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終わらない一日

起床すると、いけない、あと小一時間で家を出なくてはという時間である。オヤジに朝メシを喰え、と言われたが、オレはこの後、クラッチの結婚祝いのスペシャルランチにいく予定なので断った後、みそ汁だけ啜った。夜更かしして帰った後のみそ汁は格別のものだ。

急いで家に掃除機をかけ(これは自分の中でオレの役割にしている仕事である)、天気もいいので選択機を回し、バタバタ出かける準備をしていたが、いつも通り捗らず、洗濯物を干す、という作業工程だけをオヤジに依頼して家を出、車に乗った。吉祥寺で姉を拾い、クラッチ宅へ。オレと姉貴で、クラッチ夫妻の結婚を祝おうというのである。

クラッチとタッチーを拾い、予約をとっていたレストランへ。オレの知っている数少ない贅沢なお店だ。蟹の肉をマンゴーソースで頂くような前菜から始まって上品なフレンチコースをみんなで、うまい、おいしい、などと口々にし、最後のデザートを喰い終わる頃にはすっかり腹がふくれてしまうのであった。

姉を吉祥寺で下ろし、クラッチとタッチーを送り届け一旦帰宅。するとオレはうっかり家の鍵を持って出なかったらしいことが発覚した。こんな年で鍵がなくて家に入れずに困っているのはみっともないので、それに急に便意を催し始めていたので、とりあえず近所のイーオンに一旦避難。イーオンで事を済ませてマンションに戻る。マンションの裏庭から回ると1階の長尾家はベランダによじ登れるのだ。小さい頃によく鍵がなくて家に入れなかった時によく使う手だった。もっともベランダの窓の鍵が無防備に空いている時でないとその手は結局成就しない。それに小さい子供ならいいが、大のオトナがベランダの柵をよじ登っていたら尋常な光景じゃない。分かってはいたが試してみたくなってしょうがなくなったので、ガキの頃通り抜けていた裏庭への秘密の通路を確認しにいったら、しっかり網が張られてあって、行けないようになっていた。

よじ登り作戦ができないとなるとどうしようもない。オヤジとも電話が繋がらないし、と思って狼狽しているところへ「おいっ」と言ってオヤジが声をかけてきたのだから驚いた。オレは持ち前のマイペースな仏頂面を取り戻し、「実は鍵を持って出なくて」と弁解して、オヤジの後に小さくなって続いて無事我家の門を潜ることができた。オヤジの右手にはパンパンに詰まったスーパーのビニールがぶら下がっていた。近所に買物に行っていたらしい。

数時間後、今度は赤い疑惑の打ち合わせをしにクラッチが来宅した。新曲のギターとベースのアンサンブルを確認して、連れ立って西荻のスタジオへ。ブレーキーと合流。赤い疑惑の練習本番である。そして今日はスタジオ練が終わったら新木場までライブをしに行かねばならない。オールナイトのイベントで、出番が3時45分からだというので、オレ達はスタジオ練習を夜中の1時に切り上げて出発した。もちろんバンドワゴンは我がオヤジの愛車である。

助手席に陣取ったブレーキーが自慢のiPHONEで何やら電波をトバしてカーオーディオでDJを始める。油断のならないヤツだ。夜中の首都高は空いている。威圧感のある山の手のビルの間をすり抜け、江戸城の脇をすり抜け、夜景は綺麗だろうか、だけどオレは首都高は狭いし、ウネウネしているので怖い。集中して運転しなければならない。助手席のブレーキーはDJをしながらも時々「あ、玄ちゃん、次右の車線に入っといた方がいい」などといって大変役に立つ。オレは言われるままに走るだけだ。

東東京方面のクルー、マギーをピックアップして会場へ。着いてみると、何とまあ大変辺鄙な場所である。東京湾に隣接した工場やら木材倉庫やらがあるだけであとは空き地などがポツポツと。その辺一体は住人がいないらしい。それで夜中に倉庫で爆音で、という今日のイベントが実現可能なのであるのだな。これは実際に足を運んでみないと分からない。

しかしそんなことよりも、到着して案内してくれたスタッフが申し訳無さげに告白するには、既にタイムテーブルに1時間半近くの遅れが出ているらしい。オレたちの出番は5時近くになるようだ。困ってしまった。どうやって時間を潰そうか。

