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アクセルの育児記 第30話 新たな生活

5月に誕生した次女ふみと里帰り中のピーとこと子を、6月下旬に迎えに行った。山形から移住先の小川町に連れて帰る際に田無の実家に寄ってオヤジと佐野夫妻(移住のキーパーソンでこと子が懐いている)に顔見せした。私は長く寂しい遠距離生活から解放された急激な安堵からか、その日1日、運転しながら頭痛と倦怠感があり、実家で熱を測ると38度あった。

晩餐を共にして、泊まらずに小川町に帰る予定だったが、みんなにその熱じゃあ、と止められ、結局実家で一晩休んで翌日小川町に帰った。行きしなに、開店前のハードオフ朝市で、ベビーバス(ピーの実家からもらってくるのを忘れてしまい…)を発見し300円で購入。お昼はピーさんに食べさせたかった小川町農産物直売所の武蔵野うどんを食べた。

私はその後も4日ほど有給休暇を取っていたので、中途であった引越し段ボールの開梱作業と片付け作業にピーさんと取り組んで時間を割いた。週末には小川町移住の先輩である石原家と、小川町で知り合った吉原家を招いてパーティー。それぞれの子どもたちが子どもたちらしく大声で遊び、駆け回るのを見守りながら新たな日常が始まるのをじんわり感じていた。

新居は古ぼけた日本家屋で、お隣さんというのが東京とは異なり、少し離れている。坂を降りたところに2軒、橋を渡ったところに2軒。家のリフォームを始める際に私は単身でその4軒に菓子折りを持って挨拶をしていたが、家族が揃ったので改めて挨拶をしにいった。坂を降りた右手の立派な農家さんで初老のOさん夫妻、特に奥さんの方がこと子を可愛がってくれた。人見知りをほとんどしないこと子は、挨拶で来ただけなのに勝手に家にあがってしまうのであったがOさんは咎めずお菓子をくれた。

佐野夫妻とこの家のリフォームに励んでいた際しゅうくんが、「このお家さ、まさにトトロのお家だよね」と言ったが、確かに娘が姉妹である点、田舎のボロ屋である点、自然に囲まれている点、かなり一致度が高かった。とはいえメイと同じくらいの年齢であること子はメイより臆病で、東京生活では見かけない無数の虫たちに恐る恐る接している。これは母親であるピーの虫への反応にも影響してそうである。

佐野家とリフォームで泊まっていた際は縁側を開け放して蚊もハエも入りたい放題。流石に寝る時は辟易したがその開放感が心地よかった。しかしさすがにピーさんからは苦情が出て網戸の導入を検討。ムカデ出現の報告もしていたので事前に買っていた蚊帳の中で妻子は寝ることになり、私は蚊帳の外で寝る生活スタイルが出来上がった。

虫の多さに慣れるのには少し時間がかかりそうだが、この緑に囲まれた田舎暮らしの日々は我々夫妻に希望の光をもたらした。これからここで子育てができることを思うと明るい未来しか浮かばないのである。

思えば、こと子の子育てに奮闘しながらも、私はこの子に兄妹ができたらそれはまたどんなに愛らしく楽しいことになるだろうと想像したものだったが、現にこうしてふみが産まれ、ふみを可愛がること子を見ていると、ここでその生活ができることにまた大きな楽しみを感じている。

ところが、新宿までの通勤時間は私の推測であった1時間半強を軽く上回ってほぼ2時間であることが判明し、仕事が始まってからというもの、仕事のある日は非常に目まぐるしかった。朝7時前の電車に乗って仕事を終え急いで帰っても20時。それから晩飯を済ませ、2人の娘を風呂に入れ、皿洗いと風呂洗い(檜の風呂なのでその日のうちに排水して洗う)を済ませた頃にはもう0時近く。早く寝ないと起きられなくなってしまう。

