バンドマンに憧れて 第1話 光GENJI、爆風スランプ、たま
バンドマンというのは私の夢だった。ロックンローラーでもいい。とにかくバンドを組んでロックを演奏して人気者になって生きていく。きっと、そういう人生を私は歩むのだ、と意気込んだのがその旅路の始まりだった。
私がバンド的なものに初めて触れたのは小学校中学年から高学年にかけての時期だった。爆風スランプという人気バンドの「ランナー」という曲にハマったのが最初だったと思う。小学校の登下校を共にしていたワキ君が「ランナー」をソラで歌い出した。私はその歌詞とメロディーにとても惹かれた。「走る走るオレたち 流れる汗もそのままに いつか辿り着いたら 君に打ち明けられるだろう」。何で「オレたち」は走るんだろう、何を「君に打ち明けられる」のだろう、と考え出したら何かワクワクした。ロック(当時はロックという意識もないが)の歌詞を聞いてひとり想像に耽る、ということを初めて体験した訳だ。
「流れる汗もそのまま」にして拭かずに走るのだ、そしてきっと大変な苦労をして何処かに辿り着いたら「君」がいて、何かを打ち明けるのだ、と思うとやはりワクワクしてくる。私はそのメロディーの虜になってしまい、ワキ君にその歌の正体について迫った。そして爆風スランプというバンドだということを知った。
恐らくその年の年末だったと思うが、紅白歌合戦に爆風スランプが出るということだった。興奮して見たそのバンドのボーカリストは、丸坊主にサングラスの、ちょっとB級な風貌で驚いた。とはいえ「ランナー」はよかった。これがロックか、これがバンドか、と私は知ったのだった。ボーカルがいてギター、ベースにドラムだ。
私が爆風スランプを知ってから、歌謡曲、特にバンドものには注意を払っていたが、その中で、次に強く私の心をとらえたのはJUN SKY WALKER(S)(以下ジュンスカ)というバンドだった。
ジュンスカは爆風スランプよりかっこいいと思った。それは、後々私が大きな影響を受ける「パンク」っぽさであったのかもしれないし、「仲間でやってる感」だったかもしれない。とにかく私はジュンスカの大ファンになった。
ジュンスカの歌詞の中には反抗的なものが多少あったが、それよりも彼らの唄には私がその後10年も20年も悩まされることになった「夢」だとか「希望」だとかいう言葉が溢れていた。「夢」や「希望」を持っていればどうにかなるという、短絡的でポジティブな暗示にすっかり洗脳されたのだ。バブル期で余裕があった当時、個性が大切、という価値観がやたらと喧伝されていたと思う。自分らしさを追求するのが是とされるようなところがあった(ブルーハーツは「個性的であればあるほど実際は抑えつけられる」と鋭い世相批判をしているが)。だから私は「夢」や「希望」という輝かしい言葉に大きな期待を寄せた。そしてジュンスカの曲をそういう気持ちで口ずさむようになっていたのだ。
ところが、ジュンスカの後に出会ったたまというバンドの衝撃は、ジュンスカの衝撃以上のものだった。「夢」とか「希望」などという明快で直球なフレーズとは異なり、もっと摩訶不思議で奇妙で、見てはいけないものを覗いてしまった、そんなような妖しい詩や表現がてんこ盛りだった。そしてたまは、それらの表現を、子供でも反応できるような美しく親しみやすいメロディーで飾った。
たまの最大のヒット曲となった「さよなら人類」を初めて聞いたのはTVのCMだった。私はすぐにその曲に釘付けになった。CMだから15秒しか聞けない。だけどその15秒からその曲の全貌を想像した。もっと聞きたくなって仕方がなくなった。
