バンドマンに憧れて 第11話 高校2年生
ユニコーンのスコアを見ながら、父のクラシックギターでギターの練習をし始めたのが中学3年生の時で、高校で軽音楽部に入り、合格祝いとしてエレキを母に買ってもらった。「バンドやろうぜ」(以下バンやろ)という、バンドをやりたい若者向けの雑誌を見ながらロックギターのフレーズ練習などを繰り返した。
ちょっとマニアックな話しだが、バンやろに掲載されていたのか、はたまた別の媒体だったかもしれないが、広告でふと目に入った「野呂一生のギター講座」というエレキギター入門者向け教材を買ったこともあった。バンやろはどちらかというとハードロック(HR)やヘビーメタル(HM)好きのための雑誌だった印象があるが、野呂一生は全く別の情緒があってよかった。
実際、私はHR/HMにあまり馴染めなかったのでバンやろより野呂一生の教材は親しみ易かった。その教材は初級、中級、上級と別れていて繰り返し練習したが、私は中級でつまずいた。自分は練習は苦手だとその頃から思った。
高校の軽音楽部ではHR/HMが最早当たり前の世界になっていた。だから私はがっかりしたが、幸い同学年で組んだバンドはもっと地味なバンドものを演奏できたので助かった。しかし、それでも軽音楽部内での「ギターリストといえば早弾きでしょ」という同調圧力はかなり強く、私は居心地が悪かった。実は私も始めはバンやろのスコアを見ながら早弾きの練習を繰り返してみたこともあったが、全く上達しないしできる気がしないし、好きなことをやろうと思ってすぐにきっぱり諦めてしまった。
あのようなモノは情緒というよりは曲芸的なもので、早く弾きまくるのを競う先輩達の姿は奇妙であった。どこかオトコ達の世界という雰囲気も漂っており、ナルシスチックなものにも感じて、私は発表会ごとに先輩のバンドを軽蔑して見ていた。
とはいえ私は味のあるギターが弾けるようになっていたかというと、全くもってダメで、上達の兆しがあまり見られなかった。そんな時に出会ったパンクという音楽は画期的だった。ギターで押さえるのが簡単なパワーコードだけでいろんな曲ができる。全てがそういう訳ではないが、いわゆる耳コピが比較的簡単にできたので、私はバンやろや教材は放り出してひたすら耳コピでギターに馴染むよう努力していった。
高校2年生になって1年生で組んだバンドが自然消滅し、私は新しく1年先輩で3年生だったアイコさんと、消滅したバンドのドラマー、ヤギと3ピースのオルタナ/パンク系コピーバンドを組むことになった。3ピースなので私かアイコさんが歌うしかなく、またコピーする曲の多くが男ボーカルのものだったのでほとんど私が歌うことになった。
前にも書いたように中学生の時に己の音痴ぶりに多少気づきつつはあったが、しかしどこかで歌を唄いたいという気持ちがあったのだろう。私はボーカル兼ギターという担当に果敢に挑戦したが、これはなかなか大変なことだった。まず第一にこれもまた書いた通り、私は極端に声域が低くできていて、私が歌えそうなキーの曲を探さねばならず、そこからして大変。いろいろ試した結果、自分の当時の趣味で一番歌いやすいキーのバンドはザ・クラッシュやブルーハーツだった。
そしてギターも大して上達してないのに、それを弾きながら歌を唄うということが想像以上に難しかった。ドラマーが右手、左手、右足、左足を起用に使い分けるような身体作業を口と手で別々にやらなければならないので、自然と簡単そうな曲を選んでいたがそれでも一筋縄じゃなかった。
私は当時の文化祭での発表会で録音されたカセットテープを後年聞き直したことがあるが、とても聞いていられる代物ではなかった。しかし恐らく、下手くそで何が悪い、というパンク的気構えに支えられたその頃の私はギターや歌に関し、露骨な努力をすることもなく、なんとなく過ごしていた。このバンドも今年までだし、オレには松ちゃんとのバンドがこれからあるのだし、とも考えていたので自分の音楽性の未成熟さに危機意識はなかった。
しかし、問題は来年3年生になってその後卒業したらオレはどうすればいいんだろう、ということだった。私の通った中杉という高校は中央大学の付属高校で8、9割の生徒はエスカレーター式に大学に進めることになっている。オレは大学に行くんだろうか? 大学に行きたいのか、オレは? それを考えるともう何も分からなかった。でも一番やりたいことはバンドで、バンドマンになるのが夢なんだということは変わらなかった。だとしたら大学に行くことは遠回りではないか。
バンドマンで食うことは難しいだろう、と漠然と思っていた。しかし、ライブハウスという場所を知って活き活きと活動しているインディーズのバンドを見て、私はとりあえず同じようにライブハウスで活動を始めようと思っていた。そして人気がでるようになればその内喰えるようになるだろう、とこれまた漠然と考えていた。
