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バンドマンに憧れて 第31話 ラップへの挑戦のち男泣き

(第29話の続き…)

原付の居眠り運転で左脚を複雑骨折。左脚の膝下から足の甲にかけて内出血が溜まってしまい、その膿の摘出の為入院。初の地方遠征断念を余儀なくされた。そんな私に襲いかかった自己嫌悪も束の間、1週間といえど入院生活をするにはまだまだエネルギーを持て余していたその頃の私は、暇つぶしも兼ねて、A4のコピー用紙にリリックを書き始めた。バンドでラップをやってみようと決意したのだ。

それまで友人などとフリースタイルラップの真似事でふざけていたことはあったが、ちゃんとラップの曲を作ったことはなかった。しかし当時、インディーロックシーンでラップを取り入れるバンドはほとんどいなかったので、目立ちたがりの私は、(これは画期的なアイディアではないか)、とひとり興奮していた。

ハードコアパンクからレゲエへと触手を伸ばした頃、同じく友人からの影響でヒップホップに関心を持ち始めたことを以前書いたが、この頃はハードコアパンクのイベントによくECDが出ていた。私はスチャダラパーでラップを知り、MSCと降神で日本語ラップにハマったクチだったが、その時はECDが如何に偉大な、孤高のアーティストであるのか、まだ何にも知らない状態だった。しかし、Less Than TV周辺のハードコアパンクのファンが集うライブハウスを、サンプラーを叩きMCと、時にはアバンギャルドなsaxの演奏を織り交ぜ、illshit tsuboiさんのアクロバティックなDJプレイとでやんやと盛り上げる姿に私は衝撃を受けた。

当時西荻に住んでいたこともあって今はなきWATTSというライブハウスにしょっちゅうライブを観に行っていたが、ECDはそこでも何度かハードコアのイベントに出ていた。外に遊びに行って来まーす、というアニメかなんかのセリフをサンプリングした曲がポップでヒップホップの面白さを改めて体験した。

そんなある日、WATTSでライブに出ていたECDに、思い切って持ち合わせのデモCD-R「東京サバンナ」を渡した。気さくな石田さんは私の突然の押し売りに応えて、それをもらってくださった。

後日、当時カクバリズムを立ち上げたばかりだった同世代の(角張)ワタルくんが、「赤い疑惑凄いじゃん、ECDのBBSで褒められてたよ」、と聞き捨てならないことを教えてくれた。BBSとは当時ネット空間で繁盛していた匿名の掲示板のことで、ECDは自身のBBSを持っていて、そこで赤い疑惑の「東京サバンナ」について、面白い、と取り上げてくれていたのだ。

何とも光栄なことだった。このハプニングは赤い疑惑の名前を当時のインディーシーンに広めるのに十分な威力を発揮した。赤い疑惑が個性的なパンクバンドとしてようやく一部の人に知られるようになった。

東京サバンナの反響がある程度感じられるようになり、私は次の作品をそろそろ作るべきだと考えていた。そしてその作品の主題にふさわしい曲はどんなものがいいかな、とぼんやり考えていた。そんな折りに私は原付で事故ったのである。

病院のベッドの上で、足が治ったらまた存分に頑張るぞ、と意気込み、私は曲名を思いついた。タイトルは東京フリーターブリーダー。これは当時勤めていた中井の染色屋さんの名誉社長のことをモデルにして名付けた造語で、フリーターを無条件に応援してくれるその社長の豪放なキャラに触発されたものである。

バンドマンを目指すフリーターという身の上は、想像通り社会での風当たりが悪く、特に親戚関係からの目線や、バイトの面接などで幾度も屈辱的な思いをした。ところがその染色屋のばあちゃんは職場のフリーター達を凄く可愛がっていて、事務職という仕事柄、最もそのばあちゃんの世間話やら無駄話やらの相手をする立場にあった私は、その愛情をたっぷり受けた。ぽっちゃりと太って、そのせいなのかどうか聞いたことはなかったが、右脚を悪くしていて、歩くときは右手に杖を持ち、重心を傾けて歩くその社長のことが私はとても好きだった。如何にも下町の娘らしいチャキチャキとした語り口で、大口を開けてギャッハッハと笑う姿があっぱれだった。

世代的なものもあるのか、週刊誌の右派論調に乗っかって、「北朝鮮に1発ぶちかましゃあいいのよ!」 なんて、戦後復興からバブルまでを知ってる人らしく気炎を上げたりすることもあり、それは社長、どうなんだろう、などと私は思ったりすることもあった。が、総じて私はそのばあちゃんに好感を抱いていた。名誉社長というのは、実質の職務を取り仕切っていたのが息子のヒロシさんで、社長の役目はいつも遅くに来て応接室の机にデーンと座り、たまの来客と、また世間話したりするくらいのことだったからだ。

さて、私は病床にて、夢を持ってフリーターで頑張る、自分を含む若者達にエールを送るラップを書こうと頭を悩ませた。結果的には相対論を用いてサラリーマンを揶揄する内容になったが、批判的になり過ぎないように全面的にジョークを盛り込んだ。フリーター役を自分が、そしてそれを腐す社会人役をクラッチのパートに割り振り、押し問答形式にして、更にポップにするためにサビで東京フリーターブリーダーという造語をリフレインさせた。フリーターを飼育、または擁護し、応援してくれるビッグボスというくらいの意味である。

