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アクセルの意気地記 第25話 日々のケアと自分でトイレ

以前風呂後の保湿ケアが大変だ、というようなことを書いたが、最近のケアで大変なのは髪のすきほぐしだ。こと子の髪質が剛毛だからなのか、長い髪の毛をお団子にしたり三つ編みにしたりして、夜ゴムを外して髪を下ろすと、髪にクセがついて簡単に戻らない。ちゃんとほぐさないまま髪を洗い乾かし、またゴムで縛って、というのを繰り返していたら、すぐにドレッドみたいになってしまった。アトピー対策で石鹸で頭を洗ってたのも関係しているのかもしれない。

保育園の保育士にちょっと嫌味めいたことを言う人がいて、そのこと子の髪問題について、ピーさんがとやかく言われたらしい。何でそんなことで文句言われなきゃいけないのか分からないが、言われてからピーはぐちゃぐちゃに絡まった髪を解く作業に時間を割いた。手伝ってくれ、というので面倒くさいが暇を見つけて手伝った。

少量ずつ掴んだ髪束を、こと子が痛くないように、両の指を駆使してほぐしていく。櫛を使ってほぐせる域を超えてるので指でやるのである。絡まった髪をほぐしていくと、固まっていた部分から埃が出てきたりする。私は何だか、手の届かない、掃除し辛いところを掃除でもしてるかのような気持ちになって、気づいたらその行為にハマってしまった(私の生業も半分は清掃業である)。

そんなこんなしているうちに、今度はピーが、コレを使って、と言ってピンクのボトルを差し出した。中には髪をスムーズにほぐす用の油性ジェルが入っていて、それを手に塗りたくってから、風呂後のこと子の髪をほぐすのである。私はまた面倒なことが増えたと思い、(手はベタベタになるし嫌だな)などと思うのであるが、嫌だなと思っていても習慣化すると慣れてしまって、嫌という程でもなくなってくるから不思議である。

娘を胡座の上に、向こう向きに座らせて、娘の髪の毛を丁寧にほぐしていく。側から見ると猿が仲間や家族の毛づくろいをしているような愛情の図に見えるかもしれないが、実際ほぐしている間の当の私は、何というか無償の愛を施しているような、親猿のような気持ちになってくる。

これは特別なことなのだろうか、と思っていたが、髪の長い女性の間では特別なことでもないのかもしれない。この間友人の家に行った時、友人が娘の風呂後に椿油で髪を解すやり方を教えていた。私は手がベタベタになるのが嫌で、なるべく掌についた油分が落ちるまでこと子の髪の毛を何度も掴んだり梳いたりしていたが、友人は娘に掌の油がなくなるまで満遍なくやるのよ、と言ってたので私のやり方というか感覚は間違っていなかったのだと思った。

髪の毛のケアに加えてお肌の方のケアも相変わらず続いて、夏場は汗疹である。アトピーにしても汗疹にしても、私が幼児に難儀した症状である。喘息はなかったが、喘息もアトピーと同じくアレルギー症状なので、私のアレルギー体質がそのままこと子に継承された、と考えるのが一般であり、そう思うと私は私の虚弱体質に負い目を禁じ得ない。ピーさんは幼ない頃も、アレルギーも肌荒れもなかったそうだから、我が娘の体質に神経質になっている。

私の場合、アトピーは年齢とともに改善していったし、周りの大人と話しても、軽度なアレルギー症状の場合、喘息でも大体小学生あたりで治ってくる、というのが定説で、なのでこと子の症状に対して私は比較的楽観視している。しかし、その私の過去の話しを持ち出しても簡単に不安が拭える様でもないらしく、実際、じゃあこの肌荒れ、この喘息どうしてくれるのよ、と言われたら私にはなすすべがない。

また、保育園のケアを主にやってくれているピーさんは、保育士から、やれ病院に行けとか、やれ薬を飲ませろとか、いろいろに言われて参っているのも知っている。母親でもあるし、娘の病弱に対して心配になるのは当然で、そういう訳で私はあまり楽観発言をしないよう心がける。

それだけならいいが、体質のことで言うと、こと子は私の胃腸虚弱をも引き継いでしまったようだ。軟便問題は私の今でも続く悩みのタネの1つなのだから、こと子が軟便がちで胃腸が弱そうなことが解って私は哀れで情けない気持ちになっている(それでもこと子の食欲はなかなかのものである)。

病弱らしいことばかり書いていると何だか鬱々とするが、日々の育児は相変わらず楽しく、そして嬉しい出来事も数えきれないくらいあるのではある。最近で最も輝かしいトピックはトイレができるようになったことである。