そんな中、こと子はやっと再会した私とあんまり遊べてないことへの不満を抱き始めていた。

私がちょっとトイレに行こうと縁側へ回る時、ちょっと生ゴミを外に置いてあるバケツに移す時、ちょっと離れにある風呂を洗いに行く時、私の行動の気配をつぶさに読み取ってこと子がにわかにやってきたり、大きな声で私を呼び止めたりして
「パパどこ行くの?」
と鋭い調子で聞いてくるのだ。その度にすぐ戻るよ、とか、ちょっとトイレ行くだけだよ、とか適当に返事をするのだが、いささか過剰な反応に戸惑った。

他にも
「トト、今日寝てさあ、起きたらさあ休み?」
とか
「今日寝てさあ、起きたら仕事?」
といった具合に私の行動をいろいろ調査してくることがあったり、
「パパ仕事終わったらすぐ帰ってきてね」
なんてことも度々言われるようになったのだ。今までより私への執着が増したな、とちょっとよく考えてみたのだが、これは山形への里帰りのことが関連してるのではないか、と思えてきた。

というのも、あの時はお腹を膨らませたピーさんとこと子を山形の実家に送り届けて、私だけそそくさと東京に戻ってしまった。こと子が父ちゃんと会えなくて混乱するかと思って事前に何度か説明したけど、ちゃんと理解しているとは思えなかった。別れ際、こと子がさして寂しそうにしてなかったのは、よく分かってなかったことの証左である。

そしてこと子にとっては突然、しかも明けても暮れても父ちゃんと会えない状況が続いたのだ。だから家族が元通り一緒に過ごせるようにはなったが、コロナの経緯を理解していないこと子にとって、私はまだ「突然会えなくなっちゃう人」というイメージがまとわりついているのかも知れず、そう考えると、一見過剰に映ること子のかような私への執着も健気で愛おしく思えてくるのだった。

さて、そんな状況の中、私の勤める職場の雰囲気が悪化傾向にあった。コロナで自粛ムードに社会が覆われ始めるとそれが如実に感じられた。

私の勤務する会社は外国人のみを顧客対象にしたゲストハウス業で、コロナ禍による打撃をもろに喰らったため、経営陣が苛立ち、その煽りを社員が受ける、という構造は理解できないものではなかったのだが、ある日一線越えたパワハラを受け、私の忍耐に亀裂が生じた。2時間かけて通勤する、この仕事はその努力に値するほど私に価値のあるものだろうか?

新宿までの通勤を忍ぶつもりで始めた田舎生活だったが、新居の形容し難い居心地の良さと、通勤時間と勤務先の居心地の悪さとの乖離に整合性が見つけられず、私を大きな決断へと誘うのであった。よし、もうこの際今の仕事を辞めてどっぷり小川町の生活に身を委ねよう。幸い、私にしてはまともに正社員勤務を続けられたので新居のローンは組んだあとなのだ。

勤務先のブラックな体質や、勤務先がコロナ禍で逼塞した状況であることを知っていたピーさんはビックリしていたが、理解してくれて反対はされなかった。私は心のつかえが取れたようにまた晴れやかな気分になった。どうにかなるだろう。

家族と再会して不思議なことがあった。家族と別れてからの2、3ヶ月間、平時から弱い私の胃腸が最悪な状況になっていた。ほぼ毎日のように下痢を繰り返して何が原因か全然分からない。

いつもお世話になってる整体の友人に診てもらっても改善されず自ずと食べる量を減らしてなるべく消耗しないように努めた。断食を試したりいろいろ試したが元の木阿弥。

昔から精神的に落ち着かないと(特に旅行中とか)お腹を壊しやすいことは自認していたので、もしかすると(もはや自分の部屋もない)実家に居候したり、新居のリフォームをしたりなどの根なし生活のせいかな、と考えたりもしたが、そうじゃなくて家族と会えてないからかな、などと大袈裟な予測を立ててみたりした。

それが家族と再会して復活したのである。いやいや、こうも考えた。以前は溜め込まなかった仕事のストレスを最近は感じるようになっていて、その仕事を辞めることにしたその爽快感が影響したのかな、と。