退院後、出来上がったリリックを自慢げにクラッチに見せると、おっ、という感じのいい反応を示し、ブレーキーも興味を示したのでバンドでラップを取り入れることは即採用になった。

しかし退院したとはいえしばらく松葉杖生活でバイトにも行けず、風呂なしのアパートで静養していた自分の精神状態は決して平穏ではなく鬱屈していたらしい。家賃と生活費を払ってギリギリのバイト生活はちょっと油断すると茫漠たる不安の波に飲み込まれるのだ。

その日、私は動くに動けず家で何となくテレビを見ていた。当時付き合っていた彼女が夕方来てくれることになっていたが、私はホントに何の気なしに「ビーチボーイズ」というヒットドラマの再放送を見ていた。ひねくれ者の私にしてみれば、どちらかというとバカにする対象のトレンディドラマで、その時もバカにしながら観ていたに違いない。

反町ってイケメンなのに何か笑える、とか何とかそんなことを考えながら見ていたら、悔しいよな、ガキの頃ってさ、大人になったら何でもできるって思ってたじゃん、だけど大人になったオレたち今どうよ?、と正確には覚えてないがそんなニュアンスのセリフを反町が竹野内豊に呟くのだ。その何気ない、しかもよくありそうな陳腐なセリフが、私のその時の情けない状況とリンクしてしまい、私は過剰に動揺して泣いてしまった。

悔しかったのだ。バンドで何とか生きていってみせると親に啖呵を切って実家を飛び出したのに、居眠り運転で事故って早速親に入院費を世話してもらい、ツアーにも行けず、どんと来いと思っていた貧乏生活にも不安を覚え…。

丁度その直後、彼女が家にやってきた。部屋にふと現れた彼女を前に、私は涙が出てきたのを隠すのも所在なく、隠すのを諦めて、ビーチボーイズ見てたら泣いちゃって、と照れながら彼女に伝えようとした瞬間、その言葉は途中から嗚咽に変わってしまい、私はオイオイと声を上げて泣き崩れてしまった。

彼女は私が酷く深刻な状態にあって泣き出してしまったのをすぐに察知して、何も言わずに、いいんだよ、泣きな泣きな、と言って私を抱きしめた。私はそれで拍車がかかってかつてないほど男泣きに泣いた。そして女性の母性というものを初めて知った気がした。ひとしきり泣いた後は不思議なことに、いつにない晴れやかな心が戻ってきていた。
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アクセルの意気地記 第18話 多摩動物園へ行った日

その日、私は仕事が休みで、ピーはチーズ配達のバイトだった。本来ならこういう日、つまり親のどちらかでも家で子どもの面倒を見られる日は、保育園には子どもを預けられないことになっている。それはそうなのだが、大抵の親はこのような場合、仕事があるフリをして子どもを保育園に預け、空いた時間に束の間の、自分の休息を楽しむのではないだろうか?

世間がどうであるか分からないが、私もそういう日にはこと子を保育園に預け、家事に専念したり、映画に出かけたり、ボーっとしたりしてきたのである。しかしそうやってズルしてる時は何だかんだ多少の後ろめたさが心の奥にあったりするのである。

そしてその日は朝起きぬけに、(いやいや、今日は保育園には預けず私が面倒をみよう)、と心に決めたのだ。面倒をみようというよりは、もうこと子も随分大きくなって喋れるようになってきたし、どこかデートに出かけよう、と思い立ったのである。いや、もっと私の意志ははっきりしていて、今日は多摩動物園にこと子を連れて行ってみよう、と閃いて興奮していたのだ。

洗濯をして朝食の皿を洗い、洗濯物を干す。おむつ、おやつ、水筒、着替え、スタイ、タオル、いつもなら大体ピーが用意してくれるような持ち物達を漏れなく準備。よし出発。こと子に「今日は動物園に行こうか?」と尋ねると「うん、行く」と魂の抜けたような、張りのない棒読みで答えるのだった。

さて、いよいよ家を出る段階で私はバギーを持って行くかどうかで悩んだ。公共交通機関以外の道中、こと子が歩くか、抱っこになるか、バギーを持って行けば楽だけど、その分荷物が増えるのは、こと子がバギーに乗りたがらなかった場合に大変骨である。最近はバギーなしで幾度もお出かけをしているのだし、なんとかなるかもしれない。

私はバギーなしを決断して家を出た。天気は晴れていて激しい陽気は油断ならない夏だった。

汗を拭きふきバスから電車、電車からモノレールへと乗り継ぎ、1時間強で多摩動物公園駅についた。ここは母校のキャンパスのすぐ麓の駅だから私には実はとても馴染みのある土地だった。それに在学中にも1度来たことがある。もっと言えば幼少の頃親に連れられて来たりもしたはずだ。馴染みのある土地に久しぶりに訪れるということはそれだけでエモい気持ちになる。

しかし、家で洗濯などやってたせいか、もうすでに昼の12時を回っている。動物園の中ではロクなものを食べられないだろうから、入る前に腹ごしらえをしないといけないことに気づいた。そしてこんな辺鄙な八王子の山あいには珍しいような天然酵母のパン屋さんを見つけ、こと子のパンを買い、私は隣のそば屋に入ってざるを頼んだ。こと子に少しそばをたべさせながら、さっき買ったパンを店員に見られないようにこっそり与えた。こと子はまだ1人分のそばは食べられないから、ざるの580円だけで済ませてしまい、お店に申し訳ないので逃げるように会計をして出た。

