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バンドマンに憧れて 第1話 光GENJI、爆風スランプ、たま

 バンドマンというのは私の夢だった。ロックンローラーでもいい。とにかくバンドを組んでロックを演奏して人気者になって生きていく。きっと、そういう人生を私は歩むのだ、と意気込んだのがその旅路の始まりだった。

 私がバンド的なものに初めて触れたのは小学校中学年から高学年にかけての時期だった。爆風スランプという人気バンドの「ランナー」という曲にハマったのが最初だったと思う。小学校の登下校を共にしていたワキ君が「ランナー」をソラで歌い出した。私はその歌詞とメロディーにとても惹かれた。「走る走るオレたち 流れる汗もそのままに いつか辿り着いたら 君に打ち明けられるだろう」。何で「オレたち」は走るんだろう、何を「君に打ち明けられる」のだろう、と考え出したら何かワクワクした。ロック(当時はロックという意識もないが)の歌詞を聞いてひとり想像に耽る、ということを初めて体験した訳だ。

 「流れる汗もそのまま」にして拭かずに走るのだ、そしてきっと大変な苦労をして何処かに辿り着いたら「君」がいて、何かを打ち明けるのだ、と思うとやはりワクワクしてくる。私はそのメロディーの虜になってしまい、ワキ君にその歌の正体について迫った。そして爆風スランプというバンドだということを知った。

 恐らくその年の年末だったと思うが、紅白歌合戦に爆風スランプが出るということだった。興奮して見たそのバンドのボーカリストは、丸坊主にサングラスの、ちょっとB級な風貌で驚いた。とはいえ「ランナー」はよかった。これがロックか、これがバンドか、と私は知ったのだった。ボーカルがいてギター、ベースにドラムだ。

 私が爆風スランプを知ってから、歌謡曲、特にバンドものには注意を払っていたが、その中で、次に強く私の心をとらえたのはJUN SKY WALKER(S)(以下ジュンスカ)というバンドだった。

 ジュンスカは爆風スランプよりかっこいいと思った。それは、後々私が大きな影響を受ける「パンク」っぽさであったのかもしれないし、「仲間でやってる感」だったかもしれない。とにかく私はジュンスカの大ファンになった。

 ジュンスカの歌詞の中には反抗的なものが多少あったが、それよりも彼らの唄には私がその後10年も20年も悩まされることになった「夢」だとか「希望」だとかいう言葉が溢れていた。「夢」や「希望」を持っていればどうにかなるという、短絡的でポジティブな暗示にすっかり洗脳されたのだ。バブル期で余裕があった当時、個性が大切、という価値観がやたらと喧伝されていたと思う。自分らしさを追求するのが是とされるようなところがあった(ブルーハーツは「個性的であればあるほど実際は抑えつけられる」と鋭い世相批判をしているが)。だから私は「夢」や「希望」という輝かしい言葉に大きな期待を寄せた。そしてジュンスカの曲をそういう気持ちで口ずさむようになっていたのだ。

 ところが、ジュンスカの後に出会ったたまというバンドの衝撃は、ジュンスカの衝撃以上のものだった。「夢」とか「希望」などという明快で直球なフレーズとは異なり、もっと摩訶不思議で奇妙で、見てはいけないものを覗いてしまった、そんなような妖しい詩や表現がてんこ盛りだった。そしてたまは、それらの表現を、子供でも反応できるような美しく親しみやすいメロディーで飾った。

 たまの最大のヒット曲となった「さよなら人類」を初めて聞いたのはTVのCMだった。私はすぐにその曲に釘付けになった。CMだから15秒しか聞けない。だけどその15秒からその曲の全貌を想像した。もっと聞きたくなって仕方がなくなった。

 その頃私達の文化的選択肢の中に、レンタルCD屋さんでCDを借りて空のテープにコピーするという手段があった。そういう店が流行っていたと思う。CDは3000円くらいだったから、レンタル屋で300円ほどで借り、空のテープにダビングして私家版とする。そんなしのぎがかなり普及していた時代だった。だから私は初めてレンタル屋でCDを借りる、ということを、周りの男子にバカにされながら実行した。何故か私の通った小学校では男子が歌謡曲に興じることが女々しいことだとされ、蔑まれた。私は周りに流されないタイプだったので無視していた。

