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メキシコ専属ドライバーのシュミレーション

危ない危ない、と言って、横断歩道を歩いている人に気づかないオレに助手席のイケちゃんがオレに注意してくれる。横浜駅相鉄ムービル裏コインパーキングから赤いバンドワゴンとして活躍しているノアが出発。今日はバンドワゴンではなくメキシコDJワゴン。助手席および後部座席にはメキシコが6人乗っている。

メキシコはDJクルーであり、オレはその専属ドライバーという体である。しかし本当にそういう職業だったらオレは喜んでやるのに。メキシコがみんな売れっこDJになってオレは雇われて彼等をいろんなところへ連れて行く。オレはメキシコのみんなのことが好きだからそんな仕事があったら願ったり叶ったり。

しかし現実はとにかくこのクルー(仲間)をそれぞれのねぐらに運んでいくことが目下オレに課されたのである。7人のオトナと、楽器やDJ機器を搭載したノアのアクセルの踏み心地はずっしりとしてそれなりの重みがある。しかしオヤジの自慢すべきトヨタのマイカーはそんな重みもモノともせず、第三京浜をスイスイと走る。夜中のドライブはスイスイ進むから気持ちいがいい。今日のイベントは集客が悪かったけど、内容は素晴らしかった、という爽快な気持ちがオレの中で流れていたので、メキシコと共に帰る東京へのドライブも満ち足りた空気で気分がよかった。BGMはサウンドウェイのフレンチカリビアンのコンピレーションCDだ。

滞りなく世田谷に到着し、チンネン、イケちゃん、サウジ、ミスターという順番でメキシコを送り届け、あとは甲州街道を下って残りの二人を送り届ければいい。降りる順番を考えて最後列に座っていたサトシとアルイを前に呼ぶ。アルイはもう寝息をたてて眠りに就いていたので、サトシが助手席に座る。甲州街道もスイスイと進んでいく。
「長尾くん、レイジって聞いてました?」
「いや、オレ通ってないね。何で?」
「いや、オレもあんまりのめり込んで聞いたりはしてなかったんすけど、この間地元でレイジがメキシコでやった時のビデオをゲットしたんすけど、結構それがヤバくて。しかも日本語字幕付で。」
そこからその中古ビデオが、地元に唯一ある中古レコード屋のワゴンセールで200円という安値だったのに、それでも買うのに相当に店頭で迷った、などという経緯と、それだけ迷った200円の代物が自分にとって非常に価値のあるものだったこと、それからそのビデオでのザックのかっこよさについて等々を熱弁してくれた。

オレもザックがメキシコに力を注いでいたということは知っていたし、メキシコの地元のアーティストとザックが共演した映像を観て、かっこいいなとも思っていたので興味を示すと、「これから観ますか」とサトシが言った。これからウチでそのビデオを観ませんかというお誘いである。そんなことを言ってくれてオレは嬉しいゼ、友よ。トモダチと一緒に音楽を聴いたり映像をみたりするという時間は貴重なモノである。それは年を重ねる毎にレアになっていくことの一つである。しかしもうこんな時間(午前1時過ぎ)だし、明日は普通に仕事でもあるし、しかも何だかさっきから腹が急激に痛んできているようである。オレが躊躇していると「じゃあ、今度貸しますよ」と、淡々とだが、また嬉しいことを言ってくれる。オレは今、少し、(さっきからの腹の痛みのせいで)トイレに行きたいかもしれない、と思っている。

あとこの二人(サトシと既にスヤスヤと眠りに就いたアルイ)を送り届ければ、オレの本日の「未来世紀メキシコ専属ドライバー」の業務は全うされるのである。だから今、ちょっと腹が痛いからといってコンビニかどこか、とにかくトイレ(用足し)のためにここらで寄り道休憩をするのは、面倒であるし、この二人を車内で待たせることにもなるし、そうなるとオレも、ゆっくりした気持ちで用も足せないであろうから、今はとにかくこの二人を調布に送り届け、そしてその後、コンビニかどこかのトイレを借りてゆっくり腹の悶絶を癒してやりたい。