動物園の入り口に大きな象の石像が立っている。私はあっと驚いて嬉しくなり、コッピ、象さんだよ、ホラ、と言うとこと子がその象の存在に気づいて喜び、ヨタヨタ走り出した。駅から入り口の正門に向かう道は既に勾配が出来ていてこの動物園が山あいにある動物園であったことを一瞬で思い出させ、私はバギーを持って来なかったことが俄かに心配になってきた。

入場券を買って中に入ると、やはり端から上り坂である。こと子はすぐに「抱っこする〜」モードになってしまい、しぶしぶ11キロの娘を持ち上げた。左から回るか右から回るか…。なんとなく人の流れを見て右から回ることにした。人の流れといっても、だいぶ疎らで、平日の、しかも都の外れの山中の動物園への来客は、間をあけると貸切り状態になってしまうような裏ぶれた感じだった。

すぐに「アフリカ園工事中」という看板にぶつかった。アフリカといえば、象やライオンにキリン、動物園の花形達がいるエリアじゃないのか? 悔しい、残念だが諦め、すぐ先の昆虫園に行ってみた。こと子は大きな昆虫のモニュメントを珍しそうに触っていたりしたが、熱帯の植物の中で様々な蝶が無数に飛び回る楽園のような植物園の中では、怖い、などと言ってノリが悪かった。

こと子は抱っこに揺られたままなかなか下りて歩こうとはしなかった。山あいの動物園で娘を抱っこして歩くのは軽い登山に来たようなシンドさに近かった。それにこの暑さ…。先日井の頭動物園に行った時は動物と動物との間が狭かったからか、こと子は次の動物から次の動物への距離をスタスタ歩いて楽しそうだったのに、ここは動物から動物までの距離が離れてるせいか、上り下りが多いためか、積極的に歩く素振りを見せないようだった。

それでも抱っこのまま、サル、タヌキ、フクロウ、ワシや鷹の勇猛な飛翔など、私たちはそれなり鑑賞して動物園を楽しみ始めていた。しかしとにかくずっと抱っこが続いたものだから上り下り道のりに私の腕は痺れてくる。気づいたらこと子も腕の中で寝てしまったじゃないか。わたしは子どもが寝そべるのに格好なベンチを近くに見つけ、慎重にこと子を下ろした。人もほとんど通らないし、大自然の中なので私もまったりリラックスすることができた。

30分ほど経っただろうか、目を醒まし、寝ぼけ眼のこと子を起こすために私は休憩用の喫茶に入って、普段余程のことがない限り買わないソフトクリームを買ってこと子に与えた。こと子は俄然生気を取り戻し、唇の周りを真っ白に汚して嬉しそうに食べるので私は写メを連写した。しかし、閉園の17時までもう1時間半ほどなので、こと子を抱えてコアラ館に急いだ。

コアラに対し、やや特別な愛着をこと子が持っていそうだったことを感じていたので私は期待して館の中に入った。するとお化け屋敷の様に薄暗い洞窟の様な空間が広がっている。私たちのほか人もいないし私は何だか心細くなってきて、奥のコアラのケージに急いだ。

ユーカリの木が乱立するケージを見渡してもなかなかコアラの姿は見つけられなかった。コアラいるかな?とさっきまでこと子を期待させてきた分、どうしようもない焦燥感にかられた。目を皿にしてよくよく見ていたら、一本のユーカリに灰色の固まりがくっついているのが見えた。間違いなくそれはコアラだった。だったのだが、そのコアラがこちらに背を向けて昼寝をしているのがすぐに分かって落胆した。私はこと子にコアラが後ろ向きで寝ちゃってることを残念がって伝え、館を後にして次のターゲットへとまた先を急いだ。

すぐにアジアゾウのエリアにたどり着いたが、象の姿はなく、改装工事の業者がハリボテの様な造形の補修をしているばかりである。こと子に象も見せられないとは…。諦めて先に進むと、今度はヒョウが颯爽と走り回る檻の前にやってきた。そしてそこでたまたま鉢合わせた家族と、交流のタイミングができたので、私がアジア象が見られなかった話しをすると、
「アフリカ園の象はいましたよ」
と、意外なことを私に教えてくれるのだった。アフリカ園は工事中だと思い込んでいたのは私の不覚だった。アフリカ園の工事は部分的なもので、事前にそれ知っていたらこと子も象を見られたかもしれない…。しかしこれ以上こと子を抱えたまま正反対の方角のアフリカ園に戻るのは無謀に思われた。

よかったら、とその家族が悔しがってる私を哀れんで園内マップを1つ手渡してくれた。コレだ! 何で私はコレを入園した時にゲットしなかったんだろう、と自分の適当さに幻滅した。マップには工事中のエリアと、どこにどんな動物がいるか分かりやすく明示されている。アフリカ園に行っていれば象やライオンにキリン、動物園の花形達を見ることができたことも判明し、私は愕然とした。

礼を言ってその場を離れたが、時間を確認すると、あと30分で戻らなければいけない。出口でもある正門まではまだ大分距離があった。ギリギリまで動物園を楽しみたい私は、道中に残るアジアの平原コーナーに向かってこと子を抱えながら走った。そして足早にウマを鑑賞し、さらに走った。アジアの平原コーナーにいるらしいオオカミが見たかったのだ。しかしオオカミの大自然エリアは思ったよりも広く、なかなかオオカミを見つけられずグルグルしてしまった。周りにはもう誰も観覧客がいなくなり、まるで1人で登山してる時の様な心細さがまた私をゾワっとさせた。

