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バンドマンに憧れて 第8話 松田クラッチとの出会い

 (第6話に書いたが、)我が母校中杉は、勉強はできるけど…、という没個性なガリ勉タイプが集まったような高校だったので、私はガッカリしていた。ハナエ・モリがデザインしたというご自慢のブレザーも私の心を1ミリも動かさなかった。悪いヤツはいなかったが(1握りの不良はいたが存在感は薄かった)、みんななんとなく真面目すぎるし、大人しかった。ロックの話しをできるヤツが全然いない、ということもデカい。

 しかし中杉は男女共学だったので、惚れやすい私はいつも気になる女子がいて、惚れるとバカみたいに積極的だった私は振り返ると5人以上の女子に告った記憶がある。私は恥ずかしがる、ということを最高にダサいことだと思っていたので、逆に女子の前で剽軽に振る舞ったりからかったりして女子と仲良くすることは小学生、中学生の頃から力を入れていた。姉がいたこともあり、女子と仲良くすることは得意だった。

 ガリ勉男子には興味がなかったが、女子の注意を喚起しなければと思った私は、1年生のクラスでの自己紹介の折、最初から下らないすっとぼけた自己紹介をして女子のハートを掴んだ。自分の席の周りの女子にも積極的にアプローチしまくり、気づくと休憩時間の度に私の席の周りに女子が集まる謎のハーレムを作っていた。私は自分がモテてるに違いないと思い込み、その部分においては華やかなる高校生活の始まりだったのかもしれない。

 しかし、人生はそう甘くないものである。ある日、学校の帰り、私はたまたま同じ中学出身で、1年生のクラスも同じだったSさんと下校時に話していた時、男子の中で誰がクラスの女子の中で人気があるか、という極めて重大なニュースを聞いた。私は自分の名前が出てくるのではないだろうか、とドキドキしたが、驚いたことに私の名前は出なかった。
「クラスの女子のほとんどは松田君をかっこいい、って言ってるよ。」
え、松田? あのいけすかない感じのアイツが…? 私は愕然とするしかなかった。ありがちな誇張だとしても何人もの女子が意見を同じにしていることは間違いないだろうと思った。男子目線の人気がある女子ランキングの場合でも、大抵は面喰いの判断なので、大体1強か2強くらいの結果になってしまうのが普通なのだから。

 私はイケメンと世間が指す男性像がいつもよく分からなかった(この感覚は今でも持っている)。だからこの高校1年生の松田ショックを受けるまで自分は、イケメンとは言わないまでも、かっこいい部類の顔立ちだと思い込んでいた。しかし、松田イケメン説のショック以来、その思い込みが、人間一般が持っている自分の顔に対する一定の親しみによるものだということを段々と理解するようになった(後々、自分はどちらかというと”面白い”部類の顔立ちだという評価に納得し、自信を持てるまでにも至ったが)し、また、松田のような顔をイケメンというのだな、と松田フェイスをイケメンの指標にさえした。

 さて、この、クラスの女子のほとんどが、かっこいい、と騒いだイケメン松田が、私のバンド人生を長く一緒に歩むことになる松田クラッチになる人物だと誰が想像した? そうなのだ、私は始め、その松田のことを、何となく軽々しいチャラい男、という評価をしていて近づかなかったし、Sさんによる「松田君一党支配」の話しを聞いて尚更いけ好かないヤツだ、と思っていたのだ。

 松田君、通称「マツダ」「ダーマツ」「松ちゃん(以下しばらくこの呼称で)」はサッカー好きを標榜し、そういう面では実に爽やかだったが、クラスでも調子に乗って目立っていたカンバラという男の支配下につき、イキがっているお調子者キャラ的な印象もあった。私はそういう目立ち方は肌に合わず、如何にみんなと違うことをやって目立つか、ということに全力を投じていたので、土台彼と仲良くなるなどと思っていなかった。後から聞けば、松ちゃんも、クラス内でプチハーレムを作っていたり、寒いボケ発言で女子に受けていたりした私のことをいけ好かないヤツだ、と思っていたらしい。

