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アクセルの育児記 第37話 星になったジィジ

12月のある日、その日はピンポン飯店が熊谷の夜市に出店する予定であった。夜の出店なので東京にいるオヤジに、子守り番として昼過ぎに来てもらった。手作り中華まんを販売する予定で、わざわざ昼過ぎに来てもらったのは、仕込み量が侮れず、我々が鋭意まんじゅう仕込みに取り組んでいる間も子らの面倒を見てもらうためだった。

次女のふみは、最近幾らか発語できるようになってきており、ワンワン、ニャンニャン、などと言う。ママ、パパ、ネエネなどとふみに続けて復唱させるのが最近の我が家の流行りなのだが、つい先日、こちらが言ってないのに、ママ、パパ、ネエネの流れでその後にジィジと発語した。我々は、アレ、今このひとジィジって言ったよね、と顔を見合わせて驚いた。ふみの中で、近くにいる人の認識としてオヤジが仲間入りしてたのである。ふみはオヤジとは月一くらいでしか会ってないのに不思議であった。

そんなことがあったからか、その日はふみがオヤジをジィジ、ジィジと呼ぶようになって私は癒された。オヤジもまなじりを垂らして嬉しくて仕方なさそうであったが、おかげで我々が血眼で中華まんを量産する間、ずっとオヤジはふみをあやしてくれていた。久々にオヤジの存在が頼もしく思え、またありがたかった。

結局その日の夜市では肉まんを売り切り、大満足で帰宅することができた。帰宅するとオヤジがすでに出来上がっていて、我々の帰宅を待っていた。そして、遅くなったけど、お前の誕生日祝いのケーキを買ってきたんだ、といい上機嫌に歌を歌って祝ってくれた。私の誕生日はすでに1ヶ月以上も過ぎていて、何だかこそばゆいというか、妙な気分だったが、いつにも増して、とにかく楽しそうに飲んでるオヤジを見て私も愉快な気持ちになった。

翌日、朝早く、あれだけ飲んで潰れたのにきっかり予定時刻にオヤジは起きて、ゴルフに行くということで別れた。まさかそれがオヤジの最後の姿になるなんてまったく思いもしなかった…。

突然死で苦しまなかったようだ、という警察医の話しを信じて私は静かにオヤジの死を受け止めようと努めていたが、まだ言葉も分からないふみはよいとしても、あれだけ懐いていたこと子はオヤジの死を受け止められるのだろうか。私の過剰な心配をよそに、こと子は意外と平気そうだった。死んだらどこに行くの、そうだね、空にいるんだよ、という会話くらいで、それ以上のことはあまり話さなかった。

ところが、葬儀の関係で、オヤジが単身暮らしていた実家に姉と集まった時、洋服箪笥の上部ガラス戸に挿し込まれ、こちらを向いていること子がオヤジを描いた絵の存在に本人が気づいた時、ふとこと子が泣き出した。急にヒクヒクと息を吸って泣き出すのでピーさんが様子をうかがうと、
「ジィジ、私が書いた絵を大事にしてくれてた…」
と、かすれ声でこぼして、またヒクヒクと泣いているので私もピーも思わず涙を垂らした。

それから数日後の車の中でも、急に、ジィジと一緒にまたお買い物に行きたい、行きたい、と繰り返し言って酷く泣いた。少し前にこと子の靴を買ってもらうのに、東松山のピオニーウォークというショッピングモールにオヤジと行った時のことを思い出しているらしかった。私たちはめったにそんなとこに行かないので、子どもにとっては遊園地に行ったかのような感覚だったかもしれなかった。キラキラと賑やかなお店が並ぶ中をジィジと手を繋いで歩くこと子の姿がすぐに具体的に思い出されて、私の視界がかすんだ。ジィジは天国にいるから泣かないで、そんな泣いてると天国のジィジが寂しいよ、と鼻声でピーが必死に慰めていたが、こと子が寝静まった後で私に、ツラいよね、ツラいよね、と涙をぬぐった。

