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アクセルの意気地記 第13話 さよならほのぼの保育室

こと子が生まれて2回目の春がやってきた。例年よりいくらも早い桜の開花が印象的であった。開花期に丁度連休がぶつかったので今年は調子に乗って3回も花見に行った。

さて、以前書いた通りこと子が通っていたはのぼの保育室は3月で閉鎖となったのだが、園長F先生の提案で、閉鎖前の平日の夕方、父母に声をかけてささやかなお別れ会が行われることになった。

開催にあたって私はF先生から相談を受けていた。私がシフト制の仕事で平日にも休めるので、その平日休みに合わせてお別れ会を開き、私にギターで何か弾いてもらえませんか、ということであった。私がギターを弾いて歌う人間であることは、入園の時か何かに伝えたことがあった。それを覚えていたのである。

私は咄嗟に、アレ、これは面倒くさいことになってしまったな、と思ったが、それでもギターを弾いて歌うことというのは誰でもできることではないので、ここは一つお役に立てるのであれば、ということで引き受けることにしたのだ。園長先生とLINEを交換し、開催日の選考、打合せ日時を決めた。

打合せはまた、私が休みの日の夕方に私が保育室まで行った。いつもこと子や他の子が遊び、はしゃぎ、ご飯を食べ、時にはお昼寝をする園長先生宅のリビングルームに通された。普段めったに食べる機会の無いようなオールドスタイルな欧風クッキーが紅茶と共に出てきた。

F先生が提案してくれる曲の中で、私が知っている曲を絞って何曲か候補が決まっていった。子供達と一緒に遊戯しながら歌う童謡数曲と、大人も一緒に歌える「翼を下さい」や「今日の日はさようなら」などである。全部ではないが、F先生もピアノを弾くので合奏である。私はdimとかsus4とか余計な記号がつくコードは弾けないが、そういう難しいコードのない曲ばかりだったのでどうということはなかったが、「翼を下さい」や「今日の日はさようなら」の段階になると先生が勝手に上のパートを歌い出してハモるので妙な気分になってきた。

私はたまの「さよなら人類」にハマった時から、ハモりの副旋律を歌うのが好きだったし、何となく主旋律に対してハモりをつけることができるのであるが、急に女性の声でハモりが入ってくることに対して何の免疫もなかったのである。私はつられないように主旋律を、歯をくいしばるような気持ちで唄った。となりの和室では先生の旦那さんがテレビをつけているのか、何となく居るのだ。私と先生がハモっているのを聞いてどんな風な具合だろう、と余計な心配が出てきて脇に汗をかいた。

さて、お別れ会の話が持ち上がった頃、こと子は同級生の名前をそれぞれ呼べるようになっていた。ミオちゃんとー、ルミちゃんとー、タッくんとー、カーくんとー…。ふとした時にみんなの名前を呼び始めるのはとても可愛らしかった。それに加えてAシェンシェーとー、Fシェンシェーとー、と、先生達の名前も呼ぶようになっていて、こと子は特にA先生によくなついていた。そしてA先生とミオちゃんの登場率が高く、こと子はとりわけその2人に好意を持っているのが伝わってきた。

ところが、園長F先生とA先生は共にベテランで、それぞれ育児に関して拘りがあるのだろう、意見が合わないことが多々あって折り合いがあまりよくないらしい噂を耳にした。そしてお別れ会の行われる前にA先生は現場を辞してしまい、お別れ会の話しは何も知らされていなかったことが分かり私とピーの胸は少しザワついた。A先生の優しい人柄をなんとなく感じていたのでお別れ会にA先生が居ないのは何となく不自然な感じがしたのだ。

とはいえ当日のお別れ会は予定通りに行われた。私もピーもA先生が不在であることに一抹の寂しさを感じつつも、まだまだ道理が分からぬ幼児達が、いつもと違ってママ達が隣にいる保育室の状況に、はしゃぎ回っているカオスな光景を楽しむしかなかった。平日の夕方なので父親が参加しているのは勿論ウチだけだった。

F先生が、今日は特別にこと子ちゃんのパパがギターを弾いてくれます、と紹介してくれて、私はギターでお遊戯の曲を数曲伴奏した。子ども達は伴奏のギターのことなど気に留めずにぎゃあぎゃあ騒いでる。それを嗜めるママ達もバタバタである。