その頃私達の文化的選択肢の中に、レンタルCD屋さんでCDを借りて空のテープにコピーするという手段があった。そういう店が流行っていたと思う。CDは3000円くらいだったから、レンタル屋で300円ほどで借り、空のテープにダビングして私家版とする。そんなしのぎがかなり普及していた時代だった。だから私は初めてレンタル屋でCDを借りる、ということを、周りの男子にバカにされながら実行した。何故か私の通った小学校では男子が歌謡曲に興じることが女々しいことだとされ、蔑まれた。私は周りに流されないタイプだったので無視していた。
「さよなら人類」を収録したその「さんだる」というアルバムを私は何度も何度も聞いた。そして私の中のビートルズである彼らの芳醇なメロディーとコーラスのハーモニーに痺れていた。それは今思い出してもかなり衝撃的な体験だったと思う。それくらいたまの歌詞は強烈な視覚的、時間的イメージを喚起させるキーワードで溢れていた。だからシラフであんなにトベたんだ。
たまにハマってしまったある年の正月、親戚の集まりで、とある叔母から「はるちゃんはたまが好きなんだってぇ?おかしな子ねぇ。」と突然からかわれた。今思えばたわいもない叔母の冗談だったと分かっているが、小学生だった当時の私にはそれがひどく侮蔑的な挨拶に思えて、私はその頃からしばらく親戚不信に陥った。
私の母方の親戚はやや富裕な家系だったので脇道にそれるようなタイプの従兄弟は1人もいなかった。だから当時売れていたとはいえアウトローな視線を世間から受けていた「たま」に興じる長尾家の長男は変わっている、と思われ始めたのだ。その時まで気づかなかったが、いくらロックがビジネスとして世の中に存在してはいても、子供がバンドをやり出す、ということが今よりもずっと保守的に敬遠されていて、私はその時そういうバンドマンに対する差別視を初めて知ったのだ。
実際それ以降、私がバンドをやりロックにハマっていくのを母方の親戚はややバカにするような感じで見ていた。私にはそれが腹立たしかった。自分が夢中になっているものが小バカにされているような感覚だ。からかっていた親戚に悪気などなかったが子供は敏感なのだ。私はそれ以来、親戚の前では冷静さを保とう努めたが、腹では、いつか見てろよ、と静かな拳を握りしめていた。
第2話へ
私がバンド的なものに初めて触れたのは小学校中学年から高学年にかけての時期だった。爆風スランプという人気バンドの「ランナー」という曲にハマったのが最初だったと思う。小学校の登下校を共にしていたワキ君が「ランナー」をソラで歌い出した。私はその歌詞とメロディーにとても惹かれた。「走る走るオレたち 流れる汗もそのままに いつか辿り着いたら 君に打ち明けられるだろう」。何で「オレたち」は走るんだろう、何を「君に打ち明けられる」のだろう、と考え出したら何かワクワクした。ロック(当時はロックという意識もないが)の歌詞を聞いてひとり想像に耽る、ということを初めて体験した訳だ。
「流れる汗もそのまま」にして拭かずに走るのだ、そしてきっと大変な苦労をして何処かに辿り着いたら「君」がいて、何かを打ち明けるのだ、と思うとやはりワクワクしてくる。私はそのメロディーの虜になってしまい、ワキ君にその歌の正体について迫った。そして爆風スランプというバンドだということを知った。
恐らくその年の年末だったと思うが、紅白歌合戦に爆風スランプが出るということだった。興奮して見たそのバンドのボーカリストは、丸坊主にサングラスの、ちょっとB級な風貌で驚いた。とはいえ「ランナー」はよかった。これがロックか、これがバンドか、と私は知ったのだった。ボーカルがいてギター、ベースにドラムだ。
私が爆風スランプを知ってから、歌謡曲、特にバンドものには注意を払っていたが、その中で、次に強く私の心をとらえたのはJUN SKY WALKER(S)(以下ジュンスカ)というバンドだった。
ジュンスカは爆風スランプよりかっこいいと思った。それは、後々私が大きな影響を受ける「パンク」っぽさであったのかもしれないし、「仲間でやってる感」だったかもしれない。とにかく私はジュンスカの大ファンになった。
