多く、東京がバンドの拠点でもあるし、今の仕事が好きだから続けたかったので何度も断ったりして気まずい空気が流れた。私も田舎暮らしや自給自足への憧れがあり、だからこそ私は東京の田舎をイメージして青梅や拝島、高尾、八王子など、自分にも土地勘のある場所を移住先としてイメージしていた。その辺なら、今月々払ってる家賃を20年くらい収めれば中古戸建てが買えそうに思えた。ところがピーさん的にはそれくらいだと移住というより引越しで、移住するならもう少し離れた地がよい、と控えめながらの主張があり、引越し案は暗礁に乗り上げていた。

そんな中、2019年の9月にピーさんの妊娠が発覚した。子どもは2人欲しいよね、というのは夫婦間の共通認識だったが、妊娠が発覚したことにより、いよいよ今後の住まい問題が俎上に上がってきた。私はこと子が小学校上がるくらいまでは焦らなくていいじゃん、というのんびりした考えだったが、母親としてのピーさんは少しでも心配のタネを減らしたい、という風だった。それで実際我々は、とりあえず買えるかもしれない金額のお家を内見してみようということで不動産情報を見始め、この小川町のヒー邸に来る前に田無の激安中古物件を一件内見したようなタイミングだったのだ。

そんなことをボウっと考えているととなりにいたしゅうくんが、いいよね〜、ここ、と言う。私は我に帰り、いやぁ、こんな場所最高だよね、東京まで通えるなら考えちゃうなぁ、と半分冗談、半分本心で答えた。するとしゅうくんが、ニヤっと笑って、
「実は今日のイベントは、長尾くんをハメるつもりだったんだ…」
と悪戯っぽいいつもの笑顔をよこした。私は(これはしゅうくんに1本取られたな)と悔しさと嬉しさが入り混じった妙な気持ちになった。
「長尾くん、前から移住したい、って話してたからさ、1度小川町に連れてきたいと思ってたんだよー」

焚火とナイヤビンギが終わると元養蚕小屋の2階でライブが始まった。ほとんどが出演者か、またはその連れ合い、という超プライベートコンサートで、私は弾き語りの際、酔っ払い過ぎて歌詞が飛んだり何度も演奏が止まりそうになってしまったが、温かい空気に包まれていて、演奏中に私の側に来て愛嬌を振りまいたこと子は大受けだった。翌日私は仕事があったので我々は帰路についたが祭り後の酒盛りは翌朝まで続いたらしい。(つづく)

バンドマンに憧れて 第41話 アクセルとブレーキーの確執

アクセルとブレーキは表裏一体である。赤い疑惑のメンバー、アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーというステージネームを決める折、ブレーキーはアクセルの暴走を止める役割で、と冗談ぽく言っていたのは半分冗談ではなくて、当時のブレーキーは実際よくブレーキをかけていた。

ブレーキーがドラマーとして加わった時、それまでのドラマーにポンコツ感があったので、ブレーキーが初心者ながら安定感のあるビートを叩いた時、ヘタでもいいだろうパンクなんだからと考えていた私やクラッチは背筋が伸びたものである。ブレーキーは当初、赤い疑惑に自分が入って演奏が安定したんだ、と豪語して調子に乗っており、それは確かに間違ってはなかったのだが。

まだやりたいことや言いたいことが無尽蔵にあった若かりし私も、その頃は調子に乗ることが多々あったように思うが、ブレーキーはそこに意識的にか無意識的にかブレーキをかけるのであった。それがもちろん奏功したことも実際あったのだと思うが、ブレーキをかけられてよかったことばかりではない。むしろ1stアルバムが出てライブにも順調に誘われるようになり、忙しくなってきたこの時期は次第に様子がおかしくなっていった。

当時我々は西荻窪のリンキーディンクスタジオで週に1度、多い時は2度、必ずスタジオに入っていた。正味の話その頃はみんな時間にルーズで、大体私が1番最初に来てクラッチが来て、そして1番遅れてブレーキーが来るのだった。私も10分20分遅れることはよくあったのでメンバーが遅れてくることには寛容でいようと思っていたが、当時のブレーキーはスケールが違った。連絡なしで1時間、2時間と平気で遅れてくるのだった。

