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ROAD to 小川町 第2話 宇宙祭り

2019年11月某日、私たち家族としゅうくんはるかちゃん(以下サノ夫妻)は車で小川町に向かった。ヒーさんの移住した家でサノ夫妻が企画したイベント、宇宙祭りに参加するためである。

関越自動車道で1時間もしないうちに嵐山小川ICに着き、そこから下道で小川町市街に入っていく。何処が町のメインなのかも分からないが、何となしに道路脇に並ぶシャッターの降りた商店や、やってても古ぼけたような日用品屋などの眺めは、所謂地方の、過疎化した町の定番の光景で、こんなこと言うのは失礼だが、私が大好きな光景でもある。

(田舎に来たな、いい感じだな)と思いながら、さらにその風景の果てには、さほど高くはないが、美しい山並みが迫っている。私は何となくピーさんの実家と似たような景色であると感じた。ピーさんの実家は山形南部の広大な盆地であるが、ここはもっと規模の小さい盆地という感じである。20代のいつからか、山の見える土地に来ると安らぎを感じる自分に気がついていた。

商店の並ぶ町並みから外れたあたりで、「そこ右に入って」とはるかちゃんが後部座席から。我々ははるかちゃんの実家に着いた。ここでサノ夫妻は寝袋を調達したかったようだ。はるかちゃんのご両親が出てきて挨拶する。庭の瓶で飼われているメダカにこと子が注目していると、「少し持ってくか?」といってペットボトルにメダカを分けてくれた。

気を取り直して車に乗ってヒーさん宅を目指す。ヒーさんとかピーさんと紛らわしいが、ヒーさんは田舎暮らしを求めて小川町に移住したギタリストの友人で、ピーさんは私の奥さんである。

住所を辿って、家々が並ぶ宅地を抜けるとすぐに家と家との距離が離れ始め、畑地や森林、野生地が窓外を過ぎ行く。道は県道から左へ外れて山の方に入っていく。更に奥地感が増して期待に胸が膨らむ。遂に舗装道路が、轍の跡で幾分崩れた半舗装道路となり、緩やかな上り勾配で、既に両脇の視界は山、である。

進んで行くと右手に数軒の建物が並び、1番奥の1番大きな建物の前に数台の車が停まっている。ここだここだ!

車を降りるとヒーさんのバンドのメンバーやその仲間達が十数名、軒先やらそこここに散らばっている。私にとって馴染みの人も居れば知らない人もいる。プライベートパーティーなだけあって人数の規模は小ぢんまりしたものだ。

バケツで冷やされたビールの脇にカンパ箱があり、早速乾杯の声が上がる。建物を覗くと1階の北側は壁がボロボロで吹きっさらしの箇所もある。床は床板がなく、床下はコンクリの基礎もなく土が顔を出している。私は、(ここを改修して住むのかヒーさんは…)と驚きを隠せないが、同時にその、男の決意というやつにすっかり感心した。

「ここはお蚕小屋だったんだよ」と2階を案内してもらう。あり得ないような急勾配の木の階段を上がると、ベニヤで急ごしらえの床が貼ってあり、奥にドラムセット、ギターアンプ、ベースアンプが並んでいる。私はこれだけですっかり「ヤラれて」しまっていた。

さっき、ここへ来る車の中ではるかちゃんのお兄さんは小川町から池袋の職場へ通っている、ということを聞いた。通勤時間を少し我慢すれば今の仕事を続けながらこの辺に住めるのか…。私はヒーさん宅から眺める向かいの山の緑に吸い込まれそうにながらそんなことを考え出していた。

聞くところによると、ヒーさんはここを信じられないような廉価で買ったらしい。廉価なのかどうなのか、土地勘が働かないので分からないが、1千万円代の中古物件を探していた私からしたら、眼から鱗の金額だ。そして、何でも、家だけじゃなくて畑と田んぼ、それに山が2つも付いてきたのだという。バリューセットである。

参加者が持ち寄ったパンや惣菜やらが並んで、ボロボロの古民家パーティーは楽しく進行する。建物の西側にはヒーさんが解体で出した廃材がうず高く積まれ、脇に置いてあった無骨なドラム缶で焚き火が始まる。こんなに盛大な焚き火は東京で暮らしているならあり得ない。私は焚き火がとにかく好きで一時期焚き火楽団なるバンドやっていたほどである。

