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命名、赤い疑惑!

 赤い疑惑というバンド名は共産主義の「赤」から来てるいるのだと思ってました。そんなことを最近言われることがあるが、共産主義的意味合いを結成時に意識したことはなかった。
 赤い疑惑を結成したのは大学を卒業して、それまでガッツポーズという名前のくだらないハードコアパンクバンドをやっていた松田クラッチと、ガッツポーズを解体して改めて、新たにバンドをやろう、と息巻いていた時期だ。ガッツポーズの他のメンバーはバンド活動は辞してまともに就職していった。
 オレがギター、クラッチがベース、ドラマーは何人か変遷した後、当時大学を留年して暇そうにしていたブレーキーに半ば無理矢理メンバーになってもらった。日本語のバンド名にしたいという強い拘りがあり、日本語のバンド名を毎日考えていた。日本語のバンド名に拘ったのは90年代に僕が注目していた日本のインディーズ・シーンにおいて、特に信念もなく英語のバンド名を用い、歌詞までも英語で歌うバンドが多かったからだ。日本人ならせめて日本語で歌えよ、と思っていたし、バンド名も日本語の方が面白いと思っていたのだ。
 バンド名をどうするか、という問題はバンドマン達にとっては非常に大事な意思決定であり、その後のやる気やテンションに大きな影響を与え兼ねない重要性を秘め、さらには当バンドそもそものセンスを試されるものであるのであり、妥協は許されないものなのだ。バンド名がかっこよければ実際の音もかっこよく、バンド名がダサければ実際の音もダサい場合が多い。
 日本語のバンド名でかっこいい名前…。当時オレ達はみんな暇があり、しょっちゅうオレの住処に集まっては音楽を聞いたり酒を飲んだり、ダラダラと時間を無為に過ごすなんてことをしていたのだが、ある日ノリで買った日本酒の名前が天狗舞という名前だった。酒を囲みながらじっとそのラベルを見ていたら何だかバンド名に相応しいような気がし始めて「天狗舞はどうかな?」とクラッチに提案した。すると、おっいいね、という反応。オレはクラッチのセンスを信用しているのでバンド名は天狗舞に決定。
 ところがどういう経緯か判然と思い出せぬが「舞」は余計じゃないか、ということになりバンド名は「天狗」に改められた。その名前で何度かライブをこなしたことは覚えているが、それでもこのバンド名で完璧、という確信を持っていなかった。
 それでまたとある別の日。当時、蟄居していた西荻のアパートはケーブルテレビが備え付けで視聴できたのだが、その中でファミリー劇場という、昭和の古いテレビドラマやバラエティやらを永遠垂れ流しているチャンネルがあり、懐古趣味のオレはそのチャンネルがお気に入りであった。そして付けっ放しのテレビにふと映し出された「赤い疑惑」のおどろおどろしい文字。山口百恵主演の人気シリーズ赤いシリーズの中でも人気の高かった作品のタイトルコールである。ドラマの内容などはさておき、毛筆体で文字通り赤い字体。当時まだ入れ込んでいたハードコアパンクというアンダーグラウンドな音楽の影響を想起させるドロっとしたニュアンスと言葉自体の響きに何か惹かれるものがあった。
 早速また松田クラッチに新たなバンド名候補を報告すると即座に快諾され、「天狗」は「赤い疑惑」となった。赤い疑惑というバンド名になってからもオレは迷った。このバンド名で、やたらとストイックで禁欲的なパンクをやっていたら、アングラなお堅いイメージで人が寄り付かなくなるのではないかと思っていたのと、オレの音楽の嗜好がハードコアからヒップホップ、レゲエ、ワールドミュージック、というように変遷していった時期でもあり、ハードコアっぽいニュアンスがそこまで必要なのかよくわからなくなっていたからだ。
 しかし「赤い疑惑」という、要するに「疑惑」という抽象的な名詞に「赤い」という具体的な形容詞を当てがう言葉の綾に対する魅力と、言葉自体のヒビキのよさは捨て難かったので、赤い疑惑の中身を精錬していこうと考えたのだ。中身次第でバンド名に対するイメージも変化していくものだと何となしに確信していたからだ。具体的には、ハードコアっぽい厳つい名前なのに、どこかファニーだったりユニークだったりするバンドのキャラを創り出して、「赤い疑惑」というバンド名でお客さんが抱くイメージをどんどん変質させてしまえ、と思うようになり、また、そうしたユーモア性はガッツポーズというバンドでも発揮していた自分たちの持ち味でもあったので難解なことではないと思ったのだ。
 そういう経緯も手伝ってオレはアクセル長尾になり、ベースは松田クラッチ、ドラムは沓沢ブレーキーになった。こんなふざけた愛称をつけてしまえば、赤い疑惑という言葉が引きずる厳ついドロドロしたイメージを払拭できるに違いないと考えたのだ。また、南アフリカのゴスペルバンドがステージに上がる時にやるハモりながらの練り歩きの入場シーンや、当時非常に影響を受けていた漁港という浦安のハードコア魚バンドの入場シーンに触発された、チャントと合唱による赤い疑惑の入場パフォーマンスも、そのように「赤い疑惑」というバンド名にまつわる第三者からのイメージを混乱させるための機能を果たした。
 ファーストアルバムの「東京フリーターブリーダー」ではロックバンドでは当時あり得なかったようなラップに挑戦し、トモダチにグラフィティ風の赤い疑惑ロゴを作ってもらったりして更にバンドとバンド名の謎めいた存在感を創り出そうとしたのだ。そして、ラッパーが自分の名前をリリックの中にぶち込むように、我々も曲の中にアクセル、クラッチ、ブレーキーなるそれぞれの名前や、「赤い疑惑が只今参上!」などというようにバンド名を積極的に歌詞に盛り込んで聴衆を撹乱することに力を入れた。定着してからは「お囃子」と称することとなった入場の練り歩きでもフリースタイルで口上しながら、無闇矢鱈と「赤い疑惑」を連呼するようになった。それは結果的にフリースタイルのスキルの拙さを誤魔化すこともできたし、初見のお客さんにも異様に面白がられるので、現在でも続けられている我々の最大の武器となったのだった。そうこうしているウチにメンバーの中でのバンド名「赤い疑惑」に対する親愛の情も深まり、オレのバンド名に対する葛藤もいつの間にか解消されたのである。