この調子では、これから何度となくこのしんみりした時間を家族で共有しなければいけないのかな、と案じたが、以降、こと子がオヤジのことでジャミることはなくなった。

告別式を終え、ホッとして迎える新年は、私が年越しに何度も赴いている御嶽山に初日の出を拝みに行った。こと子はここに来るのが3度目だったろうか、ケーブルカーの駅から山頂までの登山を初めて自分の足で登った。私に似てひ弱体質に見えたが、どろんこ保育園でのハイキングや登山体験で大分体力がついたのかもしれない。1歳半のふみは私の背中に揺られ、超望台で日の出を待ったが寒さと眠気で機嫌が悪かった。

その時見た初日の出に、私は例年にも増して胸を掴まれた。地平線の向こうに少しずつ浮かび上がる光の固まりにオヤジの姿を重ねずにいられず、またそんな美しい陽をこうしてまた無事に眺めることができた喜びに嗚咽が漏れ、恥ずかしくてピーさんに慰めてもらった。

オヤジの居なくなった実家のマンションから、亡き母が祀られていた神棚を、小川町の新居に移して父を一緒に祀った。納骨まで朝と夕にお供えとお参りをすることになっているのだが、こと子はこのお参りを、5歳の子どもなりに真剣に、丁寧にやろうとするのが健気である。神道なのでニ礼二拍手一礼を私、ピー、こと子と食事前に行うのでついにふみも近くに寄ってきて真似するようになった。そして、お骨の脇のオヤジの遺影を指差しては、ジィジ、ジィジ、と嬉しそうに私に教えてくれるのであった。

ROAD to 小川町 最終話 人生の転機に立つ

次女のふみが無事に生まれ、住民票を東京都から埼玉県に移した私は、人生の大変大きな転機にいた。

バンドマンで喰っていくという中学生以来の夢破れ、西東京を右往左往したあと実家の田無に出戻り、その頃出会ったピーさんと結婚することになり、数年後、家族ができようとしていた頃吉祥寺でヒーさんと出会い、長女が生まれた頃たまたま地元で知り合った、はるかちゃんとしゅうくんという運命の友人に、まるで魔法をかけられ、いざなわれるように小川町に移住してきた私の過程を、改めて感慨深く感じざるをえなかった。

点が線になる、ということがあるが、あれは大袈裟な表現だと思っていた。ところが今自分が立っているこの地点は、点が繋がってできた流れの先端である。そしてこれから先、線の行方は判然と分からないが、また何かにいざなわれるように勝手に転がっていくんじゃないか、と朧げながらも確信し始めていた。

東京に住んでいた頃から私は、ある程度人生は「成り行き次第」だと思うようになっていた。しかし、私がその頃に考えていた「成り行き次第」のイメージよりも、遥かにワクワクする「成り行き次第」が、小川町に来て始まるような感触があった。山に囲まれ、畑や田んぼがそこら中に広がる小川町の景色は常に私を心地よく、楽しい気持ちにさせた。

コロナで出勤日数の減った会社勤めの合間、小川町の新居に行くたび、新居から車で10分ほどの、壮観な山林の中に建つヒーさんの家に遊びに寄っては、小川町暮らしがいかに「いい感じ」であるかを話し合った。ヒーさんは、そんな山林の中にポツンと建つ、購入時はボロボロだったらしい日本家屋を、一年かけてリフォームしながら、3月から家族で本格的に小川町での生活を始めていた。

その壮観な山林に建つヒーさん宅の存在は我々家族の移住にとって非常に大きな、まるで保険のような存在だった。新居購入を決める際、国道の交通音の心配や、部屋数が少なく、子どもが大きくなって部屋を持ちたいと言われた時に対応できないだろうな、という心配要素があった。しかし、どんな理由で後悔したとしても、近所にヒーさんの家があるんだから、たまにここに遊びに来れれば癒されるだろう、それで十分、と強引な論理づけをしたほどである。それくらいヒーさん家族と、家の立地と山と樹々と空には強く惹かれていた。

