アクセルの意気地記 第19話 おでんくん
まだこと子が1歳になるかならないかの頃、ピーが、「こと子っておでんくんに似てるよね」と言った。私はおでんくんのことを、リリーフランキーが創作したアニメかなんかだろうといった雑な認識でしか把握しておらず、おでんくんの顔もその時ははっきりとイメージすることができなかったので、ふーん、とか何とか答えて聞き流していた。
私は自分の興味のない事柄に関してワザと情報を遮断するような傾向があり(テレビが苦手で、実家でバラエティーなどかかっていると、努めて視線をテレビに向けないようにするなど)、おでんくんもそのように関係のないものとして遠ざけていたかもしれなかった。
そもそも、私はリリーフランキーのことを、何だか鼻持ちならないヤツだ、と思っていたのである。何でそうなったのかというと、私の母が胃がんで闘病していた十数年前に、リリーフランキーが「東京タワー」という、奇しくも同時期に、同じ母親の死を扱った小説を発表して一斉を風靡していたからなのだ。
私は人に勧められて「東京タワー」を読んだのだが、それなりに感動しながらも、何でいっ、オレの方が上等な「東京タワー」を書けるぞ、っと内心ライバル意識をメラメラ燃やしたのである。何を言ってるんだ、と不思議に思うかもしれないが、母の闘病と、それを看病する私の中でも、東京タワーが印象的な思い出として残っているからで、そのことを今説明する余裕も、みなさんの期待もないので省くが、とにかく増長したガキだった20代半ばの私はリリーフランキーを鼻持ちならない存在としてカテゴライズしてしまった。
この客観的には不可解であろう嫉妬と嫌悪は、リリーフランキーという人の持つ、または持っていたサブカル気風からくるものだと思われ、私のようにサブカルやアングラに青春を食いつぶされた人間にとって、その道で成功した著名人に対して、羨望と嫉妬から、何だか鼻持ちならないヤツ、というレッテルを貼ってしまう傾向があったのである。みうらじゅんや中原昌也や町田康などなどなど、アンダーグラウンドから著名になった人への妬みのような感情は30歳くらいになるまで私について回った(大体アングラから著名になる人のほとんどは、相応の才能とオリジナリティ、そして行動力があったればこそ、ということにだんだん気づくのであるが)。
さて、こと子がおでんくんに似てる、という妻の指摘を聞き流してからしばらく経った頃、私は何かの拍子でおでんくんのビジュアルを目撃した。そして、そのつぶらで黒目がちの眼と、のっぺりとして少し間の抜けた風貌、それが確かにこと子によく似てると思った。
それからまた大分時間が経ってこと子が2歳になる頃、おでんくんの絵本を2冊、ピーが何処かで入手してきた。私はその段になって、おでんくんはアニメではなくてオリジナルは絵本だったのか、ということに初めて気がついた。そしてこと子がその絵本をエラく気に入って、それから毎日のようにおでんくんを読まされる日々が始まるのだった。
そうして、おでんくんを読み聞かせるようになってすぐに、私は「おでんくん」が日本の絵本史に名を残す傑作ではなかろうか、ということに気づき、リリーフランキーを見下した自分を恥じた。イラストやキャラのユルさ、親しみやすさ、物語の、バカらしくも愛に溢れる内容…。アニメ化され、ベストセラーになる所以がふんだんに詰め込まれている。不細工な猫のぬいぐるみじゃないが、私はこと子の無邪気なおでんくんへの好意にすっかり感化され、次第におでんくんのファンになってしまった。
私が仕事から帰るのは大体20時から21時くらい。ピーがご飯の支度をしている間、こと子は「いないいないばあ」やケータイに夢中になっていたりするのだが、それらに飽きてきたタイミングに私の帰宅が重なると、待ってましたとばかりに私を捕まえて早速「ねんくんよむ?」と語尾をあげて聞いてくる。語尾を上げるのだが、これは疑問形ではなくて、おでんくん読んで、というおねだりなのである。
こと子はおでんくんのことを最初から「ねんくん」と呼んで訂正することがないのであるが、これは「燃」という名前の私達の大好きな友人に端を発するのではないかと踏んでいる。こと子は私達の友人の幾人かの名前や渾名を覚えていて、その呼び名を時々ポツリと発することがあるのだが、「燃くん」もこと子のお気に入りだ。