彼は加入当初は留年中の学生で、休学したり何やかんやモラトリアムを満喫していた。それで卒業してからも無職の期間がしばらくあり、そういうダラシない雰囲気で周りの連中からからかわれたり逆に評価されたりしていて、私もからかったり評価していたのだ。ただ、私の目標はバンドで食べていくことで、そうであるならばヘタウマパンクとは言ってもある程度真剣にやらねば、という矛盾するつんのめりな姿勢もあり、ブレーキーの遅刻問題が段々とストレスになっていった。

また彼は知り合いの紹介で葬儀系の派遣社員として働くようになるのだが、仕事をするようになってから、あからさまに疲弊し、練習にもダルそうに来ることなどが増えた。実際、彼の仕事は朝早くから始まり遅くまでかかる。仕事柄スーツを着ることが多い割に中身は肉体労働だったり、話しを聞いていても大変そうではあった。しかし、仕事が理由ではなく1、2時間遅れてきて、しかもゴメン、というより逆ギレ風な、不機嫌な顔で入ってくることなんかもあった(練習に来ないこともあった)。

それだけではないのだ。赤い疑惑の曲作りというのは私が作ったフレーズをスタジオで再現しながら2人に適当にベース、ドラムをつけてもらうのだが、3人とも音楽的な勘が鋭かった訳ではなく、しかもヘタウマなので、相当に時間のかかる作業だった。ベースのフレーズは私が提案することが多かったのだが、ブレーキーはそれを嫌がるのである。こう叩いて、と言っても素直になぞらずに必ずオリジナリティーを挟んで来ようとして、だけど素養があるわけじゃないから彼なりのフレーズが出来上がるまでにかなり時間がかかるのだ。

曲作りの中心である私はそういうことにイライラするのである。そしてオリジナリティーを追求するのはいいことなので、イライラを精神力で抑えてとにかく時間をかけて頑張っていた。これは要するに曲作りを進める私の力不足でもある訳だが、更に私がブレーキーに腹が立ったのは曲のダメ出しだった。

曲自体のダメ出しもあるし、イントロ、AメロからBメロへのつなぎ、終わり方、などなどいろいろなダメ出しがあった。私はダメ出しするなら代案を出せと迫ったが、具体案は出せないのである。

ブレーキーはバンドを始めた頃からよく言っていたが、「オレはバンドで食うとかピンと来ない」と。それはつまり彼が曲を生み出したりするタイプではないし、私のように成功への欲があまりない、ということでもあっただろう。だから代案を出せと言われてもそんなものはないのである。

そういったことが度重なり、私は違うドラマーだったらもっと上手くバンドが回るんじゃないか、とよく思っていた(クラッチはベースが下手だったが彼なしではバンドはやれないと思っていた…)。スタジオに入ってもストレスが溜まることが続いた。私はそれでも沓沢ブレーキーのことをどこかで好きだったし、尊重しようと思っていたのかもしれず、スタジオ内でブチ切れる、ということはなかった。

その代わりクラッチに改まって、自分の腹の内をブレーキーに伝え、改善してもらえないなら一緒にバンドやれないと言おうと思う、と相談した。クラッチは「そう思ってるならそうするしかないじゃん」と背中を押した。クラッチはいつも私の背中を押してくれる人なのだ。

いつぞやの夕刻、その日はスタジオではなく吉祥寺の井の頭公園に集まった。何で井の頭公園だったのか覚えていない。ただ話があるからとブレーキーに伝えて3人で集まったのだ。それで私が抱えているブレーキーへの不満を細かく冷静に伝えると、えっ、そうだったの? 気づかなかったよ、と言うので私は驚いてしまった。

私が彼に不満や怒りを抱えていたことを本人は大して気づいておらず気にもしてなかったらしく、そうだったのか…、と考え込む風だった。そして彼は素直に詫びて、バンドを続けたい、努力するよ、というのである。そう反応されると私もそれ以上は言えず、じゃあまた3人で頑張ろうか、ということになり、確かその日は伊勢屋で打ち上げたのだ。

実際それから後はスケールのデカい遅刻もなくなり、曲作りがスムーズになったわけではなかったが、それ以上衝突するようなことはなくなったのである。

元々私もブレーキーも強い捻くれ屋で、素直に物事を聞けなかったり、シニカルになったり、人と違うことをしようとしたり、その上マイペースという、似てる部分が沢山あった。似たもの同士の衝突と考えればそんなものだったような気もする。

