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継続は力なり

 コダマさんが、なかなか面白いよ、アクセルさんの文章は、と言ってくださった。そして、どんどん書くべきですよ、書くのも日常的にやってないと書けなくなっちゃうからネ、と。
 そうなのだ。何でも日常的にやっていないとどんどん勘を忘れていってしまうものなのだ。書くことに限らず、バンドも、弾き語りも、DJも、普段からやってることのほとんどがそうなのだ。それは料理や皿洗い、掃除洗濯なんかの家事についても同じことが言えるのだ。一回億劫になってしばらくやらないと、次にまたよいしょ、と腰を上げようとしてもなかなかケツが動かない。何か面倒臭いかも、とかどうせそんなことやっても、とか何やかんやと言い訳を持ち出してやらなくなっちゃう。
 そういう人間の特性が段々と分かるようになってきたのでバンドもやめない。文章もなんやかんや、機会をみつけては書いている。無駄に見えてもやり続ける。それがいずれ、(ああ、やっててよかったな)としみじみ思える瞬間が必ず再来することを覚え、知っているからである。
 
 やっててよかったな、といえば下北沢にあるカウンターカルチャー専門古本カフェの共同運営である。一年半前にそのカフェのオーナーが移住。閉店予定だったが、そのカフェを愛する常連、または前オーナーの友人が中心になって共同運営で店を残そうということになった。
 ちなみにオレは常連でもなんでもなかったのだが、当カフェでねろの弾き語りライブを企画してくれた友人があり、ライブでその店の魅力を知ったのがきっかけ。弾き語りを聞きに来たピーが更にその店をエラく気に入り、数ヶ月後に共同運営の話しを知り、メンバー募集とあったので2人で参加したのだ。
 我々以外の10名前後のメンバーは旧知の仲ということもあり、初めはいきなり知らない集団に飛び込んで行った、という感じだった。それにオレもピーもカウンターカルチャーという言葉に馴染みもなかったので、初めはどうなることやらと思っていたのだが、何処か一癖ある人間が集まったその共同運営メンバー達は、変わり者だが良識のあるサッパリした気質で、人を差別しない和やかな人達ばかりだった。
 結果的にはオレもピーも彼らの持っているアウトローでかつ穏やかな雰囲気にジワジワと━━そういう気質が自分たちにももとからあったのだろう━━溶け込むことができた。店番を担当したり、運営会議に参加したり、当カフェでのイベントに足繁く通ったりしてるうちに、気づいたら親しい友人が一気に10人くらい増えたといったような、あまり今までに無い体験を味わったと思う。
 店舗で顔を合わせるだけでなく、南伊豆での野外パーティーに遊びにいったり、長野県飯田市の外れのとある山村の、民俗学的にもよく知られた有名なお神楽を見学しに行ったり、手作り市に出店したりと、とにかくいろんな時間を共有させてもらった。共同運営に参加しながらオレとピーは入籍したので、運営メンバー達は2人の中で大切な人達になっていたのだ。

 続けるということでいったら、オヤジが発行している長尾家家族新聞というのが最もヤバい。オレが小学校3、4年生の頃に始まって、今に至るまで20年以上続いており、最新号は354号。B4の紙面にギッシリ、表裏で構成されていて、殆どがオヤジの日記、日誌のような類いになっており、それはとりもなおさずオヤジ新聞という体であるが、昔はオレや姉や母も記事を書いていていた。
 そもそもの始まりは、小学校での新聞作りが楽しかった、という一家団欒の場での姉の発言であったと思う。筆まめで、教師で、ギター雑誌の編集にも携わっていたオヤジは、すでに学級新聞や、大学のOB会の会報作りなど、いくつかの紙面作りを定期的にやっていたはずで、そんなもんだから姉の「新聞作り楽しかった」発言には萌えまくったに違いない。
 それですぐに「家族新聞を作ろう」ということになり、オレも姉貴も勢い余って賛同してしまったのだが、一年と経たない内にオレも姉も飽きてしまった。母も文章を書くことに抵抗がなかったのか、始めのウチはそれなりに寄稿していたが、段々書かなくなっていってしまった。月に二度という驚異的なペースで発行される新聞に、編集長のオヤジから、学校であったことでも何でもいいから書いてよ、とオレと姉に依頼がくる。オレも姉もその度に嫌な顔をして、段々ボイコットをキメるようになるんだけど、新聞作りの大好きなオヤジはそれでも構わず発行を続けた。そのうちに母もほとんど書かなくなり、以来その新聞はオヤジ一人のワンマンで発行され続けることになる。
 内容は学校(いずれもオレや姉のではなくオヤジの勤務先)の入学式、卒業式のレポートだったり、旅行記やゴルフ記、ギターやバラライカの音楽記だったり、とにかくオヤジが書きたいことを書きまくるというフリースタイルだった。そして裏面の「日常抄録」というコーナーで半月分、または一月分の三行日記が日毎に書かれ、そこに本人と本人以外のオレ、姉、母がどうしたこうした、ということがほぼ装飾なくレポートされることになっており、そのコーナーの存在のおかげで「家族新聞」としてのメンツを保ってきた。
 その新聞は毎号200部近くが勤務先の学校のガリ版で刷られ、それをご丁寧に八つに小さく折り畳み、宛名を印刷した封筒に入れられ━━時々は家族も手伝ったがほとんどオヤジが一人でやっていた━━各地へ発送される。宛先は血縁や親戚を始め、オヤジの職場の知り合い、大学のOB、ギター関係の知り合いなどで毎号約200部、すべて封筒に切手が貼られ旅立って行く。会社でなく、個人の家からそれだけの封書が送られるので近所の管轄の郵便局にもお得意様として把握されているようだった。
 そういう配給経路が確立されていったものだから、オヤジの暴走気味な新聞作りの記事の中に、その他の家族の間抜けな出来事や恥ずかしい出来事などが書かれているのがわかると、当然家族はその新聞の存在を問題視するようになっていった。オレはオヤジ似で自身の外聞をあまり気にしない方だからよかったが、女性である母や姉は嫌がることが多く、特にその2人は家族新聞に関して懐疑的になることも少なくなかった。
 しかしとにかく、それでもオヤジは作り続けた。オレが大学を出て一人暮らしを始めたり、母がガンでなくなったり、姉が家を出てったり、家族が離れ離れになりかけても辞めなかったのだ。もうライフワークのひとつになっているに違いない。オレはバンドを10年以上続けてきたけど、金稼ぎ以外のことで継続させることに関してはオヤジの右にはいつまで経っても出られないのである。
 その家族新聞を友人が見て感動しているのを知って、20代半ばを過ぎた頃、赤い疑惑のライブ会場でふざけてそれを配ってみたらあちこちからものすごい反応があり、オレは改めてオヤジの所業を見直し、先日facebookに写真載せたら凄い数のいいねをもらい、自分もいつか家族新聞を作らなきゃいけないのではなかろうか、という義務的世襲感覚に襲われたのは完全に余談である。

 長くなったが、継続は力なり、石の上にも三年、という最も日本人に親しまれているであろうことわざにも明らかなように、今何かにつまずいたり、何か充実感を感じられずに、この悲しき文明の浮世をさまよっている方があれば、ひとつでもいいし、それがなかなか身をなさなそうな難解な事柄でもいい、何か継続してやれること見つけるべき。長く続けていても何にもなんない、と思わずに、オレもバンド、10年続けてようやくわかったようなこともあるのだから、10年、20年、30年試しに続けてみるといい。
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