某月某日1
朝、出がけに少し余裕があったのでキツツキ舎で月末にやることになってる自分の弾き語りライブのチラシをPCで刷る。これまた自分で数日前に手描きしたお粗末なデザインだが、DIY魂を尊重し、お粗末は観念してスキャンし、2面に配置してプリント。その間に朝飯を食っていたら時間がギリギリになってしまった。
慌てて印刷物を確認したら予定枚数に達していない。インクの残量が残り僅かデス、と機械がダダを捏ねてる。こんな時に、と思うが急いでインクカートリッジを交換。しかしその時点で出かける時間を過ぎている。交換が終了した時点で諦めて家を飛び出したら、いつも13分かけて歩いている距離を7分で行かなければならない。駅まで休まず走って何とか乗車に成功。これは記録である。
ボスが不在で会社での朝礼は簡潔に終わり、退出書類を準備して今日の現場である千駄ヶ谷の物件に向かう。日差しが強く既に夏のような暑さになっている。今日は特別に会社の車を使えたので窓を全開にして走った。
まずは昨日別のスタッフが退室の立会いをすませてある部屋の清掃、整備にあたった。エアコンの上辺のホコリを雑巾で落とし、フィルターを外し、水洗いして再度セット。窓を磨いて、桟を拭き、室内の各所、ホコリが溜まりそうな箇所のホコリを徹底的に落とし、ベッドを上げて掃除機掛け。最後に雑巾がけをして敷布団、掛け布団、枕にカバーをかけて仕上げる。このくらいの部屋なら1時間以内に済ませるのがメンテナンス部の暗黙の掟である。
作業中にオフィスの営業から度々連絡が入り、緊急の頼まれごとを受ける。今日は余裕しゃくしゃくのスケジュールだと思っていたが、みるみるうちにその余裕は無くなっていきそうだった。
無事1時間以内に整備が終わると、乙棟の105号室に行って中に人がいるか確認してくれ、と営業からまた指令が入った。どうやら家賃を滞納しているヤツがいるようだ。けしからん。急いで105室に赴きドアの前に立つ。面倒なハナシなので少々緊張した。ノックをしたが出ない。するとまたさっきの営業から電話。
「先ほど本人が家賃を払いに来たからもう大丈夫です。お手数かけました」
何だ、草臥儲けだな、だけどまあ一件落着、と思っていると今度は同じ棟のドミトリーの住人がオレのところに申し訳なさそうにやってきて、
「自分のドライヤーが洗面所から無くなった」
と控えめに苦情を申し立ててきた。シェアハウスの共有スペースから私物が無くなったとしてもこちらでは責任を負えないが、とりあえず会社に報告するから、と言ったら少し気が収まったのか頷いてどこかに行ってしまった。
そんなこんなでやっていたら昼になったので管理人室で弁当を食べた。昨日スーパーで買った安い鰯を梅干しで煮たものと、カボチャと油揚げを煮たものと、(どっちも煮物だな)と思いながら食べた。食べ終わっても何となく物足りなく感じたのでヘブンイレブンに行って「ちぎれるチョコパン」を買って追撃をくらわした。しかし消費税が8%になったのには本当に腹が立つな。
今日は余裕があると思っていたのに、午前中から慌ただしかった。こういう日はまた何か緊急仕事が増えるに違いないと予測し、休憩を早めに終わって、予定していた「物件の庭をハーブ園に計画」に取りかかろうとしていると、また別の住人に捕まった。「廊下に出しっ放しの机と椅子を撤去してほしい」という要望だった。それは同僚が昨日のウチに撤去すると約束していたのを、当人がすっかり失念してしまい、そのまま廊下に放置されていたモノだそうだ。事情を飲み込んだオレが承諾して2対の机と椅子を廊下から屋外にある倉庫までせっせと運んでいるとまた営業から電話がかかってきた。
今度はどうやら、ドミトリーに住んでるイギリスの男性が昨晩そのドミトリーに女性を連れ込み、周囲を憚らずプレイをおっ始めた、という珍事件に関してだった。同室のお客さん達が居ても立っても居られなくなって、プレイが終わるまで外で待っていた、と具体的な被害をオフィスにクレイムしてきたのだ。同部屋のお調子者のせいで、夜中に外でコトの次第が終わるのを待つなんていうのはとんでもない悪夢だ。
それで、オレの任務は、その悪趣味のプレイボーイにシェアハウスで生活する最低限度のルールを再警告することと、それに関して一度オフィスまで来るようにということを口頭注意してくれという指令だった。明らかに面倒な指令である。(そんなのは本来営業の仕事なんだが)、と不満を感じながらも、あまりチンタラもしていられないので、さっさと片付けてしまおう、と勢いよく問題のドミトリーに入室し周囲のお客さんに犯人の所在を聞く。指差されたベッドを見ると、もう午後2時になろうかというのに、奴さんはスヤスヤ寝息を立てて寝てるらしい。
