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コトコト1週間 2016年11月

11/18

整体のハーさんが出張整体で来宅するので部屋の片付けと昼食の準備。我々夫婦はハーさんの月一の整体で身体のバランスをとってもらっているのだ。ハーさんが整体をしながら、こないだ知らないクラブイベントに1人で行った、という話しをしたので、そうそう、私も今夜1人で未知のクラブイベントに1人で行くんだよ、と盛り上がった。

整体後、我々は姿勢がよくなるのだが、今日は休みだし夜はとんかつを食べに行こう、ということになり、近所の同僚が教えてくれたとんかつ屋に繰り出した私とピーは歩きながらお互いの姿勢のよさを讃え合った。東伏見のそのオススメのとんかつ屋までは新青梅をまっすぐ20分。ベビーカーを押して我々は何だか気持ちも清々しく、楽しく歩いた。

噂の「日の出」は昭和の佇まいを残した控えめなとんかつ屋だった。素早い動きで我々の注意を引いたおかみさんは、いかにもおいしいとんかつを揚げてくれそうな雰囲気を讃えて、出前から途中で帰ってきた柔和な表情の旦那さんと、そしてとんかつの味とセットで我々はすっかり日の出のファンになってしまった。こと子もご機嫌を損ねることなく、美味しそうにとんかつを食べる私達の姿をよだれをダラダラ垂らして眺めてくれるのだった。

満腹で帰った後こと子を風呂に入れて、安らかに眠ったのを見届けて私は久々の夜遊びに繰り出した。新宿で乗り換えて幡ヶ谷に着くと日付が変わっていた。

11/19

幡ヶ谷のクラブに南アフリカ発祥のトリッキーなハウスミュージックのDJが来日する、というので私は気になって来たのだが、途中まで楽しんだ後、今度は東高円寺のクラブで友達が回しているのが気になってきてしまい、どうしようもなくなってタクシーに乗った。普段滅多にタクシーになど乗らない私は、ここぞとばかりにオトナな気分を味わっていたが、運転手さんは、遅くまでお仕事ですか、などと頓珍漢なことを聞いた。

東高円寺で朝まで踊って、そろそろこと子とピーが起きるのではないかということが心配になってきたので外に出てみると、夜が明けているのに薄暗く、そしてすっかり雨が降っているのだった。幡ヶ谷の駅まで、新宿での乗り換えの途上、田無駅から家まで、私は傘を買うのがバカらしく、バカみたいだが雨に濡れながら走った。

息を切らして玄関を開けると、パンの焼ける美味しそうな香りがもわっと鼻を包んだ。昨晩ピーが仕込んだホームベーカリーが、まるで私の帰宅に合わせたかのように焼き上がったらしかった。雨に濡れて散々な気分が一気にほぐされるようだった。

寝起きのこと子の顔が特別に可愛かった。私は普段こと子の寝起きの顔を見てなかったことに気づいたが、こんなに可愛いならもっと寝起きを見たい、と思った。

ピーが、寝るか、ご飯食べるか、と聞いてくれるので、美味しいパンを食べてから寝ることにした。私はせめて起きている間だけでも、とこと子の子守りと朝食の準備のサポートを全力で務めた。

焼きたての美味しいパンを食べて、お言葉に甘えて床に着き、ようやく眠りに着こうか着くまいか、という絶妙のタイミングでイシダさんがドアを叩いた。ピーが授乳してたらしく出てくれとお願いされて、ハッとして私が出ると、日曜日の憲法を守る会の出欠を取りに来たという。イシダさんは共産党のおじいちゃんで私を気に入ってくれてちょこちょこ挨拶に来てくれるのだが、日曜日は仕事だし、私は寝ぼけていて対応がお粗末になっていたかもしれない。

床に戻るとストンと寝てしまい、軽く寝るつもりがピーに起こされた時はもう16時前だった。今日は保育園の申請の関係で市役所に行かなければならないのだった。急いで身支度を済ませ市役所へ。保育課は土曜日だが臨時的にやっているらしく、保育園に何とか子供を預けたい真剣な表情のお母さん達が集まっていて神妙な空気だった。

