音楽のハナシ
「勇気と君を僕は信じる、君は平気さ僕がいるかーらー」。これはオレがロックの魅惑に取り込まれるきっかけを作った、ジュン・スカイ・ウォーカーズの「風見鶏」というバラード曲の一節だ。まだ世の中が「夢」や「希望」で溢れていると信じていた(バブルと世間がまだ呼ばれていた頃に違いない)当時のオレは、このフレーズを友達と熱唱し、チャリンコをこいで小平の(個人でやっていた)英語教室に通っていたことをはっきり思い出せる。こういう陳腐な歌詞にガキは弱いものなんだろう、オレは「勇気」とか「希望」とか「夢」などといったフレーズに疑問もなく未来を託して興奮していた。
しかし、高校生の時出会った、グランジと呼ばれ一世を風靡したアメリカのロック野郎どもが、「オレは最低だ~」と唸ってディストーションを踏み出してドラムセットをぶっこわしていた頃、オレはそのバイブスに呼応したのか、性質がひねくれだして、「希望」とか「夢」といった通り一遍の歌詞では反応しなくなり、ブラッド・サースティー・ブッチャーズなんかの歌詞に痺れたりしていた。それから大学を卒業して両親の庇護を脱するまでは、やはり常にひねくれ目線で踏んばっていたのだ。
大学を卒業するまでオレはバンドで唄ったことはなかった。自分は残念ながら音痴だ、ということを自覚していたし、それまでは今ベーシストの松田クラッチがボーカルをやっていたのである。オレもクラッチも育ちはいいのに、ハードコアパンクにのめり込んで、そういう真似事をやっていたのだ。ハードコアの魅力は多分にボーカルにあるので、ボーカルは特に張り切らなければならないのに、その当時の松田クラッチは表面アッパー、内面多分にシャイだったので、ライブだというのにオーディエンスの方を向くこともできず、まして煽ることなどはどだい出来ない。中空を見つめるか、ヒドい時は客に背中を向けて叫んでいた。何を叫んでいるのかメンバーは知らないが、どうも英語に聞こえない時があるので(当時は英語で唄うのが流行ってた)、「松っちゃん何語で唄ってんの」と聞いたことがある。すると「英語とドイツ語と混ぜてる」と答えた。松田クラッチは大学で独文学科に籍を置いていた。
さて、大学を卒業して、就職組がバンドを去り、オレとクラッチで一からバンドを再開しなければならなくなった。その頃クラッチは、「もうボーカルはやりたくない、、、けどバンドは続けたい」と非常に頼りなく曖昧なことを口にしていた。「じゃあ何がやりたいの」と聞くと「やっぱベースかな」と答える。それ以来松田クラッチはベーシストになった。そう考えると、曖昧なことを言っても物事は成立するのだな、ということを松田クラッチの歴史が物語っている気がする。
それはさておき、オレはギターだから、ドラマーを入れて3ピースバンドとして始動することになった。これが赤い疑惑の始まりなのだ。3ピースはかっこいいよな、というオレとクラッチの中での同意があったからかだったのか、どうなのか、よく覚えないのだが、じゃあ、オレが唄っちゃおえ、と思うようになった。そこへきてゲンキンなことに、オレは、実はボーカルがやりたかったんじゃないだろうか、とも思えたのだ。オレは音痴を自覚してはいたが、こういう歌を唄いたい、とか、こういうメロディーを唄いたい、とか、そういう野心は元々内に秘めていたので、それで何となく唄い始めて、それからオレはギターボーカリストになったのであった。始まりはいつも曖昧なものなのだ。
クラッチは英独語で唄っていたけど、オレはそんな恥ずかしいことは止したい。というより、とにかく日本語が好きだし、たまとか、ジュンスカとか、ユニコーンとか、そういうヤツらから受けた影響が、日本語詞への憧憬として自分の内にあったので日本語で唄い始めた。日本語で唄うのは当り前じゃないか、何をバカなことを、と思われるかもしれないが、当時、あのインディーパンクカルチャーの中で、歌詞を日本語にして勝負に出るのは割りと「勇気」の要ることだった。下手すると英語で唄うより断然カッコ悪くなるからだ。多分そういう理由で周りのバンドがみんな英語で唄っていた。メロコアとかエモーショナルパンクというジャンルがあるが、そういったバンドは大体英語で唄っていた。