二段ベット下段のカーテンを開け、ハローハローと話しかけると、起き上がったのは上半身裸でいかにも甘いマスクで身体つきのいい男である。何の用だい、と眠い目をこすって鷹揚にトボけているので、イエスタデー、ディドゥユー、ブリングユアステディー?という具合に単刀直入に攻め込むと、呆れて苦笑し、あっさり「ああ、昨晩のことか、そうだよ。それで?」と開き直って全く悪びれる様子もない。ところがオレの片言英語を一生懸命聞き取ろうとしてくれてる様は何とも憎めないオーラを放っていて、何だかこちらも拍子抜けしてしまった。とはいえオレの任務は口頭注意とオフィスへの出頭を言い渡して承諾を得ることなので、何とかその要件を伝えると「分かった分かった、今日行くよ」と屈託のない笑顔で答えるのだった。
ドミトリーを出るとヤツと同室の中国人に遭遇したので、昨日は大変だったみたいだね、と片言で挨拶すると、
「いやもうホントに勘弁してほしいよ、前もあったんだよ、今日が初めてじゃないんだから」
と言葉に力が入っている。
「すみません。今彼に厳しく注意しといたんで…」
すると彼も苦情が聞き入られてわずかばかりでも不満が解消したのか、
「まあ、国によって文化って違いますから、まあ僕もこんなことであんまりムキになって怒りたくもないんですけどね。」
とか何とか言って笑った。そして、国によって文化が違うというエピソードとして、彼が過去にオンナを連れ込んだ時に、それを如何に自慢げに我々に披露したかを身振り手振りを交えて再演してくれて、
「私の国の文化ではそんな風にはしない」
と言ってまた笑った。オレも内気なアジア人の端くれとして彼の感覚に全面同意だった。
するとまた携帯が鳴った。今日はホントに電話が多い。もちろんオフィスからである。どうやら、Y棟の郵便ポストが開かない、とお客さんからクレームがあったようだ。ダイヤルを右や左やに回し、数字を合わせて解錠するタイプのヤツだ。とりあえずY棟のポストのダイヤルキーナンバーをメモり電話を切る。早速試してみると、何のこともなく開いた。こんなややこしい鍵のポストに慣れてない住人がよく分かりもしないでクレームしてきただけだろう。やれやれ。また営業に電話を掛け直し、まったく問題ない旨を伝えた。
そんなこんなでもう3時。予定してた退室業務でY棟に行く。退室するお客さんはアルジェリア人で名をスアド何某といった。スアドといえばスアド・マシというシンガーがいますね、と知ったかかますと、「ああ、それはエジプトね」と言って笑われた。聞くと日本に日本文学を学びに来たというので、どんな作家を読むのか聞いてみたら村上春樹だ、というのでビックリした。日本文学なんていったら夏目や鴎外、太宰や谷崎などの日本らしい文豪の名が飛び出してくると思ったのに。しかし考えてみれば村上春樹の海外評価の高さは並大抵じゃないらしいとも聞くので全く不思議なことではないが、まさかイスラム圏の国の学生でも村上春樹が読まれているとは。村上春樹は好きではないが、退室手続きを済ませてデポジットを返金し、お客さんが出て行ってから部屋中をまたいつもの要領で掃除していると、ベッドの下から村上春樹の文庫本が一冊出てきた時は何だか温かい気持ちになった。
退室作業が終わって、残された小1時間で朝やろうとしてできなかったY棟の「物件の庭をハーブ園に計画」の土作りをするという任務に再度あたった。普段はひたすら掃除をしてるのに土日出勤だとこんなイレギュラーの仕事もあるのだ。石がゴロゴロ混じってる土くれをスコップで掘り返し、プラの買い物カゴに入れて振るう。始めは楽しかったが、すぐに腰にきてしんどくなってきた。しかもなかなか骨の折れる作業である。あまり捗らないが、体裁を整える為にあまり深く掘らずに全体的に満遍なく耕した。時々ミミズが引っかかったりしたので土状態は悪くはないらしかった。最後に報告用に携帯で写真を撮っておいた。
オフィスに戻る帰途、オフィス近辺の裏道で、ショートカットを失敗してグルグルグルグル回り道をした。ここはアクセルバンドの練習スタジオにも近いので、迷わないはずだったのだが、歩きと車では訳が違うな、と予想以上に一方通行が多いことを知って反省した。ショートカットなのに失敗していつもの道で戻るより時間がかかってしまった。