帰りに駅で買物をし、家にある野菜を集めて札幌一番の味噌ラーメンを作って食べた。初冬の冷気で冷えた身体がポカポカ暖まった。こと子はよだれを垂らして眺めていた。

11/20

お弁当を作りながらピーが歌ってるメロディが爆風スランプの「さよなら文明」と同じなので、爆風スランプ?と聞くが違ったらしい。確かに世代が違うが、気になってきたので出勤の電車でyoutubeを調べていたら「つよししっかりしなさい」というアニメの主題歌だった。リンクをピーに送ると、そのアニメは知ってるが曲は知らない、と。

直後に爆睡中のこと子の画像と、その顔が稲中みたいじゃない?とピーから。私はある時期からアニメ嫌いで稲中も人気があったのは知ってるが、見たことなかったのでそれで会話は終いになった。

グループ会社のそば屋の蕎麦をA君と運んでいたら、そば屋にテレビクルーの取材がやってきて、自慢のインドカレーをリポーターがわざとらしく褒め称えている。私は過去にこのそば屋の自慢のカレーを食べたが大して美味いとは思わなかった。それよりもニラ天玉そばが1番美味いのに、と賄いのニラ天玉そばをすすりながら思った。

ホームセンターでインターホンを購入し、門仲の物件で作業。馴染みの内装屋のBさんが仕事に息子を同伴していた。Bさんが仕上げた部屋でワッパを食べながらBさんと少し世間話。Bさんはギタリストでもあり、バンドを長く続けてきた私に作曲のコツを教えてほしい、と言ってくれたのだが、難解な質問なので満足の得られる返事ができなくて残念だった。

帰宅するとピーはこと子のウンチと夕飯の仕込みで大わらわだったので、すぐにこと子の着替えをし、夕飯ができるまで風呂の壁に滲んできたカビの清掃に取り組んだ。バランス釜の古い風呂場なので天井が高いため、作業用に買っておいた脚立が大活躍。

夕飯を食べてこと子を風呂に入れ、こと子とピーが寝てから私は気がかりだった喪中はがきの作成に着手。年賀状にしろ、挨拶状にしろ、私はテンプレートの何かを使うのが苦手でつい自分流の手造り感を出そうと余計な努力をしてしまう。結局1時くらいに草臥れて残りを後回しにして就寝。

11/21

緑豆を甘く煮たものに餅を入れ、お汁粉にして朝メシにしている横でピーがパッタイを作っている。パッタイは私のお弁当になった。出勤。

東京駅付近の物件で退室をした後、矢来町の倉庫で備品を搬入。門前仲町の物件の、昨日Bさんが仕上げてくれた部屋で備品の組み立てやペンキ塗り。途中でピーから電話があり、今日締め切りの保育園申請で、私の会社で書いてもらう書類に漏れがあった、と慌てている。それで急遽会社に連絡をし、ピーを私の会社まで来させることに。数時間後、無事書類の提出ができたと連絡が入りホッと一息。

帰り道は恒さんと一緒だったので子育ての話にひとしきり花が咲いた。雨が降ってフロントガラスがギザギザに東京シティーを映していた。

残業も少なめに帰宅するとピーとこと子が台所で横になっていた。申請手続きで大変だったろう。我々は簡単な夕飯にしよう、とパンとスープで済ませた。こと子は静かにしている。

こと子を風呂に入れ、ピーに授乳してもらい寝かせる。寝たかと思うとむずかり出し、私があやすと、オマエじゃない、と大泣きされた。風呂から出てきたピーにまた授乳してもらいようやくこと子は寝ついた。喪中はがきを完成させて就寝。

11/22

朝起きるとピーが饅頭を仕込んでいる。朝から凄いな、と思って見てみると色が茶色がかっていて、どうやら全粒粉である。普通の小麦粉を切らしていたとのことだが、せいろで蒸し上げられた全粒粉饅頭は豪華な味がした。