 「さよなら人類」を収録したその「さんだる」というアルバムを私は何度も何度も聞いた。そして私の中のビートルズである彼らの芳醇なメロディーとコーラスのハーモニーに痺れていた。それは今思い出してもかなり衝撃的な体験だったと思う。それくらいたまの歌詞は強烈な視覚的、時間的イメージを喚起させるキーワードで溢れていた。だからシラフであんなにトベたんだ。

 たまにハマってしまったある年の正月、親戚の集まりで、とある叔母から「はるちゃんはたまが好きなんだってぇ?おかしな子ねぇ。」と突然からかわれた。今思えばたわいもない叔母の冗談だったと分かっているが、小学生だった当時の私にはそれがひどく侮蔑的な挨拶に思えて、私はその頃からしばらく親戚不信に陥った。

 私の母方の親戚はやや富裕な家系だったので脇道にそれるようなタイプの従兄弟は1人もいなかった。だから当時売れていたとはいえアウトローな視線を世間から受けていた「たま」に興じる長尾家の長男は変わっている、と思われ始めたのだ。その時まで気づかなかったが、いくらロックがビジネスとして世の中に存在してはいても、子供がバンドをやり出す、ということが今よりもずっと保守的に敬遠されていて、私はその時そういうバンドマンに対する差別視を初めて知ったのだ。

 実際それ以降、私がバンドをやりロックにハマっていくのを母方の親戚はややバカにするような感じで見ていた。私にはそれが腹立たしかった。自分が夢中になっているものが小バカにされているような感覚だ。からかっていた親戚に悪気などなかったが子供は敏感なのだ。私はそれ以来、親戚の前では冷静さを保とう努めたが、腹では、いつか見てろよ、と静かな拳を握りしめていた。 

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自己責任論は何を解決するのか?

邦人人質事件の解決が暗礁に乗り上げてしまっているが、自己責任論とは一体何なんだろうか? 自己責任という言葉を弄して、政府が国民を助けなくてもよいかのようなメディア戦略が行われているのだろうか? 戦略でも何でもなく、多くの日本人が実際そういう薄情な言論を、反射的に受け入れ許容しているだけなのだろうか?

その「自己責任」という言葉がことさらに使われだした(と思われる)のはイラク戦争の際の、香田証生さんが人質に取られた事件からではなかったか。当時オレはフリーターとして社会にデビューしたばかりで、あまり世の中のことがよく分かっていなかったし、今のように社会や政治のことに関してあまり関心を持っていなかった。911の事件に大きな衝撃を受けはしたが、頑張っても世の中変わんないでしょ、というシニカルで乏しい視点しか持ち得ていなかったのだ。

しかし、香田さんが人質に取られた事件には特別な関心を引きつけられた。オレは少なくとも香田さんに何かしらのシンパシーを感じたからだった。

オレは大学生の休みを利用して何度か海外旅行に行った。バックパッカーに憧れて東南アジアやヨーロッパを貧乏旅行で回り、カルチャーショックの興奮と「一人旅」の旅情と冒険心、探究心などを存分に味わっていた。叶わなかったが、フリーターを続けながらでも金を貯めつつ足繁く海外に行ってみようとも思っていた。

だから、香田さんが周りが「危険だから」と止めたのにも関わらず、危険な紛争地域に乗り込んで行ったということに関して少なからず同情するところがあったのだ。若いうちは危険を冒してでも冒険したいもの、逆に危険を冒してでも行くんだよ、という若気の至りに対して同情せざるを得ない気持ちだったのだ。

ところが事件の報道から伝わってくる世の中の反応は恐ろしいほど冷酷だった。最終的には香田さんの家族までが槍玉に挙げられて責められ、香田さんのお母さんは、息子が皆さんにご迷惑をおかけして、というようなことを謝罪しなければいけないほどになっていた。そして小泉首相はアメリカ追従の意志を示すパフォーマンスで自衛隊派遣を中断せず続行し、香田さんは帰らぬ人となった。

今回後藤さん、湯川さんがISISの人質となった事件に関して、またぞろ「自己責任論」が大きな顔をしてくるようになって、10年前の香田さんのことを思い出していた。何しろ当時社会のことに疎いボンクラだったオレが、香田さんの事件にショックを受けて、当時駆け出しだった赤い疑惑のライブMCで、その時不用意に声高に叫ばれた自己責任というレッテル貼りの違和感について、何かしら意見表明をしたことを覚えていたからだ。そして、そんなことを思い出しながら気付いたことがあった。

