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バンドマンに憧れて 第39話 アルバイト

私が「東京フリーターブリーダー」を作った頃は、日本がバブルを経過して、今日まで続くことになる緩やかな衰退の始まりの時期だったのだろうと思う。その頃、バンドやるならフリーター、という選択肢は当たり前の大定番だった。ことパンクスとしては、就職して正社員になって安全の位置からバンドをやるなんて考えはダサすぎる、という感覚があったことは間違いない。ところが、昨今のバンドやろうぜ、っていう若者の多くがとりあえず正社員で働きながら余暇でバンドやろう、となってるらしいのよ(まあ、むしろその方が賢い選択なのだけど)…。

私の場合、パンクス云々を抜きにしても、学生時代に影響を受けたバックパッカーカルチャーや、鉄割アルバトロスケットのアウトローな先輩方の影響が強く、就活など一切やらずにフリーターになってバンドをやる、という選択肢しか見えてなかった。その思想にははっきりと「金はなくても心は錦」という無根拠な信念がバックにあった。なぜなら、パンクスを含めた私が影響を受けたそのような先輩達の姿はスーツのサラリーマン達より、格段と活き活きと、そして何よりも自由に私の目には写っていたからだ。

そういう訳で私は好き好んで貧乏に飛び込んで行ったのである。それは所謂中流の家庭に生まれ、貧困とは縁がなかった東京育ちの坊ちゃん特有の余裕からだったのかもしれない。成功した芸人や有名になったミュージシャンの下積み生活面白エピソードなどに感化され、いつかは自分もそのような貧乏生活を耐え抜いて「そして成功するんだ」という道筋を想い描いていた。

アルバイトは学生時代に始まった。初めは高校1年の時で、今ではグローバル企業として君臨するマクドナルドであった。マックといえば、待遇面、処遇面を考えると、この社会の中でもなかなかハードな部類に入る労働である。ユニホームに身を包み、油と熱気に包まれた厨房で機械のようにあくせく動く。管理マネージャーなどはクチが悪いのが多く、機嫌が悪いと不条理に怒鳴られたりした。私はまだ世の中を知らなかったので「これが労働か…」というような気持ちで歯を食いしばり耐えた。部活は耐えても意味がなかったから辞めたが、バイトは耐えたらお金が貰えるので、私はなんとマックのバイトを高校卒業するまで続けたのである。

大学に入ってからはやたらと料理に興味を持ち始めていたので、キッチンでのバイトを探した。1年の時雇って貰ったイタ飯屋でのバイトは面白かった。パスタが簡単に作れることを知ったのもそうだが、何より2人の中国人労働者と一緒に働いたことが私の中では豊かな経験だった。しかしこの時学校生活とバイト生活をキツキツに詰め込んで、帰ったら寝るだけ、みたいなことを続けていたら肺炎になった。物心ついてから初めて本格的な入院だ。私はホントにやりたいことだと無理をして頑張る傾向があったが、身体が第一ということをその時知った。

沢山働いてバイト代でCDや古着を存分に買えたことはよかったが、働きすぎると今度は欲望も感性も鈍ってくることに気づいた。それで大学2年の時にピザハットで配達のバイトに就き、小遣い程度にしてガツガツ働くのを辞めた。その分古着など買うのも止めて、私の物欲はほぼ中古CDのみとなった。

その後、大学在学中には他にデパ地下の惣菜販売や、またぞろ洋食屋のキッチン、ファミレス(大型冷蔵庫に閉じ込められたので1日で辞めた)、日雇いの引越しや工事現場の派遣などなどいろいろやった。まだ在学中だったが、すでにこの時までに私は至るところでパワハラに値する言葉の暴力を体験しており(日本の労働現場にそういう体質が色濃いということは後で知ることになる)、そのような仕打ちに遭うたびに私はバイトを辞めた。そういうパワハラにも耐えて仕事を続けるのが社会人だ、というような歪んだ倫理観、風潮もあったけど、私はそのようなものには断固反対だったのだ。

