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バンドマンに憧れて 第41話 アクセルとブレーキーの確執

アクセルとブレーキは表裏一体である。赤い疑惑のメンバー、アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーというステージネームを決める折、ブレーキーはアクセルの暴走を止める役割で、と冗談ぽく言っていたのは半分冗談ではなくて、当時のブレーキーは実際よくブレーキをかけていた。

ブレーキーがドラマーとして加わった時、それまでのドラマーにポンコツ感があったので、ブレーキーが初心者ながら安定感のあるビートを叩いた時、ヘタでもいいだろうパンクなんだからと考えていた私やクラッチは背筋が伸びたものである。ブレーキーは当初、赤い疑惑に自分が入って演奏が安定したんだ、と豪語して調子に乗っており、それは確かに間違ってはなかったのだが。

まだやりたいことや言いたいことが無尽蔵にあった若かりし私も、その頃は調子に乗ることが多々あったように思うが、ブレーキーはそこに意識的にか無意識的にかブレーキをかけるのであった。それがもちろん奏功したことも実際あったのだと思うが、ブレーキをかけられてよかったことばかりではない。むしろ1stアルバムが出てライブにも順調に誘われるようになり、忙しくなってきたこの時期は次第に様子がおかしくなっていった。

当時我々は西荻窪のリンキーディンクスタジオで週に1度、多い時は2度、必ずスタジオに入っていた。正味の話その頃はみんな時間にルーズで、大体私が1番最初に来てクラッチが来て、そして1番遅れてブレーキーが来るのだった。私も10分20分遅れることはよくあったのでメンバーが遅れてくることには寛容でいようと思っていたが、当時のブレーキーはスケールが違った。連絡なしで1時間、2時間と平気で遅れてくるのだった。

彼は加入当初は留年中の学生で、休学したり何やかんやモラトリアムを満喫していた。それで卒業してからも無職の期間がしばらくあり、そういうダラシない雰囲気で周りの連中からからかわれたり逆に評価されたりしていて、私もからかったり評価していたのだ。ただ、私の目標はバンドで食べていくことで、そうであるならばヘタウマパンクとは言ってもある程度真剣にやらねば、という矛盾するつんのめりな姿勢もあり、ブレーキーの遅刻問題が段々とストレスになっていった。

また彼は知り合いの紹介で葬儀系の派遣社員として働くようになるのだが、仕事をするようになってから、あからさまに疲弊し、練習にもダルそうに来ることなどが増えた。実際、彼の仕事は朝早くから始まり遅くまでかかる。仕事柄スーツを着ることが多い割に中身は肉体労働だったり、話しを聞いていても大変そうではあった。しかし、仕事が理由ではなく1、2時間遅れてきて、しかもゴメン、というより逆ギレ風な、不機嫌な顔で入ってくることなんかもあった(練習に来ないこともあった)。

それだけではないのだ。赤い疑惑の曲作りというのは私が作ったフレーズをスタジオで再現しながら2人に適当にベース、ドラムをつけてもらうのだが、3人とも音楽的な勘が鋭かった訳ではなく、しかもヘタウマなので、相当に時間のかかる作業だった。ベースのフレーズは私が提案することが多かったのだが、ブレーキーはそれを嫌がるのである。こう叩いて、と言っても素直になぞらずに必ずオリジナリティーを挟んで来ようとして、だけど素養があるわけじゃないから彼なりのフレーズが出来上がるまでにかなり時間がかかるのだ。

曲作りの中心である私はそういうことにイライラするのである。そしてオリジナリティーを追求するのはいいことなので、イライラを精神力で抑えてとにかく時間をかけて頑張っていた。これは要するに曲作りを進める私の力不足でもある訳だが、更に私がブレーキーに腹が立ったのは曲のダメ出しだった。

曲自体のダメ出しもあるし、イントロ、AメロからBメロへのつなぎ、終わり方、などなどいろいろなダメ出しがあった。私はダメ出しするなら代案を出せと迫ったが、具体案は出せないのである。

ブレーキーはバンドを始めた頃からよく言っていたが、「オレはバンドで食うとかピンと来ない」と。それはつまり彼が曲を生み出したりするタイプではないし、私のように成功への欲があまりない、ということでもあっただろう。だから代案を出せと言われてもそんなものはないのである。