赤い疑惑を始動して2年後にドラマーが沓沢ブレーキーになり、何故か勢いを増したオレたちは、赤い疑惑として「夢よもう一度」という企画を始めることになった。当時のオレはもはや高校生の時みたいに「オレは最低だ~」と叫ぶようなロックの発想など一切なかったし、せっかく社会に出てバンドを再始動させたのだから、どうにか前向きにいようと思っていた。たまたま友人にもらった阪神タイガースの土産菓子の包みに、よく見ると「夢よもう一度!広沢克美」とあった。当時広沢は全盛期を過ぎ、落ち目だったが、まだ前向きに頑張っていたのだろう、オレは何となくそのベタなフレーズが気に入って、そのままイベントの企画名に拝借した。アホ臭いけど「夢よもう一度!」という気持ちでバンドをやっていこう、と思っていたのだろう。
手前味噌になるが、オレの20代は凡人なりに大変なことがいろいろあった。バンドが売れる気配もないし、金はないし、母が死んだ。5年以上付き合ったヒトと別れなければならなくなって、オレは西東京市の実家に戻った。大学を出て実家を飛び出した頃の血気盛んだったロック少年は、8年経って這う這うの体で実家に戻ってきた。何とも情けないハナシだが、オレはそんな自分の人生を不幸とも思わず、むしろこれがオレのブルースだゼ、などと開き直って、今もバンドを続けている。
社会に出て人生の厳しさを味わったオレも、辛いな、大変だな、とか思いながら、それでもとにかく音楽は聞き続けていた。もはやジャンルを問わずいろんな音楽を聞いてきたが、段々と自分がどういう曲が好きなのか、自分の好みが少しずつ分かってくるものらしい。オレはどうやら、オシャレな要素のある音楽は苦手で、派手な音楽も苦手で、苦悩の音楽も苦手なのだが、確実に好きなのが「勇気」を感じさせる音楽だということに最近気付いた。とはいってもオレが個人的に「勇気」を感じるだけのハナシで、それを伝えるのは難しい。基本的にはショギョウムジョウ的な哀れを帯びつつ、それでいて勇気を感じさせる音楽。農民が毎日辛い労働をし、ただ収穫を望んで自分を励ます為に節をつけて唄う。多くは望まず、だけど自暴自棄にならぬように節をつけて唄う。そういったイメージを想起させるメロディーやコード進行に、オレは感じやすいらしい。
そんなことを思うようになって、振り返ってみるとオレはマイナーコードで始まる曲ばっかり聞いていて、作る曲もほとんどマイナーコードばっかりだということに気付いた。そうだと気付くと何だか心配になり始めた。自分は暗いのだろうか。ネガティブなのだろうか。メジャーで始まるハッピーな唄も作らねばならぬだろうか。そんなことをずっと考えながら生活しているウチに、ちょっと待てよ、と思った。マイナーとメジャーというけど、マイナーは暗い、メジャーは明るいって固定観念はおかしくないか、とも思うようになった。
何故ならオレがいつも好きで聞いている音楽達が、仮にマイナーコードが多かったにしろ、オレはそれらの曲を聞いて暗い気持ちになっている訳ではないと確信するからだ。むしろ勇気をつけられたり、励ましてくれたり、後押ししてくれるような気持ちになっていることの方が多いんじゃないか。どちらかというと前向きなヒビキすら感じられるじゃないか。そう思い始めた頃、ひとつ面白いことを知った。