前庭で向かいの山裾(ここもヒーさんの土地である)に見える樹々を眺めながら、
「あそこに白い花が咲いてるけど、あの花もあっちの木も、ここに住んでた先代が庭からの眺めを考えて場所を選んで植えたんだと思うんだよ。」
とヒーさんが感慨深げに言った。私が買った新居の値段より少し安い値段でヒーさんはこの家(と山)を買ったのだが、建物や土地自体の価値を越えた付加価値が沢山あって、その一例として植樹のことに着目してそう言っているのだ。私もなるほどそうか、と思いながら、私の新居もそれは同じだ、とハッとした。

既に我が家に梅や柿、栗や桜があることを知って高揚していたが、それを前入居者が、数年後数十年後を想像して植えたことまでは考えたことがなかった。私は改めてこの自然剥き出しの中古物件を、いい値段で購入できたことに嬉しくなるのだった。そして同時に、縁側から眺められる前庭を、私もなるべくキレイに楽しく管理していきたい、と強く思った。

新居の浴室リフォームは相変わらず続いていて、水道管の切り回し、基礎打ち、タイル貼りが職人の手で行われ、ガチムチの左官屋さんと一緒にネットで買った檜の浴槽を入れた時は流石に心が踊るようだった。それでもピーさんと娘らが戻る6月下旬までに入浴ができるようになるかは判然としなかった。

コロナの騒ぎは続いていて、コロナの蔓延と同時に東京を離れようとするカタチとなった私の移住計画の進行は神がかっていた。このような状況で都民から埼玉県民になり、都市を逃れ田舎に向かうのがうしろめたくも感じられた。

6/12、私は田無の実家での居候ライフを終えて、家族より一足先に小川町での生活を始めることとなった。辞めることを決めたとはいえ、新宿の職場までは退職までの間しばらくは通勤しなければならなかった。

片道1時間半強と予想した通勤時間は片道ほぼ2時間かかることが分かった。読書やケータイの時間はたっぷり取れるが、流石にこれをずっとやってくのは無益のようにも思えた。それならやはり転職だろう。いろんなことを考えながら私は電車に揺られた。

小川町駅から新居までの徒歩22分の帰路は、東京生活では想像もつかなかったような暗さと、カエルの鳴き声に、通る度に新鮮な気持ちになるのだった。そしてある晩、帰路を何となく歩いていると目の前を白い光の点が揺らいでいる…。ん?もしかしてホタル?私は小川町がホタルの里としても知られていることを思い出し、注意深く目を凝らしてみた。するとチラチラと光る点が1つではなく2つ3つと揺れているのに気づいた。まさか駅からの家路でホタルに遭遇するとは思っていなかった。自然への驚きがこの里山の中でそこらじゅうに潜んでいた。

ピーさんが里帰り出産から帰還予定日の数日前、左官屋さんの専門外のパワープレイのおかげでなんとかかんとか浴室が9割り方完成し、最後のコーキング作業にヒーさんが夕方やってきてくれた。ヒーさんの本職は塗装屋さんなのだ。だんだん薄暗くなる浴室で黙々と作業するヒーさんを見守りながら、風呂が完成した嬉しさから、「ヒーさん、オレ小川町に引っ越してきてホントによかったよ、マジでヒーさんの移住きっかけでこんなことになって…ありがとう」と照れながら感謝を告げた。ヒーさんが何と返したか覚えてないけど何となくエモい時間が流れた。

ピーさんが戻る2日前にほぼ完成した檜の風呂に1人で入った。檜の浴槽が湯船の蒸気で爽やかな香りを放っている…。覚悟を決めて決断するまで、檜の風呂を作るなんて生まれてからまさか考えたこともなかった。楽しい瞬間ももちろんあったけど気苦労が絶えなかったのも本当だ。でもやり遂げた。成せばなる。湯船の中で達成感に包まれていた。

