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土民新聞のせいだ

ブログの更新久しぶりである。これはひとえに「土民新聞」のせいだ。

本年6月の末にフリーペーパー「土民新聞」第一号を発行した。これは都心から緑あふれる田舎に移住し、土に、樹木に、自然に、山に目覚めたとある男の生きた証として、不定期刊で刷られるA4裏表の新聞である。とある男とは不肖私のことである。

土人じゃない。土民である。土人だと人権問題に触れてしまいかねないが、土民とは土とともにある民のことを指す。私がこの言葉に惹かれたのは、石川三四郎というアナキストが「民主主義」を「土民生活」と訳したことから拝借したものだ。石川三四郎は大杉栄などが虐殺された大逆事件の後に渡欧し、農耕生活に従事し、その中で上記「土民生活」という訳語を掲げることになるのだが、アナキストに限らず左翼活動家などが、最終的に農の生活に落ち着くパターンは少なくない。

私は里山アナキストを自称し、自分はアナキストであるぞ、と私に誓ったのであるが、移住して田舎暮らしに没入した私の、思想的、農耕的、野良的なアレコレを真面目に、また不真面目に、書き殴る媒体があれば自己満足できるのではないのか、と考え始めた。

私がフリーペーパーなるものを作るのは、実は初めてではない。高校生の頃、ロックと古着に夢中だった私は、吉祥寺や下北沢など、若者文化発信の町に足繁く通い、中古CDや古着を漁った。そしてそういう店の片隅に、ライブやイベントのチラシに混ざってフリーペーパーなるものが陳列してあるのに気づき、何となく持ち帰っては読むのが習わしとなった。

フリーペーパー、今ではジンという方がヒップなのかもしれないが、要は新聞や雑誌など、法人が発行する読み物とは一線を画す、個人の、超ニッチな内容の読み物であり、手書きの殴り書きのものもあれば、ちゃんと活字で刷られ、レイアウトもしっかりしたものまで、バリエーションは豊富だった。

丁度その頃、クイックジャパンというマニアックな雑誌にハマっていた私は、この形態でクイックジャパン的なニッチな記事を書いてフリーペーパーを作ってみよう、と意気込んだ。まだネットも普及する前のそんな時代の話しである。

それから私は20代中頃まで、タイトルを幾度か変えて、そのようなフリーペーパーを作った。大学を出てバンド、赤い疑惑一筋でがむしゃらになっていた頃作っていた「わくわく赤い疑惑」というフリーペーパーが最後だ。

そしてその頃からネットの普及と共にブログの隆盛が始まった。これは大事件で、承認欲求を満たすためにわざわざ紙という媒体に印字したフリーペーパーを、お店などに頭を下げて置かせてもらったり、直接友人知人に配ったりする労力を要さずにネットの向こう側の人に、自分の文章を読んでもらえる、という魔法のようなことが現実になったのだった。

私は早速ブログを立ち上げて拙い駄文をせっせとアップするようになった。紙と違って文字数制限のないブログの特性に合わせて、3,000字以上の長い、日記のような記事を沢山書いた。それがカタチを変えたりしながら、こうやって未だに続いているのである。

ところが、このブログの記事を書くことだってずっとやっていれば飽きたり、疲れたりする。アップしてからもらえる幾通かの「いいね」が唯一の喜びとなり、そしてその繰り返しだ。仕事じゃないからお金が貰えるわけではない。家族に喜ばれる訳でもない。

子育てが始まり、バンド活動も自然と緩慢になって、当然ブログに記事を書くのに割ける時間も限られてくる。それでも健気なもので、活字に捉えられた人間というのは、定期的に文章が書きたくなってしまうものである。不思議だ。

先にも書いたが、東京から埼玉の田舎に移住したことは私にとってとても大きな出来事だった。バンドマンとして大成したかったが失敗し、それでも前向きに生きることに希望を持って健気に生きていた私にとって、移住後の暮らしは、そのような、夢を諦めて余生をなんとなく過ごす、という慎ましいニュアンスからは大きく飛躍し、この素晴らしい自然の中で新たな夢を希求し、充実した日々を土と共に暮らす、という極めてポジティブな、若干前のめりな方向へと私を誘っていく。

そしてそんな生活と、その中で感じることを書き殴り、新聞を作りたい、という新たな思惑が脳裏をよぎる。ブログから紙に逆戻り、活字から手書きに逆戻り。頭の中でイメージが膨らみ、「土民新聞」という言葉が出てくる。里山アナキストという言葉が舞い降りてくる。気がつくと第一号が完成していた。