メジャーとマイナーというのは、クラシックでいうと長調と短調ということになるけど、それはいわゆる西洋音階の規則であって、すべての音楽がそれで説明されるものではないということを知ったのだ。会社でアラブ音楽の勉強会があって、クラシックより歴史の古いアラブ音楽やインド音楽には、マカームとかラーガとか呼ばれる音階の種類があり、それは何百種類もあるのだという。西洋音階では長調と短調という風に大雑把に二分して、ドレミファソラシドの7音階にシャープかフラットをつけて、音を区別したのに対し、アラブやインドの音階はもっと複雑に音程を分けて表現しているのだという。それはどういうことかというと、例えば、ドとレの間を8個に分けた微分音を表現したりするのが当り前の世界、ということだったりするのだ。ドレミで音楽を教わったオレは気の遠くなる思いでそれを想像してみた訳だけど、次の瞬間、そうか、ということは、音楽はメジャー、マイナーという区別で考える必要はない、と思うようになったのだ。
マイナーコードでも前向きな響きを表現できる。そういう風に思えるようになった時、今まで聞いてきて好きだった音楽が何でマイナーコードのものが多いのか理解できたし、丁度そんなことを考えていた時に出会ったのがEKDだった。EKDの音楽を聞いた時、オレがものすごく興奮したのは、彼の曲には、ものすごい低い姿勢で、それでもとにかく前を向いて歯を食いしばる、またはポケットの中に隠した拳が何故か強く握られている、そんなような前向きなマイナー調があったのだ。それをレベルミュージックと括っちゃえば簡単だけど、そんな括りよりも、とにかく彼の出すメロディーやコードにオレは共感を覚えた。自分の今後に勇気が湧いた。「夢」とか「希望」ではなくて「勇気」だ。そんな(ミュージシャンとしては非常に大切な)感動やシンパシーに、東京でバンド活動をしていてほとんど出会わなかった。
もうひとつ、最近びっくりしたことがあった。それはソンコ・マージュという日本人のギタリストの存在を知ったことだった。変な名前だけど、これは芸名で、その名はアルゼンチン・フォルクローレの父、アタウアルパ・ユパンキから授かった芸名だそうだ。ソンコ・マージュはそのユパンキの生涯ただひとりの弟子で、南米ギターとフォルクローレの魅力を日本に知らしめた偉人でもある。オレはソンコ・マージュの存在は何とオヤジから最近教えてもらったのであるが、ユパンキのことも最近仕事の関係で知るようになったので、これは何かの縁なのかもしれない。まだいまだに現役で演奏活動をしており、オレはチャンスを得て、我々の世代には知られざるミュージシャン、ソンコ・マージュのライブを見ることができたのだが、まさに圧巻だった。そしてソンコ・マージュの音楽もやっぱり強烈な、前向きなマイナーだった。
後日オヤジから「おまえ、ソンコマさんの本あるけど、興味あるなら読むか」と言われて一冊の本を渡された。ソンコマさんと呼ばれているらしい。その本(刊行は昭和49年)は全体的にカビが生えて汚らしい感じだったけど、内容が面白そうなので読むことにした。それはソンコマさんの対談集で、対談相手として名を連ねるのが、横尾忠則、野坂昭如、小沢昭一、水木しげる、五木寛之、かぐや姫等々、錚々たる顔ぶれである。その中の五木寛之との対談で、「暗さの中の日向性」とか、「暗い縁側の下からでも、お日様のほうに向けてかっと伸びようとするような力」だとか、「つらくてもつらいといって恨み、嘆き、悲しむだけじゃなくて」だとか、そういうようなことを音楽になぞらえて語っている。これこそまさにオレが考えてたことじゃないか。面白いのはソンコマさんが演歌と赤軍派のテロを、あれはデカダン的、退廃的だと例えて否定し、そうじゃなくて乾いたブルースのようなものを奨励している。その文章を読んだ時、ソンコ・マージュのギターと歌を思い出し、なるほど、この人はちゃんと実践している人だな、と感心せざるを得なかった。オレたちは毎日辛くて大変でも前を向いて生きていくしかない。
「いやあ、すごく暗くて、すごくよかったです」と歓喜の顔でライブの感想を言われたことがあった。半年前だかの名古屋のライブの時に地元のお客さんに言われたのだ。オレは、「暗くてよかった」は褒め言葉なのかなんなのか、ちょっと躊躇したけど、いやこれは褒められてるんだな、とすぐに思い返し、よかったよかった、と自分の音楽に自信を持ったのだった。マイナーでも前を向き、マイナーでも勇気をだす。辛いことばかり毎日続くけど、聞くと勇気が湧いて来る。そんな音楽をオレは作りたいのだと思う。ジュンスカが唄った「勇気」とはもはや違うモノなのかもしれないけれど。