6/24、ワクワクする心を押さえて山形に向かった。私がピーさんの実家に着くと、ほぼ3ヶ月父親に会えなかったこと子が「ととー!」と叫んで飛びついてきた。流石に胸が締め付けられて涙が滲んだ。それを、温かい目で見守るピーさんの腕に、小さな赤ん坊が丸くなっている。横にいる義母はこと子が父に飛びつく姿を見て貰い泣きしている。ピーの腕から渡された赤ん坊は小さくて軽かった。これからこの4人で暮らすんだ。小川町という田舎でどんな人生が待っているだろうか。

よかった、よかった、と何となく落ち着いて家に上がった。こと子が私のところにやってきて「ねえ、とと、ユーチューブで、つーよーくー、なーれーる♪、やって」と突然せがまれた。私は霧に包まれると同時に、長女が何を言ってるのかよく分からないが、3ヶ月ぶりに会った父親に期待するものがユーチューブだったおかしさに包まれて、ムカつくけどケータイを取り出して、強くなれる、などと検索してみると、どうやらこと子が最近従姉妹のねえちゃんの影響でハマっているアニメの主題歌だった。ユーチューブで検索するとすぐに出てきた。再生すると私が最も嫌気がさすようなサウンドと歌だった。

山形で2泊の滞在を終え、オヤジから譲り受けた、我々には不似合いなファミリーカーに乗って、私達はこれから恐らくずっと生きていくことになるだろう埼玉の田舎町へとアクセルを踏みしめたのだった。完

アクセルの育児記 第36話 最近のこと

遂に立ったか、と思っていたその2、3ヶ月後にはたどたどしいながらもはや歩き出している。幼児の成長は竹のごとし。

次女のふみは両の足で歩くという運動を覚え、またそのおかげか、ただ無闇に泣き出す、というようなことが少なくなって、保護者である私は随分楽になった。

5歳の姉こと子を、それまでよりもずっと「お姉ちゃん」として認識し始め、こと子があやしたりからかったりしてくるのを、楽しそうに、時にはまた奇声を上げて反応している。たまにこと子がピーさんや私に怒られて泣き出すと、少なくない確率でふみがやってきて、少し姉の泣いてる様子を覗き込んでから手を伸ばし「よしよし」をする。それがまったく滑稽で可笑しいのだが、「よしよし」とやって、時々我々大人の反応を確認しているのがまた可笑しい。赤ちゃんによしよしされて何だか悔しく、自分が哀れに思うのだろう、こと子はそんな時、そのふみのよしよしを手で払い退けたりする。

しかし話には聞いていたが、キョウダイがお互いを尊い存在として無邪気に遊び、じゃれ合う姿というのは見事に愛らしいものである。ノーフューチャー上等、などと粋がっていた20代のロック青年だった私に、40代まで頑張れば素晴らしい未来が待ってるぞ、と伝えたいほどである。

2人目のふみを育てていて、その可愛らしい姿に胸が震える時があるが、それと同時に、ああこと子がこれくらいの時期にもまた同様の感動を私に与えてくれたことをふと思い出す。思い出すのだけど、鮮明にという訳にいかず、うっすらとぼやけていることもある。こんなに可愛い瞬間瞬間を、その時点ではしっかり胸に刻もう、と心に誓うのだけど、実際のところは儚くもどんどん忘れていってしまうのだ。悲しいけどそんなものではなかろうか。

いや、一つ一つの思い出を鮮明に記憶して忘れないタイプの人もいるのかもしれないが、大抵はそうじゃないから写真なんていうものが発展したんだろう。写真も今ではみんなケータイでパシャパシャいくらでもやれるのだから、尊い瞬間はふんだんに記録されることになった。

私もしょっちゅうケータイを取り出して娘らを撮影している。ただ沢山記録を残しても、それらを振り返るタイミングは意外と少ない。というか、ほとんどない。何十年も経って爺さんになった時、ケータイにしろパソコンにしろそういうデジタルのデータを見返す姿というのがどうもうまく想像できない。生の写真とかアルバムなんてものは、そう考えてみると貴重な代物である。