これを、会った人や奥さんがやっているピンポン飯店で配ったり、友人のお店に置かせてもらったり、そんなことしていたら、コレは面白いじゃないですか、長尾さん!なんて喜んでくれる人が現れる。

その土民新聞第一号に書いたのだが、私の父は私が小学校の頃から、長尾家家族新聞なるものをほぼ月一で発行し続けた奇人である。父亡き後、その家族新聞が420号くらいまで発行されていたことを改めて認識し、リスペクトの念を禁じ得なかったのだが、どうせなら土民新聞も「目指せ420号」と負けん気が持ち上がる。ギター弾いて歌うのも、文章書くのも、結局父の血なんだな、と今は認めざるを得ない。

しかし、420号作るとなると、月一だとどうかと計算してみたら35年かかる。年齢だと79歳までである。死んだらどうにもならんが、無理な数字ではないとも思える。そんなことを考えながら3号まで作ったのだが、おかげで田舎暮らしの忙しさに拍車がかかり、ブログの方はなおざりになってしまった。

しかし、土民新聞は手書きのため、表裏でざっと2000字ほどしか書けない。短文にぎゅっと言いたいことを凝縮するのに慣れてない私には、文字数制限があることがハードルであり、逆に言えば、言いたいことをいかに少ない文字数で伝えることができるのか、という挑戦にもなるのでそれはそれでやり甲斐がある。けど長文も書きたい。

土民新聞を読んでもらうには私が手渡するか、リクエストさえあれば郵送という選択肢もやぶさかではないが、そういうわけで、気軽にオンラインで長い文章を掲載できるこの赤い通信も変わらぬお引き立てのほどを。
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第一回キラナ里山祭り

そこは小川町の外れ、飯田集落から山間に入るドンつきの広場である。奥には石尊山が控え、広葉樹が朗らかに伸びている。ここは先人たちが丁寧に維持管理してきた雑木の空間だ。先人たちというのは里山クラブの先輩たちで、もっと言うとここはそのクラブの佐藤会長の土地なのだった。

その広場には大きなコナラの樹冠が覆う板張りのステージが一部に設られ、その脇にはツリーハウスがある(今は要改修で立ち入り禁止だが)。ステージの下には武骨な炭焼き窯がドンと構えていて、その存在は広場の雰囲気を味のあるものにしている。

移住して、田舎のことを知りたい、と前のめりになっていた私は里山クラブのことを知り、体験でお邪魔したその日に入会を決意した。クラブを構成するメンバーたちの平均年齢は60から70くらいだろうか、最年長者は80を越えていた。私は地元の爺さん達と仲良くなっていろんなことを教えてもらいたい、と移住を決めてから密かに企んでいたので、これはかっこうの学び舎じゃないか、と合点したのだ。高校生以来のクラブ活動だ。

ジュンさんと知り合ったのはそれから間もない頃。小川町への移住者で、何と坐禅会を主催してる人がいるとの噂を聞いた。そんなマニアックなイベントを開催してる人がいるのか、と私は興味を持った。この小さな町では、移住者同士というのは不思議なもので、そこまで気合を入れなくても、何となく暮らしているだけで自然と知り合うことができる。そんな訳でジュンさんとも、どうやって知り合ったのだか思い出せないが、いつのまにかお友達になっていた。

長髪で、エスニックな召し物に身を包んだジュンさんが、現役のバックパッカーであろう、と勝手に判じた私は、気づいたらジュンさんと旅の話に花を咲かせていた。特にジュンさんがジャマイカでギャングに囲まれて危ない目に遭った話は抱腹絶倒のストーリーで、夢中になり胸が熱くなった。いいアニキを見つけた、そんな気持ちでジュンさんとの付き合いが始まった。ジュンさんは私より一回り以上上だが、存在に上下をつけないようなピースオーラを身につけていて、知り合ったばかりとは思えないほどの親しみを私は覚えていた。

即興ミュージシャンでもあるジュンさんは、埼玉の都心部から移住してきたのだが、小川町でイベントをやる場所を探しているというのだ。それまでにもジリミリというイベントを主催している彼が、小川町内で自然に囲まれ、人が集まれる場所をさがしているというので、いいとこがありますよ、と私は言い、里山クラブの活動広場にジュンさんを連れて行った。

ジュンさんはすぐにそこを気に入ってくれて、いいでしょいいでしょ、なんて言って帰ろうとした折、土地の主人、佐藤会長と出くわした。ジュンさんにざっと会長を紹介すると、会長は現役時代の旅の話を持ち出し、ジュンさんとの間で旅人同士の話しが盛り上がり、私も横でニヤニヤしていた。そうなのだ。佐藤会長は教師をやっていた現役時代に、世界五大陸の巨峰をことごとく踏破。世界歩きの達人でもあるのだ。

