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バンドマンに憧れて 第48話 赤い疑惑とサウンドデモ

もうどういう経緯で声をかけられたのかすら覚えていないが、時計を少し巻き戻す(バンド半生を思い出しながら間断的に記しているので、書き忘れたと思い出すことがたびたびあるのだ)。

2007年、「反戦と抵抗の祭」というイベントから赤い疑惑に出演のオファーがあった。これは通常のライブイベントとはまったく異なり、師走のきらびやかなネオンに包まれた渋谷や原宿の繁華街を、DJカーとバンドカー(といってもいわゆる軽トラの荷台に無理くりステージを作ったもの)がデモ隊と一緒に騒がしく練り歩くという特殊なものだった。「反戦と抵抗」という言葉の中には、加速して止まることを知らない消費資本主義や寛容性のない実力主義、自己責任社会に対する庶民の不安や怒りが込められていた。

主催者達は、その当時問題視され始めていたグローバリズムや、企業が国家を越えて力を持つような資本主義社会に対し、異議を表明し、しかも海外のデモカルチャーを取り入れた、サウンドデモという斬新な形態のデモを実践していたわけで、そんなヒップな大舞台に呼ばれて私は光栄だった。

赤い疑惑の1stアルバム「東京フリーターブリーダー」では、自分と同様に夢追いかけフリーターで頑張る同世代の人間に向けたメッセージを詰め込んだつもりであったが、これが低所得者層、社会的弱者などの声とリンクするということで、共産党系の組織からラブコールをもらったり、地方で行われたサウンドデモで赤い疑惑の「東京フリーターブリーダー」をかけた、など意外なシーンからのリアクションがあって私には驚きだった。

「反戦と抵抗の祭」に声をかけられたのも、赤い疑惑のそのような、弱者目線の持ち味に白羽の矢が立ったに違いない。そんな経緯で、私は赤い疑惑の音楽にそのようなレベルミュージック的付帯価値があるのかもしれない、とこの頃から意識するようになっていった。

サウンドデモに参加するにあたり、ミーティングということで招集されたのが高円寺のセピアというカフェだった。バンドを代表して単身乗り込んだ私は、デモにおける警察対応の注意点などを知ることになり、ワクワクもしたのだが、実はミーティングより、そのカフェに貼られていた「素人の乱」新聞に私は心を奪われていた(素人の乱代表の松本さんによる手書き新聞で、私はかなり影響を受けた。後々、素人の乱界隈の人たちと仲良くなるきっかけになった)…。

2011年の震災以降、政権に対するデモは市民権を得た感があるが、それ以前の2000年代当時は、私と同じ世代の人でもデモなど時代遅れの産物とでも思っていたと思うし、自分たちだって初めて参加するようなものだった。

「売れたい」が夢でバンドを始めた私にとって、赤い疑惑を続けることへの新しい希望を見出した気がしたし、普通に活動してるバンドでは絶対に参加できないような現場での演奏なのだ。何しろ公道を走る軽トラの荷台でチンドン屋の如く騒ぐ訳であるから、一時はパンクを至上とした私にとってはたまらなくエキサイティングなことだった。

サウンドデモ当日は師走で寒かった。集合場所の明治公園から外苑前あたりを通り、明治通りを原宿へと進むタイミングで私たちは軽トラ荷台に乗り込んだ。いつも入場前にする衣装替えは済ませていた。

荷台の上は機材が所狭しと並び殆ど身動きも取れない状態…。おまけに信号で止まるたび、また発車するたびにそれなりに揺れるものだから、私は何度もマイクに顔をぶつけなければならなかった。

東京の中でもセレブリティーの香り高いお洒落スポットで、通りすがりの、驚いて奇異の視線をこちらになげかける沿道の一般の人々や、警察の過剰な警備で囲まれた左車線の中で鼻息荒く盛り上がっているデモ隊の人々を前に、興奮した私は調子に乗って、わざとゆるい下らないMCで様子を伺うと、やんやとみんな盛り上がるではないか。私は沿道の通りがかりの人達にデモ隊の人間が物騒な連中なんかじゃないことをアピールしたかったのだが、それが案外功を奏したようだ。

そこから始まった数曲(もちろんリハ無し)の演奏は大盛り上がりであった。MCが受けたのもあり、私はそこまで緊張しなかった。珍奇なシチュエーションだったこともあるが、赤い疑惑のライブ史上でも稀なほど盛り上がったライブだった(この時の様子はYouTubeで確認することができる)。

この時以来、パンクから始まったバンド活動に社会性や、反体制という視点が導入されることになった。この傾向はその後出会うEKDというアーティストとの出会いで決定的なものとなるのだがそれはまた後日。
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