出勤し、今日は後半まで電車とバス移動。日本橋の物件の退室ゲスト立会いを済ませ、錦糸町へ。錦糸町の北口を改めて歩くと、なかなか個性的な味わいの店が多いことに気づく。昭和風の喫茶店や洋食屋に目が奪われる。

錦糸町の物件の定期清掃を済ませ、今度はバスで大島の物件へ。初めて使うバスなのでちゃんと目的地に着けるかハラハラした。何とか無事辿り着き饅頭弁当で腹を満たし20分ほど仮眠。

起きたらまた定期清掃。バイト時代はずーっとこの定期清掃をやっていた訳だが、久々に定期清掃に入って掃除の美学について改めて考えていた。

日が暮れる頃パートナーが車で到着。そこからは2人でリフォーム部屋の整備と写真撮影。シェアハウス業とはとどのつまり不動産業である。

残業になったので急いで帰宅し、風呂掃除。風呂場のタイルの一角に幼虫のような、綿で覆われた小さな物体を発見。興味をそそられ、流さずに放置。晩メシ、風呂を済ませ喪中はがきを完成させて就寝。

11/23

休日。木造アパートで冬を越すのに、今年から幼児がいるので寒さ対策が必要になり、先日ホームセンターで買っておいた断熱シートを貼る作業。寝室として利用してる8畳間の4枚並んだ窓の下半分に緩衝材のようなそのプラの断熱シートを貼る。霧吹きによる水分のみでくっつく不思議なグッズだ。

部屋の掃除機がけも済ませ、家族で花園神社の酉の市へ。歌舞伎町を通ってゴールデン街に抜け、裏通りから入る。昔、サブカル好奇心でここの酉の市で見世物小屋を見に来たことがあったがあれから何年も経った。

日中の酉の市は初めてだったが、有名なだけあってとにかく混んでいる。混雑を懸念してベビーカーではなく抱っこ紐で来たが正解だった。見まわすと子連れの家族も多い。去年ピーがミニ熊手を買って来ていたが、熊手は年々大きくしていくのだそうだ。私は熊手を買うことに馴染みがないし思い入れがないので、買うのは構わないけど、どんどん大きくなるのは困る、と思った。

結局2000円のを1つ買い求めて屋台でもつ煮と味噌おでんを食べた。私は熱燗を頼みポカポカしてきた。帰りは表の靖国通り沿いの、ここも屋台で賑わう歩道を冷やかし、ベビーカステラを買って、それを食べながら西武新宿へ。

始発で座れたのだが、日本酒が効いてすぐ寝てしまい、抱っこしていたこと子が不恰好に垂れ下がっていくので、こと子が泣き出し、隣からピーに注意され、ハッとして立ち上がった。それであやしてみたが、どうにもぐすつくので結局ママが抱っこ。

帰宅してぼんやりしてると父から電話。角上(近くにある鮮魚店)で買い物したからお前のとこで一緒にメシを食べよう、と例にないことを言う。ピーも特に異論はなかったので承諾。いつもは我々が実家に行くのだが、我家に父が来て呑むのは初めてだ。

簡単に部屋を整理して父を迎え、ワイワイと宴の準備。イカの刺身、サザエの壷焼き、ツブ貝の和え物、レバー煮、青梗菜炒め、カボチャの煮ころがし、海藻大根サラダなど賑やか。ある程度満たされたところでこと子が機嫌を損ねたのでピーが寝室に連れて行く。

その後差し向かいで父と飲んでいたが話題も尽きるし、隣の部屋からは機嫌の直らないこと子の泣き声。そろそろ風呂なのでなんとなく食卓を片づけながらオヤジに無言の圧力をかけたが、私が皿を洗ったりしながら振り返ると、父が私の部屋のレコード棚にもたれて潰れている。ビール後の日本酒で回ったらしい。

父をそのままにして風呂を沸かし、こと子の風呂を済ませた。風呂場の謎の物体は何と幼虫ではなくキノコで、はっきりとしたフォルムのキノコになってやたら丈を伸ばしていた。このキノコ事件に関してはピーも面白がって観察していた。