その帰り際、ジュンさんと、あの会長、あそこの広場で毎朝ヨガやってるらしいんですよ、ヤバくないですか、えっ、そうなの、ヤバいよね、ヤバいヤバい、と盛り上がった。ジュンさんは会長にも惹かれたのだろうか、ほどなくして里山クラブに加入を決めたのだった。

小川町の里山クラブが他の里山愛護団体と一味変わっている、と私が感心したのが、里山祭りという毎年11月に行われる会のお祭りで、ステージにPAを持ち出して、メンバーの出し物披露が行われるのだが、その中にバンドの演奏も取り入れていることだった。そういうカルチャーを取り入れていたのが、会の中では「若手」であるカノウさんで、彼はそれでも私よりいくつか歳上なのだが、自身もベースを弾くバンドマンでもある。

彼は私のようなバンドをやってる「若者」が、高齢化しつつあった里山クラブに入ってきて、ホントによかったです、と何度も私に伝えてきた。私は恐縮するばかりだが、逆にカノウさんの存在は、私が、その高齢化したコミュニティに馴染むのにもとても心強かった。

ジュンさんが里山クラブに入ってきて、カノウさんと仲良くなり、「一緒に音楽イベントやりましょう」と盛り上がるまでに時間はかからなかった。そして、今度は2人から私に、イベント実行委員として協力してくれないか、と声がかかったのである。

企画するイベントはキラナ(サンスクリット語で太陽の光の筋という意味の言葉)里山祭り、と題され、里山クラブの主催する里山祭りとは切り離す、という体裁だったが、佐藤会長と里山クラブの聖地を使わせてもらうので、実質小川町里山クラブの後援、といっても過言ではない。カノウさんは会長と会員にイベントの趣旨を説明し、賛同を得る任をこなしてくれた。

声をかけられた私は、一も二もなく請け合ったのだが、少し落ち着いてから、そうか、オレは野外音楽イベントを主催するのか、と改めて思った時、まだ20代後半の頃‪‪──‬私が最初に移住に興味を持ち始めた頃だが、「いつか田舎に移住したら、その移住した先で野外音楽イベントを主催できたらいいだろうなぁ」とそんなことをぼんやり思っていたことをふと思い出した。そして、そのぼんやりした夢はその後、時々思い出したりしては、まだ都心から離れてもいないし、やっぱり無理だよな〜、と引き出しの奥の方に仕舞い込んでいた。そして遂に移住を決めた時には、"田舎に住む"ということだけにとにかく興奮していたためその夢のことは忘れていたのだ。

気がついた時に、何となく以前願っていたことが叶っている。そんなことを40年も生きてきて、幾度か経験してきた。山の見える田舎に移住することだってそうだ。難しいかな、と思えることでも頭の中でイメージするだけでいいのだ。人生は素晴らしい。

それから、私たちは何度かのミーティングを重ねてイベントの骨子を練っていった。はっきり言って、主導してくれたのはジュンさんとカノウさん。私は会議に出て、時々意見を言ったり、いいですね、それでいきましょう、などと相槌を入れたりするばっかり。SNSの宣伝は買って出たが、私がいろいろ動かない間に、ジュンさんの奥さんや、お手伝いさせてと名乗り出てきたシュウちゃん、ヤギちゃんがいろいろ動いてくれて準備は着々と進んでいった。

私は大学生の頃、インディーズのバンドを何組も呼んで学園祭で賑やかなライブイベントを企画したことを思い出した。あの時も、私が作ったサークルの仲間たちが、気づいたら何やかやと動いてくれていた。その時は私も自ら寝る間を惜しんで飛び回ったが、今回は私が飛び回る前にみんなが積極的に動いてくれていた。私はただ主催者の1人です、然としていればよさそうだった。

100人集まれば赤字は免れるだろう、と思って当日を迎えると、概算で150人以上お客さんが集まり、大盛況のお祭りとなった。私が長年温め続けてきたロックバンド赤い疑惑がトリで演奏すると盛り上がりは最高潮だった。

移住して3年、親しくなった人達が、私がステージで豹変してロックスターに変身したことに口を揃えて驚きを示し、目を丸くして、皆、よかったよー、と絶賛してくれ、私は例えようのないほど嬉しかった。自分が20代まで人生をかけて取り組んでいたヘンテコなロックバンドのリーダー、という一面を知ってもらうことができて嬉しかったのだ。一移住者としてマジメに頑張ってるフリをして実はとんでもないロックンローラーだったことを伝えられたのだ。

第一回里山祭りはそのような経緯で偶然のように出現し、気づいたら、もの凄いお祭りでしたね、という定評と、駐車場問題、ご近隣問題という幾許かの課題を残して締め括られた。

