御嶽神社のお膝元にて
紋付袴を着付けられ、私は特別な儀式に巻き込まれようとしている。紋付袴を着ているのは私だけじゃない。オヤジもタカシさんも着ているのだ。二人とも似たような背格好で、決して大柄ではないがオトコの味わいに溢れているのだ。
南山荘の奥の間から現れたピーは白無垢を身に纏い、キラキラ輝いていて、私は恥ずかしくて直視できない。私とピーが並んで外に出ると、集まった親戚に、綺麗ねえとか、立派じゃねぇか、などと囃され、囃されるまま二人で歩き出した。
式をあげる御嶽神社までは、舗装されてるとはいえ急勾配な坂や、決して少なくない参道の石段など、重い桂を被り、重い着物を着てるピーには難所が続く。と思ったら慣れない足袋と袴で私の足元も覚束ない。ツルっと足先が滑って雪駄が足から外れてしまう。
ピーは余程大変だろう、と思ってピーの横顔を覗いてみるととても厚化粧でビックリした。眼などは付けまつ毛でよく見えないくらいだ。だがビックリしている場合ではない。こういう時は彼女の手を取ってリードして歩くべきなのか、手を取るべきでないのか考えてみるのだが自信が持てない。儀式慣れしないオレにピーが「手を…」と囁いたので気を取り直して彼女の手を握った。
参道の登山客や茶屋のじじばばが、まあ綺麗ねえ、とか、あらぁおめでとうございますぅ、と声援を送ってくれるので、嬉しくなって礼を述べたりしながらひたすら前に進む。ピーの後ろからケーコおばさんが背中を押してくれていて、そのおかげでピーもまともに前進できるようだった。
娘の晴れ舞台に興奮したタカシさんが私たちの前に回り込んでシャッターを切っているが、「お父さんがチョロチョロしたらみっともないから~」とヤジが出て引っ込む。しばらく登った頃、オヤジがスタスタと僕らのペースを気にせず前を歩いていくのを、「お父さんが前を歩いたらカッコがつかないでしょう~」とまた誰からともなくヤジられてバツが悪そうに引っ込む。そして僕らは一歩一歩、淡々と山道を進んでいく。
参道の階段を登り切るころ小雨がパラついてきたが、山頂の御嶽神社での結婚式は勿論屋内なのでつつがなく始まった。それは期待していた通り、厳かで仰々しい日本の儀式だった。神主さんに助言されるままに動き、分からぬ祝詞に耳を傾け、誓いの詩を発し、玉串を授けた。金属のベタな指輪が嫌で、ネットで探し当てた木の結婚指輪を交換して式が終わると、オヤジがまず長尾家の親族紹介。次いでタカシさんが寒河江家の親族を紹介していく。慣れない空気が流れる。
──これが血縁というやつだナ、これが結婚ってヤツだ…
儀式を終え外に出ると、小雨は上がり、何と関東平野の空に虹がかかっていた。これは縁起がいい、祝福されたのね、などと誰からともなく。
式を終えて一向は南山荘に戻り、これから2時間ばかりの祝宴が始まる。こんな山奥に親族を呼び出したことで開催前は申し訳ない気持ちと緊張を引きずったが、こうして温かい表情で集まってくれた親戚を前にしたら、こだわって山奥の式を企画してよかった、よかった、と思った。
南山荘の大きな和室にロの字型にお膳が並び、皆が席につくと、義弟が司会進行を始めた。まったくの棒読みなのだが、超寡黙な印象の彼が僕らの為に慣れない仕事を買ってでてくれたのか、と思うと有難いことだった。それぞれの親族から一人ずつの祝辞、亡くなった母の兄による乾杯の音頭で一気に場が華やいだ。
しばしの閑談となり右側から左へ、左側から右へ、お互いの親族が酌をして挨拶していくのを不思議な気持ちで眺めながら私は眼の前のご馳走を片はしから平らげていく。こんな時、主役の膳は得てして進まぬもので、またそれが礼儀的でもあるのかもしれないが、私は構わずご馳走を食べる。時々酌がやってくるので恭しくコップを差し出すが、ホラホラ呑め~、と絡んでくるような方もおらず、余興が始まるまでにすっかり自分の膳は空にしてしまった。
余興の第一弾は、上手と評判のタカシさんのカラオケでメリージェーン。が、盛り上がる親族の談笑にかき消されて、注目を集めていない。タカシさんもシャイで、熱唱しているがカラオケの画面を向いて歌っているので最後まで皆の注意をひけず、とてもシュールな空気が流れたと思うとピーが隣でその場面を激写している。
