風呂
風呂に入って怒るヤツはいないよな、とTさんが言った。確か温泉は最高だよな、とかそういう類の話をしていた時だ。特に目新しいことを言ってる訳ではないが、私はTさんの言い方も含めておかしくなって笑った。
どんなに悪いヤクザの親分だって、喧嘩上等の不良のにいちゃんだって風呂の湯に浸かってる間は、身体の凝り固まった細胞が弛緩して、脱力し、安らぎのひと時を過ごしているに違いない。少し熱いくらいのお湯に身体を鎮める時には、オォ、とかアァとか思わず恍惚の声が漏れるかもしれない。
で、当然ながら私も昔から風呂が嫌いだと思ったことは一度もなく、銭湯や温泉などでの入浴は、どんな時でも最高のレクリエーションだ。ところが私の人生でも風呂を軽視せざるを得ない期間があった。大学を卒業し、友人と同居生活を1年ほど続けた後に私が始めた6畳間風呂なしアパート時代のことだ。
風呂なしアパートに住むことにしたのは勿論家賃が安かったからだが、同時に露骨な貧乏生活を演出したかったからでもあった。私は当時、ミュージシャンとして成功を収める夢を持っていて、その成功ストーリーの序盤は「風呂なし貧乏生活時代」で飾られるのがいい、とバカなことを考えていた。そういう訳でそのアパートでの風呂なし生活が確か2年ほど続いたのだが、その間私は風呂に入らなかったのである。
今振り返るととんでもないことだが、風呂なしなら銭湯に行くのが当然なのに私はそれをしなかった。何故なら銭湯代が高いと感じていたから。ただそれだけである。ではその間どうしたのかと言うと頭をキッチンのシンクで洗い、身体はタオルで拭いていたのだ。いや、記憶の回路を頑張って辿ってみたが、身体をタオルで拭いていた記憶があんまりないのはどうしたことか。
まあそれは置いといて、しかし、とはいえ夏場には華麗なる裏技を考案して私は行水して身を清めていた。私が借りた西荻の風呂なしアパートは中央線の高架に平行に沿った建物で、アパートの細長い側面は線路に面していたのでそちらに隣人はおらず、また、線路と直角に交差する道路に面した側の反対、要するにアパートの裏側には猫の額ほどの小さな砂利のスペースがあった。そこは線路と反対側の隣の家からもうまく死角になっていたので、夏の晴れた日に私はバケツに水を入れてそこに運び、バシャーっとやっていたのである。鷹揚にシャンプーまでしていた。その裏技を隣に住んでた中国人のヨウさんが目ざとく見つけて、「ソレイイネ」と言ったと思うやもう次の日にはヨウさんも真似して屋外行水をやるようになってしまった。
大きく脇道に逸れてしまったが、そういう訳で私はその期間ほとんど湯船に浸からなかったのだ。たまーに実家に呼ばれて顔を出した時なんかに入らせてもらう風呂が唯一の入浴になっていた。
その後風呂なしアパートを卒業してからは私がミュージシャンとして成功するあらすじは夢物語としてフェイドアウトするのだが、とにかく以降は風呂に入っている。ただ実家にいる時からその傾向はあったが、冬など面倒くさくて一日置きに風呂に入るという行動パターンが出来てそれで不足は感じてなかった。
ところが、2年前にこと子が生まれ、それからというもの風呂はほぼ欠かさず毎日、ということになった。こと子を寝かせる一連のルーティーンの中に入浴が、優先すべき重要事項として君臨するようになったからだ。特に夏場など、代謝のいい幼児の新陳代謝は凄まじく、1日頭洗わないと、汗かいて乾いてを繰り返した頭が大変香ばしいことになってしまう。
そういう育児の都合で私は毎日風呂に入る習慣が身についてしまったので、風呂とは何ぞや、とまた頻繁に考えるようになってしまった。そして何と気持ちのいい習慣を日本人は発明したのだろう、と深い感動が温かい湯の中で生まれてくる。そんなところへ我が家は海外旅行を2度やって、台湾とベトナムに行ったのだが、困ったことにはそのどちらの旅先でも風呂などなかったのだ。
風呂がない。ないならないで仕方ない。幼児だからといって風呂に入れないと死んでしまうわけではない。その間こと子はずっと湯船に浸かれず、シャワーだけで過ごしたのだが、旅が終わってしまえばそんなことは忘れてしまう。でもそれらの旅が、私に改めて風呂について考えさせる契機をもたらした。
風呂の湯に浸かりながら風呂とはなんと素晴らしいカルチャーなんだろうか、と考える。海外では湯船に浸かる文化を持つ国の方が少ない気がするが何故なのか。何故日本には風呂があるのか。何故日本人はみんな風呂が好きなのか…。