そういったことが度重なり、私は違うドラマーだったらもっと上手くバンドが回るんじゃないか、とよく思っていた(クラッチはベースが下手だったが彼なしではバンドはやれないと思っていた…)。スタジオに入ってもストレスが溜まることが続いた。私はそれでも沓沢ブレーキーのことをどこかで好きだったし、尊重しようと思っていたのかもしれず、スタジオ内でブチ切れる、ということはなかった。

その代わりクラッチに改まって、自分の腹の内をブレーキーに伝え、改善してもらえないなら一緒にバンドやれないと言おうと思う、と相談した。クラッチは「そう思ってるならそうするしかないじゃん」と背中を押した。クラッチはいつも私の背中を押してくれる人なのだ。

いつぞやの夕刻、その日はスタジオではなく吉祥寺の井の頭公園に集まった。何で井の頭公園だったのか覚えていない。ただ話があるからとブレーキーに伝えて3人で集まったのだ。それで私が抱えているブレーキーへの不満を細かく冷静に伝えると、えっ、そうだったの? 気づかなかったよ、と言うので私は驚いてしまった。

私が彼に不満や怒りを抱えていたことを本人は大して気づいておらず気にもしてなかったらしく、そうだったのか…、と考え込む風だった。そして彼は素直に詫びて、バンドを続けたい、努力するよ、というのである。そう反応されると私もそれ以上は言えず、じゃあまた3人で頑張ろうか、ということになり、確かその日は伊勢屋で打ち上げたのだ。

実際それから後はスケールのデカい遅刻もなくなり、曲作りがスムーズになったわけではなかったが、それ以上衝突するようなことはなくなったのである。

元々私もブレーキーも強い捻くれ屋で、素直に物事を聞けなかったり、シニカルになったり、人と違うことをしようとしたり、その上マイペースという、似てる部分が沢山あった。似たもの同士の衝突と考えればそんなものだったような気もする。

思っていることは伝えないと伝わらない。恋愛や男女間の話のようでもあるが、男3人のバンドでだってそんなことがあった。むしろバンドと恋愛との共通点なのかもしれない。それくらいバンドってのは密な人間関係になり得るということなのだろう。
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ROAD to 小川町 第1話 しゅうくんとはるかちゃん

しゅうくんと出会ったのは、アレはいつだったか。地元西東京市の脱原発デモに声をかけられた時のことで、こと子が生生まれて半年くらいだったはずだから2017年初頭だろうか。

西東京市の脱原発デモを主催していたのは小熊さんで、友人の母である。地元で友人というと同級生だろうと思われそうだがそうではない。私が赤い疑惑で1番盛んに活動していた2005年前後に、よくライブを観に来てくれていたヤツで、ある時私に声をかけてくれた。
「長尾さん、田無なんですよね?オレも田無なんすよ。」
彼との出会いはそんな感じ。6つくらい歳は離れてたけどすぐ仲良くなって、その頃よく遊んでた絵描きのミノケンと3人で、その頃住んでた武蔵境でラップごっこをして遊んだりした。

そんな彼の母、小熊さんは、根っからの活動家で、彼女は倅から私のことを知り、赤い疑惑を知り、そして私がソロの弾き語りで原発反対の唄を歌っていることを知って声をかけてくれたのである。

その脱原発デモは西東京市の有志の人が中心になっていたが、新宿や渋谷や丸の内方面でやるような大規模な催しではなく、20人前後のかなり小規模なデモだった。西東京市内の公道でシュプレヒコールと行進を行い、小熊さんの趣向なのだろうか、毎回デモ後の懇談会が夕暮れの公園で行われ、その際に誰かが弾き語りをすることになっていた。その演者として白羽の矢が立ち、プロテストソングを気に入ってくださって嬉しい私は2つ返事で出演を快諾した。

小熊さんは毎回音響で手伝ってくれる若者が居て、当日も来る予定だから、と教えてくれて、アンプ等も彼がいつも持ってきてるとのことだったが、私も携帯アンプを持っていたのでアンプは持参することにした。

集合場所の市役所広場に向かうべく市役所入り口あたりを通りがかる時、全身タトゥーと長めのドレッドで、明らかに田無には珍しい風貌が向こうからやってきた。私は直感で小熊さんが言ってた、音響を手伝ってくれている若者というのは彼に違いない、と思い彼に声をかけたらビンゴだった。「しゅうです。よろしくね。」彼は印象的なほど柔和で丁重な挨拶をした。私はやはり気になるので音楽の話しを最初の頃に交わしたと思うが、しゅうくんが「ハードコア経由してレゲエに」というのを聞いて、同い年だし、もうそれ以上余計なことを話さなくてもいいと思った。これが私としゅう君との出会いで、後の私の人生に小さくない影響をもたらすことになる。

