父のこと①
人生の半分を執筆に捧げた父を知るものとして、そしてその活字愛を受け継いだボンクラの倅として、父の死を経て、父のことを記さないのは何かスッキリしない。
父は、教鞭を取った学校の生徒に慕われ、大学の仲間や後輩に慕われ、クラシックギター界の関係者からも一目置かれていた。周囲の人から寄せられる賛辞は確かに1つの記念碑かもしれず、息子として誇りにしてよさそうではある。しかし、家族から見た父というのは、そんな美辞麗句とは異質のものである。だからこそ私は何か書き留めておこうと思うのである…。
父は山口県の瀬戸内海に浮かぶ、長閑な漁村の神社の倅だった。長男であり、神主の家業を引き継ぐことになっていたはずだが、東京に出てギターに心酔し、母と結婚することになり、進路がおかしくなった。あんな田舎に行きたくない、と母が拒絶したそうである。
困ったことになったと頭を抱えていた頃、島に残っていた次男と、どういう次第か、「男の話し合い」があったようで、神主を次男が継ぐことになった(実はこのことがその後、遺恨を残した…)。東京に出てギターにのめり込み、宮司の資格と同時に教鞭の資格を取った父は、夜間の定時制高校の教師をやりながら、クラシックギター雑誌の編集にも携わっていた(携わっていた、というより編集長まで務めたらしい…)。そして母と結婚という流れの中で、父は内心家業を継ぐためにわざわざ島に帰りたくはなかったはずだ。また、父が東京に残らなかったら、私と姉が存在していたかすら覚束ない。
私が生まれる時、父は麻雀をしていたらしい。現代なら離婚話に発展してもおかしくない愚行であるが、家事育児は専業の妻にまかせて、というタイプの、その時代には多くいたであろう父親だったのだろう。ところが、父の死後、叔母から、アニキは私たち姉弟が幼い頃は、めちゃくちゃ子煩悩だった、と聞かされ、驚きつつ、そうだったのかもしれない、と俄かに思い直したりした。
叔母が付け加えて言うには、でもあんた達(私と姉)が大きくなってから、家族ほったらかして自分の好きなことばっか(これは主にギター、酒、麻雀か…)になっちゃったからね、と。それも思い出してみるとなるほど、私の思春期の頃、父はほとんど家にいなかったよなぁ…。
そうなのだ。父は定時制教師という特殊な職業だったため、ほとんど夜居なかったのだ。朝は朝で遅起き。私たちが学校に出る時は寝ていたんじゃなかったか。そういう次第で私は父に遊んでもらった記憶はぶつ切りなのだ。相撲を取ったり、キャッチボールをしたり、遊園地に連れて行ってもらったりしたが、それらの記憶は飽くまで断片的なものだ。
子どもの頃、父に対して漠然と、ひょうきんな人、という印象を持っていた気がするが、そのギョロっとした目力ゆえか、私や姉の友人からは、ヤクザ屋さんに間違われたりしたこともあり、確かに黙っていると強面なのかもしれなかった。
断片的な父との思い出の中で、特別に記憶してるものがある。家族でディズニーランドに行った時のことだ。
シンデレラ城か何か、ロールプレイング風のアトラクションで、何組かの家族で、シンデレラを助けに行くんだったかな、とにかく冒険ものなの。ナビゲーターのネエさんが、さあ、この剣を掴む勇気のある子はいるかな?と子ども達を煽るんだけど、みんな恥ずかしくて名乗り出ない。その時ドンと私の背中を父が押したのだ。押されるまま前に出てしまった私は剣を引き抜くことになってしまった。
父は教壇に立ったり、ギターでステージに立ったり、とにかく前に出るのが好きな目立ちたがり屋で、私も子供の頃から目立ちたがり屋(自覚があった)なのだが、その萌芽がこの時に芽生えたのではないか、と私は思っている。あの注目を浴びた時の気持ちよさと気恥ずかしさがもたらす高揚感…。
父は定時制の教師だったためか、普段から私服姿で、確かに一般的なサラリーマンの父親とは雰囲気が違っていた。だからといって私はそのことを是とも非とも思っていなかったが、クラシックギターを休みの日に弾いているのには何か特殊なことをしている人だな、という印象を持っていた。
それがある時期(確か小学生の高学年あたり)から、様子が変わったのである。父がビブラートを効かせた美声で熱唱するようになったのだ。今ならその変遷のことを理解できるが、当時はかなりの驚きだった。
どういうことかというと、つまり、父の音楽の趣味の鮮やかな転換だったのだ。クラシックギターというのはその演奏力がキーとなる訳だが、父はクラシックからラテンに一気に鞍替えしたのだ。どうやら、それも急転直下の事態というより、当時のラテンブームに影響されたものらしく、私が後に知り合った父のギター関係の知り合いでもラテンを愛する人がいくらかいた(余計な話だが、当時はワールドミュージックというジャンルの括りがなかったため、ラテンブームもフォルクローレブームもクラシックギター紙で紹介されていたようである)。
