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ROAD to 小川町 第9話 田舎暮らしと会社員

田無の実家で居候ライフを送りながら、休日のたびに小川町の新居に赴き、リフォーム作業に明け暮れる日々は続いていた。幸いと言ってよいべきか、コロナショックを受けて出勤日が制限されるようになり、5月は半月ほどが休みになったので、新居で過ごす時間はかなり確保できていた。

一月ほど前まで住んでいた2DKのアパートに暮らしていた時には想像もしなかったような広さの庭と、そこに覆い被さるような勢いで生える竹薮が壮観の裏山は、しばらく私をハイな気持ちにさせ続けた。

庭にはいろんな植木が植っており、それらが次第に何の木か判明してくると、その度に私の喜びは更新された。グミ、ユスラウメ、イチジク、東京モンには馴染みの薄い果樹が、当然の如く実をつける様子は、素直に胸を打つものがあった。

公道から我が家の敷地に一歩入ると、砂利と土、むき出しの自然が私を迎える。その圧倒的な庭の草たちは、私が行くたびに容赦なく成長していた。物件管理の仕事で、草刈りという、皆が嫌がりそうな仕事が意外と嫌いじゃないことに気づいていた私は、新居のビニールハウス内に残されいた鎌を握ってひたすら草刈りに精を出した。

裏山のタケノコは取り放題であったが、油断してタケノコを刈らずに成長を見逃すと、数日で4、5mにの竹になってしまい唖然とした。地元の人には食べなくても見つけたら倒しておくといい、と教わった。

自然溢れる庭はまた、私をすぐに野菜作りの道へと誘った。これまでアパートの敷地でプランター栽培を試したことはあったが、私は満足できず、いつか地植え野菜を育ててみたい、と夢見ていた。そして今、目の前に、イメージしていたよりも幾分も広い庭が広がっているのだ。私はホームセンターや近所の農産物直売所で売っていた野菜苗をいくつか買って、早速庭に植えてみた。

以前の住人が残したボロいビニールハウスには使い古しだが十分使える農具が一通り揃っていた。私は初めて鍬を振り回して地を耕してみた。この家が空き家になってから何年も経ったらしい庭の土は、しかしカチカチに固まっていて、1平米ほどの区画を耕すだけで滝のような汗が噴き出した。(思ってたよりキツい、これは容易じゃないぞ…)と思うと同時に、異様なアドレナリンが湧いてきて、この肉体疲労がどこか快いモノであることになんとなく気づいていた。

ある休日、その時は連休だったので泊まりがけだった。リフォーム仕事がひと段落して夕方流しに行くと、何とシンクの中でムカデが3匹ザラザラと蠢いていた。都会育ちの私には信じ難い程の大きさで、身体の節の部分は艶々と黒く、その下の蠕動する手足の部分、および触角がその黒と対照的に、はっきりと赤いのでそのコントラストが気持ち悪くてたまらない。一瞬茫然自失、そしてすぐにネットでムカデ、対処と検索し、結果お湯を沸かしてシンクの中で皆殺しにした。

あまりの恐ろしさに攻撃的になった私はムカデの死骸を焚き火でさらに始末した。その夜、私が運び込んだ寝具を整えて布団を被ろうとしたその時、布団の端からまたムカデが現れ、さっきの赤い触角が私の目と一直線に向き合い、それなりの近さだったので、ぎゃっ、と悲鳴をあげて布団を放り投げた。もしや、無残にも亡骸を焚き火で燃やした報いか…、私は恐ろしくなった。

気が動転して部屋から出たものの、このままじゃ寝れないじゃないか、と私はいい歳して身震いした。それからしばらく、そろりそろりとムカデ捜索にあたったが見つからず、怖いので酒を飲んでいつの間にか寝た。

田舎暮らし最高、と調子に乗っていたが、私は田舎の現実というものを目の当たりにした。大地をアスファルトやコンクリートで覆わない田舎生活の現実である。小川町出身のはるかちゃんにこの話しをすると、ああ、ムカデね、出る出る、と当たり前のように言うし、移住仲間のヒーサンのとこではしょっちゅう出ているそうだし、この生物との共生は避けられそうもない様子だった。

こういった新居での体験は、ひとつひとつが新鮮で、ムカデ以外は最高に楽しいものだった。しかし、月の半分になっていたとはいえ、新宿の勤務先での労働時間は対極的に不快な雰囲気に覆われていた。コロナの影響で勤務先は明らかに売り上げを落とした。会社のオーナーである、「会長」と呼ばれる経営者の爺さんはあからさまに機嫌を損ね、社員へのパワハラを強めていた。

