バンドマンに憧れて 第43話 東京ファミリーストーリー
母の癌が見つかったと聞いてから咄嗟に、私は父との距離を縮めなければならない、という義務感に駆られた。それは母を看病するにあたって最重要なことだと思われたからだ。
父は子どもをほったらかしにするタイプではなかったと思うが、ご多分に漏れず時代の傾向で、積極的に育児に携わる感じでもなかった。休日に遊んでもらった記憶はある程度残っているが、特別に私が懐いていたかというと怪しい。
高校生くらいから私も思春期で父とはほとんど話さなくなった。父は定時制の教師をしていたので夜ご飯はいつも母と姉の3人で食べた。そのことに不満を感じたことはなかったが父と疎遠になるには好条件だった。
大学に行く時、進路で母と揉めた時、父は立場上、母の側に立って私を諫めた。文句を言わずに将来のことを考えて大学に行け、という体裁で、私が大学なんか行ってもしょうがない、というのを制した。普段まったく子育てに介入してこなかったのにこんな時だけ、と私は腹が立った。
そんな調子で結局大学に行くことになってからも父に対する不信感は拭えなかった。父の当時の態度は、大学卒業後、私がバンドマンを目指してフリーターになろうとすることに反対だった。それも、心の底から反対というよりは、私の暴走(フリーターでバンドマンを目指すこと)を思い留まらせたい母にただ同調していただけかもしれなかったが、当然私の父への不信感は高まった。
父は真面目なサラリーマンタイプでもなく、基本的に剽軽で、人前に立つことに躊躇わず、場合によっては集団を纏めるような能力のある人間だった。クラシックやラテンギターを愛しており、私が物心つく頃から父のギターの音色と歌声は我が家に鳴り響いていた。ただ、子供の頃の私にそれらの音楽のよさは分からなかったし、ロックに目覚めてからはむしろ距離を感じざるを得なかった。父のロックへの不理解もまたそれに拍車をかけた。
私が両親の反対を押し退けて家を出てフリーターになった時、私は両親に対して、いつか見てろよ、という気持ちでいっぱいだった。それなりのミュージシャンになって見返してやろう、と思い、なるべく私から連絡を取らないようにさえしていたのだ。
母が私を心配して時々連絡をよこすのが通例化した頃に父から母の癌に関する通達があったのだ。私にとってはあまりにも不意打ちで、母の治療や看病に専心したい、とすぐに思ったものの、それならば避けていた父ともっと意思疎通ができるようにならなければそれも全うできないだろうと感じたのだった。
私は積極的に父と酒を飲んだり話したりするように心掛けた。その行為は功を奏して父の人物像はやはり剽軽で基本的にヒューマニストであるということが分かった。また同じ時期に父が過去に書いた半生記のような文章を読んだ。父が田舎から上京し、大学で金のない寮生活を送っていたことがユーモアたっぷりに書かれているのだが、それが実に面白く、またその人間性が実はフリーターをして貧乏を楽しんでいた自分と大して変わらないように感じ、父に対するエンパシーのような感情をその頃から抱くようになった。
母の癌闘病が続く中、それをテーマにした曲を作った。「東京ファミリーストーリー」というタイトルで、母が癌になって苦悩する家族のことを書いた。これは「東京フリーターブリーダー」という字面に合わせて軽く韻を踏んだもので、1stから続く2ndアルバムのタイトルとして面白いだろうと思ったのである。
この「東京ファミリーストーリー」というフレーズが着想されてから、家族との接触が今までより、よりエモーショナルに迫り、私自身もその逃れられない人間関係を誤魔化さずに正面から受け止めようと努力した。ロックバンドで成功してやる、と思いながらもスムーズに前進しないバンドの現状と、バンドが成功しようが失敗しようがどうしようもなく付き纏う家族との関係や距離感を見つめ続けた。
努力の甲斐あって、確実に私と父との距離感は狭まったが、健闘虚しく母は亡くなってしまった。私も、姉も、父も、痩せ細り、衰弱していく母を頑張って看病し続けたが、亡くなった時は母が苦しみから解放された、という一点で安堵したものだった。
その後、私はどうしても「東京ファミリーストーリー」というアルバムを豪華なものにしたいと思い、父との共演を収めるというアイディアが生まれた。丁度その頃、私はレゲエ、ヒップホップ熱が一旦落ち着き、ワールドミュージックやラテンの魅力に引き込まれていく時期だった。私が昔家で聞いていた父親のギターや歌の良さを、時を経て理解するようになっていたのだ。
