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風呂

風呂に入って怒るヤツはいないよな、とTさんが言った。確か温泉は最高だよな、とかそういう類の話をしていた時だ。特に目新しいことを言ってる訳ではないが、私はTさんの言い方も含めておかしくなって笑った。

どんなに悪いヤクザの親分だって、喧嘩上等の不良のにいちゃんだって風呂の湯に浸かってる間は、身体の凝り固まった細胞が弛緩して、脱力し、安らぎのひと時を過ごしているに違いない。少し熱いくらいのお湯に身体を鎮める時には、オォ、とかアァとか思わず恍惚の声が漏れるかもしれない。

で、当然ながら私も昔から風呂が嫌いだと思ったことは一度もなく、銭湯や温泉などでの入浴は、どんな時でも最高のレクリエーションだ。ところが私の人生でも風呂を軽視せざるを得ない期間があった。大学を卒業し、友人と同居生活を1年ほど続けた後に私が始めた6畳間風呂なしアパート時代のことだ。

風呂なしアパートに住むことにしたのは勿論家賃が安かったからだが、同時に露骨な貧乏生活を演出したかったからでもあった。私は当時、ミュージシャンとして成功を収める夢を持っていて、その成功ストーリーの序盤は「風呂なし貧乏生活時代」で飾られるのがいい、とバカなことを考えていた。そういう訳でそのアパートでの風呂なし生活が確か2年ほど続いたのだが、その間私は風呂に入らなかったのである。

今振り返るととんでもないことだが、風呂なしなら銭湯に行くのが当然なのに私はそれをしなかった。何故なら銭湯代が高いと感じていたから。ただそれだけである。ではその間どうしたのかと言うと頭をキッチンのシンクで洗い、身体はタオルで拭いていたのだ。いや、記憶の回路を頑張って辿ってみたが、身体をタオルで拭いていた記憶があんまりないのはどうしたことか。

まあそれは置いといて、しかし、とはいえ夏場には華麗なる裏技を考案して私は行水して身を清めていた。私が借りた西荻の風呂なしアパートは中央線の高架に平行に沿った建物で、アパートの細長い側面は線路に面していたのでそちらに隣人はおらず、また、線路と直角に交差する道路に面した側の反対、要するにアパートの裏側には猫の額ほどの小さな砂利のスペースがあった。そこは線路と反対側の隣の家からもうまく死角になっていたので、夏の晴れた日に私はバケツに水を入れてそこに運び、バシャーっとやっていたのである。鷹揚にシャンプーまでしていた。その裏技を隣に住んでた中国人のヨウさんが目ざとく見つけて、「ソレイイネ」と言ったと思うやもう次の日にはヨウさんも真似して屋外行水をやるようになってしまった。

大きく脇道に逸れてしまったが、そういう訳で私はその期間ほとんど湯船に浸からなかったのだ。たまーに実家に呼ばれて顔を出した時なんかに入らせてもらう風呂が唯一の入浴になっていた。

その後風呂なしアパートを卒業してからは私がミュージシャンとして成功するあらすじは夢物語としてフェイドアウトするのだが、とにかく以降は風呂に入っている。ただ実家にいる時からその傾向はあったが、冬など面倒くさくて一日置きに風呂に入るという行動パターンが出来てそれで不足は感じてなかった。

ところが、2年前にこと子が生まれ、それからというもの風呂はほぼ欠かさず毎日、ということになった。こと子を寝かせる一連のルーティーンの中に入浴が、優先すべき重要事項として君臨するようになったからだ。特に夏場など、代謝のいい幼児の新陳代謝は凄まじく、1日頭洗わないと、汗かいて乾いてを繰り返した頭が大変香ばしいことになってしまう。

そういう育児の都合で私は毎日風呂に入る習慣が身についてしまったので、風呂とは何ぞや、とまた頻繁に考えるようになってしまった。そして何と気持ちのいい習慣を日本人は発明したのだろう、と深い感動が温かい湯の中で生まれてくる。そんなところへ我が家は海外旅行を2度やって、台湾とベトナムに行ったのだが、困ったことにはそのどちらの旅先でも風呂などなかったのだ。

風呂がない。ないならないで仕方ない。幼児だからといって風呂に入れないと死んでしまうわけではない。その間こと子はずっと湯船に浸かれず、シャワーだけで過ごしたのだが、旅が終わってしまえばそんなことは忘れてしまう。でもそれらの旅が、私に改めて風呂について考えさせる契機をもたらした。

