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私の弾き語り禄 はじめに

弾き語り。嗚呼弾き語り。

ギターを持ち、弾きながら歌う。もちろんウクレレの弾き語りもあればピアノの弾き語りもある。その他諸々楽器を弾きながら歌えば弾き語りである。ただ、世の中で最もポピュラーな弾き語りといえばギター弾き語りに間違いない。

ギターが日本にやってきた頃はクラシックの時代である。後にアメリカからフォークソングがやってきて、日本でもギターの弾き語り人気に火がついたのである。それから現在に至るまで、ギター弾き語りはあまりにもポピュラーな表現手段のひとつとして君臨し続けている。あまりにもポピュラーなので古臭い印象すら、人によっては抱くのかもしれない。

しかし、それは簡単そうに見えて案外生易しいものではない。いや、人前で演奏し始めたホヤホヤの時期ならただ楽しいだけかもしれない。しかしながら長く続けていくことは、バンドと同じく容易なことではないのだ。

弾き語りがバンドとはっきり違うのは弾き語りというのは基本的に孤独であるということだ。デュオやトリオ、〇〇バンド、などなど、ゲストミュージシャンがいる場合はその限りではないが、基本的には孤独で、突き詰めていえば自分との闘いである。

では、何でそんな孤独で苦しい闘いを君は辞めずに続けるのか、ということである。私は20代半ばからギター弾き語りをやるようになったので。

昔、無神経な(しかしとても愛情溢れるヒトだったが)女友達に、何でお金になならないのにバンドを続けるの?と問われたことがあり(私はバンドもやっているのであるが)、私は動揺し過ぎて言葉を詰まらせただけだったが、その問いかけは私をいつも奮い起こさせる。彼女は私のバンド活動に関して、それはあまりにも無邪気に、半分は冗談でそう言ったのである。しかし、何でそんなこと続けてるの?という問いはバンドはもちろん、私の弾き語り活動にも共通している。お金にならないのに何故続けるのか…。

私はつまらない拝金主義者な訳ではなく、どちらかというとむしろ金によって白いものが黒くなるような日本の世の中を呪う者である。いや、そんなまどろこしく言うのもバカバカしいくらい、単純に貧乏である。なるべくしてなった貧乏なので、お金にならないから止めるという発想も、分からない訳じゃないがそうじゃないだろう、と常々強く思っており、これはなかなか解の出ない命題なのである。

まず、なぜ続けるのか、と考えた時に最初に引き出せる答えは歌うことが気持ちいいから、そういうことになる気がする。それが、仮に目の前に聴いてくれる人がいて、その聴いてくれる人と私の間で何かが反応した場合最も高まることになる。これはもちろんバンドでも同じである。

それから、次に来るのは、よかったです、と、例えお世辞だとしても、そう言ってもらえた時の嬉しさである。それがあるから続けられる訳で、それすらなかった場合は、いよいよ私は何故こんなことをしているのだろう、と気が遠くなり、深い井戸の中に落とされたような気分になる。

ざっくり言えばそんな感じだが、何故続けるのか、の答えはそれだけではない。それだけではない気がする。それだけではない気がするので、それを確かめる為にも私は、私の弾き語り雑記を記そうかと考えている。全く為にならない雑文集になるだろうことは明白なのでそのつもりでひとつ何卒。
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バンドマンに憧れて 第38話 レーベル運営と営業活動

「東京フリーターブリーダー」を作るにあたり、初めてエンジニアレコーディングを経験し、CDプレスのやり方を知り、流通やプロモーションのやり方を教わった。これらはほとんど第33話に書いた通りカクバリズムのワタル君に教えてもらったことだ。

それらを全てこなすことは、レコード会社がやることを、規模は圧倒的に小さいが自力でDIYしていることになり、つまりインディーレーベルを運営する、ということでもあった。メジャーな音楽会社に所属せずに、音楽で食えるようになるためには、インディーレーベルで成功すること以外考えられなかったし、我々のようなハードコアパンク出身の人間にとってDIYでインディーレーベルを運営してバンド活動を続けていく、ということはクールなことに違いなかった。私は赤いプロダクションという名前のレーベルを立ち上げたのだ。

このレーベル運営という活動を全うするには、マメな努力が持続できるかどうかが重要なのだが、その点私は割りと向いていた(こんな文章を書いているくらいだから…)。

作品リリースに合わせてディストリビューターと契約し、注文書を作り、イニシャル(店舗からの初回オーダー数)をもらい、それに合わせて店舗に営業をかける。店舗への営業といっても、電話をして担当を呼び出し、または直接店頭に乗り込んで、今度これこれの作品が出ます、よろしくお願いします、とやるだけだ。この時担当のスタッフが赤い疑惑のことを知ってたりするとラッキーで、発売に合わせてポップ展開(コーナーを設けて試聴機に入れてくれたり)やインストアライブを企画してくれたりする。

