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父のこと⑥

2019年、2人目の女の子ができた。その年の秋、私達は東京から田舎に移住した音楽仲間の友人に誘われ、埼玉県北西部、小川町に遊びに行った。次女がまだピーのお腹に潜んだばかりのタイミングだったのだが、この小川町行きがきっかけで私たちの運命は劇的に変わってしまった。

いずれ田舎暮らし、という移住の夢は私たち夫婦の間でずっとくすぶっている事柄だった。いろんな田舎を想定してみていたが、その時知った小川町の、山に囲まれた大自然、東京までの近さ、そして何より価値観を強く共有できる友人家族がとにかく近くに住んでいる、ということが私たちを後押しした。そしていろんな偶然が重なって2020年の夏、そう2人目の娘が無事生まれ、私たちは中古で買った渋い古民家風の家で新しい生活を始めることになった。急展開すぎて私はその時期ずっとハイだった。

この大きな変化の兆しが見えた頃、すぐに私は父にこの大いなる挑戦について、慎重に、神妙に相談した。仮に父に反対されたとして、断念することはなかろう、というくらい前のめりではあったが、案外父は、ふむふむという具合に聞いてくれた。同居問題ですれ違ったのにあっさりしたもんだった。

「小川町か、いいじゃないか、オレはゴルフでよく行ってるんだ。」
私はそれまで小川町という場所が埼玉県にあることすら知らなかったのに、父はすでに勝手知ったるような口ぶりなのだった。

私達が移住してから、父はゴルフに行くついでに、という具合に度々我が家に泊まりに来た。2人の可愛い孫に会いに、できればゴルフじゃない時にも来たそうであったので、できるだけ父からの来訪の提案には応えるようにした。

父が来れば、お金を気にせずメシ食えるしな、なんて私ははしたない気持ちでいたが、何より父と娘たちが仲良くしてる姿が毎度微笑ましく、母には孫の顔を見せられなかったが、こうしてオヤジには借りを返せているのかな、などとぼんやり考えていた。

父が私たちの移住に異論を挟まなかったことは、ゴルフのことだけではなく、小川町の田舎暮らしが、郷里の山口の田舎暮らしをどこか彷彿させていたからではないかと、私たち夫婦は感じていた。それは父が小川町に来て過ごしていた時の、いくつかの瞬間になんとなく感じるようなことだった。私が小川町に移住後に入会した里山クラブという里山愛護のコミュニティに父を連れて行った時もそれは感じられた。

里山クラブの会長は、父より少し上で、何となく風貌が父と似ていた。連れて行ったこと子が会長のことをじぃじに似ている、と言ったことがきっかけだったのだが、確かに頭の禿げ上がり方や、その時はたまたま身なりも近寄っていた。私とピーはこと子がそう言った時、確かに! と吹き出してしまった。偶然にも会長も父と同じで現役時代は教師だった。そんな具合に、父と、自然という領域で気持ちを重ねられたことは嬉しいことだった。

子どもの頃、父と母がたまに花や木を見て、これは何々だ、いや違うわよ何々よ、云々と植物の名前やウンチクを言い合うのを見て、何でそんなことで盛り上がっているのだろう、と不思議だった。気づいたら田舎に移住して、その時の父や母と同様に、いやそれ以上に植物の名前を覚えたり、土に触れることに喜びを見つけるようになっている自分がいる。歳を取るというのはそういうことなのかな…。

父は母が亡くなる頃から、自分が糖尿病予備軍であるらしいことを表明していた。好きな酒のせいで、結婚当初こそ私のように痩せぎすだった体格は、私が大人になる頃はビール腹がでっぷりと、高くない背丈の真ん中で全体の風貌を丸く印象つける程になっていて、なるほど糖尿病予備軍か、と私は納得するようになっていた。

しかし、父が本当に糖尿病になったのか予備軍のままだったのか、実は私はいまだによく分かっていない。ただ、そういう事情でたまに病院に行っては常用薬をもらってきて飲んでいた。インシュリンを打つこともなかったし、足腰は会う度に弱っていくのが分かったが、ビールを控えめにして焼酎でベロベロになる姿に、私は父の酒に対する意気込みを感じ、そしてまた特別な心配をしていなかった。

