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バンドマンに憧れて 第14話 パンク・ハードコア、インディーズ!

高校生になってから私は、ファッションオタクだった姉の影響でファッション誌なるモノを買うようになり、オシャレなヤツになるんだ、と人一倍服装に気を使うようになっていた。オシャレな格好をしてこだわりの音楽をチョイスする。これは当時のティーンの間ではありふれた発想である。

私は高校生の間はずっと地元のマクドナルドでバイトして小遣いを貯めていたが、その用途はCD購入とライブ、そして洋服を買うことでほとんどが消えていた。

オシャレ願望は相棒の松ちゃんも同時に抱えていたのでしょっちゅう連れ立って原宿や代官山へ洋服を買いに行った。洋服屋が開店する11時頃に集合してとにかくあっちの店こっちの店と歩き回り、店が閉店する20時まで飽きもせず行ったり来たりするのだ。

ロックスターはオシャレをするものだと確信していたし、パンクやモッズ、グランジなど、音楽から生まれるファッションがあることを知ったのもファッション熱に拍車をかけた。

私は生まれてこのかたずっと貧乏性という病に罹患しているのだが、洋服も新品よりも古着の方が質感、コスパの面で私を魅了したということもあり、私は安めの古着で味のあるものを探すのに精力を注いでいた。

音源を掘るときと同じく、こんな服見つけちゃいました、というのを松ちゃんなり連れの友人なりに見せては得意になった。私の通ったガリ勉高は制服だったのでオシャレを自慢できるのは学校以外の時間に限られていたが、当時撮った私服時の写真を見てみると、やたら背伸びしてオシャレしようと努めていた自分の姿に恥じらいを禁じえない。

ちなみにこの頃、私は2回ほど当時全盛期を迎えていたチーマーなる不良集団に2回ほどカツアゲにあっている。場所は今や平和さながらの原宿キャットストリートであり、信じられないかもしれないが当時は人気も店も少なく、多くの善良なる高校生がこの近辺の路地裏で小遣いを搾取されたことであろう。

さて、当時は洋服代と同程度の出費をCD購入に費やしていたわけだが、古着と同様、中古CDの存在を知った私は、新品1枚の金額で中古なら2枚、3枚、場合によっては4枚、5枚もCDが買えるのか、という事実に気がつき興奮し、CD屋通いにも次第に熱が入っていく。

中でもディスクユニオンの存在は相当デカかった。私の行動範囲では吉祥寺店が通いやすく、そこが正に聖地となり、足繁く通っては中古ロックコーナーで目を皿のようにして時間を費やした。CDの背表紙の字面をずっと眺めていると、子供の頃から胃腸の弱かった私はしばしば腹痛に襲われ、決まって向かいの伊勢丹の2階のトイレに駆け込み、いつかそのトイレも聖地化した。

私は基本的に、当時ロックのバイブルとして毎号購入し読み耽っていたロッキンオンで暗記したアーティスト名などを頼りに、ロックコーナーを全般にディグっていた。しかしレスザンTVと出会ってからはレーベルやインディーズという存在を意識するようになり買い物のガイダンスが増えた。しかもレスザンのライブに通ったりしているうちに、レスザンTVがお手本にしているアメリカのレーベルでSSTやdischordというパンク・ハードコア系のレーベルがあるということを知り、それからはその両レーベルの作品を見つけると、まるで宝物でも発見したかのような気持ちで飛びついては購入し、帰宅してすぐに聴いてピンとこなくても、いつかこのよさが分かる日が来るだろう、と考え、そのレーベルの作品をやたら神聖化するまでになっていった。

SSTもdischordもアメリカではいわゆるインディーレーベルで、そのうちにKレーベルだとかSUBPOPだとかいくつもの米インディーレーベルを知るようになり、レーベル名だけでCDを漁る"レーベル買い"なるテクニックをいつの間にか身につけ、ディスクユニオンで買わなければ気が済まないCD量も次第に増えていく一方であった。

一般の音楽好きが知らない世界に足を踏み込んでいる興奮が私を捉え、聖地ディスクユニオンの棚を徘徊するのが大学生の頃まで私の快楽の1つになっていった。もちろん他のCDショップに行くこともあったが、ディスクユニオンでは私が夢中になっていた日本のインディーズシーンの情報が豊富に仕入れられる利点もあり、他とは別格であったし、何より中古CDの価格が安かったのだ。

