脱サラリーマン物語(後後編)
30になるまでフリーターとして東京砂漠を徘徊し、30代に突入し、アルバイト、派遣社員、正社員と、労働形態を選びながら家庭を持つことに四苦八苦。そして40歳を越えて都心部から埼玉の片田舎に移住。会社員を辞め、植木屋の見習いとして新たな道に立った私は、奥さんの希望とタイミングが相乗して木造キッチンカー制作に着手することとなっていった。
中学生の時に父から教わった日用大工は私に木工への興味を駆り立てた。それは大人になり社会生活を送る中でも持続して、たまに生活空間に合う棚を作るくらいのことはやっていた。ただ東京の手狭な住環境の中での日用大工は、作業スペース確保の面でも、電動工具使用時の近隣に対する騒音問題の面でもハードルがかなり高いもので、木材の裁断はホームセンターでやってもらうのが基本だった。
ところが、私の買った田舎家は隣家まで2、30mは離れているので、電動工具をバリバリ鳴らしても何の問題もなかった。私はすかさず電動ドライバー、丸ノコ、サンダーなど、安い中古品で買い揃えた。おかげで中古家のリフォームで大活躍したそれらを頼りに、私の木製キッチンカー造りが始まった。
キッチンカー制作の素人DIYのお手本は、ネットで見つけた軽トラキャンパーによるブログがメインとなった。角材を組み立てることで四方上下の小屋の骨組みを作り、骨の隙間に断熱材を押し込む。骨組みを両側から合板で挟めばキッチンの箱ができる。ピーさんの指定したスケッチをもとに作業を進め、初めてながら戸を作り、窓の桟を作り、彼女が拘ってヤフオクでゲットしたらしい昭和レトロな建具が引き戸として開閉できるようにした。
作業は週に一度か二度の休日か、仕事から帰ってきて夕飯、風呂、寝かしつけを済ませた後の夜半に取り組むしかなかった。マイペースながら少し完成形が見えてきたところで、保健所に行き、営業許可に必要な設備要項などを確認した。そこでたまたま「5月中に営業許可を取らないと6月以降は、許可要項が厳しくなります」と、親切にも5月中に営業許可を取ることが吉であると教えてもらった。
5月中に、となるとあと1ヶ月しかない。今のペースだと甘く見積もっても完成は間に合わなさそうだ。その上植木屋の仕事はほとんど休みがない状況だった。仮に営業許可申請が6月以降になると、キッチンに搭載が義務付けられる上下水道タンクの容量を、倍の80Lずつにしなければならず、それは木工作業をする上で非常に面倒が増えることになる…。
その頃、半年以上見習いとしてくっついていたM親方の仕事の進め方ややり方に少なからぬ疑問や違和感を持ち始めていた。休みは少ないし、このまま植木屋やってたらキッチンカーを5月中に完成させるのは無理だ。どうなるか分からぬが、私は親方に正直な気持ちを伝えたところ、結果的に私は植木屋仕事から離れることになってしまった。
しかし、私の頭は何とかキッチンカーの営業許可を5月中に取る、ということに支配されていたので、これからやってくる経済的不安定はうっちゃって、とにかくキッチンカー造りに全勢力を注ぎ込んだ。後半のトタン板の屋根造りや上下水道設備、虫除けのための網戸設置などにかなり難航はしたものの、何とかカタチにして5月末に保健所に完成したものを持ち込むところまで漕ぎ着けた。
しかし、保健所の担当職員に、私の作った上水道があまりに水圧が弱すぎると無情にも判定され出直しを食らった。泣きそうになりながらもう一踏ん張り。ようやく営業許可を出してもらったのは5/31であった…。そして今度は個人事業主としてデビューするために税務署に事業者登録に行った。屋号はピンポン商会。不思議な気持ちだったが私の肩書きはこの時より憧れの「自営業者」となったのだった。つまり、気付いたら私は脱サラを果たしていた。