風呂の湯に浸かりながら風呂とはなんと素晴らしいカルチャーなんだろうか、と考える。海外では湯船に浸かる文化を持つ国の方が少ない気がするが何故なのか。何故日本には風呂があるのか。何故日本人はみんな風呂が好きなのか…。

さて、風呂が何故心身の健康に資するのか最近私なりに導いた仮説はこうだ。風呂に入ると体温があがるので免疫が高まる、はずである。ですよね。で、具合が悪くて発熱する、ということがある。これは体温を上げてばい菌などを殺すための身体の防衛作用だという。熱に弱いばい菌が多いということなんだろう。果たしてそうだとすれば、日々入浴で一時的にでも体温を上げることは免疫機能の活性化につながるはずである。よって日々の入浴はヒトを元気にさせるのである。あまりにも普遍的なことを熱弁していて恥ずかしい。

思い出すことがある。先に書いた風呂なしアパート時代にやった風邪のことだ。風邪の症状や経過には人それぞれの傾向があって、誰でも大体その人なりの風邪の乗り越え方がある。私の場合はノドにきて、鼻にきて、痰が固まってきたら治るのだが、その経過の期間が、その風呂なしアパート時代はやたら長かったのだ。熱が出て何日もバイトを休まなければならない時もあった。しかし、最近の私の風邪は、仕事を休むほどこじらせることが少ない。また元来弱い私の胃腸だが、風呂なし時代は殊更に弱っていたような気がする。

風呂のもたらす健康的利点は侮れない。1人暮らしの人なんかは1人で湯を張るのは経済的でないし、面倒もかかるのでシャワーだけで済ませる人が多いかもしれないが、それは非常にもったいない。風呂を面倒くさがって風邪をこじらせるべきではない。

それにしてもこの風呂文化が日本に独特である点は何とも不思議な感じがする。欧米人の場合は湯をためてもその中で身体を洗ったりして、次の人が同じ湯に入るということはあり得ないと聞く。バスタブがあっても毎日入ることはないとも聞く…。

毎日風呂に入るようになり、大概は私がカミさんを呼んで子どもを連れてきてもらい、こと子を風呂に入れ、終わるとまたカミさんを呼んでこと子を引き渡す。それが終わると私は1人湯に浸かりながらボーっと考え事をする。風呂の素晴らしさについて改めて感謝する。そして束の間、ただボーっとできる1人の時間の到来を祝福しつつ目を閉じたりしてると寝てしまい、折れ戸の外から少し苛立ったトーンで、まだー?とやってくるカミさんの声でハッとし、そそくさと立ち上がるのである。
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バンドマンに憧れて 第16話 GUTSPOSE誕生

ハイパーニトロとは私が高校生の時に結成したパンクバンドで、振り返るたびに顔が赤くなるほどダサいバンド名である。結成当時はメロコア、スカコアが流行り始めた頃で、何となくそんな雰囲気の響きでカッコいい、と思ったのであろう。

始めはUKロックや米オルタナロック、メロコア、スカコアのコピーを試行錯誤しながらトライし高校3年の時にボロボロのデビューライブ。演奏の拙さは「オレたちはパンクバンドだから」という最強の通行手形でもって誤魔化し、大学に入ってからは落胆することもなく果敢にオリジナルソングを作り始めた。

大学に入る頃には流行りのメロコアよりもレスザンTVなどの癖のあるハードコアに傾倒し始めていたので、そういう個性的な音を目指しスタジオ練習を繰り返した。更にハイパーニトロという名前のダサさに気づいて早急にバンド名を改定せねば、と松ちゃんと私は新たなクールなバンド名を考えながらキャンパスをウロウロしていた。

丁度その頃エモーショナルパンクというパンクのジャンルが人気を博し始めていて、我々も影響を受け、英単語を何個か並べてエモい雰囲気を出すバンド名を列挙して出してみたりしていた。当時そのような英単語を何個か並べたぼんやりした名前のバンドが多かったのだ(有名どころだとat the drive inとかget up kidsとかpromise ringとかね)。しかしそういうぼんやりエモいバンド名は幾らでも考えられそうだったので、結局オリジナリティーに到達しづらい。そこでレスザンTVを見習って遊び心の感じられるバンド名を考えることにした。ハードコアパンクを目指しながら、外見も内面もハードコアから程遠い我々にピッタリなヘボい名前を考えあぐねたのだ。