前回、私が夢中になったサブカル誌に関して語ったが、その中の「インディーズマガジン」は私が高校3年生になるかならぬかくらいの時期に創刊され、それを手にした時の衝撃も未だに忘れがたい。インディーズという世界をfruityやレスザンTVを通じて体験し、その世界についてもっともっと知りたい、と思っていた時期だったからなおのことであった。

それは丁度ハイスタンダードがインディーズでブイブイいわせていた時期で、第1号にはそんなハイスタの他にもGUITAR WOLF、eastern youth、ブッチャーズ、ロリータ18号、PEALOUTなどその後有名になった錚々たるバンドのインタビューが掲載されるなど、今考えてもかなり豪華な誌面になっていた。

更にインディーズマガジンには毎号、掲載アーティストの楽曲が一曲ずつ収録された付録CDがついていた。この付録CDスタイルは当時まだ例が少なく画期的で、インディーズバンドを沢山知りたいと思っていた私は本当にワクワクして毎号楽しみにしていた。そしてその付録CDで知り得たインディーズバンドの音達は、実際に私がそれまで好きだったユニコーン、スパゴー、ブルーハーツなど数々のメジャーバンドが醸し出しているロックとは全然違う雰囲気を感じた。それははちゃめちゃさだったり、繊細さだったり、バカらしさだったり、ドッキリするような詞世界だったり、今まで聞いて知ってきたロックのセオリーを覆すほどの強いインパクトをいろんなインディーズバンドが放っていた。(それでも当時はまだまだ英語で歌うバンドがインディーズにはメロコア以外でも何故か多く、そこだけはずっと私には腑に落ちなかったが…)

また、インディーズマガジンには日本の過去のインディーズシーンのことも特集されていたし、インディーズでCDを作る方法や、作ったCDを流通させる方法、インディーズでライブを企画する方法など、私が知りたかったことがぎっしり解説されていた。私はインディーズのライブに通い、インディーズマガジンを読んでいるうちに、私が当面進むべき道はこのインディーズというヤツだ、という思い込みに囚われていった。

今ではインディーズというと大して新鮮味のないカテゴリーの言葉となって久しいが、当時(95年)は割りとマニアックな音楽カテゴリーの言葉として、まだそこまで浸透していなかった。とにかく人と違うことがしたい、と思っていた私にはピッタリだったし、何よりやりたいことを躊躇なく表現しているインディーズバンド達の虜になってしまっていたのだ。

丁度同じくらいの時期に知り得た先述のアメリカ・インディーズの音と日本のインディーズの音とを聴き漁り、私は本当にインディーズが好きになってきて堪らなくなってしまった。そしてそれらインディーズバンドの個性的な音が生まれてくるのは、メジャーレコード会社による、バンドの音や見せ方への介入がまったくないことが大きな要因であることがはっきりしてきた。

私はロックシーンにメジャーとインディーズという構図あることを学び、そして個性と自由度の面ではインディーズが圧倒的に面白いものなんだ、と気づき始めた。しかも普段通っているライブハウスのシーンとインディーズシーンは直結していて、そこに代え難いリアリティーを見出し、どんどんどんどんインディーズにハマっていった。私の夢はロックスターになりロックでメシを食うことであり、その無謀な目標は中学生の頃から変わっていなかったが、ジュンスカを目指していた私は過去のものとなり、パンク・ハードコア、インディーズという世界が目の前に広がっていくのを感じた。私はここから出発し、いずれメジャーから声をかけられるような想像を逞しくし、大学に入ったらいよいよオリジナルバンドを始動させるのだ、と根拠のない自信とともに意気揚々と構えていた。


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コトコト1週間 2016年10月

10/18

8時半起床。休日。

夕べ、本郷さんがいらっしゃったのでいろいろ作った惣菜の残りで朝ご飯。食後は、洗濯、掃除、部屋の片付け。いろんな友人知人からいただいた赤ちゃん服を整理して衣装ケースに詰め込む。自分たちであまり買わなくても済むくらいの量でパンパンになってる。