田舎に来てから、不思議なことに思えるが、いわゆる「やりたいこと」というのが野放図に増えた。自給自足で野菜を賄う、薪ストーブを導入する、軽トラを買う、などなど、瑣末なことも含めるとキリがない。その中で、子どものためのブランコを作る、というのがあって、先日遂にその課題を果たした。

植木屋の仕事で出た丸太を、チェーンソーで縦半分に切って、ロープでぶら下がれるように細工した。それを、これまた植木屋の仕事で回収した(おそらく物置きか何かの)鉄製のフレームにぶら下げて草の生い茂る庭の端の方に設置してみた。

試しに私が乗ってみるとブランコなりの機能をしたので、出来上がったものをこと子を呼んできて見せると大変喜んで遊んでくれた。ヨチヨチ歩きのふみも座らせてみると、危なっかしいなりに遊べて、笑顔満面。企画者の私は大分満足だったが、この庭は藪蚊も多いので1回遊んで以来大して遊んでいるのを見ない。秋冬になればもう少し人気が出るとよいのだが…。

こんな田舎町でもコロナの陽性者が増えてきたらしく、8月中、関係者に陽性者が出たとかで娘2人の通う保育園が2週間閉園になってしまった。その間、キッチンカーの出店の日もあり、我々は手のかかる2人の娘を引き連れて移動販売車で出動していた。幸い子どもの多い現場も含まれていたため、仕事にならないほど追い込まれることはなかったが、気苦労は確かにあった。

近所で、同じ保育園に子どもを通わせてる仲良しの友人家族たちも、自粛ムードだったので積極的に会うこともしにくくなり、何となくモヤモヤした日々が続いた。陽性者と直接接触したかは判然としないが、こと子もふみも念のためPCR検査を受けてくれ、というので受けてみたが幸い2人とも陰性だった。

次女を可愛い可愛い、と言ってるとこと子が「わたしは?」と嫉妬することがたまにあるので私は努めて平等に可愛がろうと心がけているが、話せるようになってワガママを言ったりこちらの言いつけをわざと守らずに困らせようとすること子が、手がかかるがただ可愛いだけのふみより憎らしく思えることがあり、そんな狭量な自分に嫌気がさすことがある、と育児の先輩にこぼしたら、意外な反応があった。

下が中学生を含む3人の子どもを育ててきた彼女は、曰く「私は赤ちゃんとか幼児って苦手だったな。だって虫みたいじゃない?」ということだった。私は即座に虫と幼児をイコールで結びつけられずに戸惑ったが、その後に彼女が言った「私は(子ども達が)大きくなって、それぞれの個性が出てきた時の方が断然楽しくなった。だって3人とも全然違うんだよー」というのに感銘を受けた。

なるほど確かにそれは楽しみである。小さいウチは手がかかって大変だけど、「言いつけをわざと守らずに困らせようとする」こと子もそのうちまた違う段階に入る。プリキュアじゃなくてもっといろんな世界があることを知って成長していく。いま憎たらしく思うことがあっても大した問題でもないような気がしてくるのである。

そんなこと子の着替えを、いつもは自分でできるのに、眠過ぎて何もできなくなったこと子に代わり久しぶりにやってあげたら、アレ…、と驚くほどに足が長くなっていることに気づく。その感じは(よく成長したな!)と感心するのと同時に何だか恐ろしいようでもあった。

バンドマンに憧れて 第48話 赤い疑惑とサウンドデモ

もうどういう経緯で声をかけられたのかすら覚えていないが、時計を少し巻き戻す(バンド半生を思い出しながら間断的に記しているので、書き忘れたと思い出すことがたびたびあるのだ)。

2007年、「反戦と抵抗の祭」というイベントから赤い疑惑に出演のオファーがあった。これは通常のライブイベントとはまったく異なり、師走のきらびやかなネオンに包まれた渋谷や原宿の繁華街を、DJカーとバンドカー(といってもいわゆる軽トラの荷台に無理くりステージを作ったもの)がデモ隊と一緒に騒がしく練り歩くという特殊なものだった。「反戦と抵抗」という言葉の中には、加速して止まることを知らない消費資本主義や寛容性のない実力主義、自己責任社会に対する庶民の不安や怒りが込められていた。