大学1年の年に我が中央大学八王子キャンパスにガッツ石松が招聘された。招聘といっても大学のイベントサークルがガッツ石松を面白おかしくイジる、というやや下品なイベントを企画していたのだ。私と松ちゃんがいつも通りキャンパスを歩いていると歩廊でガッツ石松イベントの立て看板にぶつかった。

私はガッツ石松イベントに特別な感興を抱いてもいなかったのだが、その看板を見た途端に「ガッツポーズ」というガッツ石松本人が由来であるらしいフレーズが頭を掠め、コレはバンド名に使えるのではないか、と閃いた。松ちゃんにその場でアイディアを伝え、そのバカらしいバンド名のニュアンスを即座に理解してくれた松ちゃんと意気投合してすぐに決定となった。我々が敬愛していたレスザンTVのパンクバンド「GODS GUTS」にも何となく響きが似てるしいいじゃん! メンバーのナリ君とヤギも異議なしで、確かそんな経緯とノリで決まったはずである。

結成当初は曲として成立しないほどのスキルだった我々も根気よくスタジオを繰り返すうちに段々オリジナルソングが出来てきた。ボーカルの松ちゃんは私の作った曲に訳のわからない詩をつけてシャウトするようになった。ハードコアはシャウトが基本なのである。そして曲がある程度できてくると今度はライブをやりたくなってくる。

ライブハウスでライブをやるためには高いノルマを払ってブッキングしてもらうか、自分達で好きなバンドを集めて企画としてやるかのほぼ2択である。後者の方が楽しいことは間違いないが、後者には知名度と人脈と企画力のスキルが必要で、お客を集められないと結局高いお金をライブハウスに納めなければならない。

知名度も人脈もない私達はとりあえずブッキングしてもらおう、ということになり、数回はライブハウスによるブッキングをお願いし、チケットノルマを捌けずにお金をライブハウスに巻き上げられた上にライブハウスのブッキング担当にお説教を聞かされることになる。これはブッキングスタッフが、そのバンドが今後人気を得るためのアドバイスという建前なのだが、そのルールは腑に落ちないモノである気がした。

ライブハウスが無名のバンドを見つけ出してタダでライブをやらせてあげて、その上でここがよくない、あそこは良いからその調子で頑張れ、と叱咤激励をするなら道理にかなっている。しかしライブハウスのためにお金を払って出演しているのに、その上で、「まずチューニングができてない」とか「演奏があってない」などの、主観的かつ保守的で為にならない説教をされるのではたまらない。このライブハウスのノルマ制度は日本独特のモノだと聞くし、そもそもオレたちはパンクバンドだぞ、他人の指図で動かされてたまるか。

我々はすぐにブッキングでライブをやらせてもらうことを放棄した。そしてスタジオ練習を続け、ライブハウス通いを続け、常に刺激的なインディーパンクバンドをみつけては憧れ続けた。とりわけレスザンTV絡みのライブは8割方押さえていたし、そんなこんなで1週間に1度はライブハウスに通うような日々が続いた。

さて、これは残念なことであったがレスザンTV界隈のイベントは入る時はそれなりに入るが大方は客が全然いないことが多かった。今は無き西荻WATTSというライブハウスは一時期レスザンTVのイベントが頻繁に行われていて、我が家から割と近いライブハウスということで足繁く通っていたのだが、これが悲しくなるほど客がいないことが多かった。私がこんなに熱を上げているシーンがそのように不人気な状況にあることを私は何度も何度も悔しく思っていた。

ところがそんな風に客が少ない上に果敢に出演バンドのメンバーに話しかけてみたりする私は、遂にレスザン界隈の方々に存在を覚えてもらえるようになっていった。そしてブッキングがダメならこうやって顔見知りになったインディーバンドを呼んでイベントを企画してみよう、ということを思いついた。

とはいえそれを1人で仕切るのは自信ないし、それでは、ということで私の運営していたインディーズ研究会のメンバーを巻き込んで学園祭に合わせて企画してみたらどうか。特にサークルらしい活動はなく、ただたむろして駄弁るだけだったイン研メンバーも私の企てに賛同してれたのでこのライブ企画は何とか実現することができた。

レスザンTV界隈の他にも、我々が憧れていた、DIYパンクを標榜して活動するパンクバンド達にも声をかけた。彼らはライブハウスに頼らずあちこちの自治体のホールなどを利用して、機材を持ち込み、PAもセルフで行い、自分達だけのライブイベントを成功させていた。そういう自主運営やDIYもアメリカのハードコア・パンクシーンのやり方を真似ていることなどを知り、我々もDIYなやり方を真似てみたのだ。

