自転車(後)
(長くなったので前回は途中で筆を折ったのであるが…)
実家に出戻った時、さもオレ(主人)のことを待ちかねていたかのように未使用のまま放っておかれていた、タイヤのちっこい似非スポーティーな自転車は、そういう風に、オレにはいい印象を与えていなかった。
もひとつ文句を加えると、その自転車はブレーキも調子が悪かったのだ。それは管理の問題だと言われたら、━━オレは自転車を屋根のないマンションの置き場に野ざらしにしているので、ひとつも文句は言えないのであるが、とにかくすぐにサビて、ブレーキ機能を万全に果たさず、雨の日に━━オレは雨の日に片手傘で自転車に乗るのであったが、とにかく危ない瞬間を何度も味わっていた。キュッと握ると一応減速はしてくれるんだが、引っ張ったワイヤーが元に戻らず、もう一度握ってももう効かない。オレは無理して傘を反対の手に持ち替えて、反対のブレーキを握ってようやく一旦停止するのだが、そこで引っ張ったまま伸びっぱなしになっているワイヤーを素手で元に戻す、という作業が一々生じて辟易していた。
自転車といえども事故は命につながるので、オレはオオクボさんのところではなく、田無駅前の自転車屋に赴き具合を見てもらった。自転車屋の言うには、錆びてワイヤーがもうダメになってるから交換しないとダメ、なのだそうで、オレは抗う必要もないので千円くらいのオカネを払ってブレーキを復活させたのであった。
しかし考えてみると、この自転車をオレが使い始めてまだ数ヶ月なのであって、マンションでの自転車管理状況を変えない限りまたすぐにサビて数ヶ月後にはまたダメになるじゃないか。そんな不安を抱きながら、とはいえその不安を解消する術もみつからず、忘れたつもりで漫然と自転車生活を続行させていたら、やはり数ヶ月後にはまたブレーキが言うことをきかなくなり、特に雨の日の走行は危険だった。
こうなるともう、これはブレーキの錆びやすさだけではなく、このブレーキの造り自体の問題なのじゃないか、とオレは改めて我が自転車を訝り、腹を立てながら今度はオオクボさんのところに行った。するとオオクボさんも結局駅前の旦那と同じようなことをして千円くらいの金を要求するのだった。オレは、(そもそも)このブレーキが異常なのではないのでしょうか、ということを遠回しに聞こうと思ったが、オオクボさんは「ここに鍵をひっかけてるでしょ。これがブレーキのケーブルを圧迫して故障の原因になってるから、ここに鍵をかけないほうがいいね」と訳の分からないことを言うのだった。
確かにオレはダイヤルで解錠するチェーンの鍵を、ハンドル棒の真ん中あたりに、ブレーキワイヤーとまとめる感じでかけてはいたのだが、オレが生きてきた物理原理でいくとそれが原因でブレーキが故障するとは思えなかった。もしかしたらオオクボのおじさんの意見が数パーセントは関係していたのかもしれないが、オレは(やっぱりオオクボさんは違うな、苦手だな)と思い、その後もチェーンの鍵をハンドル棒の真ん中にかけるのはやめなかった。
数ヶ月後、案の定ブレーキがイカれた。予測できた自体だったが、オレはたまりかねて自転車を買い換えることにした。もう一年以上乗ったし、自転車の一台や二台、買えるだけのお金はあるのだし、それに一刻も早くまともな自転車に乗りたい。
オレは地元に貢献するべきだと思い、駅前の自転車屋に行ってみたら、1万円前後で買えるだろうと思っていた自転車の相場が3万円前後だったので魂消てしまった。ゲッ、オレは声を出して驚いてすぐに踵を返した。今の時代、自転車がこんなに高かっただろうか。いやオレは1万円前後の自転車が、例えばドンキ・ホーテのようなお店に行けば確かに売られていたのを記憶している。
ドン・キホーテでは買物したくないので、インターネットでアサヒを調べたら小金井公園の奥に店舗があるようだった。アサヒ、というのはチェーンの自転車屋で、オレは西東京地区でたびたびその店の佇まいを見ていたので、ふと思い出したのだ。アサヒの自転車は安い。オレの頭の中でそんな情報がインプットされていたのだ。
