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脱サラリーマン物語(中編)

さて、私のロックンローラーとしての奮闘は、アルバイトを転々としながらも続けられた。時給制の貧乏な一人暮らしは、私の貧乏好奇心のせいで逞しく楽しく続いた(フリーターでも生き生き楽しく生きられる、という姿を私は身体を張って証明せねばならなかった…)。しかし、20代に付き合っていた女性とのあれこれで、私がフリーターで居続けることに外的圧力がかかった。

母を早く亡くした私は、俄に家族や子どもというものに憧れを抱き始めた。人生は一度きり、家族を持つことは私の新たな将来の夢となった。が、その夢を実現するべく相手の女性と生きるには安定収入やその他のことが必要条件として提示された。

私はフリーター路線から脱するのが悔しかったが、その時はじめて就職活動なるものにトライする気になったのだ。生まれて初めてハローワークに赴き、学歴など関係ないような仕事を探してみた。大卒の証は新卒じゃないと無力だと聞いていたからだ。もちろん、いわゆるビジネススキルなど持ち合わせているわけでなし、できそうな仕事といえばかなり限られていた。が、文系の私にとって、親近感を抱かせるのはその中でも印刷業界くらいだと思えた。

印刷業界とはいえ、武蔵野の場末にあったその会社はエンボス加工したシールの印刷などを得意とする工業用印刷工場で、私は3ヶ月の試用期間を与えられ、そこで働くことになった。3ヶ月後に双方の合意があれば晴れて正社員という訳である。

しかし、現実はクソだった。その印刷工場の経営スタイルは古臭く、ブルドッグのような面構えの社長はじめ、その工場には陰鬱な空気が澱んでいた。同僚になるだろう先輩方もどこか暗く、通い始めてすぐに私の心はグングンと縮み上がって、この会社に骨を埋めるなんて無理、と動揺激しく、試用期間でやめよう、という決意が確かなものとなった。

彼女には失望されたが、まだ正社員というものに一縷の希望を抱いていた私は、ハローワークじゃなく、流行りの派遣社員というのをやってみよう、と派遣会社に登録したのだった。少し興味のあったHTMLやCSSなんていうwebプログラムの勉強なんてのもやった。

そして私は2社、派遣社員として働いてみた。働いてみたが、私にとってそれらのオフィスワークや、会社という組織に対する嫌悪感は拭えないばかりか、日に日に募っていくばかりだった。そうこうしているうちに私は恋人を失い、行く当てもなく父に頭を下げて実家に戻り、失意の時期を過ごした。

もちろんバンドが売れるようなことはなく、せめて何か好きになれる仕事を探さないと、と右往左往した挙句、私は当時ハマっていたワールドミュージック関係のアルバイトを見つけた。家族経営の小さな会社であったが、その仕事のおかげでワールドミュージックのあれこれを堪能することができ、またマニアックな音楽シーンに携わっているという誇りも持つことができ、そしてまた単純に好きな音楽を楽しむことができたので満足していた。

するとすぐに正社員にならない?と声をかけられ、私は思わぬ形で初めて正社員という肩書きを得た。私がイメージするような、ヒゲを剃ってスーツ着て、というステレオタイプなルールもなく、私は顎髭を蓄え、普段着のままでワールドミュージックのレビューを書いたり、輸入したCDを小売店に営業して卸すような仕事を面白がっていた。

しかし、ワールドミュージック業界は、その時すでに下火で、サブスクなんてのが流行り始めたり、どんどんCDが売れなくなっていく時期だった。90年代をピークに、業界は衰退の途を突き進んでいた。当然、会社の経営は厳しい状況で、家族経営ならではの、小さな会社で起こりがちなパワハラ問題に私はぶちあたってしまったのだ。

当時は、父が暮らしていた田無のマンションに出戻りで居候していたので生活費に困窮するほどではなかった。この会社にずっといられないな、と本能的に察知した私は3年足らずでその会社も辞めてしまった。