休日になると、クラシックギターの音色ではなく、父の妖艶な歌声が実家のマンションに響き渡るようになった。父は家族に聴かれることに恥じらいはないらしく、私や姉の部屋までその声音が響き渡った。それくらい真面目な熱唱なのだ。私はそれが不快ではなかったが、姉はうるさい、と思っていたに違いない。
母はどうだったかというと、実は母は父のラテンの伴奏をしていたのだ。母と父はギターで知り合ったのであって、母は結婚してから率先して弾くことはなかったようだが、父の伴奏くらいは弾くことができた。要するに夫婦デュオというやつで、そこまで来た時、明らかにウチの両親は変わった親であるだろうと認識するようになっていた。
両親の夫婦デュオは、いつか、大沢さんという夫婦を巻き込み、ラテンカルテットとなって精力的に活動を始めた。最盛期は関西方面まで演奏しに行ったり活躍したようだが、中学、高校と難しい年頃になり、ロックやパンクにのめり込んだ私にとって父のラテン音楽は私とは関係ないものだった。そしてその頃父はあまり家にいなかったのだ…。
息子と父、というのは容易な関係ではない。それは誰しも、何となく分かることかと思う。パンクミュージックやアングラな文化にのめり込み始めるのと、父との接触が減ったのとで、その頃から父の存在には靄がかかり始めた。いくら父が素晴らしい人間だと周りから言われようが関係なく、私は父が何を考えてるのかほとんど理解できなかったし、好意を持っていたとは言い難い。
パンクの存在が大き過ぎて、大学に行く行かないで、私が母と反目した時、普段子育てに介入しなかった父が突如として私の前に立ち塞がり、バカヤロウ、と私の想いに1ミリも理解を示さなかった。その時期を前後して、もはや当時の私には父は厄介な存在でしかなかった。
この頃から私が両親の心配をよそにフリーターとバンドマンに邁進していく間、私の心における父の存在は障害物だった。あまり家にいなかったので、会っても何を話していいかも分からないし、そもそも私のことを理解していない、という気分から私も壁を設けていた。大学を卒業し、ハードコアパンクの聖地であった西荻の風呂なしアパートで、アルバイトしながら自活を始めた。
暗中模索の最中、普段一切私に進んで連絡をよこさなかった父から、ふいに連絡がきた。そうなのだ、その時までその壁は厳然と聳え立ち、取り払うことなどできなかったのである。
②へ続く
父は、教鞭を取った学校の生徒に慕われ、大学の仲間や後輩に慕われ、クラシックギター界の関係者からも一目置かれていた。周囲の人から寄せられる賛辞は確かに1つの記念碑かもしれず、息子として誇りにしてよさそうではある。しかし、家族から見た父というのは、そんな美辞麗句とは異質のものである。だからこそ私は何か書き留めておこうと思うのである…。
父は山口県の瀬戸内海に浮かぶ、長閑な漁村の神社の倅だった。長男であり、神主の家業を引き継ぐことになっていたはずだが、東京に出てギターに心酔し、母と結婚することになり、進路がおかしくなった。あんな田舎に行きたくない、と母が拒絶したそうである。
困ったことになったと頭を抱えていた頃、島に残っていた次男と、どういう次第か、「男の話し合い」があったようで、神主を次男が継ぐことになった(実はこのことがその後、遺恨を残した…)。東京に出てギターにのめり込み、宮司の資格と同時に教鞭の資格を取った父は、夜間の定時制高校の教師をやりながら、クラシックギター雑誌の編集にも携わっていた(携わっていた、というより編集長まで務めたらしい…)。そして母と結婚という流れの中で、父は内心家業を継ぐためにわざわざ島に帰りたくはなかったはずだ。また、父が東京に残らなかったら、私と姉が存在していたかすら覚束ない。
私が生まれる時、父は麻雀をしていたらしい。現代なら離婚話に発展してもおかしくない愚行であるが、家事育児は専業の妻にまかせて、というタイプの、その時代には多くいたであろう父親だったのだろう。ところが、父の死後、叔母から、アニキは私たち姉弟が幼い頃は、めちゃくちゃ子煩悩だった、と聞かされ、驚きつつ、そうだったのかもしれない、と俄かに思い直したりした。
叔母が付け加えて言うには、でもあんた達(私と姉)が大きくなってから、家族ほったらかして自分の好きなことばっか(これは主にギター、酒、麻雀か…)になっちゃったからね、と。それも思い出してみるとなるほど、私の思春期の頃、父はほとんど家にいなかったよなぁ…。
そうなのだ。父は定時制教師という特殊な職業だったため、ほとんど夜居なかったのだ。朝は朝で遅起き。私たちが学校に出る時は寝ていたんじゃなかったか。そういう次第で私は父に遊んでもらった記憶はぶつ切りなのだ。相撲を取ったり、キャッチボールをしたり、遊園地に連れて行ってもらったりしたが、それらの記憶は飽くまで断片的なものだ。