オオカミも見られないかな、ダメかなと思い諦めかけ、念のため、と覗いたオオカミ舎に3匹のオオカミ当たり前いの様にそこにいた。オオカミ達は立派な体躯をたたえ、牙を研ぐためなのか檻の鉄柵に噛みついてヨダレを垂らしている。私が感心して見ていたら、腕の中のこと子は、明らかに今まで見たどの動物よりも目を輝かせてオオカミに見入っていた。怖くないのかな、と不思議な気持ちになった。

園内放送が流れ出したので私は早歩きで正門に急いだ。結局こと子はほとんど歩いてくれず、腕は棒の様だし歩き疲れもしたけれど、私はそれなりの充実感を覚えていた。お目当ての動物も大して見られなかったかもしれないが、動物園に2人で来たという実績に満足しかけていた。フワフワとそんなことを考えていたら、こと子が抱かれたままハッキリと
「オオカミかわいかったね」
と言った。他の動物を見ても特に感想を述べなかったこと子がそのあと何回か同じことを言った。私はその度に、
「かわいかったよねー」
と同意しながら、確かにあの威武堂々たる逞しいオオカミも、見方によっては「かわいい」とも思えるような気がして、あたたかい気持ちになってきた。

最後の最後に頑張ってオオカミを見せられて、しかも、オオカミかわいかったね、ということ子の心の上向きな機微を感じ、(奮起して多摩動物園までやってきてホントによかった)、と思った。充実した気持ちのまま象の石像の正門まで早歩きで戻ってきて、ふと門の近くの小屋の並びに目をやると、1日500円で借りられるベビーカーのレンタル屋さんが、まさかそんなところにあった。あっ、と気づいても後の祭りで、私は苦笑せざるを得ないのだった。

バンドマンに憧れて 第30話 アクセルのヘルニア奇譚

10年以上も前の記憶を辿りながらバンドマンに憧れた我が身を時系列に振り返っていたつもりでも、記憶は曖昧なもので、書き損じたトピックを後から後から思い出すものだから大変だ。

前回書いたバイクの事故をやらかす少し前に私に襲いかかった重大なアクシデントがもう一つあった。それは椎間板ヘルニアである。背骨を支えるクッションであるゼリー状の随核が何らかの事情で飛び出してしまい、それが神経の通り道に触れることで腰に激痛が生じたり、座骨神経痛や足の痺れなどが伴ったりする病気である。

大学卒業後、アルバイト生活に入る時に私が選んだ仕事は調理のバイトだった。キッチンの仕事というのは今考えるとかなりハードで、小さな店だろうが意外と縦社会の序列が厳しい世界だった。私は縦社会がことのほか苦手で、そのせいで1つの店であまり長続きせず職場を転々としていたのである。

第20話で書いた創作ダイニングのお店で働いていた時、事件は起きた。一斗缶といって業務用の油や醤油が18リットルほど入る薄い金属でできた缶に穴をこじ開け、漏斗を使って普段使い用に1.5Lのペットボトルに移し替える業務がある。いつも中腰の体勢でその作業にあたっていて、その時も同じように腰から体を折り曲げて、非力なため、身体をプルプル震わせながら踏ん張っていたら、腰がピキッとなって妙な痛みが走った。

ギックリ腰というヤツだろうか、とその時はまだ大したことない腰痛かと思っていたが、腰の痛みと違和感は治らず、病院に行ったらMRIを撮るという。MRIというのは身体を断面で透写する、大仰でお金もかかる検査なのだが、その結果私は「椎間板ヘルニアですね」と宣告されたのだ。

椎間板ヘルニアといえば、小学校の担任だった広瀬先生が手術した病気だ、とすぐに思い当たった私は、宣告を受けて、まるでガンの宣告を受けたかのように目の前が真っ暗になった。その頃は広瀬先生の他にヘルニアになった体験を聞いたことがなく、背椎の手術を伴う大変な病気だと思い込んでいたためだ(私は小学校の級友と広瀬先生のお見舞いに行って、相当な苦痛を耐える先生を見たことでそう印象づけられたらしい)。

ヘルニアを宣告した病院では、特に有効な治療法はないので痛み止めを出します、もっと酷くなったら手術です、と全く便りのないアドバイスしか貰えない。私の場合左足の痺れと足から腰にかけての痛みが常に伴う症状で、痛み止めを朝飲むと夕方くらいまで痛みが治まるので、それでなんとかランチのキッチンバイトをこなしていた。

しかし、私は憂鬱だった。ずっとこの、身体に悪そうな痛み止めを、これからずっと飲み続けないといけないのか、はたまた、私はもう2度と元気に野を走り回ったり、快活に運動したりはしゃいだりできない身体になってしまったのか…。そもそもあの重いギターを肩から下げて歌う。ロックスターに不可欠なその行為を続けられるのか…。

諦めのつかない私は、その頃根づきつつあったインターネットでヘルニアについて調べまくり、胃腸虚弱をきっかけに出会った東洋医療、および代替医療に救いを求めた。そして針、整体、といろんな治療院にあたってみたが、即応的手ごたえはなく、いかんせんそのような代替系治療には保険が適用されないためやたら高額で、手当たり次第という訳にもいかないのだった。

そんな中、知り合いの伝手にカリスマ整体師がいるという情報を入手し、私は護国寺のとあるマンションに向かっていた。1回診てもらうだけで2万取る、というので相当な覚悟が必要であったが、これでヘルニアが治るなら、と藁にもすがるつもりになっていた。ちょっと変わった先生だけど…、という不明瞭な前評判だけを頼りに門を叩いた。

