バンドマンに憧れて 第36話 漁港、森田さんと赤い疑惑「理由なき反抗」
「東京フリーターブリーダー」に収録した新宿アルタ前お囃子ゲリラには実は続編があった。
32話で触れた通り、新宿アルタ前周辺を練り歩き、メンバー3人でお囃子とアカペラ合唱を披露した、そのゲリラライブの動画をエンハンスド映像(当時流行ったPCでのみ再生できるCDの特典映像)としてアルバムに収録する計画を立てていた。ゲリラライブだけだとショボいし面白くないので、そのゲリラライブの模様を先輩バンドマンに観てもらいに行く、という脈絡のない筋書きでコント仕立てにしよう、ということになっていた(ユーモアの要素にやたらこだわっていた)。
そしてそこで登場してもらうことになった先輩バンドマンというのが漁港の森田釣竿船長であった。
森田さんとの出会いは、学生時代に遡る。レスザンTVなどを中心にハードコアやポストパンクのインディーズライブに足繁く通っていた時期のことだ。
その頃森田さんは「the般若」という癖の強いハードコアバンドをやっていた。ライブを始める際に入場シーンがあり(赤い疑惑はこれに影響を受けた)、森田さんは筋骨隆々の肉体を大きく膨らませながらワイヤー仕掛けの火の玉をぶら下げて、オーディエンスを睨み、脅かしながらステージに上がる。私は(こうぇ〜)とビビりながらも、その後披露されたストイックでどこか和風で、何となくFUGAZI、何となくDISCORDなハードコアミュージックと、「テメエこの野郎」というビートたけし節な罵倒語を散りばめた、しかし深く練られたギャグを連発する森田さんのMCにすっかり魅せられて私はすぐに釘付けになった。相当怖そうだけど、この人のユーモアセンスとパンクの捉え方には、何か深いものがあるに違いない、と直感した私は、それから森田さんに声をかけ、the 般若のファンになった。
森田さんのMCを聞いていると、当時大好きでバイブルにしていた夏目漱石の「坊ちゃん」を彷彿とさせる、所謂下町っ子然とした喋り方、怒り方を初めて生で聞いてるような感じがした。この人は怖いけど、同時に相当頭のいい人なんだろうということをも連想させる知性が、下らない、下品な表現の中に潜んでいるようだった。
その頃森田さんは「キクチレコード」という、これまたレスザンTVに負けず劣らずな、パンクで下らなくて節操ないレーベルを運営していて、レスザンTVでいう「メテオナイト」のようなカオスな看板イベント「キクレコ祭り」というイベントを定期的に開催していて私は衝撃を受けた(私が赤いプロダクションという自分のレーベルを作ったのもレスザンやキクレコのおかげだ)。
キクチレコードの名前の由来はthe 般若でドラムを叩いていたキクチさんから取ったらしいのだが、キクチさんというのがまた強烈なキャラで、パンチパーマをあてて、ライブの時は赤いフンドシを締めて上半身裸だった。キクチさんと森田さんの関係は特別なものだったのか、詳しくは分からないが、いつかキクチさんは失踪してしまい、ドラマーを替えて般若はしばらく活動していた。
その後もしばらくは、キクチレコードは続いていたけど、飽きてしまったのか、段々フェードアウトしていったのだと思う。そしてこれはまだ私が赤い疑惑を始める前の頃だったと思うが、森田さんにthe 般若のライブオファーをしたところ、長尾くん、悪いけど今般若活動してないんだよ、とつれないお返事。私は食い下がって、森田さんが出てくれれば何でもいいんですが、というような図々しいお願いをさらに打った。すると、今ちょっと考えてるユニットがあるんだけど、それでいいかな、超下らないけど、とまた森田さんらしい謙遜した物言いで返答があった。
そのユニットというのがその後インディーシーンで特異な注目を浴び、一瞬メジャーまで駆け上り、割とすぐにインディーに戻って、最終的にはライブハウスのみならず漁業組合など、漁業関係のイベントなどで活躍することとなる「漁港」というバンドだった。
代々浦安で魚屋を営む森田家の倅である森田さんは、もっと魚が売れてくれないと、といつも真剣に語っていた。だから漁港というのは魚屋である本業とパンクと打ち込みをミックスさせた唯一無二のプロジェクトで、下らないことを死ぬ気で貫徹する森田さんの演出力に裏打ちされた説得力のあるパフォーマンスを武器に客のハートを端から鷲掴みにしていくのだった。
赤い疑惑が「東京フリーターブリーダー」を作っていた頃、漁港の人気は高まっていて、そのエンターテイメント性の高さから、いくつものメジャーレーベルが目をつけオファーが舞い込んだりしていた。私はバンドで売れたい、と切に願う身の程知らずだったため、そういう流れを側で見ていて非常に興奮していた。