5月のある日、そのパワハラが私にも命中した。私は会長室に呼び出され、ネチネチと因縁をつけられ、なじられた。その時、理性で保っていた何かしらの思考回路が切れるのを感じた。こんな会社もう辞めてしまえ! 会長室を出る時、その思いは自分でも驚くほど固いものになっていた。

もちろん、ここの会社員を私はこのまま定年まで続けていくのだろうか、と勤務先に対する懐疑心は少し以前からあったには違いなかった。しかしすぐさま、組んだばかりの住宅ローンのことが頭に暗い影を落とした。辞めてホントに大丈夫か? もうすぐ2人目の娘が産まれる。お前の他に3人もの家族を養えるのか? それから私は不安になり、どうするどうするという葛藤が始まった。小川町周辺で求人情報を検索してみたが、やはり田舎町である、自分にできそうな仕事がみつかりそうもなかった。

それでも私は会社を辞める方向にモードを切り換え始めていた。こんなに素晴らしい家を手に入れ、間断的にではあっても、新居で過ごす時間は私を常に癒した。本能的に、もっとこっちで過ごす時間を確保しなければならない、と考えた。そして戸惑い、そうならば、新宿までの往復4時間の通勤時間がどうしたってもったいない、と確信に向かった。何か、小川町界隈で完結する生業をみつけたい…。

その頃、ヒーさんのバンドでパーカッションを叩くやっさんに庭の管理の仕方を教わろうと家に来てもらった。ところが例の風呂のリフォームの進捗がはかばかしくなく、古い浴室解体後の始末に難儀していたので、そのことを相談してみたら、やっさんは百人力のパワープレイで解体仕事をきっちり仕上げてくれた。ここまでくれば、後は職人さんの立ち合いだけで済む。

私はすっかり感謝し、植木屋さんってこんなこともできるのか〜、と大変感心し(こんな植木屋さんは多くはないと後から分かるが…)、植木屋さんに転職するのはどんなもんだろう、とその時初めて思い出したのである。これも後々振り返れば、ジャーガイダンス。

さて、その風呂のリフォームはしかし素人の段取りの悪さでスムーズとはいえなかった。頼りにしていた左官屋さんのスケジュールと私の休みの調整で何度もハラハラしなければならなかった。いついつまでに浴槽を用意し、タイルを用意し、風呂ドアを用意し…。私は山形にいるピーさんとLINEでやりとりを繰り返した。彼女がネットで厳選した材料を取り寄せて新居に赴くたびにそれらを受け取った。2人入れる檜のデカい浴槽が配送屋から運ばれてきた時は流石に興奮した(この浴槽を浴室に運び込むのが一大事だった…)。

5/19、朝、無事次女が産まれた。私はその報せを仕事の現場で、業者立会いの合間に知り、業者の人にバレないように泣いた。そしてその数日後、住民票を移して東京都民から埼玉県民となった。つづく
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アクセルの育児記 第35話 ふみ1歳、こと子もうすぐ5歳

季節は流れ、あっという間である、先日次女のふみが1歳になった。およそ1年前、彼女が浮世にやってくる頃、私はこの移住先の小川町の新居で、家族のいない1人生活を始めたのである。ピーさんが里帰り出産で、しかもコロナ禍における制約のおかげで、私は生まれた子に逢いにいくことが許されなかった。出産1ヶ月後に初めて顔を見た赤子は、両掌でそっと包めるくらい軽く小さかった。

それからすくすくと育ち、ふみは1歳になる少し前に断乳し、同時に食事への快楽を覚えた。ご飯の時間になると、すぐに気配を察知して、ちゃぶ台に並ぶ食膳に向かい、一直線にハイハイしてくる。腹が減っている時などは、ともすると奇声を発してやってくる。

初めはスプーンでやっていたが、そのうち自らの手でむさぼるようになった。どうやら、人に喰わせてもらうより、己の手を使って食べ物を口に運ぶ方が、その過程で脳が活性化するらしいのでいいのだそうだ。私はそんなことも知らなかったが、自然教育ではそんなものらしい。気がつくと右手も左手も、顔も服もご飯だらけになっていたりする。私はそういうのが気になるので、片端からその米粒を掴まえて自分が食べてしまう。ホコリや繊維がついているかもしれないが、毒ではあるまい。