その頃ライブで演奏していた赤い疑惑の初期の曲で、「何度だって立ち上がってやるぜ」という、レパートリーの中でも比較的アッパーで人気のある曲がある。その歌詞の中に「No.1にならなくてもいい かといって特別なオンリーワンになる必要など そう あるがままに」というラインがある。それは2003年にリリースされて大ヒットしたスマップの「世界にひとつだけの花」という曲の一部を引用してパロったものだ。

何故その曲をパロったかというと、原曲の「No.1にならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」という「みんな違ってみんないい」的な価値観を敷衍した、やや宗教じみた歌詞に、また、それを超国民的アイドルに歌わせているという意図とに、かなり不気味なモノを感じたからだった。それを茶化すために、特別なオンリーワンになる必要もないよ、と歌ってみたのだった。

そんなことをよくよく思い出してみると、何かおかしい、ということに改めて気付いた。何しろスマップのその曲が流行ったのとイラク戦争はほぼ同時期なのだ。だからあのスマップの曲を快く受け入れていた多くの日本国民の間では、ある程度「みんな違ってみんないい」的な価値観を共有しているはずだったのに、蓋を開けてみたら何でもかんでも自己責任と言って片付けてしまう。これは、ブルーハーツの「どこかの偉い人 テレビでしゃべってる <今の若い人には個性がなさすぎる> 僕らはそれを見て 一堂大笑い 個性があればあるで 押さえつける癖に」という歌詞が指摘してる日本人の特徴と同じ悪しき習慣ではないか?

「世界にひとつだけの花」のヒットと香田さんの事件には、さも自由でさも新進的な価値観をナショナリスティックなアイドル(当時のスマップ。今ならEXILEやAKBか?)に一方で歌わせておきながら、一方では残酷で惨たらしい自己責任論で面倒なものを突き放す、という国民の矛盾と暴力が潜んでいた気がしてならない。そして、その矛盾にまったく自覚的でない人が如何に多いのだろうということを、今回の人質事件にまつわる自己責任論にも感じざるを得ない。

ところでオレは、そうかと言って日本人に絶望してるかというとそういうわけでも無い。何しろ自己責任論はメディアが煽動して広めてる印象があり、例えば身近な友人などで自己責任論を展開するヤツは少なく、みんなが冷酷非道の徒になってしまったわけではないことははっきりしているからだ。だが、実際「あれは自己責任だな」などと切り捨てた生の声も聞いたし、オレの知らないところではかなりの数で自己責任論が躍動してるに違いない。でも自己責任だなんて突き放して問題を片付けようなんて考え方は百害あって一利なしだ。臭いモノには蓋をしてしまう日本の政治と同じである。

今言われてる自己責任とは、自業自得だよ、と突き放すようなニュアンスが多分に含まれていて気味が悪い。自殺をしても自己責任。生活保護もらえなくても自己責任。何か辛い目にあっても世間は自己責任といって突き放してくるのだろうか?原発が爆発して避難してる地元の自治体の人達に対して、お金をもらって原発を受け入れたのだから自己責任でしょうと突き放せるのか?

政府は全ての国民の生命に関して等しく保障していかなければならないはずだが、それは非常に困難であることも周知の事実である。でもそれを国民は常に国に求めていなければいけないのだと思う。そうじゃないとどんどん生命は粗末にされていく。震災の被災者だってしっかりしたケアがなされている様子ではない。何かが起こった時に世間が自主的に自己責任的な論壇を張って国民同士で叩き合いをやってくれていれば政府は責任逃れできるので思う壺だろう。あの腐敗した政府とやり合っていくなら国民同士のそんな貶めあいは時間の無駄でしょう。

批判しなければならないのはどうしてISISがあんなことをするようになったかの根本をちゃんと考えずに、英米に擦り寄るポーズを取ってISISを軽率に挑発してしまった安倍首相ではないか? 後藤さん、湯川さんの件は自己責任だから、と言い合ったところでは残念ながら中東問題も中東と米国、日本の国際関係も改善する訳じゃないのだから。

命名、赤い疑惑!