実際小金井公園の向こうにあるアサヒに行ってみると、やはりアサヒの自転車は安かった。そうそう、これこれ、この値段。オレは無数に並べられた自転車の数に圧倒されながら、(何故、駅前の自転車屋はあんなに高いのだろう、自転車の種類も数えるくらいしかなかったのに)とその値段格差を不思議に思わざるをえなかった。品質の違いなのだろうか、それとも流通の問題なのだろうか。流通の問題だとしたら、ああいう個人の自転車屋はこれからどんどん潰れるばかりじゃないだろうか、と心底心配になった。
しかし、背に腹は変えられないので、結局オレはアサヒにて1万円くらいの普通のママチャリを購入した。普通のママチャリだけど、オレは多少の洒落っ気で、その中で明らかに浮いていた、原色の黄色で綺麗に塗装されたヤツを選んだのだった。「この原色の黄色がいいですよね~」オレは年下に見える店員の青年に愛嬌を振りまきながら、嬉々としてその黄色い自転車を購入した。今まで乗っていた景品のアイツとおさらばして、遂にこの洒落た黄色の自転車に乗り換えることができる、そうなったと思っただけでワクワクしだし、その店員もいいヤツにしかみえなくなるようだった。
黄色い自転車はオレが思った通り、景品のアイツとは違って最高の乗り心地に思えた。いや、普通のママチャリなのであるが、タイヤが大きいし、サドルが安定してるので傘もさせるし、買物かごも備わっているという点で、景品のアイツが満たしてくれなかった満足を提供してくれた。それに、この黄色いハツラツしたボディーはどうだろう。オレの楽しい自転車生活はそうして再開したのであった。
オレが黄色い自転車を選んだのは、このキッチュな黄色の自転車にオレが乗っていたら絶対似合うはずだという自信があったからだ。この間抜けさとキッチュさがオレを完全に演出してくれるだろうな、と思っていたからだ。
だが、お似合いのカワイイ自転車での生活が始まったものの、このオレの自転車姿は知り合いやトモダチには見せられないことに気付いた。気付くというより当り前のことなのだ。この自転車の役目は通勤のため東小金井までオレを運ぶことがメインなのだ。だから、誰か知り合いやトモダチに見てもらって「いや~サイコウ似合ってますね~その黄色い自転車」などといって褒められることはまずない、ということが分かってオレは少しガッカリした。
とはいえ、やっぱりこの黄色の自転車を買ってよかったと思えたこともあるにはあったのだ。それは東小金井の自転車置場のジジが、オレの黄色い自転車を手放しに褒め讃えてくれたことだった。
自転車置場には日替わりメニューでジジとババが留守番をしていて、オレは出社の時にこのジジババに触れ合うのが嫌いじゃなかった。中には必ず愛嬌のあるジジやババがいるもので、オレは、(この婆ちゃんは癒されるな、とかこのじいちゃんの「いってらっしゃい」は嫌味がないな)などと評価して楽しんだりしていた。なによりジジババとの「おはようございます」や「いってらっしゃい」「いってきます」などの挨拶は、それだけでプラスアルファの感慨をオレにもたらしてくれようなのだ。
そんな自転車置場のシルバー隊の中の、その中でも割りと若そうに見えるジジの一人がオレの黄色い自転車を見て「ひゃ~、いいねー。黄色い自転車、かっこいいねー、ねえ、ホラ見てよ~、黄色いの、自転車」と言ってペアで当番をやってる隣のババに、自分の価値観をごり押しし出した。老境に至ると人の意見に逆らったりすることがなくなるのだろうか、ババもすっかり、その意見に乗ったと見え「あら、キレイね~、かっこいいね~、黄色い自転車」と応じるのであった。オレは(遂にこの黄色い自転車が褒められた)と非常に嬉しい気持ちだったのだが、会社に遅刻するので「そうですか?いやいや、これ買ったばかりなんですよー」と「よー」のところを伸ばしながら顔を作って会釈して駅に向かわなければならなかった。
その後そのジジが当番の日には必ず黄色い自転車が褒められることになってしまい、少し面倒くさくなってしまったのだが、オレは自分なりにその黄色い自転車を気に入っていた。朝の15分、夜の15分という通勤をメインに健気にその自転車は頑張ってくれていて、ブレーキがあんな早さで錆びたり、タイヤの空気があんな早さで抜けたりすることもなくオレの足としては100点をあげてやってもよい気持ちだった。
