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ROAD to 小川町 第1話 しゅうくんとはるかちゃん

しゅうくんと出会ったのは、アレはいつだったか。地元西東京市の脱原発デモに声をかけられた時のことで、こと子が生生まれて半年くらいだったはずだから2017年初頭だろうか。

西東京市の脱原発デモを主催していたのは小熊さんで、友人の母である。地元で友人というと同級生だろうと思われそうだがそうではない。私が赤い疑惑で1番盛んに活動していた2005年前後に、よくライブを観に来てくれていたヤツで、ある時私に声をかけてくれた。
「長尾さん、田無なんですよね?オレも田無なんすよ。」
彼との出会いはそんな感じ。6つくらい歳は離れてたけどすぐ仲良くなって、その頃よく遊んでた絵描きのミノケンと3人で、その頃住んでた武蔵境でラップごっこをして遊んだりした。

そんな彼の母、小熊さんは、根っからの活動家で、彼女は倅から私のことを知り、赤い疑惑を知り、そして私がソロの弾き語りで原発反対の唄を歌っていることを知って声をかけてくれたのである。

その脱原発デモは西東京市の有志の人が中心になっていたが、新宿や渋谷や丸の内方面でやるような大規模な催しではなく、20人前後のかなり小規模なデモだった。西東京市内の公道でシュプレヒコールと行進を行い、小熊さんの趣向なのだろうか、毎回デモ後の懇談会が夕暮れの公園で行われ、その際に誰かが弾き語りをすることになっていた。その演者として白羽の矢が立ち、プロテストソングを気に入ってくださって嬉しい私は2つ返事で出演を快諾した。

小熊さんは毎回音響で手伝ってくれる若者が居て、当日も来る予定だから、と教えてくれて、アンプ等も彼がいつも持ってきてるとのことだったが、私も携帯アンプを持っていたのでアンプは持参することにした。

集合場所の市役所広場に向かうべく市役所入り口あたりを通りがかる時、全身タトゥーと長めのドレッドで、明らかに田無には珍しい風貌が向こうからやってきた。私は直感で小熊さんが言ってた、音響を手伝ってくれている若者というのは彼に違いない、と思い彼に声をかけたらビンゴだった。「しゅうです。よろしくね。」彼は印象的なほど柔和で丁重な挨拶をした。私はやはり気になるので音楽の話しを最初の頃に交わしたと思うが、しゅうくんが「ハードコア経由してレゲエに」というのを聞いて、同い年だし、もうそれ以上余計なことを話さなくてもいいと思った。これが私としゅう君との出会いで、後の私の人生に小さくない影響をもたらすことになる。

デモの後、西武柳沢の飲み屋で打ち上げがあり、私は産まれて数ヶ月だったこと子とピーさんと一緒に参加した。その席でしゅう君のパートナーはるかちゃんとも仲良くなった。2人とも数年前に田無に越してきて、まだ価値観を共有できるタイプの友人にあまり出会えてないので、と我々家族との出会いを非常に喜んでいるようだった。逆に私も地元が田無とはいえ、幼馴染みで未だに繋がってる友人もおらず、音楽関係ほか普段親しくしてる友人でも近所に住んでいるのは数えるばかりだったので近所に仲良くなれそうな2人と出会えて嬉しかった。

私は東京生まれ東京育ちであるが、荻窪の病院で生まれ、幼年期は武蔵小金井のマンションに住んでいた。幼稚園の年中だったか、父が田無駅から15分ほど歩いた宅地のマンションの1室を買ったので、それから大学を出るまで私は田無の住人となった。高校までは公立に通っており、その頃までは仲良くしていた友達がチラホラいたが、私立の高校に行くようになってから疎遠になってしまった。

中学時代にロックやファッションに開眼した私はしょっちゅう吉祥寺に通い、ハードコアパンクにハマった大学時代は足繁く西荻窪に通った。いわゆる中央線カルチャー、および中央線サブカルチャーにすっかり魅了され、地元の田無はイケてないダサい町、というふうに認識が更新されていった。地元の友人と疎遠になった背景にはそのような価値観の変遷があったかもしれない。

