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コトコト1週間 2016年12月

12/18

休日。先日ジモティーで交渉成立したベビーサークルを3000円で譲り受けるべく朝一で実家の車を借りて中野の出品者宅へ。こと子がずり這いを始めてがむしゃらにうごめく様になったので、ピーにベビーサークルの必要性を訴えられていた。手造りしても高くつくし時間もないし、かといって新品買うのはそれはそれで高いし、と思案していた折にジモティーで頃合いのものを見つけられた。

ベビーサークルを車載して家に戻りピーとこと子を乗せて国分寺のカフェへ。何でもナチュラル系カリスマ衣服デザイナーの展示会。オレも好きだと思う、とピーに言われていたけどなかなかのお値段なので私はサラッとやり過ごした。隣の雑貨屋さんで月桃茶を買った。ピーの貧血対策である。

帰宅して車を実家に戻し今度は幡ヶ谷にオープンした友人のお店で忘年会。ワールドミュージック好きが高じて誘われるままにDJなんかをやりだした頃からの夜遊び仲間達の集まりで、子育て期に入った4.5組の親子を含む20人くらいが集合し、時間も15時からとファミリー向け。

ちょっと前までだったら子育てなんてまさかね、という感じだった酒飲み達が子供をあやしてる。母乳を終わらせたママたちは酒も飲んでいる。ピーは山形人で酒も強いがまだまだ母乳なのでジンジャエールを飲んでいる。私はビール2杯でヘロヘロになり、料理が美味いのでみんなと話すのもそこそこに食い意地を張る。酔いが回って子供達がウロチョロして大人もみんなニコニコ談笑してて楽しい。こと子も人がワイワイやってるところでは、そういう平和な空気に飲み込まれるのか割合機嫌を崩さない。

18時頃から三三五五に皆解散していく。私は新宿からの西武新宿線で爆睡してしまいピーに起こされて下車。帰宅後に炭水化物を食べたい、とまだ食い意地が張って味噌もちを食べようとしてたら、あ、コロッケ食べるの忘れてた、と2日か3日前にピーが買って食べ忘れていたコロッケのことを思い出して彼女が言った。流石にヤバいよね、捨てよう、とピーが続けたが、酔っ払いの私は、もったいない、と言って食べた。その後味噌もちも焼いて食べた。

12/19

朝起きると体調の異変を察知した。何だか気分が悪い。便意を感じトイレに行くとシャーっと水便が出た。ヤバい、と思いながら3、4回トイレに行き、遅刻してはマズい、と自分を奮い立たせて家を出た。

いつも通りの電車に乗ったものの、上石神井を過ぎたあたりで今度は吐き気がしてきた。次の鷺ノ宮に近付くまでにこれは吐く、ヤバい、と確信。せめて電車を降りて…、と何とか鷺ノ宮まで我慢し、ドアが開いた瞬間にホームの縁に駆けつけて嘔吐。幸い液体ばかりの嘔吐で臭いも酷くなかったが、通勤時間で、ホームに溜まってる通勤者からの視線が痛い。吐いてムカツキはひと段落し、次の電車に乗り込む。後始末の駅員に申し訳ない。

出社してからも下痢を繰り返し、外回りの仕事である私は辛い1日を過ごさねばならなかった。昼休憩は1時間、何も食べずに全力で眠った。退勤間際に上司に必ず病院に行くように重々言われ、面倒臭いな、と思ったが我が家には6ヶ月弱のこと子がいるし、同僚にもし万が一、と感染の可能性が心配になり、結局地元の大きな病院の時間外診療に行った。

熱を測ると38度あり、医師は、恐らくウィルス性胃腸炎で嘔吐物、排泄物に直接触れない限り感染しない、と言ってくれた。お約束の整腸剤、胃薬、下痢止め、嘔吐止めなどの薬をもらい帰宅。ピーが作ってくれた梅粥を食し、薬を飲んだ。ピーはあの昨晩のコロッケが原因じゃないか、といい、私も確かに食あたりならコロッケ説が濃厚かもしれないと思った。念のためこと子の風呂はピーにお願いして私は風呂に入らず寝た。