「ねんくんよむ?」と無垢な声で尋ねられたらば、差し迫ってやらなければならぬことのない私は断る理由がない。畳の上にあぐらをかくと、その組んだ私の脚を座布団にしてこと子が腰を下ろす。
おでんくんの絵本は2冊しか存在しないらしく、その2冊が我が家にある。それぞれ夢のハナシと愛のハナシで、その時の気分でこと子がどちらを読むか選ぶのだが、今までの幼児向け絵本に比べると文字量が多く、最後まで読むとそれなりに疲れるし、後半はこと子も飽きてきて、開いたページの文字を読み切らないウチにページをめくってしまったり、よそ見をしたりしばしば散漫になる。それでも最後まで読まされる。後半にも1、2箇所こと子のお気に入りのくだりがあるからだろう。
夢を諦めないこと! と夢を見ることの大事さを説く夢のハナシでは、糸こんにゃくのいとこんくんの髪がドレッドで、いとこんくんの夢がジャマイカに行くことであり、そんなマニアックな内容をさりげなく絵本に散りばめるあたり、リリー氏の遊びゴコロにハッとさせられる。おでん屋さんに訪れる青年の、病気の母親の胃の中でガン細胞と闘うおでんくん部隊のシーンでは、こんにゃくが身体の掃除をしてくれる、という自然療法シンパな見識が絵本の中に見え隠れしていて、私はそこでもまたハッとする。
しかし最近のこと子は、夢のハナシより特に愛のハナシが好きらしく、愛のハナシを読むのだが、愛って何ですか、という(私も赤い疑惑の曲で歌っているが)人類にとって普遍的で深いテーマをサラっと取り上げている。毎回私はこと子を喜ばそうと思ってページを捲るのであるが、そこで語られる愛についてのシンプルな投げかけにドキッとさせられてしまう。
冒頭ではまずおでんくんたちがおでん村のお祭りで踊り出す。するとこと子が、「おでーん、でんでん!」とセリフを覚えていて、立ち上がり「トトも立って!」と言うので私も立ち上がって一緒に「でんでーん!」と踊らなくてはならないことになっている。一通り踊るとまた座らされて続きを読む。
愛は人を好きになることだけど、何で好きな人を嫌いになったりすることがあるんだろう。おでんくんはピュアすぎてそのことが理解できないので長老のダイコン先生に相談したり、おでん屋さんのおじさんが好意を寄せるお客さんのココロと対話をしてみたりして愛について真剣に考える。そのくだりを読む私のココロは毎度毎度揺さぶられる。
「好きな人を嫌いになる?」
「好きだったのに?」
「どうして好きだったのにそうでもなくなるんだろう?」
かようなおでんくんのセリフを読む私は側にいるピーさんのことを思い、苦々しいきもちになったりする。嫌いになりはしなくても、一緒に長く住んで時間を共有していれば、付き合いたての恋人のような、好きで好きで、というような感覚はなくなり、また、些細なことでしょっちゅう喧嘩をしている。あんなに好きだった人なのにどうして? とおでんくんとこと子が私に迫ってきて助けを求めたくなる。
子を育てる親たちの絆を取り戻したり、再確認させたり、ちゃんと考えさせるために、それでいてあんまり深刻になりすぎないように、リリーフランキーがおでんくんというゆる可愛いキャラを使って愛についてを問うのである。私はそのくだりを読みながら、(ああ、ホントならもっと奥さんを大事にしないといけないのだ)などとココロを引き締めたり、おでんくんの優しさにジンと胸を締め付けられたりしている。そして最早尊敬の眼差しでリリーフランキー氏のことを想う。土下座してもいいだろう。
こと子のおてんくんブームは今も続いていて、私だけじゃなく、ピーさんも頻繁に読み聞かせているので、遂には序盤の数ページの文章を丸暗記してしまった。まだ文字を読む年齢には早いはずだが、誰も読んであげられる人がいない時、1人でページをめくって物語を暗誦していて私を驚かせた。
なんでも知ってるつもりでも
ホントは知らないことがたくさんあるんだよ
世界のふしぎやいろんな奇跡
もしかしたらそれは
おでんたちのしわざかもしれないのです!
