「しごと」
「しーごとー、しーごとー、しーごとーを僕にくーれなーいかあー」というのは、オレが弾き語りの時によく歌う曲のサビの部分で、そのまんま「しごと」という曲名であり、去年作成したCDのタイトルでもある。
この曲は全部ユーモアで作ったのでライブでやると必ずウケる。どんな場所でやってもウケる。間違えてもウケる。何でかというと、そのサビが渾身のメロディーであるからだよ、と言いたいところだけど、それよりも何よりも「しーごとーを僕にくーれなーいかあー」と他力本願的に情けなく歌う姿が単純に滑稽だからだろうと思う。
これを聞いたお客さんは大方、オレが仕事能力にかけているちょっとアレなヒトなんじゃないか、と思うに違いないのだが、それはどちらでもいいとしても、この曲は笑われるために書いただけじゃないのである。つまり「しごと」というモノをみんながどう考えているのか、ということを改めて提案してみたかったのだ。
赤い疑惑で「東京フリーターブリーダー」という曲を作ったのはもう8年ほど前のことになるが、状況はあの時に似ている。あの曲も、どストレートな労働ソングなので、同世代を中心にかなりウケたのだけど、フリーターを礼賛するような曲を歌うことで「赤い疑惑はダメ人間の集まり」みたいな目で見られたのも事実であり、それは曲の意図とは全然違う方向に取られてしまったわけだ。オレはフリーターを礼賛したい、というよりは「フリーターだからダメ」という階級差別的な当時の世論による重圧に対して異議を申し立てたかったのが本当だったのであるが、大筋はフリーター讃歌だと捉えられてしまった。
じゃあ、「しごと」はどういうつもりで書いたんだ、ってことになるわけだが、それを今日は書いてみようと思い立ったのだ。
オレはこれまで、バンドマンとしての人生をできるだけ優先させたかったので、かなりの数のアルバイトを転々としてきた。期間は長くないけど、派遣社員や正社員として働いていた時期もある。さて、仕事をそんなに転々としているということは、それだけで社会的に劣等視されることが多いのであるが、実際そういう生活の中には不本意な休職期間もそれなりに多くあったわけである。
その間は、貯金を食いつぶしながら求人情報とにらめっこし、なかなか仕事が決まらないと、焦り落ち込みつつも、ある程度力を抜いて本を読んだり映画を観たり、普段なかなか時間をかけられないことをしたりするのだ。それは焦燥感をなるべく緩和させるための心のおクスリになる訳だが、かといってそれが悠々自適か、というと全然そんなことはなかったのである。
ふとした瞬間瞬間に、(あゝ、オレは無職だ)という自責の念に苛まれるのである。それは経験のない人には分からないと思うが、なかなかヘビーな体験である。差し迫る、尽きる貯金問題も然りなのだが、それと同時に(オマエは仕事のできないダメ人間だゾ)と、神が、世間が、オレに問いかけてくるのだ。あの脅迫観念はなかなかこたえる。
仕事を転々とするのは、不条理な労働に我慢できなくなったりして辞めてしまうことが多いからで、確かに自分の責任といえばそれまでなんだが、神や世間や、時には家族や友人や恋人までもが直接(お前は無職のダメ人間だー!)と襲いかかってくるともうダメである。泣きたくなり、死にたくなる。僕は死にたい人の気持ちの分からない凡庸な人間としてそれまで生きていたつもりだったけど、本当に情けなくて世間から消えたくなるような気持ちを抱くようになった自分を発見した時はショックだった。
オレはそうやって今まで、仕事をやっている間や、仕事を辞めている間や、仕事を探してる間や、また現に仕事を持っている今でも、(一体、仕事とは何だろう)と考え続けているのである。そしてわかったこともわからないこともあるのだが、とりあえずハッキリとわかったことは、無職であることは悪いことでも何でもないということだった。そう思い至った経緯にダメ連というコミュニティーの存在を知ったことも無関係じゃないかもしれない。
それから━━これも当り前といえば当り前のことだが、仕事にはいい仕事もあれば悪い仕事もあるということ。さらに、長く同じ職場で勤め上げることが美徳とされてるらしいことがまったくナンセンスであること。そして他にも沢山あって枚挙に暇がないのだが、いずれにしろそれらに共通して言える「日本人の仕事に対する美徳や常識」の殆どが、国家なり政治なり世間の同調圧力なりによって作り上げられた概念に過ぎないのではないか、という疑念だった。
その「日本人の仕事に対する美徳や常識」は例えば、「大人になったらちゃんと仕事を持って働くのが当り前である」ことだったり、「職を持ってない若い人はできそこないだと思われる」ことだったり、「オトコは仕事に生き甲斐を見出すもの」だったり、「仕事は社会のためであると思われてる」ことだったり、これも挙げていけばきりがない。