なんてことない小さな間取りの一室で少し待たされた後呼ばれ、緊張しながら治療室に入ると突然、
「貴様!何しにここに来たっ!」
腹の底からの怒号に私は一瞬で凍りついた。強張る口唇を動かして、椎間板ヘルニアになってしまい云々と、漸く伝えると、
「この親不孝ものめ!!」
と、さらに大声で罵られ、私の意識は異次元に飛ばされてしまった。そしてその後も、音楽をやってるだと! とか、私のバックグラウンドを簡単に掻い摘んでは非情なまでに私を叱り飛ばした。彼は自分がどういう経緯でこの治療院を開業するに至ったか、艱難辛苦を乗り越えたやたら壮大なストーリー仕立てで語り始め、知り合いのミュージシャンが音楽を志したが故にどんな惨めな境遇に陥ったかなど、よく分からない脈絡で語り、時に大声を上げて私を圧倒するのだった。

先生は白いランニングから粒々の筋骨を覗かせ、口の周りには勇猛なヒゲを蓄えている。すぐに大声を張り上げるその様と言葉遣いとは、見方によってはカタギの人間には見えなかった。

ある程度の説教が終わると
「そこに寝てみろ!」
とまた怒鳴られて私はうつ伏せになった。そして私の下肢を何やら触っていたかと思うと
「これだな!」
とまた大声をあげ、ふくらはぎ辺りのツボのような部位をかなりの力で抑えるので私は悲鳴をあげた。そして、
「治ったぞ…」
と真面目な顔で言うのである…。私は半信半疑で治ったのかな、と思い、とりあえずお金を渡した。もう先生は大きな声も出さない。もういい、帰れ、と言うのである。

圧倒されっぱなしのまま私は鉄扉を開けて外に出た。そしてマンションの階段をフラフラと降りていく内にオロオロと涙が出てきて、遂にはヒイヒイと泣き崩れてしまった。そんなことは生まれて初めてだし、訳が分からない。先生の説教に感心した訳ではなかったが、「親不孝ものめ」というパンチラインだけは強く私の心を揺すぶっていた。

私は大学を卒業してから今までやりたいように楽しくやっていたつもりだが、親に反抗姿勢でバンド生活に突入したことに少なからず負い目を感じていたに違いない。何一つ不自由なくいい大学まで行って…、という世間からの見えない視線を気にしてなかった訳ではなかった。

「この親不孝ものめ!」私はマンションの階段を降りながら、涙を流して母や父のことを思った。このままでよいのだろうか…。後で考えるとその時の私は完全に催眠療法にかかっていた気がする…。

その日の午後、私はメンバーと会う予定になっていて、話さないと喉がつっかえたようでダメなので、ブレーキーに包み隠さず今日の出来事を伝えると、如何にも怪訝そうな顔をしながら、それで…、治ったの?腰は? と言うのである。問題はそこである。治療院にいた時はもう圧倒されて痛みの検証をする余裕もなく、出て来てからもあんまり痛みを感じていなかったのだが、ブレーキーと話している時は先生が強押ししたふくらはぎの裏のツボのような箇所の痛みとともに、またいつもの腰と左足の違和感が出て来てるように感じていた。私は「う〜ん」と首をかしげるのが精一杯だった。

結局、椎間板ヘルニアは治ってなかった。翌日からまたいつも通りの違和感と痛みが戻っていた。私は、あれは新手の詐欺施術師だ、と判断して、おっかなかったけど、すぐに治療院に電話をかけて治ってない旨を伝えた。
「それで何が言いたいんだオマエ?金を返して欲しいのか?」
と悪びれずに言うので、ハイ!、とはっきり言った。すると、取りに来いよ、と言うので私はまたぞろ護国寺まで行き、丁寧に2万円まるまる返してもらった。

アレは何だったのか、ハッキリとは未だに分からないが、極悪系自己啓発治療院だったのではないだろうか。精神的な不均衡が膝や関節の痛みとなって現れることもあるそうだから、あの極道先生の説教で催眠と共に身体が治るような人も世の中にはあるかもしれない…。

その後私はネットでみつけた大井町のカイロプラクティックにて、1発で劇的な痛みの軽減を体験し、その先生と相性が良かったのか、初めの1月は毎週、2ヶ月めからは月に1回5000円程の出費を忍んで通い、1、2年で通わなくても平気なところまで回復した。

カイロの先生曰く、私の腰痛は姿勢が原因。言われてみれば私は大学生の時に爆笑問題の太田が好きで、あのニヒリズムと一緒にあの猫背姿勢を敢えて真似ようとしていた経緯があった。その猫背が腰の負担をジワジワと高めていたに違いない。私はそのように反省し、以降できるだけ猫背にならぬよう努め、胸を張って生きていくんだ、とポジティブにこの腰痛体験を消化し、ヨガやストレッチで筋肉を緩める気持ち良さ、そして腰に負担のかからない身体の使い方を体得し、現在まで何とかやっている。

バンドマンに憧れて 第28話 フリースタイルラップあるいは即興

私にヒップホップを教えてくれた友人のDは、私やクラッチがラップに興味を示し始めたのを察知すると、私達の前で自分で書いた詩をラップするようになっていた。インストの曲をステレオから流して彼は自作のリリックをビートに合わせてラップした。彼は読書家でボキャブラリーも多く、言葉選びのセンスもよかったので、私達は感心した。CDで漠然と聞くラップと違い、目の前の友達が書いた詩がその場でヒップホップになったので、おお、これがヒップホップかあ、と興奮した。そして私は一計を案じ、Dのラップを赤い疑惑の3人で伴奏する、ということにトライすることになった。