我々は先輩、後輩というパンクやロックの世界から無縁でいることができていた(体育会系が嫌で文化系になったのだから当然上下関係というのは苦手だったし避けていた)が、思い返すと森田さんとの間には唯一抗いがたい関係性があった。だから森田さんはメジャーレーベルからのラブコールを受けていた時期、しょっちゅう我々に連絡をくれ、今〇〇って人と飲んでるから来いよ、と酒の席に呼んでくれるのだった。
しかし、酒が苦手で、というか酒の席の振る舞い方や酒の飲み方が今より全然分かってなかった私は、そういう場に出た時に器用に振舞うこともできなければ、面白いこと一つも言えなかった。それにメジャーの人とコネができて有名になったとしてもそれが本望なのか謎だった。森田さんには呆れられたかもしれないが、私は言い訳をして誘いを交わしたり、断ったりするようになっていった。
それでも森田さんとは関係が途切れた訳ではなくむしろ特典映像に出演してもらってくだらない芝居を一緒にやったりして関係は続いていた。そしてそれはもしかしたらその撮影の打ち上げの席だったかもしれない。アルバムリリースの後だから05年か06年頃のことだ。とにかく森田さんの地元で飲もうよ、ということになり浦安の居酒屋で飲んだ時に事件は起こった。
美味い肴を出してくれる森田さんの馴染みの店で楽しく飲んだ。といっても私はたくさん飲めないので、こういう時はクラッチが男らしく飲んでくれる。ブレーキーも付き合い上手というか、それなりに飲んでみんなでいい感じになり、もう終電もないしウチで飲み直そう、ということになり森田さんの実家に行くことになった。
外に出るとクラッチの様子がどうもおかしい。酔い方が深くなっていて、ちょっとヤバい感じ。私とブレーキーはこの頃のクラッチが酒で理性を失うことが稀にあることを知っていたので、何となく心配になり始めた。
しかし、クラッチは気勢をあげて、森田さんよりもハイテンションで歩き出す。私とブレーキーはヒヤヒヤしながら後につく。するとクラッチが路肩に並んでいたチャリを蹴り倒した。これはやっぱりマズい展開だ。手に負えない感じになっている。
クラッチの悪酔いは特に目上の人と一緒に飲んだりする時に頻発する、というデータがあったがまさに今日はビンゴ。森田さんはそれでもクラッチの粗相にキレずに面白がっている。森田さんも酔っている。
途中、我々を呼び止めて森田さんが立ちションをする。するとクラッチが森田さんのションベンを両手で掬って森田さんの肩で拭いたのである。これはヤバいヤバい、と頭を抱えたが、森田さんはそれでも笑っていた。松田、コラ、テメエ、と言いながら笑っている。余程我々のことを気に入って面白がってくれているんだ…。
そして森田さんの実家のマンションに着いて階段を上がり、廊下を歩いた。既に壊れていたクラッチが、今度はマンションの、もちろん森田さんの家ではない御宅の窓の柵に頭突きを始めたのだ。プツンと、森田さんの表情が変わりクラッチの胸ぐらを掴むと、敷地内の人気のない場所へ連行してクラッチをぶっ飛ばした。私と、ブレーキーと、深海さん(漁港の森田さんの相棒)はそれを止めようと、間に入ろうとしたけど森田さんの腕力の前に為すすべはなく、また、クラッチにいささかの弁護の余地もないので、結果的には横で佇んでいることしかできなかった。
ぶっ飛ばされても酒にヤラれているクラッチは反抗的な眼差しを森田さんに向けていた。そのまま外で説教を受け、その後我々がどうしたかはっきり覚えていない。他人事のようだが、全てが映画の1シーンのようだった。ただ翌日スタジオの予定があって、いつもの練習スタジオにやってきたクラッチの顔はお岩さんのように腫れていて、私は泣きそうな、情けない気持ちになったことを思い出す。
この思い出は、クラッチの悪酔いが原因だったとはいえ、あの頃の、どこに向かって進めばいいか分からずにストラグルしていた赤い疑惑というバンドの岐路だったように感じている。赤い疑惑史上最も情けなく、大人になれないモラトリアムの中で残した理由なき反抗、という気がする。ハードコアパンク出身にこだわった、喧嘩と縁のない中流階級のボンボンたちが味わったほろ苦い思い出である。
ちなみに、後日、当日のことを全然覚えてないクラッチは直々に森田さんに詫びを入れている。その後も漁港とはちょこちょこ共演したりする機会もあり、森田さんとの関係はいまだに楽しく続いている。