次はオヤジの弟とオヤジによるデュエットで演歌も演歌の「兄弟船」。これは二人が生まれ育った周防大島出身の星野哲郎が作詞し、鳥羽一郎が歌ってヒットした曲で、こんな宴会ではことあるごとに歌っているらしい。オヤジと私が生ギターで伴奏するので、列席の注意もここへきて一つに集まってきた。
続いてオヤジのおハコであるメキシコのマリアッチを、引き続き私の伴奏による親子共演で3曲。オヤジがもう大分酔っ払ってペースが一定でないので、二人の演奏自体はピッタリとはいかないが、ステージ慣れしたオヤジのMCで会場もようやくひとつになってきた。
いよいよ私の挨拶と唄の披露。すでに会場も温まっていて、皆が私の言葉を待っているのが分かる。私はメモなど用意しておらず、その場で適当にスピーチをするつもりだった。今までだってそうしてきたのだ。
「本日は遠路はるばる、このような山奥までご足労を…」という定番の枕詞だけスラスラと出てきたが、ここに母がいない──もう死んじゃっていないんだ、ということを語るくだりから予想に反して言葉か詰まり、以降ずっと嗚咽混じりのみっともないスピーチになってしまった。
オレは眼の前に、生きて存在しているオヤジ、大人になるまで苦手で、一緒にギター共演なんてするなど思っていなかったオヤジのことに関してをメインに喋るつもりだったのだが、顎や口全体が強張って思うように言葉が出ない。私がロックにハマり、文学にハマり、親に反対されながらもこれまで中途半端にバンドマンを、フリーターをやってきたのは自分の意思だった。それはオヤジがギタリストで国語の教師であることとは関係なく、自分の意思で選び、進んできた道だと確信していた。
ところが20代の半ばに偶然オヤジの半生記を読んでから、そしてガンになった母の看病にあたるため家族で団結するようになってから、自分の得意分野や性質的な部分が、他でもないオヤジのDNAから授かったものだと認めるようになり、オヤジに対する嫌悪感が愛情に近いモノに変わっていった。そんな心境の変化を赤裸々に吐露するつもりだったのだ。
スピーチが嗚咽混じりであまりにたどたどしいので、ガンバレー、と親族の声が横から聞こえてくる。皆が哀れんで私の口から出るであろう次の言葉をじっと待っているのがわかる。「私は父が…、父が…」とまた声を詰まらせると、さっき兄弟船を歌った、オヤジとは因縁の関係の叔父が「似たもん同士やぁ!」と大声を出した。張りつめた空気を柔らかくさせようという叔父の気遣いだった。そうそう、私はオヤジに似て泣き上戸で、目立ちたがり屋、頑固者でひねくれ者。
──はい…、その通り…
思わず私も泣き笑いしながら首肯した。
その後も、なお言葉を詰まらせながらもスピーチを終わらせ、最後にオヤジを思って大分前に作った曲を弾き語った。こんな状態じゃまともに歌えないだろうと不安に思っていたが、歌い出したらさっきの泣き虫は何処吹く風、腹からしっかり声が出てきて、曲がりなりにも自分がこれまで人様の前で歌を歌ってきた経験値と自信とが、私に歌のエネルギーを与えてくれているのがわかるようだった。この期に及んで、(やっぱりオレはミュージシャンなんだナ…)と、甲斐性ない戯言が脳裏をかすめたが、とにかく一生懸命歌い切る。拍手喝采が起こる。オヤジは立ち上がって両の手をあげ、歓声をあげた。
私が席に戻ると交代にピーがご両親宛の涙の手紙を読み、続いてタカシさんが、そして、最後はオヤジが挨拶の辞を述べて宴会はお開きとなった。帰途につく親戚をお見送りしていると、フリーターでバンドマンだった私を昔から何となくからかい気味に接していた親戚が──そのせいで私は長い間親戚コンプレックスを持ってたのだが──、「いい唄だったゾ」などと声をかけてくれ、明らかに今までと違う視線を向けてくれているのを感じた。私もようやくこれで大人の仲間入りを認められたのだろうか、だとしたら拍子抜けするほど単純なモンだな、と苦々しく思いながら別れの挨拶を済ませた。
その後、近しい親族を含む南山荘宿泊組で二次会的な時間がダラダラと流れ、カラオケやらがまた始まるが一定量の酒を飲んだオレは畳の上で仰向きで寝てしまった。呑むぞ~とか、付合えよ〜などと強引に呑ませる親戚がいなかったせいで油断したのもあるが幸せな時間だった。数十分してムクっと起き上がるとまだカラオケである。気づくと今度はオヤジが酒に潰れて畳に伏していて、やっぱり親子なんだな、と思った。