正社員というステータスをやけくそで捨てたはいいが、さて、これからどうすんべ、と途方に暮れていたところ、10年来のバンド仲間に、シェアハウスのクリーニングのバイトを勧められ、またアルバイトに逆戻りかぁ、と大分逡巡した挙句、ろくな当ても見つけられずに彼の誘いに乗ってみたのだった。「きっと、玄ちゃんならハマると思うよ」という彼は、とにかく同僚が面白いいい人ばっかだから、と繰り返し言うのだった。

掃除の仕事に対して、やる前は何となしに下流な仕事、という偏見を抱いていたので、ホントに耐えられるだろうか、と不安にかられた。ところが、入社してみると実際に個性的な同僚達の人情にまず感動してしまった。外国人向けのシェアハウス管理会社だったのでお客さんは外国人だけ。私は会社が管理する都内各所の物件に行き、キッチン、浴室、居間などの掃除をして回る。物件に行くと外国人しかいない。何だかそれだけで面白い。

外国人相手ということもあり、その職場には旅好きな人が多く、また音楽好きの人も多かったので、私はすぐに職場に馴染んでしまった。掃除の仕事も意外と私の性格にハマって、面白い同僚たちとのやり取りも楽しく、これは天職かもしれない、とまで思った。

そのアルバイトを始めた頃に、何と私は結婚したのだった。もはやメシの種にはならぬと弁えていたバンド活動も、頻度を落としながらも続けていて、貧乏生活が続いていたが、そういう部分にあんまり頓着しない女性だったので、「結婚するなら正社員になって」なんてことも言われなかったことをいいことに。

フリーターで何が悪い?なんてことを20代に真剣に訴えていた私は、30代になっても、フリーターが結婚しちゃダメなの?なんてことを考えており、そういう固い社会通念を打ち破る実践者として、アルバイトの身のままプロポーズしたのだった。何とも恥ずかしいことである。

話しを戻すと、その職場で楽しく働き出して、結婚して、あっという間に4年の歳月が経って…。そして、何と子どもが生まれたのだ。貧乏生活を耐え抜き、清貧を謳歌するのはいいが、子育てとなるとこのままのアルバイト収入でホントに大丈夫か? 私は急に弱気になってきた。

慣れ親しんだ職場、経営に責任感のいらないアルバイトは気楽だったが、社員はどうだろう。先輩の社員もいい人ばっかだし、会社組織は利益至上主義でいけすかないが、そこだけ目を瞑れば…。私は部署の長に正社員で働きたい意志を伝えると、難なく社員になることができた。

社員になると、仕事の内容も飛躍的に増えた。単調な掃除の仕事以外にも、ハイエースを運転して各所を回り、DIY補修やリフォーム業務、エアコンや水道など設備のメンテナンス等々、退屈しない内容だった。お客さんとのトラブルや、会社の方針での無茶ぶりやパワハラなど、嫌な面もいくらかあったが、スーツなど着る必要もなく、ここも普段着で顎髭を蓄えたまま働ける。外国人との日常的なやり取りの連続で、貧乏旅行では全然喋れなかった英会話も、日常会話ならできるようになってきたし、糧にもなってる。その上、多くはないけどボーナスなんてものまでもらえるようになって…。

このままこの会社で働き続けるのかなぁ、そんなことまで考え始めていた。そしてアルバイトから正社員になって、また4年ほど経った頃だった。私に2人目の子どもができたのだ。

当時、2DKの典型的な間取りのアパートに住んでいたが、子どもが2人、となると、すぐに手狭になるだろう、いずれ引っ越さなきゃならぬだろう、というのは夫婦の共通認識だった。そして、東北震災以降、いずれは田舎に移住して、という方針も同様だった。ただ具体的な場所の検討ときっかけがなかったのだ。

