土民新聞のせいだ
ブログの更新久しぶりである。これはひとえに「土民新聞」のせいだ。
本年6月の末にフリーペーパー「土民新聞」第一号を発行した。これは都心から緑あふれる田舎に移住し、土に、樹木に、自然に、山に目覚めたとある男の生きた証として、不定期刊で刷られるA4裏表の新聞である。とある男とは不肖私のことである。
土人じゃない。土民である。土人だと人権問題に触れてしまいかねないが、土民とは土とともにある民のことを指す。私がこの言葉に惹かれたのは、石川三四郎というアナキストが「民主主義」を「土民生活」と訳したことから拝借したものだ。石川三四郎は大杉栄などが虐殺された大逆事件の後に渡欧し、農耕生活に従事し、その中で上記「土民生活」という訳語を掲げることになるのだが、アナキストに限らず左翼活動家などが、最終的に農の生活に落ち着くパターンは少なくない。
私は里山アナキストを自称し、自分はアナキストであるぞ、と私に誓ったのであるが、移住して田舎暮らしに没入した私の、思想的、農耕的、野良的なアレコレを真面目に、また不真面目に、書き殴る媒体があれば自己満足できるのではないのか、と考え始めた。
私がフリーペーパーなるものを作るのは、実は初めてではない。高校生の頃、ロックと古着に夢中だった私は、吉祥寺や下北沢など、若者文化発信の町に足繁く通い、中古CDや古着を漁った。そしてそういう店の片隅に、ライブやイベントのチラシに混ざってフリーペーパーなるものが陳列してあるのに気づき、何となく持ち帰っては読むのが習わしとなった。
フリーペーパー、今ではジンという方がヒップなのかもしれないが、要は新聞や雑誌など、法人が発行する読み物とは一線を画す、個人の、超ニッチな内容の読み物であり、手書きの殴り書きのものもあれば、ちゃんと活字で刷られ、レイアウトもしっかりしたものまで、バリエーションは豊富だった。
丁度その頃、クイックジャパンというマニアックな雑誌にハマっていた私は、この形態でクイックジャパン的なニッチな記事を書いてフリーペーパーを作ってみよう、と意気込んだ。まだネットも普及する前のそんな時代の話しである。
それから私は20代中頃まで、タイトルを幾度か変えて、そのようなフリーペーパーを作った。大学を出てバンド、赤い疑惑一筋でがむしゃらになっていた頃作っていた「わくわく赤い疑惑」というフリーペーパーが最後だ。
そしてその頃からネットの普及と共にブログの隆盛が始まった。これは大事件で、承認欲求を満たすためにわざわざ紙という媒体に印字したフリーペーパーを、お店などに頭を下げて置かせてもらったり、直接友人知人に配ったりする労力を要さずにネットの向こう側の人に、自分の文章を読んでもらえる、という魔法のようなことが現実になったのだった。
私は早速ブログを立ち上げて拙い駄文をせっせとアップするようになった。紙と違って文字数制限のないブログの特性に合わせて、3,000字以上の長い、日記のような記事を沢山書いた。それがカタチを変えたりしながら、こうやって未だに続いているのである。
ところが、このブログの記事を書くことだってずっとやっていれば飽きたり、疲れたりする。アップしてからもらえる幾通かの「いいね」が唯一の喜びとなり、そしてその繰り返しだ。仕事じゃないからお金が貰えるわけではない。家族に喜ばれる訳でもない。
子育てが始まり、バンド活動も自然と緩慢になって、当然ブログに記事を書くのに割ける時間も限られてくる。それでも健気なもので、活字に捉えられた人間というのは、定期的に文章が書きたくなってしまうものである。不思議だ。
先にも書いたが、東京から埼玉の田舎に移住したことは私にとってとても大きな出来事だった。バンドマンとして大成したかったが失敗し、それでも前向きに生きることに希望を持って健気に生きていた私にとって、移住後の暮らしは、そのような、夢を諦めて余生をなんとなく過ごす、という慎ましいニュアンスからは大きく飛躍し、この素晴らしい自然の中で新たな夢を希求し、充実した日々を土と共に暮らす、という極めてポジティブな、若干前のめりな方向へと私を誘っていく。