デモの後、西武柳沢の飲み屋で打ち上げがあり、私は産まれて数ヶ月だったこと子とピーさんと一緒に参加した。その席でしゅう君のパートナーはるかちゃんとも仲良くなった。2人とも数年前に田無に越してきて、まだ価値観を共有できるタイプの友人にあまり出会えてないので、と我々家族との出会いを非常に喜んでいるようだった。逆に私も地元が田無とはいえ、幼馴染みで未だに繋がってる友人もおらず、音楽関係ほか普段親しくしてる友人でも近所に住んでいるのは数えるばかりだったので近所に仲良くなれそうな2人と出会えて嬉しかった。

私は東京生まれ東京育ちであるが、荻窪の病院で生まれ、幼年期は武蔵小金井のマンションに住んでいた。幼稚園の年中だったか、父が田無駅から15分ほど歩いた宅地のマンションの1室を買ったので、それから大学を出るまで私は田無の住人となった。高校までは公立に通っており、その頃までは仲良くしていた友達がチラホラいたが、私立の高校に行くようになってから疎遠になってしまった。

中学時代にロックやファッションに開眼した私はしょっちゅう吉祥寺に通い、ハードコアパンクにハマった大学時代は足繁く西荻窪に通った。いわゆる中央線カルチャー、および中央線サブカルチャーにすっかり魅了され、地元の田無はイケてないダサい町、というふうに認識が更新されていった。地元の友人と疎遠になった背景にはそのような価値観の変遷があったかもしれない。

大学を出てパンクバンド赤い疑惑を始めるタイミングで私は実家を飛び出し、当時の憧れだった街、西荻窪に居を構え、新たな人生の扉を押し開いた。バンド活動は楽しかったが、目指していた商業的成功とは程遠い状態のまま月日は流れてゆき、私は当時付き合っていた彼女と同棲するために一旦武蔵境に居を移したが、その同棲が程なく破綻し、30を目前にして私は思い入れのない地元の街田無に戻ってきた。

母が亡くなり、姉と父が実家にいたが、父と2人きりの暮らしに辟易していた姉は、私が実家に戻るのと入れ替わりで実家を出ていった。それから父と私の2人暮らしが始まり、もう、私のような穀潰しに伴侶はできないのではないか、と半ばヤケクソな気持ちになっていた頃ピーさんと出会った。

それから1年程して私は彼女と結婚した。実家を離れ、近所に2DKのアパートを見つけて住み始めた。6畳、8畳、4畳半ほどのダイニングキッチンに風呂とトイレが別々にあって6万円。古いとはいえ、欄間や磨りガラス、窓の格子など、昔ながらの温かみを感じさせる細工が至るところにあって、私とピーさんは一目惚れ。これで6万でいいんですか、と訝しむほど我々はこの家が気に入ってしまった。

安さの理由は、ただただ大家さんの商売っ気の無さからくるものであることが後で分かった。家賃は向かいの大家さんに直接対面で支払う仕組みで、私達はすぐに大家さんと仲良くなり、庭のかなりの敷地を自由に使っていいからね、とのお墨付きをいただいたのである。

その頃には、私の中で田無ダサい、などという高慢な気持ちも失せていて、私が今こうして所帯を持って、ただ何となく生きていられるだけで文句はない、という塩梅になっていた。そしてそれは長女のこと子が生まれて、より強まり、何の変哲もない西武新宿線の郊外でこうして家族で住んでいる、ということに関しては一切の不満もなかったし、私が弾き語りでサザエさんの替え歌「今日も田無」を作る頃には、腐れ縁というのにも似た、いやそれよりももう少し前向きな地元への愛着を持つようになっていたのだ。

しゅうくんと田無で巡り会ったのはそんな時なのである。しゅうくんとはるかちゃんは赤子や幼児のお守りが抜群に上手で、こと子の面倒は驚くほど積極的にこなした。子育て奮闘中だった僕らに「時には2人で映画でも観に行ったら?こと子は私達に任せて」などと言ってくれたのである。

