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アクセルの育児記 第32話 ある夜


父親にとって赤ん坊というのは、未知で取り扱いの容易ならざるものである。私も物言わぬ赤ちゃんに、大抵のママがやるように、赤子目線になり、赤子言葉を弄しバブバブやるのは得意ではない。いや、これもイメージばかり先行してバカらしくなってしまうが、実際に子どもができて我が子相手にバブバブするのはバカらしいことではなかった。

私も実際に子をあやしてるうちにバブバブ的な言動が少しずつ身についてきた。というのもこちらがバブモードに入って赤ちゃんに接すると、普通の男性の低いトーンで接するよりも赤ちゃんの反応が良いような気がするのである。

今夜はもつ煮を作ろうという話になり、仕事から帰ってきた私は料理をピーさんに任せて、ふみの子守り役に就く。

ふみが小川町の新居にやってきた頃はオムツも頻繁に変えねばならず、何かというと泣いてむずかる状態で、あやし疲れたピーさんからふみ受け取って抱っこで誤魔化す業務は骨が折れた。ところが一月ほど前からふみの他者認識能力が俄然高まり、私も、こと子も母以外のよく見る人として認識して顔を見て笑うようになった。

こうなると子守も随分楽になり、私のバブバブモードも自然とやれてくるのである。もつが煮えるまで私は、揺らしたり、高い高いしたり、ふみちゃんマンぶーん(仰向けになり膝を曲げて、手と膝でふみをスーパーマンのように支えて持ち上げ、仰向けのまま背中でゴロゴロ揺らしてふみが飛んでいるようにする)をやったりして鳴き出さないように頑張っていた。

しかし、いつかふみの機嫌はもたなくなり、鼓膜を刺激する地獄泣きが始まってしまった。もつ煮はもう少しかかりそうである。

あらら、と思っていると、こと子がちょっとトトー、と言っている。振り向いてみると、さっきから読んでいたと思しきドラえもんの漫画のあるページを開いている。このドラえもんの本はイングリッシュコミックと銘打ってあり、英語版の特殊なもので、日本語訳も小さく書いてあるが、こと子はまだ漢字は読めないし、ひらがなも、文章になってくるといささかダメなのであるから(その代わりひらがな自体はかるたを好材料に驚くべき速さで覚えた)実際は絵を追っているだけなのである。

それでも絵を追ってるだけでなかなか楽しいらしく、時々読んでいる。この間は中華屋でAKBなんとかの漫画を読んでいた。

ちょっとトトー、と言ったこと子は私が振り返ったことに気づいて続けて、これ…、変態じゃーん、というのである。指していること子の指を辿ると、のび太がしずかちゃんのスカートを(不本意ながら身体が勝手に動いて)めくってしまってるコマなのである。

こと子は、以前もドラえもんのこの号のこのシーンを持ってきてオレに見せてくれたことがあった。しずかちゃんがシャワー浴びてるシーンのコマをねえねえと指差してきたこともあるくらいで、そういうエロチックな、生物の根本みたいな感覚をトレンディーに感じだしたのかもしれなかった。

ねえ、これ(ただの)変態じゃーん、と言っていること子の眼は、のび太のことを酷く軽蔑しながらもニンマリと、のび太く〜んいけないんだ〜、とでと言わんばかりに、絵で描けそうなくらいだらしなく笑っているのである。その不敵な笑みはのび太に対する好意すら感じさせるのである。

私はツボに入ってしまい、ついつい吹き出してしまった。すると、こと子も調子づいて、肩をわざとらしくヒクヒク震わせながら、(ねえ、父ちゃん、これ、のび太、変態w)とでもいう風にいやらしく笑うので、またそれが可笑しくて2人でバカみたいになって笑っていると、地獄泣きしていたふみがそれで泣き止んだ。

泣き止んだかと思うとパッと急に明るい表情が顔に浮かんで、私とこと子の絶えない笑いの共鳴につららてついに、ヘッ、へへへー、と笑った。私は腹が捩れそうになりながらも、笑いというものは特別に伝達力があるもんなんだ、という考えてみれば当たり前のようなことを不思議に気づきなおした。

そうやって誤魔化してるうちにもつ煮ができて晩ご飯となった。いつも食事の間はふみをバウンサー(赤ちゃんを座らせてユラユラ揺らせる器具)にくくりつけてみんなの顔が見えるようにしている。いくら赤ちゃんとはいえ、人の子、家族の顔が見えているか見えていないかだけでも随分機嫌が変わるものである。

家族の顔とはいえ、分けても母ちゃんの顔は格別の感がある。オッパイをくれる人、と言えばそれまでなのか、いやいや、母親は偉大なのだ。例えば、私がふみを抱いてあやしてる間にピーさんが私のそばを通り過ぎるとする。するとどうでしょう、ふみの瞳はキラリと煌き優しい笑顔になってピーの顔を追いかけているのである。まるで聖母マリアかブッダ、はたまた敬虔な信者が、崇拝する宗教指導者を目にした時のごとく。この時の表情は文句なく可愛いのだが、脇役にされた私は若干寂しい。

