アクセルの意気地記 第14話 新しい保育園にも慣れてきて
4月に転園し、こと子は新しい保育園にも慣れてきたようである。新しい保育園は昨年度までお世話になった小規模保育施設とは異なり、一般的な規模の認可保育園であるため、これまでと事情が大分違う。
最初に用意しなければならない持ち物や、登園時に用意しなければならない持ち物がズラーッと並んだ案内を見て、ピーさんは悲鳴を上げていた。持ち物の種類も多い上にすべてに記名の義務があり、名前ハンコを用意したり、ビニールを入れるためのビニールを用意したり、何だか大変である。
その辺の面倒事はピーがやってくれたので助かったが、私が遅番の時などはこと子を保育園に送り届けることもある。大した道のりではないが、到着後にカメラ付きインターホンを押し、同時に支給されたIDカードの様なものをカメラにチラつかせ、「長尾こと子の父です」と言うとガラスのドアが解錠されて中に入れることになっている。いや、そうしないと中に入れないというセコム風な設備に違和感が否めない。
ちなみに父が孫の様子を見たさにアポなしで保育園に行ったら、アポもないしカードも持ってないしで入らせてもらえず、先生からピーが後で注意されたそうだ。父には後日、現代のセコム的保育園の実状を説明して納得してもらったが何だか不憫だった。
セコム風ドアが開いて中に入ると、すぐ右手に管理室のような小部屋があり、その小窓のところにタッチモニターが設置されている。ここで子どもの体温や親の迎え時間を入力し、母が迎えに来るのか、父が迎えに来るのかなどを予め設定しなければならない。
さて、タッチモニターをクリアすると靴を脱がせてこと子の下駄箱に靴を入れる。同時にこと子は右手の管理室の前にある水槽に走り寄る。本来なら靴を脱いだまま真っ直ぐ廊下を進めば左奥にひよこ組なのだが、オサカナブームのこと子は水槽に走り寄って「オシャカナ!」と叫ばずにはいられないようだ。
あまりトロトロしていてもアレなので、オシャカナいるねー、と適当に応答しながらこと子の手を引っ張る。廊下の右左に年齢ごとの教室があり、トイレもある。トイレの入り口に沢山ビニール袋が並んで引っ掛けてあるが、ここに日々持ち込んだスーパーのビニールに、用意されたマジックで子どものフルネームを書き、所定のフックにかける。それが終わると突き当たり左のひよこ組に入る。
ドアは子ども1人じゃ開けられない様に、子どもの手の届かない高さに鍵がついている。中に入ると1歳児のお友達たちがあっちこっちで遊んでいる。15人前後の幼児に先生は3人きりである。ほのぼの保育室は5人の幼児に3人の保母さんだったから雲泥の差がある。
この差は子どもをしっかり面倒見られるかどうか、というところに顕著に表れるため、ほのぼの保育室を回顧的に振り返ってしまうが、15人に3人の規模であるからこそ家庭へのリクエストが弱まる側面もあり、それはそれで助かるのだ。
例えばほのぼの保育室ではこと子が37.5度以上になると速攻で連絡が来て子どもを連れて帰ってくれ、ということになり、パートタイムのピーさんはしょっちゅうバイトを早退させられていて、勤め先に対して気まずそうだった。だが、新しいレイモンド保育園になってからはほとんど呼び出しをくらってない。1人で5人の面倒を見るのだから発熱に気づかないこともあるだろう。
発熱で呼び出されたとしても、他の子は分からないが、こと子の場合は大抵、夕方には平熱に戻ったりしていて、次の日まで熱を持ち越すことは少なかった。幼児は体温調節機能が未熟だから頻繁に発熱するんだそうで、そういうことが科学的に判明しているのであれば保育園も37.5度以上というお堅い基準を撤廃してくれれば、とも思うが、病状が悪化すると責任問題で、できるだけ面倒事は回避したい、ということなんだろう。
保育園に慣れてきたこと子は私にも慣れてきた(?)のか、私がこと子に慣れてきたのか、最近は2人でいても緊張感が薄らいできた。高い高いみたいに狙って笑わす方法もあるし、偶発的にこと子と共有する笑いやふとした仕草なんかが増えてくる。0歳児の時のあのプレッシャーを思い出すと泣けてくる。