しかしまあ食べる食べる。米だけに限らず、麺もツルツル、ズルズルと、まだ小さな一本の下歯しかない口の中に面白いように吸い込まれていく。素麺なんかは掌いっぱいに掴んで口に運ぶ。柔らかい麺を握ったまま口に運んで、その指と指の間から這い出るミミズのような素麺にしゃぶりつくので、机の上はまた大惨事となる。なお、素麺は乾くのも早いので、すぐにフキンで拭きとってやらないと、後で後悔することになる。

こんな小さな身体の容積と比較しても、どうもそれは食べ過ぎではなかろうか、という量を食べ切るので呆れるが、思い起こせばこと子がこのくらいの時期もまたこんな調子で、幼児の食欲に閉口していたのではなかったか…。母乳という完全食がなくなり、(まだ歯は圧倒的に足りないが)食べ物を咀嚼することで、舌や鼻腔から色んな刺激が流れ込んでくる。しかもその美味い、という刺激は快楽の方面であって、まだ他に器用に動けない赤ちゃんにとって、食事は大イベントとなる得るのだろう。

我々のような大人でさえ食事はなかなかに侮れないイベントであるから、他に刺激の得方をさほど知らない幼児にとっては一大イベントに違いない。そう思えば、ふみのその前のめりな食欲もまんざら納得でないこともない。

それから最近のトピック、ハイハイしかできなかった彼女が初めて立ったのだ。立った、立ったと私やピーが喜んで反応するので、彼女も得意満面な笑みを浮かべている。立った状態から、その姿勢に疲れてよいしょ、と座り込むと、あ〜、と嘆息を漏らし、今立ったわねアタシ、という具合に手を叩いたりする。何かができたりすると、手を叩くことを保育園かどこかで覚えたのだろう。その原初的な自己肯定の姿は、清々しくもあり、可笑しくもあり、私も一緒に手を叩いていしまう。

さらにまた少し遡るが、音楽が聞こえたり、私やこと子やピーが歌を歌ったりすると、ふみはそれにすぐ反応を示して、手や足腰など、身体を動かすことに気づいた。四つん這いの、ハイハイの姿勢から、かかとを畳につけて踏ん張り、音楽に合わせて腰を上下させていた時は、その大胆な姿にビックリしたが、その時の姿勢といい、背筋を伸ばして立ったまま、膝を軽く屈伸させる彼女が最近よくやる踊りは、まるでレゲエダンサーのようなのである。ロンパーズという赤子服を着ている時は特にセクシーである。

音に敏感なんじゃないか、我々の子どもだからな、などと思っていたら、先日、音楽好きの友人の家に遊びに行った時、結構デカい音の出るスピーカーの前に陣取って、またぞろそのレゲエダンスを始めたので一座を大いに沸かせた。大きくなったら父ちゃんとバンドやってくれるだろうか。

一方、長女のこと子とはいうと、自転車の補助輪を外して、ちょっとだけペダル漕ぎができるようになり、ひらがなをマスターし(読みだけで書きはまだだが)、ひらがなで書かれた絵本なら、気づくと1人で声を出して読んだりしている。お尻も拭けるようになったし、歯も磨けるようになったし、順調にすくすく、といった感じである。

4月からは保育園に通い始め(ふみも預かってもらえることになった)、友達たちと元気に遊び倒しているようである。同じ園に移住仲間のヒーさんの娘やクリスチャンの娘が通っているので、私達夫婦もあらぬ心配もせず、安心して預けている。

この辺りでは評判の、子どもファーストな自然教育を標榜する知られた園で、我が娘らがいきいき遊んでいる姿を見ると、田舎に来ていい保育園に恵まれたものだな、と嬉しい気持ちになるのである。最高、最高、と言いたいところなのだが、一つ困ったことがある。というのも、この園の教育の真髄ともいえるだろう、ドロンコ教育のことなのである。

いや、もちろん、ドロンコになってハッスルする子供の姿を否定するつもりはないのである。ただ、そう、ただ、ちょっと困っているのは、それによる持ち帰りのドロンコ服の量なのだ…。1日で3着、4着は当たり前、多い時は6着、7着、といった具合で、そのドロンコ服をウタマロ石鹸で予洗いするのは主に私の役割なのである。こと子のだけならまだしも、ふみの服もすっかりドロドロになって戻ってくるので10着以上タライにぶち込んでゴシゴシしていることはザラにあるのだ。