実際仕事を辞めることを決めてからの心の軽さは形容し難いものだった。だからホントのところは分からない。だけど家族と一緒にいられること、っていうのは人によってはそれくらい大きな影響を持っているのかもしれない。そうだとしたら私の胃腸もどんだけナーバスなんだ、って恥ずかしくなるんだけども。
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バンドマンに憧れて 第42話 地方遠征編

初めてツアーに行ったのはいつだったろうか?
第29話で触れた通り、赤い疑惑の初めての地方遠征は私のつまらぬ交通事故のせいでポシャったのだったが、その後、ライブに頻繁に呼ばれるようになってからは次々とツアーのチャンスが舞い込んだ。

初めはやはりパンクやハードコア、エモコアなどの人脈をきっかけに遠征することが多かった。アメリカのパンクカルチャーに長いこと憧れていた私やクラッチの間では、アメリカのパンクバンドがバンに機材を詰め込んで全米各地をツアーして回る習慣に同様に憧れていた。日本の先輩バンドマン達もバンやワゴンにみんなで乗って、ワイワイと地方に行くのを知っていたので、オレ達も遂に、という感慨が一入だった。

この地方遠征というのは、私が今までバンドを続けてきた理由の上位を占める重要な楽しみになっていった。近距離の場合は日帰りになる時もあるが、長い時は1週間前後の工程になったこともあり、そんな旅になると、ねてもさめても、多くの時間をメンバーとずっと一緒に過ごすことになり、それは普通のサラリーマンをやってたら体験できないような、特別な時間の過ごし方であり、私の人生でもかけがえのないものである。

ツアーの段取りを組むのは私の役割りで、各地のライブハウスやバンドマンと主にメールで連絡を取り合った。大抵の場合、事前に明確なギャラ設定をすることはなかったが、嬉しかったのは我々のような駆け出しのバンドでも、地方に行くとチャージバックに加えて気持ち分の交通費を出してくれた。こっちからライブやらせてください、とお願いしてるのに交通費をある程度フォローしてくれる心意気はとても嬉しかった。

とはいえチャージバックと気持ちの交通費だけでは赤字となることが多く、その穴を埋めるために物販を張り切る必要があった。まだその頃はCDがある程度売れる時代だったのでCDにTシャツ、ステッカーにバッジなどをがっつり携えて回ることがお決まりだった。

赤い疑惑号はハイエースでもバンでもなく、私の父の愛車であるワゴン車を借りることで成り立っていた。DIYパンク系の人達がこだわりのアンプセットを車に詰め込んでいるのに憧れがなくもなかったが、我々の必要機材は少なく、ギターとベース、それにドラムのスネアとキックのみだったので全く支障はなかった。

よく行ったり、呼ばれたりした地方は名古屋、京都、静岡、長野で、どういう縁か、我々を面白がるアツいお客さんがいて、それらの地にはそれぞれ5回以上行っている。その他、南は鹿児島、北は北海道まで、いろんなところでライブをやらせてもらった。

車の運転は3人で変わりばんこにこなしたので心強かったが、最長距離で広島まで行ったのは3人いるとはいえシンドかった。ツアーの宿泊は初めのうち、ツアー先の友人宅に転がり込むことも多かったが、齢を重ねるうちに我々も招聘側もお互いに気を使うので、ビジネスホテルや漫画喫茶に泊まることが増えた。

ツアーに出始めた当初は私もイケイケだったので海外のパンクスのイメージで、車内泊がアツいんじゃないか、と思い提案したこともあったのだが、ブレーキーにブレーキかけられ断念。私は苦労話自慢がしたかっただけかもしれず、そのうちに車内泊など考えないようになった。

ただ、近年はクラッチとブレーキーがビジネスホテルに泊まるのに、貧乏性の私だけが漫画喫茶に泊まるという展開(バンド内格差…)も多々あり、つまり宿泊費まではギャラで賄えないので、そこは個人の自由となるのである。無理矢理みんなで合わせないのがいい気もしている。