さも誰かに語り聞かせているかのような、地声より一段も二段も調子を上げた、ソプラノトーンで暗誦すること子の声が今日も狂おしく聞こえてくる。
私は自分の興味のない事柄に関してワザと情報を遮断するような傾向があり(テレビが苦手で、実家でバラエティーなどかかっていると、努めて視線をテレビに向けないようにするなど)、おでんくんもそのように関係のないものとして遠ざけていたかもしれなかった。
そもそも、私はリリーフランキーのことを、何だか鼻持ちならないヤツだ、と思っていたのである。何でそうなったのかというと、私の母が胃がんで闘病していた十数年前に、リリーフランキーが「東京タワー」という、奇しくも同時期に、同じ母親の死を扱った小説を発表して一斉を風靡していたからなのだ。
私は人に勧められて「東京タワー」を読んだのだが、それなりに感動しながらも、何でいっ、オレの方が上等な「東京タワー」を書けるぞ、っと内心ライバル意識をメラメラ燃やしたのである。何を言ってるんだ、と不思議に思うかもしれないが、母の闘病と、それを看病する私の中でも、東京タワーが印象的な思い出として残っているからで、そのことを今説明する余裕も、みなさんの期待もないので省くが、とにかく増長したガキだった20代半ばの私はリリーフランキーを鼻持ちならない存在としてカテゴライズしてしまった。
この客観的には不可解であろう嫉妬と嫌悪は、リリーフランキーという人の持つ、または持っていたサブカル気風からくるものだと思われ、私のようにサブカルやアングラに青春を食いつぶされた人間にとって、その道で成功した著名人に対して、羨望と嫉妬から、何だか鼻持ちならないヤツ、というレッテルを貼ってしまう傾向があったのである。みうらじゅんや中原昌也や町田康などなどなど、アンダーグラウンドから著名になった人への妬みのような感情は30歳くらいになるまで私について回った(大体アングラから著名になる人のほとんどは、相応の才能とオリジナリティ、そして行動力があったればこそ、ということにだんだん気づくのであるが)。
さて、こと子がおでんくんに似てる、という妻の指摘を聞き流してからしばらく経った頃、私は何かの拍子でおでんくんのビジュアルを目撃した。そして、そのつぶらで黒目がちの眼と、のっぺりとして少し間の抜けた風貌、それが確かにこと子によく似てると思った。
それからまた大分時間が経ってこと子が2歳になる頃、おでんくんの絵本を2冊、ピーが何処かで入手してきた。私はその段になって、おでんくんはアニメではなくてオリジナルは絵本だったのか、ということに初めて気がついた。そしてこと子がその絵本をエラく気に入って、それから毎日のようにおでんくんを読まされる日々が始まるのだった。
そうして、おでんくんを読み聞かせるようになってすぐに、私は「おでんくん」が日本の絵本史に名を残す傑作ではなかろうか、ということに気づき、リリーフランキーを見下した自分を恥じた。イラストやキャラのユルさ、親しみやすさ、物語の、バカらしくも愛に溢れる内容…。アニメ化され、ベストセラーになる所以がふんだんに詰め込まれている。不細工な猫のぬいぐるみじゃないが、私はこと子の無邪気なおでんくんへの好意にすっかり感化され、次第におでんくんのファンになってしまった。
私が仕事から帰るのは大体20時から21時くらい。ピーがご飯の支度をしている間、こと子は「いないいないばあ」やケータイに夢中になっていたりするのだが、それらに飽きてきたタイミングに私の帰宅が重なると、待ってましたとばかりに私を捕まえて早速「ねんくんよむ?」と語尾をあげて聞いてくる。語尾を上げるのだが、これは疑問形ではなくて、おでんくん読んで、というおねだりなのである。
こと子はおでんくんのことを最初から「ねんくん」と呼んで訂正することがないのであるが、これは「燃」という名前の私達の大好きな友人に端を発するのではないかと踏んでいる。こと子は私達の友人の幾人かの名前や渾名を覚えていて、その呼び名を時々ポツリと発することがあるのだが、「燃くん」もこと子のお気に入りだ。
「ねんくんよむ?」と無垢な声で尋ねられたらば、差し迫ってやらなければならぬことのない私は断る理由がない。畳の上にあぐらをかくと、その組んだ私の脚を座布団にしてこと子が腰を下ろす。