それからピンポン飯店と名乗る風変わりなキッチンカーの営業が実際に始まるまで1ヶ月。その間私は、右も左も分かってない飲食業(もちろんフリーター時代の飲食経験値はあったが…)でこの先どれほどの利益が出せるのか出せないのか、ハッキリ言って自信はゼロだったので、すかさず日雇いバイトの会社に登録をした。
植木屋は離れたものの、私は植木屋の仕事自体に不満はほとんどなかったし、むしろやり甲斐と爽快感を等しく味わっていたので、できることなら植木屋に戻りたい気持ちもあったのだが、植木屋求人はほぼ週6出勤の厳しい条件が前提だった。自然派とはいえ土木建設業の一端でもある職人仕事に変わりなく、それが当然だとも思えた。とはいえ、人情のほとんど介在しない日雇い労働を続ける気持ちも持てなかったので、私は友人知人に無職アピールをし、何か仕事を融通してもらう必要があった。
7月からキッチンカーでの出店業が始まると生活スタイルがそれに合わせたものに変わらざるを得ず、常にバタバタと落ち着きのない雰囲気に突入していった。私達夫婦の出店スタイルは利益追求型をそもそも見据えていなかったため、例え2人で働いて、私が日雇いで稼ぐ薄給より少なかったとしても気にせず続けた。そのため絶望的な時も度々あったが、ピーさんのアジア料理への飽くなき探求熱が実を結んで、段々と固定客や常連が現れ始め、移住した小川町内でも、特に移住者コミュニティーの間ではすぐに浸透したようだった。
そんな状況を受けて、私もピンポン飯店を生業に…、ということを考えなかった訳ではないが、植木屋として1日働いて得られるお金と、あーだこーだ言いながら出店して1日頑張って得られるお金とを天秤にかけると、キッチンカー一本で生きることは現実的じゃない、という結論は早いウチに私の中で固まっていた。ピンポン飯店はピーさんの情熱が注げる仕事として、彼女の満足につながれば私はよかった。と同時に自分は自分で何か収入源を確保する必要性を感じていた。
ピンポン飯店の開業と並行して、私は登録制の日雇い労働、知人のリフォーム屋さんのお手伝い、知的障害者のお泊まり介助、酒蔵での蔵人仕事、などなど、オレは百姓なんだ、と嘯きながらいろんな仕事を掛け持ちして、心の奥に潜むサバイバル欲を満たしていた。しかし、逆に忙しくなってしまい、家族から不満が出てきたので、拘束時間の長いお泊まり介助の仕事は間もなく止した。酒蔵の蔵人仕事も年末約2ヶ月の期間限定だった。
翌年の1月からの収入をどうしよう。いろんな仕事をやるのもいいけど、でもやっぱり植木屋仕事が面白かったなぁ…。考えた挙句、草刈りとか簡単な剪定ならある程度できるようになったし、よし、勢いで名刺作っちゃえ、ということで身の程知らずにピンポン飯店のお客さんや、知り合った人になりふり構わず配ってみた。すると、その名刺を見たあるお客さんが、ウチに来てくれる植木屋の親方さんが手伝いできる人探してたわよ、と情報をくださった。
ほどなくその親方から着信があった。私はキャリア一年足らずなのに名刺を作って喧伝してたことが途端に恥ずかしくなったが、時間あるならウチで働くか、と提案してくださった。私としては不安なまま名刺営業して必死で自分の仕事を取るより、テクニックも教えてもらえるだろう親方の下でお手伝いで働かせてもらえた方が断然よかった。一つ懸念していたことは、キッチンカーをやってることもあるし、できても週に3日ほどだろう、ということだったが、親方は、それでもいいよ、やってみるか、という有難いお言葉。私は渡に船だ、と頭を下げて弟子入りのようなカタチになった。
それから週に3日は植木屋さん、2日はキッチンカー、ご縁があれば個人でいただいた庭仕事をやる、そんなスタイルでどうにか必要最低限の稼ぎを生み出すことができるようになった。今までのアルバイトや正社員とは違い、私は被雇用者ではない、という満足感に包まれるようになった。自営業やフリーで働いている人はこんなに自由な気分なのか…。40歳を過ぎて私の新しい人生が始まったのだ。風は爽やかに、陽は温かに。私はいつまでも生きている興奮を隠せないのだった。(完)