 そういう訳だから赤い疑惑の「赤」が共産主義的な「赤」ではないか、というのは邪推なのだ、と言いたいところだったが、先述の「東京フリーターブリーダー」が一級の労働歌として評価されたり、その流れでサウンドデモのデモトラックの上で演奏する機会をもらったり、また、オレがワールドミュージックの中でもレベル(反抗の)ミュージックと括られるような音楽にことさらに惹かれたりするようになるに従い、共産的、左翼的な赤という文字が入っている疑惑は、後付けにしてもなかなか面白い偶然だと思うようになった。そもそもパンクもヒップホップもレゲエもその音楽の成り立ちに「反抗的な姿勢」があることは否定のしようがなく、そう考えてみると赤い疑惑の赤は何ですか、と聞かれたらまあ、いろんな意味の赤ですと言ってしまえばいいし、それでポリティカルなこと歌ってるバンドね、と思われても一向に差し支えはない。
 それにしてもよくもまあ、著作権のことなど気にせずに、古いとはいえ人気ドラマのタイトルなんかを拝借したものだと思う。命名当時は著作権云々など気にしてもいなかったが、段々と世間を知るようになると著作権やJASRACの恐ろしさはバカにできないことを知り、もし訴えられたら、と考えると、ゾーとする。まさかこんな弱小なインディーバンドを相手に訴訟起こしても仕方あるまいとは思えど、もし訴えられたらバンド赤い疑惑はゲームオーバーである。仮に赤い疑惑が売れっ子になって知名度が上がればそれはそれで訴えられてゲームオーバーである。赤い疑惑のノーフューチャー感は伊達じゃないのである。
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復活の狼煙

 言葉というのはとても面白いもので、いつの間にかこれを覚え、いつの間にか使うようになっている。まずは親の言ってることを聞き、周囲の人の言葉を聞き、トモダチから、テレビから、日本語というものを覚えていったのだろう。言葉は人類の発明であり、これがなければ人間社会も成り立たない。言葉は発話され文字に起こされ、歴史や願いや意志を伝えてきた。

 私は小学生の終わり頃から音楽同様、言葉や文学というものに惹かれるようになり、初めはなんの拘りもなく夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、というように学校で出される課題図書を糸口に少しずつ読書の魅力に取り憑かれていった。中学の頃にはやまだかまちに触発されて詩作に没頭したこともあり、今思い起こすと稚拙で赤面禁じ得ぬ内容のもので、言葉をただひたすらにこねくり回す遊びをしていたようなものだ。