お遊戯伴奏が一通り終わると、次はF先生の計らいで私がオリジナル曲を3曲弾き語りすることになっていた。子ども相手なので、普段のレパートリーにしている童謡の替え歌と、地元田無をレペゼンするサザエさんの替え歌を披露することにしていた。が、初めは大きな栗の木の下での替え歌で、子ども達もみんな知ってる唄だから一緒になって口を動かそうとしていたが、歌詞がいつもと違うのが分かると、すぐに飽きてまたはしゃぎ始める。するとママ達がバタバタし始めてまた空間がカオス化する。もはや私の歌を聞いてる雰囲気はどこからも感じられず厳しい現場となった。

弾き語りのライブは毎回、場の雰囲気にかなり左右されてしまう。そういうのをモノともせず堂々と演奏するのが私の理想であるが、これが簡単なことではない。弾き語りのイベントなら大体お客さんも弾き語りを聴く雰囲気になっているのでやりやすいが、居酒屋とかバーで演奏を頼まれる時は時の運という感じである。お客さんが酔っ払って後ろの方でガヤガヤしている時に私のしっぽりとした唄はほとんど潰されてしまう。そういう逆境ライブにもある程度慣れてきたところではあったが、まだヨチヨチの幼児達とそれをコントロールしなければならないママ達に向かっての弾き語りは暖簾に腕押ししているような気分に、ややもすると引っ張られそうであった。

私はその逆境に大量の汗をかいて演奏を終えた。それが終わるとお菓子タイムとなり、最後に「翼を下さい」と「今日の日はさようなら」を大人が合唱して小一時間のお別れ会が終わった。私とピーはこと子が同級の子たちとはしゃいでいる姿を見ることができてそれなりに楽しかったのだが、やはりそこにAシェンシェーがいなかったことへの寂しさがこびりついて離れなかった。

ほのぼの保育室は閉鎖となり、こと子が新しい保育園に行きだして間もない休日、私はこと子の面倒をピーから任されて、朝から夕方までつきっきりでこと子と一緒に過ごした。公園に行ったり、絵本を読んだり、おもちゃで遊んだり、ゴハンを食べさせたり…。久しぶりに長い時間2人きりになったが、前回、前々回より格段とこと子のコミュニケーション能力も忍耐力も上がっていて、随分楽に過ごせるようになったことに気づき、いいぞいいぞと思っていた。

夕方、その日2回目のお散歩に出かけた。こと子はいつも遊んでいる近所の公園には寄らず通り過ぎてしまい、私が何となくこと子の足どりを追いかける格好になった。おや、と思った。こと子が歩いて向かってる方角は閉鎖した保育室の方なのだ。そして曲がらなきゃ行けない曲がり角を、やはり迷いなく保育室の方に曲がるのだった。

私は嫌な予感がした。このままだと保育室の前まで行ってしまう。行ったところで入れる訳じゃないのだ…。不安に襲われながら保育室まで数十メートルのあたりでこと子が、Aシェンシェーとー、ミオちゃんとー、と言い始めた。やはりこと子は確信犯で保育室に向かってるのだ。
「Aシェンシェーとー、ミオちゃんとー、あそぶの…」
はっきりとそう言ったのを聞いて私の視界に水滴が湧いてボヤけてしまった。何とも言えない切ない気持ちになった。

保育室の前まで来てしまい、私は数十秒思案し、仕方なく保育室のインターホンを押した。ほのぼの保育室はF先生の自宅なので誰かいるかもしれないのである。F先生でも、旦那さんでも、とにかく出て来てくれたら、挨拶だけしようと思った。何もせずにこと子を連れて帰るのはこと子の未練を助長してしまうのではないかと思った。

インターホンを鳴らして少し待っていると通話口に旦那さんが出た。私は、長尾です、こと子がここまで歩いて来ちゃいまして、と素直に告げた。来意を聞いた旦那さんはすぐに出て来てくれて、こと子によく来てくれたね、と頭を撫でた後、園長先生は外出中でいないことを残念そうに漏らした。

私はポカンとした顔のこと子に、先生いないんだって、仕方ないね、と言って抱きかかえた。急な訪問を旦那さんに詫びて暇乞いをした。こと子は私に抱かれるまま、泣きじゃくりもせずポカンを続けていた。私はエモい気持ちに包まれながら家路についた。
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バンドマンに憧れて 第25話 東京サバンナ

アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーの3人で、赤い疑惑として遂に初の音源を作ることになった。作品のタイトルは「東京サバンナ」。あなたのそばで~、あゝ暮らせるならば~、つらくはないわ~、この東京さばく~、は「東京砂漠」、こちとら「東京サバンナ」。大学を出て、バンドマンとして成功することを夢見、アルバイト生活を始めた私にとっての東京はまさに戦場だった。

そう感じていたのも東南アジアを放浪した経験があったからだろうか。あっちの世界と比べると東京シティーはあまりにも殺伐として写るのである。アルバイトの通勤時、スーツで身を固めた憂鬱気なサラリーマンで溢れ返る満員電車の中で、私は戦慄しなければならなかった。何てところで私は生活しているのだろう、と。何でみんなこんなに同じ格好をし、何て生気のない眼をしているのだろう。

当時の私の闘いは、そういう風に死んだような眼になりたくないし、みんなと同じになりたくないし、そうならないためには夢に向かって突き進み、東京での生活を楽しく勝ち取ることだと信じていた。そしてそのフィールドが東京であり、油断大敵、自己責任、弱肉強食のその都市の様相はまるでアフリカのサバンナのようではないか、と東京を喩えた。

熱くなってしまったが…、内容はかなりふざけていて、その表題曲「東京サバンナ」の他に、パンクが何で商業主義的になってるんだ、と怒っている曲や、バンドをやってるとバカにされることがあることを愚痴っている曲や、毎日仕事行って疲れて何もせず寝てしまう自分を叱咤する曲や、母校の大学にあったヒルトップという学食をモチーフにした単純に元気な曲などが、「東京サバンナ」という一つの作品にヤケクソに収められることになった。

音楽性は元々好きだったハードコアパンクに、レゲエ映画「ロッカーズ」に出てくるナイヤビンギの真似事や、丁度その頃から夢中になりつつあったアフリカ音楽のゴスペルの真似事や、ジャーマンプログレの真似事みたいなことを強引に一緒にしたような仕上がりで、混沌としている。その頃から私は雑多な要素をミクスチャーすることに意識的だったようである。

歌詞も私が随分とひねくれたモノの見方をしていたのがにじみ出ている。自分が大好きだった90年代後半の日本のインディーパンクシーンで、日本語で攻めてるバンドは驚くほど少なかった(英詩を無理してつけてるのが普通だった)ので手本がなく、腐心した記憶がある。歌詞をどんな風にのせればいいのかよく分からなかったが、その頃後追いで知った80年代のinuとかスターリンなどのハードコアパンクに衝撃を受けて、自分にしては過激な言葉を使っていたようである。ちなみに当時の日本語で歌っていた現役パンクバンドの中で、圧倒的な存在感を放ち私が影響を受けたのはfOULとブッチャーズであった。

さて、作品のファーストインプレッションとして重要なジャケットである。これは大学のサークル、イン研の友人で、出版社に就職し、まさに当時出版界のスタンダードになろうとしていたillustratorやphotoshopなどのデザインソフトを覚えたてだったホウヤにお願いすることになった。彼も私もクイックジャパンなどに代表されるサブカルチャーが大好きだったので、どれだけインパクトのあるヤバいジャケットを作るかという観点で盛り上がり、意見がまとまった。出来上がったのは私とクラッチ、ブレーキーのそれぞれ何の飾り毛もない、むしろアウトテイクっぽいヘボい写真を寄せ集め、同じく寄せ集めた画像素材でコンクリートジャングル風の町並みと対照的な青空を配し、タイトルを東京銘菓風の(実際は岩手銘菓かもめの玉子のフォントをパクった)ロゴで仕上げた。子供の頃から変な行動をとって注目を集めたり、周囲と違う行動をとることが本能的だった私にとって、如何に個性的なセンスのジャケットを世に送るか、ということにかなりの思い入れがあり、出来上がった時には非常に満足した。

印刷屋からジャケットが届くとパソコンで焼いたCDRをセットする作業が始まる。3人で封入作業を始めるとブレーキーが俄かに「ちょっと待ってよ。手袋しないと。」と言って手袋を取り出した。私とクラッチは、感覚的に手袋なんかしないでいいだろう、と思ってたので衝撃を受けた。結局その手袋案は初日だけで、作業を進めるうちにブレーキーは妥協して素手で封入することに突っ込まなくなった。

