ROAD to 小川町 最終話 人生の転機に立つ
次女のふみが無事に生まれ、住民票を東京都から埼玉県に移した私は、人生の大変大きな転機にいた。
バンドマンで喰っていくという中学生以来の夢破れ、西東京を右往左往したあと実家の田無に出戻り、その頃出会ったピーさんと結婚することになり、数年後、家族ができようとしていた頃吉祥寺でヒーさんと出会い、長女が生まれた頃たまたま地元で知り合った、はるかちゃんとしゅうくんという運命の友人に、まるで魔法をかけられ、いざなわれるように小川町に移住してきた私の過程を、改めて感慨深く感じざるをえなかった。
点が線になる、ということがあるが、あれは大袈裟な表現だと思っていた。ところが今自分が立っているこの地点は、点が繋がってできた流れの先端である。そしてこれから先、線の行方は判然と分からないが、また何かにいざなわれるように勝手に転がっていくんじゃないか、と朧げながらも確信し始めていた。
東京に住んでいた頃から私は、ある程度人生は「成り行き次第」だと思うようになっていた。しかし、私がその頃に考えていた「成り行き次第」のイメージよりも、遥かにワクワクする「成り行き次第」が、小川町に来て始まるような感触があった。山に囲まれ、畑や田んぼがそこら中に広がる小川町の景色は常に私を心地よく、楽しい気持ちにさせた。
コロナで出勤日数の減った会社勤めの合間、小川町の新居に行くたび、新居から車で10分ほどの、壮観な山林の中に建つヒーさんの家に遊びに寄っては、小川町暮らしがいかに「いい感じ」であるかを話し合った。ヒーさんは、そんな山林の中にポツンと建つ、購入時はボロボロだったらしい日本家屋を、一年かけてリフォームしながら、3月から家族で本格的に小川町での生活を始めていた。
その壮観な山林に建つヒーさん宅の存在は我々家族の移住にとって非常に大きな、まるで保険のような存在だった。新居購入を決める際、国道の交通音の心配や、部屋数が少なく、子どもが大きくなって部屋を持ちたいと言われた時に対応できないだろうな、という心配要素があった。しかし、どんな理由で後悔したとしても、近所にヒーさんの家があるんだから、たまにここに遊びに来れれば癒されるだろう、それで十分、と強引な論理づけをしたほどである。それくらいヒーさん家族と、家の立地と山と樹々と空には強く惹かれていた。
前庭で向かいの山裾(ここもヒーさんの土地である)に見える樹々を眺めながら、
「あそこに白い花が咲いてるけど、あの花もあっちの木も、ここに住んでた先代が庭からの眺めを考えて場所を選んで植えたんだと思うんだよ。」
とヒーさんが感慨深げに言った。私が買った新居の値段より少し安い値段でヒーさんはこの家(と山)を買ったのだが、建物や土地自体の価値を越えた付加価値が沢山あって、その一例として植樹のことに着目してそう言っているのだ。私もなるほどそうか、と思いながら、私の新居もそれは同じだ、とハッとした。
既に我が家に梅や柿、栗や桜があることを知って高揚していたが、それを前入居者が、数年後数十年後を想像して植えたことまでは考えたことがなかった。私は改めてこの自然剥き出しの中古物件を、いい値段で購入できたことに嬉しくなるのだった。そして同時に、縁側から眺められる前庭を、私もなるべくキレイに楽しく管理していきたい、と強く思った。
新居の浴室リフォームは相変わらず続いていて、水道管の切り回し、基礎打ち、タイル貼りが職人の手で行われ、ガチムチの左官屋さんと一緒にネットで買った檜の浴槽を入れた時は流石に心が踊るようだった。それでもピーさんと娘らが戻る6月下旬までに入浴ができるようになるかは判然としなかった。
コロナの騒ぎは続いていて、コロナの蔓延と同時に東京を離れようとするカタチとなった私の移住計画の進行は神がかっていた。このような状況で都民から埼玉県民になり、都市を逃れ田舎に向かうのがうしろめたくも感じられた。
6/12、私は田無の実家での居候ライフを終えて、家族より一足先に小川町での生活を始めることとなった。辞めることを決めたとはいえ、新宿の職場までは退職までの間しばらくは通勤しなければならなかった。
片道1時間半強と予想した通勤時間は片道ほぼ2時間かかることが分かった。読書やケータイの時間はたっぷり取れるが、流石にこれをずっとやってくのは無益のようにも思えた。それならやはり転職だろう。いろんなことを考えながら私は電車に揺られた。
小川町駅から新居までの徒歩22分の帰路は、東京生活では想像もつかなかったような暗さと、カエルの鳴き声に、通る度に新鮮な気持ちになるのだった。そしてある晩、帰路を何となく歩いていると目の前を白い光の点が揺らいでいる…。ん?もしかしてホタル?私は小川町がホタルの里としても知られていることを思い出し、注意深く目を凝らしてみた。するとチラチラと光る点が1つではなく2つ3つと揺れているのに気づいた。まさか駅からの家路でホタルに遭遇するとは思っていなかった。自然への驚きがこの里山の中でそこらじゅうに潜んでいた。