中学生の時に父から教わった日用大工は私に木工への興味を駆り立てた。それは大人になり社会生活を送る中でも持続して、たまに生活空間に合う棚を作るくらいのことはやっていた。ただ東京の手狭な住環境の中での日用大工は、作業スペース確保の面でも、電動工具使用時の近隣に対する騒音問題の面でもハードルがかなり高いもので、木材の裁断はホームセンターでやってもらうのが基本だった。
ところが、私の買った田舎家は隣家まで2、30mは離れているので、電動工具をバリバリ鳴らしても何の問題もなかった。私はすかさず電動ドライバー、丸ノコ、サンダーなど、安い中古品で買い揃えた。おかげで中古家のリフォームで大活躍したそれらを頼りに、私の木製キッチンカー造りが始まった。
キッチンカー制作の素人DIYのお手本は、ネットで見つけた軽トラキャンパーによるブログがメインとなった。角材を組み立てることで四方上下の小屋の骨組みを作り、骨の隙間に断熱材を押し込む。骨組みを両側から合板で挟めばキッチンの箱ができる。ピーさんの指定したスケッチをもとに作業を進め、初めてながら戸を作り、窓の桟を作り、彼女が拘ってヤフオクでゲットしたらしい昭和レトロな建具が引き戸として開閉できるようにした。
作業は週に一度か二度の休日か、仕事から帰ってきて夕飯、風呂、寝かしつけを済ませた後の夜半に取り組むしかなかった。マイペースながら少し完成形が見えてきたところで、保健所に行き、営業許可に必要な設備要項などを確認した。そこでたまたま「5月中に営業許可を取らないと6月以降は、許可要項が厳しくなります」と、親切にも5月中に営業許可を取ることが吉であると教えてもらった。
5月中に、となるとあと1ヶ月しかない。今のペースだと甘く見積もっても完成は間に合わなさそうだ。その上植木屋の仕事はほとんど休みがない状況だった。仮に営業許可申請が6月以降になると、キッチンに搭載が義務付けられる上下水道タンクの容量を、倍の80Lずつにしなければならず、それは木工作業をする上で非常に面倒が増えることになる…。
その頃、半年以上見習いとしてくっついていたM親方の仕事の進め方ややり方に少なからぬ疑問や違和感を持ち始めていた。休みは少ないし、このまま植木屋やってたらキッチンカーを5月中に完成させるのは無理だ。どうなるか分からぬが、私は親方に正直な気持ちを伝えたところ、結果的に私は植木屋仕事から離れることになってしまった。
しかし、私の頭は何とかキッチンカーの営業許可を5月中に取る、ということに支配されていたので、これからやってくる経済的不安定はうっちゃって、とにかくキッチンカー造りに全勢力を注ぎ込んだ。後半のトタン板の屋根造りや上下水道設備、虫除けのための網戸設置などにかなり難航はしたものの、何とかカタチにして5月末に保健所に完成したものを持ち込むところまで漕ぎ着けた。
しかし、保健所の担当職員に、私の作った上水道があまりに水圧が弱すぎると無情にも判定され出直しを食らった。泣きそうになりながらもう一踏ん張り。ようやく営業許可を出してもらったのは5/31であった…。そして今度は個人事業主としてデビューするために税務署に事業者登録に行った。屋号はピンポン商会。不思議な気持ちだったが私の肩書きはこの時より憧れの「自営業者」となったのだった。つまり、気付いたら私は脱サラを果たしていた。
それからピンポン飯店と名乗る風変わりなキッチンカーの営業が実際に始まるまで1ヶ月。その間私は、右も左も分かってない飲食業(もちろんフリーター時代の飲食経験値はあったが…)でこの先どれほどの利益が出せるのか出せないのか、ハッキリ言って自信はゼロだったので、すかさず日雇いバイトの会社に登録をした。