ツアーは楽しい。本当に楽しい。東京以外の地でライブをやる時のスペシャル感がいつでも我々を上気させた。たまにお客さんが入らずに盛り上がらない夜もあるが、大抵は東京以上の好反応が返ってきた。そして楽しみにしてたお客さんや友人達は、「必ずまた来てくださいね」と言ってくれて固い握手を交わすのである。

リハ入りからライブまでの時間はご当地の渋そうな居酒屋を見つけて景気づけをするのが恒例になり、これがまた楽しい。商店街を歩いて楽しい。地元のバンドマンと交流して楽しい。アテンドの人がいる場合は街を案内してもらったり、美味しいものを教えてもらったり…。

お別れをする頃には地元の人たちとも大分仲良くなって、手を振って何だかしみじみとした気持ちになる。車で次の地に移動する際には、さっきまで一緒だったツアー先のあの人やこの人の話題で盛り上がるのだ。東京でライブをする際は油断して対バンの人との交流が疎かになることも多いが、地方に出た時は、たとえ自分たちにとってあまり好みじゃない音楽性だったりしても人との出会い、交流としてそんな時間も楽しめるのが不思議である。

それに東京と違って面白いのが、ジャンルの細分化があまりないことだ。人が少ない土地だと音楽ファンの絶対数が限定されるために、パンクイベントにパンクバンドだけが揃うみたいなことができないところも多い。バンドもお客さんも、どんな音楽でも構わない、っていうスタンスで集まっているシーンと出会ったりして、あのジャンルはダメ、このジャンルはダメ、と拘りの強かった頭の固い私にはいい刺激が沢山あった。やってるジャンルが全然違うのに音楽が好きだからという理由で仲良く集まっているコミュニティーはとても美しいものである。

我々の男だけのむさ苦しいツアーには、結構な頻度で腐れ縁みたいな友人がついてくることも多かった。気の合う友人が旅行についてくる、といった趣きで、特に写真を撮ったり、物販をやってくれたり、スタッフ的なことをしたりする訳でもなくついてくる。我々3人もそういう道連れが好きで、そんな男旅を楽しんでいた。ついてくる友人も東京以外のライブハウスでライブを観る事自体も新鮮で、それにご当地の美味いものが食えたりするから、ツアー終わりには「最高だった。また誘って!」なんて言って帰る。もちろん、最もライブ頻度が多かった時期には、カメラマンやビデオ撮影のスタッフ(プロというより友人)がついてくることもあったけど。

これだけ楽しい思いをするのだからそれなりに体力も消耗する。運転を変わりばんこにやってるうちに、運転から解放されて交替した瞬間に後部座席で眠りにつくこともしばしば。うっすら意識が戻ってくると、クラッチとブレーキーが随分興味深い話をしていることがある。興味深い、というより、私といる時は話さないような内容の話題だったりするのだ。それで、私は寝ぼけながら、寝たふりを続け、そんな2人の会話を聞いているのも好きだった。

ライブツアーといってもかように、半分は旅行の趣きで、終わった後に思い出すと一つ一つの思い出が輝きだす。いいライブができたかどうかも重要かもしれないが、結果的にはそれ以外の一つ一つが貴重な思い出になるのが私は好きなのかもしれない。海外旅行には何度か行っているが国内のいろんな土地を知ることができたのはライブツアーのおかげである。高速の窓から眺める日本は山と緑の国であることがよく分かったし、私は山と緑が好きだ、ということに意識的になったのもライブで国内を沢山走るようになったのがきっかけだった。今これを書いてる時点で次に地方ツアーに行ける予定はまだ決まっていない。だけど、もしまたチャンスがあるなら、そのチャンスが本当に楽しみで仕方ない。

ROAD to 小川町 第3話 小川町の中古戸建て

宇宙祭りの前後に我々夫婦は今後の住まいを探すべく2件の不動産内見に行った。1つは今住んでいる田無の不動産情報でみつけたもので、もう1つは武蔵砂川という田無より大分下ったエリアの家だった。前者は和室が5部屋もあり、田無なのに1,200万円の訳あり中古戸建て物件。後者は中古戸建てだが比較的新しめで2,000万円強の価格設定。