焚き火の周りでドラムサークルが始まり、私もジャンベかなんかを叩いていた。ドラムサークルというよりナイヤビンギである。向こうに座ってるピーさんはお腹に赤ちゃんがいるので酒を飲んでないはずだが、穏やかな、満ち足りたような表情をしている。長い付き合いで、その表情は今を、今この時をこの上なく楽しんでいる時の表情である。こと子は庭の水道から伸ばしてきたホースのノズルでドラム缶目がけて、プシュプシュとしぶきをかけ、楽しい、楽しいと言いながら遊んでいる。低山の谷間にこだまする太鼓のリズムと緑と焚火の中、私も幸せな気持ちに満たされていた。

思えば311以降、我々夫婦は原発事故を契機として、移住や、帰省で東京から地方に散らばっていった友人達を何人も訪ねた。必ずしも田舎に移った人ばかりではなかったが、中にはこのヒーさん宅に匹敵するような古民家や、山のそばに移り住んだ友人もあった。我々はそのたびに素敵な暮らしだねぇ、羨ましいねぇと言いながらその逗留を楽しんでいて、でもこんなとこ住んでみても仕事どうする?というのが私の悩めることだった。

原発の事故直後にはピーさんの移住ブームが高まっていて、私は移住を何度も持ちかけられたが、私は東京に友人が多く、東京がバンドの拠点でもあるし、今の仕事が好きだから続けたかったので何度も断ったりして気まずい空気が流れた。私も田舎暮らしや自給自足への憧れがあり、だからこそ私は東京の田舎をイメージして青梅や拝島、高尾、八王子など、自分にも土地勘のある場所を移住先としてイメージしていた。その辺なら、今月々払ってる家賃を20年くらい収めれば中古戸建てが買えそうに思えた。ところがピーさん的にはそれくらいだと移住というより引越しで、移住するならもう少し離れた地がよい、と控えめながらの主張があり、引越し案は暗礁に乗り上げていた。

そんな中、2019年の9月にピーさんの妊娠が発覚した。子どもは2人欲しいよね、というのは夫婦間の共通認識だったが、妊娠が発覚したことにより、いよいよ今後の住まい問題が俎上に上がってきた。私はこと子が小学校上がるくらいまでは焦らなくていいじゃん、というのんびりした考えだったが、母親としてのピーさんは少しでも心配のタネを減らしたい、という風だった。それで実際我々は、とりあえず買えるかもしれない金額のお家を内見してみようということで不動産情報を見始め、この小川町のヒー邸に来る前に田無の激安中古物件を一件内見したようなタイミングだったのだ。

そんなことをボウっと考えているととなりにいたしゅうくんが、いいよね〜、ここ、と言う。私は我に帰り、いやぁ、こんな場所最高だよね、東京まで通えるなら考えちゃうなぁ、と半分冗談、半分本心で答えた。するとしゅうくんが、ニヤっと笑って、
「実は今日のイベントは、長尾くんをハメるつもりだったんだ…」
と悪戯っぽいいつもの笑顔をよこした。私は(これはしゅうくんに1本取られたな)と悔しさと嬉しさが入り混じった妙な気持ちになった。
「長尾くん、前から移住したい、って話してたからさ、1度小川町に連れてきたいと思ってたんだよー」

焚火とナイヤビンギが終わると元養蚕小屋の2階でライブが始まった。ほとんどが出演者か、またはその連れ合い、という超プライベートコンサートで、私は弾き語りの際、酔っ払い過ぎて歌詞が飛んだり何度も演奏が止まりそうになってしまったが、温かい空気に包まれていて、演奏中に私の側に来て愛嬌を振りまいたこと子は大受けだった。翌日私は仕事があったので我々は帰路についたが祭り後の酒盛りは翌朝まで続いたらしい。(つづく)
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バンドマンに憧れて 第41話 アクセルとブレーキーの確執

アクセルとブレーキは表裏一体である。赤い疑惑のメンバー、アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーというステージネームを決める折、ブレーキーはアクセルの暴走を止める役割で、と冗談ぽく言っていたのは半分冗談ではなくて、当時のブレーキーは実際よくブレーキをかけていた。

ブレーキーがドラマーとして加わった時、それまでのドラマーにポンコツ感があったので、ブレーキーが初心者ながら安定感のあるビートを叩いた時、ヘタでもいいだろうパンクなんだからと考えていた私やクラッチは背筋が伸びたものである。ブレーキーは当初、赤い疑惑に自分が入って演奏が安定したんだ、と豪語して調子に乗っており、それは確かに間違ってはなかったのだが。