身体をよじって背筋を伸ばしたり縮めたりして腹の痛みが少しでも和らいでくれるような試みを続けながら━━助手席のサトシには腹痛を悟られまいとし(何故なら余計な心配をサトシにかけてしまうであろうから)、何事もないようにサトシとの会話を続けていたが、どうしたことか甲州街道調布方面下り3車線の道路は仙川付近でいきなり渋滞に見舞われてしまった。時刻は午前2時前、夜中だからスイスイ、ばかみたいに走れる時間帯。腹痛は徐々に増大していく。
「何なんすかこんな時間に。しかし、タチの悪い渋滞っすねー。」
と助手席でサトシが嘆いている。オレもまったくその通りだと首肯したが、それよりも何よりもお腹の痛みの方が予断を許さない状態になってきている。体中から嫌な汗さえ出始めてきた。今まで通り会話する自信がなくなってきたので、とりあえず助手席のサトシに迫りくる身体的危機を伝えてみた。
「ちょっとオレ、さっきからなんか、腹が痛いんだよネ」
「えっ(過剰な驚き様と声で)? 実はオレもなんスヨー」
「えっ?? そうなの?」
えっ、大丈夫ですか、というようなサトシの反応を100パーセント信じていたオレにとって、自分もさっきからお腹が痛かったんですよ━━その割にサトシは今までそんな気配を一切みせずにオレと会話していたようだったが━━、というサトシの訴えは非常に意表を突いていてオレは戸惑った。じゃあ、トイレ行きますか、とかそういう類のオレの身を案ずる言葉を期待し、その流れで(二人の同意の元で)コンビニかどこかに寄らせてもらう、という段取りを想定していたオレだったのに。

とにかくその後はオレも堂々と片手をお腹にあてがい、さすりながら運転を続け、渋滞を漸く抜けて旧甲州街道に入ったところで、(下手すると漏らすかもしれない)と腹痛が限界値に触れたので、ちょっとトイレ寄っていいかな、とサトシに了承を得てコンビニ前に停車。もの凄い痛みと格闘しつつ用を足し、少し気分が落ち着いてきたので車に戻る。サトシは携帯をいじりながら待っていた。この人はトイレに行かなくても平気なのだろうか、さっき腹が痛いと言っていたのに。

眠っていたアルイを起こし家の近所で降ろし、そこから2、3分のところでサトシを下ろし、やっと本日の業務がすべて完了した。しかしまだ腹の痛みは沈静しきっておらず、結局そこから武蔵野、西東京地区へと北上する道すがらもう一度コンビニに寄り、さっきよりもゆっくりした気持ちで用を足し、そういえば今日の夕方、普段は相性がよくないので食べないことにしているラーメン(しかも有名なので一度は食べてみたい、と思っていたタイショウケンのパンチのあるラーメン)を食し、その後ずっと膨満感を感じていたことを思い出し、この強烈な腹痛はきっとタイショウケンのラーメンのせいだったのではないか、とかいうことに結論を下した。しかし帰宅後よくよく考えてみると、今回の強烈な腹痛は今日のイベントに、過剰な緊張や精神力を費やしてしまったせい(半分はオレが集めた出演者でもあったことや、ターンテーブルが会場になくてキクチさんとテンぱったことや、集客に貢献できなかったことなど)ではなかいか、とも思い当たるのであった。その日の下痢症状は結局翌26日の夕方まで続いた。
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サボールコロンビア

サボール・コロンビアというバンドがいて、
オレはどういう経緯で彼等を知ったのかはっきりしないんですが、
最近パソコンでダウンロードして、よく知りもしないでDJでかけたりしてて。
で、彼等がどういうバンドなのかいまだにはっきりしないんですが、
多分コロンビアと名乗っているから、
コロンビアのバンドだろうということぐらいしかわからなくて、
それで映像を探してみようと思ってyoutubeを呼び出してみたら、
全然動いている映像がみつからなくて
(静止画のPVばっかり出て来るので)、
(はあ、やっぱりこの人達は全然有名じゃないのだろう)
と諦めかけた時に、ついに動いているのをみつけたので、
紹介したいと思います。
クンビアというコロンビアの大衆音楽をやっているのです。
途中、謎の(日本で言うとランバダ風の)美女集団が現れ、
バンドメンバーの前で腰を振り始めますが、
これは、驚いてはいけないのです。
僕は前にもダマスグラティスという
コロンビアのゲットークンビアバンドの衝撃的な映像をみたことがありますが、
そこでもライブをしているダマスグラティスの真ん前で
ボディコン的な衣装を身にまとったセクシーダンサー達が、
当り前のように長方形状に整列して腰を揺らしていて、
その猥雑さをも含めて「みんなのクンビアショー」のようになっていた、
そういう衝撃的な光景をオレは事前にyoutubeで観ていたのでもう驚かないのです。
前置きが長くなりましたが、
結局このPVを観ても彼等がどういう文化圏で
どういうモノを聞いて育ち、
どういうことを目指し、歌い、生きているのかは
まったく分からずじまいなのであります。