先述の西荻WATTSの名物店長であったエビコさんに協力してもらいながら我々は何とか大学キャンパス内の、さして広くもないごく普通の教室を使って10バンドほどを招聘した大掛かりなライブイベントを何とか成功させることができた。この時出演バンドへのギャラをどうしたのかあまり覚えていないのだが、出したとしてもほんの少額だったはずで、出てくれたバンドの誠意によってイベントが成り立ったのは言うまでもないことである。

勿論、このイベントの先頭バッターは我々GUTSPOSEで、企画イベントに先輩バンドを呼んでおいて自分達が前座をやって存在をアピールする、というやり方は定番でもある。そしてこのGUTSPOSEの前座を見たGODS GUTSの浅沼さんが、こんなショボいパンクバンドはなかなかいない、と絶賛してくれたらしく、狙い通りに、というか幸運なことに、それ以降我がGUTSPOSEはレスザン界隈のイベントに呼んでもらえるようになり、DIYパンクシーンにも繋がりができ、また同世代で多摩美や武蔵美でハードコアパンクをやっていた連中とも親しくなり、そうして段々とブッキングではないライブに呼ばれて出演する、という活動ペースを掴みかけたのであった。つづく

手拭い

私はほぼ毎日欠かさず手拭いを首に巻いている。これは家を出る際に何かの拍子で忘れたりしなければ必ず携帯することになっている。

それはお洒落で巻いているのか、実用的だから巻くのか、と父に聞かれたことがあったが、どちらの目的にも適っているのでどちらとも言い難い。手拭いが実用的だからというのに反対する人はいないと思うが、それがお洒落かどうかとなると賛同してくれる人を探す方が骨が折れそうだ。

私が手拭いといって思い出せる古い記憶は剣道である。両親のススメで幼稚園から小学生に入る頃にかけて私は地元の剣道教室に通わされた。実家が神社であった父が小さい頃に習わされていたことが起因していたようだが、戦闘意欲の逞しくない私には至極迷惑な習い事だったように思う。

剣道の稽古では面、胴、小手と三ヶ所に防具をつけるのであるが、夏場は不快なほど群れるので、面を頭に直に被る前に手拭いを巻くのが基本である。私が手拭いを意識した古い記憶はこの時巻いていた手拭いの記憶からのようだ。

その時は数種の手拭いを母から渡されていたと思うが、中に父の実家の神社である「長尾八幡宮」のオリジナル手拭いがあったのをハッキリ覚えているし、カッコイイと思い気に入って使っていた。私は父の実家が神社である、ということが何か誇らしいことであるかのような錯覚を抱いていたため、その手拭いを巻くこともまた誇らしい気持ちにさせてくれたのだと思う。

しかし私は既に述べた通り戦闘意欲の逞しくない貧弱な性質だったので小手で受ける刺激に耐えかね、剣道をやめさせてくれるよう母に懇願し、小学校1年か2年でリタイヤしたので、それ以降、手拭いの記憶といえば運動会やらお祭りやらで巻いたか巻いてないかの豆絞りのことくらいしかないのである。

一通り西洋かぶれする思春期をやり過ごした後、日本のレトロなモノに興味を持ったり、惹かれたりするようになり、私はまた何のはずみでだか思い出せぬのだが、手拭いに心を奪われるようになった。そのもめんの汗を拭う時の肌心地や、首にあてた時の触れ心地や、濡れてからの乾燥の早さに注目しているウチに、自分と同世代の人間にも、同じように手拭いを好んで使うような友人を見つけたことで、手拭いいいよね、いいよね、と意気投合し、手拭い同好会を作ろう、などと言ってふざけていたのが20代中ごろだったかと思う。

結局手拭い同好会なるものはその場の口先だけで終わったが、その頃から「かまわぬ」という、手拭いをオシャレにプロデュースするブランドなども現れたり、手拭いをリバイバル的にもてはやす兆候も世間にないわけでないことを知った。何しろ高い品物ではないので、私は徐々に手拭いを集めるようになり、新しいものと古い日本のデザインのものと、いろいろ集めるようになった。