何をムキになってそんなバカげた蒸し返しを今さら、と思う方もあるかもしれない。しかしながら、その「しごと」に対して作り上げられた概念のおかげでどれだけの失業者が精神的に追い込まれていることだろう。そういう偏見のせいで自暴自棄になったり、ひいては自殺にまで追い込まれた人がどれだけいるだろう。
そんな風に、僕らをここまで精神的に追いつめる力を持つ「しごと」とは一体何なのか、とずっと考えていた。そしてシンプルに考え直した。そもそも「しごと」とか「労働」というのは、人が生きるためにするもの、または自分以外の誰かのために捧げる行動、であるはずだったんじゃないか。
生きるために狩りをしたり、水を汲んだり、野菜を作ったり、道具を作ったり、火を起こしたり、労働の発生なんてそういう始まりなんじゃないかと考えた。そして物物交換をやりだすようになり、その内にお金が生まれるようになって労働はどんどん効率的になっていく。
もともとは自分や家族やまたは他の人のために役に立つことになるはずの「しごと」は、いつしか歪な変形を遂げてしまったんじゃないか。オレが現在の社会で「しごと」をしてみてつまずかざるを得なかったのは、そういった「しごと」に対する理想と現実の乖離だった。そんな誰でも分かるような正論を組み立てれば「仕事は社会のため」になるはずなのである。
ところがその誰もがそうだと思っている、または現代ではそう思い込むようにしている「しごと」の実体は、僕が経験した限り社会のための労働を感じさせない面が多すぎた。中には「人のためにならない」と思える仕事や、「人を騙して金を巻き上げる」ような悪どい仕事も世の中には蔓延しているのだ。いや、特に東京ではそれが顕著かもしれないと思った。なぜならいつしか「仕事」は人の為や、社会の為じゃなく、金や膨らみ過ぎた人口の為になっていったからだ。
いまや金融という仕事があるのが象徴的なことだと思うが、株や為替取引でお金を増やして、などということが、いったい畑に種を植えて食べ物を作ることのような分かりやすい労働とどれだけ懸け離れてしまったのだろう、と思わざるを得ない。金融で金が増えるということはどこかでそれだけ不当な労働を強いられている人が存在したりするのではないか? 富はそんな風に机上のやりとりだけで増殖できるようなものなのか?
不必要な機能がいっぱいついた商品や製品を闇雲に浪費させて銭を作ることがどれだけ虚しい労働か。健康という言葉を悪用して不必要なクスリを売りつけたり、化学調味料を詰め込んだ食品をせっせと作ったり、必要じゃないデカい建造物をやたらと作ったり、周りを見渡すと何でこんなことをみんな一生懸命やらなきゃならないんだろう、と思えるような労働がこの世の中にはいくらでもあると思った。
今、オレはとある会社で清掃の仕事をしていて、それはなかなか充実感のある仕事である。何しろ掃除すればそこが綺麗に清潔になったのが眼に見えて分かるので労働した感じがある。誰かのためになってることも想像しやすい。給料はいいとはいえないけど精神的には追いつめられることもない。
しかし世の中にはオレが見てきた通り、またはオレの知り得ない異常な労働がいっぱいあることだろうと思う。世界がグローバル化の影響でもの凄い勢いで繋がり始めているからだろうか。そうだとしたら何十億という人間が妙なバランスの中で生きているのだから、皺寄せがいくところには想像し得ない圧力がかかっているはずだ。何しろ圧力がかかっているその反対側には巨万の富に支えられてのさばっているような人間もいるはずだから。
そんなことを考えると一言に「しごと」と言ってもいろんな局面が複雑にありすぎるので、「しごと」にあぶれた人や、「しごと」にありつけない人や、「しごと」ができない人を差別的に見るのは悪である。本当なら仕事を仕事と義務的に感じることなく生きていければそれ以上のことはないけど、そんな生やさしい資本主義世界じゃないことも分かっているし、そんな世界を変えられるとも思ってないのであるが、それでも日本人の「仕事をする社会人」という恐ろしい概念をもう少し考え直す必要はないであろうか。
何だか自分の曲をこんな風に解説し出すのは愚昧な気がして恐縮であるが、みんなはどうやって「しごと」と向き合い、どうやって「しごと」を割り切り、どういう「しごと」で生きていってるんだろう、という疑問はきっとこの先長いこと考え続けるテーマであろうと思う。音楽で喰っていこうという中学生来抱いていた浅はかな夢もいつかどこかに置き忘れ、まったく先の見当もないまま生きているのであるが、このまま清掃の仕事を終生続けていこうと思っている訳でもない。皆さんと同じように五里霧中のまま、とりあえず日本社会の下の方でなんとなく「しごと」について考えながら、何かしら「しごと」をして生きていくだけなのだろう。