開場時間から来ているという、しかも地元の吉祥寺から自転車でここまで来たという友達のタバケンと会場で合流する事ができた。タバケンは「すっかり冷えちゃったよ」といって、野外にぶっきらぼうに備えられたストーブにあたっていた。しかもストーブにあたっていた他のお客さんと楽しそうに談笑していたので、「調子よさそうじゃん」と冷やかすと、「いや別にそんなんじゃないよ。っていうかお前ら遅いよ」とブツブツ言っている。タバケンは談笑していた人間に暇を告げてオレたちと合流した。合流したところで、特にやることもないので、とりあえずコンビニに行くか、ということになり、会場から一番近いコンビにを探すべくオレたちは出入り口に向かう。

受付で女の子が番をしていて、近くのコンビニを教えてくれる。しかし、再入場は不可だと付け足すので、誰ともなく「あの、出演者なんですけど」と言った。「出演者であればいいですよ」と言った後に「すみません、今日は何だか時間が押してしまっていて」と出演者のオレ達に気を使っている。「すみません」と言ったその子の困った顔が妙に気に入ってしまったオレは、「いや、いいんですよ」と言った後、先に表に出たメンバーを待たせておいて、しばらくその場から離れ難く、「赤い疑惑といいますが」とか余計なことを言いながら少しその子と会話を図った。

ほどなくして待たせたメンバーとコンビニ向かって歩き出す。するとさっきの受付の女の子の顔が頭に焼き付いて離れないようで困った。メンバーや連れにはもちろんそんなことは口にもせず、むしろバレないように、と思ってさりげなくしていた。教えてもらったセブンイレブンの横にすき屋があったので、我々一行は出番までの時間を紛らわすべく、とりあえずすき屋でメシを喰うということになった。

すき屋でオレたちは思い思いの商品を頼んだ。オレはゆずポンおろしと一緒に頂く牛丼ミニとみそ汁を頼んだ。正面のマギーはゆずポンおろしと一緒に頂く牛丼ミニと、追加でサラダを頼んでいた。他の連中が何を頼んだのかは記憶しないが、マギーは初めゆずポンおろしと一緒に頂く牛丼のみを注文したのに、途中でサラダを追加注文したことだけははっきりと思い出すのだ。「よくありますよね。ミニなんちゃらとか頼んどいて、食べ出したら、まだイけるな、っつって追加するパターン」と言ってサラダを追加していた。

オレはすき屋でメシを喰っている間、それに喰い終わってだらっとしている間、みんなと話しながらも受付の女の子の困った顔が頭から離れない。平然とみんなと会話しながら、(いや、これは運命かもしれない)などと過激な妄想を頭の中では展開していたようだ。腹がくちてみんなですき屋を出て会場に戻ることになった。オレは引き続き(これは、ちゃんと声をかけて連絡先のひとつやふたつ交換しとくべきじゃないか)などと思いながら歩いていた。(よし、そうしよう)自分の中での多数決が決まって動悸を高ぶらせながら会場に戻ると、受付にはさっきの子とは全然別の人間が3人くらいで番をしていて絶望的な気持ちになった。

楽しみが減ってしまったオレはここへきてクルーのマギーに「いや、実はさっきの受付にいた子、すげえタイプだった。だけどどっかいっちゃった」と告白した。すると「分かってましたよ。クラッチと受付の外で話してた時、すでにそういう予測はしてましたよ」というのだ。そうか、全部お見通し。つくづく自分の嘘のつけなさに恥じ入ったが、「あっ、あの子いますよ、いますよ。ホラ、受付に戻った」とマギーが教えてくれるのだった。受付を見ると、実際それらしい子が、今は1人で番をしているオトコの脇に行ってちょこんと座った。ここからの距離じゃホントにその子がさっきの受付の、困った顔を持ったあの子なのか、オレの視力では確認できないのだけれど、オレはもはやマギーに「タイプだった」と言ってしまったせいで、妙に意識ちゃってドキドキして直視できない。