仲良くなったとはいえ、子供を預けて夫婦で遊びに行くなんていうことはやはり気が引けるし…、と我々はそんな2人の心遣いだけで感謝感激だよね、と確かめ合っていたが、ある時、保育園に預けられない日で私が仕事、ピーさんは参加したいワークショップがあって、という事態が発生した。2人で、しゅうくんとはるかちゃんに頼んでみる…?、とどうしようどうしようと悩んでいた丁度その時、しゅうくん達からの着信が入る、というミラクルが起こった。私はこうなったらと、2人の用件を聞く前にこちらのお願いを伝えたのである。そして不在時の子守りを快く引き受けてもらえたのだ。

この件があってからこれまで、結局我々は3、4回こと子を預かってもらった。こと子は優しい2人にすぐになついていたし、我々が2人のお家にお邪魔したり、2人が我が家に遊びに来たり、2人が借りていた農園の食べ尽くせないくらいの野菜達を分け合って消費したり、そのうちに関係性は家族のようになっていったのだった。

そして昨年(2019年)の秋頃だったか、しゅうくんが私に尋ねるのである。
「長尾くん、ヒーさんと友達なの?」
ヒーさんといえば、とあるレゲエバンドのギタリストである。数年前、私はヒーさんのギタープレイに惚れ込んで、当時赤い疑惑と並行してやっていた焚き火楽団というバンドにヒーさんを誘い、一時期一緒にスタジオに入っていた時期があった。ヒーさんは程なく2人目が産まれる、ということでバンドから離れてしまったのだが…
「今度ヒーさんの移住先でウチウチのパーティーやるから長尾くんも参加しない?」
としゅうくんが畳みかけてくる。ヒーさんが移住? まだよく分からないが、ヒーさんが東京からそこまで遠くない田舎に家を買ったらしく、そこでアンオフィシャルなイベントを企んでいるようだ。その田舎町というのが小川町といい、何とはるかちゃんの実家なのだそうだ。

私は田舎に憧れがあるし、音楽付きのホームパーティーなんて最高じゃん、と請け合った。しゅうくんとはるかちゃんは定期的に宇宙祭りというイベントを企画しているのだが、その日は番外編でお客さんは招かず、ヒーさんのバンドとしゅうくんの弾き語り、それに私の弾き語り、後は適当に、と情報はそれだけだった。(つづく)

バンドマンに憧れて 第40話 男は寝るな

「東京フリーターブリーダー」制作前に原付きで飲酒居眠り運転の事故で右脚を骨折し、初の地方ツアーの予定を台無しにした話しを書いたが、実はアルバム制作期に私はそれとはまた別の交通事故を起こしている。アルバムのジャケットに写っているのは、当時のバイト先であった染色会社のばあちゃん社長だが、私が事故ったのはその会社で事務の仕事をしていた時期だ。

ヘルニアを発症して飲食の仕事を辞めてから、私は肉体労働を離れ、「事務」という職種をやるようになっていた。染色業務のお手伝いという募集を見て、私は事務ではなくクリエイティブ系の仕事に携われるかもしれないと思い、腰が心配だが応募したのだ。

面接で、すごく興味があるんですが、実は以前腰を痛めていて…、ということを話すと、実質会社の全てをしきっていたヒロシさん(社長の倅)は、実は事務も足りないんだけど事務で入らないか、と促してきた。作業の方はやはりかなりの肉体労働なので、腰に不安があるなら辞めといた方がいい、とのことだった。金に余裕などない私はとりあえず働けるならいいか、と妥協して事務職についた。

何とも不思議な職場だった。中井駅から神田川沿いに下落合方面に少し歩いたところにあったその染色会社は、トタンの波板で全面つぎはぎのように覆われた工場で、一見廃墟のようにも見えた。一階入り口にお客さん対応の応接間があり、その奥にヒロシさんの仕事場と、大きな製版台が、そして2階は1面で幟や旗のシルクプリントをする大きな作業場があった。

私は応接間で事務作業、配送、梱包、出荷などの任務にあたっていたが、いつも11時くらいに重役出社してくる社長の話し相手になることも大事な役割だった。当時社長は70代だったかと思うが、片脚を悪くしていていつも杖をついてびっこを引きながら歩いていた。不摂生という感じはしなかったが、それなりに肥っていて足腰に余計に負担がかかっているように見えたが、コロコロとした見た目が独特の愛嬌を讃えていた。

週刊誌を読みながら「北朝鮮とやっちまえばいいのよ」とたまに過激なことを下町口調で言ってみせることもあったが、若い時は仕事の切り盛りもしてたらしく、その経験値に裏付けられたこぼれ話達は面白かったし、私は何となくこのおばあちゃん社長のことが好きになった。