ピーが赤ちゃん服を整理してる間こと子をゆっくりあやす。数日前から、パパ見知りというやつなのか、私が抱っこすると全力で泣き出す傾向があり、私は悲嘆に暮れていたのだが、今日まで4日ほど休みが重なって家でこと子と触れ合う時間が増えたせいか、また昨日あたりから徐々に受け入れてもらえるようになったようで安堵。

昼過ぎて片付けを中断し、友人のハルちゃんが1日店長で食事を出してる阿佐ヶ谷のお店に家族でお出かけ。ベビーカーで電車に乗るのはまだ2回目。

ハルちゃんのゴハンは動物性の食物を使わない優しさゴハンプレート2種、という感じだったが、細かい工夫が随所に散りばめられてて美味しかった。途中でsoupのミヤナカ君も現れ、楽しい再会。こと子を抱っこしてもらった。

帰りはピーが寄りたかったという子供服屋さんで買い物をし、節約のために鷺宮まで30分くらい歩いた。すっかり日も暮れて家に帰ると19時半。

ピーが授乳やらなんやらしてる間に晩ご飯を作る。豚と長ネギの甘味噌炒め、キャベツとヒジキの梅和え、ルッコラの胡麻和え。食べ終わってこと子がぐずるので風呂に入れたが、湯船に浸けると嫌がりギャン泣きされる。風呂後の授乳の後にもピーを助けようとこと子を抱っこするもまたギャン泣き。もう一度おっぱいあげたら寝た。我々も就寝。

10/19

晴れ。卵納豆ご飯で出勤。

朝一錦糸町の退室で物件付近を歩いているところに門仲に住む友人と遭遇。もうすぐ2歳になるという娘がいて可愛らしく、癒された。

錦糸町を終え大島の物件へ。昼食にピーのワッパ飯を食べてる最中、納豆卵焼きを掴む瞬間に箸が折れた。縁起が悪いこともなかろうが卵焼きで箸が折れるとは。

ミナカタ氏と合流し、玄関の鍵番号の交換。最近家賃未納で夜逃げしたお客さんが勝手に入れないように、この対策はマニュアルになっている。そこへやってきたスウェーデンのお客さんとしばし立ち話。スウェーデンでは病院も学校も無料だと言い、日本の大学は高すぎて諦めたそうだ。日本の大学の学費の高さは世界有数だと聞いたことがある。

大島から門仲に移動し水道クレーム、ドアクレーム対応。最後は田端で民泊の準備。鏡や時計、コルクボードなど設置し帰社。

退勤後は急いで帰宅しこと子のお風呂。今日も暖かかったし、昨日泣かれたしで湯温をぬるめにしてみたら泣かずに大人しく浸かってくれた。

風呂後はオイルサーディンとナスのカレーうどん。なかなか辛くて汗にじませ。食後はTwitterで私好みの曲を呟いてくれるミトコンさんオススメの曲達を聞いて心踊らせる。ピーとこと子が寝たので自分も就寝。

10/20

晴れ。6時半に起きてこと子としばし戯れ、後、ピーと落花生剥き。今日は落花生ゴハンを炊いてくれるらしい。その間こと子を先日購入したバンボ(赤ちゃん用椅子)に座らせていると、ニコニコしていたと思ったらミルクを真っ直ぐ、相当な量で前方に吐き出して大騒ぎ。出勤。

午前中は矢来町、門前仲町。ホームセンターでブラブラ買い物。防火パネルのような資材を探したが見つからない。防火パネルは諦めて店を出るとピーから着信。私が渡すべきお金を渡してなかったので、残金が300円しかないと。こんな時便利なネットバンキングで送金。

昼メシ。落花生ゴハンが美味い。メシの途中業者に呼び出され止水栓交換のための立会い。4.5万くらいかかると言われる。戻って休憩。ちょっと前まで寒かったのに残暑復活で汗ばんでいる。

午後は大島、錦糸町、蔵前、秋葉原。お腹の調子が悪い。帰社する際に銀行に用事がありたまたま停まった処に鯛焼きの名店、神田達磨発見。前から気になってた店だったので思わず2つ購入し、ピーにLINE。