32話で触れた通り、新宿アルタ前周辺を練り歩き、メンバー3人でお囃子とアカペラ合唱を披露した、そのゲリラライブの動画をエンハンスド映像(当時流行ったPCでのみ再生できるCDの特典映像)としてアルバムに収録する計画を立てていた。ゲリラライブだけだとショボいし面白くないので、そのゲリラライブの模様を先輩バンドマンに観てもらいに行く、という脈絡のない筋書きでコント仕立てにしよう、ということになっていた(ユーモアの要素にやたらこだわっていた)。
そしてそこで登場してもらうことになった先輩バンドマンというのが漁港の森田釣竿船長であった。
森田さんとの出会いは、学生時代に遡る。レスザンTVなどを中心にハードコアやポストパンクのインディーズライブに足繁く通っていた時期のことだ。
その頃森田さんは「the般若」という癖の強いハードコアバンドをやっていた。ライブを始める際に入場シーンがあり(赤い疑惑はこれに影響を受けた)、森田さんは筋骨隆々の肉体を大きく膨らませながらワイヤー仕掛けの火の玉をぶら下げて、オーディエンスを睨み、脅かしながらステージに上がる。私は(こうぇ〜)とビビりながらも、その後披露されたストイックでどこか和風で、何となくFUGAZI、何となくDISCORDなハードコアミュージックと、「テメエこの野郎」というビートたけし節な罵倒語を散りばめた、しかし深く練られたギャグを連発する森田さんのMCにすっかり魅せられて私はすぐに釘付けになった。相当怖そうだけど、この人のユーモアセンスとパンクの捉え方には、何か深いものがあるに違いない、と直感した私は、それから森田さんに声をかけ、the 般若のファンになった。
森田さんのMCを聞いていると、当時大好きでバイブルにしていた夏目漱石の「坊ちゃん」を彷彿とさせる、所謂下町っ子然とした喋り方、怒り方を初めて生で聞いてるような感じがした。この人は怖いけど、同時に相当頭のいい人なんだろうということをも連想させる知性が、下らない、下品な表現の中に潜んでいるようだった。
その頃森田さんは「キクチレコード」という、これまたレスザンTVに負けず劣らずな、パンクで下らなくて節操ないレーベルを運営していて、レスザンTVでいう「メテオナイト」のようなカオスな看板イベント「キクレコ祭り」というイベントを定期的に開催していて私は衝撃を受けた(私が赤いプロダクションという自分のレーベルを作ったのもレスザンやキクレコのおかげだ)。
キクチレコードの名前の由来はthe 般若でドラムを叩いていたキクチさんから取ったらしいのだが、キクチさんというのがまた強烈なキャラで、パンチパーマをあてて、ライブの時は赤いフンドシを締めて上半身裸だった。キクチさんと森田さんの関係は特別なものだったのか、詳しくは分からないが、いつかキクチさんは失踪してしまい、ドラマーを替えて般若はしばらく活動していた。
その後もしばらくは、キクチレコードは続いていたけど、飽きてしまったのか、段々フェードアウトしていったのだと思う。そしてこれはまだ私が赤い疑惑を始める前の頃だったと思うが、森田さんにthe 般若のライブオファーをしたところ、長尾くん、悪いけど今般若活動してないんだよ、とつれないお返事。私は食い下がって、森田さんが出てくれれば何でもいいんですが、というような図々しいお願いをさらに打った。すると、今ちょっと考えてるユニットがあるんだけど、それでいいかな、超下らないけど、とまた森田さんらしい謙遜した物言いで返答があった。
そのユニットというのがその後インディーシーンで特異な注目を浴び、一瞬メジャーまで駆け上り、割とすぐにインディーに戻って、最終的にはライブハウスのみならず漁業組合など、漁業関係のイベントなどで活躍することとなる「漁港」というバンドだった。
代々浦安で魚屋を営む森田家の倅である森田さんは、もっと魚が売れてくれないと、といつも真剣に語っていた。だから漁港というのは魚屋である本業とパンクと打ち込みをミックスさせた唯一無二のプロジェクトで、下らないことを死ぬ気で貫徹する森田さんの演出力に裏打ちされた説得力のあるパフォーマンスを武器に客のハートを端から鷲掴みにしていくのだった。
赤い疑惑が「東京フリーターブリーダー」を作っていた頃、漁港の人気は高まっていて、そのエンターテイメント性の高さから、いくつものメジャーレーベルが目をつけオファーが舞い込んだりしていた。私はバンドで売れたい、と切に願う身の程知らずだったため、そういう流れを側で見ていて非常に興奮していた。