まだやりたいことや言いたいことが無尽蔵にあった若かりし私も、その頃は調子に乗ることが多々あったように思うが、ブレーキーはそこに意識的にか無意識的にかブレーキをかけるのであった。それがもちろん奏功したことも実際あったのだと思うが、ブレーキをかけられてよかったことばかりではない。むしろ1stアルバムが出てライブにも順調に誘われるようになり、忙しくなってきたこの時期は次第に様子がおかしくなっていった。

当時我々は西荻窪のリンキーディンクスタジオで週に1度、多い時は2度、必ずスタジオに入っていた。正味の話その頃はみんな時間にルーズで、大体私が1番最初に来てクラッチが来て、そして1番遅れてブレーキーが来るのだった。私も10分20分遅れることはよくあったのでメンバーが遅れてくることには寛容でいようと思っていたが、当時のブレーキーはスケールが違った。連絡なしで1時間、2時間と平気で遅れてくるのだった。

彼は加入当初は留年中の学生で、休学したり何やかんやモラトリアムを満喫していた。それで卒業してからも無職の期間がしばらくあり、そういうダラシない雰囲気で周りの連中からからかわれたり逆に評価されたりしていて、私もからかったり評価していたのだ。ただ、私の目標はバンドで食べていくことで、そうであるならばヘタウマパンクとは言ってもある程度真剣にやらねば、という矛盾するつんのめりな姿勢もあり、ブレーキーの遅刻問題が段々とストレスになっていった。

また彼は知り合いの紹介で葬儀系の派遣社員として働くようになるのだが、仕事をするようになってから、あからさまに疲弊し、練習にもダルそうに来ることなどが増えた。実際、彼の仕事は朝早くから始まり遅くまでかかる。仕事柄スーツを着ることが多い割に中身は肉体労働だったり、話しを聞いていても大変そうではあった。しかし、仕事が理由ではなく1、2時間遅れてきて、しかもゴメン、というより逆ギレ風な、不機嫌な顔で入ってくることなんかもあった(練習に来ないこともあった)。

それだけではないのだ。赤い疑惑の曲作りというのは私が作ったフレーズをスタジオで再現しながら2人に適当にベース、ドラムをつけてもらうのだが、3人とも音楽的な勘が鋭かった訳ではなく、しかもヘタウマなので、相当に時間のかかる作業だった。ベースのフレーズは私が提案することが多かったのだが、ブレーキーはそれを嫌がるのである。こう叩いて、と言っても素直になぞらずに必ずオリジナリティーを挟んで来ようとして、だけど素養があるわけじゃないから彼なりのフレーズが出来上がるまでにかなり時間がかかるのだ。

曲作りの中心である私はそういうことにイライラするのである。そしてオリジナリティーを追求するのはいいことなので、イライラを精神力で抑えてとにかく時間をかけて頑張っていた。これは要するに曲作りを進める私の力不足でもある訳だが、更に私がブレーキーに腹が立ったのは曲のダメ出しだった。

曲自体のダメ出しもあるし、イントロ、AメロからBメロへのつなぎ、終わり方、などなどいろいろなダメ出しがあった。私はダメ出しするなら代案を出せと迫ったが、具体案は出せないのである。

ブレーキーはバンドを始めた頃からよく言っていたが、「オレはバンドで食うとかピンと来ない」と。それはつまり彼が曲を生み出したりするタイプではないし、私のように成功への欲があまりない、ということでもあっただろう。だから代案を出せと言われてもそんなものはないのである。

そういったことが度重なり、私は違うドラマーだったらもっと上手くバンドが回るんじゃないか、とよく思っていた(クラッチはベースが下手だったが彼なしではバンドはやれないと思っていた…)。スタジオに入ってもストレスが溜まることが続いた。私はそれでも沓沢ブレーキーのことをどこかで好きだったし、尊重しようと思っていたのかもしれず、スタジオ内でブチ切れる、ということはなかった。

その代わりクラッチに改まって、自分の腹の内をブレーキーに伝え、改善してもらえないなら一緒にバンドやれないと言おうと思う、と相談した。クラッチは「そう思ってるならそうするしかないじゃん」と背中を押した。クラッチはいつも私の背中を押してくれる人なのだ。

いつぞやの夕刻、その日はスタジオではなく吉祥寺の井の頭公園に集まった。何で井の頭公園だったのか覚えていない。ただ話があるからとブレーキーに伝えて3人で集まったのだ。それで私が抱えているブレーキーへの不満を細かく冷静に伝えると、えっ、そうだったの? 気づかなかったよ、と言うので私は驚いてしまった。

私が彼に不満や怒りを抱えていたことを本人は大して気づいておらず気にもしてなかったらしく、そうだったのか…、と考え込む風だった。そして彼は素直に詫びて、バンドを続けたい、努力するよ、というのである。そう反応されると私もそれ以上は言えず、じゃあまた3人で頑張ろうか、ということになり、確かその日は伊勢屋で打ち上げたのだ。