風呂後のこと子をピーが寝かしつけてくれる頃、私が父を起こし帰宅を促す。父は持ってきたはずの手袋がない、ない、としばらくフラつく足取りで右往左往していたが、見つからず諦めて帰っていった。

ピーは疲れたのかこと子を寝かしつけたまま隣でダウン。私はギターを取り出し少し弾き語りの練習をして寝た。

11/24

噂通り朝から雪が降っている。11月の段階で雪が降るのは54年ぶりだそうだがとにかく寒い。昨晩の残り物を食べて出勤。雪の影響で西武線20分以上の遅れで大混雑。

出社して事務処理後、門前仲町の退室整備に向かう。結構降っていたように思えたが路面に積雪はなく、スリップの心配はなさそうだった。

退室のお客さんはイスラエル人で「mor ory」という表記の名前。何と発音するのかまったく分からぬが、優しい人あたりのナイスガイに見えた。

部屋の整備を終え、昼食。曲げわっぱはその素材の特徴から、詰めたゴハンが美味しくなると言われているが、それを初めて味覚で明確に認知した。朝食べた炊きたてゴハンよりもっちりしっとりしているじゃないか。

腹が膨れて仮眠を取り、午後は大島、錦糸町、田端を巡回。田端の乾燥機に不具合の報告があったのでどれどれ試してみると、ガゴガゴガゴー、ゴゴゴーと聞いたことのない音をあげている。しかもドラムが回らない。どうしようもなさそうなので電源を抜いて業者に連絡。

帰社して事務処理とスケジュール提出。年末年始のシフト出しが悩ましい。何しろうちの会社は昨年から年中無休となったので年末年始に交代で出勤しなければならない宿命にある。隣で一緒に悩んでいた、二カ月違いの娘を持つ河野君が、うちの子ついに夜泣きが始まって、と苦い顔で報告してくれる。噂に聞く夜泣き、こと子もそのうち爆発するのだろうか。

帰宅してうどんの後こと子を風呂に入れたら、すぐに全力で泣き始めた。初めてではないし、さっさと済ませてしまおうと、泣かれるまま粛々と洗い、湯船に浸からせたが一向に泣き止まず、今までに1、2を争うボリュームで泣きじゃくるのだった。

風呂後のおっぱいでもぐずついているので、ピーを風呂に入れるために私が抱っこ。いつものことながらこの時間のぐずつきに私は無力ですぐに泣き出した。これはピーが風呂から上がるまでダメかもしれない、と半ば諦めながら私は家の中を歩き回りながら揺らし抱っこを続けた。歩いても、揺らしてもこと子は横隔膜を痙攣させながら泣くのをやめない。

5分10分と奮闘し、完全に諦めかけたその時、何のはずみでかこと子のはげしい呼吸が落ち着いてきた。これは、イケるかもしれない、と思うと同時にどんどん静かになってきた。こと子は私の方は一切向かずに一点を見つめているが、ゆっくりゆっくりと顔を私の胸に預けるようにし、ふとまた背筋で起き直りそんなことを繰り返しながら遂に顔を私の胸に埋めて寝てしまった。泣き続けられ少なからず動揺していた私に、シアワセだな、という感覚が、こと子のよく肥えた四肢の重みと共にズッシリと降りてきた。私は眠ること子を抱えながら、得意気な顔で、ピーが風呂から上がるのを待っていた。
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アクセルの意気地記 第1話

ピーがこと子を産んだのは、山形県内病院である。彼女の実家にはご両親と妹夫妻が住んでおり、その義妹夫妻には娘が2人いる。ピーは初めての出産だったので子育て慣れしている義母と義妹に頼って里帰り出産をすることになっていた。

私は子どもが生まれてくることで興奮していたので、里帰りする、と言われて寂しく思ったが、かといって私に力になれる経験もなければ自信もないので首肯せざるを得なかった。

里帰り出産というのも珍しいものでもないらしく、実際里帰りして、実家にかなり助けられた、という体験談や後日談などを私もいくらか耳にしていたので、逆に産後生活の面倒を見てもらえることを考えると、反対意見を差し挟む余地もなさそうであったし、私も実際助かるのだ。