歌も覚えて歌えるようになってきて、歌に対して妙な拘りを抱いてきた私のような人間には感慨無量である。我が子が目の前で、一生懸命言葉に音程らしきものを持たせて歌い出す。歌詞を省略したり言葉そのものを省略したりしていて可愛い。省略という概念もなく、親や保育士さん、保育園の友達が歌っているのを聴いて音で覚えて復唱しているのだろう。意味も6割くらいしか分かってないはずである。
そんなこと子は最近、数ヶ月前まで夢中になっていた低年齢向けの絵本にあまり食いつかなくなってきた。思い出したように、読んでくれ、と寄って来る時もあるが、大分少なくなった。その代わりに何故か小学校3年生以上を対象とした、あるインドネシアの絵本だけは特別に好きで、ここのところ毎日のように読まされる。
小学生向けなので途端に文字が多く、内容も、はるか昔、人間が神々と交流を持っていた頃の話で、神話のような壮大な物語である。元がインドネシアの影絵芝居なので、挿絵のタッチも精緻な版画のようで大人が見ても迫力があり、素晴らしいものだ。ピーがどこかで見つけて買ってきたものだが、この本の主人公の2人の兄弟、特に兄のスマントリにこと子が夢中になってしまった。
兄のスマントリと、弟スコスロノの物語なのだが、こと子はスマントリを見つけるや「オネエサン!」と叫ぶ。スマントリは髪が長く容姿端麗なのでこと子の中ではオネエサンになってしまった。スコスロノは容姿が醜い設定だが、動物や植物と交流できる特殊な能力を持つ愛らしい存在で、こと子はスコスロノ、とは発音できないので、「オトウト!」と叫ぶことになっている。
ページをめくって扉絵に牛が出てくると「ヒツジ!」と叫ぶので私が「ウシ!」と訂正すると、「うんうん、ウシ!」と言い直すものの、すかさず「メーリさんのヒーツージー」と、メリーさんの羊を全部歌い出すので物語は始まらない。
歌い終わると本編に入っていくのだが、文字が多いので私が小見出しや、初めの1、2行を読んでるウチにこと子はページをめくってしまう。そういう調子なので実は私はまだこの物語のあらすじをちゃんと分かっていない。だが、こと子はあらすじなど興味はなく絵を見たいだけで、スマントリが出てくると「オネエサン!」、スコスロノが出てくると「オトウト!」と叫ぶだけで楽しそうである。
こと子は最近オネエサンに対する憧れが強く、何かを成し遂げた時なんかも、凄いね、オネエサンみたいだね、と褒めると得意げになる。着るものも、リボンついててオネエサンみたいだね、と褒めれば喜ぶ。女の子はそういうものらしい。ところがスマントリは本当は男でオニイサンなので、何時こと子にスマントリの真実を伝えるべきか、と私は心を痛めていた。それをピーさんに相談したところ、「アタシもう何回も教えてるよ」と呆れて言われた。真実を伝えるのは残酷だが、こと子には通用してないらしい。これはオニイサンだよ、と教えても信じずにオネエサンだと言い張るオネエサン病になってしまったようだ。
それはそれとして、1、2行読んだらどんどんページをめくっていくので、物語の内容がおぼろげにしか分からない。この絵本をダメ連のぺぺさんがウチに遊びに来た時に真剣な表情で読んでいたので、さぞかし面白い内容なんだろう、と私は確信した。
物語の中程で神々のボスみたいなのが出てきて、そのページにくると、「オニだ!」とこと子は言う。確かに鬼のような形相だが実際には獅子に近い。これは獅子だよ、とこと子に説明するのもアレなので、私も、「オニだ!」と返す。「オニだ、怖い!」と私がオニの存在意義を踏まえて付け加えたところ、次からこと子は、「オニだ、コワイゾー!」と決まり文句のようにセットで言うことになった。
物語の後半で弟のスコスロノが神通力のような魔法で大地を吸い込むシーンがある。そこにはスコスロノの口に吸い込まれて行く花や鳥や蝶々が舞って描かれている。そのページにくると、こと子が、蝶々を見つけて、チョウチョ!と叫ぶ。すると、私の方を一瞥して私のリアクションを伺いながら、チョウチョ〜、チョウチョ〜、と上半身を左右に揺らし、今度は蝶々の童謡を歌い始めるので、私も追随して蝶々を歌いデュエットに入る。
この蝶々のデュエットがピークとなり、その後の物語に関してはこと子のリアクションがイマイチになる。集中力が続かないのである。最後の方はページのめくり方も雑になり、本を閉じると、満足気に「メッチ!」と言い放つ。これは絵本を読み始めた時から、お終いのタイミングでこと子が発する言葉で、私とピーはいまだにこの「メッチ」がどこからきたのか、その意味とルーツが分からず、こと子七不思議の1つとして謎のままになっている。