思っていることは伝えないと伝わらない。恋愛や男女間の話のようでもあるが、男3人のバンドでだってそんなことがあった。むしろバンドと恋愛との共通点なのかもしれない。それくらいバンドってのは密な人間関係になり得るということなのだろう。

アクセルの意気地記 第28話 コロナ禍の私たち

2020年の3月上旬、長尾家は台湾への家族旅行を予定していた。ピーのお腹には次女が待機していて5月出産予定。そんな時期に、という感じであったが、私とピーで(今行かなかったらもう行く機会がしばらくないかも)という懸念が強まり、半ば強行しようとしていた。

ところが、1月から徐々に話頭に登っていたコロナウィルスの感染被害が2月中も世界で広がっていて、2月の下旬には台湾政府が緊急アナウンスメントを発表した。海外から台湾に入国する渡航者に対する要請等であったが、入国後の日々の行動記録や体温管理、健康管理の徹底が盛り込まれており、どうも観光を楽しめる状況ではなくなってきているようだった。まさかの事態ではあるが、我々は様々な不安材料を案じて旅行を断念する決断をした。

折角抑えた航空券のキャンセルに関して、我々は予想だにしない損失を被ることになったが育児と関係ないので割愛。旅行断念の直後、3/13には赤い疑惑のライブ予定があったが、主催者はライブ開催の可否で悩んでいる旨を知った。その頃にはコロナ被害は日本でも大分騒がれ出していて、人が密集するライブハウスは早い段階から警戒を求められていた。結局ライブは開催されたが、その時点で社会に不穏な、閉塞的な空気が流れ込んできているのを感じない訳にはいかなかった。

そのような最中、3月中旬から下旬にかけて長尾家は、埼玉県比企郡小川町という土地に、今年1月に内見してみつけたとても素敵な中古物件を、遂に購入契約しようとしていた。これは前年の冬から急激に持ち上がり、私とピーの前のめりな勢いで一気呵成に進められていた一大移住計画の成果なのであった。2人目の子が生まれてくることが事実として迫る中、手狭になるであろう現在の賃貸アパートから、いずれは引っ越さねばならぬ必然性は、特に子育てに私よりも時間を割くことになるであろうピーにとっては早急に解決したい焦燥感からくるものであった。

新しい住処を見つけたのはよかったが、コロナの進撃は勢いを増してきて、4月中旬に予定していたピーさんの里帰り計画が危ぶまれ出した。感染者数の増加を知って心配を深めた山形の義母が、「帰るなら早めに帰って来い!」と騒ぎ出して、心構えが整ってない我々は焦ったが、感染のリスクを考えると義母の言うことに異論を挟む余地はなさそうだった。私も、この未知の、眼に見えないウィルスの蔓延に恐れをなし、妻子の早めの里帰り計画は急ごしらえで進められ、4/4、私は2人を車で山形の実家に送り届けた。既に都内からの移動は傍目を気にしなければならない段階に突入しており、私も不安に苛まれた。

この数ヶ月の間、こと子が今まで以上に私に懐くようになり、ママ大好き、というのと合わせてトト大好き(私の呼称はトト、パパ、父ちゃんの3種からランダムに選ばれる)と頻繁に抱きついてくるようになっていたので、私は里帰りでしばらくお互いが会えなくなる事態にこと子が取り乱さないか心配だった。それで、急に繰り上がった里帰りの日が近づく数日前から、いついつからこと子はママとお姉ちゃん(姪っ子達)達の家に行くんだよ、と言い含めるように聞かせた。こと子は、うん、と言って、また従姉妹達と遊べる近い未来を悟り、喜びを隠さなかったが、同時に「パパは?」という質問も忘れないくらいに成長していた。

「パパは別々で東京にいるんだよ」と教えると、こと子は不満そうに「やだ!」というので意味が伝わったのだな、と思う反面狼狽えた。やでも何でもこの後そうせざるを得ない状況がやってくるのだ。こと子に説明しながら、このマイスイートハートともうすぐ別々に暮らさなければいけなくなる未来に現実感が肉付けされ、私も動揺した。

当初中旬に予定されてた里帰り日は4/4へと繰り上げられた。山形の実家に着くと、早速こと子は従姉妹達とそれは楽しそうにはしゃぎ出した。3姉妹の末っ子キッピはこと子と年が近いので、とりわけ仲良くしており私は姪達の存在が頼もしかった。川西の実家には大きいガレージがあり、東京ナンバーの車はガレージにかくまわれた。東京からの来客が近隣に知られると厄介なので、という配慮である。