宮本常一

晩メシの卓上の封書にふと眼をやった時、見逃しがたい響きのビルの名前が飛び込んできた。━━オリエス指田ビル。オリエス。その言葉の響きが様々な記憶を呼び起こした。それは地元田無の駅前商店街にあるビルの名前だった。

「オリエス」は一代前は「ポポロ」というかわいい名前だった。経営者が変わったからなのか何なのか、経緯は知らないが、その「ポポロ」はいつの日か「オリエス」に変わってしまったのだ。当時、小学生くらいのオレにとって、「ポポロ」が「オリエス」に変身したということが、いったいどういうことなのか不思議でならず、納得もいかなかった。「ポポロ」はいったいどこに行ってしまったのだろう。

大学生の頃、東南アジアに旅行に行った時、様々なカルチャーショックを受けたものだが、その中でも人間の住居や商店の佇まいにはひとしきり魅せられたものだった。東南アジアの街並は、おそらく日本の戦後の復興時のそれに似ていたのではないだろうか。オレが育った東京のそれと比べるとデジタルとアナログ、と例えてもいい程の隔たりがそれらには感じられたのだ。

20代の前半に数回の海外旅行の機会を持ったが、その頃から住居や建物に対する愛着━━特に年齢を重ねてきたそれらに対する愛着心、というのが自分の内に巣食っていることに気づくようになった。昭和の色を強く残すボロい建物を見ると、歩いている最中でも立ち止まって見たくなる。どんどんと刷新されていく商店の軒並みの中で何故かこの建物だけ相当に古い、なんてところがあると必ず立ち止まる。失われていく感覚と古いものの良さ、を同時に覚えて何とも言えぬ気持ちになる。

実家を離れて自活を始め、数年後に実家に戻ってきた。その数年で街並は明らかに変化していた。マンションはどんどんモダーンな容貌になって、そんな絢爛なマンションを見るとオレなんかはゾッとするようだけど、モダーンが好きな人の方が日本の世には多いのかもしれない。しかし、オレのようにゾッとはしないまでも古いものが消えていくことに恐れを感じている人が少なくないはず、という不確定の推測をオレは信じる。

宮本常一という人物を知ったのは数年前に、思い出せないが、図書館の中だかどこだかで、ふと宮本常一の写真集を眼にしたことがきっかけだった。その写真集で、宮本常一の出身がオレのオヤジの実家である山口県大島であることを知り、宮本常一の名は確実にオレの脳にインプットされていた。その写真集は確か、日本の田舎(僻地)の変わりゆく、写真的には何の変哲もない風景をとにかく撮り続けた写真集で、それなのに、恐らく戦前戦後と思しき時代のモノクロで焼き付けられた、特に寒村と呼ばれそうな地域のそれらの写真一枚一枚はオレに強烈な印象を与えたのだった。

それからしばらく、オレは宮本常一は写真家なのだと思い込んでいたが、後日彼が民俗学の研究者だったということを知った。同時に民俗学というのがどういう学問なのかを知り、そして宮本常一が、あの衝撃の「日本残酷物語」の編集に加わっていた、などということを知った。そういう流れを経てオレは宮本常一のファンになった。

宮本常一は日本各地に残る集落を点々と、その集落に伝わる文化やしきたりや生活そのものを、実際に自分の眼で見て、実際に現地の人間から話しを聞いて書き留めて歩いたという。戦後の目覚ましい復興の影で消えていった(現在では完全に消滅したような)生活や信仰を、彼が書かなければ絶対に残らなかったであろう日本の姿を人生をかけて文字に起こしていったのだ。民俗学というのはそのような学問であるらしいが、何にしろ宮本常一の仕事はオレには素晴らしいモノに思えたし、何か勇気づけられるような気にもさせてくれる。変わりゆく風景を嘆くことは無意味なことではないんじゃないか。