それよりも酔った後の記憶が不確かで、昨日どうやって家に戻ったのか分からないとか、酔って転んで怪我した、とか、持病のことよりどちらかというとそういう酩酊時のハプニングを心配していた。ゾンビのように夜中の街路を這いつくばる父を保護してからは特にそうだった。

そんな中、池袋の病院から、父が救急車て運ばれて寝ている、という報せを受けた。遂に、よからぬことが起きてしまったのか…、と動揺したが、埼玉の田舎にいる私より先に姉が病院に急行してくれた。姉によると池袋の飲み屋で倒れて店員が救急車を呼んだものらしいが、もう意識も戻って平気そうなので、とそのまま姉が随行して家まで戻ったらしかった。

その頃から父の記憶障害や、尿漏れ(前立腺肥大が原因だった)など心配事が増えてきた。酔って潰れて、ふっと眠りから覚めた父が
「あれ、ここはどこだ?あれ、コッピの家かここは…?」
といった具合にボケ老人と化することが増え、コロナのワクチン3回目の後など特に調子が悪そうだった。酔ってないシラフの時にも、「ちょっとしたことで思い出せないことが増えた」などと首を傾げ、珍しく弱気な表情をみせた。(ちなみに父は私達がワクチンを受けないことを非難していたので、私は「打ったよ」と嘘をついたら心底安心していた…)

そんなこともあって、父に関してはいつ何があってもおかしくないだろう、とは思っていた。私や姉が心配するのと同様に、父の飲み仲間やバラライカ楽団のメンバー達もその父の危なかしさを察知していた。特に大学時代の後輩であるオオタニさんは、一人暮らしの父に定期的に声をかけて会う(呑む)約束を設けてくれていて、私にもそういう旨を伝えてくれていた。

一人暮らしの父と「連絡がとれない!」ということで、バラライカのショウくんから連絡をもらったり、オオタニさんから連絡をもらったことがある。連絡をもらう時は胸がゾワゾワするのだが、いずれも父がただ寝ていただけだったり(父は難聴で補聴器をつけないとまともな聴力が機能しない、ということもあった)、ただ約束を忘却し去っていただけだったり、もう人騒がせなんだからぁ、と軽口叩いて終わるようなことで済んでいた。

ところが、2021年の年末、私が小川町の酒蔵で蔵人の季節労働に従事していた最中、またオオタニさんから連絡がきた。
「お父さんと連絡が取れないんです。お家まで来たんですけど、どうも気になるのが、新聞が2.3日分溜まっていて…」
またオヤジの人騒がせだろう、と一瞬思ったが、新聞の件がどうにも引っかかった。

しかし、と思った。先週末父は我が家に来て一泊した。その時も非常に愉快そうに酔っ払って、じぃじ、と言えるようになった次女ふみを無闇に可愛がってくれた。あまつさえ、私の誕生日祝いをしてなかったから、とケーキを買ってきて、もう43になろうというオジさんの誕生日を祝ってくれたんだ。

あんなに元気だったじゃん、まさか死んだりしないよな?私はただの間違いであることを信じて、酒蔵を早退し、車で田無の実家に急行することとなった…。やめてくれよ、オレが第一発見者になるなんて勘弁してくれよ…。私は動揺を隠すために平常通り音楽をかけ、軽トラで高速を経由し、実家までの道をひた走った。しかし、残念ながら独居を守ったマンションの浴室で父は息を引き取っていたのだった。

⑦へ続く

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父のこと⑤

泥酔の父との取っ組み合い(というほどでもないか…?)の喧嘩と同居プロジェクトの破綻がきっかけで、ピー(奥さん)は里帰り出産の予定を急遽前倒しにして実家に戻った。父は自分がブチ切れて私の首を絞めようとしたことなど全く記憶に残ってなかった。そんなことをオレがしたのか、とまるで他人事のように気まずそうだった。

その2、3ヶ月後、無事長女が生まれ、私達は、父との同居前に暮らしていたアパートに戻り、家族3人の新しい生活が始まった。それから以降は、もう政治のことで喧嘩することもなく、私と父との関係性でいえば黄金期だったのではないだろうか。父は初めての孫の存在にメロメロ。喜ぶとは思っていたけどここまでか、というくらい「コッピ」とか「こっちゃん」と呼んでは長女のこと子を可愛がってくれた。