「で、どうするんですか」とマギーが言うので、「オレ、やっぱり、ちょっと話してくる」と返答して行こうとするのを、すかさずマギーが「ちょっ、ちょっ、待って下さい長尾君、あの二人付き合ってますよ」と余計なことを教えてくれるのだった。言われてみると確かに、受付の二人の距離感などから、実際そんな雰囲気はあるのだ。オレの視力じゃはっきり見えなくてもそういう雰囲気だけはなんとなく伝わって来るものらしい。「彼氏がこのイベントの運営やってるから、アタシはあんまりこういうイベント興味ないけど、付合いで手伝ってるんです、って感じですよ。うん、絶対そうだ」マギーは矢継ぎ早にオレをがっかりさせるようなことを連発する。オレもすっかりその気にさせられて意気消沈してしまった。

オレがすっかり弱気になっていると、「でも、いいじゃないですか、彼氏いても」と今度はまるでさっきと逆様のことをマギーが言うので、オレはけしかけられているのかもしれない。この調子だとはオレは催眠術にもかけられやすいかもしれない。う~ん、そうだそうだ、彼氏いても関係ないよ、決めるのはあの子次第だものな。やっぱりオレは騙されやすいのかもしれない。

「まず、何て声かけるんですか」とマギーが更にけしかけるので、「あの~、付き合ってる人いるんですか?かな」と答えると「ダメ、ダメ。いきなりそんな風に攻めたら。逆効果ですよ」云々。そこからオレとマギーはああでもないこうでもない、と揉めた後に「あの子スタッフだからライブ終わりまでいますよ。後でチャンスをうかがえばいいですよ」というマギーの提案にオレものった。というより、あの恐らくの彼氏の存在が浮上した時点でオレは8割方負けた気分になっていたようだ。いやいや、そんなことよりも何よりも、オレにはこれから大事なライブがあるではないか。

それから数時間後、赤い疑惑の炎上ライブが終わると空はすっかり明るくなってもう午前6時に近かった。オレはこの後、帰宅したら死んだ母の5年祭という法要が待ち構えていて、このままだと寝ないでそれに臨まなければならないのだった。ライブですっかり全力を振り絞ったオレは、もう受付の子を探す気力もなく、とにかく法要に間に合うように素早く撤収することだけが頭を覆うのであった。
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文章

文章を書くというのは、まったく骨の折れる作業である。前からそんな風に感じていた訳ではない。パワーがなくなっているのかもしれない。

ブログを更新するというのがこんなに億劫に感じるようになったのは20代後半からだ。一日一日が精一杯になってしまって、わざわざ誰かのために文章を書くというパワーが自然と漲らない。恐らくそういう理由なんだと思うけど、昔ほどマメに更新しない。

何故か小さい頃から活字や言葉が好きだったのだが、高校生の時に「QUICKJAPAN」というサブカルチャー誌に衝撃を受けて、自分の文章を俄に発表したくなった。この発想は、学校などで課題で出されて何かを書く、という行為とは比べ物にならないほど自分を興奮させワクワクさせることだった。世間知らずな人間だったので、バンドにしても文章にしても他人に発表することに躊躇はなかったのかもしれない。

そういう経緯でオレは、当時はまだ今より沢山存在していた「フリーペーパー」という形式で自分で誌面を埋めて「ポンタラ」というユルいフリーペーパーを作ってトモダチに配り始めたのだった。その時はエネルギーが有り余ってたので、面倒な印刷作業やレイアウト作業も我慢して頑張っていた。とにかく発表したかったのだ。

「ポンタラ」は意外と、というか案の定というか、好評を博したのでオレは味をしめて継続させた。内容はたいしたことじゃなかったと思うが、当時強烈な個性を放っていた「QUICKJAPAN」という雑誌や、未だに息の長い「TV BROS」などの誌面を真似たりし号数を重ね、次第に誌面も増やし、友達にも文章を書いてもらったりして、最終的にはそれなりのフリーペーパーを完成させていた。

結局その後「ポンタラ」は止して「ユビオリ」と名前を変え、大学を卒業してからはさすがに仕事とバンドと息抜きとで余裕がなくなってきて、赤い疑惑通信という体裁で「わくわく赤い疑惑」と名付けたものを作っていた。