本場アメリカでは生バンドでラップするthe rootsというグループがいることもその時には知っていたので、これはかなりクールなことになるんじゃないか、と何度かスタジオに入った。しかしながらDはその後ラップを辞めてしまった。自分は表現者にはなれない、ということを言い残してラップを辞めてしまったのだ。詩がよかっただけに残念だったが、そのことをきっかけに今度は私もラップに挑戦してみようと思い始めたのだ。

頭韻、脚韻、頭やお尻やとにかくリズムに合わせた一定の箇所で母音を揃えればラップになる。私の感覚では、オヤジが家族の中でウケ狙いでかますサムい駄洒落と、韻を踏むのが本丸であるラップは大して違わなかった。ラップの場合重要なのはその駄洒落を音楽の中に落とし込むタイミングに尽きた。上手い下手は分からないが私はDとフリースタイルごっこのようなことをして遊んだりするようになっていた。

フリースタイルというのを知ったのもMSCや降神を教えてもらうのと同時だった。即興で、その時の思いつきでラップを組み立てていく、素人から見れば曲芸のようなものだが、これを仲間と集まって輪になってやるのがサイファーで、相手を決めてラップで対決するのがMCバトル、ということも同時に知った。今ではこのサイファーもMCバトルも市民権を得て高校生や中学生にも広まっているのは驚きである。あの頃はまだヒップホップは若干マニアックな音楽の一ジャンルだったのに。

丁度その頃、アメリカ映画の「フリースタイル」という、ヒップホップのフリースタイルにフォーカスをあてた作品が日本で上映されていて、私とクラッチはブリブリになって観に行ったものだ。映画に出てきた本場のMCバトルがかっこよすぎて、映画を見終わった後クラッチと2人で、これからはコレだな、とか言い合って、クラッチも珍しく興奮して、オレもフリースタイルやるよ、と私に宣言したりして…。

クラッチのフリースタイルはその後すぐに封印されることになったが、私はこのフリースタイル、いわゆる即興の世界に非常にインスパイアされた。とはいえヒップホップに縁がなかった私にサイファーをする友人が他にいたわけではなく、いつも通勤の往き帰りとか、当時勤めていたバイト先の配送のドライブ中なんかにフリースタイルラップの練習をしていた。

実は即興に興味を持った経緯には下地があった。学生時代に仲良くしてもらった鉄割アルバトロスケットのパンクユニットのライブに、赤い疑惑の前身バンドGUTSPOSEが呼ばれたことがあった。その時対バンで出ていたバンドが、素晴らしく美しい大人の音楽を演奏していて、私はそのバンドでギターを弾いていた小沢あきさんに心酔してしまった。

小沢あきさんのギターはクラシック、ジャズ、フラメンコ、現代音楽なんかを通過していて、即興でどんな音楽にも瞬時に伴奏をつけられるようなテクニックを伴っていた。しかもあきさんが演奏していたのはクラシックギターで、私の父が家で弾いていたものと同じ、ナイロン弦のギターで響きが懐かしく、丸くて気持ちよかった。一方対バンで出たGUTSPOSEはローファイパンクだったので私は何となく恥ずかしかったのだが、我々の演奏を当の小沢あきさんがエラく気に入ってくださったのだ。演奏が終わった私にあきさんは「お前らの曲、オリジナルなんだよな?」と質した。私が首肯すると、あきさんは私の手を強く握ってくれたのだった。

それ以来私はあきさんのギターのファンになり、あきさんの参加しているアフロオーケストラのようなバンドや、ソロや、即興のライブに足繁く通った。私はあきさんにギターを教えてもらったのではないが、あきさんのギターを聴き続けていれば即興ギター演奏ができるようになるんじゃないかと思い込んでいた。しかし、絶対音感もない、その上ある程度に音痴で、しかもギターの練習が嫌い、という私に即興演奏の道は険しく、結局諦めてしまった。

たまに、あきさんの即興音楽仲間の飲み会に呼んでもらって遊びに行ったこともあった。集まっているミュージシャンの中には音楽で喰っている敏腕の人もいたし、かなり世代が上の人も多く、彼女や奥さんも集まってきていた。その雰囲気は、野郎ばかりでいつも集まって飲んだり吸ったりしてダベっていた私の交流とは次元の違う温かさがあった。

そういう席で、依頼仕事に柔軟に対応できる人や、それが嫌でできない人、楽器がバカみたいに上手くても、喰える人、喰えない人がいる現実を知ったし、「いいよな、お前は演奏でメシが喰えてんだから」と僻みなのか嫌味なのか冗談なのか、そういう会話があったりして、「音楽で喰えること」を至上の目標としていた当時の私には刺激が大きかった。

また、ある時、私は酒の席であきさんに悩みを打ち明けたことがあった。私がやっている赤い疑惑に関して、自分はバイトでチャンスを掴むまで頑張るつもりだが、メンバーをその道連れにしていいのだろうか、という弱気で情けない相談だ。私は根拠のない自信で、いつか音楽でどうにかできるようになるだろう、と考えていたが、もしそれがうまく行かなかった場合、メンバーの人生はどうなんだろう…。