2人目が生まれることになり、いよいよ住居探しも真剣に、と感じていた頃、ひょんなきっかけで遊びに行った、埼玉県小川町に惚れ込み、トントン拍子で移住することが決まった。私は正社員という身分であったことをいいことに15年の住宅ローンを組んで古民家風の中古屋を購入したのだ。

水回りやキッチンなどリフォーム必須な部分もあったが、仕事で見てきた、あるいはやってきたリフォームの知識や経験を生かしてDIYを推し進めた。こんなカタチで仕事の経験が生活に生かせるのはラッキーだった。そしてワクワクドキドキ、楽しい田舎暮らしを堪能していこう、と高揚していた時期に世界がコロナショックに突入したのだった。(後前編に続く)
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脱サラリーマン物語(前編)

私の小さな頃の将来の夢、後で見返して1番古い記録は幼稚園児の時のもので、「消防士」であった。動機はまったく思い出せず、私も世間並みの男の子同様、初めは働く乗り物や公務員に憧れたのかもしれない。

動機まで思い出せる小さい頃の将来の夢は「ゴミ屋さん」である。決まった時間に可燃ゴミをマンションのゴミ捨て場に持って行くと、大体収集の時間と重なって、パッカー車でお兄さん達がやってくる。ゴミを集めてはパッカー車の中に投げ入れる、その姿を幼い私はワクワクした気持ちで眺めていた。ボンボン放り込んで溜まってくると、後部の羽を回転させて溜まったゴミを車内にギュウギュウ押し込んだ。この一連の作業行程が面白い。そして、作業が終わると作業員のお兄さんたちは収集車のお尻に飛び乗って、鉄のバーか何か掴んで、次の回収場所へと流れていく。

さすがに道路交通法の関係か、収集車の後部に飛び乗って移動することは禁止になったのだろう、いつからか、そのアクロバチックな作業員の活躍は見られなくなってしまったが、とにかく、私はゴミ収集の仕事に並々ならぬ関心を寄せたものだ。

しかし、将来の夢がゴミ収集員という、いたいけで無欲恬淡な私の信条は、野球との出会いですぐに何処かへ消失してしまった。いや、野球に引き込まれたのはホントだが、野球を始めるに至った直接の要因は、当時無理矢理習わされていた剣道のせいであった。

生まれ故郷が八幡宮であった父は子供の頃は剣道をやらされていた。私がやらされたのもそのせいである、と思っている。進んで剣道やりたい、というような武士道精神を幼児の私が持つはずはなかったから。

剣道の稽古は田無警察の地下にある道場で行われていた。裸足がひんやりとした床に冷たく、防具は汗臭く、小手を打たれるのが痛くて嫌で嫌で仕方なかった。武道が健全な身体の維持に役立つ、などという視点はもちろんなかったし、私はどうにかして剣道をやめたかった。

そんな時少し興味を持ち始めたのが野球で、リトルリーグに入れば心身鍛錬の名目で剣道を辞めさせてもらえるかもしれない…。ガキながらに叩き出した私の目論見は功を奏し、剣道はそれっきり、私はそこから実際野球にのめり込んでいった。

同時にその頃から、将来の夢欄には「プロ野球選手」という文字列が並ぶこととなった。壁当て(昔流行った遊びで軟式ボールを壁に投げあてて、跳ね返ったボールを拾うだけの遊び。当時は真横に車が置いてある駐車場なんかでも平気でやって、誤って車にぶつけても咎められた記憶がない…)に興じては自分がプロ野球の投手になった設定で、脳内で熾烈な試合を乗り越える投手である妄想、または甲子園の決勝で、打者を封じ込めて優勝する妄想、などで私は満足していた。

ところが大きな問題が野球好きの私を常に不安にさせていた。つまり、私の運動神経が一般から著しく離れて、とにかく鈍い、という事実だった。徒競走なんかで言うと、太ってもおらず痩せぎすな体型のくせに、学年で下から数え上げるような成績で、ある年、運動会の徒競走が、体育のデータに基づいて速い順に競わせるスタイルをとって行われたことがあったが、私は最終レースに組み込まれ、並んだ男子生徒は私以外軒並み肥満児だった。

