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アクセルの意気地記 第8話 おーいしょと歩く

かわいいかわいいと思っていても、赤ちゃんをあやすのはなかなか難しい。ピーがいる時にあやすのは気が楽だが、私が1人で面倒みないといけない状況では不安になるし、どうしても持て余してしまう。パパにはリーサルウェポンとしてのおっぱいがないのだから。

赤ちゃんに、赤ちゃんの視点になってバア、とか、赤ちゃん言葉で接触を図るのもそれなりに気概と気合が必要である。もう少し上手くやれないかな、と思うが、そう生易しいものではないし、持って生まれた才能というのもあるだろう。

これまでの子守で私が赤ちゃんとのタイマンを最も迫られたのは、ピーが風呂に入ってる間のつなぎの時間である。ものの15分くらいでも初めはなかなか大変だった。こと子の好きなおもちゃとか、ぬいぐるみとか、お腹に乗せたりだとか、抱っこしたりだとか、いろいろやってもどうかすると泣かれてしまう。ハイハイができるようになる頃からは無闇矢鱈と泣き喚くことも多少減り、大分事情が変わってきて、ピーの風呂の間泣かせないで一緒に遊ぶことができるようになってきたが、一通りのこと子マニュアルを私がやった後にさあ次は何してアソボウカ?と沈黙してしまうと、急にソッポを向いて、「マンマ」とか言いながら風呂に向かってハイハイで消えて行くこと子の後ろ姿を見送る時の私の切なさよ。

そのままほっておけば、風呂のドアの前に座り、今度はバンバンとドアを叩き出す。そうなったら私はピーに、役立たずの旦那として舐められてしまうので、そうなる前に連れ戻す。もう一度やり直させてください。さながら失恋した青年よろしく。

そうこうしてる内にもこと子はつかまり立ちを覚え、遂にはつかまらない立ちを覚えた。初めはフラフラしていたけど、次第に背筋を伸ばして立てるようになった。こちらが、おおっ、と驚いてみせると、こと子はどうだ、と言わんばかりの得意顔である。

つかまり立ちから歩き出すまではあっという間だよ、と先輩諸氏から言われて、そんなものなのか、と私は思いこませれて、いつ歩くかいつ歩くかと胸を焦がせて日々過ごしていたのだが、一向に歩き出す気配がない。実はこの拙文を認めた数日前に、遂にこと子がよちよちと歩き出すようになったのだが、「つかまり立ちから歩き出すまではすぐだよ」という実感は全然なくて、実際かれこれ2.3ヶ月くらいかかったんじゃないかな。どうでもいいか。

話が前後するし脱線するが、数カ月前からこと子が、目が合った私やピーやその他の大人に向かって両手を斜め前方に突き上げるポーズを覚えた。赤ちゃんなら誰でもやるだろう、この抱っこしてポーズだが、両手を広げてグイと突き上げてくる時、こと子の口は必ずトンガらせてタコみたいになっている。内に秘めたる不満の大きさが伝わってきて憎めないし可愛いし。こんなことをされて抱き上げない訳にはいかないではないか。

このやろう、かわいいな、と思ってしゃがんで脚にチカラを入れ、よし、と立ち上がる。私は過去にヘルニアを経験しているのでこのように膝から立ち上がらないと腰痛の再発に発展しかねないのだ。

ある日、私がいつも通りこと子を抱え上げようと脚に力を入れて踏ん張って立ち上がると、腕の中にいること子が「おーいしょ!」というのでビックリした。何を急に、よいしょと言う役目はこっちなんだが、と思ったが、それから何度もこと子を抱え上げる度にこの「おーいしょ!」が飛び出した。その度にピーと可笑しくて笑っていたのだが、どうしてこうなったのかが段々と推測できた。

こと子が持ち上げられる時に掛け声をかけるようになったのは、きっと保育室で、恐らく年輩の保母さん達が子どもを抱える時には決まってよいしょ、と言っているからだろう。で、抱えられること子が同情してなのか一緒においしょ、と言うことになったのだろう。想像するとありありとその情景が浮かんでくる。

その後こと子は何か不満になると私やピーに向かって両手を伸ばすケースが増えた。こうすれば抱っこしてもらえると学習したのだろう。そうなると、余程のことがない限り我々はこと子を抱き上げなくてはならないが、その重労働の始めに腕の中のこと子に「おーいしょ!」と応援されると何だか脱力しつつ愉快になってしまうのだ。

この「おーいしょ」はそんな風に抱き上げられるための掛け声で使われていたが、後日こと子の主体性をもって使われるようになった。ウチの近所に少し変わった公園がある。幼児がいつでも気軽に遊べるようにオモチャのトラックやら乗り物が放置されているのだ。それら遊具のほとんどは風雨に晒されるため、変色してボロボロになっており、夜などにその公園を見ると遊具の墓場みたいでそれはそれで奇妙なのだが、近隣の子育てママ達はそんなことは気にせずに、すっかりその遊具で子ども達を日中遊ばせている。