ピーさんが里帰り出産から帰還予定日の数日前、左官屋さんの専門外のパワープレイのおかげでなんとかかんとか浴室が9割り方完成し、最後のコーキング作業にヒーさんが夕方やってきてくれた。ヒーさんの本職は塗装屋さんなのだ。だんだん薄暗くなる浴室で黙々と作業するヒーさんを見守りながら、風呂が完成した嬉しさから、「ヒーさん、オレ小川町に引っ越してきてホントによかったよ、マジでヒーさんの移住きっかけでこんなことになって…ありがとう」と照れながら感謝を告げた。ヒーさんが何と返したか覚えてないけど何となくエモい時間が流れた。
ピーさんが戻る2日前にほぼ完成した檜の風呂に1人で入った。檜の浴槽が湯船の蒸気で爽やかな香りを放っている…。覚悟を決めて決断するまで、檜の風呂を作るなんて生まれてからまさか考えたこともなかった。楽しい瞬間ももちろんあったけど気苦労が絶えなかったのも本当だ。でもやり遂げた。成せばなる。湯船の中で達成感に包まれていた。
6/24、ワクワクする心を押さえて山形に向かった。私がピーさんの実家に着くと、ほぼ3ヶ月父親に会えなかったこと子が「ととー!」と叫んで飛びついてきた。流石に胸が締め付けられて涙が滲んだ。それを、温かい目で見守るピーさんの腕に、小さな赤ん坊が丸くなっている。横にいる義母はこと子が父に飛びつく姿を見て貰い泣きしている。ピーの腕から渡された赤ん坊は小さくて軽かった。これからこの4人で暮らすんだ。小川町という田舎でどんな人生が待っているだろうか。
よかった、よかった、と何となく落ち着いて家に上がった。こと子が私のところにやってきて「ねえ、とと、ユーチューブで、つーよーくー、なーれーる♪、やって」と突然せがまれた。私は霧に包まれると同時に、長女が何を言ってるのかよく分からないが、3ヶ月ぶりに会った父親に期待するものがユーチューブだったおかしさに包まれて、ムカつくけどケータイを取り出して、強くなれる、などと検索してみると、どうやらこと子が最近従姉妹のねえちゃんの影響でハマっているアニメの主題歌だった。ユーチューブで検索するとすぐに出てきた。再生すると私が最も嫌気がさすようなサウンドと歌だった。
山形で2泊の滞在を終え、オヤジから譲り受けた、我々には不似合いなファミリーカーに乗って、私達はこれから恐らくずっと生きていくことになるだろう埼玉の田舎町へとアクセルを踏みしめたのだった。完
バンドマンで喰っていくという中学生以来の夢破れ、西東京を右往左往したあと実家の田無に出戻り、その頃出会ったピーさんと結婚することになり、数年後、家族ができようとしていた頃吉祥寺でヒーさんと出会い、長女が生まれた頃たまたま地元で知り合った、はるかちゃんとしゅうくんという運命の友人に、まるで魔法をかけられ、いざなわれるように小川町に移住してきた私の過程を、改めて感慨深く感じざるをえなかった。
点が線になる、ということがあるが、あれは大袈裟な表現だと思っていた。ところが今自分が立っているこの地点は、点が繋がってできた流れの先端である。そしてこれから先、線の行方は判然と分からないが、また何かにいざなわれるように勝手に転がっていくんじゃないか、と朧げながらも確信し始めていた。
東京に住んでいた頃から私は、ある程度人生は「成り行き次第」だと思うようになっていた。しかし、私がその頃に考えていた「成り行き次第」のイメージよりも、遥かにワクワクする「成り行き次第」が、小川町に来て始まるような感触があった。山に囲まれ、畑や田んぼがそこら中に広がる小川町の景色は常に私を心地よく、楽しい気持ちにさせた。
コロナで出勤日数の減った会社勤めの合間、小川町の新居に行くたび、新居から車で10分ほどの、壮観な山林の中に建つヒーさんの家に遊びに寄っては、小川町暮らしがいかに「いい感じ」であるかを話し合った。ヒーさんは、そんな山林の中にポツンと建つ、購入時はボロボロだったらしい日本家屋を、一年かけてリフォームしながら、3月から家族で本格的に小川町での生活を始めていた。
その壮観な山林に建つヒーさん宅の存在は我々家族の移住にとって非常に大きな、まるで保険のような存在だった。新居購入を決める際、国道の交通音の心配や、部屋数が少なく、子どもが大きくなって部屋を持ちたいと言われた時に対応できないだろうな、という心配要素があった。しかし、どんな理由で後悔したとしても、近所にヒーさんの家があるんだから、たまにここに遊びに来れれば癒されるだろう、それで十分、と強引な論理づけをしたほどである。それくらいヒーさん家族と、家の立地と山と樹々と空には強く惹かれていた。
前庭で向かいの山裾(ここもヒーさんの土地である)に見える樹々を眺めながら、
「あそこに白い花が咲いてるけど、あの花もあっちの木も、ここに住んでた先代が庭からの眺めを考えて場所を選んで植えたんだと思うんだよ。」