帰社後は面倒くさい事務処理に苦戦して20時前に退勤。田無でクイックバーバーしたかったが間に合わず、帰宅して風呂入れ。昨日に続き湯温を温めに調整し、うんうん、とコミュニケーション取りながら。今日も静かに入ってくれたな、そろそろあがろうかな、というタイミングで眉間に皺が寄った。次の瞬間ギャーっと大号泣。

風呂後はおっぱいで寝てくれたが、このペースだと朝の出勤前と風呂の時間しかこと子と触れ合えないのか、ということに気づく。

こと子が静かに寝た後、ピーとピーナツご飯を食べて、またぞろ南アのハウスをyoutubeで集中して聞き、ピーの寝るタイミングに合わせて就寝。

10/21

昨日ほどではないが暖かい。こと子は寝ている。センブリを煮出し、納豆卵ゴハン食べて出勤。

午前中はテレビ台の組み立て、インターホンの設置、モップ掛けや鏡の設置など、新規オープン物件の田端でドタバタ。
一緒に作業していたマツオさんに子育てのことを聞かれたので、嬉々として答える。基本的に子育て話しも我が子自慢も、ウザがられそうな気がして求められるまでしないことにしているからだ。マツオさんはコミュニケーションの達人で、私の話しを丁寧に、かつ面白そうに聞いてくれる。人格者だなぁ。

マツオさんと別れて昼休憩。ワッパを食いながらSNS。沖縄県民を土人呼ばわりした機動隊やそれをほぼ容認した大阪府知事、他人事のようにトボける沖縄担当相に怒り心頭に発する。そして鳥取で震度6の地震。全原発を早く止めてほしい。

午後は錦糸町でタオルハンガーの設置に電球交換、鶯谷で備品搬入にゴミ回収をして帰社。リフォームの申請書を四苦八苦して仕上げて退勤。

帰宅し、すぐにこと子とお風呂。しかし今日は洗い始めから泣き出し、無理矢理湯船につけるまでずっと泣かれる。難しい。

夕飯はきつねうどん。田無駅前のお気に入りの豆腐屋の油揚げだ。食後皿洗いして南アのハウスを聴いて寝る。

10/22

遅番なので遅く起きる。ピーが弁当の準備をしている8時半。朝めしは昨晩のうどんの残り、サツマイモと梨のクリチ和え。出勤前に時間があったのでハマってる南アハウスのお気に入りの曲を、ピーに2曲聞いてもらうと、ごめん、両方同じに聞こえる、と。なるほどそうかも。

11時に出社し千駄ヶ谷でハイエースをピックアップし、吉祥寺の閉鎖物件へ。コダマくん、コウノくんと夜までひたすら閉鎖作業。途中近所の、鯛焼きを売ってる木材屋に行き、まな板と鯛焼きを買う。鯛焼きはピーへのお土産である。

閉鎖作業はハードでなかなか終わらず結局19時半頃まで作業。そこからなんやかんやして帰社したら21時。残務をこなし、コウノくんと初めてのオフィス締めと施錠にトライするも、鯛焼きを忘れたりいろいろトラブって時間を浪費。田無に戻ると23時を回った。

遅くなったのでピーにこと子の風呂を頼んだが、1人で風呂入れするのはなかなかハードなので申し訳ない。帰宅して私は夕飯をピーは鯛焼きを食べて眠る。

10/23

休日。7時半起床。快晴につき掛け布団を干し洗濯。パンが無性に食べたくなり、しかし行きつけのガタンゴトンは休みなのでググッて朝からオープンしてる近所のパン屋を探し、東伏見のパン屋まで原付で。

少し体育会系の気合いを感じるそのパン屋は朝から大混雑。数点買って帰宅して朝ごはん。塩バターあんパン、フィッシュサンド、ピザなど味は悪くなかった。

今日は昼から友人が来宅予定で持ち寄り饗宴なので仕込み。ピーはラムのカレー、私は秋刀魚のスパイス焼きと春菊の豆板醤きのこサラダ。こと子が泣けばその都度中断でなかなかスムーズに進まぬが、最近導入されたおんぶ紐とバンボが幾らか負担を軽減してくれている。