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この曲は全部ユーモアで作ったのでライブでやると必ずウケる。どんな場所でやってもウケる。間違えてもウケる。何でかというと、そのサビが渾身のメロディーであるからだよ、と言いたいところだけど、それよりも何よりも「しーごとーを僕にくーれなーいかあー」と他力本願的に情けなく歌う姿が単純に滑稽だからだろうと思う。
これを聞いたお客さんは大方、オレが仕事能力にかけているちょっとアレなヒトなんじゃないか、と思うに違いないのだが、それはどちらでもいいとしても、この曲は笑われるために書いただけじゃないのである。つまり「しごと」というモノをみんながどう考えているのか、ということを改めて提案してみたかったのだ。
赤い疑惑で「東京フリーターブリーダー」という曲を作ったのはもう8年ほど前のことになるが、状況はあの時に似ている。あの曲も、どストレートな労働ソングなので、同世代を中心にかなりウケたのだけど、フリーターを礼賛するような曲を歌うことで「赤い疑惑はダメ人間の集まり」みたいな目で見られたのも事実であり、それは曲の意図とは全然違う方向に取られてしまったわけだ。オレはフリーターを礼賛したい、というよりは「フリーターだからダメ」という階級差別的な当時の世論による重圧に対して異議を申し立てたかったのが本当だったのであるが、大筋はフリーター讃歌だと捉えられてしまった。
じゃあ、「しごと」はどういうつもりで書いたんだ、ってことになるわけだが、それを今日は書いてみようと思い立ったのだ。
オレはこれまで、バンドマンとしての人生をできるだけ優先させたかったので、かなりの数のアルバイトを転々としてきた。期間は長くないけど、派遣社員や正社員として働いていた時期もある。さて、仕事をそんなに転々としているということは、それだけで社会的に劣等視されることが多いのであるが、実際そういう生活の中には不本意な休職期間もそれなりに多くあったわけである。
その間は、貯金を食いつぶしながら求人情報とにらめっこし、なかなか仕事が決まらないと、焦り落ち込みつつも、ある程度力を抜いて本を読んだり映画を観たり、普段なかなか時間をかけられないことをしたりするのだ。それは焦燥感をなるべく緩和させるための心のおクスリになる訳だが、かといってそれが悠々自適か、というと全然そんなことはなかったのである。
ふとした瞬間瞬間に、(あゝ、オレは無職だ)という自責の念に苛まれるのである。それは経験のない人には分からないと思うが、なかなかヘビーな体験である。差し迫る、尽きる貯金問題も然りなのだが、それと同時に(オマエは仕事のできないダメ人間だゾ)と、神が、世間が、オレに問いかけてくるのだ。あの脅迫観念はなかなかこたえる。
仕事を転々とするのは、不条理な労働に我慢できなくなったりして辞めてしまうことが多いからで、確かに自分の責任といえばそれまでなんだが、神や世間や、時には家族や友人や恋人までもが直接(お前は無職のダメ人間だー!)と襲いかかってくるともうダメである。泣きたくなり、死にたくなる。僕は死にたい人の気持ちの分からない凡庸な人間としてそれまで生きていたつもりだったけど、本当に情けなくて世間から消えたくなるような気持ちを抱くようになった自分を発見した時はショックだった。
オレはそうやって今まで、仕事をやっている間や、仕事を辞めている間や、仕事を探してる間や、また現に仕事を持っている今でも、(一体、仕事とは何だろう)と考え続けているのである。そしてわかったこともわからないこともあるのだが、とりあえずハッキリとわかったことは、無職であることは悪いことでも何でもないということだった。そう思い至った経緯にダメ連というコミュニティーの存在を知ったことも無関係じゃないかもしれない。
それから━━これも当り前といえば当り前のことだが、仕事にはいい仕事もあれば悪い仕事もあるということ。さらに、長く同じ職場で勤め上げることが美徳とされてるらしいことがまったくナンセンスであること。そして他にも沢山あって枚挙に暇がないのだが、いずれにしろそれらに共通して言える「日本人の仕事に対する美徳や常識」の殆どが、国家なり政治なり世間の同調圧力なりによって作り上げられた概念に過ぎないのではないか、という疑念だった。
その「日本人の仕事に対する美徳や常識」は例えば、「大人になったらちゃんと仕事を持って働くのが当り前である」ことだったり、「職を持ってない若い人はできそこないだと思われる」ことだったり、「オトコは仕事に生き甲斐を見出すもの」だったり、「仕事は社会のためであると思われてる」ことだったり、これも挙げていけばきりがない。