さて、風呂が何故心身の健康に資するのか最近私なりに導いた仮説はこうだ。風呂に入ると体温があがるので免疫が高まる、はずである。ですよね。で、具合が悪くて発熱する、ということがある。これは体温を上げてばい菌などを殺すための身体の防衛作用だという。熱に弱いばい菌が多いということなんだろう。果たしてそうだとすれば、日々入浴で一時的にでも体温を上げることは免疫機能の活性化につながるはずである。よって日々の入浴はヒトを元気にさせるのである。あまりにも普遍的なことを熱弁していて恥ずかしい。
思い出すことがある。先に書いた風呂なしアパート時代にやった風邪のことだ。風邪の症状や経過には人それぞれの傾向があって、誰でも大体その人なりの風邪の乗り越え方がある。私の場合はノドにきて、鼻にきて、痰が固まってきたら治るのだが、その経過の期間が、その風呂なしアパート時代はやたら長かったのだ。熱が出て何日もバイトを休まなければならない時もあった。しかし、最近の私の風邪は、仕事を休むほどこじらせることが少ない。また元来弱い私の胃腸だが、風呂なし時代は殊更に弱っていたような気がする。
風呂のもたらす健康的利点は侮れない。1人暮らしの人なんかは1人で湯を張るのは経済的でないし、面倒もかかるのでシャワーだけで済ませる人が多いかもしれないが、それは非常にもったいない。風呂を面倒くさがって風邪をこじらせるべきではない。
それにしてもこの風呂文化が日本に独特である点は何とも不思議な感じがする。欧米人の場合は湯をためてもその中で身体を洗ったりして、次の人が同じ湯に入るということはあり得ないと聞く。バスタブがあっても毎日入ることはないとも聞く…。
毎日風呂に入るようになり、大概は私がカミさんを呼んで子どもを連れてきてもらい、こと子を風呂に入れ、終わるとまたカミさんを呼んでこと子を引き渡す。それが終わると私は1人湯に浸かりながらボーっと考え事をする。風呂の素晴らしさについて改めて感謝する。そして束の間、ただボーっとできる1人の時間の到来を祝福しつつ目を閉じたりしてると寝てしまい、折れ戸の外から少し苛立ったトーンで、まだー?とやってくるカミさんの声でハッとし、そそくさと立ち上がるのである。
どんなに悪いヤクザの親分だって、喧嘩上等の不良のにいちゃんだって風呂の湯に浸かってる間は、身体の凝り固まった細胞が弛緩して、脱力し、安らぎのひと時を過ごしているに違いない。少し熱いくらいのお湯に身体を鎮める時には、オォ、とかアァとか思わず恍惚の声が漏れるかもしれない。
で、当然ながら私も昔から風呂が嫌いだと思ったことは一度もなく、銭湯や温泉などでの入浴は、どんな時でも最高のレクリエーションだ。ところが私の人生でも風呂を軽視せざるを得ない期間があった。大学を卒業し、友人と同居生活を1年ほど続けた後に私が始めた6畳間風呂なしアパート時代のことだ。
風呂なしアパートに住むことにしたのは勿論家賃が安かったからだが、同時に露骨な貧乏生活を演出したかったからでもあった。私は当時、ミュージシャンとして成功を収める夢を持っていて、その成功ストーリーの序盤は「風呂なし貧乏生活時代」で飾られるのがいい、とバカなことを考えていた。そういう訳でそのアパートでの風呂なし生活が確か2年ほど続いたのだが、その間私は風呂に入らなかったのである。
今振り返るととんでもないことだが、風呂なしなら銭湯に行くのが当然なのに私はそれをしなかった。何故なら銭湯代が高いと感じていたから。ただそれだけである。ではその間どうしたのかと言うと頭をキッチンのシンクで洗い、身体はタオルで拭いていたのだ。いや、記憶の回路を頑張って辿ってみたが、身体をタオルで拭いていた記憶があんまりないのはどうしたことか。
まあそれは置いといて、しかし、とはいえ夏場には華麗なる裏技を考案して私は行水して身を清めていた。私が借りた西荻の風呂なしアパートは中央線の高架に平行に沿った建物で、アパートの細長い側面は線路に面していたのでそちらに隣人はおらず、また、線路と直角に交差する道路に面した側の反対、要するにアパートの裏側には猫の額ほどの小さな砂利のスペースがあった。そこは線路と反対側の隣の家からもうまく死角になっていたので、夏の晴れた日に私はバケツに水を入れてそこに運び、バシャーっとやっていたのである。鷹揚にシャンプーまでしていた。その裏技を隣に住んでた中国人のヨウさんが目ざとく見つけて、「ソレイイネ」と言ったと思うやもう次の日にはヨウさんも真似して屋外行水をやるようになってしまった。