 しかし、縁というのはホントに不思議なもので、何かふとした拍子で松ちゃんとロックの話しをしたことがきっかけで、我々はそれまでの敵対視を反古にして一気に仲良しになってしまった。えっ、お前も洋楽聞くの、みたいな話しから始まったのだ。しかもいわゆるHR(ハードロック)/HM(ヘビーメタル)以外のロックの話しなのだ。確かポリスの話しで意気投合し、オレはストーンズが好きだと言った松ちゃんに感心し(私はストーンズを知らなかった)、松ちゃんはU2が好きだと言った私に感心していた。

 私はガリ勉の大人しいヤツの中でも、大人しいなりにちょっと変な個性のある人間を捕まえては仲良くしたりしていたが、松ちゃんと知り合ってからはほとんど松ちゃんとつるむようになった。松ちゃんは私のキャラの何かに惹かれ、2年生以降クラスが変わっても私のクラスへ来ていつも昼飯を一緒に食うまでになっていた。学校に1人はいる名物キャラの英語教師イワサキに「マツダよ、お前はホモか? いつもナガオのところにやってきて。」と言われていたのを覚えている。それくらい私たちはくっついて過ごしていた。

 私も松ちゃんも愛読書は「ロッキンオン」だった。日本のメジャーなロックリスナーから洋楽志向に移行しつつある私にとって「ロッキンオン」はバイブルとなった。毎号毎号イギリスやアメリカのロックバンドが無数に紹介されていて、マニア的好奇心を煽る内容だった。当時ロッキンオンの2大看板がブラーとオアシスで、両者を対立的構図で描きあがることでロック業界が動いているような状態ですらあったと思う。私はポリスやU2だけじゃロックは語れない、むしろ現行のバンドを追いかけないでどうする?とも思っていたので、ロッキンオンから貪るように情報を取り入れていた。

 我々はブラー、オアシスのどちらがよいか、などを話し合ったりもしたが、レディオヘッドの方がヤバくないか?などとレディオヘッドへの熱も共有していた。我々のロック談義を羨ましがってつきまとっていたタックに「お前はとりあえずレディオヘッドを聞け」と忠告したりした。そしてレディオヘッド熱と併行してメロコアの台頭が我々を捕らえ始めていた。

 メロコア、とはメロディク・ハードコアパンクのことを略したものだったと思うが、これは我々を大きく揺さぶるほどの力を持っていた。情報源になっていたテレビ神奈川で観たオフ・スプリングの「come out and play」という曲がきっかけであったが、興奮した私はバイト代(高校生になり私は地元のマクドナルドで働き始めた)ですぐにCDを購入しそれを松ちゃんと繰り返し聞いた。どうやらオフ・スプリングが所属するエピタフというレーベルがメロコアの総本山らしい、という情報を基に我々はエピタフというレーベルの音源を求めた。後に始まるレーベル買いの端緒であった。

 メロコアはノイジーなギターとパワーコード、小気味よく早いビートに、単純な3度5度でハモる、ひたすらメロディアスな旋律が特徴だったので、若者に圧倒的な支持を得ているようだった。まだパンクがどういうものなのかもよく分からなかったが、パンクというジャンルがそもそもの始まりだろう、ということもなんとなく検討がついた。そして3大パンクと呼ばれていたピストルズ、クラッシュ、ダムドなんかを聞いてみて我々はパンクに入門していった。

 そうやってパンクロックに頭デッカチになりかけていた頃、松ちゃんが私にライブハウスに行こうぜ、と声をかけてくれた。ライブハウスという場所自体、私はその時までほとんど知らなかった。
「友達の従兄弟がパンクバンドやってて、fruityっていうスカパンクバンドらしいんだけど」
スカパンク?私はよく分からなかったが、とにかく生でパンクのライブを観てみたいという強い欲求にかられ、断る理由などなかった。

 私は中学でジュンスカのライブで衝撃を受けて以降、軽音楽部で知り合った日本語ロック好き先輩女子とスパゴーのライブを観に行ったりしたが、その時はグルーピー女史達の半狂乱のモッシュに気持ち悪くなった覚えがあり、女性ばかりが支持層になっているそういうスタジアムクラスの日本語ロックをミーハーに感じだし、一歩距離を置くようにもなっていた。だから、逆にライブハウスでパンクのライブが観られるのか、ということだけで何だか興奮し、その時を心待ちにしていた。

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バンドマンに憧れて 第7話 「発声」と「smells like teen spirit」

