バンドマンに憧れて 第22話 レゲエの誘惑と天狗のゆくえ
レゲエを初めて意識したのは高校生の時だ。当時テレビ神奈川で放映していたビルボードトップ40という音楽番組で聴いたのだ。この番組はアメリカのオリコンみたいなもんで、毎週だったかな、全米チャート40位以内にランクインした曲のMVをひたすら流していた。
私が高校生だから90年代の初めの頃だと思うが、全米チャートでUB40というバンドがエルビス・プレスリーのバラードをカバーして大ヒットをかましていた。珍しく母が、プレスリーの曲だからか反応して、いい曲ねと言っていたのを思い出す。私は単純にいい曲だとは思ったが、当時はオルタナティブロックやパンクロックにハマりかけていた時期なので、特に思い入れを持つことはなかった。
それに前後してビッグ・マウンテンやインナー・サークルなどのバンドもビルボードのチャートでヒットしていて、私はそれがレゲエという音楽であることを知ったのだが、当時ヒップホップに対して抱いたのと同様の違和感、というか自分が志すものとは違う、という強い印象があり、もちろんその頃はハーブもラスタファリズムもボブマーリーも知らないし、ロックやパンクの方が断然クールだと感じて特別な注意を向けなかったのだ。
それから大分後になって、大学の後半の頃、サークルのオタク仲間の間でレゲエが流行り始めた。パンクシーンの先輩バンドの中にはレゲエやダブを取り入れるバンドが現れ始め、そういうのに影響された部分もあったかもしれない。私もその頃にはレゲエはミーハーな音楽ではなく、どちらかというとクールな音楽なんだ、ということに徐々に気付き始めていた。
パンクやハードコアのタテの揺れ方からレゲエのもっさりとした横の揺れ方に気持ち良さやかっこよさを見出すようになった私と松ちゃん、同居人のシマケンやイン研の仲間たちは、しょっちゅう家に集まってフワっとしてレゲエを聞いたり、飽きもせず繰り返し何回も名作レゲエ映画「ロッカーズ」を観たりしてダラダラしていた。大学時代のサークルの溜まり場が我が家になったような感じだった。
またその頃0152と書いて「オイゴニ」と読ませるレーベルがルーツロックレゲエのコンピカセットをリリースして話題を集めていたが、我々もそれらのカセットを聞いて、何だか最先端のオシャレな音楽を聞いているような錯覚にとらわれていた。パンクとはベクトルが違えどレゲエも不良の音楽なのだ、ということも分かってきて我々は尚更好きになった。
また、レゲエに私が興味を持つ少し前の大学卒業後の東南アジア旅行中にレゲエへのガイダンスとなるような新しい音楽に出会ったことも印象深い。アンコールワットで有名なカンボジアのシュムリアップでのことだったと思う。湖畔のゲストハウスで、湖に突き出したムーディーなラウンジに居合わせたヒッピー風バックパッカーが何やら音楽を聴いていた。ポータブルの小さいスピーカーだったが、そこから流れてくる音楽に私はやたらと惹きつけられたのだった。
それはフォークのような、レゲエのような、それともローファイか宅録か?そのもっさりとしたスピード感とゲームの効果音のようなサンプリングが所々散りばめられた音楽に、独特の塩辛い声。まるで聴いたことのないテイストだけど、どこかにパンクの要素まで感じる…。私は堪らなくなって彼らにこの音楽は何なんだ?と片言の英語で迫ると、ああ、これかい、と気さくに答えてくれる。これはマヌ・チャオというアーティストのファーストアルバムさ、と答えるのである。
私はよく分からないのでアーティストのスペルを書いてもらった。更にこのCDがベトナムのCDR屋さんで売ってたことも教えてもらったのだ。丁度カンボジアからベトナムに陸路移動しようという旅程だったので私は興奮して、manu chaoというメモをしっかり握りしめた。
後日サイゴンの街角のCDR屋さんで私は目当てのマヌ・チャオのCDRを、バックパッカー向け定番、という感じで並べられていたボブ・マーリーの「レジェンド」と一緒に購入した。因みにCDR屋さんというのは、当時恐らく著作権管理の概念がまだ浸透してなかったであろう国において、海外のポップスのCDを、著作権を無視してCDRにコピーしまくって販売していたお店のことだ。ベトナム以外にも当然存在していただろうと想像するが、ベトナム滞在中に私は何度も遭遇した。私はどういう動機でかアフリカのギターの名手、アリ・ファルカ・トゥーレの作品などもその時買っていた。
マヌ・チャオがマノネグラという、日本でも人気があったフランスのミクスチャーバンドのメンバーだと知ったのは旅から帰ってしばらくしてからだった。何しろインターネットがまだ身近なものになるかならないかの時期だったからだ。後年ワールド・ミュージックにハマる頃にはマヌ・チャオの音楽が、パンクから始まってレゲエ、ヒップホップなどを吸収し、さらにはラテン・アメリカのフォルクローレなどにも影響を受けていたことを知り、出会った時期に受けた彼の音楽独特の不思議な無国籍感のルーツを知ったのだった。