トモダチが貸してくれた宮本常一の文庫本。貸してくれたトモダチはその本に書かれている世界に感銘を受けて、この本の舞台のひとつである土佐まで、東京から青春十八切符ででかけてゆっくり土佐及び四国周遊の旅に出た。トモダチがそんな行動に出ることが、まるでバカバカしく思えないのは、実際にこの本で描かれている宮本常一の描写が非常に美しく詳細で、さらに人間または人間文化への愛情に溢れていたからであった。オヤジと同郷の宮本常一の、その地元である周防大島のことについて書かれた描写を読むことで、オレはオヤジからも大島の婆ちゃんからも聞いたことのない、大島という島についての歴史や風俗を知るという機会を得た。それはそれで因縁めいた気もし、すごく不思議なことではあったが、この本にはとにかく雑多にいろんな感動を覚えた。食卓に置かれた封筒に記載された「オリエス指田ビル」にふと立ち止まったのは、この本を読了したせいだったろうか。

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オヤジの演奏

物心ついた時から家でオヤジがギターを演奏している姿をよく見ていた。本職は教師だからこの人はミュージシャンではない、ただのギター好きだと思っていた。オヤジは付き合いの広い人間らしく、いつからか誘われてバラライカ(それもバスバラライカというデカい楽器)を弾くようにもなっていた。オレがそういうオヤジの演奏している姿を感心して眺めていたかといえば、まったくそんなことはなく、割と普通のことだと思っていた。

オレがロックに取り憑かれた時、家にはオヤジのクラシックギターがあった。だから触らせてもらってユニコーンのスコアをそのギターでなぞったりして練習していたけど、それでも演奏するオヤジの姿や、その演奏される音楽は特別なものではないと思っていたのだ。それはきっとオヤジだからであり、ずっと家にあったものだったから刺激というものではなかったのかもしれない。

目当ての高校に入学して褒美にエレキギターを買ってもらったオレは軽音楽部に入って「ロック」というものに没頭した。そしてそれからというもの「ロック」はほぼ自分のすべての価値観になったため、オヤジの演奏や演奏してる音楽にはもうもはやまったく興味を逸してしまったのであった。

高校生くらいからオレのひねくれ具合にエッジがかかったためか、それ以降、オヤジとはほとんど口をきかなくなった。オヤジは夜遅くに帰ってくるし、部屋に籠っていれば特に無理してコミュニケーションをとる必要はなかった。大学時代はその先に迎えるであろう「ロックミュージシャンを目指すフリーター」という人生設計に対して両親が異議を唱えていたので、当然のことながら親との距離を広げてしまっていった。

実家を離れてフリーター生活をしばらく続けて、なかなか思うようにことが運ばずに(人生はなかなか大変だな)と思っていた時、オヤジが記した「私の半生記」と題された、数ページに亘る文章を読む機会を持った。その文章の内容が面白かった。いや面白いというより衝撃であった。何しろオヤジが回顧する己の大学時代や卒業後の様子(世知辛い感じ)が、自分が経過し迎えていた人生や現状と大して変わらず、また思考回路や感受性が自分のそれと酷似しているように思えたからだった。ロックやエレキにハマったのはオヤジからの影響では決してなく、オレが見つけた価値観だと思ってたが、どうもそうではなく、もともと流れていた「オヤジがギターを愛した血」というものが自分のなかにあったためではなかっただろうか。そしてオレはその頃からオヤジの演奏や、オヤジが演奏する音楽に次第に興味を抱くようになった。

その頃までまともに会話をしようとしていなかった為か、恐ろしいモノを見るような眼でオヤジを敬遠していた自分の態度はこれを機に改めねばなるまい、そう思われてしかたがなかった。その直後、母がガンになり闘病生活に入り、家族であるオヤジと姉とオレは看病生活に入り、その看病生活というのはどうしたってそれぞれが力を合わせなければならなかったため、その経緯をきっかけにオレはオヤジとの距離を少しずつ狭めていくことに成功したのであった。

母がガンで死んだ衝撃をきっかけに「東京ファミリーストーリー」を作った。その中でオレは、オヤジがクラシックよりも、ロシア民謡(バラライカで演奏する)よりも演奏するのが好きだったらしいメキシコのラテン歌謡を赤い疑惑に取り入れてみようと思った。それでオヤジと共演することも思いつき、それっぽい曲やメロディーをイメージしてみたのだ。不思議なことにそんな風なラテン歌謡的な曲やメロディーのイメージは、自分にすんなりできるようだった。実家で無意識のうちに耳に入れていたオヤジのギターのメロディーや唄は強烈にオレの脳にインプットされていたのかもしれない。