12/20

薬が効いたのか吐き気もなく下痢も止まった。天に感謝しパンを少量食べて出勤。

門前仲町で退室作業をこなし、別部屋の残務を済ませ午後1時過ぎ。休憩は銀座で取ることに決めていたので銀座に行きグループ会社の蕎麦屋で蕎麦を食べてアップルストアへ。

銀座に行きたかったのはアップルストアでSIMフリーのアイフォンを買うためで、私は悲願の脱ソフトバンクに邁進していた。初めて入ったアップルストアは、どこでアイフォンを売ってるのか、どこがレジなのか、赤いTシャツを着た店員は沢山いるのに、お会計はこちら、などの分かりやすい表示が皆無なので要領を得ない。ニコニコとした笑顔が不自然な店員たちの1人を捕まえて聞くと、あそこに並んでください、と言われ、言われたままに並んでいると10分くらいで用事が済んだ。アイフォンは買えたがアップルストアはもう来たくないな、と思った。

今日は会社の忘年会で、昨日の胃腸炎で出られるか不安だったものの蕎麦も美味しく食べられたし私の愛すべきメンテ部の飲み会なので出ることにし、午後の仕事を済ませ帰社して職場近くの居酒屋へ。少し遅れて到着した私は成り行きまかせに着席し、あんまり話したことないタイ人のアンシャリさんの横になったのでひたすらアンシャリさんと話した。後半は目の前に座っていた、普段はあんまり話さない韓国人のジャン君と話した。家は賃貸ではなくマイホーム購入に限るという話しを傾聴。

一次会が終わり、飲兵衛チームは二次会へと移ったが私はこと子の風呂業があるので帰った。病み上がりで酒を飲んだせいか就寝前に喉の異変を感じたので足湯をして寝る。

12/21

休日。足湯のおかげで喉の痛みが軽減されたがあまり食欲がない。今朝はこと子の初離乳食、ということでピーが張り切って重湯を作っている。風邪気味の私にも都合がいい。3人でお粥を囲んで朝食。初めは小さじ一杯で良いのだそうだが、意外にもこと子は積極的で小さじ2杯半くらいペロリとすんなり食べて、我々は笑った。こりゃ食いしん坊になるかもしれない。

食後すぐに実家に車を借りに行き立川へこと子のパスポートを取りに、また立川へ行ったついでにIKEAにピーが切望していたスパイスボックスを買いに行った。IKEAはあまり好きでないので最低限の買い物で、と念を押したが子供グッズには私も制限できなかった。結局細々としたものがカートに積まれてゆき、我々にしてはそれなりの買い物になった。食欲は引き続き湧かず昼はパンをひとかけら食べた。

田無に戻って車を返し自宅に戻り、程なくして整体のハーさんがやってきた。私は健康診断で軽度の左室肥大を指摘されていたので、心臓に重点を置いた施術をしてもらったら激痛の連続で何度も身悶えた。

ピーが施術を受けてる間は私がこと子を約1時間あやさねばならず、案の定すぐにぐずり出し、とにかく抱っこしながら部屋をウロついたり、揺らしたり、この間先輩ママに教えてもらった抱き方を試したりしてたら程なくして静かになり、遂に私の腕の中で眠ってしまった。至福の時間。しかし、重い、鉛のように重い…。

ハーさんは帰っていったが不思議なことにダルかった身体がどうやら整体後に引き締まり、俄然食欲が復活してきた。うどんがどうしても食べたくなった私が夕飯を作ることになった。食後はピーとやや揉めながらも台湾旅行の計画を練り、風呂に入って就寝。

12/22

曇り。昨晩のうどんのつゆの残りで雑煮を作って朝飯とする。食欲が戻り、美味しく食事が摂れる幸せを改めて実感。出勤。

南砂のニトリ、門仲のコーナンでリフォーム部屋に入れる備品の買い物。組み立て家具やら電化製品など大きいカートに満載してハイエースで運搬。何だか寒くなく、むしろ暖かい。昼はオヤジが仕込んで日が経ってしまったシメサバを焼いた焼きシメサバ弁当。