 私が入学した中杉の軽音部では新入生歓迎会のようなカタチで、先輩が新入生を引き連れてお茶の水かなんかに繰り出し楽器屋巡りをするという催しがあった。新入生はそこでエレキギターなりベースなりを買うのだが、その経費は特に軽音部から支給される訳ではなく勿論自腹である。私は母との約束で志望校に受かったという理由でエレキギター代は心配なかったが、何万もするものだから生徒によっては買えない生徒もいただろう、と思うと何だか切ない。

 中杉軽音部の仕組みは新入生全員を4人か5人かで割って何組かバンドを作るというものだった。私の代は確か3組で1組はギャルバン、2組は男子のバンド。男子のバンドを作る際、HR/HM路線を嗜好するギターキッズ主流派バンドと「それ以外」、という風に別れた。私はもちろん「それ以外」だった。新入生歓迎ライブで先輩の男バンドはほぼHR/HM路線で、スピードとパワーと早弾きと甲高いボーカルの世界という感じで私はかなりがっくりきた。私の代の1組はそんな主流派路線を標榜したが、「それ以外」のメンバーはちぐはぐでHR/HM的なものも嫌いじゃないけど、みたいなはっきりしない感じだった。

 「それ以外」のギターは私で、スコアも持っていたことだしユニコーンをカバーしたい、と言った。ベースのマサツグは「BODYをやりたい」と言った。BODYというビジュアル系のバンドがあったのだ。ドラムのヤギはYOSHIKIに憧れているのに風貌が全く正反対の朴訥なタイプでちょっとおかしかったが、「Xをやりたい」と言った。私の所属したバンドでも1番浮いていたボーカルのミチゾウは「ACCESSをやりたい」と言って憚らなかった。ACCESSは当時一世を風靡したユニットだが、ビジュアル系よりややアイドル的要素が強かったのせいでメンバーが拒絶したため、確か、ACCESSだけはやらなかった、と記憶している。

 私のバンドはちぐはぐだったが穏やかな連中だったので何となく始まっていった。音楽室の物置きである1室がバンド練習室で、軽音部のバンドがローテーションで週に1回利用することができた。そこで、とにもかくにもみんなでスコアを見ながら試行錯誤バンド演奏にトライするのだが、何しろみんな素人なのだからヒドいものである。せっかちな私は悶々としたが、かといって自分も下手くそな自覚があったのでどうしようもなかった。

 中杉軽音部では週に2回か3回、「発声」という謎の儀礼があった。バンドを組んでしまうと、部員全員が顔を合わせることがなくなってしまうので組織を維持する為に週に数度、放課後に集まってその「発声」というのをやらされるのだ。音楽室の机を後ろに下げてスペースを作り、前方の黒板前に座った伴奏担当の先輩ギタリストを囲むようにして何列かに並んで立つ。伴奏の先輩が刻むアコースティックギターによる3コードに合わせて、並んだ部員が「ア(ド)ー、ア(ラ)ー、ア(シ)ー、ア(ド)ー」と発声する。これを半音ずつ上げていって、あるところまでいったら下がって戻ってこれを繰り返す、という半ば気合い系の行事なのだ。

 私はこの発声という無茶な試練のせいで自分が一般的より格段にキーが低いことを知ってショックを受けた。ビジュアル系にしてもミスチルにしてもその頃の日本の主流のロックは皆キーが高かった。高い方のA(ラ)くらい平気で出すような感じであったが私はE(ミ)の音が出るか出ないかでダメだった。この場合、その「発声」で高い方のミから上の間、声が出せない私は休むのが通常であると思うのだが、「発声」ではそれは許されなかった。先輩に「出なくても出せ」と言われた。「その内出るようになる」とも言われた。かわいがり的な暴力はなかったが、体質はやはりやや体育会系だったのだ。

 出なくても出せ、その内出るようになる、私はホンマかいな、と思いながらも頑張るしかなかった。時には「長尾ガンバレ」みたいな、明らかに一番キーの低い私を激励する優しい先輩、的な余計に空しくなる声援などもかけられた。かすれたヒーヒーした声音を絞り出し、いったいこれがロックとどう関係があるのだろうと思いながら空しくなることが度々だった。

 とはいえ、体育会系気質の最たる現場がその「発声」だっただけで、それ以外は普通に敬語を使って接していれば、先輩諸氏もまあ普通の人達だった。「発声」の前後には、それぞれがラフにバンド談義やら、早弾きの見せびらかし練習やらをしたり、和気あいあいとしていたのでそれはまあ嫌いではなかった。