母がガンになった時、私は代替医療や民間療法のことをいろいろ調べていたが、母が前向きじゃなかったので大して実行に移せずにいたのだが、社長にビワの葉温灸のことを勧められ、私もその存在は知っていたのだが、何やかんや言い訳して躊躇していたら、「あんたがやってあげればいいだけでしょ」と叱られ、そうかと思い実行に移すと、母は意外にも受けいれてくれた。効果の程は神のみぞ知る、だが、温灸は苦しくないし気持ちがいいので母も拒まなかった。母が死んだ報せを社長にした時、社長は涙を流した。一従業員の母の死にそこまで同情してくれるなんて…。私は性別も年齢も越えた心の触れ合いを体験した気がした。

この染色会社でのバイト時代は、私が自分の人生をバンドでどうにかしよう、と最も強く考えていた時期だった。ライブのチラシをこまめに作って撒きまくったり、知人友人にこまめにライブのお知らせメールを送ったり、CDの流通や委託販売のやり取りやプロモーションなど、自分でできることを地道にこなし、曲作りや、詩作、フリースタイルの練習など、バンドに関することに没頭していた。この時期にとある先輩バンドマンに「長尾くん、男は寝ないで頑張るもんだ」という訓戒をいただいた。今ではバカバカしい根性論にしか思えないが、当時の私はその言葉に存外の影響を受けてしまった。その先輩のバンドが実際シーンの中でかなり目立っていたこともあったのかもしれない。とにかく、その時期、私はその言葉を過信して睡眠時間を削るようになった。

夜中遅くまでバンドに関連する活動をするようになった。3、4時間の睡眠が平均になり、朝は眠たかったが、目標に向かってガムシャラになる自分に幾分酔ってもいた。しかし、このガムシャラには落とし穴があった。日中、染色会社の事務でデスクワークをしていると必ず睡魔がやってきて、キーボードを打ちながら頻繁に船を漕ぐようになった。それだけならよかったが、この仕事には時々雑用の配達仕事があり、週に何度かは会社の車で浅草橋の問屋街に行ったり、所沢の縫製工場に行くことがあった。私はその運転中にも必ず睡魔に襲われるようになっていた。

当時の私が、長い人生のスケールを考えたり、想像したりする力を持ち合わせていれば、運転中睡魔に襲われることに自覚的になった時点で生活を改められたはずである。しかし、若気の至りで、私は睡眠を削る生活を改めなかった。そしてある日やらかしたのである。居眠り運転による玉突き事故。信号停止中の乗用車に後ろから追突し、その前に停まっていたゴミ収集車にも被害を与えてしまった。

大きな衝突音で目が覚めた時、車内は煙が立ち込めていて、かけていたメガネが真ん中から折れて足元に転がっていた。私は俄かに何が起こったのか自覚し始めた。すぐに煙がエアバッグの破裂によるものだと分かり心臓がバクバク鳴った。片側3車線の幹線道路での出来事で、私が焦って車から出ようとすると、先に降りていたゴミ回収のおじさんが「危ねえぞ!」と怒鳴った。3車線の最左列で玉突きしたので右手の2列は車がビュンビュンと通り過ぎていた。

しばらくして警察や救急車が集結。私と玉突きにあった乗用車の男性だけ救急車で運ばれた。私はエアバッグの衝撃で唇が切れて軽く血が出ただけであったが、念のため病院に行ったのだろうか。男性は軽いムチウチ症状を訴えていた。

病院の後は警察に行き、事故の検証やら何やらが始まった。私は起こしてしまったことの重大さに頭がボーっとしていた。警察は私の起こした事故が居眠り運転じゃなく、前方不注意によるもので、という風に、その方が処理が楽になるのか、そんな風な筋書きを作ってくれて、私はもう免許剥奪になるのかと思っていたが、救われたのだった。みすぼらしい姿になった会社の車のフロントの修理代、追突してしまった前の車の修理代(ゴミ回収車の方は大したキズじゃないので、と保証を求めなかった)、前の車の運転手のムチウチ治療代、それらはすべて保険で賄われたので、あの足の骨折事故に続き、私は保険の重大さを思い知った。

後日、前の車に乗っていた被害者の方のお見舞いに行かねばならなかったのだが、この時、社長が、ついていってやる、と申し出てくれた。私は、このような事態に対する経験値も皆無に等しかったし、お詫びのしようもない100%こちらに非のある事柄なので、どんな心づもりでお見舞いに行けばいいのか全く分からない状態だったので、この社長の申し出はホントに心強いことだった。