当日片付け撤収が終わりお客さんが三々五々散った後、私は打ち上げ会場に向かう前にもう一度駐車場から会場までの「里山」を歩き、ホタルが飛んでいるのを確認した。

移住する前、「里山」という言葉だけを認識した時は「人の手によって管理された山間のこと」、とその文字通りをイメージするしかなかった。初めて里山クラブのその活動広場に足を踏み入れた時も、そこが正に里山の象徴的な場所であることを意識しなかった。ただ、なんて気持ちのいいところだろう、と感じたことだけは覚えている。

そして今、無論ここが、こんな場所が、まさにこういう場所こそが「里山」なんだと確信し、私の里山ライフがこれから楽しく続いていくだろうことを予感した。

山を買った男の物語(後編)

裏山を所有者から買いたい、という腹づもりになった私は、山林相場の聞き取り調査の結果に納得がいかず、もう直接交渉で進めようと腹を決めた。100万、200万、300万という周囲の人間の鑑定はうっちゃって、T婆さんに、50万円までなら出します、と宣言するのはどうだろう、と考えがまとまってきた。向こうは持て余して困ってるのだからそれで話が決まるんじゃないか…。

山林の購入に関して、誰もはっきりとした知識を持っていないようだったが、役場に行ってみたら、というアドバイスを思い出し、私は久しぶりにT婆さんに連絡し、山のことで一緒に役場に行ってもらえないか、と頼んだ。婆さんも売却に前向きなのだろう、すぐに了承してくれ、旦那さんも一緒になって3人で役場に行った。

担当課に行き、山林の売買について質問すると、やはり役場の人たちでも正解を知らないようだった。いやむしろこの手の個人間の取引に正解などないようだ。が、法務局に行けば「公図」というものを発行できて、登記されている土地の大体の地図を取得できるから行ってみるといい、ということを教えてもらった。

私は法務局などという機関に世話になったことがない。どんなところかも知らないが、もしかしたら法務局の人にもアドバイスしてもらえるかも…。私とT老夫妻は日を改めて今度は東松山の法務局まで出向いた。婆さんは固定資産税の納付証明と土地の権利証を持参し、私が車に2人を乗せて。

法務局で手数料を払うと確かに公図という地図を発行してもらえた。普通の地図と似てはいるが、何だか独特なものに見えた。測量された土地じゃないのでこの地図も必ずしも正確なものではないが、大体合っているらしい。私は山の向こう側の境界線がどの辺で隣接地の所有者がどれくらいなのか気になっていたが、その公図を見ると反対側の境界の隣接地は1区画2区画などではなく、幾つもの区画に分かれていた。つまり、もしこの先、隣地との境界を判明させたいなら、複数の地権者に連絡して、もし先方が境目を把握していれば、教えてもらう訳だが、それが何区画もあると思うと気が遠くなった。

法務局では売買についてのアドバイスは大して聞けなかったが、固定資産税の納付書を見て、「まあ、土地の価格が決まってるわけではありませんが1つの目安としてこの評価額を参考にしてもいいと思います」というのだった。土地の価格の判定には複数の目安があって、評価額もその一つだというのは知っていた。

私と婆さんは職員と納付書を覗き込んだ。納付書の評価額欄にはなんと約20万という、想定より大分安い金額が記されている。私が、あれ、予想より安い、50万出しますと早めに言わなくてよかった、20万じゃ安過ぎるよなぁ、と嬉しくなったが隣りでT婆さんは、えっ、と言ったまましばらく絶句して、20万にしかならないの、あの山は!と悲痛な表情になった。私も何だか気まずいような済まないような気持ちになってきた。婆さんは、「あたしゃ、にさんびゃく万くらいはするもんだと思ってたのに…」と肩を落としている。

婆さんはオレがにさんびゃく万くらい出してくれると思っていたのだろうか、そう考えると何だか本当に哀れに思えてきて、例の50万までなら出します宣言は一旦引っ込めた。そして帰りしなに今度は、婆さんがその土地を先代から相続した時に世話になったという司法書士事務所にも行ってみた。司法書士事務所の担当もやはり、「そうですね、この評価額を1つの目安になるでしょうね」と言っている。T婆さんはダメ押しを受けてやはり哀切を深めている様子である。

「もし、双方で納得できる売買金額が決まったら、こちらで権利書の書き換えをしますから。」
その際、手数料はいくらいくらで、Tさんの必要書類は何々、私は印鑑だけでいい、というようなことを司法書士は付け加えて言った。