ソンブレロを被り、チャロを身につけてメキシコのボレロを弾き語る父は、ロックに不理解なオヤジではなく尊敬に値するミュージシャンに変わった。私は「東京の家族」というラテン調の曲を作り、父のレキントギターソロとコーラスを重ねて録音した。そしてアルバム後半で「まだまだ生きていくんだ」というポジティブなアコースティック曲を作り、父のパートを作ってこれも歌ってもらった。極め付けに「オレとオヤジ」という曲を作りアルバムの最後に収録した。
ラテンソングに理解を示した倅の変化に調子をよくした父は、たまに父の知人の集まりの余興などで披露するボレロの伴奏を私に依頼するようになった。これは生前の母がやらされていた役目で(母も消極的ギタリストだった…)、いい大人の集まりなので数万円のギャラが父に渡されているようだった。私も1回のステージで小遣い1万円もらったりしたのだが、普段必死に集客してギャラが数千円なんてことがザラにあるインディーバンドマンにとっては軽い衝撃だった。父の伴奏でステージに上がる時は私もソンブレロを被らされ、メキシコの派手な布を肩から下げた。このバカらしくもエモーショナルな親子共演は、ロックに憧れていた私にとって切望していたものではなかったが、結果的に代え難い美しい思い出となった。
母が癌を患い亡くなっていく過程で私は家族という存在について深く考えるようになった。バンドで売れることだけが目標だった自分の人生に別の光を見つけたのかもしれなかった。それまで、子どもを持つことなど一切考えたことがなかったのに、母の死は私に親子というものへの前向きな興味を抱かせたようだった。
自分の子どもができて、ハイハイして歩くようになる。私のように運動音痴で目の前で無様にこけるかもしれない…。そんなことを想像しただけで私は何かワクワクするものを感じた。私もいつか子どもを持つ日が来るのだろうか。いやいや是非自分の家族というものを持ってみたいな。
フリーターでお金も貯められず見すぼらしい風呂なしアパート生活を送っていた私は、そんなことを朧げに考えるようになっていたのだった。ちなみに2ndアルバム「東京ファミリーストーリー」は1000枚を売り切って再プレスはしなかったので廃盤となってしまった。
父は子どもをほったらかしにするタイプではなかったと思うが、ご多分に漏れず時代の傾向で、積極的に育児に携わる感じでもなかった。休日に遊んでもらった記憶はある程度残っているが、特別に私が懐いていたかというと怪しい。
高校生くらいから私も思春期で父とはほとんど話さなくなった。父は定時制の教師をしていたので夜ご飯はいつも母と姉の3人で食べた。そのことに不満を感じたことはなかったが父と疎遠になるには好条件だった。
大学に行く時、進路で母と揉めた時、父は立場上、母の側に立って私を諫めた。文句を言わずに将来のことを考えて大学に行け、という体裁で、私が大学なんか行ってもしょうがない、というのを制した。普段まったく子育てに介入してこなかったのにこんな時だけ、と私は腹が立った。
そんな調子で結局大学に行くことになってからも父に対する不信感は拭えなかった。父の当時の態度は、大学卒業後、私がバンドマンを目指してフリーターになろうとすることに反対だった。それも、心の底から反対というよりは、私の暴走(フリーターでバンドマンを目指すこと)を思い留まらせたい母にただ同調していただけかもしれなかったが、当然私の父への不信感は高まった。
父は真面目なサラリーマンタイプでもなく、基本的に剽軽で、人前に立つことに躊躇わず、場合によっては集団を纏めるような能力のある人間だった。クラシックやラテンギターを愛しており、私が物心つく頃から父のギターの音色と歌声は我が家に鳴り響いていた。ただ、子供の頃の私にそれらの音楽のよさは分からなかったし、ロックに目覚めてからはむしろ距離を感じざるを得なかった。父のロックへの不理解もまたそれに拍車をかけた。
私が両親の反対を押し退けて家を出てフリーターになった時、私は両親に対して、いつか見てろよ、という気持ちでいっぱいだった。それなりのミュージシャンになって見返してやろう、と思い、なるべく私から連絡を取らないようにさえしていたのだ。
母が私を心配して時々連絡をよこすのが通例化した頃に父から母の癌に関する通達があったのだ。私にとってはあまりにも不意打ちで、母の治療や看病に専心したい、とすぐに思ったものの、それならば避けていた父ともっと意思疎通ができるようにならなければそれも全うできないだろうと感じたのだった。