病室で「この度はウチの若いのが大変なご迷惑を…」という挨拶から始まり、当たり障りない世間話を社長がしてくれたおかげで、私は隣で小さくなっていればよかった。この顛末は実は「東京フリーターブリーダー」の歌詞カードの最後の見開きで長文で綴っているのだが、未だに、自分で読んでも泣けてしまう…。

居眠り運転で玉突き事故。あまりに愚かな過失なので、ガンセンターで入院中だった母にも、母の看病で気忙しかった父にもこのことは内密にした。母に、こんなみっともない倅のやらかしのせいで更なる心労を与えたくなかったし、実際バレなくてよかったと思っている。

その後、私は流石に改心し、人並みの睡眠を貪るようになった。バンドがやりたいなら、死んでは元も子もないのである。

アクセルの意気地記 第27話 遊ぶ

私の仕事が終わって田無の小さな自宅に帰るのは大体20時〜21時頃である。遅い時は22時前後になってしまうこともある。

家に帰るとこと子とピーさんが待っている。私が帰る頃には夕飯の準備をしていたり、夕飯を先に食べていたり、ダラダラしていたりする。こと子は1人で遊んでいるか、携帯かアイパッドでアニメなどを見ていたりする(こと子は最近「ねえ、アイパッドでネットフリックス観たい」なぞと言うのである!)。

映像に縛られず1人で遊んでいるだけの時は、私がドアをガチャリとやる音や気配で玄関まで「父ちゃん!」と元気よく言いながら迎えてくれる時もあり、それは至福の瞬間であるが、携帯やアイパッドに縛られてる時は一切姿を見せない。お帰り、も言ってもらえない。こと子が出てこないと寂しいのだが、それよりも既に携帯やアイパッドの中毒になっている事実たるや。

明らかに目が悪くなるだろうし、見始めると終わりがなくなるから30分とか1時間とか制限を設けるのだが、「時間になったら終わりだよ」と言い聞かせ、「うん!」と約束を交わしても、時間が来て携帯なりアイパッドなりを取り上げると取り乱して泣き始める。泣き方が本気なので閉口するが、改めて映像の中毒性の高さに驚嘆する。

私が帰宅して夕飯を食べ終わると一服して皿洗いに突入する。皿洗いは私の使命である。であるが、このタイミングでこと子が「お父さん遊ぼう」とやってくることがある。というか映像を見てない時はそういう流れになる。1度遊んでやると、(夕飯の後は父ちゃんが遊んでくれる)と脳みそにプログラムされるのだろう。

通常、私は皿洗いの後風呂洗いをしたりピーさんと、こと子の風呂入れを分担したりするのだが、皿洗いは2人が床についた後に回してもいいのである。後で確保される予定の自分の時間が削られるだけである。ただ、その自分の時間が尊いので、できるだけはやく済ませてしまいたいが、「遊ぼう」と誘われて、それをシカトしたらこと子との日々の貴重な触れ合いの時間はなくなってしまう訳で、私は皿洗いを止めて遊ぶことにするのである。

まだこと子が2歳の頃は、一緒に遊ぼう、と言われてもどういう遊びができるのだか皆目見当がつかなくて、私も難儀した。私にしてみれば何でもかんでも初体験なのだ。

こと子がオモチャを転がして畳の部屋と台所、玄関、そしてまた畳の部屋、という具合にグルグル回る。私も後をついていくだけだったり、同様にオモチャを転がしてみたりする。

「次は何しようか?」とこと子が言う。私は何も思いつかないので、う〜ん、と唸る。じゃあ、滑り台しよう、と言う。これは私が椅子に座って上半身を逸らし、下半身も棒にして斜めに伸ばし、こと子を持ち上げて真っ直ぐになった私の身体を滑らせるのである。滑走距離は50cm程度だが、面白い、もう一回、と言って喜ぶ。

バーチャル滑り台にはもう1つパターンがあり、それはぐちゃぐちゃにになってる掛け布団の上に乗って高くなってるところから低くなっている方に滑るのである。滑ると言ってもぐちゃぐちゃの掛け布団の上は物理的に滑らないのである。どうするかというと滑らずに「シュー!」とか言いながら足と膝で尺取りながら進むのだ。「ハイ、じゃあ次はトトの番ね」と必ず言われるので、私も同じことを真似してやるのである。これを何セットか繰り返したりする(大抵同じことを何回も繰り返すのである)。