実際それから後はスケールのデカい遅刻もなくなり、曲作りがスムーズになったわけではなかったが、それ以上衝突するようなことはなくなったのである。

元々私もブレーキーも強い捻くれ屋で、素直に物事を聞けなかったり、シニカルになったり、人と違うことをしようとしたり、その上マイペースという、似てる部分が沢山あった。似たもの同士の衝突と考えればそんなものだったような気もする。

思っていることは伝えないと伝わらない。恋愛や男女間の話のようでもあるが、男3人のバンドでだってそんなことがあった。むしろバンドと恋愛との共通点なのかもしれない。それくらいバンドってのは密な人間関係になり得るということなのだろう。

アクセルの意気地記 第28話 コロナ禍の私たち

2020年の3月上旬、長尾家は台湾への家族旅行を予定していた。ピーのお腹には次女が待機していて5月出産予定。そんな時期に、という感じであったが、私とピーで(今行かなかったらもう行く機会がしばらくないかも)という懸念が強まり、半ば強行しようとしていた。

ところが、1月から徐々に話頭に登っていたコロナウィルスの感染被害が2月中も世界で広がっていて、2月の下旬には台湾政府が緊急アナウンスメントを発表した。海外から台湾に入国する渡航者に対する要請等であったが、入国後の日々の行動記録や体温管理、健康管理の徹底が盛り込まれており、どうも観光を楽しめる状況ではなくなってきているようだった。まさかの事態ではあるが、我々は様々な不安材料を案じて旅行を断念する決断をした。

折角抑えた航空券のキャンセルに関して、我々は予想だにしない損失を被ることになったが育児と関係ないので割愛。旅行断念の直後、3/13には赤い疑惑のライブ予定があったが、主催者はライブ開催の可否で悩んでいる旨を知った。その頃にはコロナ被害は日本でも大分騒がれ出していて、人が密集するライブハウスは早い段階から警戒を求められていた。結局ライブは開催されたが、その時点で社会に不穏な、閉塞的な空気が流れ込んできているのを感じない訳にはいかなかった。

そのような最中、3月中旬から下旬にかけて長尾家は、埼玉県比企郡小川町という土地に、今年1月に内見してみつけたとても素敵な中古物件を、遂に購入契約しようとしていた。これは前年の冬から急激に持ち上がり、私とピーの前のめりな勢いで一気呵成に進められていた一大移住計画の成果なのであった。2人目の子が生まれてくることが事実として迫る中、手狭になるであろう現在の賃貸アパートから、いずれは引っ越さねばならぬ必然性は、特に子育てに私よりも時間を割くことになるであろうピーにとっては早急に解決したい焦燥感からくるものであった。

新しい住処を見つけたのはよかったが、コロナの進撃は勢いを増してきて、4月中旬に予定していたピーさんの里帰り計画が危ぶまれ出した。感染者数の増加を知って心配を深めた山形の義母が、「帰るなら早めに帰って来い!」と騒ぎ出して、心構えが整ってない我々は焦ったが、感染のリスクを考えると義母の言うことに異論を挟む余地はなさそうだった。私も、この未知の、眼に見えないウィルスの蔓延に恐れをなし、妻子の早めの里帰り計画は急ごしらえで進められ、4/4、私は2人を車で山形の実家に送り届けた。既に都内からの移動は傍目を気にしなければならない段階に突入しており、私も不安に苛まれた。

この数ヶ月の間、こと子が今まで以上に私に懐くようになり、ママ大好き、というのと合わせてトト大好き(私の呼称はトト、パパ、父ちゃんの3種からランダムに選ばれる)と頻繁に抱きついてくるようになっていたので、私は里帰りでしばらくお互いが会えなくなる事態にこと子が取り乱さないか心配だった。それで、急に繰り上がった里帰りの日が近づく数日前から、いついつからこと子はママとお姉ちゃん(姪っ子達)達の家に行くんだよ、と言い含めるように聞かせた。こと子は、うん、と言って、また従姉妹達と遊べる近い未来を悟り、喜びを隠さなかったが、同時に「パパは?」という質問も忘れないくらいに成長していた。

「パパは別々で東京にいるんだよ」と教えると、こと子は不満そうに「やだ!」というので意味が伝わったのだな、と思う反面狼狽えた。やでも何でもこの後そうせざるを得ない状況がやってくるのだ。こと子に説明しながら、このマイスイートハートともうすぐ別々に暮らさなければいけなくなる未来に現実感が肉付けされ、私も動揺した。

