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アクセルの意気地記 第17話 不細工な猫のぬいぐるみ

我が愛しのこと子は女の子だからだろうか、キャラクターや人形、ぬいぐるみに対しての反応が頗る強く、そしてまた不思議なことにこと子が可愛がるモノに対して、私も次第に次第に心が動いてしまうようだ。最初にそれを感じたのはこと子がまだ乳幼児の頃に着ていたミッフィーのロンパースである。

さすがに乳幼児のこと子がミッフィーに対して特別な愛情を表現していた訳ではないのだが、今まで一瞬足りとも思ったことのない「ミッフィー可愛い」という情動が私の中で巻き起こった。これは作者のディック・ブルーナの採用した色使いが私の好きな色彩感と似ていたこともあったかもしれない。しかし、それ以降ぬいぐるみを握ったりするようになってから、こと子が愛情表現を示したぬいぐるみやキャラクターに対して私の心は開かれ、次第にそういった対象への私の愛情が、いちいち芽生えていくのを禁じ得ないのだ。

プーさん、スヌーピー、ガーフィールド、羊のショーン、アンパンマン、ミッキー、キティーちゃん、その他名もなき人形やぬいぐるみたち。何しろ、幼児のそのような愛情表現は無垢でストレートであり、さらに母性をも感じさせるのである。私はそんな幼児が発動する母性というものに釣られているのではなかろうか…。

さて、我家の生活圏は、長年生活をしている田無界隈ということになるが、自宅から駅までの道はこと子を連れて、時にはバギーで、時にはよちよち歩きに合わせて何度も往復してることになる。

私がいない時、ピーとこと子でお出かけの時、その行き帰りの道すがら、住宅街の軒先や、植え込みに置かれてある小人の人形や、タヌキの陶器や、子どもの視線がなければ気にも留めなかったような動物の置物などに、こと子が逐一反応して歩みを止め、なかなか前に進まなくて大変だ、とピーから聞かされていた。私もその話を聞いてからこと子と散歩すると、ワンワンだ、とか、ニャンニャンだ、と口走ってはしばらくしゃがみ込んでそれらの人形やら置物を観察するようになったのを知って愛らしく思っていた。

そんな行き帰りの途上、我家のある北原住宅街の入り口に慎ましやかに営業している寿司屋があり、表に以前から、使われなくなったのか置き去りにされた冷蔵ショーケースがひっそり。そしてその中にクマと猫のぬいぐるみが、お供え物のようにぽつねんと並んで置かれているのを発見したこと子が、その前を通るたびに、クマさん! とかニャンニャ! とか興奮して愛でているらしいことを、これまたピーから聞かされていた。それで実際その寿司屋の前をこと子と歩いた時に評判通りの反応を示して喜ぶのを知った。

そんなある日、大分夜遅くなって、どこかから帰ってきて、ピーとこと子と寿司屋の前まで来て、一通りこと子がぬいぐるみを愛で、さあ、行こうか、となった時、(恐らく)寿司屋の隣のお宅の、年増の夫妻が車を自宅の前に横付けしており、彼らが我々に声をかけた。
「そのぬいぐるみ、よかったら持って行きませんか? それね、お寿司屋さんも知らないうちに誰かがそこに置いて行っちゃったの…」
それを聞いて、家に余計なものを増やしたくない私は嫌な予感がしたのだが、
「ええっ! いいんですか!」
隣で、どれだけそのぬいぐるみのことをこと子が愛しているかを熟知していたピーが、私の意志とは反対に喜びの声をあげた。こと子も何か察したらしく目が輝き始めた。
「お寿司屋さんもね、困ってるみたいだから、どうぞ、是非もらっていってあげて。」
そこまで言われ、ピーとこと子の反応を見るにつけ、私はもう反対意見を表明することはできなくなっていた。ショーケースから取り出されたクマと猫のぬいぐるみはこと子に大事に抱かれ、そしてそれから彼らは我家の一員となった。