手拭いはその乾きの早さと触り心地の優しさから、汗を拭くのには最適のもののように思われ、私は手拭いを持ち歩くようになった。私はこれでもお洒落を意識する人間なので、初めは手拭いをズボンのポッケからだらりと垂らすようにして持ち歩いていた。そうすると何となくファッショナブルな腰周りが演出されるように感じたからだったが、そのスタイルで何度も手拭いを落としたりして紛失することを繰り返してしまった。

それで今度はポッケ案をよして、首にひっかけて垂らすスタイルに挑んだ。これも柄がオシャレであればお洒落で押し通せるだろうと考えたからだが、それでも結局ひらりと、何かの拍子で落としたりして結局なくしてしまうのだった。

大好きな手拭いを無くすのは悲しいので、最終的に私は手拭いを首に巻きつけて結わくようになった。さすがにこれじゃあ百姓みたいでスタイリッシュには見えないだろうと二の足を踏んでいたが、無くさないこと、また誰にも突っ込まれなくなったことが相まって以来そのスタイルを変えない。

もはやお洒落としてではないでしょう、と思われるかどうかは分からないが、私がお洒落で手拭いを首に巻いている根拠には、頂き物の手拭いなどで自分の趣味でないものは首に巻かず食器を拭いたり雑巾にしたりして、首に巻くものとは分別して使っているのである。

いつだか飲み会の席で誰かがドリンクを零してその辺が汚れた時に私が首に巻いていた手拭いをサッと出して、零れた飲み物を拭き取った時、それを見た誰がしかが、かっこいい、と私の手拭い術を褒めそやしたが、それが例えばブドウ系のジュースだったり、手拭いが明らかに変な色で染まってしまいそうな液体だったら私は手拭いを差し出さなかっただろう。首に巻いてるのはお気に入りの柄だからである。

つい1、2年前に姉の誕生日に妻と父と姉でかなり背伸びをして青山の、土日ともなればなかなか予約の取れないという地中海料理屋に行く機会があった。そして私は事前に姉から「手拭いはNGね」と釘を刺されていた。私は半分はお洒落で手拭いを首に巻いているのだから、と反抗心が仄かに芽生えたのであったが大人気ないので黙って従った。お洒落の姉には、柄が何だろうと手拭いはお洒落と認められていないことが分かり残念であった。

ともあれ昨今のフェスブームやエコブーム、原点回帰ブームにより手拭いも大分市民権を得てきたように思う。気づけば私の友人の多くが手拭いを愛用しているし、お土産に頂いたりする。特に音楽仲間には理解者が多いようだ。

手拭いと題したからには手拭いの思わぬ利用法とか、便利な使い方を紹介してもいいのだが、それは私の役目でないような気がするし、よく考えてみれば汗を拭いたり、手を拭いたり、食器を拭いたり、最近だと娘のヨダレを拭いたり、おおよそベタな使い方でしか活用してない気もする。1つだけ主張させてもらうなら、始終首に手拭いを巻いていることで、首の冷えが軽減されている実感は大したものであるということ。夏の電車内の強烈な冷房の冷えからは特に効果絶大である。

この稿を上げるにあたり、手拭いについてあれこれと書き、考え、歩きスマホしている最中に、手拭いを首に結わえておかなかったことで私はまたお気に入りの手拭いを1枚無くしてしまった。

バンドマンに憧れて 第3話 その頃の私の音楽

 ロックとの出会いはジュンスカ、たま、という2大事件がもたらしたのは間違いないのだが、単純に音楽ということで思い返すと、そもそも小学校低学年の頃から私はピアノを習っていた。私の父は公務員で母はそれなりの良家の娘だった。出会いは新堀ギターという、今では全国的に広がり定着した、クラシックギター教育のさきがけ的存在の組織でのことであった。つまり両親は音楽好きで、クラシックギターなどを嗜む景気のいい時代の公務員家庭となれば、子にピアノを習わせたい、となったのは不思議なことでもない。

 私は2歳年上の姉が1人いて、勿論姉もピアノを習っていた。私が受けたピアノのレッスンというのはバイエルなどの教材楽譜を何度も何度も弾き、スムーズに弾けるようになると次の曲に進む、というありきたりのものだった。うまく弾けないと次に進めないので、当然予習復習をしないといけない。遊びたい盛りの小学生がピアノの予習復習に時間を割いていられるだろうか。