小学生の残酷の一つに、小学生女子の熱視線の対象は運動神経のいい男子、と相場が決まっていたことがある。運動神経が人より遥かに低いことを自覚した私は体育が恨めしく、上記のような経験から運動会や、体育祭の類はトラウマへと変わった。

運動神経がそんな体たらくで、体格も痩せて力のない私が、野球で活躍できるはずもなく、プロ野球の投手として活躍する妄想は続いたものの、結果的に私はリトルリーグのベンチを温め続け、懲りずに中学で入った野球部のベンチも温め続けることになった。健気だなと今でも思うのは、その頃もまだプロ野球選手、というカードを捨てきれずにいたことだ。

その現実乖離した将来の夢がガラリと塗り替えられたのが中学1年生の冬に友人と観に行ったロックコンサートだった。80年代後半から90年代初頭に人気を博し、TVCMでもしばしば楽曲が使われたジュンスカイウォーカーズというバンドのライブだった。

ダフ屋さんが周囲を徘徊していた。チケットない人あるよー、余ってる人買うよー、と不穏な雰囲気のオジサンが、コンサート会場である武道館のまわりに蝟集するファンの間を彷徨っていたことを覚えている。

目当てのジュンスカのライブは最高だった。ステージに立ってロックンロールを奏でる4人のメンバーを、遠く2階席から私は眩しく眺めて心を震わせていた。エレキギターとドラムスの爆音が心臓を震わせ、ミヤタカズヤのポジティブな歌詞が私の心を躍動させた。

その日から将来の夢がめでたく「プロ野球選手」から「ロックンローラー」となったのである。初めて受験というものに臨んだ時も軽音楽部のある高校に拘り、中学校の卒業式では、卒業証書授受の際に、全校生徒の前で1人一言、想いを発表する決まりになっていたので、愚かな私は恥ずかしげもなく「ロックンローラーになりたい!」と豪語したのである。

運動音痴の私がプロ野球選手を目指す、という痛々しい夢が、ロックンローラーに変わったのはいいが、ミュージシャンになるほどの音楽的才能があるとはいえず(当時は自分を音楽的天才だと思い込んでいたが…)、その頃母が頭を抱えたのもむべなるかな。

この「ロックンローラー」への道はその後、20代後半まで引き摺ることとなり、つまり、その道すじに就職活動というものは入る余地はなく、私は大学生を終えると、粛々とフリーターへと転身。家族の反対が煩わしいので実家を出て一人暮らしが始まった。

かように、私の歴史の中でサラリーマンという概念が理想として登場することはなく、むしろ、スーツ着て満員電車に揺られ、会社のために嫌なことでもなんでもやる、というイメージのサラリーマンは、絶対に避けるべき職業だと思い込んでいた。そしてそれは大学卒業前に経験した海外旅行で確信へと変わった。そう、あの草臥れたスーツ姿のサラリーマン達は日本にだけ特有の民族だと分かったのだ…。(中編へつづく)

私のケータイ電話を取り巻く状況

私が高校生の頃、学校で携帯電話を持ってきたやつがいた。その頃は友人との連絡手段にポケベルというアイテムがもてはやされていた時代で、電話を携帯するなんてことは想定外だ。やつは得意げに教室のベランダで、さも調子良さげに、まるで自分が多忙な人間であるかのように誰かとの会話を楽しんでいた。私はその光景を嫌悪した。

天邪鬼で流行りに逆らいたがりだった私は、電話を携帯などあり得ない、これ見よがしに学校に電話を持ってきたアイツはゲス野郎だ、私はそんな風に感じて白い目を向けた。

大学生になると携帯電話を持ち始める友人が増え始めた。その勢いはなかなかバカにならないもので、いつの間にか携帯を持たない方が傍流となり、私は取り残された。そしてハッキリした動機を思い出せないが、文明の利器に反抗しても仕方ないし、通信手段として電話を持てばいいことの方が多いだろう、と思い切って携帯デビューした。