とヒーさんが感慨深げに言った。私が買った新居の値段より少し安い値段でヒーさんはこの家(と山)を買ったのだが、建物や土地自体の価値を越えた付加価値が沢山あって、その一例として植樹のことに着目してそう言っているのだ。私もなるほどそうか、と思いながら、私の新居もそれは同じだ、とハッとした。
既に我が家に梅や柿、栗や桜があることを知って高揚していたが、それを前入居者が、数年後数十年後を想像して植えたことまでは考えたことがなかった。私は改めてこの自然剥き出しの中古物件を、いい値段で購入できたことに嬉しくなるのだった。そして同時に、縁側から眺められる前庭を、私もなるべくキレイに楽しく管理していきたい、と強く思った。
新居の浴室リフォームは相変わらず続いていて、水道管の切り回し、基礎打ち、タイル貼りが職人の手で行われ、ガチムチの左官屋さんと一緒にネットで買った檜の浴槽を入れた時は流石に心が踊るようだった。それでもピーさんと娘らが戻る6月下旬までに入浴ができるようになるかは判然としなかった。
コロナの騒ぎは続いていて、コロナの蔓延と同時に東京を離れようとするカタチとなった私の移住計画の進行は神がかっていた。このような状況で都民から埼玉県民になり、都市を逃れ田舎に向かうのがうしろめたくも感じられた。
6/12、私は田無の実家での居候ライフを終えて、家族より一足先に小川町での生活を始めることとなった。辞めることを決めたとはいえ、新宿の職場までは退職までの間しばらくは通勤しなければならなかった。
片道1時間半強と予想した通勤時間は片道ほぼ2時間かかることが分かった。読書やケータイの時間はたっぷり取れるが、流石にこれをずっとやってくのは無益のようにも思えた。それならやはり転職だろう。いろんなことを考えながら私は電車に揺られた。
小川町駅から新居までの徒歩22分の帰路は、東京生活では想像もつかなかったような暗さと、カエルの鳴き声に、通る度に新鮮な気持ちになるのだった。そしてある晩、帰路を何となく歩いていると目の前を白い光の点が揺らいでいる…。ん?もしかしてホタル?私は小川町がホタルの里としても知られていることを思い出し、注意深く目を凝らしてみた。するとチラチラと光る点が1つではなく2つ3つと揺れているのに気づいた。まさか駅からの家路でホタルに遭遇するとは思っていなかった。自然への驚きがこの里山の中でそこらじゅうに潜んでいた。
ピーさんが里帰り出産から帰還予定日の数日前、左官屋さんの専門外のパワープレイのおかげでなんとかかんとか浴室が9割り方完成し、最後のコーキング作業にヒーさんが夕方やってきてくれた。ヒーさんの本職は塗装屋さんなのだ。だんだん薄暗くなる浴室で黙々と作業するヒーさんを見守りながら、風呂が完成した嬉しさから、「ヒーさん、オレ小川町に引っ越してきてホントによかったよ、マジでヒーさんの移住きっかけでこんなことになって…ありがとう」と照れながら感謝を告げた。ヒーさんが何と返したか覚えてないけど何となくエモい時間が流れた。
ピーさんが戻る2日前にほぼ完成した檜の風呂に1人で入った。檜の浴槽が湯船の蒸気で爽やかな香りを放っている…。覚悟を決めて決断するまで、檜の風呂を作るなんて生まれてからまさか考えたこともなかった。楽しい瞬間ももちろんあったけど気苦労が絶えなかったのも本当だ。でもやり遂げた。成せばなる。湯船の中で達成感に包まれていた。
6/24、ワクワクする心を押さえて山形に向かった。私がピーさんの実家に着くと、ほぼ3ヶ月父親に会えなかったこと子が「ととー!」と叫んで飛びついてきた。流石に胸が締め付けられて涙が滲んだ。それを、温かい目で見守るピーさんの腕に、小さな赤ん坊が丸くなっている。横にいる義母はこと子が父に飛びつく姿を見て貰い泣きしている。ピーの腕から渡された赤ん坊は小さくて軽かった。これからこの4人で暮らすんだ。小川町という田舎でどんな人生が待っているだろうか。
よかった、よかった、と何となく落ち着いて家に上がった。こと子が私のところにやってきて「ねえ、とと、ユーチューブで、つーよーくー、なーれーる♪、やって」と突然せがまれた。私は霧に包まれると同時に、長女が何を言ってるのかよく分からないが、3ヶ月ぶりに会った父親に期待するものがユーチューブだったおかしさに包まれて、ムカつくけどケータイを取り出して、強くなれる、などと検索してみると、どうやらこと子が最近従姉妹のねえちゃんの影響でハマっているアニメの主題歌だった。ユーチューブで検索するとすぐに出てきた。再生すると私が最も嫌気がさすようなサウンドと歌だった。
山形で2泊の滞在を終え、オヤジから譲り受けた、我々には不似合いなファミリーカーに乗って、私達はこれから恐らくずっと生きていくことになるだろう埼玉の田舎町へとアクセルを踏みしめたのだった。完
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