私は積極的に父と酒を飲んだり話したりするように心掛けた。その行為は功を奏して父の人物像はやはり剽軽で基本的にヒューマニストであるということが分かった。また同じ時期に父が過去に書いた半生記のような文章を読んだ。父が田舎から上京し、大学で金のない寮生活を送っていたことがユーモアたっぷりに書かれているのだが、それが実に面白く、またその人間性が実はフリーターをして貧乏を楽しんでいた自分と大して変わらないように感じ、父に対するエンパシーのような感情をその頃から抱くようになった。
母の癌闘病が続く中、それをテーマにした曲を作った。「東京ファミリーストーリー」というタイトルで、母が癌になって苦悩する家族のことを書いた。これは「東京フリーターブリーダー」という字面に合わせて軽く韻を踏んだもので、1stから続く2ndアルバムのタイトルとして面白いだろうと思ったのである。
この「東京ファミリーストーリー」というフレーズが着想されてから、家族との接触が今までより、よりエモーショナルに迫り、私自身もその逃れられない人間関係を誤魔化さずに正面から受け止めようと努力した。ロックバンドで成功してやる、と思いながらもスムーズに前進しないバンドの現状と、バンドが成功しようが失敗しようがどうしようもなく付き纏う家族との関係や距離感を見つめ続けた。
努力の甲斐あって、確実に私と父との距離感は狭まったが、健闘虚しく母は亡くなってしまった。私も、姉も、父も、痩せ細り、衰弱していく母を頑張って看病し続けたが、亡くなった時は母が苦しみから解放された、という一点で安堵したものだった。
その後、私はどうしても「東京ファミリーストーリー」というアルバムを豪華なものにしたいと思い、父との共演を収めるというアイディアが生まれた。丁度その頃、私はレゲエ、ヒップホップ熱が一旦落ち着き、ワールドミュージックやラテンの魅力に引き込まれていく時期だった。私が昔家で聞いていた父親のギターや歌の良さを、時を経て理解するようになっていたのだ。
ソンブレロを被り、チャロを身につけてメキシコのボレロを弾き語る父は、ロックに不理解なオヤジではなく尊敬に値するミュージシャンに変わった。私は「東京の家族」というラテン調の曲を作り、父のレキントギターソロとコーラスを重ねて録音した。そしてアルバム後半で「まだまだ生きていくんだ」というポジティブなアコースティック曲を作り、父のパートを作ってこれも歌ってもらった。極め付けに「オレとオヤジ」という曲を作りアルバムの最後に収録した。
ラテンソングに理解を示した倅の変化に調子をよくした父は、たまに父の知人の集まりの余興などで披露するボレロの伴奏を私に依頼するようになった。これは生前の母がやらされていた役目で(母も消極的ギタリストだった…)、いい大人の集まりなので数万円のギャラが父に渡されているようだった。私も1回のステージで小遣い1万円もらったりしたのだが、普段必死に集客してギャラが数千円なんてことがザラにあるインディーバンドマンにとっては軽い衝撃だった。父の伴奏でステージに上がる時は私もソンブレロを被らされ、メキシコの派手な布を肩から下げた。このバカらしくもエモーショナルな親子共演は、ロックに憧れていた私にとって切望していたものではなかったが、結果的に代え難い美しい思い出となった。
母が癌を患い亡くなっていく過程で私は家族という存在について深く考えるようになった。バンドで売れることだけが目標だった自分の人生に別の光を見つけたのかもしれなかった。それまで、子どもを持つことなど一切考えたことがなかったのに、母の死は私に親子というものへの前向きな興味を抱かせたようだった。
自分の子どもができて、ハイハイして歩くようになる。私のように運動音痴で目の前で無様にこけるかもしれない…。そんなことを想像しただけで私は何かワクワクするものを感じた。私もいつか子どもを持つ日が来るのだろうか。いやいや是非自分の家族というものを持ってみたいな。
フリーターでお金も貯められず見すぼらしい風呂なしアパート生活を送っていた私は、そんなことを朧げに考えるようになっていたのだった。ちなみに2ndアルバム「東京ファミリーストーリー」は1000枚を売り切って再プレスはしなかったので廃盤となってしまった。
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