大体、私のこのような、何かに対するアンチや意地は本人の自意識過剰だけで、今まで批判的で持たなかったのに、遂にあいつも携帯デビューか、などと批判されることを恐れていたモノだが、誰も私の拘りや意地なんかに関心などないのである。しれっと手にした携帯電話はやはり便利で、すぐに馴染んでしまった。

大学生の頃バックパッカーにハマって、東南アジア数カ国、ヨーロッパ数カ国、私はアルバイトのお金をつぎ込んで貧乏旅行を楽しんでいた。そして海外旅行中のとある場所(ベトナムだったんじゃないかと思う…)で、お話しした欧米のバックパッカーから、これ凄いんだ、という風に一風変わった携帯電話を見せてもらった。それがiPhoneだった。

おそらくその時彼からiPhoneがどういうものであるのか、説明を受けたはずだが、私はよく分からなかったし、その当時普及し始めたインターネットが見られる電話で、相当便利でヒップなものらしい、という印象だけを持ったのだ。彼の説明によるとこれからこの携帯電話が世界に広まるだろう、とのことだったので、分からないなりに記憶に留めた。

彼の言った通り数年後、iPhoneは日本にも浸透し始め、ものすごい速さで人々の手に収まった。流行りに抵抗する天邪鬼の私の癖は、ケータイの携帯に妥協した頃から弱まって、iPhoneに関しては便利そうなので何の抵抗もなく手に入れてしまったんじゃなかったか。

2011年の東北大震災をきっかけに私の政治ウォッチが始まった。原発事故と放射能汚染問題は私を脅かし、このままじゃ日本は沈むんじゃないか、と思わせた。それまで関心を向けなかった国内の政治に関して俄に知識を取り入れ始め、そして、勿論想像はしていてが、知れば知るほど、日本の政治がヤバいことになっていると気づいて私は左翼となった。

デモや集会、スタンディングに参加したり、その頃は夢中でいろいろやった。そんな時、私の情報源はほとんどTwitterだった。何かというとスマホを取り出しては自民党の悪事のあれこれの記事を読み漁り、怒りを募らせる日々だったが、選挙結果は散々で繰り返せば繰り返すほど嫌気も出てくるのだった。

そして田舎に引っ越してから、私の左翼熱は怪しくなった。田舎の生活は、まじめに自然と向き合うと際限がなくなってしまう。悠々自適とはいかず忙しいのである。しかし、常に自然が目の前にあるので楽しいし疲れない。

東京にいる頃は都心まで務めに出ていたモノだから、どうしても国政のことが妙な圧力になっていた。ひしめき合うビル群や、尋常じゃない数の人間が群がる駅や電車の中にいると、この国の悪政が原因なんじゃないか、と思わされていた。どうしても考えごとが国のネガティブな問題に向かいがちだった。

田舎は平和だった。森や田畑や山々が日々私を癒した。私は都会生活とのその身体的圧の違いに驚き、衝撃を受けた。それからTwitter熱は弱まり、逆にインスタグラムを開いて田舎の楽しい生活をストーリーでアップすることに熱を上げた。

それだけスマホは私の生活の一部だった。私のスマホ依存歴を紹介した流れとなったが、実は本題はここからなのだ…。

先日、都内に行く用事があって、ついでがあったので下北の馴染みの店に行ったのだが、そのお店に出入りした数十分の間にケータイがなくなった。割とすぐ気づいたので見つけられないはずはないのに出てこない。過去にもケータイをなくしたことはあったが、その時も心理的動揺を隠せなかった。ただの機械なのに、何だか恋人を無くしたかのような喪失感に包まれるのだ。