私はスーツを着て苦しそうな表情で電車通勤している典型的なサラリーマン、のようなものを本能的に嫌だなあ、と思っていたので、このまま学歴社会のコースに乗っかって大学に行って、あんまり興味のないことを覚えたりして頑張って卒業してもその後待っているのがいわゆるサラリーマンなのだったら、私が大学に行くことに何の意味があるのか分からなかった。
私は高校1年生の中途から近所のマックでアルバイトするようになっていて、その小遣いでCDやら古着やらを買ったりしていた。私はマックで脂にまみれながら働いていたがこれでお金を貰えるのだから、と結構頑張っていた。が、もし、大学に行かないとしたら私はこんな風に汗水垂らして働き続けるのか、と思うと妙に不安だった。やっぱりここは無難に大学に行って時間を稼ぐという手も捨てがたいのではないか。それかまた別に音楽専門学校なんかに行って大好きな音楽を学んだ方がいいのではないか。
パンクに出会った私はパンクのクソッタレ精神に感化されながらも、隠しきれない中流育ちのぼっちゃん流で保守的なところがあり、将来のことがジワジワと心配になり、「音楽を学ぶ」ということにまだ魅力を感じていた幼い私は、どんなタイミングだったか思い出せぬが、将来のことを聞かれた母に「大学に行きたくない。音楽専門学校に行きたい。」と口走った。母はヒドく動揺していた。音楽専門学校に行き、バンドをやって生きていきたい、と本気で言い出した息子にすっかり落胆していた様子だった。
私立の高い授業料を払って高校に行かせた息子が、そのままいけば中央大学に入れるというのに、いったいどういう料簡だ、しかもバンドをやる、ロックをやる、とイキガッテルけどこの子にそういう音楽のセンスがあるとは思えない、と母は思っていた。今思えば私のギターの練習や下手くそな歌を少なからず耳にしていたであろう母が私を心配したのも無理はないが、当時の私はそんなことは信じないように耳を塞ぎ、ただひたすら自分の才能というものを信じた。
母はパンクもロックも何にも知らないんだ。オレの才能にも気づいてないだけなんだ。よしんばオレが大学に行ったって、結局その後フリーターでも何でも働きながらバンドをやり、喰えるようになるまで頑張る、というのが決まっているのだから時間もお金ももったいない。何で理解してもらえないのか、私は思春期を迎えており、親の指図で将来を決めることにただただ反抗的に構えた。その頃になると父とは普段ほとんど会話をしなかったが、将来の話しで母と私が揉めると、時々厳めしい顔で私の現実的でないビジョンを諭した。そして父に対して苦手意識を募らせた。このような両親との確執は大学を出るまでずっと続く苦い思い出である。 つづく
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ちょっとマニアックな話しだが、バンやろに掲載されていたのか、はたまた別の媒体だったかもしれないが、広告でふと目に入った「野呂一生のギター講座」というエレキギター入門者向け教材を買ったこともあった。バンやろはどちらかというとハードロック(HR)やヘビーメタル(HM)好きのための雑誌だった印象があるが、野呂一生は全く別の情緒があってよかった。
実際、私はHR/HMにあまり馴染めなかったのでバンやろより野呂一生の教材は親しみ易かった。その教材は初級、中級、上級と別れていて繰り返し練習したが、私は中級でつまずいた。自分は練習は苦手だとその頃から思った。
高校の軽音楽部ではHR/HMが最早当たり前の世界になっていた。だから私はがっかりしたが、幸い同学年で組んだバンドはもっと地味なバンドものを演奏できたので助かった。しかし、それでも軽音楽部内での「ギターリストといえば早弾きでしょ」という同調圧力はかなり強く、私は居心地が悪かった。実は私も始めはバンやろのスコアを見ながら早弾きの練習を繰り返してみたこともあったが、全く上達しないしできる気がしないし、好きなことをやろうと思ってすぐにきっぱり諦めてしまった。
あのようなモノは情緒というよりは曲芸的なもので、早く弾きまくるのを競う先輩達の姿は奇妙であった。どこかオトコ達の世界という雰囲気も漂っており、ナルシスチックなものにも感じて、私は発表会ごとに先輩のバンドを軽蔑して見ていた。
とはいえ私は味のあるギターが弾けるようになっていたかというと、全くもってダメで、上達の兆しがあまり見られなかった。そんな時に出会ったパンクという音楽は画期的だった。ギターで押さえるのが簡単なパワーコードだけでいろんな曲ができる。全てがそういう訳ではないが、いわゆる耳コピが比較的簡単にできたので、私はバンやろや教材は放り出してひたすら耳コピでギターに馴染むよう努力していった。
高校2年生になって1年生で組んだバンドが自然消滅し、私は新しく1年先輩で3年生だったアイコさんと、消滅したバンドのドラマー、ヤギと3ピースのオルタナ/パンク系コピーバンドを組むことになった。3ピースなので私かアイコさんが歌うしかなく、またコピーする曲の多くが男ボーカルのものだったのでほとんど私が歌うことになった。