ある時、2人を送りに行ったら、開園間もない保育園の園庭に先生たちがホースでドロンコの山(園庭には造園屋が造った山やトンネルがある)にせっせと水をかけている。私は衝動的に、(何してくれてるんだ…)と内心穏やかではなかった。それをピーさんに報告すると、「そうだよ、いつもかけてるよ、水…」と当然知っているかのような口ぶりなのである。どうやらそれがこの園の基本スタイルであるらしく、ドロをドロドロにするのが彼らの仕事でもあるのだ。しかも、園の給食員をやっている友人の女性曰く、「先生達が泥山から園児が滑るのを煽ってるからね、さあ、〇〇ちゃん行け〜って…」。

ともあれ、畑や田んぼの体験教育もあれば、山を散策するような時間もあるし、何より縦割り保育で、0歳児から6歳児までが隔たりのない、ホールのような造りの、園で遊んでいる。こと子が仲良しのたねちゃんと、年下の園児などをよく可愛がってくれていますよ〜、という微笑ましい報告も先生から聞いたりし、ほっこりとした気分になった。そんな保育園に、頭が上がらないのも確かである。そういうことを考えれば、私がドロンコ服をゴシゴシする時間くらい何でもないじゃないか、と思い込むように私は暮らしているのである。

バンドマンに憧れて 第47話 初就職と挫折、屋台とパソコンスクール

フリーター卒業を称する混迷のインド旅行から身体を壊し、這う這うの体で帰国した私は肺炎にかかって即入院という惨めな状況に陥った。飲酒運転で居眠りをし、原付で大怪我をした時以来の入院。またしても情けない現実であった。

退院してすぐにハローワークに通い、正社員になるための就職活動、というものに生まれて始めて取り組んだ。親から授かった大卒の有効性をフリーター生活で失っていた私に適合しうるような仕事は多くはないだろうことを予想していたが、果たして、前向きな気持ちで望めそうな仕事は少なかった。薄給は覚悟の上だったが、中でも幾分興味のあった印刷業界で、とある印刷会社の作業員のクチにありついた。

自転車でも行こうと思えば行ける程度の距離。割と近所の印刷会社だった。家族経営の小規模事業で、看板やサイン、家電製品向けエンボスシールなどの工業的な印刷がメインで、私が興味のあった紙媒体の印刷とはかけ離れていた。しかし、私にはとにかく「就職をする」という目的の方が大きく、やけくそな気持ちもあった。

しかし、3ヶ月の試用期間の間に私は(ここでずっと働くなんて地獄の沙汰だ…)と気づいてしまっていた。精神修養の瞑想でもたらされた敬虔な気持ちは瓦解しはじめていた。

年配の社長は気性が荒く、売り上げが思わしくないことを毎日朝礼で訓示し、作業員を威圧するのが日常だった。何故か、この会社では「トヨタ生産方式」というワードを崇高な規範のように唱えていたが、私はその感じがただただ気持ち悪く、感心を示すことができなかった。

狭く小暗い印刷工房の中で、インクまみれになりながら大きな機会をひたすら動かす作業が続く。商業用印刷なので、重いパネルや重量のある物体を階下から次々と運び上げるような肉体労働も少なくなかった。休憩所は驚くほど狭く重く息苦しく、昼などは4名ほどの作業員が小さな机で頭を寄せて、黙々と仕出し弁当を食い、世間話しさえほとんど飛びかわない。私の頭の中で、毎日「就職とは…」という問いかけが隠れようとしなかった。勤務時間の間が漆黒だった。

印刷会社での仕事に幻滅を感じていることはすぐに当時付き合っていた女性に悟られ、私は不甲斐ない気持ちに苛まれた。とはいえ、愛する人のために、という美しい目標よりも自分が壊れていくことが恐ろしく、私は結局試用期間でその会社を辞める決意をしていた。

その間、その会社のあった駅の付近で、夜になると時々メロンパンの移動販売車が営業しているのを興味深く見ていた。過去に、ベトナムサンドイッチ屋台を東京でやったら流行るんじゃないか、と夢想していたことがあったことも思い出し、こんなフーテンみたいなしのぎでメシ食っていけたらいいな、と甘い妄想が始まった。そして遂に、私はメロンパン屋のおじさんにある時話しかけ、気さくに対応してくれたおじさんに突っ込んで、メロンパン移動販売の仕事について具体的に聞いてみた。すると「興味あるの?」と言って説明を始めるのだった。

分かったことは、このメロンパン屋台はいわゆるフランチャイズと呼ばれるビジネスで、加盟料を払えば大元の会社からキッチンカーが支給され、さらに材料も大元から仕入れるのである。開業の苦労をしない代わりに先行投資で始める商売なのである。おじさんは、興味あればここに連絡してみて、と一葉の名刺を手渡すのだった。