大学を出てパンクバンド赤い疑惑を始めるタイミングで私は実家を飛び出し、当時の憧れだった街、西荻窪に居を構え、新たな人生の扉を押し開いた。バンド活動は楽しかったが、目指していた商業的成功とは程遠い状態のまま月日は流れてゆき、私は当時付き合っていた彼女と同棲するために一旦武蔵境に居を移したが、その同棲が程なく破綻し、30を目前にして私は思い入れのない地元の街田無に戻ってきた。

母が亡くなり、姉と父が実家にいたが、父と2人きりの暮らしに辟易していた姉は、私が実家に戻るのと入れ替わりで実家を出ていった。それから父と私の2人暮らしが始まり、もう、私のような穀潰しに伴侶はできないのではないか、と半ばヤケクソな気持ちになっていた頃ピーさんと出会った。

それから1年程して私は彼女と結婚した。実家を離れ、近所に2DKのアパートを見つけて住み始めた。6畳、8畳、4畳半ほどのダイニングキッチンに風呂とトイレが別々にあって6万円。古いとはいえ、欄間や磨りガラス、窓の格子など、昔ながらの温かみを感じさせる細工が至るところにあって、私とピーさんは一目惚れ。これで6万でいいんですか、と訝しむほど我々はこの家が気に入ってしまった。

安さの理由は、ただただ大家さんの商売っ気の無さからくるものであることが後で分かった。家賃は向かいの大家さんに直接対面で支払う仕組みで、私達はすぐに大家さんと仲良くなり、庭のかなりの敷地を自由に使っていいからね、とのお墨付きをいただいたのである。

その頃には、私の中で田無ダサい、などという高慢な気持ちも失せていて、私が今こうして所帯を持って、ただ何となく生きていられるだけで文句はない、という塩梅になっていた。そしてそれは長女のこと子が生まれて、より強まり、何の変哲もない西武新宿線の郊外でこうして家族で住んでいる、ということに関しては一切の不満もなかったし、私が弾き語りでサザエさんの替え歌「今日も田無」を作る頃には、腐れ縁というのにも似た、いやそれよりももう少し前向きな地元への愛着を持つようになっていたのだ。

しゅうくんと田無で巡り会ったのはそんな時なのである。しゅうくんとはるかちゃんは赤子や幼児のお守りが抜群に上手で、こと子の面倒は驚くほど積極的にこなした。子育て奮闘中だった僕らに「時には2人で映画でも観に行ったら?こと子は私達に任せて」などと言ってくれたのである。

仲良くなったとはいえ、子供を預けて夫婦で遊びに行くなんていうことはやはり気が引けるし…、と我々はそんな2人の心遣いだけで感謝感激だよね、と確かめ合っていたが、ある時、保育園に預けられない日で私が仕事、ピーさんは参加したいワークショップがあって、という事態が発生した。2人で、しゅうくんとはるかちゃんに頼んでみる…?、とどうしようどうしようと悩んでいた丁度その時、しゅうくん達からの着信が入る、というミラクルが起こった。私はこうなったらと、2人の用件を聞く前にこちらのお願いを伝えたのである。そして不在時の子守りを快く引き受けてもらえたのだ。

この件があってからこれまで、結局我々は3、4回こと子を預かってもらった。こと子は優しい2人にすぐになついていたし、我々が2人のお家にお邪魔したり、2人が我が家に遊びに来たり、2人が借りていた農園の食べ尽くせないくらいの野菜達を分け合って消費したり、そのうちに関係性は家族のようになっていったのだった。

そして昨年(2019年)の秋頃だったか、しゅうくんが私に尋ねるのである。
「長尾くん、ヒーさんと友達なの?」
ヒーさんといえば、とあるレゲエバンドのギタリストである。数年前、私はヒーさんのギタープレイに惚れ込んで、当時赤い疑惑と並行してやっていた焚き火楽団というバンドにヒーさんを誘い、一時期一緒にスタジオに入っていた時期があった。ヒーさんは程なく2人目が産まれる、ということでバンドから離れてしまったのだが…
「今度ヒーさんの移住先でウチウチのパーティーやるから長尾くんも参加しない?」
としゅうくんが畳みかけてくる。ヒーさんが移住? まだよく分からないが、ヒーさんが東京からそこまで遠くない田舎に家を買ったらしく、そこでアンオフィシャルなイベントを企んでいるようだ。その田舎町というのが小川町といい、何とはるかちゃんの実家なのだそうだ。