田無の物件は何が訳ありかというと、公道に面してない奥まった物件で再建築が不可であること、また、売主管理の物件で売主が管理を怠っているので中はリフォームも掃除もされてない、ということを事前に聞かされていた。私は仕事柄多少リフォームについての知識があったし、何ならDIYで家を直すのもやぶさかでない、と考えていたので見てみる価値があると思っていた。

ところが、不動産屋に案内されたその家に入ると、中の状態は確かに、それも予想した以上に酷く、まず入った時点でジメジメとした空気。そしてそこら中に無数に散らばっているネズミの糞。私はこういうところも、仕事柄多少免疫があるので平気だったが、同行したピーさんは既に顔を青くしていた。先に見ていた間取り図に載っていた庭も、庭と呼べる程の面積もなく、陽当たりも微妙で、すぐに1mあるかないかでブロック塀に閉ざされ、隣家と接する窮屈さは、正に東京の住宅地のそれであり、安いとはいえ落胆するような気持ちになった。

この黴臭いボロ屋の内見の後に見た小川町のヒーさんの家の価格は、その半分にも満たなかったので、私はかなり動揺せざるを得なかった。そして、ヒーさん宅を見た後に行った2軒目の武蔵砂川の中古物件も、ただ外装と内装の見た目が綺麗なだけで、ほとんどピンと来なかった。

そこは、東京郊外でよく見かける所謂建て売り分譲タイプの安っぽい造りの家で、私もピーさんも石膏ボードにクロス張り仕上げのそういう家に魅力を感じていなかった。敷地がほとんどコンクリートに覆われていて、管理は楽かもしれないが無味無臭、と言おうか、何ともつまらない印象を受けただけで終わった。

車での送迎と丁寧な接客で迎えてくれた不動産屋さんは感じのいい方だったが、検討します、と我々は便宜上伝えたものの、そこを買う可能性がゼロであることは明白だった。もちろん、その判断の背景に小川町で見たヒーさんの家のことがチラついたことも拭いようがなかった。

家族が出来て引越しを考えている人にとっては当然問題視することかと思うが、田舎は仕事の選択肢が少なく、東京で働くにしても通勤が不便。だが家賃が圧倒的に安く、自然もあるし子育てには最適。都心部はその反対で、その夫婦の価値観によって都心部からどのくらいの距離で、どのくらいの価格なら妥協できるか、という普遍的な問題に私達も頭を悩ませてきた。それで私はというと、東京に未練があったので、当然のように東京西部の田舎に目星をつけていたのだ。その辺なら私でも何とか払える金額の中古戸建て情報が溢れている。

しかしヒーさんの住む小川町は埼玉県であり、はっきり言って死角たった。同じ埼玉でも、入間、飯能あたりまでは田無と同じ西武線沿線として視野に入れていたし、東京にも通えそうだと思っていたが、小川町なんて場所は聞いたこともなく未知の領域だった。しかし未知とはいえ東京に通えそうで、地価に関しても私が見据えていた郊外よりまた1ランク安そうだったのだ。

武蔵砂川の物件を見た後、私達は当然のように、しかしまた半ば冗談混じりに、小川町の不動産情報をネットで検索してみた。1,000万円代の中古戸建て情報に混ざって1,000万円以下の物件も散見される。するとその中に明らかに他の物件より古く、造りも古民家風で、庭を含む敷地の割合大きな中古戸建て情報が一件見つかった。それはつまり、古い中古戸建ての中でも我々が好まない石膏ボード&クロス仕上げでなく、そのスタイルが流行るその前の時代の物件なのだった。売り出し価格も690万円と破格だ。