しかし、その名刺はどうも不穏な雰囲気が漂っていた。社会経験の乏しい当時の私にも何となくそう感じさせる造りなのである。メロンパン屋台の会社という雰囲気は見あたらす、取締役の名前とその会社の事業が書いてある。私は訝しんだが、話しを聞くのはタダだろうと、勢いで電話をかけてみた。

後日、その取締役とファミレスで面接することとなった。想像していた通り、その取締役はカタギではなさそうなオーラをまとっていた。強面全開という方向でもないのだが、何か引っかかる雰囲気が滲み出ていた。取締役は、どうして今回この仕事に興味を持ったのか、という質問をしてきたので、私は同棲中の彼女と結婚しようと思っていることや、普通の会社員は自分には向いてないと思っている、というようなことをバカ正直に返事したのだが、それに対し、取締役は「分かりますよ、私が独立したのも家族を養っていくためでしたから」と私の動機に理解を示すのだった。

ひねくれ者の私はその対応がどうも胡散臭く思えて、何となく構えてしまった。この人は私にただ話を合わせてきてるのではないだろうか…。私が毎度大苦戦を繰り返してきた「仕事の面接」という儀式で、こんなに自然に私の発言に理解を示されたことはなかった。これは加盟料を払わせるための罠なのでは…。

その後取締役と話したことは、はっきり覚えてないのだが、200万円ほどの加盟料に対して、そこまでの大金を持ってない、と正直に言うと、最低50万円でも始められる、というようなオプションを提示されたことだ。結局、やるつもりならまた連絡します、という流れで退散し、私はメロンパン屋さんは忘れることにした。

諦めの悪い私は、次に当時大好きだった今川焼き屋を経営するのはどうだろう、という甘い妄想を膨らませた。尊敬する深沢七郎が小説家の傍ら、気まぐれに今川焼き屋をやっていたらしい、というエピソードも大いに関係していたかもしれない。そしてインターネットで今川焼き屋のリサーチをしていると、馴染みのある西武線沿線のとある駅の付近で営業している今川焼き屋さんが、開業支援というのをやっている、という情報にぶつかった。

そしてメロンパン屋と同じように面接しましょう、という流れになり、やはりファミレスで今川焼き屋のおじさんと向かい合うことになった。今川焼き屋のおじさんの話もメロンパン屋さんと同じような内容だったので、私は二の足を踏むことになった。

印刷屋の使用期間が終わる頃、彼女に理解を求め、いきなり知らない会社の正社員になるのはハードルが高いので、とりあえず、派遣社員というものをやってみる、と訴え、本気度をアピールするつもりも兼ね、貯金をはたいてパソコンスクールに通い、興味のあったwebプログラミング養成講座なるものに挑んだ。下心で、イラストレーターやフォトショップをもっとちゃんと覚えたい、とも思っていたのだが、webプログラマーになるためにそれらの基礎講座も含まれていたので私は敬虔な気持ちでhtmlやらCSSやらのお勉強を始めたのであった。つづく

バンドマンに憧れて 第46話 アクセル長尾、心の旅路

誘われるライブの頻度は減らなくても、赤い疑惑が動員できるお客さんの数は着実に減っていた。38話に触れた通り私はプロモーション活動をフェイドアウトさせ、バイトも週5に戻した。母が癌で亡くなったことは、私に現実を直視することを迫った。

懸命な看病で母の癌が治るのではないか? そんな根拠のない希望的観測は現実の前で打ちのめされ、それと同時に「音楽で食っていく」という私の中学生時代からの夢が揺らぎ始めた。母の癌快癒と同様に、私のその野望はやはり根拠のない希望的観測に過ぎない。後ろ向きなことを考えないように見栄を張っていたが、我々赤い疑惑の活動をそのまま続けて、動員なり売上げが好転して生活が変わる、なんてことはもはや無理なのではないか…。母の死はそのように私の心理に影響を与えた。

この頃私の心はさまよい続けていた。バンドがこれ以降売れなかったとしても、バンドを続ける、という美意識が私の中にいつからか強く根を張っていたので、バンドを止めるということは考えなかった。それに、人気の低迷と反比例して、クラッチとブレーキーとで編み出すアンサンブルは、始めた頃よりも確実に質が上がっているように感じていたのも事実だった。なのでバンドを続けていこう、というポジティブな気持ちは手放さなかったものの、食うことを目指してフリーターを転々としていた私にとって、それではこれからどのように働き、どのように生きていけばいいのか…、そんなことを考え出すと暗い気持ちになった。突然、長年野心を持って抱き続けていた目標がゆらゆらと崩れていくのだった。