先日、トモダチがカバーしていたメキシコの曲をイメージしていたら、今度はオヤジが演奏したり聞いたりしていたロシア民謡の「カチューシャ」という曲が鮮明に思い出された、ということがあった。リズムやコード進行が酷似していたからだが、そのような連想をオレに可能にさせたということはある意味で不思議なことでもあった。早速ギターを持ってそのコード進行を探してみてメロディーを口ずさんでみると、これは赤い疑惑でやれるかもしれない、と思った。メキシコ民謡とロシア民謡の類似性を述べたいのではない。オヤジがオレに分け与えてくれた天分に対する、因縁めいた、ともすればロマンティックにもとられそうな妙な思考について述べてみただけである。

ワールドミュージックと呼ばれる音楽ばかりを聞いているが、実は昔からオレのすごく側にもワールドミュージックらしきものがあり、それはオヤジがギターやバラライカで鳴らしていたものであったようだ。「youtubeに自分の演奏がアップされているらしいから見方を教えて」と、さっき夕飯の食器を洗っているところオヤジがそんな依頼をしてきた。それでオヤジと一緒に悲しきPCの画面の、またその中に設置された悲しきウィンドウに呼び出されたオヤジのギター演奏を、静かに見つめ過ごすという、時が一瞬止まったかのようなワンシーンがあった。悲しきモニターに設置された小さなウィンドウではあったが、その映像はやはりオレにとって衝撃的にも思われ、また音楽的に素晴らしいものにも思われた。

「自分の演奏の姿をこうやって見るってえのは、なかなか勉強になるんだねー。自分の演奏の下手さが如実にわかるねー」オヤジが隣で囁いたので、オレは、オヤジの演奏から受けた心的動揺を隠しつつ「まったくその通りですね」と実感をこめて答えたのだった。

時は遠慮なく流れゆき

会社の先輩にもらったCDを聞いている。多分アメリカのアンダーグラウンドシーンのバンドでグランジっぽい音から音響、ポストロックを経過してワールドミュージックまで取り入れる野心的なバンド。時々琴線をくすぐるポップなメロディーが胸をかきむしるが、全体で聞くと疲れる。リスナーは勝手なモノである。

ブログを更新しようと思っているうちに時は刻一刻と流れ、日常の雑事に浸っているとなかなか立ち止まることができず、息継ぎをするのを忘れてしまう。今日みたいに何も予定がない日曜日などを突然迎えると、さあ、オレは何をするんだったっけ、と思い、日常やり忘れていたこと(例えばこのブログの更新など)をやろうと思うんだけど、いざそういうチャンスを迎えると面倒くさくなって結局終わりの見えない部屋の片付けなどに没頭し始めたりする。人間はあまのじゃくな生き物に違いない。

昨日は松田クラッチのおめでたい転居のお手伝いで、昼から夕方まで荻窪と西荻を行ったり来たりして冷蔵庫や洗濯機や机、椅子、その他あらゆる生活必需品を運び込む、という作業に従事していた。我が長尾家実家の車はトヨタのノアというゆったりしたワゴン車であるため、赤い疑惑のツアーワゴンとして愛用せられ、そしてこのような友人の引越の手伝いでも幾度か重宝されてきたのであり、昨日もその例に漏れずという具合だった。オレの他に大学の友人やその嫁やが集まった。

引越の最中よくよく考えてみると、こうして松田クラッチが目出たいことになってしまった今、ここにいる人間の中で所帯を持たないのはオレだけであることに気づき、何だか刹那的にナイーブな気持ちになった。オレはそんなことで自分がナイーブな気持ちになるとは想像したことがなかったが、実際にそんな気持ちに捕われて情けなかった。

松田クラッチの新居は安っぽいスペイン風住宅といった感じで微笑ましく、その代わり陽当たりは相当に良好で、そして空の広さと住環境という点では恵まれていた。目の前にぶっきらぼうな空き地があり、そこはほぼ正方形なのにちょっとした傾斜を持つ地形にあり、公園自体が3次元で歪んでいて、まともな公園とは思われない。誂えられた動物型の遊具も疎らで、位置取りも不明確であり、何の愛情も感じられない。しかしそのぶっきらぼう具合は松田クラッチには好ましかったのだろう、オレもそれはすぐに共感できて「こんな公園」が近くにあるっことは羨ましかった。クラッチは「ここならバーベキューやっても怒られなさそうじゃない?」と得意気だったが、オレも含めそれに難色を示さない者はなく、それでもクラッチはその夢を捨てようという諦観はみせなかった。