 赤い疑惑というバンド名は共産主義の「赤」から来てるいるのだと思ってました。そんなことを最近言われることがあるが、共産主義的意味合いを結成時に意識したことはなかった。
 赤い疑惑を結成したのは大学を卒業して、それまでガッツポーズという名前のくだらないハードコアパンクバンドをやっていた松田クラッチと、ガッツポーズを解体して改めて、新たにバンドをやろう、と息巻いていた時期だ。ガッツポーズの他のメンバーはバンド活動は辞してまともに就職していった。
 オレがギター、クラッチがベース、ドラマーは何人か変遷した後、当時大学を留年して暇そうにしていたブレーキーに半ば無理矢理メンバーになってもらった。日本語のバンド名にしたいという強い拘りがあり、日本語のバンド名を毎日考えていた。日本語のバンド名に拘ったのは90年代に僕が注目していた日本のインディーズ・シーンにおいて、特に信念もなく英語のバンド名を用い、歌詞までも英語で歌うバンドが多かったからだ。日本人ならせめて日本語で歌えよ、と思っていたし、バンド名も日本語の方が面白いと思っていたのだ。
 バンド名をどうするか、という問題はバンドマン達にとっては非常に大事な意思決定であり、その後のやる気やテンションに大きな影響を与え兼ねない重要性を秘め、さらには当バンドそもそものセンスを試されるものであるのであり、妥協は許されないものなのだ。バンド名がかっこよければ実際の音もかっこよく、バンド名がダサければ実際の音もダサい場合が多い。
 日本語のバンド名でかっこいい名前…。当時オレ達はみんな暇があり、しょっちゅうオレの住処に集まっては音楽を聞いたり酒を飲んだり、ダラダラと時間を無為に過ごすなんてことをしていたのだが、ある日ノリで買った日本酒の名前が天狗舞という名前だった。酒を囲みながらじっとそのラベルを見ていたら何だかバンド名に相応しいような気がし始めて「天狗舞はどうかな?」とクラッチに提案した。すると、おっいいね、という反応。オレはクラッチのセンスを信用しているのでバンド名は天狗舞に決定。
 ところがどういう経緯か判然と思い出せぬが「舞」は余計じゃないか、ということになりバンド名は「天狗」に改められた。その名前で何度かライブをこなしたことは覚えているが、それでもこのバンド名で完璧、という確信を持っていなかった。
 それでまたとある別の日。当時、蟄居していた西荻のアパートはケーブルテレビが備え付けで視聴できたのだが、その中でファミリー劇場という、昭和の古いテレビドラマやバラエティやらを永遠垂れ流しているチャンネルがあり、懐古趣味のオレはそのチャンネルがお気に入りであった。そして付けっ放しのテレビにふと映し出された「赤い疑惑」のおどろおどろしい文字。山口百恵主演の人気シリーズ赤いシリーズの中でも人気の高かった作品のタイトルコールである。ドラマの内容などはさておき、毛筆体で文字通り赤い字体。当時まだ入れ込んでいたハードコアパンクというアンダーグラウンドな音楽の影響を想起させるドロっとしたニュアンスと言葉自体の響きに何か惹かれるものがあった。
 早速また松田クラッチに新たなバンド名候補を報告すると即座に快諾され、「天狗」は「赤い疑惑」となった。赤い疑惑というバンド名になってからもオレは迷った。このバンド名で、やたらとストイックで禁欲的なパンクをやっていたら、アングラなお堅いイメージで人が寄り付かなくなるのではないかと思っていたのと、オレの音楽の嗜好がハードコアからヒップホップ、レゲエ、ワールドミュージック、というように変遷していった時期でもあり、ハードコアっぽいニュアンスがそこまで必要なのかよくわからなくなっていたからだ。
 しかし「赤い疑惑」という、要するに「疑惑」という抽象的な名詞に「赤い」という具体的な形容詞を当てがう言葉の綾に対する魅力と、言葉自体のヒビキのよさは捨て難かったので、赤い疑惑の中身を精錬していこうと考えたのだ。中身次第でバンド名に対するイメージも変化していくものだと何となしに確信していたからだ。具体的には、ハードコアっぽい厳つい名前なのに、どこかファニーだったりユニークだったりするバンドのキャラを創り出して、「赤い疑惑」というバンド名でお客さんが抱くイメージをどんどん変質させてしまえ、と思うようになり、また、そうしたユーモア性はガッツポーズというバンドでも発揮していた自分たちの持ち味でもあったので難解なことではないと思ったのだ。
 そういう経緯も手伝ってオレはアクセル長尾になり、ベースは松田クラッチ、ドラムは沓沢ブレーキーになった。こんなふざけた愛称をつけてしまえば、赤い疑惑という言葉が引きずる厳ついドロドロしたイメージを払拭できるに違いないと考えたのだ。また、南アフリカのゴスペルバンドがステージに上がる時にやるハモりながらの練り歩きの入場シーンや、当時非常に影響を受けていた漁港という浦安のハードコア魚バンドの入場シーンに触発された、チャントと合唱による赤い疑惑の入場パフォーマンスも、そのように「赤い疑惑」というバンド名にまつわる第三者からのイメージを混乱させるための機能を果たした。
 ファーストアルバムの「東京フリーターブリーダー」ではロックバンドでは当時あり得なかったようなラップに挑戦し、トモダチにグラフィティ風の赤い疑惑ロゴを作ってもらったりして更にバンドとバンド名の謎めいた存在感を創り出そうとしたのだ。そして、ラッパーが自分の名前をリリックの中にぶち込むように、我々も曲の中にアクセル、クラッチ、ブレーキーなるそれぞれの名前や、「赤い疑惑が只今参上!」などというようにバンド名を積極的に歌詞に盛り込んで聴衆を撹乱することに力を入れた。定着してからは「お囃子」と称することとなった入場の練り歩きでもフリースタイルで口上しながら、無闇矢鱈と「赤い疑惑」を連呼するようになった。それは結果的にフリースタイルのスキルの拙さを誤魔化すこともできたし、初見のお客さんにも異様に面白がられるので、現在でも続けられている我々の最大の武器となったのだった。そうこうしているウチにメンバーの中でのバンド名「赤い疑惑」に対する親愛の情も深まり、オレのバンド名に対する葛藤もいつの間にか解消されたのである。