初めは(半年前くらいか)ウンチができるようになった。オムツにウンチが溜まる不快感に意識的になってきて、便意を我々に告げるようになってきたのだ。

そこで、これを機に、とピーさんが画用紙にスタートとゴールで繋がる仕掛けを書いて、ゲーム仕様のトイレトレーニング双六のようなモノを作った。ウンチができたら順路に沿ってマスに大きいシールを貼る。おしっこができたら小さいシールを貼る。

こと子はシールが貼られていくのを楽しがって、コレが幸いして主体的になってきた。それですぐにウンチはトイレでできるようになった。それでもおしっこの方は高性能なオムツのおかげで不快感が少ないのか、なかなか定着しない。

そこで活躍するのがお姉さんパンツという代物だった。まだ幼児とはいえ少しでもお姉さんに見られたいチビ達はこのお姉さんパンツというのに憧れるらしく、気がついたらピーさんが数種類、キキララのやらキティーのやらがプリントされたパンツを買ってきていて、それを履かせると明らかにこと子のテンションが上がった。

お姉さんパンツを履かせる時に、「おしっこしたくなったら言うのよ!」と言い含めるようにこと子に聞かせ、初めは30分ごとに「おしっこは?」というのをやるのである。最初のうちは何回か失敗があり、畳の上で、タオルケットの上で、布団の上で、保育園で、という具合にお漏らしをした。しかし、段々とその尿意という感覚に敏感になってきて、今では寝る時以外はお姉さんパンツで日々を全うできるようになったのである。

寝る時も何度かお姉さんパンツを試してみてるのだが、寝てる時間は何時間もあるわけだから失敗を繰り返している。ピーさんがおねしょをしても下に沁みないように防水のシーツを買ってきたが、子どもの寝相というのは予測不能な動きを繰り返すため、すぐにフレームからはみ出して、結局防水シーツとは関係ない場所でおねしょをしてしまう。

それでピーさんの布団には何ヶ所かこと子のおねしょの痕跡があり、アルコールスプレーをして干したりしているが、それだけでは何となく気持ち悪く、大きなコインランドリーで布団丸洗いができないかどうか、というのが最近の、我々夫婦の間での1番の関心ごととなっている。
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長尾玄武という本名で歌うことにした

私の本名は「長尾玄武」と書いて「ながおはるたけ」と読む。「玄」というのを「はる」と読むことは一部の漢字マニアには可能かもしれないが、人名訓として調べられるものの、学校の先生始め第3者にズバリ読み当てられた、ということはない。

武将のような名前でカッコいい、ということを子どもの頃よく言われ、羨ましがられたが、それは長尾景虎、武田信玄、この日本史上に名を残す2人の名将の字面からのイメージによるものと、幼いながらも分かっていた。が、それは嬉しいことではなく、私は言われるたびに苦笑いした。というのは私には男らしさの自覚が十分でなかったし、実際モヤシのような痩せ型で、運動もダメなら腕相撲なんかも滅法弱かったからだ。何しろ親に剣道をやらされたのに、小手が痛いのが嫌ですぐ辞めたほどで、武将とは遠くかけ離れた部類の人間であるという自覚が強かったくらいだ。

そんな体たらくで、武将のようでカッコいい、と名前を褒められても私には嫌味のようにさえ聞こえてくるので閉口せざるを得なかった。

しかし、その武将的なということでなく個性的な、という意味では私は何となく「玄武」という名が嫌いでもなかったし、中国の四神の名前を由来にしてつけた、という父の説明を聞いて、それならば、武将っぽさなど忘れて、とりあえずもっと堂々としていればいい、と思うようになったのも本当だ。武将よりも神様に由来という方がおこがましいような気もするが、亀と蛇が合体した神様なのでとりあえず個性的だと思うことの方が作用した。

さて、私は高校生の頃にフォークやローファイ(ヘタクソだったりクオリティーが低かったりを憚らない音楽ジャンル)という音楽と出会い、ギターで自作の曲を作るという趣味を始めた。ギターのテクニックには自信がなかったが、適当なコード進行を作り、適当な歌詞をつけて、という曲作りの作業は割りとスラスラできた(今はそんなにスラスラできないが)。

当時、重ね録りをするためのMTRという機械がバイト代を貯めれば買える時代だったので、そのMTRを手に入れてからは、ギターを弾き、ベースを弾き、ドラムマシンでリズムをつけて、というようなことをやり始めた。確か高校2年生くらいの時だったはずだ。

