バンドマンに憧れて 第2話 ジュンスカ
小学校では同年代の男子から、歌謡曲に興じるなんて女々しいと馬鹿にされたり、たまが好きだということで親戚に異端視された事などは悔しかったが、そういう周囲のリアクションが天邪鬼な私の心に火をつけたのだろう。私の歌謡曲及びロックバンドに対する興味関心は薄れる事なくなおいっそう強まっていった。いやむしろ、歌謡曲というよりロックバンドという代物にジワジワと引き寄せられていった。
小学校を卒業し中学校1年生になった時、同じジュンスカファンだった西ヤンにジュンスカのライブに行こうと誘われた。私はその頃まで生でバンドのライブを観たことがなかった。場所は武道館。武道館といえばガキでも超一流のハコだと知っている。サンプラザ中野が「大きな玉ねぎの下で」で歌ってるまさにその場所じゃないか。断る理由はなかった。
中一の私たちが、まだ乗り馴れない東京の地下鉄に乗って九段下を降りたら、先を急ぐジュンスカファンの、その流れのところどころに怪しいオッサン達が疎らに立っていて、ライブに向かう人々にコソコソ声をかけてはウロついている。近づくとそのオッサン達は「チケットない人あるよー」と言いながらチケットを裁いているのでビックリした。後になって彼らがダフ屋というシノギのチンピラであることを知るのだが、当時はそのダフ屋なるアウトローのオジさん達の存在が私の眼に鮮烈で、ライブ初体験とセットで必ず思い出す。
私たちの席はかなり後方だった。2階席で、向こうに見下ろすステージはかなり遠く、何だか残念である。眺め回してみると席を埋めるファンの8、9割がかなり年上の女子である。これも驚いたことのひとつだった。私はやっぱり女々しいのだろうか。男はジュンスカには燃えないのだろうか。
SEが消え、客電が落ちると華々しい照明に照らされ、ジュンスカのメンバーが登場した。ファンの女子達の狂気の歓声が武道館を埋めつくし演奏が始まった。初めての爆音の生演奏とファンの過剰なリアクションに圧倒されながらも私は上気していた。かっこいい、最高だ、これだ、これだ、と興奮しまくっていた。余りの興奮のためか、演奏内容の細かなことは一切思い出さないが、とにかく私の胸は高鳴っていた。確実に私の人生の分岐点であった。
それにしても解せなかったのは、客席を埋め尽くす観客がみんな席の前に行儀よく立って、ビートに合わせて右手を揚げ、同じ動作で前後に振ったりしていることだった。その動作が単純にダサかったし、みんなが一斉に同じ動作をしているのを見て、何だか嫌な感じがしたのだ。(何なんだろうこの人達は)とも思ったのだ。
ともあれ、ロックバンドというものがこんなにも最高なものだったのか、と私は感動していた。テレビやCDからは伝わらなかったソウルの部分とあの爆音。ジュンスカライブの衝撃は、周囲の観客女子に抱いた違和感をも蹴散らして私の心を駆り立てた。お前も、やりたくないか? アレを? ロックバンドを? え、どうなんだ? 神が私に囁いていた。
単純で影響されやすく、思い込みやすい私はそれ以来将来の夢を「ロックンローラーになる」ということにしてしまったのだった。何か大きな「夢」を持っているかどうか、ということが私には重大のことのように信じさせられていたからだろうか。実際のところ、それまでは私の将来の夢は野球選手になる、という大仰だがしごく凡庸のものだった。何がきっかけだったか思い出せぬが、私は野球に興味を持ち、小学校低学年の時にリトルリーグに入れてもらった。野球はやってみても実際面白かった。体育が不得意だということに気づき始めていたが、好きが高じていつか野球選手になることを夢見るようになっていた。
新聞のスポーツ欄のプロ野球の結果や、高校野球地区予選の結果などをオタクチックに眺めては満足するような偏愛ぶりを見せながらも、実際の野球の腕前はいつまでたっても人並みになれず、私はレギュラーになることも許されずに結局ベンチを温め続けた。時々、8回や9回という終盤のタイミングで監督が情けでベンチウォーマー達を代打でバッターボックスに立たせたりすることがあったが、私が試合に出た経験はそのようなものであった。
にも関わらずである、わたしの野球選手になるという無謀な夢は固く信じ込まれ続け、中学に入って私は野球部に入部してしまったのであった。しかしこのジュンスカ武道館ライブの事件以来、私の将来の夢は「ロックンローラーになる」ということにすり替えられてしまった。当然、以降の部活にはすっかり熱がこもらなくなってしまった。