ディストリビューターの管轄外になる個人経営の地方の小さなCD屋やディストロ(友人知人などの個人のつながりから主に仕入れたCDやZINEをライブ会場などで小規模に販売するパンクカルチャー由来の店舗)には問い合わせに応じて随時納品書を書いて出荷し、数ヶ月後に精算する。パンク畑とゆかりがあったのでそういう小さな縁はとても大切にした(それは後に地方ツアーに繋がったりもする)。

私はこれらの実務をアルバイトとスタジオと遊びの合間にこなし、何か有意義なプロジェクトを始めたような気分になっていた。実際1stをリリースした頃はまだ音楽配信サービスも始まっておらずCDの市場が斜陽に入る前だったので、最初は反響もあり地道に売れているような感じもあった。

しかし、この競争資本主義の中でCDのリリースなんていうのは、それこそ膨大な数のアーティストが次から次へと繰り出してくる訳で、そうなってくると、タワーレコードやHMVなどの量販店で売上が立つのは最初の1ヶ月、長くても3ヶ月までである。その後は膨大な縦置きストックの中に埋もれてしまい、そこからはほとんど売れない。

最初の店舗売り上げがあって、友人からの借金も返済できて、なおライブでの瑣末なギャラなどをまとめて口座を作ったところ、気づいたらある程度のプラスに転じていたので、私は一念発起して当時やっていたアルバイトをフルタイムから週4にした。それには当時ガンと闘っていた母の看病のこともあったのだが、私としては週4にアルバイトを減らすことでバンド活動の方の収益が上がっていき、いつかアルバイトをしなくてもやっていけるようにする為のきっかけにしたかったのである。

このDIY期に頑張ったことといえば、地方ライブの段取りをつけたり、地方のCD屋に作品を置いてもらうことだったり、フライヤーやHP作りに力を入れたりと、とにかく赤い疑惑の名前を売り出すための策を手当たり次第やった。その中でも地味で忘れられないのがフライヤー配りである。

90年代頃までパンクのライブに通っていた人には懐かしい光景かと思うが、ライブが終わるとライブ会場の出口付近や階段に列になって、帰って行く人にチラシを配るっていうのがあった(今もないわけじゃないがSNS時代に突入して一気に衰退した感がある)。とにかく知名度を上げないと、という一心で赤い疑惑のライブスケジュールを掲載したフライヤーを携えてライブを観に行ったついでに配る訳だ。しかし当時自分は大学生の時のように、ライブに通うほど追いかけてたバンドもいなくなり、ライブにも足繁く通うこともほとんどなくなっていた。そもそもお金もなかった。だから、ライブは見ずに、気になるバンドや近い界隈のバンドが出てるライブがあるとチェックして、ライブが終わりそうな時間にわざわざそのライブハウスまで行って会場の外でライブが終わるのを待つ、なんてことをやっていた。

これがなかなかシンドい作業でね、冬なんかはクソ寒いし、長続きはしなかったんだけど、社交場的な雰囲気はあって、知り合いや顔見知りのバンドマンが増えたりいいこともあったのかな。

下北沢のシェルターや新宿のロフトなんかは、ライブのリハ時間にフライヤー折り込み部隊のための枠があって、「あの、フライヤー折り込みしたいんですが」と不愛想な受付スタッフに言うと、中に入れてもらえる。かといってリハの時間は16時とか17時とかだからカタギの仕事してる人はまさか行ける時間じゃない。シェルターにはよく通ったけど、入り口から続くフロアまでの階段に、既にメジャーやらインディーやら事務所を通してハコ側にバーターでまとめて折り込んでもらってるライバルイベントのフライヤーが既にパンパンになった束が、輪ゴムで10部だか20部毎に縛られて置いてある。それを番号順にピックして、その1部毎に自分が持ってきたフライヤーを挟み込んで行くのである。なんと涙ぐましい裏方作業。

これはライブ終わりに直接お客さんに配るほどのインパクトはないけどライブに来た人のほとんどに行き渡るため、16時までのバイトをしていた時期はよく通ったものだ。シェルターはある程度名前のあるバンドが出ることが多かったから名前だけ知ってるバンドのリハなんかを横目で見て(何だ、大したことねえな)などとイキっていた。

その他、雑誌やライブハウスのフリーZINEなんかに営業するという手もあったはずだが、その辺は私は手を出さなかった。メジャーレーベルや所属事務所がバックにいればある程度の記事を書いてもらえるらしかったが、自主レーベルとなると、大体が広告料を払わなければ記事を書いてくれないし、わざわざ金を出してまでインタビューなんかをしてもらうのはパンクの志に反すると思っていた(同時にロック雑誌なんて茶番だな、などと思ったりもした)。

バンドマンとして成功するためにアルバイトを週4に減らすという、大きな一歩になるはずだった小さな改革は、しかし、母が癌で亡くなり、CDの売り上げが落ち着いていき頓挫した。新しいCDを作るほどの曲作りの時間も確保できずに誘われるままにライブばかりしていたし、自分を食べさせるほどの収益が見込めないままフェイドアウトし、私はまた普通の週5フリーターに戻っていくより他に仕方なくなった。
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