その晩は家族3人で横並びに寝たが、翌日は午後出勤になっていたので早朝に帰途に就かねばならなかった。別れ際、こと子は平常で、ホントにこれから別れ別れになることを理解しているとは思えなかったが辛い空気になるよりよかった。私は車を飛ばして東京に戻った。

4/6から東京に緊急事態宣言が宣告され、町の景色が変わり始めた。私の職場も出勤人数を調整する、と言い始め、週5勤務から週3日、または週2日しか仕事に行かなくていいようになった。周囲は皆動揺していたが、私には引越しと新居のリフォームという重大行事が控えていたため、臨時の休日は片付けと荷造り、荷物の運搬、古いお風呂の解体などに当てられたため私としてはラッキーだった。

その間数日置きにピーさんと電話で話していたが、こと子は従姉妹達と楽しくやっていて大丈夫そうだ、とのことだった。電話の途中でこと子に代わると「今ねぇねと遊んでたよー」と言う。そして私に毎回「今新しいオイチ(お家)にいるの?」「古いオイチ(お家)にいるの?」と尋ねるのだった。こと子は帰省前に2、3度新居の方にも行っていたので、住む家が変わる、ということは理解しているようだった。

4/21には全ての荷物をアパートから運び出し、大家さんに挨拶をした。こと子の出産前に父との同居プロジェクトがあり、それが私と父との喧嘩で崩壊してまたこのアパートに戻るというドタバタ劇が勃発したため途中1週間ほど空白期間があったが、結婚後今まで約7年半の楽しい思い出が詰め込まれた我が家との別れは惜しかった。誰か知ってる人がこの後住んでくれればまた来れるのにね、とピーと冗談で話していた。それくらい愛着のあるアパートだった。

アパートを引き払い新居の浴室がリフォームできるまでの間、私は実家にパラサイトすることにした。父は晩酌の相手ができるので歓迎ムードだった。そして、里帰りから1ヶ月が経とうとする5/1、オヤジと近所の友人夫妻と酒を呑んで盛り上がっていた23時過ぎ、ピーさんから着信があった。こんな時間に? と訝しんで出ると受話器の向こうでは大号泣すること子の声が鳴り響いている。

どうやらホームシックになったらしく、「おうちに帰りたい」「パパと一緒に遊びたい」ということを嗚咽の合間にやっと絞り出すのが精いっぱいで、後はずっと泣いていた。私は「あと何日したら会えるから!」と励ましたかったが、具体的な約束ができる状況じゃないので「大丈夫だよ、こと子…」と、泣き声の合間に呟くことしか出来なかった。

電話の様子をすぐに察知した父と友人夫妻は会話をやめ、スマホを握って黙る私を心配そうに見つめ、父は酔いの流れに押されてもらい泣きしていた。数十分こと子の悲鳴にも思える泣き声を聞いて、とにかくこまめに電話をしようとピーと話して電話を切った。

ピーさん曰く「今日布団に入ってすぐ、〈トトと住みたい〉〈ここはネネたちの家だもん〉と言って堰を切ったように泣き出し」たのだそうだ。ここは楽しいけど自分のお家じゃない、ということをもうすぐ4歳になること子は、ふと思い出したように、幼いながらに感じ取ったのか、と考えると感心と切なさが入り混じった不思議な気持ちになった。

翌日、テレビ電話をするとこと子はいつものこと子に戻っていて、私と話して笑っていた。私は一安心し、ピーさんと、GW中、超極秘的に私が行ってもいいか、ということを協議したが、やはり今はやめておこう、という結論にいたった。山形では県外の人と接触した人は2週間外出禁止になるという厳しい制度が臨時に敷かれており、出産の立ち会いはおろか、出産で入院する病院の出入りも県外の人は禁止になっていた。

数日後、ピーさんがSNSに上げていたこと子の写真を見たら、1ヶ月前までのこと子には見られなかった大人びた表情をしてると思ってまた切なくなった。いやいや、ただの親バカの錯覚なのかもしれないのだが…。

ROAD to 小川町 第1話 しゅうくんとはるかちゃん

しゅうくんと出会ったのは、アレはいつだったか。地元西東京市の脱原発デモに声をかけられた時のことで、こと子が生生まれて半年くらいだったはずだから2017年初頭だろうか。