 それに加えて、第一話でも書いた通り、私の小学校では、歌謡曲に興じる男子がバカにされたように、ピアノを習う男子もバカにされたので、ピアノを習っている間は妙な心苦しさがつきまとっていた(この、ピアノを習う男子がバカにされる、という前時代的な風習は私の地域だけのことではなさそうだった)。だから姉がどうだったかは分からぬが、私がピアノを望んで習っていたのかどうかはよく覚えていない。

 それでもとにかく2年だか3年だかはピアノの稽古に通っていたはずだ。母が近所の先生を見つけてきて通わされていたのだと思う。私がピアノを習ってる間、1度だけ先生が変わった。そしてその変わった後の先生が何とも意地悪な感じのするおばさんで、早々にピアノの稽古が苦痛になった。

 それでも私は母の期待を気にしていたのか、それなりに頑張っていた。年に1度か2度開催される「ピアノの発表会」なる催しものにも、蝶ネクタイなんかをつけ、正装して参加したものだった。観衆の眼差し降り注ぐステージに立つと、それ相応の興奮を覚えた──もちろん激しい緊張の中で、音楽的快楽を味わうどころではなかったが…。

 しかし2人目の意地悪なおばさん先生に変わってから、ピアノの稽古そのものはもはや苦痛でしかなかった。先生の優しい笑顔なんてものは覚えていない。すごくヒステリックな眼で私の演奏を睨むので、私は萎縮していた。先生は私がうまく弾けないと叱責した。先生の叱責の仕方に疑問を感じ続けた私は母に懇願し、併行して習っていた野球を頑張る、といった体でピアノのレッスンは辞めさせてもらった。

 そんなていたらくだったので、私の音楽との出会いは確かにピアノからだったかもしれないが、音楽が楽しいものだと気がついたのはピアノのおかげではなくて、結局光GENJIであり、ジュンスカでありたま、その他の日本のロックバンドのおかげだった。音楽を聞いて心がワクワクドキドキする、なんてことはピアノを習ってる時では体験できなかったから間違いない。

 そして最高のワクワクドキドキを私に体験させてくれたジュンスカ生ライブの衝撃で、愚かにもロックンローラーになる、などと激しい思い込みに陥った中学生の私は、その頃からいつか「自分の自分だけの曲を作るんだ」ということを考え始めていた。何故なら目をつぶると私の頭の中では私だけの、私のオリジナルメロディーが流れていたからだ。頭の中で流れるメロディーをカタチにすれば曲は簡単に作れる、と得意満面に思った。私は自信家であった。

 中学校の音楽の先生でヒッポウという姓のおじいちゃん先生がいた。先生に反抗することが本分であった生意気な中坊達は先生を呼び捨てにするのが常で、ヒッポウ、ヒッポウと言ってからかっていた。ヒッポウ先生はしかし我が道を行く朗らかな存在感で、しゃべり声もまるで歌声のように高く美しく、喋り、唄いながら舞うように授業をする先生だった。
 
 私はそのヒッポウ先生を影ながら尊敬していたが、ヒッポウ先生がある時、作曲の授業というものを持ち込んだ。生徒に無理矢理楽譜を書かせて作曲させようという授業だ。私はこれはいいチャンスだと思い、頭の中で流れる名曲を楽譜に起こそうと、ピアノと格闘した(ピアノをやっていたので楽譜の読み書きが一応できたのだ)が、いざ譜面におこされたメロディーを弾いても頭の中で流れる名曲にはならず、何だかショボかった。私は簡単な挫折感を覚えた。曲を作るのは簡単なことじゃない、と気づいたのだ。
 
 そのヒッポウ先生の授業でこんなこともあった。生徒1人1人、みんなの前に出て練習してきた歌を歌う、という課題が出されたのだ。それまでの音楽の授業でも合唱はポピュラーであったが、合唱でなく独唱で歌を歌うというのはちょっと気合いのいるものだった。まして将来はロックンローラーになる、と思い込んでいた自信過剰のガキにとっては勝負所だった。
 
 私の順番になり、ガチガチに緊張した私が一生懸命唄い終わると、ミドリちゃんが私のところに来て「長尾くん、歌上手だね〜、なんでそんなに上手に歌えるのか分からない!」と感嘆して言うのだ。私は実は自分の歌にさして自信がなかったので。ホッと胸を撫で下ろしたのだ。

 その後、ミドリちゃんの番がまわってきた。ミドリちゃんはあんなことを言ってたのにすごく上手に歌った。私はホントにミドリちゃんより上手に歌えたのだろうか、何だか少し不安になるほどだった。