私が東京の仕事を辞めて小川町の植木屋で働くようになってから夕飯は必ず家族皆で食べられるようになり、うまくやれば夕飯前に風呂まで済ませてゆったり食事を摂れるようになった。ゆったりという余裕があると家族の団らんは充実味を増す。

夕飯が終わった後は私は皿を洗うかはたまた子守りをするか。ふみがまたぐずり出したので私はふみを抱っこして先ほど同様に話しかけたり、縦に抱いたりいろいろ試す。

しかしどれだけ頑張ってもずっと父親の腕の中で大人しくしてくれることはないのである。ふみがぐずり出し泣き始めると、今度は横からこと子が歌い出した。

だいじょーぶ、だいじょーぶ、だいじょーぶ、と少し起伏をつけて音頭調に声を出している。彼女なりにふみをあやしているのである。よく聞いていると、だいじょーぶ、だいじょーぶ、ながおアクセル、だいじょーぶ、と私の芸名を挟み込んでいる。

何それ、と私が聞くと、父ちゃんやってたよね、こんな風に、と言っている。ん、そうか、この間やった赤い疑惑配信ライブでのお囃子のことを言っているのだな、と気がついた。先日のライブはピーさんが家族で観たと言っていた。意外とふみがノリノリで、という嬉しい感想を聞いたが、こと子もちゃんと観ていたのか、お囃子は印象に残ったようだ。

ながおアクセル、じゃなくて、アクセルながおね、と嬉しさを隠しながら注文すると、だいじょーぶ、だいじょーぶ、アクセルながおー、だいじょーぶ…

20年ほど前、バンドマンとしての芸名をつけるということを私は使命として課し、思い悩んだ挙げ句アクセルという響きを思いついた。これはガンズのアクセル・ローズからのインスピレーションだった。私はガンズの曲などほとんど知らなかったし興味もなかったのだが、アクセル・ローズのロック界における、ややもすると馬鹿にされそうなダサかっこよさを感じていて、普段から実際はローテンションでボソボソと喋り、ひ弱非力を自覚していた私がロックスターを意識するに際し、アクセルという名前をアクセル・ローズから引っ張ってきたのだ。ステージ上ではアクセル全開な自分に変身したい、という願いが込められている。メンバーがクラッチとブレーキーなのは後付けであって、スリーピースでアクセル、クラッチ、ブレーキーだったら完璧だろう、と考えていた。阿呆である。

20そこそこの若造がふざけてつけた芸名を、20年後に4歳の娘に面白がられて、私の感激は一入だった。ピーが横目で笑っていたが、私は嬉しさを気づかれないように、こと子と一緒になって、泣いてるふみに向かってだいじょーぶ、だいじょーぶと囃し始めるのであった。
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バンドマンに憧れて 第44話 赤い疑惑のスタジオワーク

私がバンドに夢中になったきっかけは脳裏に湧いてくるメロディーをそのままバンドで表現したら自分は才能を開花できる、という中学生当時の野放図な直感からだった。その直感が正しかったとは考えづらいが、バンドをやって成功してやろう、というような野心はそもそもそんなところから始まっていたのだ。

ところが、その脳裏に浮かぶメロディーやら音楽を、いざ声にしたり、演奏で再現したり、ということは一筋縄じゃない、ということを実際バンドを組んで痛感した。頭ではこんなに素晴らしい名曲のようなものが流れているのに、バンドで演奏してみたら全然イメージしていたものにならない。はっきり言って全然イケテナイ。

赤い疑惑はクラッチもブレーキーも初心者のようなものだったし、私の脳内イメージの再現力も自惚れていたものとは程遠く、なもんだから常に曲作りというのは難解な作業だった。

スタジオに私が考えたフレーズを持っていき、ひたすらセッションを始める。クラッチは器用にベースをつける能力がなかったので私が、こんな感じで弾いて、というのを指の位置で教えたりする。まさか楽譜など無縁の世界なので自分たちが弾いてる曲のコードも把握していない。

だんだん、何度もスタジオに入り私のギターとクラッチのベースが合ってきたかな〜、となってきてもブレーキーはリズム付けに難儀している。私がこんな感じで叩いて、とドラムを叩いてみせたり、口で表現したりしてみるが、今度は、ブレーキーはそんな私の提案に簡単に納得しない。

ブレーキーは自分で考えたリズムやフレーズをいかに私のアイディアに組み込んでいくかが重要だったらしく、それで私はイライラしたりしていたのだが、自分のアイディアを完全に再現してほしいとも実は思っていなかったので、割と気長に私とブレーキーの妥協しあえる仕上がりが完成するのを待った。

ようやく3人でフレーズが演奏できるようになってくると、今度は私が鼻歌メロディーをそれに乗せて録音してみる。そのスタジオ音源を聴きながら仕事中や通勤の間なんかにどんな詩がこのメロディーにハマるか、ということを考え続ける。そのうちようやく、こんな詞でどうだろう、というのができて実際スタジオで歌ってみる。