リトルリーグの監督もそうであったが中学の野球部顧問も性格が悪く、シゴキのようなものも好んでやった。私が1番嫌いだったのはイチ抜けダッシュというやつで50メーターほどのダッシュを繰り返し行い、イチ番だった人から抜けていくというもので、私はいつも最後まで残った。そして醜い姿を部員にひいては下校中の生徒などの衆目に晒された。そんなこともあったので、ロックに心を奪われた私の野球部嫌いは拍車がかかっていった。
ジュンスカ武道館ライブの衝撃を受け、将来の夢がロックンローラーに変わり、それから高校生に入るまでの時期にかけて私はどんどんと新しい日本語ロックのバンドの存在を知るようになっていった。「PATi PATi」という月刊誌を買い求めるようになり、お気に入りのアーティストのインタビューを読み耽り、ロックへの闘志を高めていった。小遣いを溜めて数ヶ月に一編CDを買いに田無の新星堂に通った。たまやジュンスカはもちろん、ユニコーン、BAKU、ブルーハーツ、sparks go go、すかんち、ジギー、東京少年、ニューロティカ、ザ・ブーム、真心ブラザーズなどなど、自分のお気に入りのバンドが増えていくのは楽しかった。CDを買う枚数には限界があったので、それ以外はレンタルCD屋で借りてカセットテープに落としていった。
レンタルCD屋も重要な情報源であったが、当時お気に入りのバンドを探す重要な手段になっていたのがテレビ神奈川だった。各家庭のアンテナ状況に依ったようだが、テレビ神奈川やテレビ埼玉が東京の我が家でも見ることができたのだ。そしてテレビ神奈川が放送していた音楽番組「ミュートマジャパン」が最高だった。最初から最後まで、国内バンドのプロモーションビデオがひたすらオンエアされる30分番組で、レピッシュ、ボガンボス、カステラ、リンドバーグ、イエロー・モンキー、スピッツ、筋肉少女隊、ジュディマリ、BUCK TICK、ミスチルなどなど、その他にも当時CDこそ買わなかったが世間で人気を集めていた沢山のロックバンドを知ることができて、私のロックンローラーに対する熱情はどんどん高まっていった。
一方、中学校では、小学生の頃は歌謡曲やロックをバカにしていた連中も色気づき始め、ヒット曲を口ずさんだりすることは当たり前の世界にコロッと変わっていったので驚いた。そしてそういう、音楽に興味を持ち出したような男子のほとんどがXとかB'zなんかに熱を入れていたが、私には全然馴染めなかった。ジュンスカのライブに誘ってくれた西ヤンも、どちらかというとそっち方面の趣味に変わってしまい、ボンタンを履き始め、所謂当時のヤンキーになってしまい疎遠になってしまったのだった。
第3話へ
第1話から読む
小学校を卒業し中学校1年生になった時、同じジュンスカファンだった西ヤンにジュンスカのライブに行こうと誘われた。私はその頃まで生でバンドのライブを観たことがなかった。場所は武道館。武道館といえばガキでも超一流のハコだと知っている。サンプラザ中野が「大きな玉ねぎの下で」で歌ってるまさにその場所じゃないか。断る理由はなかった。
中一の私たちが、まだ乗り馴れない東京の地下鉄に乗って九段下を降りたら、先を急ぐジュンスカファンの、その流れのところどころに怪しいオッサン達が疎らに立っていて、ライブに向かう人々にコソコソ声をかけてはウロついている。近づくとそのオッサン達は「チケットない人あるよー」と言いながらチケットを裁いているのでビックリした。後になって彼らがダフ屋というシノギのチンピラであることを知るのだが、当時はそのダフ屋なるアウトローのオジさん達の存在が私の眼に鮮烈で、ライブ初体験とセットで必ず思い出す。
私たちの席はかなり後方だった。2階席で、向こうに見下ろすステージはかなり遠く、何だか残念である。眺め回してみると席を埋めるファンの8、9割がかなり年上の女子である。これも驚いたことのひとつだった。私はやっぱり女々しいのだろうか。男はジュンスカには燃えないのだろうか。
SEが消え、客電が落ちると華々しい照明に照らされ、ジュンスカのメンバーが登場した。ファンの女子達の狂気の歓声が武道館を埋めつくし演奏が始まった。初めての爆音の生演奏とファンの過剰なリアクションに圧倒されながらも私は上気していた。かっこいい、最高だ、これだ、これだ、と興奮しまくっていた。余りの興奮のためか、演奏内容の細かなことは一切思い出さないが、とにかく私の胸は高鳴っていた。確実に私の人生の分岐点であった。
それにしても解せなかったのは、客席を埋め尽くす観客がみんな席の前に行儀よく立って、ビートに合わせて右手を揚げ、同じ動作で前後に振ったりしていることだった。その動作が単純にダサかったし、みんなが一斉に同じ動作をしているのを見て、何だか嫌な感じがしたのだ。(何なんだろうこの人達は)とも思ったのだ。