その引越の帰途、オレは引越現場から極至近距離にあるオヤジの職場(今年度をもって退職予定の)に寄ってオヤジを拾い、一度実家に帰宅し、改めて出直してオヤジとともに西部新宿線下りに乗って東村山へと向かった。東村山に旨いらしいそば屋がある、という情報をゲットした姉がオレの誕生日祝いをそこでしようと発案していたのであった。東村山駅を降り、一足先に店に到着しているはずの姉に店までの道のりを携帯で聞き、分かった気になってオヤジと歩き出したが結局迷ってしまい、東村山西口線路沿い所沢方面の路上でオレとオヤジはややうろたえねばならなかった。

近くにあった昭和風の酒屋に入り道を尋ねようと思った。レジには人がおらず店の奥(酒屋さんの住居)からおばちゃんが出てきたので「道をお尋ねしたいのですが」とオレは助けを求めた。すると別のおばちゃんがもう1人出てきてオレは少し緊張した。
「土屋というそば屋がこの辺にありませんか」
「ツチヤ? さあ、キクヤじゃなくて?」
「はあ、ツチヤ(土屋という漢字を思い浮かべながら)だと思います」
「キクヤさんならこの先にありますよ。」
「有名なところだと思うのですが」
「おいしいと評判ですよつけ麺の」
「はあ、そうですか」
つけ麺? おかしいなと思った。オレ達は中華じゃなくて日本そばを食いに行く筈だ。だけどこの先に川があるというし(姉からは川の側だと聞いていた)とりあえずそこまで行ってみようかと思い、お礼を言って店を出る。店を出ると今度はオヤジが姉と携帯で話している。酒屋の人に聞くより姉に電話した方が早いと思ったのだろう。そういう歯車の噛み合ぬ作業をしばらく繰り返し結局店に着いたのは予定より30分も遅れてしまった。

有名なところだと思うのですが、と言ったオレにはその店が本当に有名なのか何の確証もなかったのだが、実際店に着いてみると、住宅街のはずれの古民家を改装したような洒落た店で、有名な店というよりは知る人ぞ知る隠れ家的な構えの店で、店内はムーディーなジャズボーカルが流れ、読書しながら酒を飲むような1人客がちらほらいるばかりで、極めて静粛としている。その店内の様子(空気)を読み取って、姉はオヤジが酔っぱらって話し声が大きくなることを憂慮していた。それに気づいてオレは、オヤジが興奮して大きな声を出すと、ちょっとお父さん、と声をかけて姉と二人して人差し指を口の前に立てる仕草をした。オヤジもそれでやっと自分の興奮の度合いに気づいて苦笑いして静かになるが、日本酒が効いているのだろう、すぐに忘れてまたオレたちに注意されるということを繰り返した。

日本酒が相当にきいたらしくオヤジは帰りの電車の中で爆睡し、田無駅から自宅までの帰途も千鳥足だった。帰宅後に3人で、今日オヤジが昼間に勤務先で行なわれていた文化祭でゲットしてきたというカップケーキ(明らかにマフィンだと思うがそういう名前じゃなかったとオヤジは言い張った)を、紅茶と一緒に召し上がった。そば屋で飲んだ少量のビールと少量の梅酒と、今食った甘い菓子のせいでオレの脳みそは弛緩し眠気が襲ってきた。そういえばさっき(東村山の駅のホームで電車を待っている時)RYO君から着信があって「長尾くん、今晩何やってるんスカ」と、今晩RYO君が出る久米川のイベントの告知を受けたことを思い出し、久米川はウチから近いことだし車で行けるし、遊びに行こうと思ったことも思い出し、それならその前に一眠りしよう。

結局12時ゴロ目覚めて身支度して実家を抜け出し、大活躍のトヨタのノアに乗り、旧青梅街道をグングン下って行く。遊びに行くのだとういのに、都心とはまったく正反対の方向に向かい、住宅地が次第に次第に閑散としていく景色を窓越しに、音楽を効きながら優雅にドライブをする、というのは何とも贅沢な気持ちだ。久しぶりにスピンさせるチェ・スダカのミランダ・アル・ムンド・アル・レベスに大声で合唱しながらアスファルトを蹴散らしていくのはちょっと切なく、かつ爽快であった。

早朝6時に久米川から帰宅しベッドに倒れると次に気づいたら正午12時。今日は特別な予定がないはずだったが、夕方から姉貴と買物に行くということに、昨日の東村山での晩餐の最中急遽決まったのだ。だからそれまでの間ブログを更新しようと、やっとパソコンに向かってキーボードを叩きつけることになった。この土日はクラッチが目出たいことになったのを歓迎して赤い疑惑の練習はお休みなのであった。
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