13時前後にアカネちゃん、ハルちゃん、タケマルくんがやってくる。みんな心のこもったお祝いの品を提げてきてくれて感無量である。持ち寄りのオカズに留まらずハルちゃんは油持参でその場で里芋のコロッケを揚げてくれた。

みんなこと子を愛でてくれて、こと子はこと子で来客時はあまりぐずつかず、笑顔で愛嬌を振りまいている。みな愛する我が家の風情を褒めてくれるので、いつも通り実家同居大失敗騒動などを話す。今では笑い話だが、我々は1度このアパートを引き払い、実家同居をしくじり、数日後にまたこの部屋を借り直して戻ってきたのである。珍騒動には違いないがそれくらいこの部屋を気に入っていた。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、3人が帰るのを見送りがてらこと子を連れて駅まで。みんなを見送って軽く買い物をし、1000円カットで、ピーにリクエストされた通りコボちゃんヘアーにしてもらう。腰が痛い。

帰宅して宴の残り物などで晩を済ませ、こと子を風呂に入れ、寝かしつけた後youtube。

10/24

今日も晴れ、今日も休み。しかし、朝から腰が痛んでこと子を抱き上げるのにも難儀する。

朝めしにTwitterで覚えた素麺チヂミを作ってみたところ、これがピーに大好評。ネギ、ゴマ、かつお節、豆板醤にすだちなど薬味が大活躍。

ピーが家の片づけをしてる間にへたったズボンの染色。染料はホームセンターで入手済みの化学染料。熱湯を沸かして染料を溶かし、飛沫被害のないように庭で撹拌。よくすすいで陰干し。綺麗な茶色に染まった。

大好評だし茹で麺も余ってたので昼も素麺チヂミ。夜のご馳走に備えて控えめに昼食。

今夜は、山口から叔父が上京してくるのに合わせてこと子のお食い初めを執り行う予定で、その為の赤飯を炊き、煮しめを作る。こと子の衣装やらバンボやら荷物が多いのでタクシーを捕まえて実家に。

久しぶりの叔父と挨拶し、儀式の準備。鯛と吸い物は父が用意してくれた。19時過ぎて姉がやってきたタイミングで神前の和室に集まり、ネットで検索したやり方をなぞってお食い初めを行なった。

こと子にはビーキッズで買った古着の着物をピーが着せてあげた。父が箸を持ちエアー食事の儀式。歯固めにタコと梅干し。こと子は多分よく分かってないから、これは大人が満足する為の行事なのだろう。

お食い初めを済ませて晩餐。父が作ったいくら入りちらし寿司と刺身が豪華である。父が実家の神社を継がずに末弟である叔父に神主を継いでもらった時の裏話など聞く。

こと子の風呂事情もあり21時においとま。姉もそれを潮に帰り仕度。酒がまわりテンションが上がってきている父と叔父を残しタクシーで帰宅。タクシーを使うなど、大人になったものだ、と思う。

私もビールで大分いい感じになっていて、風呂の中で寝てしまい、とおちゃん死んでるかと思ったよ、ちょっと、というピーの叱咤で目覚め、こと子を受け取り沐浴。湯船につけてる間、友人のアドバイスを思い出し、あんまりこと子を凝視しないで他所に視線を向けたり目を瞑ったりしながらあやしてみたところ、こと子の顔に楽しい時の表情が浮かび、何やらいろいろと発声を始めた。今までにない手応えだったので、よっしゃと思いながら余所見8割こと見2割を続けた。が、たまたま今日は機嫌がいいだけなのかもしれない。

風呂後におっぱいをあげてるピーの横に得意げに寝そべり、2人を温かい目で見守っていると「酒臭い!」と他所を向かれてしまった。

手拭い

私はほぼ毎日欠かさず手拭いを首に巻いている。これは家を出る際に何かの拍子で忘れたりしなければ必ず携帯することになっている。

それはお洒落で巻いているのか、実用的だから巻くのか、と父に聞かれたことがあったが、どちらの目的にも適っているのでどちらとも言い難い。手拭いが実用的だからというのに反対する人はいないと思うが、それがお洒落かどうかとなると賛同してくれる人を探す方が骨が折れそうだ。