同居が叶わなかった反動で寂しくなって一方的前のめりでこちらに押しかけてくるようなこともなかったし、大体週に1度くらい連絡があって、こちらも都合がよければ実家に行ってメシを食ったり、田無の居酒屋で飲んだりする関係が続いた。行きつけの赤提灯に父が入れた焼酎のボトルには「コッピー」と長女のあだ名が書かれていた。同居プロジェクトですれ違いのあった父とピーさんは順調に間柄を取り戻していき、円満な雰囲気での付き合いが続いた。

この頃から父は私にしょっちゅうお金の話しをするようになり、生前贈与だの生命保険がどうこうとか、妙に保守的な雰囲気になっていった。ギターを弾くことも減り、昔のように指が動かなくなってきた、とよく漏らした。そしてその時期最もメインの活動になっていたと思われる、北川記念バラライカオーケストラの団長に関しても、もうオレは辞めてもいいんだ、とかもう降りたい、とかなんとか事あるごとに言うようになっていた。

背筋は丸まり、見た目にも父が老いてきているのが判然としてきた。足腰も弱まり、酔った後では座敷から立ち上がれず、後ろにひっくり返ることもザラ。何とか歩き出してもフラフラ、私は父の肩を担ぎ上げながら、普段はいろんな方が飲み会の後のこういう父の介抱にあたっているのだろう、と想像してヤレヤレとも思っていた。が、ギターや執筆活動の減退に伴い、酒飲みが父の生きがいの中枢になりつつあったのだろう。

この時期に私が地元田無で出会った運命の友人夫妻にしゅうくんとはるかちゃんがいる。私達家族のファンになっちゃった、と公言して、長女の面倒見から始まって何でも力を貸してくれる仏のような2人なのだが、自然な流れで彼らは私の父とも仲良くなった。

ドレッド頭に全身タトゥーといういでたちのしゅうくんと、金髪で派手目な化粧をするはるかちゃんは、定職を持たずいろんな人のお手伝いをしながら徳を積んで生きている、といった風な特殊な友人だ。そんな2人に父は「お前たちは仕事持たないでどうやって生きてるんだ?」と単刀直入に聞く。そして彼らは毎回、こうこうこういう具合です、と父に真面目に返答を返す。その場では一応納得するが、その後でしっかり酔っ払ってしまうので彼らと飲むと毎回同じ質問をして彼らもまたか、と苦笑い。が、とにかくそんな関係性ができたのだった。

父は定時制でずっと教えていたこともあって、若者とのコミュニケーションに長けていた。私が父に尊敬する部分を持っていたとしたら、その分け隔てのない感覚だった。定時制にはオレオレ詐欺で捕まる不良生徒の他、自閉気味、オタク、いろんなタイプの若者が集まるらしく、彼らとの交流は父の人望にも厚みを持たせていたのだろう。また、父の知り合いにはお偉いさんから下々までいろんな人がいた。だから、私がどんなタイプの友人を実家に連れて行ってもニュートラルに、しかもちゃんと興味を持って接していたし、息子の友達と酒を飲むのが楽しそうで、私は父のそんなところが好きだった。

ある時、しゅうくんとはるかちゃんが「メヒコ(父は長尾カズメヒコと芸名で名乗っていた)可愛いよね〜」と私の前で、「あのフォルムがさー」とか、「あのファッションセンスがさー」と話しているのを聞いて私は吹き出してしまった。そうなのだ。高校生くらいから母が死ぬくらいまで、私にとっての父の存在は不明確で、何ならちょっと恐いぐらいな印象だった。そこから段々と距離が縮まり、酒を飲むようになってからは徐々に父に対して、好感を持つようになっていった。そして年老いてその丸まっていく姿を何となく見ていて、言葉にはしなかったが、どこかで「可愛い」と感じていたに違いなく、彼らが「メヒコ可愛い」と言葉にしたのを契機に私の中の父親評は「可愛い」になった。毎度酒をしたたかに飲んで潰れていく姿も、ケアは面倒だが客観的に見ればカワイイのだ。