そんな中、私は例えば、母の看病を通じで深入りしてしまった玄米菜食やマクロビオティック(長続きはしなかったが…)、生来の胃腸虚弱の救いを求めて出会った東洋医学やヨガ、アジアの貧乏旅行で知ったバックパッカーカルチャーやヒッピーカルチャー、そして精神世界、そういった世界観に強く惹かれていた。

しかしそれらに癒しを見出しつつも、先行きの不安とフリーター貧乏は常に私を睨み続け、私の存在価値を脅かした。当時同棲していた恋人との結婚を、私はかなり前向きに考えていたが、彼女の気持ちは微妙だった。結婚するならもう少しまともな生業についていないと、という雰囲気を彼女から感じていた。

そしてある時私は遂に、バイトやめて就職するぞ、と一大決心をした。ハローワークでもなんでも行ってやる。一から何とか頑張ってみようじゃないか…。一念発起してバイトを辞めると、調子のいい私は、どうせ就職したらもうその先チャンスは無くなるだろう、ということで、フリーター卒業旅行というのを思いついた。しかも第二弾まである気合いの入った計画だった。

第一弾は当時私にヨガを教えてくれていた友人のオススメによる、「内観」という特殊な瞑想修行の旅で、その内観ができる日本各地の道場の中でも旅情をかき立てそうな沖縄を選んだ。

この「内観」というのは決まったテーマに沿った瞑想を1日中、7日間続けることで、終わる頃には心の垢が落ちて悩みが氷解し、新たな人生を歩める、というような触れ込みであった。私にそれを勧めたYちゃんも「私の場合は(内観)道場から家に帰る時には宙に浮きそうなほど足取りが軽くなっていた」ということだった。彼女は「お母さん亡くした玄ちゃん(私のことである)にはきっとハマると思う」とも言ってくれたのだった。

この内観の、統一された瞑想のテーマというのが、そのものずばり母親について、なのである。全ての人間は母親から生まれてくるのだから、この精神療法は万人に効くというのが内観の論拠でもあったと思う。半信半疑で飛び込んだとはいえ、私もすっかりこの瞑想療法にヤラれ、4日目に母とのある記憶を思い出し、指導員の前でオロオロ嗚咽を漏らし号泣する、というような不思議なことが起きた。

私が思い出したのは高校に入る時、入学祝いで母にエレキギターを買ってもらったことだった。そんなことはすっかり忘れていて、社会に出る頃には私は母にバンド活動を反対されていると思い込んでいたのだったが、母がとにかく心配していたのはフリーターでミュージシャンを目指すという私の方針であって、対立ではなく、もう少し違うやりとりを母とできたのかもしれない、と遅まきながら気づいたのだった。

内観終了後、私は、世界のあらゆることに感謝の気持ちが溢れ、宙には浮かないまでも敬虔な気持ちになっていた。赤い疑惑をクビにされた後、沖縄で焼き物の修行をしていたシマケンに手紙を出し、あの時(クビにした時)のオレは青二才だった、一方的にクビにして申し訳なかった、などという手紙を出す始末であった。

この内観修行の後のフリーター卒業旅行第二弾は、「自分探しの旅」で定番のインド旅行だった。もちろん私は自分探しの旅を意識した訳ではなく、インドでヨガを体験するのも1つの目的として面白いだろうという程度の軽い気持ちの旅だった。それなのにインドという国はミラクルで、そんな気を敢えて持たないようにしていた私に、自分探しをさせてしまうのであった。

この体験を文章にするのは容易ではないので端的に表現するが、私は「騙しの街」で有名なバラナシでまんまとやられたのである。死体も流れる聖なる河、ガンガーが流れるあの沐浴で有名なバラナシである。

本来占いなどに全く興味がなく、現実直視型の私が、とある成り行き(と旅の開放感)で高額な金額(日本円で約10万円!)を「ブラフマン」を自称する、見た目完全グルーな感じのおっさんに払いそう‪になってしまったのである…。後で冷静になって振り返ると怪しい点はいくらでもあったのだが、彼のちょっとした話術(と私が片言の英語だったのも大いに関係して)すっかり騙されそうになってしまった(内観療法直後で人を疑わなくなっていた説も…)。