私が手拭いといって思い出せる古い記憶は剣道である。両親のススメで幼稚園から小学生に入る頃にかけて私は地元の剣道教室に通わされた。実家が神社であった父が小さい頃に習わされていたことが起因していたようだが、戦闘意欲の逞しくない私には至極迷惑な習い事だったように思う。

剣道の稽古では面、胴、小手と三ヶ所に防具をつけるのであるが、夏場は不快なほど群れるので、面を頭に直に被る前に手拭いを巻くのが基本である。私が手拭いを意識した古い記憶はこの時巻いていた手拭いの記憶からのようだ。

その時は数種の手拭いを母から渡されていたと思うが、中に父の実家の神社である「長尾八幡宮」のオリジナル手拭いがあったのをハッキリ覚えているし、カッコイイと思い気に入って使っていた。私は父の実家が神社である、ということが何か誇らしいことであるかのような錯覚を抱いていたため、その手拭いを巻くこともまた誇らしい気持ちにさせてくれたのだと思う。

しかし私は既に述べた通り戦闘意欲の逞しくない貧弱な性質だったので小手で受ける刺激に耐えかね、剣道をやめさせてくれるよう母に懇願し、小学校1年か2年でリタイヤしたので、それ以降、手拭いの記憶といえば運動会やらお祭りやらで巻いたか巻いてないかの豆絞りのことくらいしかないのである。

一通り西洋かぶれする思春期をやり過ごした後、日本のレトロなモノに興味を持ったり、惹かれたりするようになり、私はまた何のはずみでだか思い出せぬのだが、手拭いに心を奪われるようになった。そのもめんの汗を拭う時の肌心地や、首にあてた時の触れ心地や、濡れてからの乾燥の早さに注目しているウチに、自分と同世代の人間にも、同じように手拭いを好んで使うような友人を見つけたことで、手拭いいいよね、いいよね、と意気投合し、手拭い同好会を作ろう、などと言ってふざけていたのが20代中ごろだったかと思う。

結局手拭い同好会なるものはその場の口先だけで終わったが、その頃から「かまわぬ」という、手拭いをオシャレにプロデュースするブランドなども現れたり、手拭いをリバイバル的にもてはやす兆候も世間にないわけでないことを知った。何しろ高い品物ではないので、私は徐々に手拭いを集めるようになり、新しいものと古い日本のデザインのものと、いろいろ集めるようになった。

手拭いはその乾きの早さと触り心地の優しさから、汗を拭くのには最適のもののように思われ、私は手拭いを持ち歩くようになった。私はこれでもお洒落を意識する人間なので、初めは手拭いをズボンのポッケからだらりと垂らすようにして持ち歩いていた。そうすると何となくファッショナブルな腰周りが演出されるように感じたからだったが、そのスタイルで何度も手拭いを落としたりして紛失することを繰り返してしまった。

それで今度はポッケ案をよして、首にひっかけて垂らすスタイルに挑んだ。これも柄がオシャレであればお洒落で押し通せるだろうと考えたからだが、それでも結局ひらりと、何かの拍子で落としたりして結局なくしてしまうのだった。

大好きな手拭いを無くすのは悲しいので、最終的に私は手拭いを首に巻きつけて結わくようになった。さすがにこれじゃあ百姓みたいでスタイリッシュには見えないだろうと二の足を踏んでいたが、無くさないこと、また誰にも突っ込まれなくなったことが相まって以来そのスタイルを変えない。

もはやお洒落としてではないでしょう、と思われるかどうかは分からないが、私がお洒落で手拭いを首に巻いている根拠には、頂き物の手拭いなどで自分の趣味でないものは首に巻かず食器を拭いたり雑巾にしたりして、首に巻くものとは分別して使っているのである。

いつだか飲み会の席で誰かがドリンクを零してその辺が汚れた時に私が首に巻いていた手拭いをサッと出して、零れた飲み物を拭き取った時、それを見た誰がしかが、かっこいい、と私の手拭い術を褒めそやしたが、それが例えばブドウ系のジュースだったり、手拭いが明らかに変な色で染まってしまいそうな液体だったら私は手拭いを差し出さなかっただろう。首に巻いてるのはお気に入りの柄だからである。