「ボールぽんぽんしよう」というのもある。これは分かりやすくていい。風船の時もあれば、どこでいつ入手したのか分からない柔らかいミニバレーボールの時もある。初めは風船を優しくポンと飛ばしてやっても受け取ることすらままならなかったのが、いつの間にかキャッチできるようになった。凄いじゃん、と褒めると得意気な顔をする。

初期の遊びで印象に残っているのは「わぁ、しよう!」とこと子が言っていたところの遊びだ。何のことかと思い、何が始まるのかドキドキしていたが、正解はしゃがんでから、「わぁ!」と元気に声を出し、手を広げながらジャンプして立ち上がるだけであった。これは数えるくらいしかやらなかったが、私の心に残っている。一緒にわぁした時の屈託のないおかしさが忘れられない。

こと子が3歳になってからは口が達者になって遊びのバリエーションが広がってきた。コミュニケーションの幅が広がると父ちゃんは俄然楽になってくる。そしてこと子は最近ままごと期に突入したようだ。

おままごと、というと幼児の遊びの典型でイメージは昔から変わらない。ただ、オレは男子だったのだからおままごと的な遊びは記憶にない。私はやり方が分からないがこと子のセリフに相槌をうったり答えていたりすれば及第のようだ。

こ「何屋さんですか、って言って」
私「何屋さんですか?」
こ「ジュース屋さんよ。何にしますか?」
私「うーん、オレンジジュース」
こ「オレンジジュースは売り切れです」
私「えー、じゃあ何があるんですか?」
こ「桃のジュースならあるわよ(こと子は、さほど食べたことないのに桃贔屓である)」
私「じゃあ桃のジュースお願いします」
こ「はーい(後ろを向いて両手を動かして何やらやっている)。ハイ、できましたー」
私「わーい、はいお金。うーん美味しい!」
こ「どう?甘くて美味しいでしょう?!」

これが1セット。この次は私がジュース屋さんになる。それでそのままこと子が飽きるまで繰り返すか、私が、あ、お風呂止めに行かないと、なぞと言って無理矢理終わらせるかどうかである。ジュース屋さんの他にアイス屋さん、お医者さん、美容院、というバリエーションがある。

私は子どもができるまで子どもの扱い方や遊び方が分からず苦手意識の塊だった。しかしこんな風に実際育ててみると、意外と簡単で、遊び方が分からない時は子どもに聞けば教えてくれるのだということが分かる。なーんだこんなもんなんだ。

私の弾き語り禄 ①

中学生の時にロックの洗礼を受けた私は、晴れて高校生になってエレキギターを入手する。第一志望校に受かったら買ってあげる、という亡き母との約束であった。早速バンドスコアなどを参考にしながら練習を始め、高校ではお目当の軽音部に入部した。

意気揚々と入った軽音部では、先輩が皆ハードロックかメタルをプレイしており私は早速(馴染めない世界に来てしまった)、と思った。私は中学を卒業する頃にradioheadの1stアルバムを買い、それにハマったのをよく覚えており、つまり私はオルタナティブロックと呼ばれていたものに、以降すっかり入れ込んでいたのでハードロックやメタルを聴いてる暇はなかった。

また同じ頃、デモテープというモノを自分で作ってみたい、という欲望が高まり、マックドナルドのバイトで溜めたお金でMTRなるものを買う。マルチトラックレコーダーというヤツで、1人でも何度も重ねて録音すればバンドサウンドが作れるのである。ギターの音を2本重ねて録るだけでも興奮モノで、音楽って素晴らしい!面白い!と、鼻息を荒くしていたことを覚えている。

そんなこんなしているウチにオリジナルの曲が出来上がった。その頃は軽音部の同級生とJロック(そういう呼称が確かにあったのだ)のコピーパンドをやっていたが、そのバンドで私のオリジナル曲をやるつもりはなかった。飽くまでもコピーバンドとしてやっていたし、そのバンドでは私は歌も歌わずにギターだけ弾いていたからだ。

MTRでの重ね録りに夢中になっていた頃、アメリカのオルタナバンドでSEBADOHというバンドがいて、リーダーのルーバーロウという人は宅録(自宅でDIYでレコーディングすること)の神のような存在だった。彼の音楽はローファイと呼ばれ、基本的に「下手くそ」なのだが、他の音楽では味わえないような不思議な良さがあるのである。私がこのローファイ宅録にハマったのにも理由があった。それは自分はギターが下手で歌も下手なのだ、という自覚があったことである。