最初に用意しなければならない持ち物や、登園時に用意しなければならない持ち物がズラーッと並んだ案内を見て、ピーさんは悲鳴を上げていた。持ち物の種類も多い上にすべてに記名の義務があり、名前ハンコを用意したり、ビニールを入れるためのビニールを用意したり、何だか大変である。
その辺の面倒事はピーがやってくれたので助かったが、私が遅番の時などはこと子を保育園に送り届けることもある。大した道のりではないが、到着後にカメラ付きインターホンを押し、同時に支給されたIDカードの様なものをカメラにチラつかせ、「長尾こと子の父です」と言うとガラスのドアが解錠されて中に入れることになっている。いや、そうしないと中に入れないというセコム風な設備に違和感が否めない。
ちなみに父が孫の様子を見たさにアポなしで保育園に行ったら、アポもないしカードも持ってないしで入らせてもらえず、先生からピーが後で注意されたそうだ。父には後日、現代のセコム的保育園の実状を説明して納得してもらったが何だか不憫だった。
セコム風ドアが開いて中に入ると、すぐ右手に管理室のような小部屋があり、その小窓のところにタッチモニターが設置されている。ここで子どもの体温や親の迎え時間を入力し、母が迎えに来るのか、父が迎えに来るのかなどを予め設定しなければならない。
さて、タッチモニターをクリアすると靴を脱がせてこと子の下駄箱に靴を入れる。同時にこと子は右手の管理室の前にある水槽に走り寄る。本来なら靴を脱いだまま真っ直ぐ廊下を進めば左奥にひよこ組なのだが、オサカナブームのこと子は水槽に走り寄って「オシャカナ!」と叫ばずにはいられないようだ。
あまりトロトロしていてもアレなので、オシャカナいるねー、と適当に応答しながらこと子の手を引っ張る。廊下の右左に年齢ごとの教室があり、トイレもある。トイレの入り口に沢山ビニール袋が並んで引っ掛けてあるが、ここに日々持ち込んだスーパーのビニールに、用意されたマジックで子どものフルネームを書き、所定のフックにかける。それが終わると突き当たり左のひよこ組に入る。
ドアは子ども1人じゃ開けられない様に、子どもの手の届かない高さに鍵がついている。中に入ると1歳児のお友達たちがあっちこっちで遊んでいる。15人前後の幼児に先生は3人きりである。ほのぼの保育室は5人の幼児に3人の保母さんだったから雲泥の差がある。
この差は子どもをしっかり面倒見られるかどうか、というところに顕著に表れるため、ほのぼの保育室を回顧的に振り返ってしまうが、15人に3人の規模であるからこそ家庭へのリクエストが弱まる側面もあり、それはそれで助かるのだ。
例えばほのぼの保育室ではこと子が37.5度以上になると速攻で連絡が来て子どもを連れて帰ってくれ、ということになり、パートタイムのピーさんはしょっちゅうバイトを早退させられていて、勤め先に対して気まずそうだった。だが、新しいレイモンド保育園になってからはほとんど呼び出しをくらってない。1人で5人の面倒を見るのだから発熱に気づかないこともあるだろう。
発熱で呼び出されたとしても、他の子は分からないが、こと子の場合は大抵、夕方には平熱に戻ったりしていて、次の日まで熱を持ち越すことは少なかった。幼児は体温調節機能が未熟だから頻繁に発熱するんだそうで、そういうことが科学的に判明しているのであれば保育園も37.5度以上というお堅い基準を撤廃してくれれば、とも思うが、病状が悪化すると責任問題で、できるだけ面倒事は回避したい、ということなんだろう。
保育園に慣れてきたこと子は私にも慣れてきた(?)のか、私がこと子に慣れてきたのか、最近は2人でいても緊張感が薄らいできた。高い高いみたいに狙って笑わす方法もあるし、偶発的にこと子と共有する笑いやふとした仕草なんかが増えてくる。0歳児の時のあのプレッシャーを思い出すと泣けてくる。
歌も覚えて歌えるようになってきて、歌に対して妙な拘りを抱いてきた私のような人間には感慨無量である。我が子が目の前で、一生懸命言葉に音程らしきものを持たせて歌い出す。歌詞を省略したり言葉そのものを省略したりしていて可愛い。省略という概念もなく、親や保育士さん、保育園の友達が歌っているのを聴いて音で覚えて復唱しているのだろう。意味も6割くらいしか分かってないはずである。