そのクマのぬいぐるみと猫のぬいぐるみは並んで置かれていただけで、対の組み合わせになってるわけでもなく、その風合いも大分違っていた。が、背丈がほぼ同じだっため、こと子の中では仲良しのペアとして可愛がられることになった。持って帰ってすぐに、明らかにそれらが対の商品でないことがわかったのは、猫の人形の底に電池を入れる部位があったからだが、そのスイッチを入れると、猫のぬいぐるみは素っ頓狂な声音で、聞こえた音声をおうむ返しする仕組みになっていて私とピーは驚いた。驚いたというよりは喧しくて我慢ならず、すぐに電池を取り出したため、それからはただの猫のぬいぐるみになった。

最初の頃は毎日のように2つのぬいぐるみを可愛がって遊んでいて、その遊び方はままごとの要領に近づいていた。それまで我家でこと子に愛されていたプーさんやスヌーピーやガーフィールドは、いずれもこと子と大して変わらない大きなぬいぐるみだったから、こと子はそれに、ギューと抱きついたりしてゴロゴロ一緒に転がったり、一緒に眠りに就いたり、そういう愛され方だったのだ。ところが、ふと気づくとクマさんとニャンニャが向かい合わせで見つめ合っているように置かれていたり、仲良くご飯を与えられていたり、明らかに魂を吹き込まれ、生命を与えられたかのような遊び方に変わっていたのだ。ちょっとした変化だが育てている側からするとビックリするし、ジーンとする。まだまだ思うようにいかないとすぐに泣き出すこと子が、ぬいぐるみに母性を発揮し始めたのである。

クマさんとニャンニャは家で遊ぶだけでは飽き足らず、最初の頃は、お出かけのたびにかならずこと子が「一緒に行く!」と言い張って、2人(匹)を連れて行かないと納得しない時期もあった。ピーさんが、落とすから気をつけて、と何度も何度も注意していたのを思い出すが、こと子は時には片手で誰かの手を握り、反対の手を肘から曲げて、2人を並べて、胸と腕で器用に挟みながら慎重に歩いたりしていて可笑しかった。

その白いクマのぬいぐるみはお腹のあたりに、綿の入った赤いハートのクッションを両手で抱えている。ハートには「LOVE」と刺繍されており、顔もまたいかにも子どもが可愛がりそうな愛らしいそれを備えている。

一方、電池式の猫のぬいぐるみは茶トラ模様で、右目と左目の位置が対象じゃない。対象じゃなくても可愛いものは可愛いかもしれないが、この猫は大目に見ても可愛いとは言い難い。むしろ不細工、という言葉がぴったりのような気がする。

しかししかし、それでもこと子がその猫のぬいぐるみを執拗に可愛がるので私は段々とその猫の不細工なぬいぐるみに愛着が湧いてきてしまった。そして今では単純な愛情へと変わり、不細工なだけに余計に積もってしまったかのようなその猫のぬいぐるみへの愛情に自分自身がハッとしてしまう今日この頃である。
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バンドマンに憧れて 第29話 アクセル飲酒運転で骨折

赤い疑惑が「東京サバンナ」をリリースした当時、数少ない友達バンドとして親交を深めていたのがWE ARE(後にWE ARE!と名前を改める)というバンドだった。彼らのライブを武蔵境のSTATTOというライブハウスで観た時、ボーカルの周平はminutemenという私が最も好きだったUSHCのバンドTシャツを着ていた。当時交流のあった同世代のHC系バンドの中でも、minutemenの話で盛り上がれるバンドは他にほとんどいなかった。

彼らのライブは完成度も高く、また彼らにしか出せないであろう抒情的な雰囲気もあって私は気に入ってすぐに話しかけたのだ。話してみると彼らは東村山の高校の同級生で結成されていて、私の地元田無とも近く、育った環境が近かったこと、またレスザンTVやSSTなど音楽の趣味も、また映画や文学の趣味なんかも近くてすぐに仲良くなった。