出来上がったCDRを都内のインディー系レコードショップに持ち込み、委託販売を頼んだ。委託というのは、店側が売れた枚数分だけ販売手数料を引いて依頼主に売上げを支払う仕組みのことで、お店側は大した負担にならないので大抵は受け入れてもらえるのである。大体初めは試しに5枚で、というパターンが多く、売れそうだと思われれば10枚預かってもらえた。ただ、お店にもこだわりがあるので直感的にこれは違う、と店主が判断すれば断られることもある。私はパンク系を取り扱うCD屋をメインで狙ったので断られることはほとんどなかったが、当時インディー専門店として名を轟かせていた今は無き下北のハイラインレコーズには断られた。洒落た要素を微塵も感じさせない「東京サバンナ」のジャケットを見てドン引きしたのかもしれないが、私は憮然とした。何がインディー専門だ、笑わせるな、と愚痴った。その頃の私は卑近な、バンド界隈やインディー界隈のことばかりにしか関心がなく、何かにつけて文句を垂れたりしていたのだ。

さて、店舗での「東京サバンナ」の売れ行きはどうであったか…。大概作品を作ってお店に卸したら、あまたあるその他のインディー作品群の中に埋もれて1、2枚だけ売れて終わる、というパターンがほとんどである。その場合お店は取り扱い点数が多過ぎるのと、販売手数料も大して取れないのとで、わざわざ依頼主に売上げの報告などしてくれない。精算をしたかったらお店に連絡して売上げを聞き、もし売れてたら請求書と領収書を用意してまたお店に出向かなければならない。これがなかなか面倒くさい。「東京サバンナ」は500円で販売したので、お店で売れた場合は大抵7掛けで1枚350円の利益なので1枚、2枚の売上げを精算しに行くと電車代だけで消えてしまうようなものである。

私は「東京サバンナ」以降、プレスしたCDを作ってく過程でも自主製作を続けたので、東京に限らず地方のインディーショップにも発送して卸して、という作業を健気にやっていくことになるのだが、売上げを回収できることの方が少なかった。それでも、全く縁もゆかりもない地で自分たちの作品が他人に届くことは尊いことだと思って続けた。多くのインディーアーティスト達はそんな想いでプロモーションを兼ねて委託販売をお願いし続けていることだろう。

これも後年、自主系の音源やzineを取り扱うお店の店主に聞いた話しだが、委託で預かっている商品の売上げに関して全部依頼主から請求が来たら店が潰れるよ、とのことである。だから自主製作、自費出版系のグッズを取り扱うお店がある事自体有難いことのようにも思える。依頼主側の利益が微々たるものであるように販売側の利益も大きなものではないだろうから。

脱線したが、赤い疑惑の処女作である「東京サバンナ」であるが、実際は売れなかった訳ではなかった。というのもライブでの手売りというのがあって、これが堅調にジワジワと売れていた。500円という廉価であることもあったかもしれないが、我々のふざけたパンクセンスを面白がってくれる主に同世代の若者達がそれなりに反応してくれていた。

また、パンクのCD・レコードの専門販売で有名な高円寺のBASEという店では委託で預けた「東京サバンナ」が売れ続けたのである。委託品がスムーズに売り切れた場合はお店側から連絡がくるのである。「売り切れましたよ」という報告を初めて聞いた時の興奮は忘れ難いものだ。スタッフによる「四畳半のミニットメン」というキャッチコピーがハマったらしい。ミニットメンというのは当時私が最も好きだったアメリカのファンキーなパンクバンドである。その形容には感激したが、(実際は六畳の風呂なしなんだがなぁ)と思っていた。しかし四畳半という方が叙情的な感じがするのでそこは方便である。とにかく、それ以降BASEでは10枚単位で作品を卸すことができ、トータル10回以上のバックオーダーが入ったのだ。そんなこんなで、印刷屋に出した1000枚のジャケットがなんやかんやでなくなってしまった。

まだCDの売上げが低迷する前の時代である。インディーで3000枚売れれば大したもんだ、とも言われていた時代である。作品がとにもかくにもそのように売れたことは私にジワジワと、自分はバンドマンとして歩み始めたんだ、という自信と希望を与えてくれたことは確かであった。

つづく

アクセルの意気地記 第12話 ベトナムへ行く

赤ちゃんだったと思ってたらもう子供である。0歳児の子と比べると体格の差が歴然。大きくなった。訳分からず泣きじゃくることも随分減ったし、会話までにはならなくとも、こっちが言ったことを真似したり、こっちが言ったことの意図を理解して行動してくれることも増えてきた。