父の飲んで潰れて、という姿は、父の現役の頃にはなかったことだと周囲の方々は言っていた。年老いて肝臓が弱ってきてそうなったのか不明だが、その頻度は並大抵じゃなくて、飲んだら必ず、なのだった。大体人と飲んでるとペースが上がるらしく1〜2時間くらいで出来上がり、気づくと船を漕いだり机に突っ伏してしまう。それがおかしくて写真を撮ってSNSに載せたりすると、いろんな友人が、長尾くんのお父さんヤバいね、と謎の評価をしてくれるのだった。父はエンターテイナーを自認していたはずだが、わたしというメディアを経由して、更に私の友達たちまで楽しませてしまうのか、と妙に感心したものだった(父の死後、長尾くんのお父さんと一緒に飲んでみたかった、という友人がいたほどだった)。

父の晩年はかように酒に彩られていた。酔って自転車で帰る時に転んでどこか擦りむいたとか、記憶が全くないが、いつのまにか家に帰ってきていたということがしばしばあって、その度に心配になっていた。

ある晩、父から借りた実家の車を実家に戻すため、夜田無の道路を走っていたら、歩道でゾンビのようにフラフラ這いつくばる老人の姿がある。それがどうもよく見覚えのある丸っこい容姿カタチなので、車を減速し、帽子、手袋、カバンと確認していくと間違いなく父なのである。すぐに路肩に車を寄せて駆けつけると、四つん這いになって立ち上がることもままならない様子なのだ。さすがに私も呆れ返って、オイ、何やってんだ! と父の手をとって引っ張り上げ、立たせようとした。父は、引っ張り上げてくれたのが、通りすがりの親切な人だと、思ったのだろう、「これはこれは、どうもすいません!」と酔いながらも丁重に挨拶をしてくるので、もう一度「オイ、オヤジ! オレだよオレ!」と怒鳴った。すると父は天から授かったギョロ目をカッと見開いて、「…何でお前がこんなところに!」と驚いている。何でこんなところに! というのは正しく私のセリフである。とにかく車に乗れ、と父を引きずって車に押し込んだ。

翌日、何であんなところで這いつくばってたのか問い詰めたものの、何でかわからない、という。次第に記憶を辿ってゆくと、どうもどこかで飲んだ後にタクシーに乗ったところまで思い出したようだ。そこから先は推測しかできないが、へべれけで行き先をちゃんと伝えられず運転手に愛想をつかされ、引き摺り下ろされたんだろう、と。あの時私があそこを通らなかったらどうなっていただろう。警察に保護、補導されたか、車道に倒れて轢かれてしまったか。一歩間違えれば…。その頃から父に対して、何があっても不思議じゃない、と思うようになり、かと言って、ほどほどにしろ、とか量を減らせよ、とか注意することも私はしなかった。酩酊は自分も好きだし、それを制するのは父の楽しみを奪ってしまうことになる、と確信していたからだった。

⑥へ続く


父のこと④

父との二人暮らしは気楽だったとはいえ、出戻りで実家で暮らしている、という窮屈さをどこかで感じていたのは確かだった。私は特に父と反目するようなことはなかったが、東北大震災後の政治問題、ことに原発政策に関して話が噛み合わなくなり、たびたび言い争うようなことが起こってしまった。

それまで日本の政治に関して積極的に意識を向けてこなかった自分が、震災きっかけで急に覚醒し、当時の政権の原発政策に対して怒りが収まらなくなってしまい、脱原発デモなどに足繁く通うようになった。父は原発に対して、悪いイメージを持ってこなかった。政府の発表通り、クリーンなエネルギーとして、エネルギー資源の乏しい日本では仕方がない、そう思っていたはずだった。だから、私が突如左翼的な言動(父はそう捉えていた)を展開し始めたことに牽制したり、非難するような態度をとった。

嘘がつけず馬鹿正直な私は、政権擁護的な父の態度に何度か噛みついた。それは、父に対して、どちらかというと左寄りな人間性を見出していたと同時に、実際国歌斉唱不起立問題などで窮地に立たされた教師の同僚を庇って体制側の教頭に噛みついたり、などという父の武勇伝などから、きっと私の気持ちが伝わるだろう、そんな風にどこかで信じていたからかもしれなかった。

しかし、何回か衝突するうちに私は、自分の言動が徒労のように感じ始めてしまい、平行線で言葉をぶつけ合うことの虚しさに押され、故意に父との話題から政治的なものを排除するように努力した。その部分さえ除けば、依然、私と父との関係性にヒビが入るようなことはなかったのだ。

