SNSが人生を変える日
SNSのことを書いたついでにツイッターのことだけもう少し書いておきたい。先に記した通り、オレがツイッターなるものを始めたのは以前、ワールドミュージック関連の仕事をしていた時のことだ。
今オレはその職場からリタイアして籍を置いてないが、当時そこの先輩で奇しくも同世代だったDJ Shhhhhがある時期からツイッターのことをオレに耳打ちするようになった。同い年であり、同じアンダーグラウンド界隈で音楽活動をしていて、ルーツ的にオルタナから多大な影響を受けた我々は、バンドマン、DJという畑こそ違えど、ワールドミュージックに行き着いたことをきっかけに非常に親しくなっていた。そんなShhhhhが、「いやあ、ツイッターで誰々がさぁー…」という具合でさもおかしそうに話しをしてくるようになった。
ツイッターがなんなのか分からないし、それが何なのか詳しく聞くのも野暮だし、と思いとりあえず聞くだけ聞いていたのだが、気になってしょうがなくなってしまった。ほどなくして、その職場でも広報目的でツイッターアカウントを取得しよう、ということになり、ついでだ、と思ったオレはその任務に名乗りをあげて会社のアカウントを取得するのと同時に個人のアカウントも作ってしまった。
ツイッターはみんなのつぶやきを見たり、自分が呟いたりするのを楽しむSNSである、ということは初めから分かっていたが、実際にやってみるとなるほどこれは面白い。オレのような目立ちたがりの人間には向いているかもしれない。それに、一般的でない、マニアックな、音楽をはじめ映画ほかあらゆる方面の文化についての情報収集にもかなり役立つことがわかった。これは雑誌以上に情報収集には便利だと思った。
ツイッターを始めてみると、自分はバンドをやっている知名度もあってか凄い勢いでフォロワーが増えていって調子に乗ってしまったが、一定の数まで伸びると止まってしまった。赤い疑惑の知名度による得票が限界値に達したのである。
ともあれ、同じ趣向を持つ同志が増えたり、ライブや世界の素晴らしい音楽の情報を得たり共有したり、困ったことをぶちまけてフォロワーに解決してもらったり、何よりも赤い疑惑をはじめ、自分の関わる活動の宣伝ツールとして目に見えるメリットが想像以上に多い。また、そのような同じ趣向を持つ赤の他人とやり取りしていたら、そのうち本当に当人に会って友達になったなんていうこともあった。また性格上、バカ正直なことや赤裸々過ぎることをツイートして、シビアな人に怒られたりして凹んだりすることもあったがなんやかんやでこの画期的なSNSを楽しんでいた。
そういえば、そうそう、結婚相手のピーをデートに誘ったのもツイッターを介してだった。恥ずかしいね、こういう話は。しかも後日談として誰かに馴れ初めを話す際に、ピーからフォローされたからDMでお誘いしたのだ、と話していたら、横から「違うよ私が最初にフォローされたんだって」とピーが強く訂正を入れた。おかしいな、と思ってしばらく揉めたが、その内自分が先にフォローしたかもしれないと思い始め負けを認めたのであった。記憶というのは都合よく改ざんされながら刻まれていくのだということを身を以て知ってしまった。
2011年3月11日、東北地方を巨大な地震が襲い2万人以上の死傷者を出す大惨事となった。東京でも体験したことのないような大きな揺れがあり、交通もストップし一時は電話も通じなくなったがその間もネット上のツイッターだけはまともに機能していて、そこでは津波被害の凄惨な映像や、東北の被害状況や人々の安否確認、交通機関の速報、義援金、救援物資募集などの情報がものすごい勢いで飛び交っていた。あの時は皆が等しく未曾有の大惨事に直面して心の動揺を隠せないでいたが、ツイッターのおかげでかなり救われたところがあったと思う。
震災の恐ろしい威力の前に国民が固唾を飲んで時間を過ごす中、今度は原子力発電所の爆発があった。映像で見たそれはまさに何度も見せられてきた広島の原爆映像と重なるインパクトで、日本中全体が更なる混乱に陥った。その事故が徹底的にオレの中でのツイッターの役割りをはっきり変貌させてしまった。東電や政府の、呆れるほどに杜撰な管理体制と隠蔽体質、それに加えて放射能被害の恐ろしさが一気にタイムラインを埋め尽くしたのであった。
紛らわしいデマや噂なども飛び交っていてオレは真相を追うのにてんてこ舞い。毎日毎日仕事から帰ってはパソコンを起動し、ツイッターを起動し、膨大な情報の取捨選択をしながら原発事故、原子力政策、放射能被害などなど、新聞やテレビでは伝えられない本当のことを探し求めては衝撃を受け、リツイートで情報を拡散しては焦る心を落ち着かせようと試みていた。