 そういう訳だから赤い疑惑の「赤」が共産主義的な「赤」ではないか、というのは邪推なのだ、と言いたいところだったが、先述の「東京フリーターブリーダー」が一級の労働歌として評価されたり、その流れでサウンドデモのデモトラックの上で演奏する機会をもらったり、また、オレがワールドミュージックの中でもレベル(反抗の)ミュージックと括られるような音楽にことさらに惹かれたりするようになるに従い、共産的、左翼的な赤という文字が入っている疑惑は、後付けにしてもなかなか面白い偶然だと思うようになった。そもそもパンクもヒップホップもレゲエもその音楽の成り立ちに「反抗的な姿勢」があることは否定のしようがなく、そう考えてみると赤い疑惑の赤は何ですか、と聞かれたらまあ、いろんな意味の赤ですと言ってしまえばいいし、それでポリティカルなこと歌ってるバンドね、と思われても一向に差し支えはない。
 それにしてもよくもまあ、著作権のことなど気にせずに、古いとはいえ人気ドラマのタイトルなんかを拝借したものだと思う。命名当時は著作権云々など気にしてもいなかったが、段々と世間を知るようになると著作権やJASRACの恐ろしさはバカにできないことを知り、もし訴えられたら、と考えると、ゾーとする。まさかこんな弱小なインディーバンドを相手に訴訟起こしても仕方あるまいとは思えど、もし訴えられたらバンド赤い疑惑はゲームオーバーである。仮に赤い疑惑が売れっ子になって知名度が上がればそれはそれで訴えられてゲームオーバーである。赤い疑惑のノーフューチャー感は伊達じゃないのである。