普通、フォークソングと言えばギター1本で歌を歌う、そのシンプルさが魅力でもあり、強みでもある。しかし、私はギター1本で弾き語りをする度胸とテクニックがありそうもなかったので、とりあえずそのMTRで重ねて作った曲をカセットテープに落とし、それを作品として近しい友人に売ったか配ったのかしたらしい。

そのデビュー作品にどんな曲を収録したのか覚えてもいない。とりあえず仲が良くて個性的なセンスの絵を描いていたマチャミという友達が描いた、宇宙人のような絵に「ねろ」と名前をつけて芸名としたことだけ覚えている。フランダースの犬に出てくる少年「ネロ」の純真さと、歴史人物辞典で見た魔性皇帝「ネロ」の邪悪さ。相反する2つのキャラを孕んだ感じが面白いかも、とその高校生当時の刹那的な感覚で私のプロジェクトは「ねろ」となった。

その後バンドを並行してやるようになるのだが、いろいろの事情から「ねろ」は作品を作り続け、「1人で弾き語りをする」という行為も進んでやるようになった。もちろん、その際も何となく「ねろ」という名義で活動しており、活動名義をあまり深く考えてなかったのだが、高田渡など、フォークのビッグネームを知るようになってからは、ステージネームを本名にする潔さに憧れ始めた。

それでも「ねろ」という名義を今まで続けたのは、小山田圭吾がソロプロジェクトを「コーネリアス」としたような、ソロプロジェクト流儀に身を任せようとしていたからなのだが、最近のようにバンド活動が以前よりできず、自ずとソロの弾き語りの機会が増えるようになると、ステージネームが「ねろ」というのは、はっきり言って分かりづらいのではないか、ということが気になっていた。私は圧倒的にバンド「赤い疑惑」の人間として知られ、アクセル長尾という芸名で知られているからである。

ましてや私はコーネリアスでもないし、それどころか、弾き語りのライブを告知してもお客さんを全然呼べないような無名のしがないおじさんなのである。

私が弾き語りのオファーを受けると、大概フライヤーには「ねろ(akaアクセル長尾)」または「ねろ(from赤い疑惑)」と表記されてしまい、その方が周囲、界隈の人からは分かりやすいからなのであるが、それはどうにもこうにもややこしさ孕んでいる。そしてソロプロジェクト名義の浸透のしなさをはっきり物語っていて、何となくすっきりしないところがあった。

もう重ね録りを本分とするような活動スタンスでもないし、ギター1本の弾き語りスタイルもある程度できるようになったし、潔く本名を使ってしまおうか、という欲求が上記諸事情と相まってきた。

私は遂に本名を解禁することにした。「ねろ」という名義が嫌になったというよりは、もう本名を出した方がグッとくるし、分かりやすい唄のラインナップになっているのではないか、と思うに至ったからであり、これから10年20年歌いたいのなら本名の方がきっといろいろの面でいいと思うからなのである。

バンドマンに憧れて 第37話 母の死と家族

「東京フリーターブリーダー」の製作中の正月、西荻線路沿い風呂なし6畳の我がアジトの電話が鳴った。出ると珍しく実家の父からだった。

レーベル業を始めようと思っていた我が住まいにはFAX付き電話機が設置されていて(FAX1つあればレーベルができると雑誌で読んだので)、たまに実家の母から「元気にやってるか?」という様な挨拶が解像度の乏しいFAX特有の味わいで届くことがあったが、父が電話をかけてくるというのはかなり異例のことだった。父は、話がある、と言い、そして、実はお母さん、癌が見つかったんだ、と付け加えた。

私の頭は真っ白になった。そのあとどういう会話をしたかも覚えていない。電話を切った後、私は込み上げてくる嗚咽を抑えることなくひたすら泣いた。「ビーチボーイズ」の反町隆で泣いたのとはまた別次元で、それは終わりのない悲しみのように思えた。

止まらない嗚咽と涙の中で私は母のことをそんなにも慕っていたのだな、と思い改めた。大学卒業後の身の振り方、その一点のみでぶつかり合った。フリーターでバンドマン目指すという私の決意を最後まで肯定してくれなかった母。それでも一人暮らしの私を心配し、報せや差し入れを事欠かなかった母。

青二才だった私は独り立ちのために家を出る時も、いつかそれなりに成功した大人になって親孝行してやるんだ、と浅はかなことを考えていた。それなのにタイムリミットが一気に眼前に現れ、私は悲しみの底に突き落とされてしまった。