私は老夫妻をご自宅に送り届け、ちょっとお茶でも、と言われたのでT夫妻宅にお邪魔した。南向きの庭に面した応接間は片付いていて、お2人の趣味などがまったく想像できないような、特に何も飾り気のない部屋だった。

まあ、どうぞ、と言われて急須から注がれたお茶はほんのり薄緑色に色づく程度で、私は、アレっ、と思った。飲んでみると、ほぼ白湯に近く、茶の味はしなかった。婆さんが、
「それで、どうですか、オタクいくら出してくれるのかね?」
あまりに単刀直入だが、もうお互い、売買を成立させるためにこうして動いているのだ。
「そーですね…。…あの、40万でいかがでしょうか?」
私は評価額が20万だと判明したことを受け、予定の50万から10万ケチって、婆さんの様子を伺った。20万でも30万でもなく40万と評価額の倍額を張ったのは、私の婆さんに対する気持ちだった。20万と聞いて落胆していた婆さんがどうも哀れだった。
「40万円?…ねえ、100万円出してくんないかね?ねェ?」
婆さんは私の眼をジッと覗き込んで懇願するような感じなのだ。私は動揺した。まさか、そんな具体的な、しかも評価額よりうんと高い金額を提示されるとは思ってなかった。
「あ、いや、あー、そうですね…、…でも40万までしか出せないです」
私は、私の気持ちが20万乗っていることに婆さんは特別何も感じていないだろうか、と心配になった。
「ねえ、そう言わないでさァ、100万出してくれないかね?」
婆さんの悲哀の表情に私の心が揺さぶられる。婆さんも爺さんも恐らく80代後半くらいに見える。この先長くないのかもしれない…。いや、でも、40万という金額は悪い提案じゃないんじゃないか、ここでブレてはダメだぞ、と勇気を出した。
「ごめんなさい。…40万までしか出せません。」
なるべくきっぱりお伝えしたつもりだった。
「ダメかねェ、ねェ?」
畳み掛ける婆さんに
「ばあさん、もうよせよ、困っているよ、20万円の価値ってことなんだ。それに結論を急がなくてもいいじゃないか」
横で苦々しい表情で傍観していた爺さんが口を挟んだ。というか私にとっては有難い助け舟であった。

結局、結論は今日分かったことや私とのやり取りを、家を出て都心に住んでいる倅さんと共有して決める、ということに落ち着いた。私は、この田舎を捨てて出て行った息子さんが、あのボウボウの竹藪を欲しがるとは思えなかったが、万が一売るのはもったいない、などと言い出したらどうしよう、と少し不安になった。

数日後、早速倅さんから電話があり、母から話しを聞いたが、長尾さんが折角欲しいと言ってくださっているのだから私はお譲りしたいつもりでおります、という内容で私を安心させた。が、勤務先の不動産部署に一応あの場所がどれくらいの価値なのか、本当に20万程度なのかどうか確認してみますので、少しお待ちください、とのことだった。倅さんは大手の会社に勤めていて、社内に不動産関係の部署があるようだったが、結局更に数日後、「調べてもらいましたがせいぜい30万くらいでしょうとの返事でしたので、長尾さんご提案の40万でお売りしたいと思います」という電話があった。私は小躍りした。

後日また倅さん同席の下、Tさん宅に私が赴いた。倅さんと挨拶を交わすと、「長尾さんはあの山、どうされるおつもりなんですか、単純に知りたいのですが?」と倅さんが不思議そうに私を見た。確かに今時分、山林を買いたい、などという発想は理解不能かもしれない、田舎を離れ都心部に移った人には余計。
「私はあの山を管理したいのです。竹を間伐して、うまくいけば広葉樹を植えて雑木の森のようにできたらと思っていて…」
倅さんは非常に感心した眼差しで私を見て、そうですか、と納得して、どこか嬉しそうですらあった。

後日40万円を振り込んで、確認してもらった後、また例の司法書士事務所に同行して権利書の書き換えをしてもらう手筈をとった。息子さんと話し合って売買が成立してしまってからは、婆さんの、あの鬼気迫る哀願のムードは霧消していて、私は気持ちよく取引ができてとても安心していた。そして、婆さんが子どもに幾らかでも多く財産を残したかったのだろう気持ちを想像もした。まさか、自分の今後の暮らしの羽振りを考えてあのように訴えたとは思えなかったからだ。

数日後、権利書の書き換えが済んだから取りに来て、と司法書士から連絡が入った。車に乗る前に古屋の真裏に迫る竹藪の山を眺め、ついにこれが私の所有になったのだ、とこの山の未来の表情を想像し、よし、と独りごちて車に乗り込むのだった。(完)

山を買った男の物語(中編)