そんな中、私に恋人ができ、結婚することになった。当然父は喜びを隠さなかった。それから私は実家から程近い場所にアパートを借り、たまに父とピー(私の妻のことである)と3人で酒を飲んだり、飲み屋に行ったりと、良好な日々が続いた。母は亡くなっているし、近いとはいえ一人暮らしじゃオヤジも寂しいだろう、と心配したが、父は悠々自適に引退生活(公務員を終え、嘱託としてたまに学校に行っていた)を送っており、まだその頃はバラライカ楽団の顧問も任されていたし、ギター関係、大学OB会関係の大役を任されていたりと、何となく忙しく充実して過ごしていたように覚えている。

数年後ピーが妊娠した。私はついに、ギターの親子共演を越える具体的な親孝行ができるのだ、と誇らしかったし、父も目尻を垂らして喜んだ(その時垂らした目尻の皺の深さに、父が老人になっていくのを感じた)。そして何の社会的キャリアも持たず、アルバイトを転々とした後、小さな会社の会社員になった私は、慎重な考察を経ずに、ピーに、出産を機に、実家で父と同居することを提案した。単純に生計を案じてのことと、子守り生活に父の存在も力になるだろうと思ったからだった。彼女は私に精一杯気を使ったのだろう、どういう経過だったか、オーケーサインが出たため、出産数ヶ月前に私たち夫婦はアパートを引き払って実家に引っ越した。

しかしこれが裏目だった…。父とピーのすれ違いが短い間に繰り返され、3日で同居生活が崩壊することになってしまった。今になれば私の想像力のなさに呆れるが、まさかこんなに早く問題が起こるとも思っていなかった私は事態の深刻性に気づき、和平的収束を図るため、すぐに仲良くなっていたアパートの大家さんに連絡し、「すいません、戻らせてください」と泣きついた。幸い、我々の愛すべき住まいだったその部屋は埋まってなかったので運んだ荷物を一からもと居たアパートに戻す段取りをつけた。

ピーが許容できなかった父の言動のことで父と話し合い、同居案は一旦白紙撤回にしようと伝えた。デリカシーのない父は、何でそれくらいのことで、と首を傾げていたが、抵抗するようなことはなく、ただ無念そうに肩を落とした。ドタバタ極まるその3日目の夜、たまたま叔母が2人、私の子どもがじきに生まれるということでお祝いに実家にやってくることになっていた。娘と孫を持つ叔母の1人がしみじみと、親子の同居はそんなに生やさしいものじゃないわよ、と私に言った。

その日の夜は皆で酒を飲み、ただ叔母と楽しい会話をして終わるはずだった。ところが、何かの拍子で話題が原発や安倍政治のことになってしまった。私と父がその点で不和があったことは知らずに、叔母は安倍さんはひどい、というようなことを言い、もう一人の叔母もその意見に同情的だった。その時はまだ安倍を支持していた父(アベノミクスで株価が上がったと喜んでいた)はお前たちは分かっていない、というような感じで感情的になった。私もつい、叔母にそうでしょ、そうでしょ、と同情を求めてしまったのだが、段々父の口調が激しくなってきているのに、そしてまた酒がだいぶ進んできていることに気づき、
「いや、もうこの話しはよそう!!」
と無理やり話を終わらせようとした。

すると
「いいや、よくない!!」と父はかなり怒っているようだった。
祖母の葬式の後に親戚と父が口論になった時と同じで父だけが孤立している状態だった。マズイな、と思い、
「いくら話しても平行線なんだから、もうやめよう!!」
私は(確か)父を制するようなジェスチャーをして落ち着かせようとした。その時だった。父が突然机をドンと叩いて立ち上がった。
「キサマ!親に向かって何だ、その態度は!!」
その父のキレ様を前にして、私も瞬間的に理性を飛ばしてしまい、本能的に立ち上がってしまった。父の眼は見たことのないほどに血走り、そしてまた酔っていた。父は私が立ち上がったことで余計に怒りを増幅させ、机を叩いて立ち上がった以上、何かをしなければ、という様な気魄に満ち溢れていた。