母は胃癌で、体調不良を隠していたこともあり、発見段階でステージ3の末期だった。告知を受けた時から1年持つか持たないか、というような深刻な状況だった。

焦りに焦った私はまず、闘病する母の看病とサポートにおいて、自分に何ができるのかを真剣に考えた。そしてすぐに気づいたのが家族との和解だった。和解と「東京フリーターブリーダー」の製作中の正月、西荻線路沿い風呂なし6畳の我がアジトの電話が鳴った。出ると珍しく実家の父からだった。

レーベル業を始めようと思っていた我が住まいにはFAX付き電話機が設置されていて(FAX1つあればレーベルができると雑誌で読んだので)、たまに実家の母から「元気にやってるか?」という様な挨拶が解像度の乏しいFAX特有の味わいで届くことがあったが、父が電話をかけてくるというのはかなり異例のことだった。父は、話がある、と言い、そして、実はお母さん、癌が見つかったんだ、と付け加えた。

私の頭は真っ白になった。そのあとどういう会話をしたかも覚えていない。電話を切った後、私は込み上げてくる嗚咽を抑えることなくひたすら泣いた。「ビーチボーイズ」の反町隆で泣いたのとはまた別次元で、それは終わりのない悲しみのように思えた。

止まらない嗚咽と涙の中で私は母のことをそんなにも慕っていたのだな、と思い改めた。大学卒業後の身の振り方、その一点のみでぶつかり合った。フリーターでバンドマン目指すという私の決意を最後まで肯定してくれなかった母。それでも一人暮らしの私を心配し、報せや差し入れを事欠かなかった母。

青二才だった私は独り立ちのために家を出る時も、いつかそれなりに成功した大人になって親孝行してやるんだ、と浅はかなことを考えていた。それなのにタイムリミットが一気に眼前に現れ、私は悲しみの底に突き落とされてしまった。

母は胃癌で、体調不良を隠していたこともあり、発見段階でステージ3の末期だった。告知を受けた時から1年持つか持たないか、というような深刻な状況だった。

焦りに焦った私はまず、闘病する母の看病とサポートにおいて、自分に何ができるのかを真剣に考えた。そしてすぐに気づいたのが家族との和解だった。和解というと大げさだが、私は母と父に対し自身の進路について何の理解も得てない状態だったし、親に反抗して家を飛び出した設定だったので、母の闘病をサポートするにはまず家族、とりわけ父と距離を縮めなければならないと思い至った。

それまで私の中で、父はよく知っているようでよく分からない、何か得体の知れない人物で、正直なところ接触を避けたいくらいの存在だった。高校生くらいの時からほとんどサシで会話をしなくなったし、大学在学中も会話は少なく、卒業後の進路に関する母とのせめぎ合いの折に時々登場しては、母の肩を持って、バンドをやるのはいいが、ちゃんとした仕事につけ、などと高みから私を戒めるくらいだったのだから、私の父への不信感は不思議なことではなかったはずだ。

しかし、その転機が母の癌告知と、その少し前にふとしたきっかけで読んだ、父の半生記のような文章だった。それは父の母校の大学のギタークラブか何かの冊子に寄稿したらしい、父の思春期から30代半ば頃までの回想録で、その内容は、正に私が今こうして認めているバンドマン記のような、おちゃらけた青春譚だったのである。

母からは度々デリカシーがない、とか下品とか酒臭いなどと遠ざけられ、あまり家にも帰ってこない、あの強面の父の青春記の貧乏話や、失敗談などの数々が、私のその当時の貧乏生活が滲ませていた趣きと大して変わらないものだったことが図らずも分かってしまったのだ。そのことは驚きとともに、私にとっては何となくこそばゆくも嬉しいようなことだった。そして父に少し好感を持つようになった。

そんなこともアシストとなり、私は母の看病に向けて父となるべく話す機会を設けるように計らった。母の寿命を少しでも伸ばしてあげたいという気持ちは、父と姉と私とで当然一致した。この頃から父と酒を飲んで話す、ということが増えることになった。父は私が勝手に想像していたよりお茶目で愛のある人物なんだと段々分かってきた。