SNSが人生を変える日

 SNSのことを書いたついでにツイッターのことだけもう少し書いておきたい。先に記した通り、オレがツイッターなるものを始めたのは以前、ワールドミュージック関連の仕事をしていた時のことだ。
 今オレはその職場からリタイアして籍を置いてないが、当時そこの先輩で奇しくも同世代だったDJ Shhhhhがある時期からツイッターのことをオレに耳打ちするようになった。同い年であり、同じアンダーグラウンド界隈で音楽活動をしていて、ルーツ的にオルタナから多大な影響を受けた我々は、バンドマン、DJという畑こそ違えど、ワールドミュージックに行き着いたことをきっかけに非常に親しくなっていた。そんなShhhhhが、「いやあ、ツイッターで誰々がさぁー…」という具合でさもおかしそうに話しをしてくるようになった。
 ツイッターがなんなのか分からないし、それが何なのか詳しく聞くのも野暮だし、と思いとりあえず聞くだけ聞いていたのだが、気になってしょうがなくなってしまった。ほどなくして、その職場でも広報目的でツイッターアカウントを取得しよう、ということになり、ついでだ、と思ったオレはその任務に名乗りをあげて会社のアカウントを取得するのと同時に個人のアカウントも作ってしまった。
 ツイッターはみんなのつぶやきを見たり、自分が呟いたりするのを楽しむSNSである、ということは初めから分かっていたが、実際にやってみるとなるほどこれは面白い。オレのような目立ちたがりの人間には向いているかもしれない。それに、一般的でない、マニアックな、音楽をはじめ映画ほかあらゆる方面の文化についての情報収集にもかなり役立つことがわかった。これは雑誌以上に情報収集には便利だと思った。
 ツイッターを始めてみると、自分はバンドをやっている知名度もあってか凄い勢いでフォロワーが増えていって調子に乗ってしまったが、一定の数まで伸びると止まってしまった。赤い疑惑の知名度による得票が限界値に達したのである。
 ともあれ、同じ趣向を持つ同志が増えたり、ライブや世界の素晴らしい音楽の情報を得たり共有したり、困ったことをぶちまけてフォロワーに解決してもらったり、何よりも赤い疑惑をはじめ、自分の関わる活動の宣伝ツールとして目に見えるメリットが想像以上に多い。また、そのような同じ趣向を持つ赤の他人とやり取りしていたら、そのうち本当に当人に会って友達になったなんていうこともあった。また性格上、バカ正直なことや赤裸々過ぎることをツイートして、シビアな人に怒られたりして凹んだりすることもあったがなんやかんやでこの画期的なSNSを楽しんでいた。
 そういえば、そうそう、結婚相手のピーをデートに誘ったのもツイッターを介してだった。恥ずかしいね、こういう話は。しかも後日談として誰かに馴れ初めを話す際に、ピーからフォローされたからDMでお誘いしたのだ、と話していたら、横から「違うよ私が最初にフォローされたんだって」とピーが強く訂正を入れた。おかしいな、と思ってしばらく揉めたが、その内自分が先にフォローしたかもしれないと思い始め負けを認めたのであった。記憶というのは都合よく改ざんされながら刻まれていくのだということを身を以て知ってしまった。
 
 2011年3月11日、東北地方を巨大な地震が襲い2万人以上の死傷者を出す大惨事となった。東京でも体験したことのないような大きな揺れがあり、交通もストップし一時は電話も通じなくなったがその間もネット上のツイッターだけはまともに機能していて、そこでは津波被害の凄惨な映像や、東北の被害状況や人々の安否確認、交通機関の速報、義援金、救援物資募集などの情報がものすごい勢いで飛び交っていた。あの時は皆が等しく未曾有の大惨事に直面して心の動揺を隠せないでいたが、ツイッターのおかげでかなり救われたところがあったと思う。
 震災の恐ろしい威力の前に国民が固唾を飲んで時間を過ごす中、今度は原子力発電所の爆発があった。映像で見たそれはまさに何度も見せられてきた広島の原爆映像と重なるインパクトで、日本中全体が更なる混乱に陥った。その事故が徹底的にオレの中でのツイッターの役割りをはっきり変貌させてしまった。東電や政府の、呆れるほどに杜撰な管理体制と隠蔽体質、それに加えて放射能被害の恐ろしさが一気にタイムラインを埋め尽くしたのであった。
 紛らわしいデマや噂なども飛び交っていてオレは真相を追うのにてんてこ舞い。毎日毎日仕事から帰ってはパソコンを起動し、ツイッターを起動し、膨大な情報の取捨選択をしながら原発事故、原子力政策、放射能被害などなど、新聞やテレビでは伝えられない本当のことを探し求めては衝撃を受け、リツイートで情報を拡散しては焦る心を落ち着かせようと試みていた。
 しかし政府も東電も一向に真摯になることがなく、このまま東日本の住民はどうなるんだろうという懸案に明け暮れていた。このぶつけようのない不安と怒りをどうしよう、という時に反原発、脱原発の市民デモが始まり、それらはほぼツイッターの情報網の力を武器に一気に拡まった。オレはここぞとばかりに「すべての原発を豆腐に!」というプラカードを作り甲斐甲斐しくデモに通った。
 デモの現場に集まる人の中でツイッターを介して知り合うようなケースが沢山あった。1人でデモに行っても大体誰かしらトモダチに会ったり話しかけられたりし、不思議な連帯感が生まれ、それらは酷い原子力問題のプレッシャーの中でせめてもの安堵であり希望だった。
 以降は自分の趣味である音楽や文化の情報収集よりも、政治的な情報収集のツールとしてオレのツイッターの役割は変化してしまった。それは喜ばしいことなのかどうかよく分からなかったが、政府に対する不信感と、もともと持っていた反体制的な性格とがリンクし、結果的にそういうツイッターの使い方が定着してしまって今にいたる。
 そもそもツイッターの存在すらも疑っていた数年前が懐かしいくらいだが、こんなにツイッターが生活の一部になると思わなかった。夫婦揃ってテレビ嫌いな我が家にテレビはなく、新聞もとっているわけではないので、ニュースの収集にツイッターは革命的だった。新聞とテレビ漬けのオヤジとは、そのためによく衝突した。オヤジは「またツイッターか?」と呆れるのが定番になってしまい、議論は大体平行線で終わるのだが、倅も生意気に政治のことに感心を持つようになったか、と思われるようになったのは悪いことではなかった。
 と、ここまでツイッターに引き込まれた経緯やらのあれこれを書いてきたが、ツイッターを称賛しきって終わるのは気持ち悪い。中流階級のボンボンに生まれ、おかげで経済的な安定よりも愛や自然の素晴らしさなどに魅せられることになってしまった我々の理想は、恐らくSNSに縛りつけられる人生なんかは肯定したくはないはずだ。そしてSNSにハマりながらも、どれだけLEDの液晶モニターを見ない時間を大切にできるか、という矛盾する命題にぶち当たる。究極的には携帯も持たず悠々自適に暮らせる世界が一番ではないか?しかし、その選択は謂わば隠遁であり、世捨て人となることである。そのような身分でも地位でもなく、社会を断絶して生きられるほどの豪快さも、また蓄えも何もない一市民であることを免れえないオレはこの先もSNSや現代社会に翻弄されながら生きていくしかないと思っている。