つい1、2年前に姉の誕生日に妻と父と姉でかなり背伸びをして青山の、土日ともなればなかなか予約の取れないという地中海料理屋に行く機会があった。そして私は事前に姉から「手拭いはNGね」と釘を刺されていた。私は半分はお洒落で手拭いを首に巻いているのだから、と反抗心が仄かに芽生えたのであったが大人気ないので黙って従った。お洒落の姉には、柄が何だろうと手拭いはお洒落と認められていないことが分かり残念であった。

ともあれ昨今のフェスブームやエコブーム、原点回帰ブームにより手拭いも大分市民権を得てきたように思う。気づけば私の友人の多くが手拭いを愛用しているし、お土産に頂いたりする。特に音楽仲間には理解者が多いようだ。

手拭いと題したからには手拭いの思わぬ利用法とか、便利な使い方を紹介してもいいのだが、それは私の役目でないような気がするし、よく考えてみれば汗を拭いたり、手を拭いたり、食器を拭いたり、最近だと娘のヨダレを拭いたり、おおよそベタな使い方でしか活用してない気もする。1つだけ主張させてもらうなら、始終首に手拭いを巻いていることで、首の冷えが軽減されている実感は大したものであるということ。夏の電車内の強烈な冷房の冷えからは特に効果絶大である。

この稿を上げるにあたり、手拭いについてあれこれと書き、考え、歩きスマホしている最中に、手拭いを首に結わえておかなかったことで私はまたお気に入りの手拭いを1枚無くしてしまった。

バンドマンに憧れて 第13話 レスザンTVとアンダーグラウンド

 私と松ちゃんはレスザンTVからリリースされた「サンタVA」の不可解な魅力を突き止めるべく、fruityも出演予定になっていた、そのオムニバスのレコ発を目撃するために新宿ロフトに向かった。このライブハウスは今はもうないが、私が中学時代に大ファンだったニューロティカが活躍していたハコであったはずで、他にもミスチルやスピッツなどの国民的バンドがデビュー前に度々ライブをしていた老舗のハコだったようで、インディーシーンでは相応のネームバリューを持っていた。

 馴染みのない新宿の西口を、小滝橋通り沿いに歩いてしばらくすると右手にロフトがあった。我々がドキドキしながら階段を降りていくと、白黒の市松模様が床張りされていて、途中で一段か二段段差があり、縦に細長いライブハウスだった。いかにも変わった音楽趣味のお客さんが集まっているように見えて私達はワクワクしていた。

 ライブスタート前のステージには、幕があったかなかったか、とにかくプロジェクターで映像が映し出されていて、それが我々がアニメで知っていた「ドカベン」の実写版だった。その、いつ放映されたのかも分からない、毒々しくB級な実写版「ドカベン」の映像は、訳のわからないモノに惹かれる性分に傾いていた私のハートをガシっと掴み、同じく松ちゃんのハートをも掴み、我々は、ヤバいね、とライブが始まる前から興奮が止まらない。CDのオマケに、モールで作られたサンタの人形を同封する遊び心に共通するハズしのセンスがライブ前から溢れていた。

 記憶が曖昧だが、その日は前半にfruityが出演し、その他U.G.MAN、HARD CORE DUDE、D.M.B.Qなどが出ていたはずだが、fruity以外はやはりどれも想像を絶する破茶滅茶具合で我々はとにかく呆気にとられていたと思う。しかし、U.G.MANのライブは中でも特にインパクトがあり、私も松ちゃんもそのズッコケルようでいて、パワフルなステージングに感銘を受けていた。

 あの謎のCDの、音源では分からなかった魅力が視覚と、鳴らされる磁場と、そこで暴れるお客さん達の勇姿とで説得力をもって迫ってきた。幼少の頃より人と違ったことをしたがり、人と違ったことを好む私の性分にガチっとハマる異物感をU.G.MANおよびレスザンTV界隈に見出してしまったのだった。