今晩は一石二鳥堂で社会運動の勉強会があり、顔を出す予定になっていたので、オフィスに帰るとすぐにタイムカードを切って着替えた。開場時間には間に合わなそうだがまあ焦ることもない、と思い空腹だったので開き直って牛丼屋で牛メシを食べた。牛メシは美味しくないが、貧乏なので外食で切り詰める時はついつい使ってしまう。紅生姜と七味をたっぷりかけて食べた。
一石二鳥堂に着くと想像以上に盛況で座る場所もないし、立っている人も店の入り口まで溢れている。首を伸ばして覗いてみると、前方ではスペインだかどこだかでの市民運動の映像が流れている。何でもこのグローバル資本主義社会を牛耳っていると言われる「銀行」に対しユーモアによる反撃を試みよう、という愉快な市民運動であるらしい。華やかに仮装した人々が音楽を鳴らし踊り、叫びながら銀行に押しかけ、パーティー騒ぎをしている。みんな笑いながら見ているがオレは途中からなので笑いのツボがよく分からない。
海外の市民運動は日本と違って常に勢いがあり、新しいスタイルが様々に試されているようで感心するが、(日本人の肌には合わないものも多いよな)、そんなことをポツポツ考えながら最後列で足腰の疲れを我慢しながら映像、そしてそれに続くトークを見守っていた。隣に立っていたおじさんが誰に言うでもなく、疲れたぁ〜と小声でボヤいた。
小一時間くらい立っていたであろうか、トークも終わり、後は飲食とフリートークという感じになった。馴染みの知合いと挨拶したり歓談したりしていたら一石二鳥堂の近くの本屋、錯綜舎のHさんがやってきた。大分久しぶりである。
「ちっ、どうですか最近?」
ちっ、と舌打ちするのはHさんの口癖で、何か不快なことがあるわけではない。
「まあまあボチボチですね。相変わらずです。どうですかそちらは?」
「いやあもうダメ、ダメだね。本なんてさあ、ねえ、ホラ」
Hさんは二鳥堂の書棚の難しそうな分厚い本を手にとって開いて僕に見せる。
「ホラ、ね?字ばっか。これ全部文字だよ。本なんて字しか載ってないんだから、ねえ、まったくつまらないでしょう?」
当たり前のことを言ってるようだけど本屋の主人が力説することじゃないだろうから可笑しくてオレは笑っている。
「ねえ、こんなの誰が面白いがると思う?ねえ、そう思わない?」
「そうすね、もう、本もCDもダメですね。世知辛いですなあ」
あまり良い受け応えになっていないな、とその自分のコメントに反省していると、Hさんは近くにいた二鳥堂の主人Qさんを捕まえて
「ねえ、見てよこれ、全部字だよ、全部。頭おかしいよね。」
Qさんもコメントに窮してただ笑っている。二鳥堂も本を売っている本屋でもあるのだ。
Hさんが
「最近どう?本読んでる?」
とQさんに聞くと
「いや、それが実は最近全然本読んでなくてねー。」
「でしょ!そうだよ!」
本屋の主人2人の会話に満足したオレはその辺で暇乞いをした。店を出て新宿通りに出ると巨大なハリボテを乗せた「ロボットレストラン」の宣伝トラックがけたたましく通り過ぎて行った。
慌てて印刷物を確認したら予定枚数に達していない。インクの残量が残り僅かデス、と機械がダダを捏ねてる。こんな時に、と思うが急いでインクカートリッジを交換。しかしその時点で出かける時間を過ぎている。交換が終了した時点で諦めて家を飛び出したら、いつも13分かけて歩いている距離を7分で行かなければならない。駅まで休まず走って何とか乗車に成功。これは記録である。
ボスが不在で会社での朝礼は簡潔に終わり、退出書類を準備して今日の現場である千駄ヶ谷の物件に向かう。日差しが強く既に夏のような暑さになっている。今日は特別に会社の車を使えたので窓を全開にして走った。
まずは昨日別のスタッフが退室の立会いをすませてある部屋の清掃、整備にあたった。エアコンの上辺のホコリを雑巾で落とし、フィルターを外し、水洗いして再度セット。窓を磨いて、桟を拭き、室内の各所、ホコリが溜まりそうな箇所のホコリを徹底的に落とし、ベッドを上げて掃除機掛け。最後に雑巾がけをして敷布団、掛け布団、枕にカバーをかけて仕上げる。このくらいの部屋なら1時間以内に済ませるのがメンテナンス部の暗黙の掟である。
作業中にオフィスの営業から度々連絡が入り、緊急の頼まれごとを受ける。今日は余裕しゃくしゃくのスケジュールだと思っていたが、みるみるうちにその余裕は無くなっていきそうだった。
無事1時間以内に整備が終わると、乙棟の105号室に行って中に人がいるか確認してくれ、と営業からまた指令が入った。どうやら家賃を滞納しているヤツがいるようだ。けしからん。急いで105室に赴きドアの前に立つ。面倒なハナシなので少々緊張した。ノックをしたが出ない。するとまたさっきの営業から電話。