午後はグループ会社のホテルで行われるクリスマスパーティ用料理をハイエースで運搬する、というイレギュラー業務。暖かい、と思ってたら風が強くなり雨もぱらつく。今日はやたら運転している。ピーからこと子を児童館に連れて行って遊ばせてる画像が届く。最近気分転換に近所の児童館を利用してるらしく私も嬉しい。

帰宅すると豚汁と豚じゃがが迎えてくれ、食べ終わってからこと子をおんぶして皿洗い。初めておんぶ紐を使ってみたが、初めぐずついたもののそのうち寝てしまった。かわいい。

風呂を焚いてこと子を洗い、ピーの風呂の間またこと子を抱っこしてあやす。ずーっとびゃあびゃあ泣いていたが、ピーが上がる頃、昨日に引き続き私の腕の中で寝た。なんて可愛いんだろう。一仕事やり終えて一服し、お楽しみの南アハウス鑑賞に耽ってから就寝。

12/23

遅番なので子守りをして離乳食をこと子にあげて出勤。ランドリー清掃と退室立会いなど。二段ベッドの運び出しをしていると身体の異変に感づく。何だか風邪がぶり返してきてようなダルさである。

昼休憩を済ませ、家具の組み立て、皿の運搬、寝具交換などをこなしながらも熱が上がってきてる実感がある。何とか仕事を終わらせ、薬局でマスク、手袋、除菌スプレーなど感染防止アイテムを買って帰る。

熱を測ると39.2度。こと子が朝食べた離乳食の残りを私が食べ、解熱剤を飲んで手袋をはめてこと子を抱っこ。ピーが風呂に入る間ずっとギャン泣きされ、私はこと子をあやす体力もなく、ただただ泣く子を無感動に抱いているだけである。

風呂後にこと子が寝た後、調子悪い時に行うくるぶしまでの足湯をし、ホッカイロを腰と首に当ててさっさと寝る。何回か起きては着替え、トイレに行き、水分補給をして寝て…。

12/24

クリスマスイブ。解熱剤がかなり効いたのだろう37度代まで下がった。こと子にお粥をあげながら私もお粥を召し上がる。病人に離乳食は丁度良い。

熱は落ち着いたが解熱剤による強引な治癒でもあるし、先だっての緊急診療は簡易的な胃腸炎対応でしかなかったので、改めて信頼してる地元の内科に行く。家に赤ちゃんがいなかったらこんなに慎重にならぬであろう…。

内科ではインフルの検査もしてもらったが引っかからず、余計な薬も出されなかった。下痢が止まっているなら、咳による菌の飛散を防止するマスクさえしてれば感染も心配ないとのことなので安心して帰宅。ピーとこと子を連れ出してひばりヶ丘のそば屋に行き、美味しい蕎麦を食べる。

帰りにチキンを買って帰宅。ピーが晩の仕込みをする間、こと子をあやす。普段は洗わない手をよく洗って遊ぶ。しかしマスクは圧倒的にウケが悪い。私が笑いかけてもしかめ面をしている。パパの顔がマスクとメガネで覆われているから怖いだろう。ピーの仕込みが終わり1時間眠らせてもらう。

夕飯は我が家なりのクリスマス仕様でチキン、温野菜サラダ、スープ、パン。体調は悪化せず食欲もあり美味しく頂く。食後には手作りのフルーツパイが出てきて感動。こと子のお風呂は今日もピーにお願いして就寝。

12/25

37度代だった熱がついに平熱に下がった。感激。今日はもともと仕事が忙しい予定で、体調不良で休むのは避けたかったので助かった。

グループ会社のそば屋の蕎麦を運んだ後、新規リフォーム部屋への家具やら備品を運搬。熱が引いたので平常通り動ける快活さよ。

昼前からバイトのアキヨシ君にサポートに入ってもらいながらペンキ塗装と家具組立て設置など。すぐに日が暮れて寒くなってくる。病み上がりなので腰にカイロを貼ってきてよかった。気がつくと19時で急いで帰り支度。新宿の事務所にゴミを運んで帰宅すると21時半。