ところがある朝、出勤しようと家を出ると黄色い自転車がなくなっていた。オレは心臓がヒヤッとするのを感じながら、そんな自分を戒め、落ち着け、昨日オレは自転車をここに戻しただろうかと振り返ってみた。以前、目と鼻の先にある複合型スーパーに自転車で行って、歩いて帰ってきて、翌朝、自転車がないない、と騒いだ末、そういえばスーパーに、と思ってスーパーに行ったらまんまと黄色い自転車をそこに置き忘れていた、という間抜けをやっていたからだ。
しかし、よく昨日のことを振り返ってみても確かにマンションの自転車置場に戻したはずだった。会社に遅れる、という焦りの中でオレの心臓がまた涼しくなっていった。ダメ元で、と思いスーパーの自転車置場にも行ってみたがやっぱりなかった。諦めの早いオレは、終わった、と思い普段あまり乗らないことにした原付に乗ってその日は会社に行った。
その日は一日、盗まれた黄色い自転車のことをセンチメンタルに感じ、また買ったばかりのお気に入りの自転車を盗まれた不幸な自分に陶酔し、さらにオレはアサヒで自転車を買った時、「いや、保険は結構です」と言って盗難用にも有効な保険に入ることをケチったことをも思い出して心を痛めねばならなかった。
その日は仕事からあがるとすぐに田無警察に行って盗難届けを出した。防犯登録の時はイヤな目にあったが、盗難届けの担当はまともな対応だった。オレは一通りの書類作業が済んだ後に「あの、自転車の盗難って、見つかる可能性は…」と尋ねた。担当は「いやあ、こればっかりはねー、何ともいえないのよ、よくお巡りさんが自転車止めて防犯登録のチェックやってるでしょ、あれで引っかからない限り難しいですから」と無難で全うなことを言うにとどまった。そりゃそうだ、仕方がないことだ、オレは肩を落として帰った。
それから数週間、オレはオヤジの自転車━━遡れば母親の自転車であった━━を借りて通勤した。自転車を盗まれたオレを哀れんで「お父さん、今自転車乗らないから使ってていいぞ」とオヤジが提案してくれたからだ。
その間オレは、自転車が盗まれたことに切ない想いをしたものの、あの黄色い自転車がそれだけ魅力的であったためではないか、ということにも想像を巡らせ、かつそんな自転車を選んだオレの目に狂いがなかった、ということを振り返ってみたり、また、野ざらしにしている自転車が当り前に盗まれるような世間が、実際そういう世間であるのだ、ということを改めて認識したりした。そして、もう仕方がないことではないか、という気持ちになっていた。そういう風に自分の気持ちを収めるのはオレの防衛本能なのかもしれなかった。
オヤジの自転車を借りて数週間たったところで、いくら、オヤジが使ってないから、といっても、実際には時々使うようだったので、そのことで気をつかうのは嫌だから、オレは結局また自転車を新調することにした。数ヶ月のうちにアサヒで2度も自転車を買うことになった。アサヒで2台自転車を買えば、あの駅前の自転車屋の高い自転車を買ったのと同じくらいの出費になることを考えたりしながら、ズラッと並べられた自転車の中から、最も安く、最も地味な見た目の詰まらないママチャリを迷わず選んだ。そして迷わず保険にも加入し、不本意な出費を耐え忍んだ。
後日、自転車置場のあのジジの担当している日に、その地味チャリで初めて駐車することになった天気の悪い薄暗い日、ジジはオレのチャリの色が変わってしまったことを瞬時に見極め「アレー!今日は黄色じゃないのぉ?」と大声を出した。オレは気まずかったが「いや、実はアレ盗まれちゃったんですよ」と低めの声音で応答すると「え~っ!盗まれちゃったぁ…」とみるみるオレに心底同乗するような表情に変わっていった。隣にはあの時ペアだったババがいて、「あの、黄色い自転車盗まれちゃったんだってぇ」「アラ~、まあヒドいことするヒトがいるのね~、まあ」というやりとりを二人でオレに聞かせてくれた。オレは二言三言会話せざるを得なかったのだが、会社に遅刻しそうなのが気になってしかたなかった。