世の中にインターネットやブログという画期的なモノが現れて、その存在を知ったオレは世間並みの文明人のごとく、(こりゃ、素晴らしい代物だ、オレも早くやりたい)と思うようになった。何しろ面倒な印刷や、レイアウトやなんかをすっ飛ばして世間に自分の文章が公表できるのだから。

赤い疑惑の活動が活発化し始めると、友人が(HTMLがなんなのかさっぱりだった当時のオレにとっては切願していた)赤い疑惑のホームページを作ってくれた。ほぼ同時期にブログも立ち上げてくれて、それでオレは面倒な作業をせずにブログをスタートさせることができたのだった。始めた当初はまだまだエナジーが有り余っていたのだろう、頻繁なペースで、日記や、それこそこんなような下らないことを書きまくっていた。

しかしブログは気軽に発表できるという要因が災いすることもあった。例えば固有名詞を扱う時の常識なんかがオレにはなかったものだから、友達から注意されることもあったし、前に付き合ってた彼女(世間的には元カノというが)に「あんなこと書かないでよ」と怒られて凹んだこともあった。

気軽に発表できることはもう一つマイナス要素があった。それは自分の書きたかったことをあんまり揉まないで発表してしまうことだ。フリーペーパーを作ってた時のように余計な苦労をしないので、発表するのも手軽だ。しかし本当に書きたいことを書いているだろうか、というブレを感じることもしばしば発生し、ウェブと紙とでは全然熱量が違ったのだな、とオレはそういうことに後から気付いてしばらくブログを中止したのだ。ちなみに中止した下世話な理由に、「オカネにならないし」という俗欲が働いていただろうことも否定しない。

そうとはいっても性分なのだろう、オレはまたしばらくすると文章が書きたくなって、人様に発表したい欲求がドクドクと心の中にわだかまるようになった。それでまたブログを再開して現在にいたっている。

そんな現在オレは、日常に追われて昔ほど文章が書けないのであり、そういう時間も限られているのであり、最初にいったようにエネルギーが昔ほど湧いて来ないのだが、かといってそれで焦燥感にかられたりももうしない。書きたくなったら書いて、書きたくなかったら書かなければいい。32年間生きてきて、焦るという行為ほど、自分を擦り減らすモノはないと悟ったからだ。

書きたくなかったら書かなければいいのだが、執筆を他の誰かに依頼された場合は別のハナシである。オレは恵まれたことに今3人の方から文章の依頼を受けて定期的に連載を書いている。ディスクユニオンのフリーペーパーと、「trash up」というトラッシュ・カルチャー誌、それからバンドで知り合ったゆーきゃんが運営しているサンレインレコードというレコードショップのブログである。

オカネが発生する類のモノではないけど、自分でブログに文章をアップするよりも社会に貢献しているような気持ちになるし、何だか励みになるので続けている。ディスクユニオンの連載は1ヶ月ごとで、初めは(余裕だろう)と高を括っていたが、実際やってみると1ヶ月はあっという間で、毎回気合いを入れなければならず、油断できない。それでも、音楽やバンドという事象に熱意のある読者が(恐らく)前提なので、音楽についてとやかく書いている。

「Trash up」ではワールドミュージックについて書いている。編集長の屑山さんに「アクセルさんのパンクな視点でのワールドミュージックを語ってくれ」とお願いされたのだ。実際、現今のワールドミュージックという業界にパンクな視点というのはあんまり介在していない。オレはパンクな視点でワールドミュージックを聴く訳ではないが、世代による音の聞こえ方の違い、ということに最近興味を抱いているので、臆することなく書くことにした。

サンレインレコードのゆーきゃんからは「何でもいいですよ」と言われたので安心して引き受けてしまった。しかし「何でもいいですよ」は結局、「選択の自由による優柔不断」というフリーター世代的な、致命的な苦痛にも脅かされることになるのであって悩むのである。結局悩むのだ。

文章を書くというのは大変なことで、しかしオレはこれからも書くことも読むことも止めないと思う。ギターを弾いたりバンドをやったりすることと同じで、それをしないとなんとなく不調な気がするのである。強迫観念という類のものかもしれないが、そんなネガティブには考えず、生きる為に書き、書く為に生きるのだと思っている。死ぬときは死ぬのでありたい。