そしてそんな生活と、その中で感じることを書き殴り、新聞を作りたい、という新たな思惑が脳裏をよぎる。ブログから紙に逆戻り、活字から手書きに逆戻り。頭の中でイメージが膨らみ、「土民新聞」という言葉が出てくる。里山アナキストという言葉が舞い降りてくる。気がつくと第一号が完成していた。
これを、会った人や奥さんがやっているピンポン飯店で配ったり、友人のお店に置かせてもらったり、そんなことしていたら、コレは面白いじゃないですか、長尾さん!なんて喜んでくれる人が現れる。
その土民新聞第一号に書いたのだが、私の父は私が小学校の頃から、長尾家家族新聞なるものをほぼ月一で発行し続けた奇人である。父亡き後、その家族新聞が420号くらいまで発行されていたことを改めて認識し、リスペクトの念を禁じ得なかったのだが、どうせなら土民新聞も「目指せ420号」と負けん気が持ち上がる。ギター弾いて歌うのも、文章書くのも、結局父の血なんだな、と今は認めざるを得ない。
しかし、420号作るとなると、月一だとどうかと計算してみたら35年かかる。年齢だと79歳までである。死んだらどうにもならんが、無理な数字ではないとも思える。そんなことを考えながら3号まで作ったのだが、おかげで田舎暮らしの忙しさに拍車がかかり、ブログの方はなおざりになってしまった。
しかし、土民新聞は手書きのため、表裏でざっと2000字ほどしか書けない。短文にぎゅっと言いたいことを凝縮するのに慣れてない私には、文字数制限があることがハードルであり、逆に言えば、言いたいことをいかに少ない文字数で伝えることができるのか、という挑戦にもなるのでそれはそれでやり甲斐がある。けど長文も書きたい。
土民新聞を読んでもらうには私が手渡するか、リクエストさえあれば郵送という選択肢もやぶさかではないが、そういうわけで、気軽にオンラインで長い文章を掲載できるこの赤い通信も変わらぬお引き立てのほどを。
本年6月の末にフリーペーパー「土民新聞」第一号を発行した。これは都心から緑あふれる田舎に移住し、土に、樹木に、自然に、山に目覚めたとある男の生きた証として、不定期刊で刷られるA4裏表の新聞である。とある男とは不肖私のことである。
土人じゃない。土民である。土人だと人権問題に触れてしまいかねないが、土民とは土とともにある民のことを指す。私がこの言葉に惹かれたのは、石川三四郎というアナキストが「民主主義」を「土民生活」と訳したことから拝借したものだ。石川三四郎は大杉栄などが虐殺された大逆事件の後に渡欧し、農耕生活に従事し、その中で上記「土民生活」という訳語を掲げることになるのだが、アナキストに限らず左翼活動家などが、最終的に農の生活に落ち着くパターンは少なくない。
私は里山アナキストを自称し、自分はアナキストであるぞ、と私に誓ったのであるが、移住して田舎暮らしに没入した私の、思想的、農耕的、野良的なアレコレを真面目に、また不真面目に、書き殴る媒体があれば自己満足できるのではないのか、と考え始めた。
私がフリーペーパーなるものを作るのは、実は初めてではない。高校生の頃、ロックと古着に夢中だった私は、吉祥寺や下北沢など、若者文化発信の町に足繁く通い、中古CDや古着を漁った。そしてそういう店の片隅に、ライブやイベントのチラシに混ざってフリーペーパーなるものが陳列してあるのに気づき、何となく持ち帰っては読むのが習わしとなった。
フリーペーパー、今ではジンという方がヒップなのかもしれないが、要は新聞や雑誌など、法人が発行する読み物とは一線を画す、個人の、超ニッチな内容の読み物であり、手書きの殴り書きのものもあれば、ちゃんと活字で刷られ、レイアウトもしっかりしたものまで、バリエーションは豊富だった。
丁度その頃、クイックジャパンというマニアックな雑誌にハマっていた私は、この形態でクイックジャパン的なニッチな記事を書いてフリーペーパーを作ってみよう、と意気込んだ。まだネットも普及する前のそんな時代の話しである。