WE AREの楽曲は日本語の文学的薫りを多分に孕んで、またメロディーもキャッチーだったので、私も周りの連中も彼らはブッチャーズのようなビッグなバンドになるんじゃないか、という期待と羨望の眼差しを向けていた(実際数年後ブッチャーズの吉村さんにひどく気に入られたのだ)。WE AREとは数カ所のライブハウスやスタジオで共同企画イベントをやったり、後年discharming manのエビナさんの企画で、一緒に北海道にツアーに行ったりもした。当時圧倒的な文学センスとグルーヴセンスでイースタン・ユースにフックアップされて人気を博していたfOULというバンドに心酔していた点も赤い疑惑とWE AREは共通していた。

その頃まで仲良くしていたHC界隈のバンドでWE AREのように、曲調は捻っていても日本語詞で勝負してるバンドは他になかったので、私は周平はきっと売れたい願望があるのだろうと思い、同士をみつけたという気持ちで1度腹を割って話してみようと渋谷のマックでサシで話をした。

私はストレートに「WE AREは売れたくないの?」と聞いたのだ。これはパンクスの間で「売れたい」ということを表明するのはダサいことだ、という共通認識があったため、私はあまり表に「売れたい」ということを漏らしてこなかったが、彼なら分かってもらえるんじゃないか、と思って聞いたのだ。すると周平はきっぱり「いや、そういうのはないですね…」と迷いなくそう答えるので私は調子が狂った。何故みんな商業的成功を目標にしないのか…。

私は期待していた答えが導き出せず困惑したが、周平とはそれ以降そういう野暮な話しはしたことがなく、WE AREとも以降音楽スタイルの変遷もあり、少しずつ距離ができていった(WE AREのベーシストOJとはその後深い付き合いになるのだが…)。

その頃、対バンで知り合ったバンドでドブロクという、これも日本語詞ロック(恐らく英語で歌うインディーズバンドが多かった当時の状況から生まれた言葉だろう。当時サンボマスターというバンドがその形容で爆発的人気を得てメジャーになった)のバンドがいた。彼らはパンクHC界隈とは無縁だったこともあり、いい曲作って売れたい、という欲望が見え隠れしていたし、むしろ、それはバンドマンにとって真っ当な姿にも見えて、頑張ってる姿が健気で素敵にみえたし、人懐こい連中だった。

そのドブロクが赤い疑惑のこと、そして私たちのパーソナリティーのことをエラく気に入ってくれて、以降何度かライブに誘ってくれた。そして、そういう流れで一緒に関西ツアーに行こう、というお誘いをもらうにいたった。我々はアメリカのパンクやインディーシーンの影響を強く受けてたので、バンドの成功には必ずツアーが欠かせないと思っていたが、ツテがなくてそれまでツアーとは無縁だったのだ。

しかし、このツアーの直前に事件が起きた。いや、正確に言うと事件ではなく、事故。いや事故というよりただの自爆なのだ…。

ツアーを数週間前にしたとある日、私は当時付き合ってた彼女を誘って大井町に原付きで出かけた。大井町に変な酒屋があって、そこでは店頭で酒が飲めて、面白い雰囲気なんだ、と私は彼女に説明していた。私はそういう店を角打ちというのだと、当時は知らなかった。

そもそも酒を飲みに原付きで繰り出してるという時点で大バカ者であるが、私と彼女はその店でビールを飲み、そこに屯する酩酊オヤジ達と楽しく語らった。

もともと酒が飲めるクチではないから、飲んだといってもビール1、2本だったはずで、時刻は夕刻、私と彼女はまた原付きにまたがって途中で別れた。確か彼女は松陰神社前の自宅に帰ったか用事があったかで別々の道だった。別れる時彼女が、眠そうにして運転してる私に「ちょっと、しっかり運転してよ!」と言ってたのを覚えている。