バイトでバンドをやっているのは楽しさとスリルが伴うことだが、そのまま歳を重ねていって音楽による報酬がなかった時、メンバーの人生を保障するものは何もない、ということも私は分かっていた。しかし、そんなことを心配していても解決策などない。怖いならバンドをやめればいいだけだ。あきさんもそんな相談をされて困ったことだろう。ただ、私は音楽で喰う喰わない問題が、身近にシリアスな問題として存在しているようだったあきさんに、その辺のことを聞いてもらいたかっただけだったと思う。

いくら音楽が死ぬほど好きでも、ミュージシャンシップの違いで喰えるか喰えないかは変わってくる…。その中でも小沢あきさんは拘りが強く、金銭よりも自分の音楽をひたすら追い求めているピュアさに溢れていて私はそんなあきさんの姿にかっこよさを見出していた。

あきさん周りの飲み会で、みんなで酒を飲んで興が乗ってくると、楽器を持つ人、太鼓やらその辺のものを叩く人が出てきて、俄かに即興大演奏会が始まる。私も何か叩いたりして混ざっていたが、こんな時に自分も存在感のある即興ができればいいのに、と密かに考えて、地団駄踏んでいた。

そんな時に出会ったのがフリースタイルラップだった。これなら自分の個性を生かせる即興ができるのかもしれない、と考えていた。

その頃、MSCが始めたMCバトルがヒップホップ界隈で注目を集め始めていた。私がラップを始めたことを知った友人が、MCバトルへの挑戦を薦めてくれたこともあったが、大して自信もなかったし、逡巡して結局やらなかった。しかし、その後しばらくライブMCの時、気分次第でフリースタイルラップに挑戦することは何度もあった。韻が踏めなくて噛んでしまうことばかりだったが、予定調和じゃないスリルが生まれて面白かった。

結局、現在に至るまでフリースタイルラップをやり続けたわけでもなく、ヒップホップを聴き続けたわけでもないのだが、この時期にラップの練習をした経験は後にワールドミュージックのDJ業をやり出した頃に、手持ち無沙汰でやり始めたDJのサイドMCの時なんかにも生かされた。何の生産性も残さない無駄な努力は多いものだが、気づいたら武器になっていた、という努力も必ず存在する。ラップは私にとって無駄にならなかった努力であり遊びのひとつである。

バンドマンに憧れて 第25話 東京サバンナ

アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーの3人で、赤い疑惑として遂に初の音源を作ることになった。作品のタイトルは「東京サバンナ」。あなたのそばで~、あゝ暮らせるならば~、つらくはないわ~、この東京さばく~、は「東京砂漠」、こちとら「東京サバンナ」。大学を出て、バンドマンとして成功することを夢見、アルバイト生活を始めた私にとっての東京はまさに戦場だった。

そう感じていたのも東南アジアを放浪した経験があったからだろうか。あっちの世界と比べると東京シティーはあまりにも殺伐として写るのである。アルバイトの通勤時、スーツで身を固めた憂鬱気なサラリーマンで溢れ返る満員電車の中で、私は戦慄しなければならなかった。何てところで私は生活しているのだろう、と。何でみんなこんなに同じ格好をし、何て生気のない眼をしているのだろう。

当時の私の闘いは、そういう風に死んだような眼になりたくないし、みんなと同じになりたくないし、そうならないためには夢に向かって突き進み、東京での生活を楽しく勝ち取ることだと信じていた。そしてそのフィールドが東京であり、油断大敵、自己責任、弱肉強食のその都市の様相はまるでアフリカのサバンナのようではないか、と東京を喩えた。

熱くなってしまったが…、内容はかなりふざけていて、その表題曲「東京サバンナ」の他に、パンクが何で商業主義的になってるんだ、と怒っている曲や、バンドをやってるとバカにされることがあることを愚痴っている曲や、毎日仕事行って疲れて何もせず寝てしまう自分を叱咤する曲や、母校の大学にあったヒルトップという学食をモチーフにした単純に元気な曲などが、「東京サバンナ」という一つの作品にヤケクソに収められることになった。

音楽性は元々好きだったハードコアパンクに、レゲエ映画「ロッカーズ」に出てくるナイヤビンギの真似事や、丁度その頃から夢中になりつつあったアフリカ音楽のゴスペルの真似事や、ジャーマンプログレの真似事みたいなことを強引に一緒にしたような仕上がりで、混沌としている。その頃から私は雑多な要素をミクスチャーすることに意識的だったようである。

歌詞も私が随分とひねくれたモノの見方をしていたのがにじみ出ている。自分が大好きだった90年代後半の日本のインディーパンクシーンで、日本語で攻めてるバンドは驚くほど少なかった(英詩を無理してつけてるのが普通だった)ので手本がなく、腐心した記憶がある。歌詞をどんな風にのせればいいのかよく分からなかったが、その頃後追いで知った80年代のinuとかスターリンなどのハードコアパンクに衝撃を受けて、自分にしては過激な言葉を使っていたようである。ちなみに当時の日本語で歌っていた現役パンクバンドの中で、圧倒的な存在感を放ち私が影響を受けたのはfOULとブッチャーズであった。