ジュンスカの歌詞の中には反抗的なものが多少あったが、それよりも彼らの唄には私がその後10年も20年も悩まされることになった「夢」だとか「希望」だとかいう言葉が溢れていた。「夢」や「希望」を持っていればどうにかなるという、短絡的でポジティブな暗示にすっかり洗脳されたのだ。バブル期で余裕があった当時、個性が大切、という価値観がやたらと喧伝されていたと思う。自分らしさを追求するのが是とされるようなところがあった(ブルーハーツは「個性的であればあるほど実際は抑えつけられる」と鋭い世相批判をしているが)。だから私は「夢」や「希望」という輝かしい言葉に大きな期待を寄せた。そしてジュンスカの曲をそういう気持ちで口ずさむようになっていたのだ。
ところが、ジュンスカの後に出会ったたまというバンドの衝撃は、ジュンスカの衝撃以上のものだった。「夢」とか「希望」などという明快で直球なフレーズとは異なり、もっと摩訶不思議で奇妙で、見てはいけないものを覗いてしまった、そんなような妖しい詩や表現がてんこ盛りだった。そしてたまは、それらの表現を、子供でも反応できるような美しく親しみやすいメロディーで飾った。
たまの最大のヒット曲となった「さよなら人類」を初めて聞いたのはTVのCMだった。私はすぐにその曲に釘付けになった。CMだから15秒しか聞けない。だけどその15秒からその曲の全貌を想像した。もっと聞きたくなって仕方がなくなった。
その頃私達の文化的選択肢の中に、レンタルCD屋さんでCDを借りて空のテープにコピーするという手段があった。そういう店が流行っていたと思う。CDは3000円くらいだったから、レンタル屋で300円ほどで借り、空のテープにダビングして私家版とする。そんなしのぎがかなり普及していた時代だった。だから私は初めてレンタル屋でCDを借りる、ということを、周りの男子にバカにされながら実行した。何故か私の通った小学校では男子が歌謡曲に興じることが女々しいことだとされ、蔑まれた。私は周りに流されないタイプだったので無視していた。
「さよなら人類」を収録したその「さんだる」というアルバムを私は何度も何度も聞いた。そして私の中のビートルズである彼らの芳醇なメロディーとコーラスのハーモニーに痺れていた。それは今思い出してもかなり衝撃的な体験だったと思う。それくらいたまの歌詞は強烈な視覚的、時間的イメージを喚起させるキーワードで溢れていた。だからシラフであんなにトベたんだ。
たまにハマってしまったある年の正月、親戚の集まりで、とある叔母から「はるちゃんはたまが好きなんだってぇ?おかしな子ねぇ。」と突然からかわれた。今思えばたわいもない叔母の冗談だったと分かっているが、小学生だった当時の私にはそれがひどく侮蔑的な挨拶に思えて、私はその頃からしばらく親戚不信に陥った。
私の母方の親戚はやや富裕な家系だったので脇道にそれるようなタイプの従兄弟は1人もいなかった。だから当時売れていたとはいえアウトローな視線を世間から受けていた「たま」に興じる長尾家の長男は変わっている、と思われ始めたのだ。その時まで気づかなかったが、いくらロックがビジネスとして世の中に存在してはいても、子供がバンドをやり出す、ということが今よりもずっと保守的に敬遠されていて、私はその時そういうバンドマンに対する差別視を初めて知ったのだ。
実際それ以降、私がバンドをやりロックにハマっていくのを母方の親戚はややバカにするような感じで見ていた。私にはそれが腹立たしかった。自分が夢中になっているものが小バカにされているような感覚だ。からかっていた親戚に悪気などなかったが子供は敏感なのだ。私はそれ以来、親戚の前では冷静さを保とう努めたが、腹では、いつか見てろよ、と静かな拳を握りしめていた。
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