 学校の課題や作文ではなく、自分で文章を書き始めたのは高校生の頃で、それには「QUICKJAPAN」というサブカル誌との出会いが決定的だった。当時はサブカルが何を意味するのかすら曖昧だったわけだが、世間に流通していた商業誌には絶対掲載されないマニアックでディープで怪しげな記事が並んでいた。

 それは夏目漱石やらの近代文学とは全く掛け離れた世界だったが、その異様な世界観に魅せられた私は、その「QUICKJAPAN」が愛読書となり、学校でこれみよがしに持ち歩き、教室の片隅で読み漁り、周囲に、自分は特別な存在であることを誇示しようとしていた。

 そんな恥ずかしい思い出が脳裏をよぎるが、私が「QUICKJAPAN」に触発されて1番良かったのは、それをきっかけに自分も何か文章なりレポートなりが書けるのではないか、と思い始めたことだった。「QUICKJAPAN」に掲載されていた記事は、日本に存在するアングラな奇人変人のことや、常識の世界からはみ出してしまった文化や事件に関するレポートなど、文学力なんてものがなくても視点さえ鍛えてあれば書けるもののように思え、私も早速文章やレポートを書きつける癖をつけた。

 そして高校在学中に「ポンタラ」というフリーペーパーを創刊するにいたった。B5サイズの両面に自分の文章だけを並べ、粗末ではあったが、完成して友人に配る時は達成感と興奮とで満たされたものだった。

 「ポンタラ」は大学に入ってからも継続して作り続け、紙面を拡大し、自分だけでなく周りの友人などにもコラムを書いてもらったりしながら号を重ねていった。途中で「ポンタラ」から「ユビオリ」と名前を変えながらも総じて十数号は継続して発行した。

 内容は自分の旅行記からライブレビューからいろいろだったが、出す度に近しい友人からは「面白い、面白い」と好評をいただいていた。学校などで義務的に作る制作物とは訳が違うので、そんな風に褒められるとこれ以上ないくらい嬉しいものだったが、同時に制作にかかる労力や時間のことも、作る度に苦痛や面倒を感じるようになり、大学を出てからは自然消滅してしまった。

 大学を出てからはバンド活動にとにかく専念するようになったので、フリーペーパーを辞めたことを後悔することはなかったが、「文章を書きたい」という欲望は消えることがなかった。

 ネットとブログの登場はそんな当時の私には願ったり叶ったりの事件であった。書いた文章が、煩わしい編集やレイアウトや印刷、という面倒を経ずに不特定多数の目の届く場所にアップされる。苦労をしてフリーペーパー作って、やっと人に読んでもらえたそれまでのことを考えれば正に革命的だった。

 誰でも無料で簡単に始められると知ってすぐにアクセル長尾名義でブログを作り、とにかく頻繁なレベルでの、日記を始めとする投稿を続け、周囲の友人やバンドのお客さんなどに好評をもらっていた。「音楽だけじゃなく文章で金がもらえたら」と淡い願望を抱くようになったのはその頃からだが、数年が川のように流れ、ブログをいくら頑張って書いても金がもらえることはなさそうだ、ということに気づいた。なんのことはない他力本願であり、世の中そんなに甘くないのである。

 とはいえやはり人に読んでもらい、反応をもらう、というプロセスが楽しくて、ブログにしては異様に長たらしい日記などを書き続けていたら、そのうち一編一編更新するのに大変な労力を浪費するようになり、金になる訳でなし、と段々と億劫な気分になってきてしまう。

 そんなこんなでブログの更新がいつか停滞していくことになるのだが、それが311の震災以降はさらに極端になってしまった。あの災害の衝撃、放射能の驚異、政府への不信感に打ちのめされ、僕らの平和な日常が大きな犠牲の上に成り立っていたことを痛みとともに認識した経験から、日頃見聞きする映画や音楽、文章、あらゆる文化的産物の価値観がすっかり揺らいでしまったのだ。同時に自分が生み出す音や言葉に対してもやけに控えめになっていくのを妙に自覚せざるを得なかった。

 よく311以降サブカルは死んだ、といわれることがあるようだが、その言わんとするところが何となく分かるような気がする。福島の原発事故のような、無差別に国民を襲う事故の前で、あらゆるモノがその存在意義を問い直されることになった。少なくとも自分にはそのように感じたのであり、そのジレンマから自分が何かを創造することに対する躊躇を常に重たく感じ入るようになっていったのだ。

 混乱する日本社会の時制の中で、私はそんな最もらしい言い訳をしながら、あまり文章を書かなくなった。いや、正確に言えばネットCD屋のコメント書きなどで実務的な作文にはあたっていたのだが、実務的なことではなく創作意欲に基づいた作文をすることはめっきりと減ってしまった。