ともあれ、ロックバンドというものがこんなにも最高なものだったのか、と私は感動していた。テレビやCDからは伝わらなかったソウルの部分とあの爆音。ジュンスカライブの衝撃は、周囲の観客女子に抱いた違和感をも蹴散らして私の心を駆り立てた。お前も、やりたくないか? アレを? ロックバンドを? え、どうなんだ? 神が私に囁いていた。
単純で影響されやすく、思い込みやすい私はそれ以来将来の夢を「ロックンローラーになる」ということにしてしまったのだった。何か大きな「夢」を持っているかどうか、ということが私には重大のことのように信じさせられていたからだろうか。実際のところ、それまでは私の将来の夢は野球選手になる、という大仰だがしごく凡庸のものだった。何がきっかけだったか思い出せぬが、私は野球に興味を持ち、小学校低学年の時にリトルリーグに入れてもらった。野球はやってみても実際面白かった。体育が不得意だということに気づき始めていたが、好きが高じていつか野球選手になることを夢見るようになっていた。
新聞のスポーツ欄のプロ野球の結果や、高校野球地区予選の結果などをオタクチックに眺めては満足するような偏愛ぶりを見せながらも、実際の野球の腕前はいつまでたっても人並みになれず、私はレギュラーになることも許されずに結局ベンチを温め続けた。時々、8回や9回という終盤のタイミングで監督が情けでベンチウォーマー達を代打でバッターボックスに立たせたりすることがあったが、私が試合に出た経験はそのようなものであった。
にも関わらずである、わたしの野球選手になるという無謀な夢は固く信じ込まれ続け、中学に入って私は野球部に入部してしまったのであった。しかしこのジュンスカ武道館ライブの事件以来、私の将来の夢は「ロックンローラーになる」ということにすり替えられてしまった。当然、以降の部活にはすっかり熱がこもらなくなってしまった。
リトルリーグの監督もそうであったが中学の野球部顧問も性格が悪く、シゴキのようなものも好んでやった。私が1番嫌いだったのはイチ抜けダッシュというやつで50メーターほどのダッシュを繰り返し行い、イチ番だった人から抜けていくというもので、私はいつも最後まで残った。そして醜い姿を部員にひいては下校中の生徒などの衆目に晒された。そんなこともあったので、ロックに心を奪われた私の野球部嫌いは拍車がかかっていった。
ジュンスカ武道館ライブの衝撃を受け、将来の夢がロックンローラーに変わり、それから高校生に入るまでの時期にかけて私はどんどんと新しい日本語ロックのバンドの存在を知るようになっていった。「PATi PATi」という月刊誌を買い求めるようになり、お気に入りのアーティストのインタビューを読み耽り、ロックへの闘志を高めていった。小遣いを溜めて数ヶ月に一編CDを買いに田無の新星堂に通った。たまやジュンスカはもちろん、ユニコーン、BAKU、ブルーハーツ、sparks go go、すかんち、ジギー、東京少年、ニューロティカ、ザ・ブーム、真心ブラザーズなどなど、自分のお気に入りのバンドが増えていくのは楽しかった。CDを買う枚数には限界があったので、それ以外はレンタルCD屋で借りてカセットテープに落としていった。
レンタルCD屋も重要な情報源であったが、当時お気に入りのバンドを探す重要な手段になっていたのがテレビ神奈川だった。各家庭のアンテナ状況に依ったようだが、テレビ神奈川やテレビ埼玉が東京の我が家でも見ることができたのだ。そしてテレビ神奈川が放送していた音楽番組「ミュートマジャパン」が最高だった。最初から最後まで、国内バンドのプロモーションビデオがひたすらオンエアされる30分番組で、レピッシュ、ボガンボス、カステラ、リンドバーグ、イエロー・モンキー、スピッツ、筋肉少女隊、ジュディマリ、BUCK TICK、ミスチルなどなど、その他にも当時CDこそ買わなかったが世間で人気を集めていた沢山のロックバンドを知ることができて、私のロックンローラーに対する熱情はどんどん高まっていった。
一方、中学校では、小学生の頃は歌謡曲やロックをバカにしていた連中も色気づき始め、ヒット曲を口ずさんだりすることは当たり前の世界にコロッと変わっていったので驚いた。そしてそういう、音楽に興味を持ち出したような男子のほとんどがXとかB'zなんかに熱を入れていたが、私には全然馴染めなかった。ジュンスカのライブに誘ってくれた西ヤンも、どちらかというとそっち方面の趣味に変わってしまい、ボンタンを履き始め、所謂当時のヤンキーになってしまい疎遠になってしまったのだった。
第3話へ
第1話から読む
スポンサーサイト