そんなこと子は最近、数ヶ月前まで夢中になっていた低年齢向けの絵本にあまり食いつかなくなってきた。思い出したように、読んでくれ、と寄って来る時もあるが、大分少なくなった。その代わりに何故か小学校3年生以上を対象とした、あるインドネシアの絵本だけは特別に好きで、ここのところ毎日のように読まされる。
小学生向けなので途端に文字が多く、内容も、はるか昔、人間が神々と交流を持っていた頃の話で、神話のような壮大な物語である。元がインドネシアの影絵芝居なので、挿絵のタッチも精緻な版画のようで大人が見ても迫力があり、素晴らしいものだ。ピーがどこかで見つけて買ってきたものだが、この本の主人公の2人の兄弟、特に兄のスマントリにこと子が夢中になってしまった。
兄のスマントリと、弟スコスロノの物語なのだが、こと子はスマントリを見つけるや「オネエサン!」と叫ぶ。スマントリは髪が長く容姿端麗なのでこと子の中ではオネエサンになってしまった。スコスロノは容姿が醜い設定だが、動物や植物と交流できる特殊な能力を持つ愛らしい存在で、こと子はスコスロノ、とは発音できないので、「オトウト!」と叫ぶことになっている。
ページをめくって扉絵に牛が出てくると「ヒツジ!」と叫ぶので私が「ウシ!」と訂正すると、「うんうん、ウシ!」と言い直すものの、すかさず「メーリさんのヒーツージー」と、メリーさんの羊を全部歌い出すので物語は始まらない。
歌い終わると本編に入っていくのだが、文字が多いので私が小見出しや、初めの1、2行を読んでるウチにこと子はページをめくってしまう。そういう調子なので実は私はまだこの物語のあらすじをちゃんと分かっていない。だが、こと子はあらすじなど興味はなく絵を見たいだけで、スマントリが出てくると「オネエサン!」、スコスロノが出てくると「オトウト!」と叫ぶだけで楽しそうである。
こと子は最近オネエサンに対する憧れが強く、何かを成し遂げた時なんかも、凄いね、オネエサンみたいだね、と褒めると得意げになる。着るものも、リボンついててオネエサンみたいだね、と褒めれば喜ぶ。女の子はそういうものらしい。ところがスマントリは本当は男でオニイサンなので、何時こと子にスマントリの真実を伝えるべきか、と私は心を痛めていた。それをピーさんに相談したところ、「アタシもう何回も教えてるよ」と呆れて言われた。真実を伝えるのは残酷だが、こと子には通用してないらしい。これはオニイサンだよ、と教えても信じずにオネエサンだと言い張るオネエサン病になってしまったようだ。
それはそれとして、1、2行読んだらどんどんページをめくっていくので、物語の内容がおぼろげにしか分からない。この絵本をダメ連のぺぺさんがウチに遊びに来た時に真剣な表情で読んでいたので、さぞかし面白い内容なんだろう、と私は確信した。
物語の中程で神々のボスみたいなのが出てきて、そのページにくると、「オニだ!」とこと子は言う。確かに鬼のような形相だが実際には獅子に近い。これは獅子だよ、とこと子に説明するのもアレなので、私も、「オニだ!」と返す。「オニだ、怖い!」と私がオニの存在意義を踏まえて付け加えたところ、次からこと子は、「オニだ、コワイゾー!」と決まり文句のようにセットで言うことになった。
物語の後半で弟のスコスロノが神通力のような魔法で大地を吸い込むシーンがある。そこにはスコスロノの口に吸い込まれて行く花や鳥や蝶々が舞って描かれている。そのページにくると、こと子が、蝶々を見つけて、チョウチョ!と叫ぶ。すると、私の方を一瞥して私のリアクションを伺いながら、チョウチョ〜、チョウチョ〜、と上半身を左右に揺らし、今度は蝶々の童謡を歌い始めるので、私も追随して蝶々を歌いデュエットに入る。
この蝶々のデュエットがピークとなり、その後の物語に関してはこと子のリアクションがイマイチになる。集中力が続かないのである。最後の方はページのめくり方も雑になり、本を閉じると、満足気に「メッチ!」と言い放つ。これは絵本を読み始めた時から、お終いのタイミングでこと子が発する言葉で、私とピーはいまだにこの「メッチ」がどこからきたのか、その意味とルーツが分からず、こと子七不思議の1つとして謎のままになっている。
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