ケータイ依存の人間の恥部じゃなかろうか。私はケータイ依存と思われたくないために、できるだけ冷静でいようと努めたが、どうやっても楽しい気分にはなれず、己の器の小ささを呪った。

そして話しはここからである。落ち込んで埼玉の田舎に戻ってきた私はPCでiPhoneを探す、という機能を試してみた。ダメ元でやってみたら、何故か私のケータイは町田、鶴川の川の中にあることになっている。鶴川と下北はざっくり小田急線ライン?などと妙な推理が頭をよぎる。

しかし下北でスマホがなくなったことに気づいて探すまでの間は数十分で、人に盗られるようなことも考えにくい。もしかして鳥が運んだ?という友人がいたが、人に盗られたと考えるより、その方が事故性があって私の諦めも早く決着するのではないかと思い、鳥かもしれない、ということにして忘れようとした。

すると先ほど、鶴川方面に用事があるから見てきてあげようか?と言ってくれる友人が現れて、それは助かるなともう一度PCで iPhoneを探すやってみたら、げっ、なんと豪徳寺のとある建物にポイントされた。こうなると鳥の仕業ということは考えづらくなり、自ずと人間の仕業かもしれない、ということになってくる。

薄気味悪いことで、この先捜索を続ける意味はあるのか、たかがケータイじゃないか、と思い込もうとするワタシはやはりケータイ依存の片鱗を隠しきれず、とはいえ、SNSじゃなく、電話機能の欠落に狼狽える私は、明日、新しい電話を購入予定である。

アクセルの育児記 第38話 家族コンサート

2人の娘の育児記は随分サボりがちで、現在長女のこと子が6歳、次女のふみが2歳、こと子は来年、遂に小学生だ。

昨年末に父が亡くなり、母はとっくの昔に死んじゃったので、ランドセルを買うのは山形の義父が、好きなのを買いなさい費用は私が払うから、と申し出て下さったのでお言葉に甘えることにした。

私が子供の頃、ランドセルといえば、男子は黒、女子は赤、選択の余地などなかった。が、時代は変わり、今はいろんな色のランドセルが出ているのだそうだ。資本主義は選択肢を広げて、どれがいいの、と迫ってくるのである。

義父が具体的にランドセル買ってやる、と言ってくる前は、こと子は1人で思案して「ランドセルの色は青緑色にする」と豪語していた。私は青緑色というのがよく分からず当惑していたが、いざ選ぼう、とピーがスマホでこと子に画像を見せながら選ばせると、何故かベージュのランドセルに決まったようだった。

さて、次女のふみはお喋りも達者になり、歩いて転ぶようなこともほとんどなくなり、赤ちゃんという印象から一気に幼児、という雰囲気をまとい、物怖じせず、人見知りもしない性格から、何か物凄く強い存在感を示すようになってきた。

少し前に、久しぶりに会った叔母が、この子は「お姉ちゃんには負けないぞ」っていう顔してるわね、と笑いながら私に言った。確かに目力といい、体格といい、図太いものを秘めていると思っていたが、なるほど第三者から言われると、そうかやっぱりこの子は!となって可笑しさが込み上げてくる。

こと子も幼児の頃は太っていてお腹もポッコリ出ていたが、じきにポッコリは収まって、私に似たのでしょう、時々お腹が痛いとトイレに行くような胃腸状態のせいか、すぐに痩せ始め、今ではすでに私のように肋骨が浮かび上がる痩せ型である。ふみの、ドンと出たお腹も、こと子と同じようにすぐに引っ込んで、幼児体型から子ども体型に移行するものだと思っていたが、ところがふみのお腹はなかなか引っ込まない。その図太い態度に見合う可愛い出腹はそのまま図太い主張を隠さない。

「キョウダイなんてみんなホントに違うからね」とはよく先輩方からいただくアドバイスだが、私はそれがどんな感じなのか、こと子とふみにそんな違いが出てくるのかな、と半信半疑だった。ところが、どうでしょう、すでにふみのそのドーンとした雰囲気は、こと子の2歳時を思い出してもまるで似ていない。人見知りしないのは共通してても、溢れるバイブスは全く違う…。