裏山の持ち主T婆さんと直接挨拶してから、私の生活は慌ただしかった。植木屋の見習いとしての勤務日数は、荒天を除いて基本的に週6日というのが、その他の土木建設業の職人などの勤務形態と同様であるらしく、毎日額に汗して働かねばならなかった。そんな状況でしばらく裏山売買に関して、何か行動を起こしたり、思案する余裕もなく、楽しいながらも私たちの田舎暮らしは怒濤の如く過ぎていった。

そして移住生活が始まり半年ほど経った頃、突如として軽トラキッチンカーを自作する、という計画が持ち上がり、その約半年後に大体できてしまった。ホントにできるのか半信半疑のまま素人DIY作業を続けたら何とかカタチになって、7月から実際にキッチンカーの営業が始まってしまった。ただ、キッチンカーの製作と開業の過程でテンパってしまい、私は一度植木屋の仕事を離れねばならず、キッチンカー営業が回り始めてしばらくは、収入の当てがおぼつかず、なるべくならやりたくなかった登録制の日雇労働や、日本酒造り、知的障害者のお泊り介助、などいろんなバイトをして糊口をしのがなければならなかった。そして紆余曲折の末、複数の仕事を兼任するのは止して、また縁があって植木屋に戻ることができた。

そんな忙しく慌ただしい日々の中、2021年末、東京で単身暮らしていた父が死んだ。長男である私は告別式の喪主を担わねばならず、それから1ヶ月ほど混沌の日々を送った。告別式が終わると、残された姉と2人、父が暮らしていた(私と姉が育った)実家のマンションを引き払う判断を下し、それからは週に1度くらいの頻度で移住先から上京しては、実家の片づけに没頭する、という生活が続いた。

新たに世話してくれることになった植木屋の親方とは、「週に3日」という約束で働き始めたので、それ以外の日はキッチンカー(これはピーさんの仕事なのだ)の手伝いと実家の片付けに当てられた。片付けと同時に姉と連携しながら、父の遺産相続の処理も進めており、加えて父が兄弟間で抱えていた祖母の遺産相続の諍いにも巻き込まれることとなり、やはり常にバタバタしていた。

とはいえ、裏山の竹や篠竹の間伐に関してはTさんの承諾も得たので、ポッと時間が空いた時にチョコチョコと始めていった。竹にしても、篠竹にしてもほったらかしておくと、枯れたものも倒れることができないほど密になってきて、薄暗く不健康な不穏な感じになっている。そこへ、植木屋仕事で身体に馴染み始めた剪定鋏や手鋸を武器に突入し、藪をひたすら切り開く。

大変な作業だが、頑張っていると少しずつでも景色が変わってくる。ごちゃごちゃしたところを少し手入れしただけで格段に清々しい見た目となり、同時に心も澄んでいく。何なのだろうこの感じは…。部屋を綺麗に掃除すると心が清められるのと同じ原理だが、自然相手の野良仕事となると、そこに太陽や植物や風の癒し効果が相乗してくる。時間を忘れて作業に没頭してしまい、残った疲労感には何故か清々しさが付随している。

移住してからほどなく、私は野菜作りにも手を出していた。家の前の庭と、お隣の地主さんに貸してもらった畑と2箇所で適当に野菜を育て始めた。庭の方は裏山の竹藪のせいで、朝、陽が当たり始めるのが2時間ほど遅かった。それが不満で、私はまず、朝庭に射す太陽を遮っている竹に狙いを定めて切る。庭に接した公道側から庭の向こう側、竹藪の天辺を睨む。あの竹とあの竹と、と当たりをつけて目で追いながら山に入り竹を切る。植木屋で覚えたチェーンソーが唸りをあげて孟宗竹のぶっとい幹を断つ。太くても中は空洞なのでノコギリでも実は簡単に伐れる。

伐ったらまたさっきの道路側に回って藪の天辺を見ると、あらすっきり、さっき天の一部を遮っていた竹の頭がなくなり景色が微妙に変わっている。初めてこの作業をした時の感動は忘れられない。私が、私の手で、ここから見える景色を変化させたのだ!