音楽のハナシ

「勇気と君を僕は信じる、君は平気さ僕がいるかーらー」。これはオレがロックの魅惑に取り込まれるきっかけを作った、ジュン・スカイ・ウォーカーズの「風見鶏」というバラード曲の一節だ。まだ世の中が「夢」や「希望」で溢れていると信じていた(バブルと世間がまだ呼ばれていた頃に違いない)当時のオレは、このフレーズを友達と熱唱し、チャリンコをこいで小平の(個人でやっていた)英語教室に通っていたことをはっきり思い出せる。こういう陳腐な歌詞にガキは弱いものなんだろう、オレは「勇気」とか「希望」とか「夢」などといったフレーズに疑問もなく未来を託して興奮していた。

しかし、高校生の時出会った、グランジと呼ばれ一世を風靡したアメリカのロック野郎どもが、「オレは最低だ~」と唸ってディストーションを踏み出してドラムセットをぶっこわしていた頃、オレはそのバイブスに呼応したのか、性質がひねくれだして、「希望」とか「夢」といった通り一遍の歌詞では反応しなくなり、ブラッド・サースティー・ブッチャーズなんかの歌詞に痺れたりしていた。それから大学を卒業して両親の庇護を脱するまでは、やはり常にひねくれ目線で踏んばっていたのだ。

大学を卒業するまでオレはバンドで唄ったことはなかった。自分は残念ながら音痴だ、ということを自覚していたし、それまでは今ベーシストの松田クラッチがボーカルをやっていたのである。オレもクラッチも育ちはいいのに、ハードコアパンクにのめり込んで、そういう真似事をやっていたのだ。ハードコアの魅力は多分にボーカルにあるので、ボーカルは特に張り切らなければならないのに、その当時の松田クラッチは表面アッパー、内面多分にシャイだったので、ライブだというのにオーディエンスの方を向くこともできず、まして煽ることなどはどだい出来ない。中空を見つめるか、ヒドい時は客に背中を向けて叫んでいた。何を叫んでいるのかメンバーは知らないが、どうも英語に聞こえない時があるので(当時は英語で唄うのが流行ってた)、「松っちゃん何語で唄ってんの」と聞いたことがある。すると「英語とドイツ語と混ぜてる」と答えた。松田クラッチは大学で独文学科に籍を置いていた。

さて、大学を卒業して、就職組がバンドを去り、オレとクラッチで一からバンドを再開しなければならなくなった。その頃クラッチは、「もうボーカルはやりたくない、、、けどバンドは続けたい」と非常に頼りなく曖昧なことを口にしていた。「じゃあ何がやりたいの」と聞くと「やっぱベースかな」と答える。それ以来松田クラッチはベーシストになった。そう考えると、曖昧なことを言っても物事は成立するのだな、ということを松田クラッチの歴史が物語っている気がする。

それはさておき、オレはギターだから、ドラマーを入れて3ピースバンドとして始動することになった。これが赤い疑惑の始まりなのだ。3ピースはかっこいいよな、というオレとクラッチの中での同意があったからかだったのか、どうなのか、よく覚えないのだが、じゃあ、オレが唄っちゃおえ、と思うようになった。そこへきてゲンキンなことに、オレは、実はボーカルがやりたかったんじゃないだろうか、とも思えたのだ。オレは音痴を自覚してはいたが、こういう歌を唄いたい、とか、こういうメロディーを唄いたい、とか、そういう野心は元々内に秘めていたので、それで何となく唄い始めて、それからオレはギターボーカリストになったのであった。始まりはいつも曖昧なものなのだ。

クラッチは英独語で唄っていたけど、オレはそんな恥ずかしいことは止したい。というより、とにかく日本語が好きだし、たまとか、ジュンスカとか、ユニコーンとか、そういうヤツらから受けた影響が、日本語詞への憧憬として自分の内にあったので日本語で唄い始めた。日本語で唄うのは当り前じゃないか、何をバカなことを、と思われるかもしれないが、当時、あのインディーパンクカルチャーの中で、歌詞を日本語にして勝負に出るのは割りと「勇気」の要ることだった。下手すると英語で唄うより断然カッコ悪くなるからだ。多分そういう理由で周りのバンドがみんな英語で唄っていた。メロコアとかエモーショナルパンクというジャンルがあるが、そういったバンドは大体英語で唄っていた。