それから私は20代中頃まで、タイトルを幾度か変えて、そのようなフリーペーパーを作った。大学を出てバンド、赤い疑惑一筋でがむしゃらになっていた頃作っていた「わくわく赤い疑惑」というフリーペーパーが最後だ。
そしてその頃からネットの普及と共にブログの隆盛が始まった。これは大事件で、承認欲求を満たすためにわざわざ紙という媒体に印字したフリーペーパーを、お店などに頭を下げて置かせてもらったり、直接友人知人に配ったりする労力を要さずにネットの向こう側の人に、自分の文章を読んでもらえる、という魔法のようなことが現実になったのだった。
私は早速ブログを立ち上げて拙い駄文をせっせとアップするようになった。紙と違って文字数制限のないブログの特性に合わせて、3,000字以上の長い、日記のような記事を沢山書いた。それがカタチを変えたりしながら、こうやって未だに続いているのである。
ところが、このブログの記事を書くことだってずっとやっていれば飽きたり、疲れたりする。アップしてからもらえる幾通かの「いいね」が唯一の喜びとなり、そしてその繰り返しだ。仕事じゃないからお金が貰えるわけではない。家族に喜ばれる訳でもない。
子育てが始まり、バンド活動も自然と緩慢になって、当然ブログに記事を書くのに割ける時間も限られてくる。それでも健気なもので、活字に捉えられた人間というのは、定期的に文章が書きたくなってしまうものである。不思議だ。
先にも書いたが、東京から埼玉の田舎に移住したことは私にとってとても大きな出来事だった。バンドマンとして大成したかったが失敗し、それでも前向きに生きることに希望を持って健気に生きていた私にとって、移住後の暮らしは、そのような、夢を諦めて余生をなんとなく過ごす、という慎ましいニュアンスからは大きく飛躍し、この素晴らしい自然の中で新たな夢を希求し、充実した日々を土と共に暮らす、という極めてポジティブな、若干前のめりな方向へと私を誘っていく。
そしてそんな生活と、その中で感じることを書き殴り、新聞を作りたい、という新たな思惑が脳裏をよぎる。ブログから紙に逆戻り、活字から手書きに逆戻り。頭の中でイメージが膨らみ、「土民新聞」という言葉が出てくる。里山アナキストという言葉が舞い降りてくる。気がつくと第一号が完成していた。
これを、会った人や奥さんがやっているピンポン飯店で配ったり、友人のお店に置かせてもらったり、そんなことしていたら、コレは面白いじゃないですか、長尾さん!なんて喜んでくれる人が現れる。
その土民新聞第一号に書いたのだが、私の父は私が小学校の頃から、長尾家家族新聞なるものをほぼ月一で発行し続けた奇人である。父亡き後、その家族新聞が420号くらいまで発行されていたことを改めて認識し、リスペクトの念を禁じ得なかったのだが、どうせなら土民新聞も「目指せ420号」と負けん気が持ち上がる。ギター弾いて歌うのも、文章書くのも、結局父の血なんだな、と今は認めざるを得ない。
しかし、420号作るとなると、月一だとどうかと計算してみたら35年かかる。年齢だと79歳までである。死んだらどうにもならんが、無理な数字ではないとも思える。そんなことを考えながら3号まで作ったのだが、おかげで田舎暮らしの忙しさに拍車がかかり、ブログの方はなおざりになってしまった。
しかし、土民新聞は手書きのため、表裏でざっと2000字ほどしか書けない。短文にぎゅっと言いたいことを凝縮するのに慣れてない私には、文字数制限があることがハードルであり、逆に言えば、言いたいことをいかに少ない文字数で伝えることができるのか、という挑戦にもなるのでそれはそれでやり甲斐がある。けど長文も書きたい。
土民新聞を読んでもらうには私が手渡するか、リクエストさえあれば郵送という選択肢もやぶさかではないが、そういうわけで、気軽にオンラインで長い文章を掲載できるこの赤い通信も変わらぬお引き立てのほどを。
スポンサーサイト