少しして近所の鍋会からピーとこと子が帰宅。素手でこと子を抱き上げ、マスクをとって、私も元気になったので全力であやすと最高の笑顔が返ってくる。溜めておいた風呂に入りこと子を沐浴してやる。

風呂後におっぱいでこと子が寝た。私は皿洗い。ピーが風呂から上がってくる頃、寝てたはずのこと子がむずかり出した。元気な私は飛んで行って抱き上げた。最近こと子がスムーズに入眠してくれる例の抱え方で揺らしてやると上手い具合にすっと寝てくれた。よしよし、慎重に慎重に、と体を傾けてこと子を布団に延ばすと、やんぬるかなウギャアと喚いて起きてしまった。
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バンドマンに憧れて 第15話 キャンパスライフと私の居場所

根がクソ真面目な私は将来の夢がロックンローラーであったのにも関わらず、学力を判定する毎度のテストでも変に力んで一生懸命になってしまう傾向があり、その為高校の担当教師から、君は今の成績なら法学部も希望できると言われていた。中大の法科というのはかなり有名な学部らしいことを私はその時知ったのだが、まさか法律の勉強なんて微塵も興味が湧かなかった。そもそも先にも触れた通り中途半端な反抗心で大学行きたくない、と親を泣かせた経緯もあり、私は何学部を志望するのが妥当なのか全く分からなかった。

結局、私が選んだのは文学部の英米文学科だった。どちらかといえば国文学が好きで英米文学には何の興味もなかったのだが、とりあえず英語を勉強しておけば将来何かの役に立つかもしれない、とどこかで海の向こう側への興味がくすぶってたのだろうか。

中大の文学部は八王子の山の中にあり、通学はなかなか大変で、しかし長閑な、自然を抱く丘の中腹にあり、のんびりするには悪くない場所であり、東京を距離を置いて眺めるのにも最適な場所でもあった。

大学に入るといろんな地方から上京してきた面白い輩と沢山知り合える、と少しく期待していたが、入学して私が入ったクラスにいた連中は何ともつまらない人間の集まりにしか見えなかった。地方から来た学生は服装もダサいし、みんな周りの人間といかに仲良くなるかで必死になっているようにしか見えず、エスカレーターで上がった呑気な附属校生である私はそんな周囲をバカにして見ていた。高校でパンクやインディーズ、アングラといった価値観の洗礼を受けた私は相当に捻くれ、簡単に、また軽率に他人を蔑むような癖がついてしまっていたのだ。

生意気ざかりの私はガリ勉高校に入った時と同様か、それ以上の失望感を大学でも味わったが、せめて面白いサークルでも見つければ面白い人達がいるに違いない、と片端からリサーチしてみた。テニスサークルなど、集団合コンしたいだけだろ、みたいなチャラチャラした不愉快なサークルばかりが目について、結局、私を興奮させるようなサークルは見当たらなかったが、唯一美術研究会というサークルは異様なオーラを放っているように見えた。サークル勧誘の担当であるらしい方の風貌が明らかに異彩を放っていて、まるで世捨て人の気配すら感じさせ、熱心に勧誘してこない感じも私の注意を引いた。もちろん美術に興味はあるが自分のやりたいのはバンドだし、とも思ったが面白い人を探すのはここがいいかもしれない、と思い飛び込んでみた。

美術研究会、通称美研は、中大でも一応の歴史があるのだろう、キャンパスの端っこにあったサークル棟にサークル室を持っていた。そのサークル棟自体がいかにも学生闘争を想起させるような雰囲気を醸し出していたのだが、その中でも特に怪しいオーラが美研のサークル室には漂っている気がした。そこに出入りしてる人は実際怪しい人が多くて私は少し嬉しくなった。そして、怪しい人が多いのは美研だけでなく、隣の部屋にサークル室を構えていたフリーバードという全学連系のサークルも同様に怪しく、美研とフリーバードは所属メンバーがごっちゃになっていることが段々分かった。