しかし政府も東電も一向に真摯になることがなく、このまま東日本の住民はどうなるんだろうという懸案に明け暮れていた。このぶつけようのない不安と怒りをどうしよう、という時に反原発、脱原発の市民デモが始まり、それらはほぼツイッターの情報網の力を武器に一気に拡まった。オレはここぞとばかりに「すべての原発を豆腐に!」というプラカードを作り甲斐甲斐しくデモに通った。
デモの現場に集まる人の中でツイッターを介して知り合うようなケースが沢山あった。1人でデモに行っても大体誰かしらトモダチに会ったり話しかけられたりし、不思議な連帯感が生まれ、それらは酷い原子力問題のプレッシャーの中でせめてもの安堵であり希望だった。
以降は自分の趣味である音楽や文化の情報収集よりも、政治的な情報収集のツールとしてオレのツイッターの役割は変化してしまった。それは喜ばしいことなのかどうかよく分からなかったが、政府に対する不信感と、もともと持っていた反体制的な性格とがリンクし、結果的にそういうツイッターの使い方が定着してしまって今にいたる。
そもそもツイッターの存在すらも疑っていた数年前が懐かしいくらいだが、こんなにツイッターが生活の一部になると思わなかった。夫婦揃ってテレビ嫌いな我が家にテレビはなく、新聞もとっているわけではないので、ニュースの収集にツイッターは革命的だった。新聞とテレビ漬けのオヤジとは、そのためによく衝突した。オヤジは「またツイッターか?」と呆れるのが定番になってしまい、議論は大体平行線で終わるのだが、倅も生意気に政治のことに感心を持つようになったか、と思われるようになったのは悪いことではなかった。
と、ここまでツイッターに引き込まれた経緯やらのあれこれを書いてきたが、ツイッターを称賛しきって終わるのは気持ち悪い。中流階級のボンボンに生まれ、おかげで経済的な安定よりも愛や自然の素晴らしさなどに魅せられることになってしまった我々の理想は、恐らくSNSに縛りつけられる人生なんかは肯定したくはないはずだ。そしてSNSにハマりながらも、どれだけLEDの液晶モニターを見ない時間を大切にできるか、という矛盾する命題にぶち当たる。究極的には携帯も持たず悠々自適に暮らせる世界が一番ではないか?しかし、その選択は謂わば隠遁であり、世捨て人となることである。そのような身分でも地位でもなく、社会を断絶して生きられるほどの豪快さも、また蓄えも何もない一市民であることを免れえないオレはこの先もSNSや現代社会に翻弄されながら生きていくしかないと思っている。
今オレはその職場からリタイアして籍を置いてないが、当時そこの先輩で奇しくも同世代だったDJ Shhhhhがある時期からツイッターのことをオレに耳打ちするようになった。同い年であり、同じアンダーグラウンド界隈で音楽活動をしていて、ルーツ的にオルタナから多大な影響を受けた我々は、バンドマン、DJという畑こそ違えど、ワールドミュージックに行き着いたことをきっかけに非常に親しくなっていた。そんなShhhhhが、「いやあ、ツイッターで誰々がさぁー…」という具合でさもおかしそうに話しをしてくるようになった。
ツイッターがなんなのか分からないし、それが何なのか詳しく聞くのも野暮だし、と思いとりあえず聞くだけ聞いていたのだが、気になってしょうがなくなってしまった。ほどなくして、その職場でも広報目的でツイッターアカウントを取得しよう、ということになり、ついでだ、と思ったオレはその任務に名乗りをあげて会社のアカウントを取得するのと同時に個人のアカウントも作ってしまった。
ツイッターはみんなのつぶやきを見たり、自分が呟いたりするのを楽しむSNSである、ということは初めから分かっていたが、実際にやってみるとなるほどこれは面白い。オレのような目立ちたがりの人間には向いているかもしれない。それに、一般的でない、マニアックな、音楽をはじめ映画ほかあらゆる方面の文化についての情報収集にもかなり役立つことがわかった。これは雑誌以上に情報収集には便利だと思った。
ツイッターを始めてみると、自分はバンドをやっている知名度もあってか凄い勢いでフォロワーが増えていって調子に乗ってしまったが、一定の数まで伸びると止まってしまった。赤い疑惑の知名度による得票が限界値に達したのである。
ともあれ、同じ趣向を持つ同志が増えたり、ライブや世界の素晴らしい音楽の情報を得たり共有したり、困ったことをぶちまけてフォロワーに解決してもらったり、何よりも赤い疑惑をはじめ、自分の関わる活動の宣伝ツールとして目に見えるメリットが想像以上に多い。また、そのような同じ趣向を持つ赤の他人とやり取りしていたら、そのうち本当に当人に会って友達になったなんていうこともあった。また性格上、バカ正直なことや赤裸々過ぎることをツイートして、シビアな人に怒られたりして凹んだりすることもあったがなんやかんやでこの画期的なSNSを楽しんでいた。
