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父のこと②

2005年の年明けだったと思う。風呂なしアパートの自宅に備え付けられた固定電話(自主レーベルをやろうと企んでいたので、今では骨董的になったFAX付きの電話を持っていた)に父から電話があった。突然何事だろうと、訝しみながら受話器を取ると、「伝えなきゃならないことがある」と勿体ぶった後、「実はお母さんがガンになっちゃった」とこぼした。既にかなり進行していて、余命1年持つかどうか、ということだった。

とにかく、分かった、と電話を切るや、我を失いボロボロ泣いた。母ちゃんがガンだなんて…、余命1年だなんて…。瞬時にいろんなことを想像して涙が溢れ出てきた。涙に溺れながら、私は母が大好きだったことを自覚せずにはいられなかった。

バンドマンとして腕を試したい、という私の進路に母が否定的だったというだけで、見栄を張って家を飛び出し、今に見てろ、などと気焔を上げていたが、母がガンで亡くなる、なんていうシナリオは想定外もいいところだった。私の淡い未来予想図では、バンドマンとして食えるようになって、いずれ親孝行するんだ、というピュアなもので、そのためには親に早死にされてはならなかった。

私は母の病気の事実を知ってからしばらく、日常生活の中で、仕事中なども急にそのことが脳裏に去来し、人目を忍んで涙を拭うことがあった。事実をなかなか受け止められなかったのだ。

しかし、クヨクヨしている訳にもいかず、とにかく母の看病に全力を尽くさねば、という気持ちの切り替えが起こり、そのためには…、とその時考えたのが父との距離を縮めることだった。ガン患者の看病を家族が一丸となってあたる。そのためには父との距離を縮めることがまず第一のハードルのように思えた。そして、そうと決まったら私は早いのだ。父と姉と機会を作り、田無の居酒屋で作戦会議を設けた。

その時から私は父と酒を飲むようになった。下戸の母に似て私はアルコールに弱く、酒量はいけないが、社会に出て酒を飲む機会が増え、自分の許容量が分かり、酒を飲むこと自体は好きになっていた。

そんな風な付き合いが始まってからある日父から、父の母校のOB会(だか何だったか)の文集を受け取った。そこには、父が寄稿した「私の半生記」というタイトルの文章が掲載されていた。何の気なしに読み始めたら、あれまこれがやたら面白い。

面白いし、同時に私は偉く驚いた。その半生記で描かれた父の大学時代、およびその寮生活の描写(特に貧乏生活を謳歌している様子)が、自分の学生時代の感覚と大きくダブって読めたのだ。コワモテで、よく分からないや、と思っていた父親像が、その時ガラガラと音を立てて瓦解していった。

父は私が急激に近づいてきたことをどう感じていたか知らないが、倅が酒の相手になってくれることだけで大分嬉しそうだった。それまで酒を飲んだ父が繰り出す四方山話に、酒を飲まない母や姉は無残なほど興味を持たなかったのだから、私が相手として現れてそれは嬉しかっただろう。

元来がひょうきんにできている父と酒を介した付き合いが始まり、「半生記」を読んで捉え方が変わると、急に父のチャーミングな部分が浮かび上がってくる。特に酔っている時の表情や、話しながらする両手を駆使したジェスチャー、それらを私は愛おしくすら感じ始めるようになった。

母はガンになったこと自体でかなり力を落とし、病気に負けるか! というような姿勢になることもなく、少しずつ少しずつ衰弱していった。私は自分が虚弱体質のために積極的に取り入れるようになっていた東洋医学や代替医療のことを更に勉強し、母に玄米菜食など勧めたが、突然そのような治療を受け入れるような元気がなくなっていて、枇杷温灸などもしてやっていたが効果ははかばかしくなかった。

母が闘病中のある時期、むごいことに、母方の祖母の体調が急に激変し、遂には半身麻痺状態で入院することになった。そんな状態でも祖母は、自分のことより、末期ガンの娘が先に死ぬんじゃないかと気を揉んでいたが、祖母の病気の進行の方が早く、間もなく亡くなってしまった。

祖母の葬儀の時だったと思うが、母方の親戚が集まっていた時、話題が母の闘病の話しになった。そこで叔母たちが「長尾さんが(父のこと)ミオちゃん(母のこと)にもっと寄り添ってあげないと…」とアドバイスというか苦言というか、批難するつもりではなかったとは思うがそんな発言をした。少し酔っていた父はその叔母の発言にキレてしまった…。「夫婦のことを他人にとやかく言われる筋合いはない!」父は大声で怒鳴った。

とはいえ、叔母のその指摘は無根拠なことではなく、実際母は、父の自分勝手さやデリカシーのなさに愚痴をこぼしていたのも知っていたし、何なら、私がガンになったのは父との生活でのストレスじゃないかと、遠回しにこぼしたこともあったのだ。そういう背景を知っていた私だったが、その席で標的にされてしまった父のことが哀れで、我を失い怒鳴る父を、落ち着いて、と制しながらも、私は父の味方だよ、と思っていた。その不器用な男ぶりに同情していた訳だが、父は、テメエに何が分かる、というように、制する息子に照準を変えてあわや掴み合いの喧嘩になるところだった。

そうなのだ、父はデリカシーがなかった。母の前でゲップ、おならを憚りなく、冗談めかしてぶっ放す。そんなのは取るに足らないことかもしれないが、女性の気持ちを汲み取るのがとても下手だった。だから父は姉にも嫌われていた。姉は進路がどうこう、といったことで私のように親と反目することはなかったと思うが、母が姉にこぼす父の愚痴をそのまま共有しているような雰囲気だった。

母のガン闘病中に、父が犯した1番の失態は、家族新聞(これはいろんな人に突っ込まれるが今は割愛)に母が胃ガンになったことをトップニュースで報じたことである…。父に悪気がなかったのは勿論だが、父や私のように前に出たがるタイプとは正反対の母にとって、自身の生死に関わる病気のことを親戚や父の知人に公表されることは許せないことだった。叔母が父に苦言を呈したのも母の愚痴を聞いたからなのかもしれなかった。

しかし、父のその行動は、私がブログやSNSで奥さんのことに触れて、奥さんに激怒されることと、程度の差はあれ、同じような性質のもので、私は父に同情する部分がいくつもあった。まるで寅さんのような戦後世代の、品がなく不器用な、分かりやすい男像(今では軽犯罪だが、20代の頃は同僚の女子のお尻を触ったり…)をニヤニヤして観察してしまうようなところも、私は父に持つようになっていた。

母は、余命宣告から10ヶ月後にこの世を去ってしまった。が、その約1年弱の期間は、姉との関係(おそらく私と姉は世間的に見てもかなり仲が良い方であろう)も含め、家族というもの、それまで真剣に考えたことのない1つの共同体について、私が必要以上に考えた時期であり、向こう見ずな人生を志向していた私に、いつか家族を持ちたいな、と思わせた最初の時期であり、父との関係性が決定的に変わったそんな時期でもあったのだ。

③へ続く

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