しかし、ちょっとした長尾家内の衝突があってピーの里帰りが2ヶ月ほど繰り上がり、里帰り期間が4月の頭から8月の中旬まで、およそ4ヶ月半にまで伸びてしまって私は少々狼狽していた。狼狽していたが、里帰りを早めたことは英断だったと思うし、今では過ぎた話しであって、こと子が生まれてからは長尾家の平和もすっかり元通りになったのではないか、と思っている。

ピーの長い里帰り期間、私は東京から妻の実家の川西まで何度も足を運んだ。根っからの貧乏性、というか貧乏のせいで、今まで遠出の時は幾度も世話になっていた深夜高速バスを、川西に行く時も初めは利用したのだが、終着の米沢に早朝に着いたり、東京に戻るために米沢を深夜に出たりするのは向こうのご両親に気を遣わせたり迷惑をかけることがハッキリしてきたので、2回目からは新幹線で往復するようになった。

ピーがこと子と東京に戻ってくるまで、片道1万円弱の新幹線での往復を5、6回は繰り返したのではないかと思うが、そんなことが可能になったのはひとえに私が正社員になってからようやくのことである。長いバイト時代にはほとんどお金が余分に残ることがなかったからだが、かといってその新幹線の切符を買うのも、正社員とはいえ世間的にはかなりの安月給なので、節制による工面の結晶には変わりがないのだ。

しかしながら新幹線での移動は私に少なからぬオトナの気分を味合わせた。深夜バスに乗り慣れてるとはいえ、新幹線の乗り心地たるや別格である。二等だろうが上等、上等。米沢まで2時間ちょっとで着いてしまうのがあっけなく、寂しいくらいであった。

新幹線の乗り心地は最高だが、何度も、それこそ通い妻ならぬ通い旦那のようにピーの実家にお邪魔し、お世話になるのはいささか気まずかった。義母も義父も私にとことん優しく、送り迎えなども、私が気を遣って遠慮しようとしても、そんな遠慮が逆に失礼になるようなところもあり、すっかりいろいろと、何から何まで尽くしてもらって私は小さくならざるを得なかった。

こと子が生まれてきたことは別途書いた通りであるが、出産後数日山形で過ごした後は、また私だけ東京に戻り、妻子が戻ってくるはずの木造アパートで寂しく独りで大人しく暮らした。子が生まれる前の1人暮らしはまだ何となく気楽なものであったが、生まれてからはこと子のことで頭がいっぱいになってしまい、2人が帰るのを首を長くして待機するしかなかった。

その間私は我がアパートの住空間を出来うる限り住みやすいようにデザインしたり細工したりはしていたのだが、どうにもこうにもこと子のことが気になるので、ピーにお願いして毎日こと子の写メを1枚ずつ送ってもらうことにした。写メがLINEに届くと私はプレゼントを開けるような気持ちで丁寧にそれを眺めては頰を緩ませた。初めてこと子が笑顔を見せるようになった時は動画が送られてきたが、私は何とも言われない愛おしい気持ちに召されて、その動画をことあるごとに見た。まるで脳に焼き付けるような勢いでアイフォンを握っていた。

そしてまた生まれてから上京してくるまでの1ヶ月半の間にも私は2度ほどあちらに通った。おかげで山形は遠くない、という感覚さえ掴み、米沢の駅前も見慣れた風景になっていった。

最初の滞在時はピーの産後入院中に帰京せねばならなかったが、その後2回目に訪れた時、当たり前だがこと子はピーの実家の一員となって皆から可愛がられていた。小1と幼稚園児の2人の姪が、抱っこしたい、と言って並んで足を前に延べて座り、両手を膝の上に差し出し、こと子を受け取るのを待つ姿はたまらなく愛おしかった。まだ首が座らない幼児の抱っこが注意を要することだけは知っているらしかった。