そういえば、そうそう、結婚相手のピーをデートに誘ったのもツイッターを介してだった。恥ずかしいね、こういう話は。しかも後日談として誰かに馴れ初めを話す際に、ピーからフォローされたからDMでお誘いしたのだ、と話していたら、横から「違うよ私が最初にフォローされたんだって」とピーが強く訂正を入れた。おかしいな、と思ってしばらく揉めたが、その内自分が先にフォローしたかもしれないと思い始め負けを認めたのであった。記憶というのは都合よく改ざんされながら刻まれていくのだということを身を以て知ってしまった。
2011年3月11日、東北地方を巨大な地震が襲い2万人以上の死傷者を出す大惨事となった。東京でも体験したことのないような大きな揺れがあり、交通もストップし一時は電話も通じなくなったがその間もネット上のツイッターだけはまともに機能していて、そこでは津波被害の凄惨な映像や、東北の被害状況や人々の安否確認、交通機関の速報、義援金、救援物資募集などの情報がものすごい勢いで飛び交っていた。あの時は皆が等しく未曾有の大惨事に直面して心の動揺を隠せないでいたが、ツイッターのおかげでかなり救われたところがあったと思う。
震災の恐ろしい威力の前に国民が固唾を飲んで時間を過ごす中、今度は原子力発電所の爆発があった。映像で見たそれはまさに何度も見せられてきた広島の原爆映像と重なるインパクトで、日本中全体が更なる混乱に陥った。その事故が徹底的にオレの中でのツイッターの役割りをはっきり変貌させてしまった。東電や政府の、呆れるほどに杜撰な管理体制と隠蔽体質、それに加えて放射能被害の恐ろしさが一気にタイムラインを埋め尽くしたのであった。
紛らわしいデマや噂なども飛び交っていてオレは真相を追うのにてんてこ舞い。毎日毎日仕事から帰ってはパソコンを起動し、ツイッターを起動し、膨大な情報の取捨選択をしながら原発事故、原子力政策、放射能被害などなど、新聞やテレビでは伝えられない本当のことを探し求めては衝撃を受け、リツイートで情報を拡散しては焦る心を落ち着かせようと試みていた。
しかし政府も東電も一向に真摯になることがなく、このまま東日本の住民はどうなるんだろうという懸案に明け暮れていた。このぶつけようのない不安と怒りをどうしよう、という時に反原発、脱原発の市民デモが始まり、それらはほぼツイッターの情報網の力を武器に一気に拡まった。オレはここぞとばかりに「すべての原発を豆腐に!」というプラカードを作り甲斐甲斐しくデモに通った。
デモの現場に集まる人の中でツイッターを介して知り合うようなケースが沢山あった。1人でデモに行っても大体誰かしらトモダチに会ったり話しかけられたりし、不思議な連帯感が生まれ、それらは酷い原子力問題のプレッシャーの中でせめてもの安堵であり希望だった。
以降は自分の趣味である音楽や文化の情報収集よりも、政治的な情報収集のツールとしてオレのツイッターの役割は変化してしまった。それは喜ばしいことなのかどうかよく分からなかったが、政府に対する不信感と、もともと持っていた反体制的な性格とがリンクし、結果的にそういうツイッターの使い方が定着してしまって今にいたる。
そもそもツイッターの存在すらも疑っていた数年前が懐かしいくらいだが、こんなにツイッターが生活の一部になると思わなかった。夫婦揃ってテレビ嫌いな我が家にテレビはなく、新聞もとっているわけではないので、ニュースの収集にツイッターは革命的だった。新聞とテレビ漬けのオヤジとは、そのためによく衝突した。オヤジは「またツイッターか?」と呆れるのが定番になってしまい、議論は大体平行線で終わるのだが、倅も生意気に政治のことに感心を持つようになったか、と思われるようになったのは悪いことではなかった。
と、ここまでツイッターに引き込まれた経緯やらのあれこれを書いてきたが、ツイッターを称賛しきって終わるのは気持ち悪い。中流階級のボンボンに生まれ、おかげで経済的な安定よりも愛や自然の素晴らしさなどに魅せられることになってしまった我々の理想は、恐らくSNSに縛りつけられる人生なんかは肯定したくはないはずだ。そしてSNSにハマりながらも、どれだけLEDの液晶モニターを見ない時間を大切にできるか、という矛盾する命題にぶち当たる。究極的には携帯も持たず悠々自適に暮らせる世界が一番ではないか?しかし、その選択は謂わば隠遁であり、世捨て人となることである。そのような身分でも地位でもなく、社会を断絶して生きられるほどの豪快さも、また蓄えも何もない一市民であることを免れえないオレはこの先もSNSや現代社会に翻弄されながら生きていくしかないと思っている。
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