実家に出戻った時、さもオレ(主人)のことを待ちかねていたかのように未使用のまま放っておかれていた、タイヤのちっこい似非スポーティーな自転車は、そういう風に、オレにはいい印象を与えていなかった。
もひとつ文句を加えると、その自転車はブレーキも調子が悪かったのだ。それは管理の問題だと言われたら、━━オレは自転車を屋根のないマンションの置き場に野ざらしにしているので、ひとつも文句は言えないのであるが、とにかくすぐにサビて、ブレーキ機能を万全に果たさず、雨の日に━━オレは雨の日に片手傘で自転車に乗るのであったが、とにかく危ない瞬間を何度も味わっていた。キュッと握ると一応減速はしてくれるんだが、引っ張ったワイヤーが元に戻らず、もう一度握ってももう効かない。オレは無理して傘を反対の手に持ち替えて、反対のブレーキを握ってようやく一旦停止するのだが、そこで引っ張ったまま伸びっぱなしになっているワイヤーを素手で元に戻す、という作業が一々生じて辟易していた。
自転車といえども事故は命につながるので、オレはオオクボさんのところではなく、田無駅前の自転車屋に赴き具合を見てもらった。自転車屋の言うには、錆びてワイヤーがもうダメになってるから交換しないとダメ、なのだそうで、オレは抗う必要もないので千円くらいのオカネを払ってブレーキを復活させたのであった。
しかし考えてみると、この自転車をオレが使い始めてまだ数ヶ月なのであって、マンションでの自転車管理状況を変えない限りまたすぐにサビて数ヶ月後にはまたダメになるじゃないか。そんな不安を抱きながら、とはいえその不安を解消する術もみつからず、忘れたつもりで漫然と自転車生活を続行させていたら、やはり数ヶ月後にはまたブレーキが言うことをきかなくなり、特に雨の日の走行は危険だった。
こうなるともう、これはブレーキの錆びやすさだけではなく、このブレーキの造り自体の問題なのじゃないか、とオレは改めて我が自転車を訝り、腹を立てながら今度はオオクボさんのところに行った。するとオオクボさんも結局駅前の旦那と同じようなことをして千円くらいの金を要求するのだった。オレは、(そもそも)このブレーキが異常なのではないのでしょうか、ということを遠回しに聞こうと思ったが、オオクボさんは「ここに鍵をひっかけてるでしょ。これがブレーキのケーブルを圧迫して故障の原因になってるから、ここに鍵をかけないほうがいいね」と訳の分からないことを言うのだった。
確かにオレはダイヤルで解錠するチェーンの鍵を、ハンドル棒の真ん中あたりに、ブレーキワイヤーとまとめる感じでかけてはいたのだが、オレが生きてきた物理原理でいくとそれが原因でブレーキが故障するとは思えなかった。もしかしたらオオクボのおじさんの意見が数パーセントは関係していたのかもしれないが、オレは(やっぱりオオクボさんは違うな、苦手だな)と思い、その後もチェーンの鍵をハンドル棒の真ん中にかけるのはやめなかった。
数ヶ月後、案の定ブレーキがイカれた。予測できた自体だったが、オレはたまりかねて自転車を買い換えることにした。もう一年以上乗ったし、自転車の一台や二台、買えるだけのお金はあるのだし、それに一刻も早くまともな自転車に乗りたい。
オレは地元に貢献するべきだと思い、駅前の自転車屋に行ってみたら、1万円前後で買えるだろうと思っていた自転車の相場が3万円前後だったので魂消てしまった。ゲッ、オレは声を出して驚いてすぐに踵を返した。今の時代、自転車がこんなに高かっただろうか。いやオレは1万円前後の自転車が、例えばドンキ・ホーテのようなお店に行けば確かに売られていたのを記憶している。
ドン・キホーテでは買物したくないので、インターネットでアサヒを調べたら小金井公園の奥に店舗があるようだった。アサヒ、というのはチェーンの自転車屋で、オレは西東京地区でたびたびその店の佇まいを見ていたので、ふと思い出したのだ。アサヒの自転車は安い。オレの頭の中でそんな情報がインプットされていたのだ。