さて、作品のファーストインプレッションとして重要なジャケットである。これは大学のサークル、イン研の友人で、出版社に就職し、まさに当時出版界のスタンダードになろうとしていたillustratorやphotoshopなどのデザインソフトを覚えたてだったホウヤにお願いすることになった。彼も私もクイックジャパンなどに代表されるサブカルチャーが大好きだったので、どれだけインパクトのあるヤバいジャケットを作るかという観点で盛り上がり、意見がまとまった。出来上がったのは私とクラッチ、ブレーキーのそれぞれ何の飾り毛もない、むしろアウトテイクっぽいヘボい写真を寄せ集め、同じく寄せ集めた画像素材でコンクリートジャングル風の町並みと対照的な青空を配し、タイトルを東京銘菓風の(実際は岩手銘菓かもめの玉子のフォントをパクった)ロゴで仕上げた。子供の頃から変な行動をとって注目を集めたり、周囲と違う行動をとることが本能的だった私にとって、如何に個性的なセンスのジャケットを世に送るか、ということにかなりの思い入れがあり、出来上がった時には非常に満足した。

印刷屋からジャケットが届くとパソコンで焼いたCDRをセットする作業が始まる。3人で封入作業を始めるとブレーキーが俄かに「ちょっと待ってよ。手袋しないと。」と言って手袋を取り出した。私とクラッチは、感覚的に手袋なんかしないでいいだろう、と思ってたので衝撃を受けた。結局その手袋案は初日だけで、作業を進めるうちにブレーキーは妥協して素手で封入することに突っ込まなくなった。

出来上がったCDRを都内のインディー系レコードショップに持ち込み、委託販売を頼んだ。委託というのは、店側が売れた枚数分だけ販売手数料を引いて依頼主に売上げを支払う仕組みのことで、お店側は大した負担にならないので大抵は受け入れてもらえるのである。大体初めは試しに5枚で、というパターンが多く、売れそうだと思われれば10枚預かってもらえた。ただ、お店にもこだわりがあるので直感的にこれは違う、と店主が判断すれば断られることもある。私はパンク系を取り扱うCD屋をメインで狙ったので断られることはほとんどなかったが、当時インディー専門店として名を轟かせていた今は無き下北のハイラインレコーズには断られた。洒落た要素を微塵も感じさせない「東京サバンナ」のジャケットを見てドン引きしたのかもしれないが、私は憮然とした。何がインディー専門だ、笑わせるな、と愚痴った。その頃の私は卑近な、バンド界隈やインディー界隈のことばかりにしか関心がなく、何かにつけて文句を垂れたりしていたのだ。

さて、店舗での「東京サバンナ」の売れ行きはどうであったか…。大概作品を作ってお店に卸したら、あまたあるその他のインディー作品群の中に埋もれて1、2枚だけ売れて終わる、というパターンがほとんどである。その場合お店は取り扱い点数が多過ぎるのと、販売手数料も大して取れないのとで、わざわざ依頼主に売上げの報告などしてくれない。精算をしたかったらお店に連絡して売上げを聞き、もし売れてたら請求書と領収書を用意してまたお店に出向かなければならない。これがなかなか面倒くさい。「東京サバンナ」は500円で販売したので、お店で売れた場合は大抵7掛けで1枚350円の利益なので1枚、2枚の売上げを精算しに行くと電車代だけで消えてしまうようなものである。

私は「東京サバンナ」以降、プレスしたCDを作ってく過程でも自主製作を続けたので、東京に限らず地方のインディーショップにも発送して卸して、という作業を健気にやっていくことになるのだが、売上げを回収できることの方が少なかった。それでも、全く縁もゆかりもない地で自分たちの作品が他人に届くことは尊いことだと思って続けた。多くのインディーアーティスト達はそんな想いでプロモーションを兼ねて委託販売をお願いし続けていることだろう。

これも後年、自主系の音源やzineを取り扱うお店の店主に聞いた話しだが、委託で預かっている商品の売上げに関して全部依頼主から請求が来たら店が潰れるよ、とのことである。だから自主製作、自費出版系のグッズを取り扱うお店がある事自体有難いことのようにも思える。依頼主側の利益が微々たるものであるように販売側の利益も大きなものではないだろうから。

脱線したが、赤い疑惑の処女作である「東京サバンナ」であるが、実際は売れなかった訳ではなかった。というのもライブでの手売りというのがあって、これが堅調にジワジワと売れていた。500円という廉価であることもあったかもしれないが、我々のふざけたパンクセンスを面白がってくれる主に同世代の若者達がそれなりに反応してくれていた。

また、パンクのCD・レコードの専門販売で有名な高円寺のBASEという店では委託で預けた「東京サバンナ」が売れ続けたのである。委託品がスムーズに売り切れた場合はお店側から連絡がくるのである。「売り切れましたよ」という報告を初めて聞いた時の興奮は忘れ難いものだ。スタッフによる「四畳半のミニットメン」というキャッチコピーがハマったらしい。ミニットメンというのは当時私が最も好きだったアメリカのファンキーなパンクバンドである。その形容には感激したが、(実際は六畳の風呂なしなんだがなぁ)と思っていた。しかし四畳半という方が叙情的な感じがするのでそこは方便である。とにかく、それ以降BASEでは10枚単位で作品を卸すことができ、トータル10回以上のバックオーダーが入ったのだ。そんなこんなで、印刷屋に出した1000枚のジャケットがなんやかんやでなくなってしまった。

まだCDの売上げが低迷する前の時代である。インディーで3000枚売れれば大したもんだ、とも言われていた時代である。作品がとにもかくにもそのように売れたことは私にジワジワと、自分はバンドマンとして歩み始めたんだ、という自信と希望を与えてくれたことは確かであった。

つづく
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