南山荘の奥の間から現れたピーは白無垢を身に纏い、キラキラ輝いていて、私は恥ずかしくて直視できない。私とピーが並んで外に出ると、集まった親戚に、綺麗ねえとか、立派じゃねぇか、などと囃され、囃されるまま二人で歩き出した。
式をあげる御嶽神社までは、舗装されてるとはいえ急勾配な坂や、決して少なくない参道の石段など、重い桂を被り、重い着物を着てるピーには難所が続く。と思ったら慣れない足袋と袴で私の足元も覚束ない。ツルっと足先が滑って雪駄が足から外れてしまう。
ピーは余程大変だろう、と思ってピーの横顔を覗いてみるととても厚化粧でビックリした。眼などは付けまつ毛でよく見えないくらいだ。だがビックリしている場合ではない。こういう時は彼女の手を取ってリードして歩くべきなのか、手を取るべきでないのか考えてみるのだが自信が持てない。儀式慣れしないオレにピーが「手を…」と囁いたので気を取り直して彼女の手を握った。
参道の登山客や茶屋のじじばばが、まあ綺麗ねえ、とか、あらぁおめでとうございますぅ、と声援を送ってくれるので、嬉しくなって礼を述べたりしながらひたすら前に進む。ピーの後ろからケーコおばさんが背中を押してくれていて、そのおかげでピーもまともに前進できるようだった。
娘の晴れ舞台に興奮したタカシさんが私たちの前に回り込んでシャッターを切っているが、「お父さんがチョロチョロしたらみっともないから~」とヤジが出て引っ込む。しばらく登った頃、オヤジがスタスタと僕らのペースを気にせず前を歩いていくのを、「お父さんが前を歩いたらカッコがつかないでしょう~」とまた誰からともなくヤジられてバツが悪そうに引っ込む。そして僕らは一歩一歩、淡々と山道を進んでいく。
参道の階段を登り切るころ小雨がパラついてきたが、山頂の御嶽神社での結婚式は勿論屋内なのでつつがなく始まった。それは期待していた通り、厳かで仰々しい日本の儀式だった。神主さんに助言されるままに動き、分からぬ祝詞に耳を傾け、誓いの詩を発し、玉串を授けた。金属のベタな指輪が嫌で、ネットで探し当てた木の結婚指輪を交換して式が終わると、オヤジがまず長尾家の親族紹介。次いでタカシさんが寒河江家の親族を紹介していく。慣れない空気が流れる。
──これが血縁というやつだナ、これが結婚ってヤツだ…
儀式を終え外に出ると、小雨は上がり、何と関東平野の空に虹がかかっていた。これは縁起がいい、祝福されたのね、などと誰からともなく。
式を終えて一向は南山荘に戻り、これから2時間ばかりの祝宴が始まる。こんな山奥に親族を呼び出したことで開催前は申し訳ない気持ちと緊張を引きずったが、こうして温かい表情で集まってくれた親戚を前にしたら、こだわって山奥の式を企画してよかった、よかった、と思った。
南山荘の大きな和室にロの字型にお膳が並び、皆が席につくと、義弟が司会進行を始めた。まったくの棒読みなのだが、超寡黙な印象の彼が僕らの為に慣れない仕事を買ってでてくれたのか、と思うと有難いことだった。それぞれの親族から一人ずつの祝辞、亡くなった母の兄による乾杯の音頭で一気に場が華やいだ。
しばしの閑談となり右側から左へ、左側から右へ、お互いの親族が酌をして挨拶していくのを不思議な気持ちで眺めながら私は眼の前のご馳走を片はしから平らげていく。こんな時、主役の膳は得てして進まぬもので、またそれが礼儀的でもあるのかもしれないが、私は構わずご馳走を食べる。時々酌がやってくるので恭しくコップを差し出すが、ホラホラ呑め~、と絡んでくるような方もおらず、余興が始まるまでにすっかり自分の膳は空にしてしまった。
余興の第一弾は、上手と評判のタカシさんのカラオケでメリージェーン。が、盛り上がる親族の談笑にかき消されて、注目を集めていない。タカシさんもシャイで、熱唱しているがカラオケの画面を向いて歌っているので最後まで皆の注意をひけず、とてもシュールな空気が流れたと思うとピーが隣でその場面を激写している。
次はオヤジの弟とオヤジによるデュエットで演歌も演歌の「兄弟船」。これは二人が生まれ育った周防大島出身の星野哲郎が作詞し、鳥羽一郎が歌ってヒットした曲で、こんな宴会ではことあるごとに歌っているらしい。オヤジと私が生ギターで伴奏するので、列席の注意もここへきて一つに集まってきた。