実際小金井公園の向こうにあるアサヒに行ってみると、やはりアサヒの自転車は安かった。そうそう、これこれ、この値段。オレは無数に並べられた自転車の数に圧倒されながら、(何故、駅前の自転車屋はあんなに高いのだろう、自転車の種類も数えるくらいしかなかったのに)とその値段格差を不思議に思わざるをえなかった。品質の違いなのだろうか、それとも流通の問題なのだろうか。流通の問題だとしたら、ああいう個人の自転車屋はこれからどんどん潰れるばかりじゃないだろうか、と心底心配になった。
しかし、背に腹は変えられないので、結局オレはアサヒにて1万円くらいの普通のママチャリを購入した。普通のママチャリだけど、オレは多少の洒落っ気で、その中で明らかに浮いていた、原色の黄色で綺麗に塗装されたヤツを選んだのだった。「この原色の黄色がいいですよね~」オレは年下に見える店員の青年に愛嬌を振りまきながら、嬉々としてその黄色い自転車を購入した。今まで乗っていた景品のアイツとおさらばして、遂にこの洒落た黄色の自転車に乗り換えることができる、そうなったと思っただけでワクワクしだし、その店員もいいヤツにしかみえなくなるようだった。
黄色い自転車はオレが思った通り、景品のアイツとは違って最高の乗り心地に思えた。いや、普通のママチャリなのであるが、タイヤが大きいし、サドルが安定してるので傘もさせるし、買物かごも備わっているという点で、景品のアイツが満たしてくれなかった満足を提供してくれた。それに、この黄色いハツラツしたボディーはどうだろう。オレの楽しい自転車生活はそうして再開したのであった。
オレが黄色い自転車を選んだのは、このキッチュな黄色の自転車にオレが乗っていたら絶対似合うはずだという自信があったからだ。この間抜けさとキッチュさがオレを完全に演出してくれるだろうな、と思っていたからだ。
だが、お似合いのカワイイ自転車での生活が始まったものの、このオレの自転車姿は知り合いやトモダチには見せられないことに気付いた。気付くというより当り前のことなのだ。この自転車の役目は通勤のため東小金井までオレを運ぶことがメインなのだ。だから、誰か知り合いやトモダチに見てもらって「いや~サイコウ似合ってますね~その黄色い自転車」などといって褒められることはまずない、ということが分かってオレは少しガッカリした。
とはいえ、やっぱりこの黄色の自転車を買ってよかったと思えたこともあるにはあったのだ。それは東小金井の自転車置場のジジが、オレの黄色い自転車を手放しに褒め讃えてくれたことだった。
自転車置場には日替わりメニューでジジとババが留守番をしていて、オレは出社の時にこのジジババに触れ合うのが嫌いじゃなかった。中には必ず愛嬌のあるジジやババがいるもので、オレは、(この婆ちゃんは癒されるな、とかこのじいちゃんの「いってらっしゃい」は嫌味がないな)などと評価して楽しんだりしていた。なによりジジババとの「おはようございます」や「いってらっしゃい」「いってきます」などの挨拶は、それだけでプラスアルファの感慨をオレにもたらしてくれようなのだ。
そんな自転車置場のシルバー隊の中の、その中でも割りと若そうに見えるジジの一人がオレの黄色い自転車を見て「ひゃ~、いいねー。黄色い自転車、かっこいいねー、ねえ、ホラ見てよ~、黄色いの、自転車」と言ってペアで当番をやってる隣のババに、自分の価値観をごり押しし出した。老境に至ると人の意見に逆らったりすることがなくなるのだろうか、ババもすっかり、その意見に乗ったと見え「あら、キレイね~、かっこいいね~、黄色い自転車」と応じるのであった。オレは(遂にこの黄色い自転車が褒められた)と非常に嬉しい気持ちだったのだが、会社に遅刻するので「そうですか?いやいや、これ買ったばかりなんですよー」と「よー」のところを伸ばしながら顔を作って会釈して駅に向かわなければならなかった。
その後そのジジが当番の日には必ず黄色い自転車が褒められることになってしまい、少し面倒くさくなってしまったのだが、オレは自分なりにその黄色い自転車を気に入っていた。朝の15分、夜の15分という通勤をメインに健気にその自転車は頑張ってくれていて、ブレーキがあんな早さで錆びたり、タイヤの空気があんな早さで抜けたりすることもなくオレの足としては100点をあげてやってもよい気持ちだった。