 その後しばらくしてバレンタインに私はミドリちゃんからチョコレートをもらい、しかも告白されたのである。私が女性から告白されたのは先にも後にもそれっきり。それ程貴重な機会だったのに関わらず私は、ミドリちゃんのことをいい子だけど好きだとは思ってなかったので、断わってしまった。何だか心苦しかったのは本当だが、もしかして、と思った。もしかして、あの時ヒッポウ先生の歌の授業で、私の歌を唯一あんなに褒めちぎったのはミドリちゃんだけだったけど、アレはミドリちゃんの過剰な贔屓によるものだったのではないか。あの時他の子はオレに何にも言ってくれなかったもんなあ。自信家の癖に凹み易い私はそう思い始めた。

 歌にさして自信がなかったのは、母からも時々、あなたは歌わない方がいいわね、などとからかい半分に言われていたことも尾をひいていたと思う。そういう母も音痴なのであったが、音痴な母にディスられるのは腹が立つと同時にショックでもあった。自分サイコウ、と思いがちな自信家の私であったが、客観的な意見を無視できるほど盲目でもなかったのだ。歌は明らかに母より父の方が上手く、母の歌は旋律がブレる。もしかしたら私の歌唱力には母の音痴が遺伝したのじゃないだろうか。

 その後私は高校に入り、軽音楽部に入り、そこで体験する発声練習という集団ボイストレーニング業で自分が明らかに人より音域が狭く、声量もなく、それなりの音痴であることを認めざるを得ないこととなるのだ。ああ、ロックンロール。

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バンドマンに憧れて 第1話 光GENJI、爆風スランプ、たま

 私がバンド的なものに初めて触れたのは小学校中学年から高学年にかけての時期だった。1番初めに意識的になったのは爆風スランプの「ランナー」だったと思うが、歌謡曲一般でいうと光GENJIの方が先だったかもしれない。2コ上の姉の影響で聞いた光GENJIの華やかなメロディーやキラキラした演出に、少なからず興奮していた自分を思い出すことができるのだ。

 しかし、ことバンドという形態に拘れば1番最初は爆風スランプだった。小学校の登下校を共にしていたワキ君が「ランナー」をソラで歌い出した。私はその歌詞とメロディーにとても惹かれた。「走る走るオレたち 流れる汗もそのままに いつか辿り着いたら 君に打ち明けられるだろう」。何で「オレたち」は走るんだろう、何を「君に打ち明けられる」のだろう、と考え出したら何かワクワクした。ロック(当時はロックという意識もないが)の歌詞を聞いてひとり想像に耽る、ということを初めて体験した訳だ。

 「流れる汗もそのまま」にして拭かずに走るのだ、そしてきっと大変な苦労をして何処かに辿り着いたら「君」がいて、何かを打ち明けるのだ、と思うとやはりワクワクしてくるのだった。私はそのメロディーの虜になってしまいワキ君にその歌の正体について迫った。そして爆風スランプというバンドだということを知った。

 恐らくその年の年末だったと思うが、紅白歌合戦に爆風スランプが出るということだった。確か「ランナー」はCMかなにかで世間的にもヒットしていたのだ。しかし出てきたのは丸坊主にサングラスの冴えない風体の男だった。とはいえ映像と共に聞いた「ランナー」はよかった。そして私はバンドというものを知ったのだ。ボーカルがいてギター、ギター、ドラムだ。当時はギターとベースの区別も知らなかった…。

 私が初めて買ったCDは、そういう訳で爆風スランプの「I.B.W」であり、何故かその時一緒にTMネットワークのベストカセットを一緒に買っている。TMネットワークに関しては姉か従姉妹からの影響だったと思うが、アニメ「シティーハンター」の主題歌として「GET WILD」という曲が流行っていた。

 その頃はCDと並行してカセットが主流で、ロックなどとは縁のなかった両親もビートルズやマイケル・ジャクソンのカセットくらいは持っていて、当時は車に乗せられるとそれらのテープをよく聞いていた。ビートルズもマイケル・ジャクソンも好きだと思ったが、やはり歌詞が英語なので、メロディーを覚えて鼻歌を合わせるくらいの楽しみだったような気がする。

 歌詞を聞いてイメージや妄想を広げるという行為は、やはり日本の歌じゃないとできない。私は爆風スランプ、TMネットワーク以降も、歌謡曲、特にバンドものには注意を払っていたが、その中で強く私の心をとらえたのは当時「START」や「歩いていこう」などがCMソングとしてヒットしていたJUN SKY WALKER(S)(以下ジュンスカ)だった。