私は田舎に憧れがあるし、音楽付きのホームパーティーなんて最高じゃん、と請け合った。しゅうくんとはるかちゃんは定期的に宇宙祭りというイベントを企画しているのだが、その日は番外編でお客さんは招かず、ヒーさんのバンドとしゅうくんの弾き語り、それに私の弾き語り、後は適当に、と情報はそれだけだった。(つづく)
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バンドマンに憧れて 第40話 男は寝るな

「東京フリーターブリーダー」制作前に原付きで飲酒居眠り運転の事故で右脚を骨折し、初の地方ツアーの予定を台無しにした話しを書いたが、実はアルバム制作期に私はそれとはまた別の交通事故を起こしている。アルバムのジャケットに写っているのは、当時のバイト先であった染色会社のばあちゃん社長だが、私が事故ったのはその会社で事務の仕事をしていた時期だ。

ヘルニアを発症して飲食の仕事を辞めてから、私は肉体労働を離れ、「事務」という職種をやるようになっていた。染色業務のお手伝いという募集を見て、私は事務ではなくクリエイティブ系の仕事に携われるかもしれないと思い、腰が心配だが応募したのだ。

面接で、すごく興味があるんですが、実は以前腰を痛めていて…、ということを話すと、実質会社の全てをしきっていたヒロシさん(社長の倅)は、実は事務も足りないんだけど事務で入らないか、と促してきた。作業の方はやはりかなりの肉体労働なので、腰に不安があるなら辞めといた方がいい、とのことだった。金に余裕などない私はとりあえず働けるならいいか、と妥協して事務職についた。

何とも不思議な職場だった。中井駅から神田川沿いに下落合方面に少し歩いたところにあったその染色会社は、トタンの波板で全面つぎはぎのように覆われた工場で、一見廃墟のようにも見えた。一階入り口にお客さん対応の応接間があり、その奥にヒロシさんの仕事場と、大きな製版台が、そして2階は1面で幟や旗のシルクプリントをする大きな作業場があった。

私は応接間で事務作業、配送、梱包、出荷などの任務にあたっていたが、いつも11時くらいに重役出社してくる社長の話し相手になることも大事な役割だった。当時社長は70代だったかと思うが、片脚を悪くしていていつも杖をついてびっこを引きながら歩いていた。不摂生という感じはしなかったが、それなりに肥っていて足腰に余計に負担がかかっているように見えたが、コロコロとした見た目が独特の愛嬌を讃えていた。

週刊誌を読みながら「北朝鮮とやっちまえばいいのよ」とたまに過激なことを下町口調で言ってみせることもあったが、若い時は仕事の切り盛りもしてたらしく、その経験値に裏付けられたこぼれ話達は面白かったし、私は何となくこのおばあちゃん社長のことが好きになった。

母がガンになった時、私は代替医療や民間療法のことをいろいろ調べていたが、母が前向きじゃなかったので大して実行に移せずにいたのだが、社長にビワの葉温灸のことを勧められ、私もその存在は知っていたのだが、何やかんや言い訳して躊躇していたら、「あんたがやってあげればいいだけでしょ」と叱られ、そうかと思い実行に移すと、母は意外にも受けいれてくれた。効果の程は神のみぞ知る、だが、温灸は苦しくないし気持ちがいいので母も拒まなかった。母が死んだ報せを社長にした時、社長は涙を流した。一従業員の母の死にそこまで同情してくれるなんて…。私は性別も年齢も越えた心の触れ合いを体験した気がした。

この染色会社でのバイト時代は、私が自分の人生をバンドでどうにかしよう、と最も強く考えていた時期だった。ライブのチラシをこまめに作って撒きまくったり、知人友人にこまめにライブのお知らせメールを送ったり、CDの流通や委託販売のやり取りやプロモーションなど、自分でできることを地道にこなし、曲作りや、詩作、フリースタイルの練習など、バンドに関することに没頭していた。この時期にとある先輩バンドマンに「長尾くん、男は寝ないで頑張るもんだ」という訓戒をいただいた。今ではバカバカしい根性論にしか思えないが、当時の私はその言葉に存外の影響を受けてしまった。その先輩のバンドが実際シーンの中でかなり目立っていたこともあったのかもしれない。とにかく、その時期、私はその言葉を過信して睡眠時間を削るようになった。