ところがある朝、出勤しようと家を出ると黄色い自転車がなくなっていた。オレは心臓がヒヤッとするのを感じながら、そんな自分を戒め、落ち着け、昨日オレは自転車をここに戻しただろうかと振り返ってみた。以前、目と鼻の先にある複合型スーパーに自転車で行って、歩いて帰ってきて、翌朝、自転車がないない、と騒いだ末、そういえばスーパーに、と思ってスーパーに行ったらまんまと黄色い自転車をそこに置き忘れていた、という間抜けをやっていたからだ。
しかし、よく昨日のことを振り返ってみても確かにマンションの自転車置場に戻したはずだった。会社に遅れる、という焦りの中でオレの心臓がまた涼しくなっていった。ダメ元で、と思いスーパーの自転車置場にも行ってみたがやっぱりなかった。諦めの早いオレは、終わった、と思い普段あまり乗らないことにした原付に乗ってその日は会社に行った。
その日は一日、盗まれた黄色い自転車のことをセンチメンタルに感じ、また買ったばかりのお気に入りの自転車を盗まれた不幸な自分に陶酔し、さらにオレはアサヒで自転車を買った時、「いや、保険は結構です」と言って盗難用にも有効な保険に入ることをケチったことをも思い出して心を痛めねばならなかった。
その日は仕事からあがるとすぐに田無警察に行って盗難届けを出した。防犯登録の時はイヤな目にあったが、盗難届けの担当はまともな対応だった。オレは一通りの書類作業が済んだ後に「あの、自転車の盗難って、見つかる可能性は…」と尋ねた。担当は「いやあ、こればっかりはねー、何ともいえないのよ、よくお巡りさんが自転車止めて防犯登録のチェックやってるでしょ、あれで引っかからない限り難しいですから」と無難で全うなことを言うにとどまった。そりゃそうだ、仕方がないことだ、オレは肩を落として帰った。
それから数週間、オレはオヤジの自転車━━遡れば母親の自転車であった━━を借りて通勤した。自転車を盗まれたオレを哀れんで「お父さん、今自転車乗らないから使ってていいぞ」とオヤジが提案してくれたからだ。
その間オレは、自転車が盗まれたことに切ない想いをしたものの、あの黄色い自転車がそれだけ魅力的であったためではないか、ということにも想像を巡らせ、かつそんな自転車を選んだオレの目に狂いがなかった、ということを振り返ってみたり、また、野ざらしにしている自転車が当り前に盗まれるような世間が、実際そういう世間であるのだ、ということを改めて認識したりした。そして、もう仕方がないことではないか、という気持ちになっていた。そういう風に自分の気持ちを収めるのはオレの防衛本能なのかもしれなかった。
オヤジの自転車を借りて数週間たったところで、いくら、オヤジが使ってないから、といっても、実際には時々使うようだったので、そのことで気をつかうのは嫌だから、オレは結局また自転車を新調することにした。数ヶ月のうちにアサヒで2度も自転車を買うことになった。アサヒで2台自転車を買えば、あの駅前の自転車屋の高い自転車を買ったのと同じくらいの出費になることを考えたりしながら、ズラッと並べられた自転車の中から、最も安く、最も地味な見た目の詰まらないママチャリを迷わず選んだ。そして迷わず保険にも加入し、不本意な出費を耐え忍んだ。
後日、自転車置場のあのジジの担当している日に、その地味チャリで初めて駐車することになった天気の悪い薄暗い日、ジジはオレのチャリの色が変わってしまったことを瞬時に見極め「アレー!今日は黄色じゃないのぉ?」と大声を出した。オレは気まずかったが「いや、実はアレ盗まれちゃったんですよ」と低めの声音で応答すると「え~っ!盗まれちゃったぁ…」とみるみるオレに心底同乗するような表情に変わっていった。隣にはあの時ペアだったババがいて、「あの、黄色い自転車盗まれちゃったんだってぇ」「アラ~、まあヒドいことするヒトがいるのね~、まあ」というやりとりを二人でオレに聞かせてくれた。オレは二言三言会話せざるを得なかったのだが、会社に遅刻しそうなのが気になってしかたなかった。
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