父は鈍感なので、私が故意で接触を図っていたことに気づいてないようだったが、普段は母や姉に鼻つまみにされがちだったから私と距離が縮まってきて嬉しそうに見えた。

母ががんセンターに入院していた時期に、荻窪の祖母が亡くなった。祖母の家で母の親戚が集まってしんみり飲んでいた日だったろうか、母の兄弟、つまり叔母達が、闘病中の母に対する父のサポートや配慮が足りないのではないか、ということをやんわり言い始め、それが多少なり当たっていたとしても構図的に父が悪者みたいな流れになってしまった。父は頑固で自分の意見を曲げない悪い癖があるが、酒を飲むとそれがエスカレートするため、叔母達と口論に発展しそうになったので、私が父を制して仲裁をした。その時父は私の胸ぐらを掴み、お前に何が、と言って顔を歪ませていた。その時私は父を制したのではあるが、叔母達よりも父の味方をしたかった。ガンの妻を持った父の気持ちが叔母達に一刀両断されるのは私は何となく辛かった。

そんなこともあったが、自分の努力の賜物か、私と父の距離は少しずつ縮まった。とはいえ、父は現代医療に望みを託し、私はといえば、当時から信仰していた東洋医療や代替医療界隈におけるガンの知見を調べまくった。

玄米菜食、東城百合子の家庭医療、びわ温灸、などなど、世間的には眉に唾をつけられるような民間療法などにのめり込み、自分も実践し、そういう世界に詳しい友人から、気持ちは分かるが程々にした方がいい、と諌められることもあった。

確かにこういった代替医療、民間医療の世界は科学的データは少なく、患者本人の意志に依るようなところも大きい。私が勧めるそれらの治療法に、癌の告知という現実を前に落胆し力を落としていた母は、気持ちは嬉しいが…、と乗り気になることはなかった。それに気づいた私は、無理に勧めることは控え、例えばびわ温灸やこんにゃく湿布など、単純にあったかくて気持ちいい、と母が感じるモノだけは試してみたりしていた。

ちなみに、築地のがんセンターに入院していた母の見舞いに行き、代替医療の併用はオススメしないが禁止はしない、という医師の控えめな許諾のもと、びわ温灸をどうしても試したかった私。びわ温灸セットに必要な炭への着火に、バーナーによる燃焼が欠かせない。とはいえ病室内でバーナーで炭に着火などしたら警報機が鳴ってつまみ出されるだろう。仕方がないので、がんセンターの駐車場の隅で、不審者と思われないように身を潜めながらシュボーッとやったことは忘れられない。

他にも玄米を炒って相当な時間をかけて重湯のようなものを作ったり、振り返れば徒労のようなことをいろいろ試したが、母の食欲はもはや風前の灯だったし、周囲からは苦々しく見られるし、最終的には私も現代医療の効果に期待するしか術がなくなってしまった。

母はネガティブな感情に引っ張られがちで、癌に負けるてたまるか、というような意欲を見せることはなかった。見舞いに行くたび、私はどういう顔をしていいか分からず、何を話していいかも分からず、でも、突っ張っていたが母のことを愛していると伝えたくて1度だけ手紙を書いた。残された母との時間を大切に過ごしたかった。

がんセンターで抗がん剤の治療を受け、胃の切除までしたが母の調子が上向きになることはなく、医師も家族をいたずらに喜ばせるようなことは言わなかった。

家族で話し合い、終末医療というのだろうか、病院で重たい時間を過ごすよりは、ということで最後は自宅で家族と一緒に過ごした。ある日、突然母が苦しいと言い、様子を見ると、腹水が溜まり下腹部を膨らませてしまった。すぐにまた病院に運ばれたが、それから1週間ほどで亡くなってしまった。

長く辛い闘病姿を見てきた私は母が死んでなんとなくホッとした。抗がん剤で無闇に生を引き延ばしているような感じがして辛かった。本人はもっと辛かったろう。

母が闘病してる間、私は曲が作れなくて、でもこんな一生のウチでもなかなか体験しないであろう、この時期の気持ちをカラっと歌うことができたらいいな、と空いた時間で、それも長い時間をかけて一編の曲を書いた。「なんとなく人生」という、それはドラマのような展開の、長い長い曲になってしまった。

母の死は私に、家族という存在についてをもう一度考えさせてくれた大きな契機だった(結婚や子どもについて考えるようになったのは確実にこのことがきっかけだった)が、もう一つ決定的な現実を教えてくれた。それは「人生、お前の思い通りにはいかないんだぞ」、ということであった。

それまで私は、根拠のない自信で武装をし、自分はミュージシャンになって活躍することになるんだ、と信じ込んでいた。誰に笑われようが信じれば叶う、と思い込んでいた。

しかし、そんな風に信じれば叶うのなら、母のガンも家族の熱心な看病で治ってくれるはずだったんじゃないか。私は抗いようのない現実があることを母の死で痛烈に味わった。それは私のバンド人生における、初めての動かし難い痛烈な挫折であった。
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