ギターが下手くそなのは、練習嫌いという性質も手伝っていたが、恐らく天性の才能というのは私に備わっていないだろうという諦念もあった。軽音部の先輩やら同年のギタリスト達は早弾きで切磋琢磨、技を競い合っていたが、私はてんでダメで、早いうちにその競争から1抜けした。私の左手は器用に動かず、複雑な演奏はできないだろうと早いうちに諦めていたのである。

歌にしてもダメなのだ。録音した歌声を初めて客観的に冷静に聴いてみた時、(コレは…)と思った。正確には(コレは音痴…)と感じたのだ。自分の声に慣れていないのもあったが、なかなかショッキングなできごとだった。

ところが、重ね録りとローファイという存在は、そんな私の背中を強く押したのである。下手くそでも何回も何回も繰り返し録音していけばそれなりの曲になることが分かり、また私の下手くそな歌も「ローファイだから」と言えば何とかなりそうな気がしたのである。

そこで、始めは出来た音源をテープにダビングして近しい友人に配ったり、大学生になってからはMD(MDが未来のメディアになると喧伝された時期があったのだ)に録音して売ったりした。

私はそれらの作品に「ねろ」というユニット名をつけた。フランダースに出てくるネロと、世界歴史人物辞典に出てくる魔性皇帝ネロ。善悪、2つの真逆の人間性を秘めたアーティスト像を狙ってみたのである。

さて、この「ねろ」であるが、大学生の時に私が始めたGUTSPOSEというオリジナルのハードコアパンクバンドの目指したスカムな音楽性とは全く異なり、メロディー重視で哀愁が滲む歌モノ路線だった。その為、ミュージシャンを志していた私にとっては「ねろ」で1発当ててやろうか、などと考えていたのである。

「ねろ」名義で宅録して作った作品のメロディーの良さに自信を持っていた私は、収録した曲を再現してみようと大学のキャンパスにアンプなどを持ち込んで屋外演奏を試みたが大失敗に終わった。人前でギターを弾きながら歌うことへの初挑戦であったが、自分でも呆れるほど冴えない出来栄えであると気づき挫折。「ねろ」の再現に関してはお蔵入りになり、その現実から目を逸らして、バンド活動の方に力を入れた。

大学を出てGUTSPOSEは解散して赤い疑惑になった。それまでギターしか弾いてなかったのだが、赤い疑惑ではボーカルがいなかったので私がギターを弾きながら歌うことになった。赤い疑惑の活動は少しずつだが認知され、ライブも沢山誘われるようになった。

はっきり時期を覚えていないのだが、ある時ソロの弾き語りをやることになった。誰に誘われたかも覚えてないが、場所は今は亡き新宿JAMである。私はそれまでに「ねろ」として作ったり録ったりした曲を練習し、初めて弾き語りというカタチで人前で披露することになった。

バンドでステージに立つ時と違い、メンバーがいないので心細い。それに赤い疑惑の演奏はパンクバンドだから多少荒くても誤魔化せる。しかし、しっとりとした弾き語りとなると訳が違う。落ち着け、落ち着けと思うが緊張で自然と手が震えるし、声も上ずり気味だ。

その日は何故か赤い疑惑のメンバー沓沢ブレーキーが来ていて、私に辛辣な感想を述べた。私はブレーキーに対して(オマエには何も言われたくない)という気持ちが強く腹立たしかった。私が傷つかないように配慮した言い方だったが、それがまた余計に私を追い詰めた。しかし、言われたことはすべて自覚のあることだったので反論する余地もない。私はまた大きな挫折を味わったが、今度は何クソ、もっといい弾き語りできるように頑張るぞ、と反骨心が出てきた。

私の弾き語り歴が始まったのはこの時からだったのではないかと思う。機会さえあれば人前で目立ちたかった当時の私にとって、バンドとは別にライブなどに出演できるのは望んでいることだった。例え歌が下手で、例えギターが下手でも、自分流の弾き語りを編み出せば人に喜んでもらえるような演奏ができるんじゃないか…。みっともないライブを体験した私は、その恥ずかしさをバネにバンドと並行して弾き語りもやっていこう、と強く思い始めたのであった。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
赤い疑惑の活動報告
およびアクセルの手記
赤い疑惑WEB

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