我々は先輩、後輩というパンクやロックの世界から無縁でいることができていた(体育会系が嫌で文化系になったのだから当然上下関係というのは苦手だったし避けていた)が、思い返すと森田さんとの間には唯一抗いがたい関係性があった。だから森田さんはメジャーレーベルからのラブコールを受けていた時期、しょっちゅう我々に連絡をくれ、今〇〇って人と飲んでるから来いよ、と酒の席に呼んでくれるのだった。
しかし、酒が苦手で、というか酒の席の振る舞い方や酒の飲み方が今より全然分かってなかった私は、そういう場に出た時に器用に振舞うこともできなければ、面白いこと一つも言えなかった。それにメジャーの人とコネができて有名になったとしてもそれが本望なのか謎だった。森田さんには呆れられたかもしれないが、私は言い訳をして誘いを交わしたり、断ったりするようになっていった。
それでも森田さんとは関係が途切れた訳ではなくむしろ特典映像に出演してもらってくだらない芝居を一緒にやったりして関係は続いていた。そしてそれはもしかしたらその撮影の打ち上げの席だったかもしれない。アルバムリリースの後だから05年か06年頃のことだ。とにかく森田さんの地元で飲もうよ、ということになり浦安の居酒屋で飲んだ時に事件は起こった。
美味い肴を出してくれる森田さんの馴染みの店で楽しく飲んだ。といっても私はたくさん飲めないので、こういう時はクラッチが男らしく飲んでくれる。ブレーキーも付き合い上手というか、それなりに飲んでみんなでいい感じになり、もう終電もないしウチで飲み直そう、ということになり森田さんの実家に行くことになった。
外に出るとクラッチの様子がどうもおかしい。酔い方が深くなっていて、ちょっとヤバい感じ。私とブレーキーはこの頃のクラッチが酒で理性を失うことが稀にあることを知っていたので、何となく心配になり始めた。
しかし、クラッチは気勢をあげて、森田さんよりもハイテンションで歩き出す。私とブレーキーはヒヤヒヤしながら後につく。するとクラッチが路肩に並んでいたチャリを蹴り倒した。これはやっぱりマズい展開だ。手に負えない感じになっている。
クラッチの悪酔いは特に目上の人と一緒に飲んだりする時に頻発する、というデータがあったがまさに今日はビンゴ。森田さんはそれでもクラッチの粗相にキレずに面白がっている。森田さんも酔っている。
途中、我々を呼び止めて森田さんが立ちションをする。するとクラッチが森田さんのションベンを両手で掬って森田さんの肩で拭いたのである。これはヤバいヤバい、と頭を抱えたが、森田さんはそれでも笑っていた。松田、コラ、テメエ、と言いながら笑っている。余程我々のことを気に入って面白がってくれているんだ…。
そして森田さんの実家のマンションに着いて階段を上がり、廊下を歩いた。既に壊れていたクラッチが、今度はマンションの、もちろん森田さんの家ではない御宅の窓の柵に頭突きを始めたのだ。プツンと、森田さんの表情が変わりクラッチの胸ぐらを掴むと、敷地内の人気のない場所へ連行してクラッチをぶっ飛ばした。私と、ブレーキーと、深海さん(漁港の森田さんの相棒)はそれを止めようと、間に入ろうとしたけど森田さんの腕力の前に為すすべはなく、また、クラッチにいささかの弁護の余地もないので、結果的には横で佇んでいることしかできなかった。
ぶっ飛ばされても酒にヤラれているクラッチは反抗的な眼差しを森田さんに向けていた。そのまま外で説教を受け、その後我々がどうしたかはっきり覚えていない。他人事のようだが、全てが映画の1シーンのようだった。ただ翌日スタジオの予定があって、いつもの練習スタジオにやってきたクラッチの顔はお岩さんのように腫れていて、私は泣きそうな、情けない気持ちになったことを思い出す。
この思い出は、クラッチの悪酔いが原因だったとはいえ、あの頃の、どこに向かって進めばいいか分からずにストラグルしていた赤い疑惑というバンドの岐路だったように感じている。赤い疑惑史上最も情けなく、大人になれないモラトリアムの中で残した理由なき反抗、という気がする。ハードコアパンク出身にこだわった、喧嘩と縁のない中流階級のボンボンたちが味わったほろ苦い思い出である。
ちなみに、後日、当日のことを全然覚えてないクラッチは直々に森田さんに詫びを入れている。その後も漁港とはちょこちょこ共演したりする機会もあり、森田さんとの関係はいまだに楽しく続いている。
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