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バンドマンに憧れて 第47話 初就職と挫折、屋台とパソコンスクール

フリーター卒業を称する混迷のインド旅行から身体を壊し、這う這うの体で帰国した私は肺炎にかかって即入院という惨めな状況に陥った。飲酒運転で居眠りをし、原付で大怪我をした時以来の入院。またしても情けない現実であった。

退院してすぐにハローワークに通い、正社員になるための就職活動、というものに生まれて始めて取り組んだ。親から授かった大卒の有効性をフリーター生活で失っていた私に適合しうるような仕事は多くはないだろうことを予想していたが、果たして、前向きな気持ちで望めそうな仕事は少なかった。薄給は覚悟の上だったが、中でも幾分興味のあった印刷業界で、とある印刷会社の作業員のクチにありついた。

自転車でも行こうと思えば行ける程度の距離。割と近所の印刷会社だった。家族経営の小規模事業で、看板やサイン、家電製品向けエンボスシールなどの工業的な印刷がメインで、私が興味のあった紙媒体の印刷とはかけ離れていた。しかし、私にはとにかく「就職をする」という目的の方が大きく、やけくそな気持ちもあった。

しかし、3ヶ月の試用期間の間に私は(ここでずっと働くなんて地獄の沙汰だ…)と気づいてしまっていた。精神修養の瞑想でもたらされた敬虔な気持ちは瓦解しはじめていた。

年配の社長は気性が荒く、売り上げが思わしくないことを毎日朝礼で訓示し、作業員を威圧するのが日常だった。何故か、この会社では「トヨタ生産方式」というワードを崇高な規範のように唱えていたが、私はその感じがただただ気持ち悪く、感心を示すことができなかった。

狭く小暗い印刷工房の中で、インクまみれになりながら大きな機会をひたすら動かす作業が続く。商業用印刷なので、重いパネルや重量のある物体を階下から次々と運び上げるような肉体労働も少なくなかった。休憩所は驚くほど狭く重く息苦しく、昼などは4名ほどの作業員が小さな机で頭を寄せて、黙々と仕出し弁当を食い、世間話しさえほとんど飛びかわない。私の頭の中で、毎日「就職とは…」という問いかけが隠れようとしなかった。勤務時間の間が漆黒だった。

印刷会社での仕事に幻滅を感じていることはすぐに当時付き合っていた女性に悟られ、私は不甲斐ない気持ちに苛まれた。とはいえ、愛する人のために、という美しい目標よりも自分が壊れていくことが恐ろしく、私は結局試用期間でその会社を辞める決意をしていた。

その間、その会社のあった駅の付近で、夜になると時々メロンパンの移動販売車が営業しているのを興味深く見ていた。過去に、ベトナムサンドイッチ屋台を東京でやったら流行るんじゃないか、と夢想していたことがあったことも思い出し、こんなフーテンみたいなしのぎでメシ食っていけたらいいな、と甘い妄想が始まった。そして遂に、私はメロンパン屋のおじさんにある時話しかけ、気さくに対応してくれたおじさんに突っ込んで、メロンパン移動販売の仕事について具体的に聞いてみた。すると「興味あるの?」と言って説明を始めるのだった。

分かったことは、このメロンパン屋台はいわゆるフランチャイズと呼ばれるビジネスで、加盟料を払えば大元の会社からキッチンカーが支給され、さらに材料も大元から仕入れるのである。開業の苦労をしない代わりに先行投資で始める商売なのである。おじさんは、興味あればここに連絡してみて、と一葉の名刺を手渡すのだった。

しかし、その名刺はどうも不穏な雰囲気が漂っていた。社会経験の乏しい当時の私にも何となくそう感じさせる造りなのである。メロンパン屋台の会社という雰囲気は見あたらす、取締役の名前とその会社の事業が書いてある。私は訝しんだが、話しを聞くのはタダだろうと、勢いで電話をかけてみた。

後日、その取締役とファミレスで面接することとなった。想像していた通り、その取締役はカタギではなさそうなオーラをまとっていた。強面全開という方向でもないのだが、何か引っかかる雰囲気が滲み出ていた。取締役は、どうして今回この仕事に興味を持ったのか、という質問をしてきたので、私は同棲中の彼女と結婚しようと思っていることや、普通の会社員は自分には向いてないと思っている、というようなことをバカ正直に返事したのだが、それに対し、取締役は「分かりますよ、私が独立したのも家族を養っていくためでしたから」と私の動機に理解を示すのだった。

ひねくれ者の私はその対応がどうも胡散臭く思えて、何となく構えてしまった。この人は私にただ話を合わせてきてるのではないだろうか…。私が毎度大苦戦を繰り返してきた「仕事の面接」という儀式で、こんなに自然に私の発言に理解を示されたことはなかった。これは加盟料を払わせるための罠なのでは…。