その公園はホントにウチから目と鼻の先にあるので、私も何度もこと子を連れて行き遊ばせているのだが、つかまり立ちができるようになってからは、それらの遊具にこと子が俄然興味を示すようになったので遊ばせてみると、オモチャのトラックを押して1人で歩き出したではないか。よちよちと一歩ずつ前進すること子の口からは例の「おーいしょ!」が飛び出したのだ。足を一歩前に出す度におーいしょ、と言っている。一歩ずつその掛け声をかけるのは彼女にとっての一歩が大変難しい動きだからであろう。

よいしょ、とか、よっこいしょ、とかその手の掛け声は、ともするとジジくさい、ババくさい、と言われ、確かにそんな印象もあり、そう思われたくないからなるべくよいしょ、と言わないように我慢してる人すらいるかもしれない。ところが、保育室のおばちゃんに影響を受けた我が娘はその掛け声を覚え、抱き上げられる時以外でも歩く時に自然とその掛け声が飛び出すようになったのである。それからしばらくの間、おーいしょ、おーいしょ、と言いながらつかまり歩きしたり、我々が手を引いてあんよの練習する時もおーいしょ、おーいしょ、と言うので可笑しかった。

このこと子のおーいしょ話を職場の後輩で、何かというと、よいしょ、とか、よっこらしょと口にする若者に話したら、自分、ついつい使っちゃうんですよねえ、と恥ずかしそうにしていたが、彼は彼なりに、そうやって掛け声を発した方が力が出やすいということを知っているようだった。私も実際よいしょの掛け声にそういう効用があるのかも分からない、と信じ始めているのだが、その職場のよいしょ君は、それを裏付けるように、力を入れる時に声を出した方が力が出やすい、という学者か何かの研究の成果が存在してるのです、というようなことを言っていた。別に学者が言い出さなくても、掛け声で力が出やすくなる、なんていうことは驚くに足るようなことではない気もするが、私はなるほど、と思った。

ということは、よいしょとかよっこらしょというのを口にしちゃう若者がバカにされるのは異常事態なんじゃないか、とまで私は思い始めた。私はそもそも、よいしょ否定派ではなく時々つい口から漏れてしまうことがあるのを昔から自覚していたが、これからは遠慮なくよいしょ、よいしょとやっていこうと思った。育児とは関係ない話になってきたようだけど、私はこと子のおかげでそんなことに気づいたり影響を受けたりし始めているこの頃なのである。
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バンドマンに憧れて 第20話 アジア貧乏旅行と新バンド結成

大学を卒業した2000年の4月に私は2ヶ月間のアジア貧乏旅行に出た。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を陸路で回った。この旅には裏テーマがあり、それはベトナムのサンドイッチとして有名なバインミーの研究をするというものだった。

というのも前回ベトナムを訪れた時にそのバインミーの美味しさに感動し、屋台でやっているバインミー屋さんの姿を見て、コレだ、これを日本でやったらウケるに違いない、と思い込み、将来の生業にできれば、と軽く考えていたからなのだ。そうなのだが、そういうテーマを決めておけば旅に出る説得力が演出されるんじゃないか、と思っていたのも事実で、私はその旅でバインミー屋台の実態を調査したのだが、その後実際に日本でバインミー屋台をやることはなかった。結局そこまでの情熱を注げなかったのだ。

しかし、2ヶ月間のアジア放浪は本当に楽しいものだった。自由な長期旅行に出ている間の、あのハイな気分というものは物凄い。あんなに刺激的な2ヶ月を私はそれ以降持っただろうか。一泊数百円の安宿を転々とし、長距離バスで国境を越える。いろんな国のバックパッカー達と触れ合い、地元の人たちとも密に触れ合ったりすることもできた。騙されたり、スリにあったり、お腹を壊し続けたり。またウィードカルチャーを知ったのもこの時で、私はこのカルチャーにも大きな影響を受けてしまった。

旅の間、当時ハマっていたウェディング・プレゼントというイギリスのバンドの疾走感溢れるナンバーを旅のBGMにして、これからやってくる私の第2の人生のことをワクワク想像しながらいろんなことを考えていた。世界はとてつもなく広くて、自分の存在は何てちっぽけなんだろう、と陳腐な感慨に満たされながらも、前向きに生きてけば必ず明るい未来が待っている、という妙な全能感にも襲われたりしていた。お前はそのままでいいんだよ、というスタンスをウィードに教わったのも私の心を癒してくれた。そして存分に旅を楽しみながらも、早く日本に帰って本気のバンドを始めてやるんだ、というある種の焦燥感にも駆られていたのだ。

さて、2ヶ月のアジア放浪旅行から戻ると、私は早速実家を出る手筈を整えた。実は大学在学中、相棒の松ちゃんより密に親睦を深めていたシマケンという同級生がいて、私は彼と一緒に共同生活をすることにしたのだ。私とシマケンは、ハードコアパンクスの先輩がたむろし、私が最もお世話になっていた街、西荻窪に2間のアパートを借りることになった。

私はベトナムサンドイッチ屋さんのことは金ができた未来にお預けとし、とりあえずはアルバイト生活に突入。学生時代からバイト経験のあった飲食業界で仕事を探した。飲食業界に的を絞っていたのは料理が好きだったから、という理由の他に、美味いモノを作って目の前のお客さんに食べてもらってお金をもらう、というシンプル極まりない商売の仕組みに正義を見出していたからである。