子どもの頃、父に対して漠然と、ひょうきんな人、という印象を持っていた気がするが、そのギョロっとした目力ゆえか、私や姉の友人からは、ヤクザ屋さんに間違われたりしたこともあり、確かに黙っていると強面なのかもしれなかった。
断片的な父との思い出の中で、特別に記憶してるものがある。家族でディズニーランドに行った時のことだ。
シンデレラ城か何か、ロールプレイング風のアトラクションで、何組かの家族で、シンデレラを助けに行くんだったかな、とにかく冒険ものなの。ナビゲーターのネエさんが、さあ、この剣を掴む勇気のある子はいるかな?と子ども達を煽るんだけど、みんな恥ずかしくて名乗り出ない。その時ドンと私の背中を父が押したのだ。押されるまま前に出てしまった私は剣を引き抜くことになってしまった。
父は教壇に立ったり、ギターでステージに立ったり、とにかく前に出るのが好きな目立ちたがり屋で、私も子供の頃から目立ちたがり屋(自覚があった)なのだが、その萌芽がこの時に芽生えたのではないか、と私は思っている。あの注目を浴びた時の気持ちよさと気恥ずかしさがもたらす高揚感…。
父は定時制の教師だったためか、普段から私服姿で、確かに一般的なサラリーマンの父親とは雰囲気が違っていた。だからといって私はそのことを是とも非とも思っていなかったが、クラシックギターを休みの日に弾いているのには何か特殊なことをしている人だな、という印象を持っていた。
それがある時期(確か小学生の高学年あたり)から、様子が変わったのである。父がビブラートを効かせた美声で熱唱するようになったのだ。今ならその変遷のことを理解できるが、当時はかなりの驚きだった。
どういうことかというと、つまり、父の音楽の趣味の鮮やかな転換だったのだ。クラシックギターというのはその演奏力がキーとなる訳だが、父はクラシックからラテンに一気に鞍替えしたのだ。どうやら、それも急転直下の事態というより、当時のラテンブームに影響されたものらしく、私が後に知り合った父のギター関係の知り合いでもラテンを愛する人がいくらかいた(余計な話だが、当時はワールドミュージックというジャンルの括りがなかったため、ラテンブームもフォルクローレブームもクラシックギター紙で紹介されていたようである)。
休日になると、クラシックギターの音色ではなく、父の妖艶な歌声が実家のマンションに響き渡るようになった。父は家族に聴かれることに恥じらいはないらしく、私や姉の部屋までその声音が響き渡った。それくらい真面目な熱唱なのだ。私はそれが不快ではなかったが、姉はうるさい、と思っていたに違いない。
母はどうだったかというと、実は母は父のラテンの伴奏をしていたのだ。母と父はギターで知り合ったのであって、母は結婚してから率先して弾くことはなかったようだが、父の伴奏くらいは弾くことができた。要するに夫婦デュオというやつで、そこまで来た時、明らかにウチの両親は変わった親であるだろうと認識するようになっていた。
両親の夫婦デュオは、いつか、大沢さんという夫婦を巻き込み、ラテンカルテットとなって精力的に活動を始めた。最盛期は関西方面まで演奏しに行ったり活躍したようだが、中学、高校と難しい年頃になり、ロックやパンクにのめり込んだ私にとって父のラテン音楽は私とは関係ないものだった。そしてその頃父はあまり家にいなかったのだ…。
息子と父、というのは容易な関係ではない。それは誰しも、何となく分かることかと思う。パンクミュージックやアングラな文化にのめり込み始めるのと、父との接触が減ったのとで、その頃から父の存在には靄がかかり始めた。いくら父が素晴らしい人間だと周りから言われようが関係なく、私は父が何を考えてるのかほとんど理解できなかったし、好意を持っていたとは言い難い。
パンクの存在が大き過ぎて、大学に行く行かないで、私が母と反目した時、普段子育てに介入しなかった父が突如として私の前に立ち塞がり、バカヤロウ、と私の想いに1ミリも理解を示さなかった。その時期を前後して、もはや当時の私には父は厄介な存在でしかなかった。
この頃から私が両親の心配をよそにフリーターとバンドマンに邁進していく間、私の心における父の存在は障害物だった。あまり家にいなかったので、会っても何を話していいかも分からないし、そもそも私のことを理解していない、という気分から私も壁を設けていた。大学を卒業し、ハードコアパンクの聖地であった西荻の風呂なしアパートで、アルバイトしながら自活を始めた。
暗中模索の最中、普段一切私に進んで連絡をよこさなかった父から、ふいに連絡がきた。そうなのだ、その時までその壁は厳然と聳え立ち、取り払うことなどできなかったのである。
②へ続く
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