その後取締役と話したことは、はっきり覚えてないのだが、200万円ほどの加盟料に対して、そこまでの大金を持ってない、と正直に言うと、最低50万円でも始められる、というようなオプションを提示されたことだ。結局、やるつもりならまた連絡します、という流れで退散し、私はメロンパン屋さんは忘れることにした。

諦めの悪い私は、次に当時大好きだった今川焼き屋を経営するのはどうだろう、という甘い妄想を膨らませた。尊敬する深沢七郎が小説家の傍ら、気まぐれに今川焼き屋をやっていたらしい、というエピソードも大いに関係していたかもしれない。そしてインターネットで今川焼き屋のリサーチをしていると、馴染みのある西武線沿線のとある駅の付近で営業している今川焼き屋さんが、開業支援というのをやっている、という情報にぶつかった。

そしてメロンパン屋と同じように面接しましょう、という流れになり、やはりファミレスで今川焼き屋のおじさんと向かい合うことになった。今川焼き屋のおじさんの話もメロンパン屋さんと同じような内容だったので、私は二の足を踏むことになった。

印刷屋の使用期間が終わる頃、彼女に理解を求め、いきなり知らない会社の正社員になるのはハードルが高いので、とりあえず、派遣社員というものをやってみる、と訴え、本気度をアピールするつもりも兼ね、貯金をはたいてパソコンスクールに通い、興味のあったwebプログラミング養成講座なるものに挑んだ。下心で、イラストレーターやフォトショップをもっとちゃんと覚えたい、とも思っていたのだが、webプログラマーになるためにそれらの基礎講座も含まれていたので私は敬虔な気持ちでhtmlやらCSSやらのお勉強を始めたのであった。つづく
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ROAD to 小川町 第8話 コロナ禍突入どうなるマイホーム

愛する妻子が、東京でのコロナウィルス感染拡大を受けて予定より早く山形の実家に里帰りし、東京に残された私は、アパートの荷物を全てまとめ、それを小川町の新居に運び込む作業に追われることとなった。私は引っ越し屋さんに引っ越しを頼んだことがなく、それまでもいつも友人に頼んだりしながら自分で済ませていたので今回もそのつもりだったが、子ができて家族が増えた分、荷物の総量はちょっとしたものだった。

私は休日のたびに車に入るだけの段ボールを詰め込み、経費節減のため、高速なら1時間で行ける往来を下道で走った。田無から小川町まで道のりを下道で山沿いに進むと、毛呂山、越生、鳩山、ときがわなど、私は全く知らなかったが、小川町に似た美しい里山の景色を楽しむことができる。私は埼玉にもこんなに魅力的な場所が沢山あったんだという事実を、おじさんになってから知って痛快だった。

もちろん、小川町に向かうのは日中だけじゃなく夜もあったので、片道2時間の道のりを段ボール詰め込んで行き来するのは1人ではさぞ大変だったはずだ。だが、我々家族を小川町に運命づけたしゅうくんとはるかちゃんが、ほぼ毎回同伴してくれたおかげで苦行感は薄れていた。新居の押し入れの天井を直し、障子や襖を張り替え、古ぼけた風呂を大ハンマーでぶっ壊したりなど、私が計画したDIYリフォームの手伝いまでしてくれて、さらには庭で焚き火をしたり(この頃、安倍総理が、綿製の昔気質のマスクを2枚国民に配布するという頓珍漢な政策を打ち出してきて呆れて腹が立った私は、早速届いたマスクを焚き火で燃やした)、裏山の竹の子を掘りまくったり、夜は酒盛りしたり、かなり楽しい珍道中が続いていた。

しかも、緊急事態宣言を受けて私の勤め先が勤務日数を絞る判断をしたため、週の半分が休みになる非常事態になり、新居での課題が山積みだった私にはラッキーだった。楽しい新居での時間と不穏な東京での生活の相混ざった感じはそんな調子でしばらく続いた。

4月の下旬にすべてアパートの荷物を運び終わった私は世話になった大家さんに挨拶をしてアパートを引き払った。新居のローンと東京の家賃と両方払うのはもったいないではないか。そんな調子で、私は父が住む実家のマンションに転がり込んで、新居のリフォームが一段落するまでの一時的な居候ライフを決め込むことにしたのだ。

毎晩酒のツマミを数種用意し、テレビを見ながら晩酌をする父に付き合っていたら、そのうち腹の調子がおかしくなった。コロナ禍で奇妙にエキサイティングな日々だったが、会社のストレスもあるのか、家族と離れている寂しさも無意識下で作用してるのか、とにかく体調も均一ではなかった。

里帰りした妻子の元へは、出産予定日の5月下旬までに1度会いに行くつもりであったが、コロナの影響で、東京の人間が不用心に感染の少ない山形に行くべきではない、という雰囲気が出てきた。ピーの実家からも、私(東京の人間)が彼女の実家に行った場合、実家に住んでる家族が2週間外出できなくなる、という情報が入り、私は出産まではピーとこと子、そしてもう1人の赤ちゃんに会えないだろうことを覚悟しなければならなかった。