部屋は全て和室で、8畳間、6畳間、6畳間、3畳間に板張りの台所。離れに浴室と物置きがある。畳敷きの和室の状態も酷くないが、風呂場の写真だけはボロっちい感じがしてピーさんの反応が気になった。が、リンクを送ると、「玄関もかわいいね」と割りと好意的な反応が返ってきた。言われて玄関の写真を改めて見ると、確かに玄関ドアの上に嵌め殺しの飾り窓があって可愛らしい。

それからしばらく小川町や、小川町周辺の物件情報を見てみたがその物件より惹かれる物件情報は見当たらず、チャンスがあれば内見してみたいよね、という結論が夫婦の間で取り交わされた。ちょうどその頃、確か宇宙祭りの翌月の12月だったと思うが、ヒーさんから、1月にウチで新年会やるから都合合えば是非、とのお誘いが入った。私達は、またあのお家に行けるのか、と喜び、さらにその折に例の物件の内見も行けたらいいよね、と勝手に盛り上がった。

2020年、年明けの未明は、毎年恒例の御岳山初日の出登山でご来光を拝んだ。振り返れば厄年だった2019年の前半は酷い歯痛に悩まされ、笑えない交通事故に巻き込まれ、その他、赤裸々な私でも書くに憚られる様な悲劇が続いた。気にしてなかったが厄年であることに気づき、4月になって慌てて御嶽神社に厄払いに行った。幸いその後は不運の連鎖は止まり、9月にピーさんの2人目の妊娠が分かった。私達は山頂の(その名も長尾平という)眺望スポットで新たな生命誕生の無事を新年の太陽に拝んだ。

1月某日、ヒーさん宅での新年会という名のお泊まり会に、寝袋持参で参加した。5、6名の男手が揃うので、皆んなでヒーさんが買った元養蚕古民家の外溝を掘る作業をした。家の裏側の山の斜面からくる湿気を抑えるための土木作業で、なかなかの力仕事だ。本職が植木屋さんや大工さんもいたので、非力な私は足手まといのようで情けなかった。まだ各所の扉や窓に傷んだところも多く、夜は寒くて何度も起きてしまった。

翌日、私はヒーさんに相談して不動産の内見をしたいので、と車を出してもらうことにした。我々長尾家が小川町移住仲間になるかもしれない、ということでヒーさんは快く我々家族を、不動産屋さんと待ち合わせの現地に連れて行ってくれた。もちろん宇宙祭りの主催者であるサノ夫妻も興味本位でついてきた。

物件のそばのミニストップで待ち合わせた不動産屋さんSさんは不動産の内見に、我々家族以外の子ども2人を含むヒーさん一家、それにヒッピー風情のサノ夫妻がわらわらと車から降りてきてさぞ驚いたことであろう。しかし、そのことを気にする風もなく丁寧に我々を案内してくれた。

空は快晴で、現地に着くとたまげた。家の敷地と同じかそれより広いくらいの庭が我々を出迎えた。敷地のすぐ裏は竹林で自然との距離感がワイルド。さらに庭の一角にはビニールハウスが残っており、ここの所有者が畑をやってたことをうかがわせた。まさに私がイメージする田舎暮らしに持ってこいの庭である。

興奮しながらSさんが開錠した(南京錠で管理されていた…)家へと入っていく。玄関もかなり広いし、何より家を支える柱をはじめ各所が古い割に造りがかなりしっかりしていた。ネットで見た玄関の飾り窓の細工は麻柄で、(これは…)と私は引き続き興奮が抑えられない。

畳や障子は日灼けしてしまっており、押し入れ内にもハクビシンが入って暴れた足跡が残ってたり、台所もそれなりに傷んでいるのだ。ただ、このレベルならDIYで直せるだろうとも思えた。問題の風呂場は母屋と1.5mほど距離をあけた離れに存在し、Sさんも、ここは直さないとちょっと厳しいかもしれません、と言いながら脱衣場の床板がフカフカに緩んでいるのを示してくれた。