西東京市の脱原発デモを主催していたのは小熊さんで、友人の母である。地元で友人というと同級生だろうと思われそうだがそうではない。私が赤い疑惑で1番盛んに活動していた2005年前後に、よくライブを観に来てくれていたヤツで、ある時私に声をかけてくれた。
「長尾さん、田無なんですよね?オレも田無なんすよ。」
彼との出会いはそんな感じ。6つくらい歳は離れてたけどすぐ仲良くなって、その頃よく遊んでた絵描きのミノケンと3人で、その頃住んでた武蔵境でラップごっこをして遊んだりした。

そんな彼の母、小熊さんは、根っからの活動家で、彼女は倅から私のことを知り、赤い疑惑を知り、そして私がソロの弾き語りで原発反対の唄を歌っていることを知って声をかけてくれたのである。

その脱原発デモは西東京市の有志の人が中心になっていたが、新宿や渋谷や丸の内方面でやるような大規模な催しではなく、20人前後のかなり小規模なデモだった。西東京市内の公道でシュプレヒコールと行進を行い、小熊さんの趣向なのだろうか、毎回デモ後の懇談会が夕暮れの公園で行われ、その際に誰かが弾き語りをすることになっていた。その演者として白羽の矢が立ち、プロテストソングを気に入ってくださって嬉しい私は2つ返事で出演を快諾した。

小熊さんは毎回音響で手伝ってくれる若者が居て、当日も来る予定だから、と教えてくれて、アンプ等も彼がいつも持ってきてるとのことだったが、私も携帯アンプを持っていたのでアンプは持参することにした。

集合場所の市役所広場に向かうべく市役所入り口あたりを通りがかる時、全身タトゥーと長めのドレッドで、明らかに田無には珍しい風貌が向こうからやってきた。私は直感で小熊さんが言ってた、音響を手伝ってくれている若者というのは彼に違いない、と思い彼に声をかけたらビンゴだった。「しゅうです。よろしくね。」彼は印象的なほど柔和で丁重な挨拶をした。私はやはり気になるので音楽の話しを最初の頃に交わしたと思うが、しゅうくんが「ハードコア経由してレゲエに」というのを聞いて、同い年だし、もうそれ以上余計なことを話さなくてもいいと思った。これが私としゅう君との出会いで、後の私の人生に小さくない影響をもたらすことになる。

デモの後、西武柳沢の飲み屋で打ち上げがあり、私は産まれて数ヶ月だったこと子とピーさんと一緒に参加した。その席でしゅう君のパートナーはるかちゃんとも仲良くなった。2人とも数年前に田無に越してきて、まだ価値観を共有できるタイプの友人にあまり出会えてないので、と我々家族との出会いを非常に喜んでいるようだった。逆に私も地元が田無とはいえ、幼馴染みで未だに繋がってる友人もおらず、音楽関係ほか普段親しくしてる友人でも近所に住んでいるのは数えるばかりだったので近所に仲良くなれそうな2人と出会えて嬉しかった。

私は東京生まれ東京育ちであるが、荻窪の病院で生まれ、幼年期は武蔵小金井のマンションに住んでいた。幼稚園の年中だったか、父が田無駅から15分ほど歩いた宅地のマンションの1室を買ったので、それから大学を出るまで私は田無の住人となった。高校までは公立に通っており、その頃までは仲良くしていた友達がチラホラいたが、私立の高校に行くようになってから疎遠になってしまった。

中学時代にロックやファッションに開眼した私はしょっちゅう吉祥寺に通い、ハードコアパンクにハマった大学時代は足繁く西荻窪に通った。いわゆる中央線カルチャー、および中央線サブカルチャーにすっかり魅了され、地元の田無はイケてないダサい町、というふうに認識が更新されていった。地元の友人と疎遠になった背景にはそのような価値観の変遷があったかもしれない。

大学を出てパンクバンド赤い疑惑を始めるタイミングで私は実家を飛び出し、当時の憧れだった街、西荻窪に居を構え、新たな人生の扉を押し開いた。バンド活動は楽しかったが、目指していた商業的成功とは程遠い状態のまま月日は流れてゆき、私は当時付き合っていた彼女と同棲するために一旦武蔵境に居を移したが、その同棲が程なく破綻し、30を目前にして私は思い入れのない地元の街田無に戻ってきた。