私はその最初の滞在時にこと子を抱っこして、散歩に行ってくると言って、何となく家の周囲の、川沿いの小道やらを検討なしに歩き出した。こと子はそのうちに眠ってしまい、少し重くなったような気がしたが、こと子と今私は2人きりになったのだ、という感覚が私の身体を駆け巡り抱いたことのない心のゾワゾワを感じた。この子を守ってやらなきゃならない、という大いなる使命が漲るような感じであった。

私はこのままこと子を持って帰りたい、このまま歩き回っていようか、などと非現実的なことを考えながらも、心配されてもつまらぬので、特に心の高揚を悟られないように何食わぬ顔で戻った。

それから1ヶ月ほど過ぎてピーとこと子の帰京時期を云々する感じになったが、ピーの実家はお盆に親族が集まるので、お披露目の意味も込めて、それまでは居残る方がいいだろう、となった。私はそれは仕方がない、と思っていたが、早くピーとこと子と3人の暮らしを味わいたかった。

そしてお盆明けの何日に戻ってくるか決める段になると、今度は8月いっぱいはこっちに居ればいいじゃない、と義母が言い出したという。私の休みのスケジュールと義父母の休みのスケジュールが合わせづらかったこともあるが、孫のこと子がすっかり可愛くなってしまっていたのかもしれない。

私はもう待ちきれない、という気持ちだったので、泣き落としじゃないけれど、「玄ちゃん(私のことだが)が可哀想だから」とピーから義母に再交渉してもらうよう懇願した。情に訴えれば何とかなるのではないかと思っていたし、ピー本人も東京の友人に早く会いたいとかいうことで早めに帰りたい気持ちは募っていたのだ。

義母への交渉は、とはいえ難なく成立し、結局8/16に私と父が車で川西までピーとこと子を迎えに行き、翌8/17に帰京という段取りになった。しかし、日程が決まった後で、そういえば8/17は平日だから義父母も仕事が始まっているはず、義父母不在のところから、今まで散々世話になった妻と娘を連れて帰るのはあまりにも心象が悪いだろう、と心配になってきた。かといって8月中に休みを振り返られそうな余裕もないし、と頭を悩ませてそのことをピーに打ち明けたら、なんのことはない、義母はわざわざ仕事を休みにしてくれたようだった。

先にサラッと書いたがピーが長期にわたり里帰りしたのには私と父の喧嘩が起因していたので、こと子を引き取りに行く際の父はかなり畏まった雰囲気だった。そして私がネットで調べた限りでは、里帰りでお世話になった妻の実家には金銭的な謝礼を包むのが習わし、とのことだったので、私が5万、そして父が、ワタシも出す、と強く申し出たので父から5万、それを重ねて包んで義母に受け取ってもらった。

チャイルドシートは義妹ファミリーから譲ってもらい、我々は高速を飛ばして帰京した。田無に戻ってくる頃には夕飯時を逸していたので、外食しよう、赤ちゃんいるからファミレスがいいかもね、とすき焼きのどん亭に入った。私もピーも疲れていたが、ファミレスとはいえ普段気軽に手を出せないすき焼きということでテンションが高まった。しかし食べ始めて間もなくこと子が泣き出し、ピーも私も抱いてあやしたが泣き止まない。そのうち激しく泣き出したので私とピーで代わる代わる外に連れ出し、食べかけのすき焼きを大雑把に胃に詰め込んで、半ばは食べ残してどん亭を後にした。

父は見慣れない孫のむずかりにやや困惑し、ピーは、コッピも疲れてたんだよね、それなのに賑やかなとこ来てごめんねぇ、と言って一緒に泣いている。生まれてから今日まで、こんなに激しく泣いたことはなかったらしかった。私も泣き止ますことができるわけでもなく、子守りの洗礼を一気に浴びるような思いだった。

翌朝眼が覚めると、和室に敷かれた私とピーの布団の間で人形が眠っていた。もちろん人形ではなくまぎれもない私の娘なのだが、人間未満というか、非常に可愛いのだが、まだ不慣れな私には何か不思議な生物が横たわっている、というような感覚で、しかしこれからの長い道のりを想像してワクワクせずにはいられなかった。
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