この経験がきっかけで、私は裏山を自分のものにできたらどんなだろう、と妄想し始めた。また例えば、私は移住して間も無く里山クラブという、山好きおじさん達の激渋サークルに入会したこともあって、「山の管理」という概念が同じ時期に脳内を去来していた。また例えば、植木屋で新しく世話になっているセキネの親方は「誰かオレに山1つくれねえかな、くれたらオレが管理してやるけどなァ」などと嘯いているのを私は「いいですね〜」と聞き流していたが、そんなことやあんなことが、「山は管理するものなのか…」という今まで知らなかった事実に私を惹きつけていくのだった。タケノコも獲れるし、何だか静謐な雰囲気の竹藪に惹かれつつあった妻のピーさんもふとした時に「裏山買えないのかなぁ」などと言い出した。私の心が動揺し始める。

しかも、父の遺産相続で、10年以上の労苦を覚悟の上で決めたローンが完済できてしまった。金額次第じゃ実際に山林を購入するのも夢じゃなさそうな感じがしてきた。

T婆さんは山を、売れるモノなら売りたいと思っている。一方、田舎暮らしに目覚めた私はその山を、買えるモノなら買いたいと思っている。問題は素人同士の売買取引である。どうやって金額を決める?

ヒーさんが買った家は山付きで500万…。しかもその山も広大な面積だったはず。ウチの裏山は確か4200平米(T婆さんが固定資産税の払い込み用紙を見せてくれた時があった)…。まず100万を越えることはないだろう…。

私はこの町で知り合った不動産屋の社長のMさんに相談に行った。Mさんは、普通の不動産屋は山林は扱わないからはっきり言えないけど、と前置きして、ツボ1,000円くらいかなぁ、と曖昧に結論した。それで計算すると130万くらいである。そうですかぁ、と納得するふりをしながらも、私は腹の底で、いや、もっと安いはずだ、と心を燃やした。

また近所のNさん(私が越してきた年の隣組の班長で、ぶっきらぼうな地元民が多い中では話しやすいタイプの方だ)とそんな話しをしてたら、私も山を持ってるけど、管理が大変でほったらかしだ、という。Nさんが指差した山林は私の裏山の何区画か先のあたりで、地価もそんなに変わらなさそうにみえる。Nさんに、「あの、私の家の裏の山だと幾らくらいですかね…」と聞くと「さあねぇ、200〜300万くらい?」という。いやいや、それじゃ高すぎる。私はまた「そんなもんですかねぇ…」と相槌を打ちながら、そんなはずはない、そんなはずはない、と己れを鼓舞するような気概がみなぎってくるのを感じるのだった。(つづく)

山を買った男の物語(前編)

その段丘に立って空を見上げると、竹の葉がぐるりと天を遮って、ほとんど何も見えないが、風が吹くとその葉達がしなやかに揺れてカサカサと音を立てるのが新鮮で大きく息を吸った。そして強い風が吹くと今度は、どうも密に生えすぎた竹の幹同士が触れ合ってコンコンと抜けるような音を立てた。何だか神聖な気分になった。

私が購入した、あのボロい中古家の裏山に初めて入った時、私とピーさんは興奮にかられ、鼻息を荒くした。家の東側に覆いかぶさるように鬱蒼と茂る竹藪を、担当の不動産屋さんは
「持ち主の方は小川に住むお婆さんで、お年を召していらっしゃるからあんまり来られないみたいで…」
と説明した。
「もし屋根にかかって困るようだったら切っちゃっていいですよ」
とも付け足した。

私たちはすぐにタケノコ? ということに思い至り、不動産屋さんに聞くと、
「採れるみたいです。持ち主のご親戚がシーズンに、その時だけいらっしゃるようです。」
と教えてくれた。胸を熱くする我々に、
「少しくらいなら採ってもいいと思いますよ。ホッとくとすぐに大きくなって始末に悪いですから」
と笑うのだった。

まさか家のすぐ裏の山でタケノコを掘れるとは、私は改めていい田舎家を買ったものだ、と悦にいった。

家を買ったタケノコシーズンは、まだピーさんが山形に里帰り出産で帰省しており、私は新居のリフォームを、東京から通ってこなしている最中だった。ある日、手伝いに来てくれていた友人2人と裏山に上がるとヒョコヒョコとタケノコが生えていた。私たちは納屋に放置されていた剣スコで次から次へとタケノコを掘り出した。初めは要領が掴めないが、何度もやってるうちに根元までうまく掘れるようになった。タケノコドリームは掌の中だった。

それから間もなく、我が家の前に車が止まった。老夫妻が降りてきて裏山に入ろうとしていた。私は本能的に、あの、すいません、と少し大きな声を出して駆け寄った。ここ(中古家)を最近買ったものですが、と挨拶し、
「持ち主のご親戚の…?」
と聞いてみると果たして持ち主の弟さんであった。タケノコを掘りにきたのだ。

ご夫妻も、誰かこの空き家に人が入った、と知っていたようだった。一通り挨拶を済ませるとご婦人は私と旦那さんが話している最中、アタシは興味ないわ、と言わんばかりにキリをつけて1人で裏山に入っていった。旦那さんは話好きなのか、小川で育った自分の出自と、若い頃はヤクザの使いっ走りやったりナ、などの武勇伝を混ぜながらずっとしゃべっていた。