しかし、高校生の時出会った、グランジと呼ばれ一世を風靡したアメリカのロック野郎どもが、「オレは最低だ~」と唸ってディストーションを踏み出してドラムセットをぶっこわしていた頃、オレはそのバイブスに呼応したのか、性質がひねくれだして、「希望」とか「夢」といった通り一遍の歌詞では反応しなくなり、ブラッド・サースティー・ブッチャーズなんかの歌詞に痺れたりしていた。それから大学を卒業して両親の庇護を脱するまでは、やはり常にひねくれ目線で踏んばっていたのだ。
大学を卒業するまでオレはバンドで唄ったことはなかった。自分は残念ながら音痴だ、ということを自覚していたし、それまでは今ベーシストの松田クラッチがボーカルをやっていたのである。オレもクラッチも育ちはいいのに、ハードコアパンクにのめり込んで、そういう真似事をやっていたのだ。ハードコアの魅力は多分にボーカルにあるので、ボーカルは特に張り切らなければならないのに、その当時の松田クラッチは表面アッパー、内面多分にシャイだったので、ライブだというのにオーディエンスの方を向くこともできず、まして煽ることなどはどだい出来ない。中空を見つめるか、ヒドい時は客に背中を向けて叫んでいた。何を叫んでいるのかメンバーは知らないが、どうも英語に聞こえない時があるので(当時は英語で唄うのが流行ってた)、「松っちゃん何語で唄ってんの」と聞いたことがある。すると「英語とドイツ語と混ぜてる」と答えた。松田クラッチは大学で独文学科に籍を置いていた。
さて、大学を卒業して、就職組がバンドを去り、オレとクラッチで一からバンドを再開しなければならなくなった。その頃クラッチは、「もうボーカルはやりたくない、、、けどバンドは続けたい」と非常に頼りなく曖昧なことを口にしていた。「じゃあ何がやりたいの」と聞くと「やっぱベースかな」と答える。それ以来松田クラッチはベーシストになった。そう考えると、曖昧なことを言っても物事は成立するのだな、ということを松田クラッチの歴史が物語っている気がする。
それはさておき、オレはギターだから、ドラマーを入れて3ピースバンドとして始動することになった。これが赤い疑惑の始まりなのだ。3ピースはかっこいいよな、というオレとクラッチの中での同意があったからかだったのか、どうなのか、よく覚えないのだが、じゃあ、オレが唄っちゃおえ、と思うようになった。そこへきてゲンキンなことに、オレは、実はボーカルがやりたかったんじゃないだろうか、とも思えたのだ。オレは音痴を自覚してはいたが、こういう歌を唄いたい、とか、こういうメロディーを唄いたい、とか、そういう野心は元々内に秘めていたので、それで何となく唄い始めて、それからオレはギターボーカリストになったのであった。始まりはいつも曖昧なものなのだ。
クラッチは英独語で唄っていたけど、オレはそんな恥ずかしいことは止したい。というより、とにかく日本語が好きだし、たまとか、ジュンスカとか、ユニコーンとか、そういうヤツらから受けた影響が、日本語詞への憧憬として自分の内にあったので日本語で唄い始めた。日本語で唄うのは当り前じゃないか、何をバカなことを、と思われるかもしれないが、当時、あのインディーパンクカルチャーの中で、歌詞を日本語にして勝負に出るのは割りと「勇気」の要ることだった。下手すると英語で唄うより断然カッコ悪くなるからだ。多分そういう理由で周りのバンドがみんな英語で唄っていた。メロコアとかエモーショナルパンクというジャンルがあるが、そういったバンドは大体英語で唄っていた。