私やピーさんがじっくり内見してる間、こと子とタネとイト(ヒーさんの娘と息子)は襖で仕切られただけの和室をグルグル走り回ってはしゃいでいて、その光景は私の心をホンワカ温かい気持ちにさせた。私はこの時点で既にここに住めたらどんなに面白いことになるだろう、と考え始めていた。ただ気になったのは子どもが大きくなった時、この古民家風の造りだと子ども部屋を確保できないだろうこと、それに川越街道のバイパスが近くを通っていて交通音がかなり気になったことだった。が、私の心臓は高鳴っていた。(つづく)

アクセルの意気地記 第29話 次女の誕生

4月下旬に次女出産のため里帰り中のピーさんから夜中電話があって、こと子がホームシックで泣き止まない、ということがあり、それから少し頻繁に連絡を取るようにしていたのだが(そのことを文章に書いたため周囲の友人達からもいろいろ心配されていたのだが)、その日以降こと子のホームシックは収まって(親戚の話せる叔母からは小さい子なんてそんなもんよ、と諌められた…)安心した私は、引き続き休みごとに小川町の新居に赴いて家のリフォームや片付けに専念していた。

この新居のリフォーム大作戦の目標は、最低でも家族が戻ってくるまでに、ボロいタイル張りの風呂を生まれ変わらせ、赤ちゃんも問題なく入浴できるようにするというもので、その苦労についても書きたいが子育てには関係ないので割愛。とにかく、降って湧いたコロナによる仕事の休みをフルに活用して、私は実家居候仮暮らしの田無と、新居のある小川町を、県外移動自粛要請を無視して往ったり来たりしていた。

しかし我が子に会えないのもなかなかツラいもので、GW中に山形にお忍びで私が行く計画も持ち上がったりもしたが、コロナ感染の社会的経過が思わしくないので断念。その時点で、出産の際、山形の入院先の病院には県内在住の、妊婦のご両親しか入れない、という辛い事実を確認していて、私はかなり凹んでいた。これももちろんコロナ感染防止のやむを得ない災いによるものだった。

では、私は一体いつ家族と会えるのだろう、と不安になってピーさんに聞いてみたものの彼女も答えに窮している。義父と電話で話した際に、「退院するタイミングで1度来ればいいさー」と、義父は励ますように言ってくれたので、しばらくそのつもりでいたのだが、また後になってピーさんから、退院後も厳しそうな雰囲気だから、もうこうなったら1ヶ月検診が終わって小川町に帰れるタイミングまで再会は辛抱しよう、と提案された。私は絶望的な気持ちになったが、会えない訳ではないしグッと堪える以外ないのか、と諦めた。

とはいえ新居の風呂のリフォームは、解体DIYと職人さんのプロの仕事を組み合わせ、素人の私が采配を振るうという、やや無謀な作戦だったので、実際は山形に行く暇が惜しいのも拭えない事実だった。が、そういう事情で、とにかく動き回っていたので、寂しさに押し潰されることもなく日々が過ぎたのも事実だった。

出産予定日の5月23日よりだいぶ早い5月14日の夜、ピーさんから、おしるしがきたかも、という報せが入った。こと子の時は予定日より出産が遅れたことを思い出し、今回も何となくそんな感じだと想定してたので少し焦った。そしてその4日後の5月18日に遂に入院となった。

前回こと子の時は、この時点で私は車を飛ばして山形に向かっていたのだが、今回は手をこまねいて東京にいる他にどうしようもない。私はどこか現実的で、まあ、大丈夫だろうと思い、その日もグッスリ眠ってしまった。翌19日の午前10時ころ、ピーさんが産まれたての次女を抱いて、やつれた笑顔を向けた写メを送ってくれた。私は仕事中だったが、嬉しくてジワっと泣いた。第一話に書いたが、長女が産まれたときは陣痛が始まってから実に40時間の闘いだったので、今回はそれよりも大分スムーズ。とはいえ、出産時のあの鬼気迫る空気を夫である私が共有せずにこの時を迎えてしまい、何となく申し訳ない気持ちにさえなった。が、とにかく嬉しかったのだ。