赤い疑惑を始動して2年後にドラマーが沓沢ブレーキーになり、何故か勢いを増したオレたちは、赤い疑惑として「夢よもう一度」という企画を始めることになった。当時のオレはもはや高校生の時みたいに「オレは最低だ~」と叫ぶようなロックの発想など一切なかったし、せっかく社会に出てバンドを再始動させたのだから、どうにか前向きにいようと思っていた。たまたま友人にもらった阪神タイガースの土産菓子の包みに、よく見ると「夢よもう一度!広沢克美」とあった。当時広沢は全盛期を過ぎ、落ち目だったが、まだ前向きに頑張っていたのだろう、オレは何となくそのベタなフレーズが気に入って、そのままイベントの企画名に拝借した。アホ臭いけど「夢よもう一度!」という気持ちでバンドをやっていこう、と思っていたのだろう。

手前味噌になるが、オレの20代は凡人なりに大変なことがいろいろあった。バンドが売れる気配もないし、金はないし、母が死んだ。5年以上付き合ったヒトと別れなければならなくなって、オレは西東京市の実家に戻った。大学を出て実家を飛び出した頃の血気盛んだったロック少年は、8年経って這う這うの体で実家に戻ってきた。何とも情けないハナシだが、オレはそんな自分の人生を不幸とも思わず、むしろこれがオレのブルースだゼ、などと開き直って、今もバンドを続けている。

社会に出て人生の厳しさを味わったオレも、辛いな、大変だな、とか思いながら、それでもとにかく音楽は聞き続けていた。もはやジャンルを問わずいろんな音楽を聞いてきたが、段々と自分がどういう曲が好きなのか、自分の好みが少しずつ分かってくるものらしい。オレはどうやら、オシャレな要素のある音楽は苦手で、派手な音楽も苦手で、苦悩の音楽も苦手なのだが、確実に好きなのが「勇気」を感じさせる音楽だということに最近気付いた。とはいってもオレが個人的に「勇気」を感じるだけのハナシで、それを伝えるのは難しい。基本的にはショギョウムジョウ的な哀れを帯びつつ、それでいて勇気を感じさせる音楽。農民が毎日辛い労働をし、ただ収穫を望んで自分を励ます為に節をつけて唄う。多くは望まず、だけど自暴自棄にならぬように節をつけて唄う。そういったイメージを想起させるメロディーやコード進行に、オレは感じやすいらしい。

そんなことを思うようになって、振り返ってみるとオレはマイナーコードで始まる曲ばっかり聞いていて、作る曲もほとんどマイナーコードばっかりだということに気付いた。そうだと気付くと何だか心配になり始めた。自分は暗いのだろうか。ネガティブなのだろうか。メジャーで始まるハッピーな唄も作らねばならぬだろうか。そんなことをずっと考えながら生活しているウチに、ちょっと待てよ、と思った。マイナーとメジャーというけど、マイナーは暗い、メジャーは明るいって固定観念はおかしくないか、とも思うようになった。

何故ならオレがいつも好きで聞いている音楽達が、仮にマイナーコードが多かったにしろ、オレはそれらの曲を聞いて暗い気持ちになっている訳ではないと確信するからだ。むしろ勇気をつけられたり、励ましてくれたり、後押ししてくれるような気持ちになっていることの方が多いんじゃないか。どちらかというと前向きなヒビキすら感じられるじゃないか。そう思い始めた頃、ひとつ面白いことを知った。

メジャーとマイナーというのは、クラシックでいうと長調と短調ということになるけど、それはいわゆる西洋音階の規則であって、すべての音楽がそれで説明されるものではないということを知ったのだ。会社でアラブ音楽の勉強会があって、クラシックより歴史の古いアラブ音楽やインド音楽には、マカームとかラーガとか呼ばれる音階の種類があり、それは何百種類もあるのだという。西洋音階では長調と短調という風に大雑把に二分して、ドレミファソラシドの7音階にシャープかフラットをつけて、音を区別したのに対し、アラブやインドの音階はもっと複雑に音程を分けて表現しているのだという。それはどういうことかというと、例えば、ドとレの間を8個に分けた微分音を表現したりするのが当り前の世界、ということだったりするのだ。ドレミで音楽を教わったオレは気の遠くなる思いでそれを想像してみた訳だけど、次の瞬間、そうか、ということは、音楽はメジャー、マイナーという区別で考える必要はない、と思うようになったのだ。