母が亡くなり、姉と父が実家にいたが、父と2人きりの暮らしに辟易していた姉は、私が実家に戻るのと入れ替わりで実家を出ていった。それから父と私の2人暮らしが始まり、もう、私のような穀潰しに伴侶はできないのではないか、と半ばヤケクソな気持ちになっていた頃ピーさんと出会った。

それから1年程して私は彼女と結婚した。実家を離れ、近所に2DKのアパートを見つけて住み始めた。6畳、8畳、4畳半ほどのダイニングキッチンに風呂とトイレが別々にあって6万円。古いとはいえ、欄間や磨りガラス、窓の格子など、昔ながらの温かみを感じさせる細工が至るところにあって、私とピーさんは一目惚れ。これで6万でいいんですか、と訝しむほど我々はこの家が気に入ってしまった。

安さの理由は、ただただ大家さんの商売っ気の無さからくるものであることが後で分かった。家賃は向かいの大家さんに直接対面で支払う仕組みで、私達はすぐに大家さんと仲良くなり、庭のかなりの敷地を自由に使っていいからね、とのお墨付きをいただいたのである。

その頃には、私の中で田無ダサい、などという高慢な気持ちも失せていて、私が今こうして所帯を持って、ただ何となく生きていられるだけで文句はない、という塩梅になっていた。そしてそれは長女のこと子が生まれて、より強まり、何の変哲もない西武新宿線の郊外でこうして家族で住んでいる、ということに関しては一切の不満もなかったし、私が弾き語りでサザエさんの替え歌「今日も田無」を作る頃には、腐れ縁というのにも似た、いやそれよりももう少し前向きな地元への愛着を持つようになっていたのだ。

しゅうくんと田無で巡り会ったのはそんな時なのである。しゅうくんとはるかちゃんは赤子や幼児のお守りが抜群に上手で、こと子の面倒は驚くほど積極的にこなした。子育て奮闘中だった僕らに「時には2人で映画でも観に行ったら?こと子は私達に任せて」などと言ってくれたのである。

仲良くなったとはいえ、子供を預けて夫婦で遊びに行くなんていうことはやはり気が引けるし…、と我々はそんな2人の心遣いだけで感謝感激だよね、と確かめ合っていたが、ある時、保育園に預けられない日で私が仕事、ピーさんは参加したいワークショップがあって、という事態が発生した。2人で、しゅうくんとはるかちゃんに頼んでみる…?、とどうしようどうしようと悩んでいた丁度その時、しゅうくん達からの着信が入る、というミラクルが起こった。私はこうなったらと、2人の用件を聞く前にこちらのお願いを伝えたのである。そして不在時の子守りを快く引き受けてもらえたのだ。

この件があってからこれまで、結局我々は3、4回こと子を預かってもらった。こと子は優しい2人にすぐになついていたし、我々が2人のお家にお邪魔したり、2人が我が家に遊びに来たり、2人が借りていた農園の食べ尽くせないくらいの野菜達を分け合って消費したり、そのうちに関係性は家族のようになっていったのだった。

そして昨年(2019年)の秋頃だったか、しゅうくんが私に尋ねるのである。
「長尾くん、ヒーさんと友達なの?」
ヒーさんといえば、とあるレゲエバンドのギタリストである。数年前、私はヒーさんのギタープレイに惚れ込んで、当時赤い疑惑と並行してやっていた焚き火楽団というバンドにヒーさんを誘い、一時期一緒にスタジオに入っていた時期があった。ヒーさんは程なく2人目が産まれる、ということでバンドから離れてしまったのだが…
「今度ヒーさんの移住先でウチウチのパーティーやるから長尾くんも参加しない?」
としゅうくんが畳みかけてくる。ヒーさんが移住? まだよく分からないが、ヒーさんが東京からそこまで遠くない田舎に家を買ったらしく、そこでアンオフィシャルなイベントを企んでいるようだ。その田舎町というのが小川町といい、何とはるかちゃんの実家なのだそうだ。

私は田舎に憧れがあるし、音楽付きのホームパーティーなんて最高じゃん、と請け合った。しゅうくんとはるかちゃんは定期的に宇宙祭りというイベントを企画しているのだが、その日は番外編でお客さんは招かず、ヒーさんのバンドとしゅうくんの弾き語り、それに私の弾き語り、後は適当に、と情報はそれだけだった。(つづく)
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