前にも書いたように中学生の時に己の音痴ぶりに多少気づきつつはあったが、しかしどこかで歌を唄いたいという気持ちがあったのだろう。私はボーカル兼ギターという担当に果敢に挑戦したが、これはなかなか大変なことだった。まず第一にこれもまた書いた通り、私は極端に声域が低くできていて、私が歌えそうなキーの曲を探さねばならず、そこからして大変。いろいろ試した結果、自分の当時の趣味で一番歌いやすいキーのバンドはザ・クラッシュやブルーハーツだった。
そしてギターも大して上達してないのに、それを弾きながら歌を唄うということが想像以上に難しかった。ドラマーが右手、左手、右足、左足を起用に使い分けるような身体作業を口と手で別々にやらなければならないので、自然と簡単そうな曲を選んでいたがそれでも一筋縄じゃなかった。
私は当時の文化祭での発表会で録音されたカセットテープを後年聞き直したことがあるが、とても聞いていられる代物ではなかった。しかし恐らく、下手くそで何が悪い、というパンク的気構えに支えられたその頃の私はギターや歌に関し、露骨な努力をすることもなく、なんとなく過ごしていた。このバンドも今年までだし、オレには松ちゃんとのバンドがこれからあるのだし、とも考えていたので自分の音楽性の未成熟さに危機意識はなかった。
しかし、問題は来年3年生になってその後卒業したらオレはどうすればいいんだろう、ということだった。私の通った中杉という高校は中央大学の付属高校で8、9割の生徒はエスカレーター式に大学に進めることになっている。オレは大学に行くんだろうか? 大学に行きたいのか、オレは? それを考えるともう何も分からなかった。でも一番やりたいことはバンドで、バンドマンになるのが夢なんだということは変わらなかった。だとしたら大学に行くことは遠回りではないか。
バンドマンで食うことは難しいだろう、と漠然と思っていた。しかし、ライブハウスという場所を知って活き活きと活動しているインディーズのバンドを見て、私はとりあえず同じようにライブハウスで活動を始めようと思っていた。そして人気がでるようになればその内喰えるようになるだろう、とこれまた漠然と考えていた。
私はスーツを着て苦しそうな表情で電車通勤している典型的なサラリーマン、のようなものを本能的に嫌だなあ、と思っていたので、このまま学歴社会のコースに乗っかって大学に行って、あんまり興味のないことを覚えたりして頑張って卒業してもその後待っているのがいわゆるサラリーマンなのだったら、私が大学に行くことに何の意味があるのか分からなかった。
私は高校1年生の中途から近所のマックでアルバイトするようになっていて、その小遣いでCDやら古着やらを買ったりしていた。私はマックで脂にまみれながら働いていたがこれでお金を貰えるのだから、と結構頑張っていた。が、もし、大学に行かないとしたら私はこんな風に汗水垂らして働き続けるのか、と思うと妙に不安だった。やっぱりここは無難に大学に行って時間を稼ぐという手も捨てがたいのではないか。それかまた別に音楽専門学校なんかに行って大好きな音楽を学んだ方がいいのではないか。
パンクに出会った私はパンクのクソッタレ精神に感化されながらも、隠しきれない中流育ちのぼっちゃん流で保守的なところがあり、将来のことがジワジワと心配になり、「音楽を学ぶ」ということにまだ魅力を感じていた幼い私は、どんなタイミングだったか思い出せぬが、将来のことを聞かれた母に「大学に行きたくない。音楽専門学校に行きたい。」と口走った。母はヒドく動揺していた。音楽専門学校に行き、バンドをやって生きていきたい、と本気で言い出した息子にすっかり落胆していた様子だった。
私立の高い授業料を払って高校に行かせた息子が、そのままいけば中央大学に入れるというのに、いったいどういう料簡だ、しかもバンドをやる、ロックをやる、とイキガッテルけどこの子にそういう音楽のセンスがあるとは思えない、と母は思っていた。今思えば私のギターの練習や下手くそな歌を少なからず耳にしていたであろう母が私を心配したのも無理はないが、当時の私はそんなことは信じないように耳を塞ぎ、ただひたすら自分の才能というものを信じた。
母はパンクもロックも何にも知らないんだ。オレの才能にも気づいてないだけなんだ。よしんばオレが大学に行ったって、結局その後フリーターでも何でも働きながらバンドをやり、喰えるようになるまで頑張る、というのが決まっているのだから時間もお金ももったいない。何で理解してもらえないのか、私は思春期を迎えており、親の指図で将来を決めることにただただ反抗的に構えた。その頃になると父とは普段ほとんど会話をしなかったが、将来の話しで母と私が揉めると、時々厳めしい顔で私の現実的でないビジョンを諭した。そして父に対して苦手意識を募らせた。このような両親との確執は大学を出るまでずっと続く苦い思い出である。 つづく
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