マイナーコードでも前向きな響きを表現できる。そういう風に思えるようになった時、今まで聞いてきて好きだった音楽が何でマイナーコードのものが多いのか理解できたし、丁度そんなことを考えていた時に出会ったのがEKDだった。EKDの音楽を聞いた時、オレがものすごく興奮したのは、彼の曲には、ものすごい低い姿勢で、それでもとにかく前を向いて歯を食いしばる、またはポケットの中に隠した拳が何故か強く握られている、そんなような前向きなマイナー調があったのだ。それをレベルミュージックと括っちゃえば簡単だけど、そんな括りよりも、とにかく彼の出すメロディーやコードにオレは共感を覚えた。自分の今後に勇気が湧いた。「夢」とか「希望」ではなくて「勇気」だ。そんな(ミュージシャンとしては非常に大切な)感動やシンパシーに、東京でバンド活動をしていてほとんど出会わなかった。

もうひとつ、最近びっくりしたことがあった。それはソンコ・マージュという日本人のギタリストの存在を知ったことだった。変な名前だけど、これは芸名で、その名はアルゼンチン・フォルクローレの父、アタウアルパ・ユパンキから授かった芸名だそうだ。ソンコ・マージュはそのユパンキの生涯ただひとりの弟子で、南米ギターとフォルクローレの魅力を日本に知らしめた偉人でもある。オレはソンコ・マージュの存在は何とオヤジから最近教えてもらったのであるが、ユパンキのことも最近仕事の関係で知るようになったので、これは何かの縁なのかもしれない。まだいまだに現役で演奏活動をしており、オレはチャンスを得て、我々の世代には知られざるミュージシャン、ソンコ・マージュのライブを見ることができたのだが、まさに圧巻だった。そしてソンコ・マージュの音楽もやっぱり強烈な、前向きなマイナーだった。

後日オヤジから「おまえ、ソンコマさんの本あるけど、興味あるなら読むか」と言われて一冊の本を渡された。ソンコマさんと呼ばれているらしい。その本(刊行は昭和49年)は全体的にカビが生えて汚らしい感じだったけど、内容が面白そうなので読むことにした。それはソンコマさんの対談集で、対談相手として名を連ねるのが、横尾忠則、野坂昭如、小沢昭一、水木しげる、五木寛之、かぐや姫等々、錚々たる顔ぶれである。その中の五木寛之との対談で、「暗さの中の日向性」とか、「暗い縁側の下からでも、お日様のほうに向けてかっと伸びようとするような力」だとか、「つらくてもつらいといって恨み、嘆き、悲しむだけじゃなくて」だとか、そういうようなことを音楽になぞらえて語っている。これこそまさにオレが考えてたことじゃないか。面白いのはソンコマさんが演歌と赤軍派のテロを、あれはデカダン的、退廃的だと例えて否定し、そうじゃなくて乾いたブルースのようなものを奨励している。その文章を読んだ時、ソンコ・マージュのギターと歌を思い出し、なるほど、この人はちゃんと実践している人だな、と感心せざるを得なかった。オレたちは毎日辛くて大変でも前を向いて生きていくしかない。

「いやあ、すごく暗くて、すごくよかったです」と歓喜の顔でライブの感想を言われたことがあった。半年前だかの名古屋のライブの時に地元のお客さんに言われたのだ。オレは、「暗くてよかった」は褒め言葉なのかなんなのか、ちょっと躊躇したけど、いやこれは褒められてるんだな、とすぐに思い返し、よかったよかった、と自分の音楽に自信を持ったのだった。マイナーでも前を向き、マイナーでも勇気をだす。辛いことばかり毎日続くけど、聞くと勇気が湧いて来る。そんな音楽をオレは作りたいのだと思う。ジュンスカが唄った「勇気」とはもはや違うモノなのかもしれないけれど。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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