赤い疑惑を始動して2年後にドラマーが沓沢ブレーキーになり、何故か勢いを増したオレたちは、赤い疑惑として「夢よもう一度」という企画を始めることになった。当時のオレはもはや高校生の時みたいに「オレは最低だ~」と叫ぶようなロックの発想など一切なかったし、せっかく社会に出てバンドを再始動させたのだから、どうにか前向きにいようと思っていた。たまたま友人にもらった阪神タイガースの土産菓子の包みに、よく見ると「夢よもう一度!広沢克美」とあった。当時広沢は全盛期を過ぎ、落ち目だったが、まだ前向きに頑張っていたのだろう、オレは何となくそのベタなフレーズが気に入って、そのままイベントの企画名に拝借した。アホ臭いけど「夢よもう一度!」という気持ちでバンドをやっていこう、と思っていたのだろう。
手前味噌になるが、オレの20代は凡人なりに大変なことがいろいろあった。バンドが売れる気配もないし、金はないし、母が死んだ。5年以上付き合ったヒトと別れなければならなくなって、オレは西東京市の実家に戻った。大学を出て実家を飛び出した頃の血気盛んだったロック少年は、8年経って這う這うの体で実家に戻ってきた。何とも情けないハナシだが、オレはそんな自分の人生を不幸とも思わず、むしろこれがオレのブルースだゼ、などと開き直って、今もバンドを続けている。
社会に出て人生の厳しさを味わったオレも、辛いな、大変だな、とか思いながら、それでもとにかく音楽は聞き続けていた。もはやジャンルを問わずいろんな音楽を聞いてきたが、段々と自分がどういう曲が好きなのか、自分の好みが少しずつ分かってくるものらしい。オレはどうやら、オシャレな要素のある音楽は苦手で、派手な音楽も苦手で、苦悩の音楽も苦手なのだが、確実に好きなのが「勇気」を感じさせる音楽だということに最近気付いた。とはいってもオレが個人的に「勇気」を感じるだけのハナシで、それを伝えるのは難しい。基本的にはショギョウムジョウ的な哀れを帯びつつ、それでいて勇気を感じさせる音楽。農民が毎日辛い労働をし、ただ収穫を望んで自分を励ます為に節をつけて唄う。多くは望まず、だけど自暴自棄にならぬように節をつけて唄う。そういったイメージを想起させるメロディーやコード進行に、オレは感じやすいらしい。
そんなことを思うようになって、振り返ってみるとオレはマイナーコードで始まる曲ばっかり聞いていて、作る曲もほとんどマイナーコードばっかりだということに気付いた。そうだと気付くと何だか心配になり始めた。自分は暗いのだろうか。ネガティブなのだろうか。メジャーで始まるハッピーな唄も作らねばならぬだろうか。そんなことをずっと考えながら生活しているウチに、ちょっと待てよ、と思った。マイナーとメジャーというけど、マイナーは暗い、メジャーは明るいって固定観念はおかしくないか、とも思うようになった。
何故ならオレがいつも好きで聞いている音楽達が、仮にマイナーコードが多かったにしろ、オレはそれらの曲を聞いて暗い気持ちになっている訳ではないと確信するからだ。むしろ勇気をつけられたり、励ましてくれたり、後押ししてくれるような気持ちになっていることの方が多いんじゃないか。どちらかというと前向きなヒビキすら感じられるじゃないか。そう思い始めた頃、ひとつ面白いことを知った。
メジャーとマイナーというのは、クラシックでいうと長調と短調ということになるけど、それはいわゆる西洋音階の規則であって、すべての音楽がそれで説明されるものではないということを知ったのだ。会社でアラブ音楽の勉強会があって、クラシックより歴史の古いアラブ音楽やインド音楽には、マカームとかラーガとか呼ばれる音階の種類があり、それは何百種類もあるのだという。西洋音階では長調と短調という風に大雑把に二分して、ドレミファソラシドの7音階にシャープかフラットをつけて、音を区別したのに対し、アラブやインドの音階はもっと複雑に音程を分けて表現しているのだという。それはどういうことかというと、例えば、ドとレの間を8個に分けた微分音を表現したりするのが当り前の世界、ということだったりするのだ。ドレミで音楽を教わったオレは気の遠くなる思いでそれを想像してみた訳だけど、次の瞬間、そうか、ということは、音楽はメジャー、マイナーという区別で考える必要はない、と思うようになったのだ。