この私が体験した占い詐欺は、善良な別のインド人に助けられて未遂に終わり、私は幸運にも金を払わずに済んだのであるが、就職前のただの観光として訪れていたインドで、ベタな占い詐欺に騙されそうになってしまった自分の不甲斐なさにかなり凹んでしまった。その事件はまだ旅程の前半だったため、旅の後半戦、私の精神状態は不安定になり、そのまま体調を崩し、ヨガの聖地リシケシでヨガを体験するも体調回復せず絶不調。デリーに戻る頃には咳が止まらなくなり、飛行場まで這々の体で辿り着くも、帰国後病院に行くと肺炎にかかっており、肋膜炎を併発して即入院となった。

このインド旅行の最中、私は死んだ母と地元の小金井公園を一緒に歩いてる夢を見た。見覚えのある芝生の景色でとても清々しい気候だった。そこからは見えない向こうでは、アンコールマンション(田無の私の実家)の人達が集まって陣地を取って花見をしている。そこまで母と一緒に歩く、そんな夢だった。それは実際あった過去の記憶に基づいていた。目が覚めて夢だと気づいた時、私は寝台列車に乗っていた。占い詐欺にあった直後のことで精神的に不安定だった私は1人静かにおいおい泣いた。泣いて泣いて気持ちが落ち着くまで涙を流したのだった。つづく

バンドマンに憧れて 第45話 知名度とメディア、そして斜陽

赤い疑惑が、集客的な側面で最も人気があったのは1stアルバムをリリースしてしばらくの間であった。年齢的にも20代前半から中盤という感じで、同世代のお客さんとしても1番ライブハウスに足を運ぶことの多い時代だろう。

その頃はライブが決まるとホームページやフライヤーで告知していたが、メールアドレスを通じて外部から前売りチケットの予約がある程度あったのだ。友人知人へは直接メール告知などしていたが、知らない人からの予約がメールで届くと感動したものだった。ライブの本数も増えて赤い疑惑の名前も、ことインディーズシーンの一部では知られるようになった。

私はバンドが売れることを1つの目標にしていたので、名前が知られていく感じにはいつも胸を膨らませていた。このままジワジワと有名になっていけばいつかは…。

そんな折、大学の友人(赤い疑惑の前身バンドGUTSPOSEというバンドでベースを弾いていた)からTV出演のチャンスがもたらされた。彼の仕事の繋がりで、我々にその気があればとあるバンドバトル番組に出られるというのだった。

筋金入りのハードコアバンドならテレビ出演など中指を立てるところなのだろうが、バンドで売れることが目標だった私はこんなチャンスを逃す手はない、とその誘いを受けることにした。コネとはいえ、番組制作スタッフの面接があるということだった。もはや何を話したのか内容を思い出せないが、夢中で自分のバンドとフリーターに関する熱い想いを喧伝するようなことをいわゆるギョーカイ系の面接スタッフに訴えたのだと思う。結果、番組に出られることとなった。

放映は東京テレビ。収録は東京タワーの中のスタジオだった。番組は2組のインディーズアーティストがそれぞれ1曲ずつ演奏し、エキストラの観客がどっちがよかったかを判断するという、よくありがちな内容だった。我々はもちろん「東京フリーターブリーダー」でいくことに決めていた。

収録スタジオのステージから見下ろす、どこかから集められたエキストラはテープで区切られた区画の中にきっちりと収められ、静かにこちらを観ている。拍手などの挙動はスタッフのカンペ通りになされるらしく、どうにも気味が悪かった。

私はいつものライブハウスとは違った空気の中、なるべくそういうことは気にしないように演奏した。そこまで悪い演奏ではなかったし、対戦相手の、ゆずチルドレンのようなアコースティックデュオの陳腐なポップソングと比べたら、個性では圧倒的にオレらの方が優ってただろう、とほぼ勝ちを確信した。

しかし結果は完敗だった。どうでもいいことだが、我々を打ち負かしたヤドカリというアコースティックデュオはその後順調に売れてメジャーデビューしたとか…。

民放テレビに出たのはそれっきりなのだが、何とその前後に朝日新聞からバンドの取材をしたい、とのオファーがあった。赤い疑惑が出した「東京フリーターブリーダー」という1stアルバムを知って、「夢を追いかけるフリーター」をテーマに取材させてくれないか、というのである。