そこで出会う人は明らかにアウトローな雰囲気をみんな持っていて、現役大学生ではないだろう老けた人もいれば明治の文豪のような風貌の人もいたし、ベルサイユの薔薇に出て来そうな中性的でガタイのいい人がめちゃくちゃ小さいランドセルをしょっていたり、とにかく理解不能な人達がいっぱいいて面白かった。

そのサークル棟で明らかに寝泊まりしてるらしい人もいて、私はここでボヘミアンとか、ヒッピーとか、左翼とかマルクスとか、普通の教育ではあんまり積極的に教えてもらわないキーワードをいろいろ知ることができた。

彼らは決して人当たりが良いわけではなく、これでは新入生が居つく訳ないよね、というちょっとした排他性があったので美研に入り浸るのは私の他に数名いたかいなかったか。それでも私はその中にいればいろいろ面白いことが起こるのではないかと思いそれなりに居座ってみたりしていた。そして、美研の人がやっていた「おしばな」というバンドにベーシストとして加わったり、それなりの交流をしていたのだが、それでも私はどこかで疎外感に似た何か、どうしてもそこが自分の居場所ではないような気持ちをずっと引きずっていた。

そんな中、大学1年の終わり頃であったか、私が高校から続けていたハイパーニトロのベースを弾いていたナリ君が新しいサークルを作ろうよ、と私に仕向けてきた。その頃私は美研に出入りしながらもバンドメンバーを含む、附属校上がりでチャラチャラしたサークル活動に馴染めずにいた数人と、キャンパス内で緩やかなコミュニティを形成しつつあった。ナリ君はそのメンバーでサークルを作ろうと言い出したのだったが、自分が会長になるのは億劫でその役を私に押しつけてきたのだ。

押しつけてきた、と言っても、丁度私も自分の居場所を作りたいと思ってたところだったので、面白そうだ、やろうやろう、ということになって私が代表になった。そこに集まっていた連中の興味対象がアングラな音楽、映画、漫画などのサブカルチャー全般だったので、私は「インディーズ研究会」にしようと思いついた。先に触れた通り当時はまだ「インディーズ」というワードにヒップなニュアンスが漂っていたのだ。

そういう訳で「インディーズ研究会」なるサークルが発足し、翌大学2年時の新入生歓迎期間から早速我々はチラシを作って会員を増やすべく奮闘した。しかし内弁慶なメンバーばかりで年下の学生を引き抜くのは容易ではなく、また興味を示す若者も少なかった。しかし、それでも数名の後輩が何となくいつくようになり、気がつくと段々サークルらしい雰囲気になっていった。

美研のような老舗のサークルでもないので部室があるわけでもなく、我々はいつもキャンパスの中央ステージ(略して中ステ)の一角を陣取り、つまらない授業の合間に、または授業を抜け出しては集まって屯し、ダベったりボール遊びしたりするような無邪気な活動が続いた。

メンバーも元附属校上がりの連中だけではなくなって、地方からやってきた輩や少ない人数ではあったものの女子も加わり、私はつまらない同級生、つまらない授業、つまらない学歴社会を回避するようなつもりでただただ集まっては時間を浪費するようになった。同時に何となくフィットしなかった美研には行かなくなってしまった。

イン研が私のバンド人生とどう関係があるのかと思うかもしれない。しかし私が後年始動させることになった赤い疑惑は、この「イン研」での無駄な戯れとそのメンバーの存在が初期の起動力の一部となっていたのは間違いないし、「あの時僕らは」という曲はズバリその頃のことを歌った曲である。私はまだまだ先の、大学卒業後の身の振り方を、いつも彼らと過ごしながら何となく妄想して過ごし、漠然とした不安を解消させるために彼らと無駄な時間を潰していたのではなかっただろうか。

つづく
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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