それに留まらず、ピーの話しをよく聞いてみると、その次女の出産には妊婦の両親しか立ち会いがNGとのことで、結局私は出産1か月後に家族を迎えに行くまで、新生児はおろか、みんなに会えないことが判然としてきた。つまり4月頭から6月末までの約3ヶ月も会えないことになる…。まさかそんなことになるとは思わなかった。この頃から都心部と地方の往来には見えない壁ができてしまった。

新居のリフォームの山場は風呂の改装だった。家族が新居にやってくる6月下旬までに完成させなければならない。しかも、ピーさんのたっての要望で、ありきたりなユニットバスではなく、檜の風呂を作ることになったのである。私は当時務めていた会社の仕事で、シェアハウスのリフォームに多かれ少なかれ関わっていたので、業者とのやり取りのノウハウを多少知っていた。とはいえ、ユニットバスじゃない特注風呂を請け負ってくれる業者は知らない。

そこで半分DIY、半分職人依頼で安くあげよう、という算段で思い切って始めてみたものの、これがなかなか大変だった。タイル仕上げの古ぼけた風呂と、脱衣場を友人のヘルプを借りて解体するまではスムーズに運んだが、そこから地元の大工さんと設備屋さん、ちょっと知り合いの左官屋さん、に仕事を依頼する段階で、私は狼狽ることが何度もあった。無自覚だったが、安く上げるために始めたこの工事は、つまり私が現場監督的な役割を果たさなければならない。

それなのに、建築の専門知識に乏しかった私は職人さん達の質問に正確に答えられず、職人同士の橋渡しをうまく努められず何度も冷や汗を流した。
「立ち上がりは何mmにするんですか?」
「浴槽の設置は誰がやるんですか?」
本当ならば現場監督がサクサク答えて進めるところで私がしどろもどろになり、分からない専門用語について正直に質問したり、確認しておきます、と時間を稼いで調べたり、そうこうしているうちに工期がズレ、6月末に本当にヒノキの風呂は完成するのか自信が揺らいでいた。

そんな中、5月の頭、居候先である田無の実家で、その晩はしゅうくん、はるかちゃんもいて、オヤジと4人でワイワイ酒を飲んでいた。10時半頃、突然ピーさんから着信。里帰り後、風呂リフォームの打ち合わせなどのやりとりはしていたが、こんな時間に…。出ると、
「こと子がギャン泣きで頑張って慰めたんだけど、ダメだ、ちょっと代って」
その後ろでこと子の怒涛の泣き声が聞こえている。そして受話器から激しい嗚咽が大きくなり、
「パパと一緒にお家で遊びたい…パパと一緒に…」
と、嗚咽を抑えきれず息も絶え絶えにこと子が訴えるのである。言い終えたかと思うと、また激しく泣き続けた。

里帰りで別れる時は私と会えなくなってこと子が混乱しないか、かなり心配していたが、ちょっと前にピーにこと子の様子を聞いた時は、年の近い女の子の従姉妹たちと楽しく過ごしてる、という状況報告で安心しつつ、そんなに私に依存してなかったのかな、と寂しい気すらしていたが、流石に1ヶ月経って急にホームシックにかかったのだろうか。もうお喋りも達者になった3歳の女の子とはいえ、イレギュラーな状況でストレスが溜まったに違いない。

しかも親はどうすることもできないし、何でこんなことになってるのか3歳児に説明するのも無理だし、どう励ましていいか分からない。またすぐに会えるから、と適当なことも言えないし困り果てた…。私が黙ってしまって、はたでその様子を伺っていて心配そうにしていたオヤジとしゅうくん、はるかちゃんに状況を説明し、しかし受話器の向こうのこと子に私は「大丈夫だからね」という言葉しか絞り出せず不甲斐ない気持ちでいっぱいになった。

30分もこと子が泣くのを聞き続けていた。ピーが受話器に戻って、もう一回慰めてみるね、と私に告げて電話は終わった。盛り上がっていた酒の場もドンヨリした空気に変わり、「そりゃあ、辛いだろうなあ、3歳の女の子がなぁ…」と言ったオヤジは涙ぐんでいる。私の心も灰色に包まれた。

数日後、ピーさんと電話して、あれからどう、こと子は…、とドキドキしながら尋ねると、いやあ、それがさ、あの日はあの後もかなり大変だったんだけど、翌日からまたケロッとしててね…、何か大丈夫そうだよ…。すっかり子供の気まぐれに翻弄されてしまった。我々の心傷は何だったのか、オヤジの涙は…。ともあれ、元気に戻ってよかった。ホッと胸を撫で下ろした。
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