続いてオヤジのおハコであるメキシコのマリアッチを、引き続き私の伴奏による親子共演で3曲。オヤジがもう大分酔っ払ってペースが一定でないので、二人の演奏自体はピッタリとはいかないが、ステージ慣れしたオヤジのMCで会場もようやくひとつになってきた。
いよいよ私の挨拶と唄の披露。すでに会場も温まっていて、皆が私の言葉を待っているのが分かる。私はメモなど用意しておらず、その場で適当にスピーチをするつもりだった。今までだってそうしてきたのだ。
「本日は遠路はるばる、このような山奥までご足労を…」という定番の枕詞だけスラスラと出てきたが、ここに母がいない──もう死んじゃっていないんだ、ということを語るくだりから予想に反して言葉か詰まり、以降ずっと嗚咽混じりのみっともないスピーチになってしまった。
オレは眼の前に、生きて存在しているオヤジ、大人になるまで苦手で、一緒にギター共演なんてするなど思っていなかったオヤジのことに関してをメインに喋るつもりだったのだが、顎や口全体が強張って思うように言葉が出ない。私がロックにハマり、文学にハマり、親に反対されながらもこれまで中途半端にバンドマンを、フリーターをやってきたのは自分の意思だった。それはオヤジがギタリストで国語の教師であることとは関係なく、自分の意思で選び、進んできた道だと確信していた。
ところが20代の半ばに偶然オヤジの半生記を読んでから、そしてガンになった母の看病にあたるため家族で団結するようになってから、自分の得意分野や性質的な部分が、他でもないオヤジのDNAから授かったものだと認めるようになり、オヤジに対する嫌悪感が愛情に近いモノに変わっていった。そんな心境の変化を赤裸々に吐露するつもりだったのだ。
スピーチが嗚咽混じりであまりにたどたどしいので、ガンバレー、と親族の声が横から聞こえてくる。皆が哀れんで私の口から出るであろう次の言葉をじっと待っているのがわかる。「私は父が…、父が…」とまた声を詰まらせると、さっき兄弟船を歌った、オヤジとは因縁の関係の叔父が「似たもん同士やぁ!」と大声を出した。張りつめた空気を柔らかくさせようという叔父の気遣いだった。そうそう、私はオヤジに似て泣き上戸で、目立ちたがり屋、頑固者でひねくれ者。
──はい…、その通り…
思わず私も泣き笑いしながら首肯した。
その後も、なお言葉を詰まらせながらもスピーチを終わらせ、最後にオヤジを思って大分前に作った曲を弾き語った。こんな状態じゃまともに歌えないだろうと不安に思っていたが、歌い出したらさっきの泣き虫は何処吹く風、腹からしっかり声が出てきて、曲がりなりにも自分がこれまで人様の前で歌を歌ってきた経験値と自信とが、私に歌のエネルギーを与えてくれているのがわかるようだった。この期に及んで、(やっぱりオレはミュージシャンなんだナ…)と、甲斐性ない戯言が脳裏をかすめたが、とにかく一生懸命歌い切る。拍手喝采が起こる。オヤジは立ち上がって両の手をあげ、歓声をあげた。
私が席に戻ると交代にピーがご両親宛の涙の手紙を読み、続いてタカシさんが、そして、最後はオヤジが挨拶の辞を述べて宴会はお開きとなった。帰途につく親戚をお見送りしていると、フリーターでバンドマンだった私を昔から何となくからかい気味に接していた親戚が──そのせいで私は長い間親戚コンプレックスを持ってたのだが──、「いい唄だったゾ」などと声をかけてくれ、明らかに今までと違う視線を向けてくれているのを感じた。私もようやくこれで大人の仲間入りを認められたのだろうか、だとしたら拍子抜けするほど単純なモンだな、と苦々しく思いながら別れの挨拶を済ませた。
その後、近しい親族を含む南山荘宿泊組で二次会的な時間がダラダラと流れ、カラオケやらがまた始まるが一定量の酒を飲んだオレは畳の上で仰向きで寝てしまった。呑むぞ~とか、付合えよ〜などと強引に呑ませる親戚がいなかったせいで油断したのもあるが幸せな時間だった。数十分してムクっと起き上がるとまだカラオケである。気づくと今度はオヤジが酒に潰れて畳に伏していて、やっぱり親子なんだな、と思った。
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