こっちにおいで、とか、椅子持ってきて、とか、手って繋いで、とか、そういうことが、まだ気まぐれではあるが少しずつ伝わるようになってきている。そんな風にリアクションが出てくると、子育てもより一層楽しくなってくる。成長というものをこんな風にありありと感知できるのは小さな子供を持つ親の特権なのかもしれない。同時に、この時期のこの表情や振る舞いは今だけなのだ、と思うと毎度胸を締め付けられるような…。おい、しっかりしろ。

とはいえ自我の目覚めというほどにはまだ遠いか。善悪の判断など持ち得ようはずがない。だから飲み物こぼしたり、皿を割ったりして怒られても、なんで怒られてるのかも分からないだろう。怒ると大体唖然とした顔でこちらを見るか、怒られてるとも知らず、へへへ、と笑ったりする。

善悪といえば、子育て中に不思議に思ったことがあるのだが、どうだろうか。もうだいぶ前のことだが、こと子が物を掴んだり離したり渡したりということが自由にできるようになったころ、同時に「どうぞ」という、相手に何かを差し上げる行為を覚えた。

私がこと子に、たとえば彼女がボール持っていたとして、そのボールちょうだい、と手を差し出したとする。するとこと子は、どうぞ、と言って素直に渡してくれることもあるのだが、結構高い確率でそのボールを渡そうとしつつ、ニヤリと笑ったかと思うとその手を後ろに引っ込めるのである。私がさらに、ちょうだいよぉ、とまた手を伸ばすと、こと子は更に手を後ろに隠し、またニヤリと笑うのである。

何も珍しい光景ではない。私の数少ないこれまでの幼児との触れ合いの中でも、ほとんど同様の、幼児特有のこのような意地悪をされたことが何度もある。それくらい普遍的なことなのだろう。

しかし、いざ我が子のそのような行動を前に、私は人間の本性というものを見るような気がしたのである。つまり人間というのは教えられたりしなくても、もともと悪の素質があるのではないか、ということである。悪とは言わないまでも意地悪なこころ。穢れなきおさな子の御心にも悪魔が隠れて住んでいる。

もちろん、大概において人間は性善説に基づいていると思うことも揺るぎなく、その証しにこと子は「どうぞ」といって何かを渡してくれたり、食べ物を私の口に運んできてくれたりもする。その時のこと子の顔は、慈愛の気と得意の気が混ざったような何ともいえぬ表情になる。

昨年の冬、こと子が8ヶ月の時に台湾に家族旅行に行った。幼児連れの海外旅行は困難、という世間の思い込みを覆すべく敢行してみたのだが、これがなかなか充実の旅路となったので、丁度1年後の去る2月頭から中旬にかけて、今回はベトナムへとひとっ飛び(正確にはLCC乗り継ぎでふたっ飛び)。

昨年の台湾は充実したとはいえ、1歳に満たない子を連れての旅はそりゃ大変だった。それに比べれば今回はこと子がおっぱいを卒業し、しかも歩けるようになったのだから気持ち的にも体力的にも少し余裕があった。

自ら動けるようになったこと子は、我々がこと子を乗せて歩くために持参したバギーを見ると、毎度興奮気味に「のる〜」と言いながら押したがった。こと子はバギーに乗るよりも押して歩く方に魅力を感じるらしく、我々が折り畳みのバギーを拡げてこと子を乗せようとすると、海老反りになって泣いて嫌がる。だから急いで移動しなきゃいけない時以外はあまり使わなかったのだが、ないとないで大変なのだ。

こと子は自分より多少大きくても同じ子供だと判断すると、初めは視線で追いかけて見つめ、そのあとジワジワと近づいていく。積極的なのだ。調子がいいときは「あーそーぼ」と言いながら近づいていく。今回の旅のように相手が日本人の子どもじゃなくても関係なく「あーそーぼ」とアプローチしていくので私はニヤニヤしてみていた。

空港では異国のお友達と、喋らずともフラフラ交流したり、ベトナムに行けば現地の子ども達にフラフラと近づいていく。きっかけが掴めず相手側に気にかけてもらえない場合もしばしばだが、それでもこと子は一定の距離まで近づいて観察する。じっと見ている。子ども以外でも犬や猫やニワトリを見つけると一定の距離まで近づいて止まり、観察する。ちなみにベトナムではニワトリは売り物として街中でよくみかけるし、郊外にいけば昔の日本のように飼っている家が多い。