私は酒が弱いだけでなく、ちょっと飲んだだけで眠くなってしまうのであるが、そういうことを理性的に判断せずにその日は飲酒運転で環七を北上していた。案の定、睡魔に襲われていた。コンビニでもどこでも停車して休めばいいものの、私は運転を続けた。次の瞬間、ふと眼を開けると三車線1番左レーンを走っていた私の目の前に、路肩寄せで紺のワゴン車が停まっていた。認識した時既に遅く、突撃しそうになるのを何とかかわそうとハンドルを右に切ったがバランスを取ろうとしたと思われる左足のスネをしたたかにワゴン車の右後方部角にぶつけてしまった…。

ゴンッ、と鈍い音がしたのと同時に左足の激痛を感じて私は原付きを左の路肩の方に寄せて停めた。ハンパじゃない痛みに全身をよじらせながらも、私は車に人が乗っているかどうかを確認したが誰も乗っていなかった。そして自分のスネを強打したであろう車体の右後方部を軽く確認し、目立ったキズがないことが分かるとすぐさま原付きに跨り、その場を去った。社会的自覚というものがほとんどなかった私は事故をなかったことにしなければならなかった。

西荻の自宅まで帰る道すがら激痛はなかなか治らなかった。家に戻って改めて患部を見ると早くも大きく膨れ上がっていた。しかし、それでも一応歩けるのだから骨は折れてない、ただの打撲だろうと思いこませた。病院嫌いの萌芽をみせていたこの時期、私は「病院に行くほどじゃない」と思い込む必要があった。

2日、3日と経っても、腫れは治らず、強打したスネ部分を中心に、膝から下が全体的に膨れているように見えて妙な気分になった。しかし歩けるのでバイトに通い続けたが4日、5日と経るウチに今度は晴れ上がった部位が内出血で赤紫色になり始め、その色はどんどん足の甲の方へ広がっていった。そして遂に歩くと膝の下から足の甲にかけて、チャポチャポと皮下が蠕動するように感じられるようになり、さすがに怖くなってきた。

ちょうどそのタイミングで赤い疑惑のスタジオがあり、夏だったので短パンでスタジオに行くと、クラッチとブレーキーが私の足の異変に気付いて、
「ちょっと、それヤバくない?今すぐ病院行った方がいいよ」
どちらからともなくそう言うのだ。私は言われた途端に不安が爆発したような気持ちになって、
「やっぱ、コレヤバいよね?だよね…」
練習は中止。すぐさまタクシーで、救急に駆け込んだ。対応してくれた女医は私の足を見て、決まり文句のように、何でもっと早く病院に来なかったんですか、と言った。そして、レントゲンを撮って、
「スネを複雑骨折していて、そのキズが内出血になり、血が止まらずにスネから下に血の膿が足の甲にかけて流れていって溜まってしまってます。少し遅ければ壊疽していたかもしれません。」
と叱りつけるように私に言った。
「でも今から手術して血の膿を管から吸い上げれば大丈夫ですから…」

壊疽?壊疽って足が腐って切断しなきゃいけないヤツでは…?一瞬気が遠くなりそうだったが、もしスタジオ練習の予定がなく、もう何日か放っておいたら私は足をなくしてしまっていたのかもしれない…。すぐに病院に行けと言ってくれたメンバーに感謝してもしきれぬ気持ちと、何とも間抜けな自分に呆れる気持ちで頭がクラクラした。

それから私は1週間ほど入院しなければならず、楽しみにしていた関西ツアーは出演キャンセルせざるを得なくなった。更に入院費用が払えず、強がって独立をアピールしていた親に借金しなければならなくなった。もちろん、飲酒運転して怪我した経緯は伏せて、病院や親や保険屋には、運転ミスでスネを電柱にぶつけた供述をしたりしなければならず、なんとも不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。

ちなみにこの顛末の中で作ったのが「バカに塗り薬」という初期の名曲である(自分で言うな)。自分のバカさ加減に辟易し、親に対して潰れた面目と、鬱屈した気持ちを2ビートのハードコア風な曲調にぶち込んだ。ちなみに居眠り運転で事故ったのはこの時が最後ではないのだが…。その辺のことはまた後記に譲りたいと思う。
プロフィール

アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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