私がタイミングを見計らって、
「実は私もいくらかタケノコを掘らせていただいたのですが…」
と恐る恐る聞くと、旦那さんは笑って
「なーに、沢山あるんだから大丈夫だよ。」
と気に留めないようだった。
それから、
「持ち主の方に一度ご挨拶させていただきたいのですが」
と相談を持ちかけた。私は旦那さんのお姉さん、つまり持ち主のお婆さんの連絡先を教えてもらい、その日はそれで終わった。

私が裏山の持ち主にお会いしたいと思ったのは、不動産屋さんが指摘していた通り、裏山から鬱蒼と生えている竹をある程度間引きしたいと思っていたからだった。不動産屋さんは勝手に伐っていいと言っていたが、一応持ち主と顔が通っていた方が竹を間伐するのだって後ろめたくないだろう。

そして急ぐでもなく何となく、聞いておいた連絡先に電話してみた。持ち主の方が出てくれて、アラ、こちらからもご挨拶に行ければよかったのだけど、アタシは足が悪くてもうあんまり動けなくて、と言った。しかし、私の方から連絡が来たので喜んでいるようでもあり、
「一度私たちの方からご挨拶に行きます」
と私の家まで来てくれるようなことを言った。足が悪いのに大丈夫かしら、と心配したが、おじいさんが車で動いてくれるようだった。お言葉に甘えて私は面会の日時を約束した。

後日お会いしたTさんご夫妻は、確かにもう山の管理などとてもできないだろう、というようなご老人たちであった。旦那さんは身長が低く、青いベースボールキャップを被っているのが意外な感じで、正直で誠実そうな、人の良さそうなのが表情に溢れ出ている。持ち主であるお婆さんは、膝が悪いのだろうか、確かに歩くのが大変そうであった。
管理も何もできなくてごめんなさいね、というお婆さんに
「もし私でよければ空いてる時間に間伐とかやりますよ」
と言ってみた。
「アラぁ、そう?ワルいわねぇ、、、。こんな山誰も欲しがらないもんね、、、。」
私は反射的に
「あの、興味なくはないですよ、、、」
この瞬間私は裏山を持つ、ということを意識し始めた。この裏山を自由にいじっていいならそれはそれでかなり充実度の高いライフワークができるのではないか、という計算が頭の中で瞬時に行われた。
「あら、この山買ってもいいと思ってるの?ホントに?」
お婆さんは、まさかこんな竹藪の山に興味を持つ人がいるのか、と驚いている様子だが、嬉しそうである。脈はあるな、と私は思った。
「でも、ハァ、山を売り買いするって言ってもアタシは何も分からないから…。あなたそういうこと分かるの?相場だとか?」
お婆さんは畳み掛けてくるので私は少したじろいだ。もちろん、山の金額や相場など知り得るはずもない。だけどヒーさんに聞いたり、役場とか不動産屋に相談したら何か分かるかもしれない。
「確実なことは言えないですけど、こちらでもいろいろ調べてみます」
話しはそこで終わってT夫妻とは別れた。

ヒーさん、というのは私が小川町に移住するより前に東京から小川町に移住したミュージシャンの知り合いで、彼は養蚕小屋だった古屋を500万で買い取って床板から気合いのリフォームをして、ユートピアのような住居を小川町の外れの山間の地に作ったのだ。私とピーさん(紛らわしいのだが、ヒーとピーの違いで、私の妻のことである)は、彼の家に遊び来たことをきっかけに小川町に興味を持ち、追いかけるように移り住んできたのだ。

それで、ヒーさんはその家を500万で購入したのだが、買ったら山が2つついてきた、と笑って言うのだった。田舎のことをあまり知らなかった私はそれを聞いて魂消た。ヒーさんの説明によると、山林は管理が大変で今はやる人がいないから二足三文で売られているのだそうだ。後で知ったことだが、山がつくと安くなる物件なんかもあるそうだった。

私がT婆さんに、こんな山誰も、と言った時に反射的に、興味なくないです、と返したのにはそういう根拠があったのだ。500万で土地と建物に山2つ、と考えると、確かに山林は二束三文、100万は越えないだろう、という推測が立っていたのである…。

山を買う、なんて大それたことを、私は移住してくるまでまさか考えたことはなかった。20代の頃に何となく山の緑の魅力に捉われ、30代で田舎暮らしへの憧れが高まっていた。とはいえ40代で移住して脱サラして、植木屋に転身し、まさか山を買う構想を練るようになるとはつゆも考えなかった。私は田舎暮らしの無限のポテンシャルに興奮し続けていた。(つづく)
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