継続は力なり

 コダマさんが、なかなか面白いよ、アクセルさんの文章は、と言ってくださった。そして、どんどん書くべきですよ、書くのも日常的にやってないと書けなくなっちゃうからネ、と。
 そうなのだ。何でも日常的にやっていないとどんどん勘を忘れていってしまうものなのだ。書くことに限らず、バンドも、弾き語りも、DJも、普段からやってることのほとんどがそうなのだ。それは料理や皿洗い、掃除洗濯なんかの家事についても同じことが言えるのだ。一回億劫になってしばらくやらないと、次にまたよいしょ、と腰を上げようとしてもなかなかケツが動かない。何か面倒臭いかも、とかどうせそんなことやっても、とか何やかんやと言い訳を持ち出してやらなくなっちゃう。
 そういう人間の特性が段々と分かるようになってきたのでバンドもやめない。文章もなんやかんや、機会をみつけては書いている。無駄に見えてもやり続ける。それがいずれ、(ああ、やっててよかったな)としみじみ思える瞬間が必ず再来することを覚え、知っているからである。
 
 やっててよかったな、といえば下北沢にあるカウンターカルチャー専門古本カフェの共同運営である。一年半前にそのカフェのオーナーが移住。閉店予定だったが、そのカフェを愛する常連、または前オーナーの友人が中心になって共同運営で店を残そうということになった。
 ちなみにオレは常連でもなんでもなかったのだが、当カフェでねろの弾き語りライブを企画してくれた友人があり、ライブでその店の魅力を知ったのがきっかけ。弾き語りを聞きに来たピーが更にその店をエラく気に入り、数ヶ月後に共同運営の話しを知り、メンバー募集とあったので2人で参加したのだ。
 我々以外の10名前後のメンバーは旧知の仲ということもあり、初めはいきなり知らない集団に飛び込んで行った、という感じだった。それにオレもピーもカウンターカルチャーという言葉に馴染みもなかったので、初めはどうなることやらと思っていたのだが、何処か一癖ある人間が集まったその共同運営メンバー達は、変わり者だが良識のあるサッパリした気質で、人を差別しない和やかな人達ばかりだった。
 結果的にはオレもピーも彼らの持っているアウトローでかつ穏やかな雰囲気にジワジワと━━そういう気質が自分たちにももとからあったのだろう━━溶け込むことができた。店番を担当したり、運営会議に参加したり、当カフェでのイベントに足繁く通ったりしてるうちに、気づいたら親しい友人が一気に10人くらい増えたといったような、あまり今までに無い体験を味わったと思う。
 店舗で顔を合わせるだけでなく、南伊豆での野外パーティーに遊びにいったり、長野県飯田市の外れのとある山村の、民俗学的にもよく知られた有名なお神楽を見学しに行ったり、手作り市に出店したりと、とにかくいろんな時間を共有させてもらった。共同運営に参加しながらオレとピーは入籍したので、運営メンバー達は2人の中で大切な人達になっていたのだ。