主催者達は、その当時問題視され始めていたグローバリズムや、企業が国家を越えて力を持つような資本主義社会に対し、異議を表明し、しかも海外のデモカルチャーを取り入れた、サウンドデモという斬新な形態のデモを実践していたわけで、そんなヒップな大舞台に呼ばれて私は光栄だった。

赤い疑惑の1stアルバム「東京フリーターブリーダー」では、自分と同様に夢追いかけフリーターで頑張る同世代の人間に向けたメッセージを詰め込んだつもりであったが、これが低所得者層、社会的弱者などの声とリンクするということで、共産党系の組織からラブコールをもらったり、地方で行われたサウンドデモで赤い疑惑の「東京フリーターブリーダー」をかけた、など意外なシーンからのリアクションがあって私には驚きだった。

「反戦と抵抗の祭」に声をかけられたのも、赤い疑惑のそのような、弱者目線の持ち味に白羽の矢が立ったに違いない。そんな経緯で、私は赤い疑惑の音楽にそのようなレベルミュージック的付帯価値があるのかもしれない、とこの頃から意識するようになっていった。

サウンドデモに参加するにあたり、ミーティングということで招集されたのが高円寺のセピアというカフェだった。バンドを代表して単身乗り込んだ私は、デモにおける警察対応の注意点などを知ることになり、ワクワクもしたのだが、実はミーティングより、そのカフェに貼られていた「素人の乱」新聞に私は心を奪われていた(素人の乱代表の松本さんによる手書き新聞で、私はかなり影響を受けた。後々、素人の乱界隈の人たちと仲良くなるきっかけになった)…。

2011年の震災以降、政権に対するデモは市民権を得た感があるが、それ以前の2000年代当時は、私と同じ世代の人でもデモなど時代遅れの産物とでも思っていたと思うし、自分たちだって初めて参加するようなものだった。

「売れたい」が夢でバンドを始めた私にとって、赤い疑惑を続けることへの新しい希望を見出した気がしたし、普通に活動してるバンドでは絶対に参加できないような現場での演奏なのだ。何しろ公道を走る軽トラの荷台でチンドン屋の如く騒ぐ訳であるから、一時はパンクを至上とした私にとってはたまらなくエキサイティングなことだった。

サウンドデモ当日は師走で寒かった。集合場所の明治公園から外苑前あたりを通り、明治通りを原宿へと進むタイミングで私たちは軽トラ荷台に乗り込んだ。いつも入場前にする衣装替えは済ませていた。

荷台の上は機材が所狭しと並び殆ど身動きも取れない状態…。おまけに信号で止まるたび、また発車するたびにそれなりに揺れるものだから、私は何度もマイクに顔をぶつけなければならなかった。

東京の中でもセレブリティーの香り高いお洒落スポットで、通りすがりの、驚いて奇異の視線をこちらになげかける沿道の一般の人々や、警察の過剰な警備で囲まれた左車線の中で鼻息荒く盛り上がっているデモ隊の人々を前に、興奮した私は調子に乗って、わざとゆるい下らないMCで様子を伺うと、やんやとみんな盛り上がるではないか。私は沿道の通りがかりの人達にデモ隊の人間が物騒な連中なんかじゃないことをアピールしたかったのだが、それが案外功を奏したようだ。

そこから始まった数曲(もちろんリハ無し)の演奏は大盛り上がりであった。MCが受けたのもあり、私はそこまで緊張しなかった。珍奇なシチュエーションだったこともあるが、赤い疑惑のライブ史上でも稀なほど盛り上がったライブだった(この時の様子はYouTubeで確認することができる)。

この時以来、パンクから始まったバンド活動に社会性や、反体制という視点が導入されることになった。この傾向はその後出会うEKDというアーティストとの出会いで決定的なものとなるのだがそれはまた後日。