 それでも月に一回はブログを更新しようと──月に一回更新すればブログ内に余計な広告が出ないで済むので──頑張ってみた時期もあるが、それもなかなか継続されない。継続することが如何に大切なことであるか改めて見つめ直すような記事を書いたりしていたものの…。

 さて、これは震災前のことであるが、ブログもなかなか大変だぞ、と思い始めた頃、某音楽誌からコラム連載の依頼をもらった。これは嬉しかった。初めて外部から執筆依頼をもらった訳である。欣喜雀躍し張り切ってコラムを書いた。反応もちょいちょいと貰う。ところが、依頼側から前もって知らされていたことだが、この連載には報酬はなかった。それでもバンドマンとしての売名はできるし、と前向きに取り組んでいた。

 先述の震災以降は、ブログはなかなか書けないけど当連載は必ず月に一回締切が来るので何か書かないわけにはいかなかった。それでオレは止むに止まれず震災以降の原発関連の話しや政治に関わる危機感の表明を、実験するような感覚で記してみた。すると、これにもそれなりにいい反応があったので嬉しかった。しかし、その内容がマズかったのか突然連載打ち切りの報を受け、少し不快な気にさせられたが、いたしかたない。もしかしたら全然別の理由かもしれないが、連載打ち切りの連絡が突然すぎて訝しんでしまった訳だ。

 その連載とは別途、これまたインディー系雑誌から、ワールドミュージックに関する連載を頼まれた。これも報酬が出ないという前提だったのだが同じように引受けた。何か自分なりのワールドミュージック観を表明できるかもしれないぞ、と些か自信を持っていたせいもあったからかもしれない。

 が、何回か記事を書いた後で、どうも、やはりギャラ無しとはいかがなものだろうかと考え始め、その労力分、少なくてもいいから報酬をいただけないだろうか、と勇気を出して依頼者に相談することにした。すると、苦慮した末、では寸志ですがと了承してくださった。それで僕は初めて執筆でお金を貰う夢が叶ったのだった。しかしながらその連載も途中から依頼の連絡が来なくなってしまった。やっぱり僕のような若輩者に寸志でも金を払うのがキツかったのかもしれない。それにしても何か一報よこしてくれてもよいはずなのだが…。

 そんなこんなでブログ以外の執筆業は休業になってしまった。そして311以降書きたいことがまとまらない状態でずるずる過ごしてきた。

 私的文章の枯渇に甘んじていながら、時々、実家のオヤジから手渡される家族新聞は毎度、(オヤジはいつもいつもホントによくやるなあ)という刺激と羨望を僕に与え続けた。私が小学生の頃からオヤジが作り続けている驚異のご長寿新聞で、この新聞を見せるとどんな友人も、その完成度の高さと継続の歴史に大抵は唸り声を上げる。

 元は長尾家の瑣末な事件やイベントなどを家族みんなで書いていたのだが、直にオヤジ以外は億劫がって書かなくなり、次第にオヤジの日記やコラムが並ぶオヤジ新聞へと変貌していったのだが、創刊以来四半世紀以上、今までずっと月に1.2回のペースで発行せられ続けているのだ。毎回、完成した新聞は、長尾の親戚や、オヤジの知己などに宛て、計200部ほどが実家のPCで刷られ、この量をオヤジはいつも1人で折って封筒に詰めては発送するのである。気の遠くなるような業績だ。

 そんな風にオヤジに刺激されながら、文章、文章、と考えていると、不思議なことに最近になって複数の友人から立て続けに、「最近(過去のアクセルさんの)ブログ読んでるんすよ。面白いすね」とか「すごい楽しみにしてるのに最近更新されないですよねぇ?」とか言われる。私は自分のブログのアーカイブを振り返ったりすることもないので何だかとても恥ずかしいが、こういうハッパがけは勿論初めてのことではなく、それこそアホみたいに頻繁に更新していた頃はよくそんな声援を貰った。しかし、最近は赤い疑惑のライブも減り、何故か過去のバンドと思われたりすることも少なくなく、ブログに関する問合せもサッパリなくなっていたので、ヤバい、嬉しい、書こう、書こう、書かなきゃ、とまた一念発起。ようやくまたリハビリする気になってきた訳だ。

 放射能がばら撒かれても、時の首相が己と企業の利益の為に無茶苦茶な軍事化や増税を進めても、テメエはテメエの文章を書け。テメエがテメエの唄を唄うように。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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