夜中遅くまでバンドに関連する活動をするようになった。3、4時間の睡眠が平均になり、朝は眠たかったが、目標に向かってガムシャラになる自分に幾分酔ってもいた。しかし、このガムシャラには落とし穴があった。日中、染色会社の事務でデスクワークをしていると必ず睡魔がやってきて、キーボードを打ちながら頻繁に船を漕ぐようになった。それだけならよかったが、この仕事には時々雑用の配達仕事があり、週に何度かは会社の車で浅草橋の問屋街に行ったり、所沢の縫製工場に行くことがあった。私はその運転中にも必ず睡魔に襲われるようになっていた。

当時の私が、長い人生のスケールを考えたり、想像したりする力を持ち合わせていれば、運転中睡魔に襲われることに自覚的になった時点で生活を改められたはずである。しかし、若気の至りで、私は睡眠を削る生活を改めなかった。そしてある日やらかしたのである。居眠り運転による玉突き事故。信号停止中の乗用車に後ろから追突し、その前に停まっていたゴミ収集車にも被害を与えてしまった。

大きな衝突音で目が覚めた時、車内は煙が立ち込めていて、かけていたメガネが真ん中から折れて足元に転がっていた。私は俄かに何が起こったのか自覚し始めた。すぐに煙がエアバッグの破裂によるものだと分かり心臓がバクバク鳴った。片側3車線の幹線道路での出来事で、私が焦って車から出ようとすると、先に降りていたゴミ回収のおじさんが「危ねえぞ!」と怒鳴った。3車線の最左列で玉突きしたので右手の2列は車がビュンビュンと通り過ぎていた。

しばらくして警察や救急車が集結。私と玉突きにあった乗用車の男性だけ救急車で運ばれた。私はエアバッグの衝撃で唇が切れて軽く血が出ただけであったが、念のため病院に行ったのだろうか。男性は軽いムチウチ症状を訴えていた。

病院の後は警察に行き、事故の検証やら何やらが始まった。私は起こしてしまったことの重大さに頭がボーっとしていた。警察は私の起こした事故が居眠り運転じゃなく、前方不注意によるもので、という風に、その方が処理が楽になるのか、そんな風な筋書きを作ってくれて、私はもう免許剥奪になるのかと思っていたが、救われたのだった。みすぼらしい姿になった会社の車のフロントの修理代、追突してしまった前の車の修理代(ゴミ回収車の方は大したキズじゃないので、と保証を求めなかった)、前の車の運転手のムチウチ治療代、それらはすべて保険で賄われたので、あの足の骨折事故に続き、私は保険の重大さを思い知った。

後日、前の車に乗っていた被害者の方のお見舞いに行かねばならなかったのだが、この時、社長が、ついていってやる、と申し出てくれた。私は、このような事態に対する経験値も皆無に等しかったし、お詫びのしようもない100%こちらに非のある事柄なので、どんな心づもりでお見舞いに行けばいいのか全く分からない状態だったので、この社長の申し出はホントに心強いことだった。

病室で「この度はウチの若いのが大変なご迷惑を…」という挨拶から始まり、当たり障りない世間話を社長がしてくれたおかげで、私は隣で小さくなっていればよかった。この顛末は実は「東京フリーターブリーダー」の歌詞カードの最後の見開きで長文で綴っているのだが、未だに、自分で読んでも泣けてしまう…。

居眠り運転で玉突き事故。あまりに愚かな過失なので、ガンセンターで入院中だった母にも、母の看病で気忙しかった父にもこのことは内密にした。母に、こんなみっともない倅のやらかしのせいで更なる心労を与えたくなかったし、実際バレなくてよかったと思っている。

その後、私は流石に改心し、人並みの睡眠を貪るようになった。バンドがやりたいなら、死んでは元も子もないのである。
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