やめてー、ピーが隣で泣き出し、もう、2人ともやめなさい、叔母の声も聞こえた。父が私に近づいて手を上げた。殴るのでもなく、何かしないとカッコがつかない、という風に私の首に手を突き出し、締める素振りをした。素振りだったのかどうか、最早関係なかったが、老いた父の、また泥酔した父の腕力は驚くほど弱かった。私はすぐにその手を振り払い、今度は私が何かをしないとかっこがつかない、と咄嗟に父の肩に手を当てて後ろに押した。父はされるがままに後退りをし、台所側の壁に退いた。そこに電気のスイッチがあったものだから瞬時に部屋が暗転し、女性陣の悲鳴とともに見事なパニック劇となってしまった。まるで「男はつらいよ」の寅さんとタコ社長の揉み合いの様であった。

私はそのまま無抵抗で、もはや酔いのため、自分が何故こんな風になっているのかさえ分からなくなっているかのような父を無理矢理椅子に座らせて私も座った。叔母が「自分の息子に手を上げるなんて最低よ長尾さん!!」と怒ったのを覚えている。数ヶ月後に産まれる予定の娘でお腹を大きくしていたピーはずっと泣いていてまるで修羅場の様だった。父はしばらく茫然自失といった感じでそのまま椅子から動かなかった。

その事件は、私が父を思い返す時一番濃厚な思い出としてはっきりと焼きついている。何だか惨めな思い出のようでいて、大人になるまでよく分からなかった父の存在と、最も近づいた時間だったのかもしれない、と今では思える気もするである。

⑤へ続く


父のこと③

母は癌の告知を受けてから1年経たぬ間に死んでしまった。1年もつかもたないか、と言った医師の言葉通りに…。胃を切除し、抗がん剤の副作用に苦しみ続ける母に寄り添っていた私達家族にとって、母の死は悲しいことであったが、最後は早く楽になってほしい、と思わせる壮絶さを母の姿に見ていたので、ホッとした部分もあった。

山口の実家を継がなかった父は、長尾家の墓を、当時まだできたばかりだった入間の墓地に設けた。私は当時付き合っていた彼女と、実家から程近い武蔵境で同棲を始め、実家には結果的に父と姉が2人で暮らすことになった。前回書いたように私と父との距離は大分縮まっていたが、異性である姉にとって父は依然ガサツで、めんどくさい存在だった。姉からしばしば父の愚痴を聞いていたので何だか気の毒であった。

母の死後、私は自身のバンドで家族をテーマにしたアルバムを作ろうと躍起になっていた。「東京ファミリーストーリー」というタイトルのその作品を作っていく中で、私は父との共演を考えていた。

20代に入って、パンクやロック以外の音楽、ヒップホップやレゲエなどに目覚めた私の嗜好性はアフリカ音楽をきっかけにワールドミュージック(英米以外の音楽の総称)へと広がっていった。その流れで南米・ラテン系音楽への眼差しが変わった私にとって、南米フォルクローレと同様、父が以前からライフワークとして演奏していたメキシコのマリアッチの良さも理解できるようになっていったため、父に対しての親近感が増していた。

そんな経緯もあって私が父に共演を提案すると二つ返事でオーケーとなり、私が作った「東京の家族」というベサメムーチョ風の曲と、「まだまだ生きていくんだ」というフォーク調の曲で、父にギターと歌で参加してもらった。後者は、テーマを決めて父にも自分で歌う箇所の作詞までしてもらった。録音スタジオでバンドメンバーと父と4人で作業したことは今ではかけがえのない思い出である。これでオレも親孝行ができたんじゃないか、と一人満足していた。親子で共演なんて素敵ですね、などと周囲の人間から言われて、してやったり、という気持ちにもなった。

CD発売記念ライブには父にも参加してもらった。お客さんも沢山入ったので、父にもいくらかは私のバンドマンとしての奮闘を認めてもらえたんじゃないかな、と思ったが、父が私のバンドをちゃんと褒めたことはなかった。しかし私のバンドに関わっている間はすごく楽しそうにしていたのが分かったのでそれで十分だった。

それからしばらくして実家で父と姉の衝突があった。それは母亡き後、父が今まで放り投げていた親心というのか、母性というのか、老婆心というのか、とにかくそういった子どもに対する世話心を俄かに取り戻したのか、未婚の姉に、縁がないなら見合いしろ、と、突然ひどく乱暴に迫るようになったのである。