 ジュンスカには爆風スランプにはない「バンド的な何か」がある気がした。それは、後々私が大きな影響を受ける「パンク」っぽさであった気がする。爆風スランプのようにバカテクでバラエティーに富んだ曲調を披露するような芸人的側面はなく、単純な8ビートやパワーコードを多用するシンプル性が魅力だった。そして当時の、所謂ファッション的なパンクの格好を日本の若者風に精一杯やっている感じだったし、歌詞のアチチュードにも尖ったものが多少混じっていた。

 ジュンスカの歌詞の中には反抗的なものが多少あったが、それよりも彼らの唄には私がその後10年も20年も悩まされることになった「夢」だとか「希望」だとかいう言葉が溢れていた。「夢」や「希望」を持っていればどうにかなるという、短絡的暗示に子供は弱かったのだ。そしてバブル期だった当時の日本社会には個性の時代などといって、自分らしさを追求するのが是とされるようなところがあった(ブルーハーツは「個性的であればあるほど実際は抑えつけられる」と鋭い世相批判をしているが)。だから私は「夢」や「希望」という輝かしい言葉に大きな期待を寄せた。そういうつもりでジュンスカの曲を口ずさむようになっていたのだ。

 ところがジュンスカの後に出会った「たま」の衝撃はジュンスカの衝撃以上のショックだった。そこには「夢」とか「希望」というアッパーなフレーズはなく、もっと摩訶不思議で奇妙で、見てはいけないものを覗いてしまった、そんなような妖しい詩や表現がてんこ盛りだった。そしてたまは、それらの表現を、子供でも反応できるような美しく親しみやすいメロディーで飾った。

 たまの最大のヒット曲となった「さよなら人類」を初めて聞いたのはやはりTVのCMだった。私はすぐにその曲に釘付けになった。CMだから15秒しか聞けない。だけどその15秒からその曲の全貌を想像した。もっと聞きたくなって仕方がなくなった。

 その頃私達の文化的選択肢の中に、レンタルCD屋さんでCDを借りて空のテープにコピーするという手段があった。そういう店が流行っていたと思う。CDは3000円くらいだったから、レンタル屋で300円ほどで借り、空のテープにダビングして私家版とする。そんなしのぎがかなり普及していた時代だった。だから私は初めてレンタル屋でCDを借りる、ということを、周りの男子にバカにされながら実行した。何故か私の通った小学校では男子が歌謡曲に興じることが女々しいことだとされ、蔑まれた。私は周りに流されないタイプだったので無視していた。

 「さよなら人類」を収録したその「さんだる」というアルバムを私は何度も何度も聞いた。そして私の中のビートルズである彼らの芳醇なメロディーとコーラスのハーモニーに痺れていた。それは今思い出してもかなり衝撃的な体験だったと思う。それくらいたまの歌詞は強烈な視覚的、時間的イメージを喚起させるキーワードで溢れていた。だからシラフであんなにトベたんだ。

 たまにハマってしまったある年の正月、親戚の集まりで、とある叔母から「はるちゃんはたまが好きなんだってぇ?おかしな子ねぇ。」と突然からかわれた。今思えばたわいもない叔母の冗談だったと分かっているが、小学生だった当時の私にはそれがひどく侮蔑的な挨拶に思えて、私はその頃からしばらく親戚不信に陥った。

 私の母方の親戚はやや富裕な家系だったので脇道にそれるようなタイプの従兄弟は1人もいなかった。だから当時売れていたとはいえアウトローな視線を世間から受けていた「たま」に興じる長尾家の長男は変わっている、と思われ始めたのだ。その時まで気づかなかったが、いくらロックがビジネスとして世の中に存在してはいても、子供がバンドをやり出す、ということが今よりもずっと保守的に敬遠されていて、私はその時そういうバンドマンに対する差別視を初めて知ったのだ。

 実際それ以降、私がバンドをやりロックにハマっていくのを母方の親戚はややバカにするような感じで見ていた。私にはそれが腹立たしかった。自分が夢中になっているものが小バカにされているような感覚だ。からかっていた親戚に悪気などなかったが子供は敏感なのだ。私はそれ以来、親戚の前では冷静さを保とう努めたが、腹では、いつか見てろよ、と静かな拳を握りしめていた。 

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