当初中旬に予定されてた里帰り日は4/4へと繰り上げられた。山形の実家に着くと、早速こと子は従姉妹達とそれは楽しそうにはしゃぎ出した。3姉妹の末っ子キッピはこと子と年が近いので、とりわけ仲良くしており私は姪達の存在が頼もしかった。川西の実家には大きいガレージがあり、東京ナンバーの車はガレージにかくまわれた。東京からの来客が近隣に知られると厄介なので、という配慮である。

その晩は家族3人で横並びに寝たが、翌日は午後出勤になっていたので早朝に帰途に就かねばならなかった。別れ際、こと子は平常で、ホントにこれから別れ別れになることを理解しているとは思えなかったが辛い空気になるよりよかった。私は車を飛ばして東京に戻った。

4/6から東京に緊急事態宣言が宣告され、町の景色が変わり始めた。私の職場も出勤人数を調整する、と言い始め、週5勤務から週3日、または週2日しか仕事に行かなくていいようになった。周囲は皆動揺していたが、私には引越しと新居のリフォームという重大行事が控えていたため、臨時の休日は片付けと荷造り、荷物の運搬、古いお風呂の解体などに当てられたため私としてはラッキーだった。

その間数日置きにピーさんと電話で話していたが、こと子は従姉妹達と楽しくやっていて大丈夫そうだ、とのことだった。電話の途中でこと子に代わると「今ねぇねと遊んでたよー」と言う。そして私に毎回「今新しいオイチ(お家)にいるの?」「古いオイチ(お家)にいるの?」と尋ねるのだった。こと子は帰省前に2、3度新居の方にも行っていたので、住む家が変わる、ということは理解しているようだった。

4/21には全ての荷物をアパートから運び出し、大家さんに挨拶をした。こと子の出産前に父との同居プロジェクトがあり、それが私と父との喧嘩で崩壊してまたこのアパートに戻るというドタバタ劇が勃発したため途中1週間ほど空白期間があったが、結婚後今まで約7年半の楽しい思い出が詰め込まれた我が家との別れは惜しかった。誰か知ってる人がこの後住んでくれればまた来れるのにね、とピーと冗談で話していた。それくらい愛着のあるアパートだった。

アパートを引き払い新居の浴室がリフォームできるまでの間、私は実家にパラサイトすることにした。父は晩酌の相手ができるので歓迎ムードだった。そして、里帰りから1ヶ月が経とうとする5/1、オヤジと近所の友人夫妻と酒を呑んで盛り上がっていた23時過ぎ、ピーさんから着信があった。こんな時間に? と訝しんで出ると受話器の向こうでは大号泣すること子の声が鳴り響いている。

どうやらホームシックになったらしく、「おうちに帰りたい」「パパと一緒に遊びたい」ということを嗚咽の合間にやっと絞り出すのが精いっぱいで、後はずっと泣いていた。私は「あと何日したら会えるから!」と励ましたかったが、具体的な約束ができる状況じゃないので「大丈夫だよ、こと子…」と、泣き声の合間に呟くことしか出来なかった。

電話の様子をすぐに察知した父と友人夫妻は会話をやめ、スマホを握って黙る私を心配そうに見つめ、父は酔いの流れに押されてもらい泣きしていた。数十分こと子の悲鳴にも思える泣き声を聞いて、とにかくこまめに電話をしようとピーと話して電話を切った。

ピーさん曰く「今日布団に入ってすぐ、〈トトと住みたい〉〈ここはネネたちの家だもん〉と言って堰を切ったように泣き出し」たのだそうだ。ここは楽しいけど自分のお家じゃない、ということをもうすぐ4歳になること子は、ふと思い出したように、幼いながらに感じ取ったのか、と考えると感心と切なさが入り混じった不思議な気持ちになった。

翌日、テレビ電話をするとこと子はいつものこと子に戻っていて、私と話して笑っていた。私は一安心し、ピーさんと、GW中、超極秘的に私が行ってもいいか、ということを協議したが、やはり今はやめておこう、という結論にいたった。山形では県外の人と接触した人は2週間外出禁止になるという厳しい制度が臨時に敷かれており、出産の立ち会いはおろか、出産で入院する病院の出入りも県外の人は禁止になっていた。

数日後、ピーさんがSNSに上げていたこと子の写真を見たら、1ヶ月前までのこと子には見られなかった大人びた表情をしてると思ってまた切なくなった。いやいや、ただの親バカの錯覚なのかもしれないのだが…。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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