一定の距離を保つのは本人の臆病さからのようだが、そのように距離を保って観察する時、こと子はうんこ座りになる。これがまたかわいい。大人はうんこ座りが簡単に出来ない人、要するにバランス取れずに後ろにひっくり返ってしまう人もいるが、こと子はすっと腰を下に下ろすとうんこ座りになる。私のように脚を開かないでも、膝を閉じて無理なくすっと座る。そうやって籠に閉じ込められたニワトリを1.5mほどの距離感でじっと観察していた。

ベトナムではこんにちは、というのに「シンチャオ」という。ピーがそれをこと子に覚えさせていて、何故かついでに「シェシェ」という中国語をセットにして教え込んでいた。何日目かにはこと子はそれらを容易に復唱できるようになっていた。

フエというベトナムの古都に行った時はエアビーアンドビーで抑えた宿が、中心地からはだいぶ離れていて最初は心細かったのだが、森の中の洒落た庭付きコテージの様相で、何だか凄かった。どこまでがホストの敷地なのか判然としないほど広い庭で我々はかなりリラックスした。

庭内には放し飼いの子犬と猫が走り回っていて、こと子は大興奮。観光にはやや不便な立地だったものの、こと子の満面の笑みを見て私とピーはハイタッチ。この少し変わった宿はゲイの男性が管理しており、LGBT歓迎を標榜し、その主人の恋人も含め個性溢れる、国際色豊かな旅人が集まっていた。

そこで交わされる言語は英語だったので、私の貧相な英語がある程度役立ち、連れ立って晩ご飯を食べに行ったり、庭でバーベキューをしたり、充実した時間を過ごしたのだが、この後、こと子の外国語レパートリーが増えていた。シンチャオ、シェシェ、と発した後に「オーバイガッ」と言うのである。オーマイガッのことであるとすぐに分かったが、これは私が発したことはないので、大人の英会話を聞いてたこと子の脳に強烈な印象を残したものと思われる。確かに英語の口語の中でも最もポピュラーな感嘆表現である。この程度の日本の幼児にも発音しやすいフロウ、いや発音したくなるフロウなのだな、と私は面白く思った。しかもこと子は「オーバイ」で頭を上げ、「ガッ」のくだりで首を縦に振ってこうべを垂れるのだ。幼いながらもオーマイガッのニュアンスを捉えている…。

今回の旅もメインの楽しみはベトナムご飯を満喫する、ということだったが、それに次いで楽しかったのはレンタルバイクであった。ベトナムはバイク社会で、ほとんどの市民は車ではなくバイクで動き回る。日本のような厳しい交通ルールはないのでバイクをレンタルするのに免許はいらないし、2人乗りもオーケー。というか現地の家族は親子4人で乗っている姿も見かける。そんな感じなのでバイクを借りて3人乗りに挑戦したらこれが思いのほか楽しかった。

初めはこと子をおんぶ紐で背負って私が乗った後ろにピーが座る、というスタイルだったが、地元の幼児連れ3人乗りを観察してみると、幼児を大人の間のシートの隙間にただ跨らせて乗っけているだけだ。で、とりあえずそれを真似してみたら意外とハマった。我々はホイアンでバイクを借りて味をしめ、フエでもハノイでもバイクを借りた。バイクといってもオートマのスクーター。私は原付きの免許しか持ってないのでね。レンタル代は1日500円くらい。ゴミゴミとバイクが行き交う街中から郊外の畑中までこと子とピーを乗せてフラフラドライブしたことは忘れ得ぬ思い出になった。

オムツ替える場所がなくて土産屋の店裏の階段で無理矢理替えさせてもらったり、食べ歩きに調子づいて夫婦でお腹壊したらこと子も同時に下痢したり、ゲストハウスのホットシャワーが弱くてこと子に号泣されながら身体洗ったり、子連れのシンドさがなかった訳ではないが、ことあるごとに愛すべきベトナム人の素朴で優しい人情に触れて我々は大満足だった。

帰りのトランジットで寄った中国の広州の空港内で、美しいインド人女性がこちらに近づいてきて目を丸くさせて話しかけてきた。まあ、なんて可愛い子なの、とこと子を絶賛し、写真を撮らせてくれ、という。親バカ鼻を伸ばしどうぞどうぞ。最後に握手をするとその女性の手には見事なヘナタトゥーが描かれていた。
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Author:アクセル長尾
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