 続けるということでいったら、オヤジが発行している長尾家家族新聞というのが最もヤバい。オレが小学校3、4年生の頃に始まって、今に至るまで20年以上続いており、最新号は354号。B4の紙面にギッシリ、表裏で構成されていて、殆どがオヤジの日記、日誌のような類いになっており、それはとりもなおさずオヤジ新聞という体であるが、昔はオレや姉や母も記事を書いていていた。
 そもそもの始まりは、小学校での新聞作りが楽しかった、という一家団欒の場での姉の発言であったと思う。筆まめで、教師で、ギター雑誌の編集にも携わっていたオヤジは、すでに学級新聞や、大学のOB会の会報作りなど、いくつかの紙面作りを定期的にやっていたはずで、そんなもんだから姉の「新聞作り楽しかった」発言には萌えまくったに違いない。
 それですぐに「家族新聞を作ろう」ということになり、オレも姉貴も勢い余って賛同してしまったのだが、一年と経たない内にオレも姉も飽きてしまった。母も文章を書くことに抵抗がなかったのか、始めのウチはそれなりに寄稿していたが、段々書かなくなっていってしまった。月に二度という驚異的なペースで発行される新聞に、編集長のオヤジから、学校であったことでも何でもいいから書いてよ、とオレと姉に依頼がくる。オレも姉もその度に嫌な顔をして、段々ボイコットをキメるようになるんだけど、新聞作りの大好きなオヤジはそれでも構わず発行を続けた。そのうちに母もほとんど書かなくなり、以来その新聞はオヤジ一人のワンマンで発行され続けることになる。
 内容は学校(いずれもオレや姉のではなくオヤジの勤務先)の入学式、卒業式のレポートだったり、旅行記やゴルフ記、ギターやバラライカの音楽記だったり、とにかくオヤジが書きたいことを書きまくるというフリースタイルだった。そして裏面の「日常抄録」というコーナーで半月分、または一月分の三行日記が日毎に書かれ、そこに本人と本人以外のオレ、姉、母がどうしたこうした、ということがほぼ装飾なくレポートされることになっており、そのコーナーの存在のおかげで「家族新聞」としてのメンツを保ってきた。
 その新聞は毎号200部近くが勤務先の学校のガリ版で刷られ、それをご丁寧に八つに小さく折り畳み、宛名を印刷した封筒に入れられ━━時々は家族も手伝ったがほとんどオヤジが一人でやっていた━━各地へ発送される。宛先は血縁や親戚を始め、オヤジの職場の知り合い、大学のOB、ギター関係の知り合いなどで毎号約200部、すべて封筒に切手が貼られ旅立って行く。会社でなく、個人の家からそれだけの封書が送られるので近所の管轄の郵便局にもお得意様として把握されているようだった。
 そういう配給経路が確立されていったものだから、オヤジの暴走気味な新聞作りの記事の中に、その他の家族の間抜けな出来事や恥ずかしい出来事などが書かれているのがわかると、当然家族はその新聞の存在を問題視するようになっていった。オレはオヤジ似で自身の外聞をあまり気にしない方だからよかったが、女性である母や姉は嫌がることが多く、特にその2人は家族新聞に関して懐疑的になることも少なくなかった。
 しかしとにかく、それでもオヤジは作り続けた。オレが大学を出て一人暮らしを始めたり、母がガンでなくなったり、姉が家を出てったり、家族が離れ離れになりかけても辞めなかったのだ。もうライフワークのひとつになっているに違いない。オレはバンドを10年以上続けてきたけど、金稼ぎ以外のことで継続させることに関してはオヤジの右にはいつまで経っても出られないのである。
 その家族新聞を友人が見て感動しているのを知って、20代半ばを過ぎた頃、赤い疑惑のライブ会場でふざけてそれを配ってみたらあちこちからものすごい反応があり、オレは改めてオヤジの所業を見直し、先日facebookに写真載せたら凄い数のいいねをもらい、自分もいつか家族新聞を作らなきゃいけないのではなかろうか、という義務的世襲感覚に襲われたのは完全に余談である。

 長くなったが、継続は力なり、石の上にも三年、という最も日本人に親しまれているであろうことわざにも明らかなように、今何かにつまずいたり、何か充実感を感じられずに、この悲しき文明の浮世をさまよっている方があれば、ひとつでもいいし、それがなかなか身をなさなそうな難解な事柄でもいい、何か継続してやれること見つけるべき。長く続けていても何にもなんない、と思わずに、オレもバンド、10年続けてようやくわかったようなこともあるのだから、10年、20年、30年試しに続けてみるといい。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
赤い疑惑の活動報告
およびアクセルの手記
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