植木屋は離れたものの、私は植木屋の仕事自体に不満はほとんどなかったし、むしろやり甲斐と爽快感を等しく味わっていたので、できることなら植木屋に戻りたい気持ちもあったのだが、植木屋求人はほぼ週6出勤の厳しい条件が前提だった。自然派とはいえ土木建設業の一端でもある職人仕事に変わりなく、それが当然だとも思えた。とはいえ、人情のほとんど介在しない日雇い労働を続ける気持ちも持てなかったので、私は友人知人に無職アピールをし、何か仕事を融通してもらう必要があった。
7月からキッチンカーでの出店業が始まると生活スタイルがそれに合わせたものに変わらざるを得ず、常にバタバタと落ち着きのない雰囲気に突入していった。私達夫婦の出店スタイルは利益追求型をそもそも見据えていなかったため、例え2人で働いて、私が日雇いで稼ぐ薄給より少なかったとしても気にせず続けた。そのため絶望的な時も度々あったが、ピーさんのアジア料理への飽くなき探求熱が実を結んで、段々と固定客や常連が現れ始め、移住した小川町内でも、特に移住者コミュニティーの間ではすぐに浸透したようだった。
そんな状況を受けて、私もピンポン飯店を生業に…、ということを考えなかった訳ではないが、植木屋として1日働いて得られるお金と、あーだこーだ言いながら出店して1日頑張って得られるお金とを天秤にかけると、キッチンカー一本で生きることは現実的じゃない、という結論は早いウチに私の中で固まっていた。ピンポン飯店はピーさんの情熱が注げる仕事として、彼女の満足につながれば私はよかった。と同時に自分は自分で何か収入源を確保する必要性を感じていた。
ピンポン飯店の開業と並行して、私は登録制の日雇い労働、知人のリフォーム屋さんのお手伝い、知的障害者のお泊まり介助、酒蔵での蔵人仕事、などなど、オレは百姓なんだ、と嘯きながらいろんな仕事を掛け持ちして、心の奥に潜むサバイバル欲を満たしていた。しかし、逆に忙しくなってしまい、家族から不満が出てきたので、拘束時間の長いお泊まり介助の仕事は間もなく止した。酒蔵の蔵人仕事も年末約2ヶ月の期間限定だった。
翌年の1月からの収入をどうしよう。いろんな仕事をやるのもいいけど、でもやっぱり植木屋仕事が面白かったなぁ…。考えた挙句、草刈りとか簡単な剪定ならある程度できるようになったし、よし、勢いで名刺作っちゃえ、ということで身の程知らずにピンポン飯店のお客さんや、知り合った人になりふり構わず配ってみた。すると、その名刺を見たあるお客さんが、ウチに来てくれる植木屋の親方さんが手伝いできる人探してたわよ、と情報をくださった。
ほどなくその親方から着信があった。私はキャリア一年足らずなのに名刺を作って喧伝してたことが途端に恥ずかしくなったが、時間あるならウチで働くか、と提案してくださった。私としては不安なまま名刺営業して必死で自分の仕事を取るより、テクニックも教えてもらえるだろう親方の下でお手伝いで働かせてもらえた方が断然よかった。一つ懸念していたことは、キッチンカーをやってることもあるし、できても週に3日ほどだろう、ということだったが、親方は、それでもいいよ、やってみるか、という有難いお言葉。私は渡に船だ、と頭を下げて弟子入りのようなカタチになった。
それから週に3日は植木屋さん、2日はキッチンカー、ご縁があれば個人でいただいた庭仕事をやる、そんなスタイルでどうにか必要最低限の稼ぎを生み出すことができるようになった。今までのアルバイトや正社員とは違い、私は被雇用者ではない、という満足感に包まれるようになった。自営業やフリーで働いている人はこんなに自由な気分なのか…。40歳を過ぎて私の新しい人生が始まったのだ。風は爽やかに、陽は温かに。私はいつまでも生きている興奮を隠せないのだった。(完)
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