それを聞かされた時、私は流石に呆れ返った。父は長年定時制高校の教師をやっていて、若者特有のノリにも、一般的には理解がある方だと思っていた(教室でギターを弾いたり、生徒からも人気があったとか…)。それなのに、自由恋愛が当たり前のこのご時世に見合いだと?? 姉の父への不信、反感はこの時がピークだったと思う。私もこれはただごとじゃない、と危惧し、直接父へ苦情をぶつけた。本人が望んでないことを強要するなよ、それじゃ姉ちゃんに嫌われるだけだぞ、という具合に。父は、そうか、と聞いていたが、結果的に私の進言は効果がなく、父と姉の関係は悪化していくように見えた。

紆余曲折の末、姉の忍耐と優しさで、父の希望通り1度だけやってみるが、嫌だったら断るけど、断っても文句言わないで、という提案がなされ、父もその条件をのんだ。姉はもちろん見合いなどしたくなかったが、これで父が諦めるなら、という戦略だった。案の定、見合い相手に興味を持てず姉は断ることとなったが、約束を反故にして父は、何でこんな良縁を断るんだ、と怒り始めてしまった。

父の言う良縁とは、その相手の職業や金回りのことを見てそんなことを言っているだけで、いやいや、私から見たら良縁でも何でもないように思われた。父の価値観はやはり一昔前のモノで、そんなものを押し付けられた姉は溜まったものじゃない。斡旋してもらった私の立場も考えろ、と無茶苦茶言い出す父に対する姉の絶望が手に取るように見えて、私もできる限り父を牽制したが、私や姉の気持ちが通じた手応えはなかった…。

それから程なくして、今度は私の同棲生活に綻びが現れ、私は付き合っていた女性と別れることになってしまった。悲嘆に暮れながら、今後の進退を考えた時、私はひとまず実家に出戻ろう、と決めていた。ずっと父との同居でストレスを溜めていた姉に代わって私が父と住み、姉には以前より希求していた独り暮らしをしてもらおう、と考えていたのだ。姉にその提案をすると果たして喜んで応じる流れとなり、姉は叔母の家に近い世田谷でアパート住まいを始め、私は父と向き合う生活に突入することになった。

それからしばらくの間、男2人の慎ましい生活が始まった。感心したのは父が驚くほどマメに食事を作り、家事をこなしていたことだ。こと晩餐のツマミにかける仕込みへの気合いの入れようは眼を見張るモノがあった。母が死んでおふくろの味、というものから遠ざかっていたが、父の、特に郷里で覚えたのであろう魚介料理の美味さは、おふくろの味に代わる「おやじの味」として私の舌に刻まれることになった。

父の晩酌にはほぼ毎晩付き合った。父の話を聞くのは苦ではなかったが、父のペースに合わせるほど酒量も飲めないし、長くなるのも面倒なので、いい加減で切り上げる。すると父はテレビの前に陣取って続きの酒を始めるが1、2時間もするとテレビの前で体勢を崩してイビキをかき始めるのが常だった。母がいた時はそんなだらしない状態を見たことがないが、母が死んでからの父は飲み始めたら潰れるまで飲む、という体たらくになっていて、姉はそれを嫌がっていたが、私は、何だか幸せそうでいいな、と注意するでもなく放任していた。父はしばらくすると起き上がって、ベッドに行ってちゃんと寝直すのが可笑しかった。父に対する私の印象というのはその頃から(しょうがねえおっさんだなぁ)というものに定着していった。

④へ続く

都を落ちて土を掘る <土を掘る>

この世に生まれて40年以上が過ぎて、私は東京を離れる決意をした。お隣埼玉県のとある田舎町に、家族で移住することになったのだ。

私が中古で買った土地付きの家にはかなり大きな庭がついていた。都内で住んでいた頃には想像し得なかったような広さで、前入居者のお爺さんはそこで畑をやっていたらしく、何の防草造作もしていない地面には、暖かくなると雑草がわんさと生え、植木は伸び放題、一部は逞しいイネ科の植物や蔓達で藪化していた。