大きく脇道に逸れてしまったが、そういう訳で私はその期間ほとんど湯船に浸からなかったのだ。たまーに実家に呼ばれて顔を出した時なんかに入らせてもらう風呂が唯一の入浴になっていた。
その後風呂なしアパートを卒業してからは私がミュージシャンとして成功するあらすじは夢物語としてフェイドアウトするのだが、とにかく以降は風呂に入っている。ただ実家にいる時からその傾向はあったが、冬など面倒くさくて一日置きに風呂に入るという行動パターンが出来てそれで不足は感じてなかった。
ところが、2年前にこと子が生まれ、それからというもの風呂はほぼ欠かさず毎日、ということになった。こと子を寝かせる一連のルーティーンの中に入浴が、優先すべき重要事項として君臨するようになったからだ。特に夏場など、代謝のいい幼児の新陳代謝は凄まじく、1日頭洗わないと、汗かいて乾いてを繰り返した頭が大変香ばしいことになってしまう。
そういう育児の都合で私は毎日風呂に入る習慣が身についてしまったので、風呂とは何ぞや、とまた頻繁に考えるようになってしまった。そして何と気持ちのいい習慣を日本人は発明したのだろう、と深い感動が温かい湯の中で生まれてくる。そんなところへ我が家は海外旅行を2度やって、台湾とベトナムに行ったのだが、困ったことにはそのどちらの旅先でも風呂などなかったのだ。
風呂がない。ないならないで仕方ない。幼児だからといって風呂に入れないと死んでしまうわけではない。その間こと子はずっと湯船に浸かれず、シャワーだけで過ごしたのだが、旅が終わってしまえばそんなことは忘れてしまう。でもそれらの旅が、私に改めて風呂について考えさせる契機をもたらした。
風呂の湯に浸かりながら風呂とはなんと素晴らしいカルチャーなんだろうか、と考える。海外では湯船に浸かる文化を持つ国の方が少ない気がするが何故なのか。何故日本には風呂があるのか。何故日本人はみんな風呂が好きなのか…。
さて、風呂が何故心身の健康に資するのか最近私なりに導いた仮説はこうだ。風呂に入ると体温があがるので免疫が高まる、はずである。ですよね。で、具合が悪くて発熱する、ということがある。これは体温を上げてばい菌などを殺すための身体の防衛作用だという。熱に弱いばい菌が多いということなんだろう。果たしてそうだとすれば、日々入浴で一時的にでも体温を上げることは免疫機能の活性化につながるはずである。よって日々の入浴はヒトを元気にさせるのである。あまりにも普遍的なことを熱弁していて恥ずかしい。
思い出すことがある。先に書いた風呂なしアパート時代にやった風邪のことだ。風邪の症状や経過には人それぞれの傾向があって、誰でも大体その人なりの風邪の乗り越え方がある。私の場合はノドにきて、鼻にきて、痰が固まってきたら治るのだが、その経過の期間が、その風呂なしアパート時代はやたら長かったのだ。熱が出て何日もバイトを休まなければならない時もあった。しかし、最近の私の風邪は、仕事を休むほどこじらせることが少ない。また元来弱い私の胃腸だが、風呂なし時代は殊更に弱っていたような気がする。
風呂のもたらす健康的利点は侮れない。1人暮らしの人なんかは1人で湯を張るのは経済的でないし、面倒もかかるのでシャワーだけで済ませる人が多いかもしれないが、それは非常にもったいない。風呂を面倒くさがって風邪をこじらせるべきではない。
それにしてもこの風呂文化が日本に独特である点は何とも不思議な感じがする。欧米人の場合は湯をためてもその中で身体を洗ったりして、次の人が同じ湯に入るということはあり得ないと聞く。バスタブがあっても毎日入ることはないとも聞く…。
毎日風呂に入るようになり、大概は私がカミさんを呼んで子どもを連れてきてもらい、こと子を風呂に入れ、終わるとまたカミさんを呼んでこと子を引き渡す。それが終わると私は1人湯に浸かりながらボーっと考え事をする。風呂の素晴らしさについて改めて感謝する。そして束の間、ただボーっとできる1人の時間の到来を祝福しつつ目を閉じたりしてると寝てしまい、折れ戸の外から少し苛立ったトーンで、まだー?とやってくるカミさんの声でハッとし、そそくさと立ち上がるのである。
スポンサーサイト