ROAD to 小川町 第8話 コロナ禍突入どうなるマイホーム

愛する妻子が、東京でのコロナウィルス感染拡大を受けて予定より早く山形の実家に里帰りし、東京に残された私は、アパートの荷物を全てまとめ、それを小川町の新居に運び込む作業に追われることとなった。私は引っ越し屋さんに引っ越しを頼んだことがなく、それまでもいつも友人に頼んだりしながら自分で済ませていたので今回もそのつもりだったが、子ができて家族が増えた分、荷物の総量はちょっとしたものだった。

私は休日のたびに車に入るだけの段ボールを詰め込み、経費節減のため、高速なら1時間で行ける往来を下道で走った。田無から小川町まで道のりを下道で山沿いに進むと、毛呂山、越生、鳩山、ときがわなど、私は全く知らなかったが、小川町に似た美しい里山の景色を楽しむことができる。私は埼玉にもこんなに魅力的な場所が沢山あったんだという事実を、おじさんになってから知って痛快だった。

もちろん、小川町に向かうのは日中だけじゃなく夜もあったので、片道2時間の道のりを段ボール詰め込んで行き来するのは1人ではさぞ大変だったはずだ。だが、我々家族を小川町に運命づけたしゅうくんとはるかちゃんが、ほぼ毎回同伴してくれたおかげで苦行感は薄れていた。新居の押し入れの天井を直し、障子や襖を張り替え、古ぼけた風呂を大ハンマーでぶっ壊したりなど、私が計画したDIYリフォームの手伝いまでしてくれて、さらには庭で焚き火をしたり(この頃、安倍総理が、綿製の昔気質のマスクを2枚国民に配布するという頓珍漢な政策を打ち出してきて呆れて腹が立った私は、早速届いたマスクを焚き火で燃やした)、裏山の竹の子を掘りまくったり、夜は酒盛りしたり、かなり楽しい珍道中が続いていた。

しかも、緊急事態宣言を受けて私の勤め先が勤務日数を絞る判断をしたため、週の半分が休みになる非常事態になり、新居での課題が山積みだった私にはラッキーだった。楽しい新居での時間と不穏な東京での生活の相混ざった感じはそんな調子でしばらく続いた。

4月の下旬にすべてアパートの荷物を運び終わった私は世話になった大家さんに挨拶をしてアパートを引き払った。新居のローンと東京の家賃と両方払うのはもったいないではないか。そんな調子で、私は父が住む実家のマンションに転がり込んで、新居のリフォームが一段落するまでの一時的な居候ライフを決め込むことにしたのだ。

毎晩酒のツマミを数種用意し、テレビを見ながら晩酌をする父に付き合っていたら、そのうち腹の調子がおかしくなった。コロナ禍で奇妙にエキサイティングな日々だったが、会社のストレスもあるのか、家族と離れている寂しさも無意識下で作用してるのか、とにかく体調も均一ではなかった。

里帰りした妻子の元へは、出産予定日の5月下旬までに1度会いに行くつもりであったが、コロナの影響で、東京の人間が不用心に感染の少ない山形に行くべきではない、という雰囲気が出てきた。ピーの実家からも、私(東京の人間)が彼女の実家に行った場合、実家に住んでる家族が2週間外出できなくなる、という情報が入り、私は出産まではピーとこと子、そしてもう1人の赤ちゃんに会えないだろうことを覚悟しなければならなかった。

それに留まらず、ピーの話しをよく聞いてみると、その次女の出産には妊婦の両親しか立ち会いがNGとのことで、結局私は出産1か月後に家族を迎えに行くまで、新生児はおろか、みんなに会えないことが判然としてきた。つまり4月頭から6月末までの約3ヶ月も会えないことになる…。まさかそんなことになるとは思わなかった。この頃から都心部と地方の往来には見えない壁ができてしまった。