さて一方、フリーターデビューと共に新たに始めたバンド活動の方はというと相変わらずショボい仕上がりでパッとしなかったが、バンド名の命名には力が入った。私はどうせならバンド名も日本語で勝負するのがいいのではないか、と思っていて、天狗舞という名前はどうか、ということになって松ちゃんもいいね、となった。シマケンは軽いヤツなので異議はない。もちろん日本酒の名前をそのままパクっただけである。
天狗舞というバンド名は、もっとシンプルな方がいい、ということですぐに天狗という名前に変更された。めちゃくちゃな演奏レベルのままライブも2度か3度やったはずだったが、何故かその頃、松ちゃんがやっぱりバンドを辞める、と唐突に言い出したのだ。いやいや、始まったばかりじゃんか、と私は狼狽した。
私がそれまでに最も感化されてきたパンクやハードコア、そしてレスザンTVなどへの思い入れはほぼ松ちゃんとのみ共有してきたもの、という自覚があったので困り果てた。私は何かを牽引する力が周りの人よりあるのだな、とサークルやらバンド活動やらフリーペーパー編集活動などから自己診断をしていたが、人を強引に動かしたり責めたりするようなことには向いておらず、松ちゃんを引き止めるのも無理矢理にはできなかった。
それでも松ちゃん以外の人間とバンドをやるなんてことはその時点では考えられなかったので、私は一策を講じた。確か、このライブを最後に辞める、と松ちゃんが決めていたライブで、私は白い安物のシャツの背中にデカデカと「お前なしでオレはハードコアパンクは続けられない」というようなニュアンスの英語のメッセージをマジックで殴り書きし、上にシャツを羽織った。ライブの途中でそのシャツを脱ぎ捨て、松ちゃんにその背中をわざと見せるようにライブを続けたのだ。
何というキザで野暮なことをやったんだろう、と思うが、何とこの一策で松ちゃんは安易にカムバックすることになったのである。後でこのことを本人に確かめてみたら、あの時バンド(天狗)を辞めようとしたのは、当時彼が掛け持ちしていた、幼馴染とやってるバンドの、その幼馴染のバンマスに、「タケシ(松ちゃんのこと)、お前は玄ちゃん(私のこと)から少し離れて自立した方がいい」とアドバイスされたのがきっかけだったそうだ。それくらいその頃の松ちゃんには迷いがあったのだ。夢見がちで自信過剰だった私が、バンドの道を共に進もうと誘ったばっかりに、色々悩んでいたに違いない。この頃松ちゃんは留年で大学にまだ籍を置いていた状況だったから尚更いろいろ考えていたかもしれない。そして翌年大学を卒業して松ちゃんもフリーターとなる。私達の、不器用で頼りなく、パッとしないバンドライフの幕開けであった。
私が高校生だから90年代の初めの頃だと思うが、全米チャートでUB40というバンドがエルビス・プレスリーのバラードをカバーして大ヒットをかましていた。珍しく母が、プレスリーの曲だからか反応して、いい曲ねと言っていたのを思い出す。私は単純にいい曲だとは思ったが、当時はオルタナティブロックやパンクロックにハマりかけていた時期なので、特に思い入れを持つことはなかった。
それに前後してビッグ・マウンテンやインナー・サークルなどのバンドもビルボードのチャートでヒットしていて、私はそれがレゲエという音楽であることを知ったのだが、当時ヒップホップに対して抱いたのと同様の違和感、というか自分が志すものとは違う、という強い印象があり、もちろんその頃はハーブもラスタファリズムもボブマーリーも知らないし、ロックやパンクの方が断然クールだと感じて特別な注意を向けなかったのだ。
それから大分後になって、大学の後半の頃、サークルのオタク仲間の間でレゲエが流行り始めた。パンクシーンの先輩バンドの中にはレゲエやダブを取り入れるバンドが現れ始め、そういうのに影響された部分もあったかもしれない。私もその頃にはレゲエはミーハーな音楽ではなく、どちらかというとクールな音楽なんだ、ということに徐々に気付き始めていた。
パンクやハードコアのタテの揺れ方からレゲエのもっさりとした横の揺れ方に気持ち良さやかっこよさを見出すようになった私と松ちゃん、同居人のシマケンやイン研の仲間たちは、しょっちゅう家に集まってフワっとしてレゲエを聞いたり、飽きもせず繰り返し何回も名作レゲエ映画「ロッカーズ」を観たりしてダラダラしていた。大学時代のサークルの溜まり場が我が家になったような感じだった。
またその頃0152と書いて「オイゴニ」と読ませるレーベルがルーツロックレゲエのコンピカセットをリリースして話題を集めていたが、我々もそれらのカセットを聞いて、何だか最先端のオシャレな音楽を聞いているような錯覚にとらわれていた。パンクとはベクトルが違えどレゲエも不良の音楽なのだ、ということも分かってきて我々は尚更好きになった。
また、レゲエに私が興味を持つ少し前の大学卒業後の東南アジア旅行中にレゲエへのガイダンスとなるような新しい音楽に出会ったことも印象深い。アンコールワットで有名なカンボジアのシュムリアップでのことだったと思う。湖畔のゲストハウスで、湖に突き出したムーディーなラウンジに居合わせたヒッピー風バックパッカーが何やら音楽を聴いていた。ポータブルの小さいスピーカーだったが、そこから流れてくる音楽に私はやたらと惹きつけられたのだった。