何をムキになってそんなバカげた蒸し返しを今さら、と思う方もあるかもしれない。しかしながら、その「しごと」に対して作り上げられた概念のおかげでどれだけの失業者が精神的に追い込まれていることだろう。そういう偏見のせいで自暴自棄になったり、ひいては自殺にまで追い込まれた人がどれだけいるだろう。
そんな風に、僕らをここまで精神的に追いつめる力を持つ「しごと」とは一体何なのか、とずっと考えていた。そしてシンプルに考え直した。そもそも「しごと」とか「労働」というのは、人が生きるためにするもの、または自分以外の誰かのために捧げる行動、であるはずだったんじゃないか。
生きるために狩りをしたり、水を汲んだり、野菜を作ったり、道具を作ったり、火を起こしたり、労働の発生なんてそういう始まりなんじゃないかと考えた。そして物物交換をやりだすようになり、その内にお金が生まれるようになって労働はどんどん効率的になっていく。
もともとは自分や家族やまたは他の人のために役に立つことになるはずの「しごと」は、いつしか歪な変形を遂げてしまったんじゃないか。オレが現在の社会で「しごと」をしてみてつまずかざるを得なかったのは、そういった「しごと」に対する理想と現実の乖離だった。そんな誰でも分かるような正論を組み立てれば「仕事は社会のため」になるはずなのである。
ところがその誰もがそうだと思っている、または現代ではそう思い込むようにしている「しごと」の実体は、僕が経験した限り社会のための労働を感じさせない面が多すぎた。中には「人のためにならない」と思える仕事や、「人を騙して金を巻き上げる」ような悪どい仕事も世の中には蔓延しているのだ。いや、特に東京ではそれが顕著かもしれないと思った。なぜならいつしか「仕事」は人の為や、社会の為じゃなく、金や膨らみ過ぎた人口の為になっていったからだ。
いまや金融という仕事があるのが象徴的なことだと思うが、株や為替取引でお金を増やして、などということが、いったい畑に種を植えて食べ物を作ることのような分かりやすい労働とどれだけ懸け離れてしまったのだろう、と思わざるを得ない。金融で金が増えるということはどこかでそれだけ不当な労働を強いられている人が存在したりするのではないか? 富はそんな風に机上のやりとりだけで増殖できるようなものなのか?
不必要な機能がいっぱいついた商品や製品を闇雲に浪費させて銭を作ることがどれだけ虚しい労働か。健康という言葉を悪用して不必要なクスリを売りつけたり、化学調味料を詰め込んだ食品をせっせと作ったり、必要じゃないデカい建造物をやたらと作ったり、周りを見渡すと何でこんなことをみんな一生懸命やらなきゃならないんだろう、と思えるような労働がこの世の中にはいくらでもあると思った。
今、オレはとある会社で清掃の仕事をしていて、それはなかなか充実感のある仕事である。何しろ掃除すればそこが綺麗に清潔になったのが眼に見えて分かるので労働した感じがある。誰かのためになってることも想像しやすい。給料はいいとはいえないけど精神的には追いつめられることもない。
しかし世の中にはオレが見てきた通り、またはオレの知り得ない異常な労働がいっぱいあることだろうと思う。世界がグローバル化の影響でもの凄い勢いで繋がり始めているからだろうか。そうだとしたら何十億という人間が妙なバランスの中で生きているのだから、皺寄せがいくところには想像し得ない圧力がかかっているはずだ。何しろ圧力がかかっているその反対側には巨万の富に支えられてのさばっているような人間もいるはずだから。
そんなことを考えると一言に「しごと」と言ってもいろんな局面が複雑にありすぎるので、「しごと」にあぶれた人や、「しごと」にありつけない人や、「しごと」ができない人を差別的に見るのは悪である。本当なら仕事を仕事と義務的に感じることなく生きていければそれ以上のことはないけど、そんな生やさしい資本主義世界じゃないことも分かっているし、そんな世界を変えられるとも思ってないのであるが、それでも日本人の「仕事をする社会人」という恐ろしい概念をもう少し考え直す必要はないであろうか。
何だか自分の曲をこんな風に解説し出すのは愚昧な気がして恐縮であるが、みんなはどうやって「しごと」と向き合い、どうやって「しごと」を割り切り、どういう「しごと」で生きていってるんだろう、という疑問はきっとこの先長いこと考え続けるテーマであろうと思う。音楽で喰っていこうという中学生来抱いていた浅はかな夢もいつかどこかに置き忘れ、まったく先の見当もないまま生きているのであるが、このまま清掃の仕事を終生続けていこうと思っている訳でもない。皆さんと同じように五里霧中のまま、とりあえず日本社会の下の方でなんとなく「しごと」について考えながら、何かしら「しごと」をして生きていくだけなのだろう。
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