こと子が繊細で面倒見がいいのに対して、ふみは奔放で豪快。2人仲良く遊んでいるが、喧嘩になると大体こと子が泣かされている(上の子が泣かされるのもよくあるらしい…)のである。ふみは凶暴で、こと子が泣きながら私のとこへ来て「何もしてないのにふみが眼を指で刺した」などと苦情をもらうほどである。叩いたり、蹴ったりするらしいので、そんな苦情が入るたびに私はふみに、蹴っちゃダメでしょ、叩いちゃダメでしょ、と怒ったフリをしながら申し出るのであるが、まだ2歳だからなかなか響かない。むしろ注意すると不貞腐れて反抗的な眼差しが返ってきたりするほどである。

魔の2歳児だとか、イヤイヤ期だとか、これくらいの歳だと駄々こねてギャーギャー泣いたりするのは、世間並みで、こと子のそれを体験してるので、ふみのそれにはそんなに驚かない。子育ては2人目から雑になる、と言われるが、まさにそんな感じで私もピーさんもある意味テキトーにふみを育てている。

喧嘩もするが、ほとんどは仲良く遊んでいる、2人で勝手に遊んでいれば、こんなに放任してていいのかな、というくらい子育ては楽になってくる。4歳も歳の差があると、上の子はシャラくさくて下の子とちゃんと遊んでくれないんじゃないかな、と心配したが全く杞憂であった。近所のチビどもが集まれば、小学生中学年くらいまでは、幼児を交えて一緒に遊んでいる。子どもの社交界は健全で、立派である。

私は長いこと下手なギターと歌を人前で披露するようなことをやってきた訳だが、パンクと称してヘタを言い訳にしていたほどの亜流であるから、自分の子に音楽をやらせたい?なんて聞かれようモノなら謙虚に、いや、そういう期待はないです、とカッコつける予定だった。ところが、ダメなのだ、例えば私が思い出したようにギターを弾き出したら、ふと娘らが、なんだなんだと寄ってきてギターを触ったりしてくるだけで嬉しい。

最近はこと子の好きな曲のコードを探って、自分が伴奏してこと子に歌わせたり、そんなことをやっていると、もう楽しくなってしまい、この子がそのうちホントに曲を作ったりするようになったら…、などと妙な妄想まで始まってしまうようなのだ。

こと子みたいに上手に歌えなくても、ふみもいろいろと歌うようになってきたので、先日、地元のお祭りに私が弾き語りで出る際、演奏の途中で、そこら辺で遊んでいること子をステージに呼び出して無理矢理歌わせた。ちなみにふみは勝手にステージに上がってきたので一緒に歌わせたら、案の定大受け。

子どもをダシに使うなんてアーティストとしてご法度だろう、と昔の私なら思うところだが、今の私にそんな意地やプライドはなく、もう、成り行き任せに、むしろ子どもが出てきて会場が和むなら、私の神妙な歌をただ聞かせるより親切だろう、などとすら考え、堂々と家族コンサート。

実は親子共演は初めてじゃなくて、私は父のラテンの伴奏をしていた時期がほんの少しだけあって、家族共演の恥ずかしさなど、もはや皆無といえるかもしれない。若さはこだわり。歳とりゃどんどん緩んでいく。

父のラテンの伴奏だってパンクバンドを始めた頃には想像だにしてなかったけど、親子がステージに立っているというギャグのような、マジのような稀有さ。ハタから見たら、奇跡のように映ることも知っている。だから、私は姑息に娘たちをステージに呼び寄せた。お父さん、もう無茶振りやめて、と直接苦情が入るまで、チャンスさえあれば、私はこの禁じ手を使うことをこれからも厭わないのだろう。
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Author:アクセル長尾
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