それはフォークのような、レゲエのような、それともローファイか宅録か?そのもっさりとしたスピード感とゲームの効果音のようなサンプリングが所々散りばめられた音楽に、独特の塩辛い声。まるで聴いたことのないテイストだけど、どこかにパンクの要素まで感じる…。私は堪らなくなって彼らにこの音楽は何なんだ?と片言の英語で迫ると、ああ、これかい、と気さくに答えてくれる。これはマヌ・チャオというアーティストのファーストアルバムさ、と答えるのである。
私はよく分からないのでアーティストのスペルを書いてもらった。更にこのCDがベトナムのCDR屋さんで売ってたことも教えてもらったのだ。丁度カンボジアからベトナムに陸路移動しようという旅程だったので私は興奮して、manu chaoというメモをしっかり握りしめた。
後日サイゴンの街角のCDR屋さんで私は目当てのマヌ・チャオのCDRを、バックパッカー向け定番、という感じで並べられていたボブ・マーリーの「レジェンド」と一緒に購入した。因みにCDR屋さんというのは、当時恐らく著作権管理の概念がまだ浸透してなかったであろう国において、海外のポップスのCDを、著作権を無視してCDRにコピーしまくって販売していたお店のことだ。ベトナム以外にも当然存在していただろうと想像するが、ベトナム滞在中に私は何度も遭遇した。私はどういう動機でかアフリカのギターの名手、アリ・ファルカ・トゥーレの作品などもその時買っていた。
マヌ・チャオがマノネグラという、日本でも人気があったフランスのミクスチャーバンドのメンバーだと知ったのは旅から帰ってしばらくしてからだった。何しろインターネットがまだ身近なものになるかならないかの時期だったからだ。後年ワールド・ミュージックにハマる頃にはマヌ・チャオの音楽が、パンクから始まってレゲエ、ヒップホップなどを吸収し、さらにはラテン・アメリカのフォルクローレなどにも影響を受けていたことを知り、出会った時期に受けた彼の音楽独特の不思議な無国籍感のルーツを知ったのだった。
さて一方、フリーターデビューと共に新たに始めたバンド活動の方はというと相変わらずショボい仕上がりでパッとしなかったが、バンド名の命名には力が入った。私はどうせならバンド名も日本語で勝負するのがいいのではないか、と思っていて、天狗舞という名前はどうか、ということになって松ちゃんもいいね、となった。シマケンは軽いヤツなので異議はない。もちろん日本酒の名前をそのままパクっただけである。
天狗舞というバンド名は、もっとシンプルな方がいい、ということですぐに天狗という名前に変更された。めちゃくちゃな演奏レベルのままライブも2度か3度やったはずだったが、何故かその頃、松ちゃんがやっぱりバンドを辞める、と唐突に言い出したのだ。いやいや、始まったばかりじゃんか、と私は狼狽した。
私がそれまでに最も感化されてきたパンクやハードコア、そしてレスザンTVなどへの思い入れはほぼ松ちゃんとのみ共有してきたもの、という自覚があったので困り果てた。私は何かを牽引する力が周りの人よりあるのだな、とサークルやらバンド活動やらフリーペーパー編集活動などから自己診断をしていたが、人を強引に動かしたり責めたりするようなことには向いておらず、松ちゃんを引き止めるのも無理矢理にはできなかった。
それでも松ちゃん以外の人間とバンドをやるなんてことはその時点では考えられなかったので、私は一策を講じた。確か、このライブを最後に辞める、と松ちゃんが決めていたライブで、私は白い安物のシャツの背中にデカデカと「お前なしでオレはハードコアパンクは続けられない」というようなニュアンスの英語のメッセージをマジックで殴り書きし、上にシャツを羽織った。ライブの途中でそのシャツを脱ぎ捨て、松ちゃんにその背中をわざと見せるようにライブを続けたのだ。
何というキザで野暮なことをやったんだろう、と思うが、何とこの一策で松ちゃんは安易にカムバックすることになったのである。後でこのことを本人に確かめてみたら、あの時バンド(天狗)を辞めようとしたのは、当時彼が掛け持ちしていた、幼馴染とやってるバンドの、その幼馴染のバンマスに、「タケシ(松ちゃんのこと)、お前は玄ちゃん(私のこと)から少し離れて自立した方がいい」とアドバイスされたのがきっかけだったそうだ。それくらいその頃の松ちゃんには迷いがあったのだ。夢見がちで自信過剰だった私が、バンドの道を共に進もうと誘ったばっかりに、色々悩んでいたに違いない。この頃松ちゃんは留年で大学にまだ籍を置いていた状況だったから尚更いろいろ考えていたかもしれない。そして翌年大学を卒業して松ちゃんもフリーターとなる。私達の、不器用で頼りなく、パッとしないバンドライフの幕開けであった。
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