おでんくんの絵本は2冊しか存在しないらしく、その2冊が我が家にある。それぞれ夢のハナシと愛のハナシで、その時の気分でこと子がどちらを読むか選ぶのだが、今までの幼児向け絵本に比べると文字量が多く、最後まで読むとそれなりに疲れるし、後半はこと子も飽きてきて、開いたページの文字を読み切らないウチにページをめくってしまったり、よそ見をしたりしばしば散漫になる。それでも最後まで読まされる。後半にも1、2箇所こと子のお気に入りのくだりがあるからだろう。
夢を諦めないこと! と夢を見ることの大事さを説く夢のハナシでは、糸こんにゃくのいとこんくんの髪がドレッドで、いとこんくんの夢がジャマイカに行くことであり、そんなマニアックな内容をさりげなく絵本に散りばめるあたり、リリー氏の遊びゴコロにハッとさせられる。おでん屋さんに訪れる青年の、病気の母親の胃の中でガン細胞と闘うおでんくん部隊のシーンでは、こんにゃくが身体の掃除をしてくれる、という自然療法シンパな見識が絵本の中に見え隠れしていて、私はそこでもまたハッとする。
しかし最近のこと子は、夢のハナシより特に愛のハナシが好きらしく、愛のハナシを読むのだが、愛って何ですか、という(私も赤い疑惑の曲で歌っているが)人類にとって普遍的で深いテーマをサラっと取り上げている。毎回私はこと子を喜ばそうと思ってページを捲るのであるが、そこで語られる愛についてのシンプルな投げかけにドキッとさせられてしまう。
冒頭ではまずおでんくんたちがおでん村のお祭りで踊り出す。するとこと子が、「おでーん、でんでん!」とセリフを覚えていて、立ち上がり「トトも立って!」と言うので私も立ち上がって一緒に「でんでーん!」と踊らなくてはならないことになっている。一通り踊るとまた座らされて続きを読む。
愛は人を好きになることだけど、何で好きな人を嫌いになったりすることがあるんだろう。おでんくんはピュアすぎてそのことが理解できないので長老のダイコン先生に相談したり、おでん屋さんのおじさんが好意を寄せるお客さんのココロと対話をしてみたりして愛について真剣に考える。そのくだりを読む私のココロは毎度毎度揺さぶられる。
「好きな人を嫌いになる?」
「好きだったのに?」
「どうして好きだったのにそうでもなくなるんだろう?」
かようなおでんくんのセリフを読む私は側にいるピーさんのことを思い、苦々しいきもちになったりする。嫌いになりはしなくても、一緒に長く住んで時間を共有していれば、付き合いたての恋人のような、好きで好きで、というような感覚はなくなり、また、些細なことでしょっちゅう喧嘩をしている。あんなに好きだった人なのにどうして? とおでんくんとこと子が私に迫ってきて助けを求めたくなる。
子を育てる親たちの絆を取り戻したり、再確認させたり、ちゃんと考えさせるために、それでいてあんまり深刻になりすぎないように、リリーフランキーがおでんくんというゆる可愛いキャラを使って愛についてを問うのである。私はそのくだりを読みながら、(ああ、ホントならもっと奥さんを大事にしないといけないのだ)などとココロを引き締めたり、おでんくんの優しさにジンと胸を締め付けられたりしている。そして最早尊敬の眼差しでリリーフランキー氏のことを想う。土下座してもいいだろう。
こと子のおてんくんブームは今も続いていて、私だけじゃなく、ピーさんも頻繁に読み聞かせているので、遂には序盤の数ページの文章を丸暗記してしまった。まだ文字を読む年齢には早いはずだが、誰も読んであげられる人がいない時、1人でページをめくって物語を暗誦していて私を驚かせた。
なんでも知ってるつもりでも
ホントは知らないことがたくさんあるんだよ
世界のふしぎやいろんな奇跡
もしかしたらそれは
おでんたちのしわざかもしれないのです!
さも誰かに語り聞かせているかのような、地声より一段も二段も調子を上げた、ソプラノトーンで暗誦すること子の声が今日も狂おしく聞こえてくる。
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