バンドマンがバイトを探すにあたり重要なのは、スタジオに入る時間とライブに出演するための時間の確保ができるかどうかである。つまるところ平日の夜と土日が休みであることが理想で、そうなってくると一般的なサラリーマンの労働形態とさして変わらない。ここで問題なのが、飲食業界では夜と土日が掻き入れ時であるということだ。

私はフロムAやら求人誌とにらめっこをしながら、平日夜と土日が休みの特殊な労働形態の飲食バイトがないか探した。すると、この条件に敵うものが一応あるのである。会社や工場の社食や、土日休みのオフィス街にある飲食店のランチバイトなどだ。私は洒落た料理を覚えたかったこともありオフィス街の料理屋に的を絞った。すぐに青山二丁目にある創作料理屋のランチバイトが決まった。

この洒落た飲食店で私の後から鳴り物入りで料理長として入ってきたYくん、という人物が凄かった。彼はいわゆる横浜のお洒落な不良だった。ヤンキーというよりはギャングスタという感じで、クラブ遊びに喧嘩に女。サッカーが大好きらしく胸にプーマと5枚葉の墨が入っていた。私がそれまで付き合ったり仲良くしてきた文化系の連中とは全く違う世界の住人、という感じだったので初めは戸惑ったが、Y君も私のキャラを面白がってくれて、すぐに仲良くなってしまった。

私は彼に連れられて慣れない合コンや、所謂ナンパクラブである桜木町のガスパニックなんかにも行った。Y君やその仲間たちのクラブでの立ち居振る舞い、そしてナンパの仕方は見事だった。クラブ内、通りすがりのねえちゃんのオッパイやお尻を触りながら冗談を言って歩く。私はアウトサイダーに憧れていた時期だったので自分もナンパの1つくらい、と思っていたのだが、彼らのフランク極まりないやり方に衝撃を受け尻込みしてしまい、ほぼ誰にも声をかけられないまま時間を持て余すしかなかった。ガスパニックに集うセクシーなチャンネエ達の本命は米軍のプレイボーイで、そこに地元の日本人の不良どもが紛れ込んでアメ公に負けじとナンパを仕掛けてるように見えた。だから私のような文化系もやしっ子が勇気を出して声かけてみても一瞥もされなかった。私はすっかり消沈してしまった。

結局Y君のクラブ遊びについていったのは2回ほどで身の程を知って、それからはたまにオフの時に遊んだ程度なのだが、彼はギャングスタだったからウィードが好きで、それで私は日本にもウィードカルチャーが歴然と存在してることを知ってどっぷり浸かるようになってしまった。

西荻の共同生活は楽しく、極めて楽観的なバイブスの持ち主だったシマケンと楽しく暮らしていた。gutsposeを解散させた私は松ちゃんと始めるバンドのドラムに、この楽器素人のシマケンを抜擢することにした。なにしろ私の好きで聞いてる音楽をそっくり真似して聞いていたし、何しろ仲がよかったのだから自然の成り行きである。初心者でなんぼ、音痴でなんぼのパンク精神を共に肯定していた松ちゃんも異論は挟まなかった。

しかし問題は松ちゃんがもうボーカルは懲りた、と言い出し、オレはベースやりたい、とダダを捏ね始めたことだ。松ちゃんは声がいいのでボーカル向きだと思っていたが、個人の意志を尊重してベースを握ってもらい、私はギターを。すると当然ボーカルは誰がやる?ということになり、仕方なく私がやることにした。いや、正直に言えば私はボーカルをやりたかったのかもしれないが、自分は音痴だし声もシケてるし、という劣等感が私の中で大きかったのだ。そんな風に思っていたのだが、心の奥底の欲求が、この状況を理由にボーカルにトライするのを後押ししたのかもしれない。

どうせ自分が歌うなら日本語で誰も歌わないような歌を歌おう、と思った。当時のインディーパンクシーンでスタンダードになっていた英詞ブームに対する反発もあって日本語で勝負すべき、と強く思っていた。そしてみんながビックリするような、そんな歌を作ろう。

私のそうした熱意とは裏腹に新たに結成したその3ピースバンドは、学生時代にある程度カタチを残したgutspose以上に無残な演奏だった。何しろ、松ちゃんは初めてベースを握り、シマケンは初めてスティックを握ったのだ。そしてその2人ともがリズム感を持っていなかったのだ。それでも私は自分が優れた演奏者でない事も自覚していたし、何より初心者が思いつきでバンドを始めちゃう、というパンクマインドをやはり重視したくて、また、演奏技術よりもフィーリングの合う仲間とバンドをやることが重要だと考えていたので、無茶苦茶な演奏のスタジオ練習をただただ積み重ね、繰り返していた。ベースのフレーズもドラムのフレーズも私が考えてそれをコピーしてもらった。あの時の我々にはまだそんなバカバカしいことに費やす時間が溢れていたのだ。

つづく
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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