都内で遊び程度にプランター菜園をしたことはあったが、どうせ野菜を作るのなら地面に直接種を植えたい、と強く思っていた私は、すぐに何か植えてみようと狙っていた。

家を買って間もなくは、まだ里帰り出産で山形に行ってしまった妻子と合流するまでの間、私が東京から新居に通っては、傷んだ住居のリフォームや引っ越し作業を進めていた。そんな中、とりあえず農産物直売所で売っていた野菜苗を買って、何でもいいから地面に植えてみようと私は興奮して庭の土に鍬を入れてみたのだ。

鍬は2種類、スコップや刈り込み鋏などと一緒に爺さんが使っていただろう使い込んだ代物が、庭に残置されたビニールハウスの中に並んでいたのだ。私はプランター栽培では絶対登場しない、無骨な道具を握り、庭の適当な一角の地面に力を込めて鍬を振り下ろした。

突き刺さった鍬は地面にめり込んで簡単に抜けない程だった。後でこれがいわゆる粘土質の土であることがわかる訳だが、その時は「何て地面は固くて手強いんだ!」と驚いたのであった。それでも非日常な、その野蛮な運動は同時に私に興奮をももたらしていた。チキショウ、私は呟いて何度も鍬を入れて、その粘土質の土を耕した。ようやく苗がいくつか植えられそうなくらいの小さな区画がほぐれたところで、既に私の額からは滴るような汗が毛穴から噴き出していた。私は(何だこれは、何だこの疲労と爽快感は)と息を切らして笑顔になっていた。

これが、私が移住して初めて土と向き合った瞬間であった。そこに植えた苗は驚くほどスムーズに育つオクラのようなものもあったが、他は大した成長を遂げなかった。それで、すぐに私は土について想いを馳せるようになった。誇張ではなく、私は土に惹かれていった。

数ヶ月後、私は東京の会社仕事を辞め、移住先の田舎町で、植木屋の見習いとして働き始めた。私は土に、ミドリに依存し始めていた。植木屋は大変な仕事で、天気に多くを支配される。夏は午前と午後で汗でずぶ濡れになるくらいの運動量である。植木屋の仕事は植木の手入れ以外にも伐採や、抜根、造園など、殊にヘビーな運動もある。

中でも抜根というのは樹の根元をスコップでガシガシ掘って(もちろん重機を使ったりすることもある)、周囲に伸びた細根を切断して樹を根ごと除去する作業なのだが、これが人力だとなかなかシンドい作業なのだ。

40年近く、都市部で都市部の当たり前の生活をしていた自分が、どういう訳だが剣スコ(先の尖ったスコップ)を振り回して汗水振り撒いて土を掘っているのである。どういうことなのか。

ちなみにこの抜根作業は、本当に重労働だと思えるのだが、実際に根が音をあげて倒れ、張り巡らされた根がすべて切断されてバコっと除去される時の達成感は、これはまた格別のアドレナリンをもたらす。

私の植木屋デビューは夏の終わりであったが、冬になり、冬の剪定がある程度終わって閑散期に入った頃、私は植木屋の親方の知り合いの、土木業者の手伝いに数日通うことになった。そこではネコと呼ばれる一輪車で練った生コンをひたすら運んだり、いわゆる「土木」というヒビキから私たちが想像するタフな肉体労働を体験することになった。

妻子も里帰りから戻って、新たな地での娘達の保育園の行き先を求めていた頃、来年近くに新しい保育園ができるという噂が流れて、我々が調べて応募したところ、無事2人とも入園が決まった。ある日の土木作業の現場は、その保育園の土地造成だった。娘達の通う保育園を作る作業にこんなカタチで関わることになるとは、と私は田舎暮らしの妙にまた興奮しながらも、その現場の作業で死にそうになっていた。

そこでもやはり穴を掘っていた。フェンスを取り付ける、そのフェンスの支柱を固定するコンクリートを埋める為の穴で、ユンボが転圧した固い地面に、剣スコや、穴掘り専用のハサミのようなスコップを突き刺して垂直の穴を掘っていくのだが、これも酷くシンドかった。私の頭の中では「奴隷労働」というコトバが作業中、度々リフレインした。自分の死体を埋めるための穴を掘らされる、という地獄のような拷問を聞いたことがあるが、そんなことまで思い出していた…。

いずれにしても私は移住と同時に土と向き合うこととなり、穴を掘ることとなったのである。終点があるわけではなさそうであったが、そんな人生も悪くはない、と思えた。最期は土に還ってしまえばいいのだから。
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Author:アクセル長尾
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