 私が入部した94年4月の、その「発声」前後の団らんタイムであったが、それまでメタリカを弾いてた先輩がいきなりパワーコードで「ジャーンジャーンツクジャージャン♪ジャーンジャジャーンツクツクジャージャン」という単純な、それでいて超インパクトのあるリフを弾き出して私の耳がピーンとアンテナのようになった。何だこのかっちょいいフレージングは一体誰の曲なんだ!
「そ、それ、誰の曲なんすか?」聞いた私にその先輩は
「ニルバーナだよ知らないの?」とバカにした苦笑いをしたかと思うとまた「ジャーンジャーン」と得意げに弾き始めた。
今になってみれば早弾きしてたヤツがコロッと流行りもののニルバーナをしたり顔で弾いてる感じが寒いが、それどころではなかった。

 これは事件だった。先輩の話しによるとニルバーナのボーカルがその94年4月に亡くなった、というのだ。しかも銃による自殺。これ以上ロックなことがあるだろうか。私は興奮して実家で取っていた新聞を遡ってみた。先輩が「新聞にも出てたよ」と教えてくれたからだ。そして確かに朝日新聞に、小さなスペースではあったがカートコバーン自殺の記事が掲載されているのを発見し震えて読んだ。ロックだロックだ。

 私は私がロックバンドに夢中になっていることに対して涼しい視線を向けていた母親に新聞にロックの事件が載っている、ということを自慢し、ロックの重要さをアピールするつもりだったが、軽く流されて釈然としなかった。しかしニルバーナの「smells like teen spirit」の衝撃はデカかった。私は洋楽はまだpoliceとU2至上主義から脱していなかったのだが、ニルバーナの出現以降、アメリカのオルタナティブロックに興味を抱いていった。

 それにオルタナティブロックと呼ばれたその頃のアメリカのバンド達はパンクの影響を受けていたので早弾きとか、そういうスポーティーなものとかけ離れていたし、ハードロック系バンドの得意とする西欧的な美しいハーモニーともかけ離れていたし、歌の雰囲気も暗くてドロッとして重たくてそれが何だか私には心地よく、かっこいいもののように思われたのだ。

 私が所属したバンドはスコアを見ながらの、日本語のややメジャーなロックを演奏するのに四苦八苦していたのだが、私は段々とロックの嗜好が洋楽よりにスライドしていくのを止められなかった。しかし、そのオルタナティブロック的な音楽の話しを共有できる友達が部員の中にはいなかったのでどうにも歯がゆい気分になっていくのだった。早く私の私だけの理想的な個性的なバンドをやってみたい。そんな想いは募っていくばかりだった。

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バンドマンに憧れて 第6話 ロックンローラーになりたい!

 バンドを始めるきっかけとして最適であろうと思われた「軽音楽部」があって、なおかつ男女共学の学校をみつけ目星をつけた私は、初めて塾通いというものを体験することになった。その頃、学歴社会、受験戦争、というものがすっかり日本に根付いていて、さらにそれをとりまく受験ビジネスも熾烈な雰囲気になっているのを、子供ながらになんとなく不気味に感じたものである。吉祥寺の東進ハイスクールという進学塾が、風変わりで奇抜な教え方をする名物先生を集めた経営スタイルとテレビCMで世間の注目を集めていた。

 私が通ったひのき進学教室田無校にも風変わり先生やすぐキレる鬼先生がいた。生徒のちょっとしたミスで耳をつんざくような大声を上げてキレる先生や、指名されて答えを間違えた生徒の首すじを舐める、というあからさまな変態先生もいた。「首筋舐め」はさすがに女子にはやっていなかったが、今時そんな風な、パワハラに値するような体罰をしたら大問題になってるだろう。私が通った塾が特別だった訳じゃなく、そんな妙な雰囲気がどこの塾にもあったんじゃなかろうか。

 生まれて初めて塾というものに通い、学校ではまったく習わないような難解な課題をひたすらこなす毎日が始まった。特に塾で追求されるような数学や国語の問題などは、果たしてこの勉強が将来どのように役に立つのだろうか、という素朴な疑問を常に抱かせる机上の代物ばかりで虚しさが付きまとった。が、これもロックンローラーへの道のりの1つの過程に過ぎないと自分に言い聞かせ、乗り切るしかなかった。