それから1ヶ月検診の日が決まり、私が迎えに行ける日も決まった。しかし私の風呂リフォームプロジェクトはまだ道半ばで、それが家族の帰還に間に合うのか、心配のタネはまだまだ残っている。ピーさんには、何とか間に合うよ、とは伝えていたが実はかなり不安とドキドキしていた。

必死だった私は、左官屋さんにお願いしていた土間コンクリートの一部をスケジュールの都合上DIYでチャレンジしたり、新居に遊びに来てくれてウチの庭をいじってくれる予定だった植木屋さんの友人に、庭いじりではなく解体をやってもらったり、想定外のことがいろいろ舞い込んで、瞬間的に敗北感やら焦燥感やらに苛まれることもあった。コンクリートを初めて練って打った時はいつも手伝ってくれるしゅうくんも不在で、1人でセメント臭い殺風景な風呂場で、セメント粉にまみれ、汗だくになりながら泣きそうになっていた。

しかし努力の甲斐あって、家族を迎えに行く2日前にちゃんとお湯が出て入浴できる状態にまで持ち込むことができた。6月中旬には実家の居候ライフを畳んで本格的に新居で暮らし始めていたのだが、家族を迎えに行く前日に、出来上がったこだわりの檜風呂の試浴を決行。お湯を入れるとにわかに露わになる檜の薫りに酔いしれた。

6月24日、いよいよ家族を迎えに山形へと発つ。生憎の雨模様で、曇天の暗い高速をひた走る。曇天でも、これからあと数時間もすれば愛する妻子と、そして産まれたての新生児に会えるのだ、と思うと胸が高なった。その高なりは福島から山形へと抜ける長いトンネルを出た瞬間に最高潮へ達した。それまでの宿雨が嘘のように晴れ渡る空が私を迎えたのだった。

これは神の祝福か、そんなことを考えているとピーさんから、家着く時LINEして、こと子を外に出させるから、とメッセージが届く。私はここ数日こと子との再会の感動のシーンをいろいろに想像していた。こと子が走ってきて私に飛びつく。私は走ってきたこと子を、こと子の名を呼び、抱き上げる…。もう一度イメージして、「OK」と返信した。

妻の実家に着いて車を降りると、ピーに促されるように表に出てきたこと子が、想定通り私に向かって走ってきた。そして私は、やはり想定どおり、「ことこ〜」と叫んで彼女を抱き上げた。抱き上げた瞬間に涙が出てきた。こぼれはしないが視界が霞む。その様子を携帯で撮影しているピーさんがいる。横にはもらい泣きを隠そうと努力している(風に見えた)義母がいる。こと子の背中をさすりながら、そうだ私はまだ見ぬふみ(次女の名前である)にも会いにきたのだ、と思い出し、ピーさんからふみを受け取った。

軽い、軽い、軽いなぁ。1ヶ月経ったとはいえくしゃくしゃな、まだ寝ることとおっぱいを吸うことしかできない赤ん坊が腕の中で蠢いている。こと子が、ふみを抱っこする私の足元に絡みついて離れなかった。

車の荷を下ろして寛いだ。久しぶりのこと子が凄い成長していたらどうしよう、と思っていたが、中身はそこまで変わってなさそうで若干拍子抜けした。2人きりになった時、こと子が言うのだった。
「お父さんの携帯でつよくなれる見たい…」。
何のことか分からないが、狼狽しつつも、よし、と気合いを入れ、youtubeで「つよくなれる」と検索してみた。その画面を覗き込んだこと子が「これこれ」と指をさす。なんだかよく分からないけど、久しぶりに会ったのに父ちゃんそのものよりも携帯かよ、と思わずにいられなかった。

後になってそれが鬼滅の刃というアニメの主題歌で、従姉妹の影響でこと子がハマっていた事実をピーさんから聞かされた。それから今日に至るまで、私としては生理的に受け付けないその曲を、こと子がやや恥じらいながら、謎のアイドル仕草とともに熱唱するのを、毎日聴かされているのだった。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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