新居のリフォームの山場は風呂の改装だった。家族が新居にやってくる6月下旬までに完成させなければならない。しかも、ピーさんのたっての要望で、ありきたりなユニットバスではなく、檜の風呂を作ることになったのである。私は当時務めていた会社の仕事で、シェアハウスのリフォームに多かれ少なかれ関わっていたので、業者とのやり取りのノウハウを多少知っていた。とはいえ、ユニットバスじゃない特注風呂を請け負ってくれる業者は知らない。

そこで半分DIY、半分職人依頼で安くあげよう、という算段で思い切って始めてみたものの、これがなかなか大変だった。タイル仕上げの古ぼけた風呂と、脱衣場を友人のヘルプを借りて解体するまではスムーズに運んだが、そこから地元の大工さんと設備屋さん、ちょっと知り合いの左官屋さん、に仕事を依頼する段階で、私は狼狽ることが何度もあった。無自覚だったが、安く上げるために始めたこの工事は、つまり私が現場監督的な役割を果たさなければならない。

それなのに、建築の専門知識に乏しかった私は職人さん達の質問に正確に答えられず、職人同士の橋渡しをうまく努められず何度も冷や汗を流した。
「立ち上がりは何mmにするんですか?」
「浴槽の設置は誰がやるんですか?」
本当ならば現場監督がサクサク答えて進めるところで私がしどろもどろになり、分からない専門用語について正直に質問したり、確認しておきます、と時間を稼いで調べたり、そうこうしているうちに工期がズレ、6月末に本当にヒノキの風呂は完成するのか自信が揺らいでいた。

そんな中、5月の頭、居候先である田無の実家で、その晩はしゅうくん、はるかちゃんもいて、オヤジと4人でワイワイ酒を飲んでいた。10時半頃、突然ピーさんから着信。里帰り後、風呂リフォームの打ち合わせなどのやりとりはしていたが、こんな時間に…。出ると、
「こと子がギャン泣きで頑張って慰めたんだけど、ダメだ、ちょっと代って」
その後ろでこと子の怒涛の泣き声が聞こえている。そして受話器から激しい嗚咽が大きくなり、
「パパと一緒にお家で遊びたい…パパと一緒に…」
と、嗚咽を抑えきれず息も絶え絶えにこと子が訴えるのである。言い終えたかと思うと、また激しく泣き続けた。

里帰りで別れる時は私と会えなくなってこと子が混乱しないか、かなり心配していたが、ちょっと前にピーにこと子の様子を聞いた時は、年の近い女の子の従姉妹たちと楽しく過ごしてる、という状況報告で安心しつつ、そんなに私に依存してなかったのかな、と寂しい気すらしていたが、流石に1ヶ月経って急にホームシックにかかったのだろうか。もうお喋りも達者になった3歳の女の子とはいえ、イレギュラーな状況でストレスが溜まったに違いない。

しかも親はどうすることもできないし、何でこんなことになってるのか3歳児に説明するのも無理だし、どう励ましていいか分からない。またすぐに会えるから、と適当なことも言えないし困り果てた…。私が黙ってしまって、はたでその様子を伺っていて心配そうにしていたオヤジとしゅうくん、はるかちゃんに状況を説明し、しかし受話器の向こうのこと子に私は「大丈夫だからね」という言葉しか絞り出せず不甲斐ない気持ちでいっぱいになった。

30分もこと子が泣くのを聞き続けていた。ピーが受話器に戻って、もう一回慰めてみるね、と私に告げて電話は終わった。盛り上がっていた酒の場もドンヨリした空気に変わり、「そりゃあ、辛いだろうなあ、3歳の女の子がなぁ…」と言ったオヤジは涙ぐんでいる。私の心も灰色に包まれた。

数日後、ピーさんと電話して、あれからどう、こと子は…、とドキドキしながら尋ねると、いやあ、それがさ、あの日はあの後もかなり大変だったんだけど、翌日からまたケロッとしててね…、何か大丈夫そうだよ…。すっかり子供の気まぐれに翻弄されてしまった。我々の心傷は何だったのか、オヤジの涙は…。ともあれ、元気に戻ってよかった。ホッと胸を撫で下ろした。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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