 ライブ終演後のロフトの周囲、小滝橋通りの歩道沿いに出演者、関係者、そして名残惜しむお客さん達がたむろしていた。私はU.G.MANで、最も異様な存在感を放っていたギターの方の風貌に釘付けになっていた。少しいびつなようなウルフカットに柄の壊れた眼鏡をかけて、お腹がポコリ。まさに実写版「ドカベン」から飛び出してきたようなそのインパクトある風貌は、私がイメージしていたパンクスや不良のそれとは全然かけ離れていて完全に独自の、とことん自由でオシャレなアウトサイダー、という印象だった。私も松ちゃんもまさに釘付けになった。そして彼こそがレスザンTVの総帥である谷口順氏(以下谷さん)であった。

 その日以来、私の新たなロックスターは谷さんになった。私はfruityを追いかけながらも、レスザンTV関連のライブを隈なくチェックするようになり、小遣いが許す限りはそういうライブに通いまくるようになった。

 高校3年生になる頃だったと思うが、私はその後の趣味趣向形成に大きな影響を受けることとなるいくつかの雑誌に出会うこととなる。それまで私の趣味に起因する雑誌といえば、音楽ではロッキンオン、ファッションではメンズノンノ、スマートなどであった。私はファッション狂いだった姉の影響でファッション誌を見るのが好きだったりした。

 ところがこの時期に出会った「クイックジャパン」「インディーズマガジン」「テレビブロス」の三誌はいずれもサブカルチャー的視点が濃厚なものだった。サブカルという言葉自体もこの頃に知り、インディーズというキーワードと共に私がのめり込むべきめくるめく世界だと認識するようになっていった。

 特にクイックジャパンの誌面から迸るマニア臭は私を魅了した。表紙からして妖しげなその分厚い雑誌をガリ勉が集うインテリ高校に持っていき、これ見よがしに、そして得意気に休み時間などに読むことを是としてすましていた。

 第1話にも書いたが、私はひねくれながらも、夢や希望、個性というキーワードをいつも重視していた。これからの時代は若者は個性的であるべき、という緩やかな青年向けスローガンが世間に蔓延していたのは確かだった。小学生の頃から、あえて変な行動をとったり写真に後ろ向きに映ったりなど、個性、個性と言われる前からそういう逸脱したがる節を持っていたのは確かだが、そういう青年向けスローガンをテレビやメディアから擦り付けられていた私は、それなら大手を振って個性的に生きて行こう、と妙な意気込みを持っていた。

 そしてこの時代に出会った日本のアングラなロックやパンク、クイックジャパンに端を発するサブカル趣向は個性的であるのに最良に思えて私は躊躇なく飛び込んで行った。その前傾姿勢は親友の松ちゃんをさしおいてあからさまになり、1人でライブに行くようになったり、1人で単館上映のインディーズフィルムを観に行ったりするまでになっていった。そしてどんどんどんどん周囲の友人たち見下すような悪い癖がつき始めた。

 私は明らかにトンガリ始めた。大衆的な音楽を見下し、テレビ的なものを下らない、と思うようになり、時に毒づいた。ガリ勉の通う学校がホントに下らない、と思い込み、つまらねーヤツらばっかりだナ、と思いながらいつも過ごしていた。

 その癖、私が始めたハイパーニトロというバンドはまったくロクな演奏もできないままであった。高校3年性の時に軽音楽部とは関係のないバンドが集まってジョィントライブをやろう、という発案が誰からともなく持ち上がり、我々ハイパーニトロもエントリーすることになった。

 場所は今も健在の吉祥寺クレッシェンドというライブハウスで、いわゆるチケットノルマ制のライブだったのでエントリーしたバンドは30枚くらいのチケットがノルマだった。言い出しっぺで同学年の目立つ連中で組まれたバンドは何と100人くらいの友達を連れてきたのに対し、比べるとポップさに欠け、押しの弱い性質のキャラが集まった我々ハイパーニトロは数人のお客さんしか呼べなかった。それは、その後十数年続いていくこととなるバンド活動でもいつまでも解消されていない集客不得手問題の幕開けでもあった。そして、インディーズパンクの下手くそなカバーくらいしかできなかった我々のライブは冴えないもので、当時かなり流行ってたレッチリを中心レパートリーに据えた目立つ連中バンドのライブが華やかに盛り上がっているのを、畜生と思いながら眺めるしかなかった。


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