 それまでは、学校の勉強で夜更かしをしたり徹夜するようなことはなかったが、塾通いをしながらも、周りに推されて運動会の応援団や、学園祭実行委員などを引き受けてしまった私は、睡眠時間を削るようになり、がむしゃらになった。初めて金縛りという身体異変を経験したのもこの頃であった。学校も学校の行事も塾も休まず一生懸命頑張ってるオレ、に恥ずかしながら気持ちよさすら感じていたのかもしれない。

 冬を迎え、私は本命と、本命よりちょっと偏差値が高い難関校と、いわゆる滑り止めと、3校の入学試験を受け、難関校は落ちたが、見事に本命と滑り止めとに合格した。これで目出たくロックンローラーへの道を一歩踏み出したのだ、と思った。まさに心躍る春を迎えることができたのである。順風満帆、私の人生はこれからだ。私は胸を張って卒業式を迎えることができた。

 卒業式といえば忘れられないことがある。私の通った中学校では、誰の発案なのか、卒業証書授与の際に、壇上で生徒1人1人にこれからの人生の抱負を発表させる、という気味の悪い儀式が執り行われていたのだ。しかもその抱負は書道の半紙に太字で書かれ、ステージ袖で1人1人の発表に合わせてめくられるという余計な演出まであった。そんなことわざわざ多くの生徒の前で言わせることに何の意味があるのだろう。言いたくない生徒だっているだろう。その気味の悪さに気づかなかった幼い私は、よし、ここぞとばかりに自分の抱負を堂々と発表してやろう、という気になって自己主張の機会に興奮していたのだ。

 ロックスターを目指す上で好条件だったのは、私が無類の目立ちたがり屋だったことである。しかも天邪鬼の目立ちたがりだったので、この壇上での意思表明に関しても、他の誰もが絶対言わないような爆弾をドロップさせてやろうと思っていた。そして私は迷わず「溢れ出る感情をロックにしたいです!」と叫んだのだった。この暑苦しい自己主張に対する皆からの反応は、高揚感のせいかまったく覚えていないのだが、その後卒業生全員で合唱し、在校生に見送られる花道の途中で、私はこみ上げてくるものを抑えきれず生まれて初めて感動による涙を知った。しかも大号泣ってやつだ。塾やら学校行事やらに尽力し、金縛りにあいながらも本命校に入学した。そんな1年間はなかなかドラマチックだった。私の人生のマックスはこの時ではなかろうかと時々思う。

 人生のマックスだったかどうかはさておき、ここが1つの分岐点だったことは間違いない。それまでは学校生活というものを肯定的に認め、謳歌すらしていたが、高校生になると段々ひねくれて学校生活の空しさの方をより意識するようになっていったのだ。その変化は私が入学した中央大学杉並高校、略して中杉の校風に依るところが大きかったのかもしれない。

 中杉は私の住んでいた田無から西武新宿線で4つ上がった上井草という駅から歩いて行けた距離感だったため、交通の便は最高だった。そして前述の通り男女共学(当時の私立は共学じゃなく男子校や女子校も多かった)でしかも軽音楽部があるということで私は過度に期待を高めていた。軽音楽部のある高校もその頃は少なく、私は早くバンドをやりたかったので、そんな過剰な期待も無理からぬことであったと思う。

 しかし、現実はいつもそう甘くはないものである。バイトの面接で受かって期待を高めて働いてみたらビックリ、っていうアレと同じなのである。率直に言って中杉は面白くなかった。ガリ勉タイプの大人しくて内向きな雰囲気の男子が多かったのである。勉強できるヤツもできないヤツもごっちゃに存在していたそれまでの公立中学校とは違い、勉強はできるけど…、というタイプの没個性な輩ばかりに私には思えてつまらなかったのだ。

 そして肝心要の軽音楽部もやはり自分の想像していた愉快な場所ではなかった。軽音といえばどちらかというと文化部なのに、ちゃんと先輩後輩の上下関係ができあがっている集まりでまったく居心地はよくなかった。しかし私はただバンドをしたい、という一心で入部するしかなかったのだ。バイト探しのように別の軽音部がある訳ではなかったのだから。そんな風にして私のロックの第一歩が始まっていくのであった。

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