私は来たか、来たか、という感じで歓喜し、渡りに船とばかりに取材に応じることにした。記者は私がその折居候していた田無の実家にわざわざ話を聞きに来た。丁寧で真面目そうな記者だった。私は大学で就職活動をせずフリーターになり、親に呆れられながらバンド活動を始め、いまだ成功して売れることもなく、つい最近母親に癌で死なれ、などという来し方を話した。

記者はその後、練習しているスタジオにお邪魔させてもらって写真を撮らせてくれ、というのでそれも承諾したのだが、撮影の当日、私とクラッチがまさかの寝坊、普段遅刻魔の沓沢ブレーキーだけが時間通りスタジオに来ていた。寝坊してパニックになりつつも原付をかっ飛ばして遅刻してスタジオに行くと記者の苦笑い。おまけにクラッチは撮影に間に合わず私とブレーキー2人だけの不完全な演奏を披露する羽目となった。

よって掲載された記事には私とブレーキーだけが写っていてベーシストはフレームアウトした間抜けな体になっていた。フリーターだけど夢を見て真面目に頑張っているオレたちをみてくれ、という記事なのにメンバー2人も遅刻で記者もさぞがっかりしたことだろう。問題の本稿は、寛容な記者によってまともな記事に仕立て上げてもらったが、私は夢見るフリーター達に申し訳ない気持ちにさえなった…。

さて、バンドをやっているとたまに、ギャラってどれくらい貰えるんですか? ということを聞かれることがある。我々レベルだとバンドで3,000円〜5,000円くらい。客が沢山入れば10,000円出ることもある。地方に行くと交通費を気持ち乗っけてくれて20,000円くらい。そんなものである。

ちなみに1回のライブで今まで1番もらったのは渋谷クラブASIAで「デメキング」という漫画原作映画の公開記念ライブに出た時のギャラ。当時人気急上昇中だった相対性理論というバンドとオシリペンペンズが対バンで金額は10万円だったのだ。本番は相対性理論目当ての客ばかりで、赤い疑惑の客はほとんどいなかったはずだがこれはラッキーだった。まあそんな高額なギャラは一度きり。ギャラか出ないことだっていくらでもある世界である。

また、同じ時期に思い出深いのが、岐阜で行われていた小規模野外フェスのOTONOTANIというイベント。野外イベント出演の好機を狙っていた我々がそのイベントに働きかけたところ、とんとん拍子で出られることが決まった。企業やスポンサーの介入しない、手づくりの素敵なイベントだったが、スタッフや集まったお客さんにやたら気に入られ、2度目か3度目の出演時はメインステージのトリをやることになった。

しかもライブ内容もことのほかうまくできて、ライブが終わると、握手してくれ、CDにサインしてくれなどとステージ前に行列ができた。私は尻のこそばゆい気持ちになりながらもこれが伝説の始まりなんじゃないか、とまた調子に乗った。

そんな風にしてこの時期、赤い疑惑はちょっとした活躍ぶりだった。私の営業努力というものもその頃までは元気があって、「楽しい中央線」というサブカル誌の突撃バイト特集のモデルをやったり(数回やったがギャラが出ず結構しんどいので途中辞退した)、スペースシャワーTVに出たり、ラジオに出してもらったりなど、今じゃ想像できないような営業活動もしていたので、それらも総合して少し知られるようになったみたいだった。

しかし、バンド知名度の伸びはその辺で頭打ちだったらしい。次第にライブにお客さんが集まらなくなってゆくのに大した時間はかからなかった。

赤い疑惑は仲良しのバンドがほとんどいなかったし、シーンのようなところにも属する機会がなかった。故に私は孤立感を勝手に深めた。音楽的にはパンクロックベースのミクスチャー路線を狙って、初めは苦戦したが3人で段々といい音楽が作れるようになってきている、という自信めいたものも生まれていた。しかしライブに誘ってもらってもお客さんが入らないようなことが続くと自分の音楽への自信が揺らぎ続けた。

バンドで成功して親孝行するという浅はかな、青年期のおぼろげな夢は母の死をもって泡となり、集客の減退は私のバンドに関する営業活動をも減退させていった。

当時私は付き合っていた女性があり、私は結婚したいと思っていた。母の死がそうしむけたところもあり、それまで抱いたことのなかった「子を持つ」ことへの願望すらも芽生え始めている自分に気づいた。しかし、このフリーターでバンドマンという体たらくでその願望を成就することは容易ではないように思い、私は悩んだ。そしてバンドで食っていくという、私がしがみついていた夢を手放さなければいけない時期がもうそこまで来ているのを何となく自覚し始めていくのだった。
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Author:アクセル長尾
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