大学を卒業し、いよいよ本格的にバンドを始めようという時も、私の中ではまずアルバイト生活から、というのは揺るぎなかった。しかし余りにも家族や親戚からの目が冷たかったので、私は(何でフリーターはこんなに蔑まれるのか?)ということに執拗な関心を持った。きっと私と同じように、何か夢を目指してフリーター生活に邁進してる若者はゴマンといるだろう。彼らも多かれ少なかれ社会的な、また高圧的な視線に苦しんだりしてるんじゃないか。そんなことを考えていたら、そういう連中を励ます歌を歌うしかないと思い「東京フリーターブリーダー」という曲、そしてアルバムを作るに至った。

私の人生の中でアルバイトというのは、かように大きな存在感を示す何かだった。大学を卒業してから30代の半ばまでは、自分に向いた仕事を探しながらいくつも勤務先を転々とした。キッチンの仕事は私を料理上手にしたし楽しかったが、上下関係がキツいのと、土日や夜を取られるので、バンドマン向きではなかった。そして何より椎間板ヘルニアになってしまったので2年ほどで辞めた。その後は会社の事務、弁当の営業販売(無茶苦茶な仕事内容だったので2日で辞めた)、照明器具の清掃、DHCのDM封入、工場の軽作業、倉庫でのピックアップ業などなど転々とした。

下北沢のとある製薬会社で事務の仕事をしてた時は最も稼ぎが少なく、月に12万円前後だった。私としてはこの金額で如何にサバイブするかというのがテーマとなり、食費を週に1000円で乗り切るという無謀なことを実践したり、風呂なしアパートの外で行水したり、どこに出かけるのにも原付を使ったり、ここでは書けないような小遣い稼ぎをしたり、それこそバックパッカーの貧乏旅行のような気持ちで日々を過ごしていた。その製薬会社では、昼になると希望者には格安で弁当が業者から届けられる仕組みで、皆がその弁当を食べる会議室のようなところへ、わざと時間をずらして遅れて行って誰もいなくなったところで下げられた弁当箱を片端から開けて残り物を集めては腹の足しにしたりしていた(コロッケとかハンバーグなど主菜が残ってることもあった!)。これは誰かに見られやしないかというスリルと、タダで得た食べ物の美味さとで忘れられない思い出である(もう一つ思い出したが、私を気に入ってくれたらしい高島さんという女性は、よくファミチキを買って2つ3つ残して私にくれたんだっけ…)。

しかし、この貧乏生活時代に原付の飲酒運転で骨折、入院というポカをやらかし、親に金を借りて事なきを得るという恥ずかしい事態が発生した時は、賃金アルバイトの無力感を味わった。フリーターでも頑張って節約生活してたら大好きな海外旅行にも行けるんじゃないか、と甘く考えていたが、いざフリーター生活を続けてみると貯金なんてちっともできそうになかった。

お金が貯まらない不安というのは20代も後半に近づくに連れて本格化していき、私は路頭に迷ってハローワークに通って就職活動をしてみたり、派遣社員をやってみたり、小さなCD輸入会社で初めて正社員になってみたりしていくことになるのだが、アルバイト時代の、比較的責任感も少なく、背負うものもさしてなく、後先何も考えていなかった当時の、割とお気楽な毎日のことはすごく懐かしく思い出すのである。

私が労働や、アルバイトについて執拗な関心を持ったために生まれた「東京フリーターブリーダー」という曲は、赤い疑惑でも飛び抜けてポップな調子の曲だが、私はこの曲がフロムAのCM曲として使われて大金を得られるのではないか、という妄想を半ば本気で考えていたのだった。が、それは当然実現しなかった。その代わり、この曲は1人歩きして、どこかの労働者のための社会運動系サウンドデモでかかったということを後に知ることとなり、それは私がレベルミュージックというカテゴリーに傾倒していくきっかけにもなったのである。
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