私がどんな詩を歌おうが、クラッチとブレーキーは無頓着である。ただ、私はメンバー3人全員が歌ってるバンドはかっこいいだろう、という謎のポリシーがあったので、2人に沢山コーラスをお願いし、彼らもそれを面白がっていた。初めのうち、楽器を演奏しながら歌うのは困難な試みの一つだった。特にクラッチは難儀していて、ライブで歌えるようになるまで常に時間がかかった(しかし段々とできるようになっていったのだから大したもんである…)。

私達はさらにそれぞれのフレーズを曲に落とし込むのが下手だった。私がいろんなフレーズを提案するのはいいが、フレーズとフレーズの展開が下手で1曲になるまでにえらい時間がかかった。それでもボツにせずに頑張っていると、結果的に曲が長くなっていった。

初期はハードコアパンクの影響を意識していたので短い曲もあったが、演奏が少しまともになってくると段々と曲が長くなっていき、展開がプログレッシブになっていく傾向にあった。そうしてできた曲は良し悪しは分からないながら、自分たちでは納得してしまったので肯定していくしかなかった。

そんなこんなで1曲作るのに数ヶ月かかることはザラだった。バンドで食っていこうなどという夢を掲げていた私にとって、その現状は矛盾であり苛立ちの種でもあった。成功してるバンドはどんどん新しい曲を作って、アルバム作って、ツアーして、というのが当たり前だと思っていたからだ。それなのに自分達のバンドは全然できてない。バイトは思ったよりしんどいし、金は全然溜まらないし、思い描いていたバンド成功劇は全く具現しそうもなかった。

それでもオレは頑張るんだ。訳の分からない使命感のようなものを背負い、新たな気持ちでスタジオに向かう。曲が思ったようにできない、進まない、凹む。たまに曲が完成して、これは名曲に違いない、などと思い上がって自己肯定感が取り戻される。そんなサイクルをひたすら繰り返していた。

我々が結成当初から、数年前メンバーの所在がバラバラになるまで、10年以上もの間、スタジオ練習といえば西荻の線路沿いにあるリンキーディンクスタジオのDスタだった。私が1人暮らしを始めたのが西荻だったということもあるが、ここは他のスタジオより料金が安く、特にDスタは3人入ればギュウギュウなのだが、1時間1000円ちょいで練習ができた。

有名な系列店の中には、バンドコンテストのポスターがやたら目立つように掲示されていて、ビジュアル系な店員がハキハキと働き、いかにもスターダムにのし上がるのはキミだ! と言わんばかりのイキフンを漂わせるようなスタジオも少なくなかった。それに引き換えリンキーディンク西荻はオラオラした感じが一切なく、いなたく、我々には居心地がよかった。

何年も使っているうちに店長のSさんとも親しくなり、いろいろ融通をきかせてくれるようなこともあった。Sさんはマニアな人で1階のカウンター前に設置されたモニターでいつも古いロックのDVDなんかをかけていて、ブリブリでスタジオ入りした私はメンバーが来るまでその映像をニヤニヤ観るのが好きだった。

ともあれ赤い疑惑のほとんどの曲はここのDスタで出来上がった。クラッチと私が至近距離で向かい合い、ブレーキーは奥に設置されたドラムセットの脇ギリギリにマイクを置いてコーラスを入れた。

2ndの東京ファミリーストーリーを完成させて以降、私の曲造りはシンプルを心がけるようになった。自分が心地よく踊れないと楽しくない。私の音楽の趣味はアフリカや南米の音楽に傾倒していき、意外な展開や唐突なリズムの追求ではなく、非8ビートのようなグルーヴをどうやってバンドに取り入れるかということに野心的になった。

その代わりコードの進行は単純に繰り返すことが増えていった。クラッチやブレーキーの演奏力は上がって、フレーズを合わせるのは早くなっていったが、私の歌詞が長くなって結局曲が長くなるのは変わらなかった。

いつしか時は流れクラッチが移住を決めて以降、我々は西荻リンキーディンクスタジオで集まることがなくなった。20代の頃は必ず週に1度、多い時は2度、スタジオに入り顔を合わせていたが、バンドが売れることはなく、それぞれの生活ができ始め、集まりは月に1度またはライブの前に1度、というようにシフトしていかざるを得なかった。

私の脳裏に流れるメロディーや曲を、バンドで再現させる力は、クラッチとブレーキーともがき苦しんでいた時代より若干上がったような気がするが、昔のように次々と新曲を作って披露していかねば、という脅迫感もなくなってしまった。

時々ふと、あの時のように他のことは何も考えずに3人で時間をかけてセッションしながらまた曲作りができたらな、などとセンチメンタルになることもある。逆にあの時じゃなきゃ、あんな風に不器用にセッションを繰り返しでもしないと、初期のような奇抜な曲たちも完成しなかったと思う。何かの拍子に昔の曲を演奏する時、よくぞこんな曲を作ったもんだ、と不思議になるのである。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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