マイナーコードでも前向きな響きを表現できる。そういう風に思えるようになった時、今まで聞いてきて好きだった音楽が何でマイナーコードのものが多いのか理解できたし、丁度そんなことを考えていた時に出会ったのがEKDだった。EKDの音楽を聞いた時、オレがものすごく興奮したのは、彼の曲には、ものすごい低い姿勢で、それでもとにかく前を向いて歯を食いしばる、またはポケットの中に隠した拳が何故か強く握られている、そんなような前向きなマイナー調があったのだ。それをレベルミュージックと括っちゃえば簡単だけど、そんな括りよりも、とにかく彼の出すメロディーやコードにオレは共感を覚えた。自分の今後に勇気が湧いた。「夢」とか「希望」ではなくて「勇気」だ。そんな(ミュージシャンとしては非常に大切な)感動やシンパシーに、東京でバンド活動をしていてほとんど出会わなかった。
もうひとつ、最近びっくりしたことがあった。それはソンコ・マージュという日本人のギタリストの存在を知ったことだった。変な名前だけど、これは芸名で、その名はアルゼンチン・フォルクローレの父、アタウアルパ・ユパンキから授かった芸名だそうだ。ソンコ・マージュはそのユパンキの生涯ただひとりの弟子で、南米ギターとフォルクローレの魅力を日本に知らしめた偉人でもある。オレはソンコ・マージュの存在は何とオヤジから最近教えてもらったのであるが、ユパンキのことも最近仕事の関係で知るようになったので、これは何かの縁なのかもしれない。まだいまだに現役で演奏活動をしており、オレはチャンスを得て、我々の世代には知られざるミュージシャン、ソンコ・マージュのライブを見ることができたのだが、まさに圧巻だった。そしてソンコ・マージュの音楽もやっぱり強烈な、前向きなマイナーだった。
後日オヤジから「おまえ、ソンコマさんの本あるけど、興味あるなら読むか」と言われて一冊の本を渡された。ソンコマさんと呼ばれているらしい。その本(刊行は昭和49年)は全体的にカビが生えて汚らしい感じだったけど、内容が面白そうなので読むことにした。それはソンコマさんの対談集で、対談相手として名を連ねるのが、横尾忠則、野坂昭如、小沢昭一、水木しげる、五木寛之、かぐや姫等々、錚々たる顔ぶれである。その中の五木寛之との対談で、「暗さの中の日向性」とか、「暗い縁側の下からでも、お日様のほうに向けてかっと伸びようとするような力」だとか、「つらくてもつらいといって恨み、嘆き、悲しむだけじゃなくて」だとか、そういうようなことを音楽になぞらえて語っている。これこそまさにオレが考えてたことじゃないか。面白いのはソンコマさんが演歌と赤軍派のテロを、あれはデカダン的、退廃的だと例えて否定し、そうじゃなくて乾いたブルースのようなものを奨励している。その文章を読んだ時、ソンコ・マージュのギターと歌を思い出し、なるほど、この人はちゃんと実践している人だな、と感心せざるを得なかった。オレたちは毎日辛くて大変でも前を向いて生きていくしかない。
「いやあ、すごく暗くて、すごくよかったです」と歓喜の顔でライブの感想を言われたことがあった。半年前だかの名古屋のライブの時に地元のお客さんに言われたのだ。オレは、「暗くてよかった」は褒め言葉なのかなんなのか、ちょっと躊躇したけど、いやこれは褒められてるんだな、とすぐに思い返し、よかったよかった、と自分の音楽に自信を持ったのだった。マイナーでも前を向き、マイナーでも勇気をだす。辛いことばかり毎日続くけど、聞くと勇気が湧いて来る。そんな音楽をオレは作りたいのだと思う。ジュンスカが唄った「勇気」とはもはや違うモノなのかもしれないけれど。
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