「先ほど本人が家賃を払いに来たからもう大丈夫です。お手数かけました」
何だ、草臥儲けだな、だけどまあ一件落着、と思っていると今度は同じ棟のドミトリーの住人がオレのところに申し訳なさそうにやってきて、
「自分のドライヤーが洗面所から無くなった」
と控えめに苦情を申し立ててきた。シェアハウスの共有スペースから私物が無くなったとしてもこちらでは責任を負えないが、とりあえず会社に報告するから、と言ったら少し気が収まったのか頷いてどこかに行ってしまった。
そんなこんなでやっていたら昼になったので管理人室で弁当を食べた。昨日スーパーで買った安い鰯を梅干しで煮たものと、カボチャと油揚げを煮たものと、(どっちも煮物だな)と思いながら食べた。食べ終わっても何となく物足りなく感じたのでヘブンイレブンに行って「ちぎれるチョコパン」を買って追撃をくらわした。しかし消費税が8%になったのには本当に腹が立つな。
今日は余裕があると思っていたのに、午前中から慌ただしかった。こういう日はまた何か緊急仕事が増えるに違いないと予測し、休憩を早めに終わって、予定していた「物件の庭をハーブ園に計画」に取りかかろうとしていると、また別の住人に捕まった。「廊下に出しっ放しの机と椅子を撤去してほしい」という要望だった。それは同僚が昨日のウチに撤去すると約束していたのを、当人がすっかり失念してしまい、そのまま廊下に放置されていたモノだそうだ。事情を飲み込んだオレが承諾して2対の机と椅子を廊下から屋外にある倉庫までせっせと運んでいるとまた営業から電話がかかってきた。
今度はどうやら、ドミトリーに住んでるイギリスの男性が昨晩そのドミトリーに女性を連れ込み、周囲を憚らずプレイをおっ始めた、という珍事件に関してだった。同室のお客さん達が居ても立っても居られなくなって、プレイが終わるまで外で待っていた、と具体的な被害をオフィスにクレイムしてきたのだ。同部屋のお調子者のせいで、夜中に外でコトの次第が終わるのを待つなんていうのはとんでもない悪夢だ。
それで、オレの任務は、その悪趣味のプレイボーイにシェアハウスで生活する最低限度のルールを再警告することと、それに関して一度オフィスまで来るようにということを口頭注意してくれという指令だった。明らかに面倒な指令である。(そんなのは本来営業の仕事なんだが)、と不満を感じながらも、あまりチンタラもしていられないので、さっさと片付けてしまおう、と勢いよく問題のドミトリーに入室し周囲のお客さんに犯人の所在を聞く。指差されたベッドを見ると、もう午後2時になろうかというのに、奴さんはスヤスヤ寝息を立てて寝てるらしい。
二段ベット下段のカーテンを開け、ハローハローと話しかけると、起き上がったのは上半身裸でいかにも甘いマスクで身体つきのいい男である。何の用だい、と眠い目をこすって鷹揚にトボけているので、イエスタデー、ディドゥユー、ブリングユアステディー?という具合に単刀直入に攻め込むと、呆れて苦笑し、あっさり「ああ、昨晩のことか、そうだよ。それで?」と開き直って全く悪びれる様子もない。ところがオレの片言英語を一生懸命聞き取ろうとしてくれてる様は何とも憎めないオーラを放っていて、何だかこちらも拍子抜けしてしまった。とはいえオレの任務は口頭注意とオフィスへの出頭を言い渡して承諾を得ることなので、何とかその要件を伝えると「分かった分かった、今日行くよ」と屈託のない笑顔で答えるのだった。
ドミトリーを出るとヤツと同室の中国人に遭遇したので、昨日は大変だったみたいだね、と片言で挨拶すると、
「いやもうホントに勘弁してほしいよ、前もあったんだよ、今日が初めてじゃないんだから」
と言葉に力が入っている。
「すみません。今彼に厳しく注意しといたんで…」
すると彼も苦情が聞き入られてわずかばかりでも不満が解消したのか、
「まあ、国によって文化って違いますから、まあ僕もこんなことであんまりムキになって怒りたくもないんですけどね。」
とか何とか言って笑った。そして、国によって文化が違うというエピソードとして、彼が過去にオンナを連れ込んだ時に、それを如何に自慢げに我々に披露したかを身振り手振りを交えて再演してくれて、
「私の国の文化ではそんな風にはしない」
と言ってまた笑った。オレも内気なアジア人の端くれとして彼の感覚に全面同意だった。
するとまた携帯が鳴った。今日はホントに電話が多い。もちろんオフィスからである。どうやら、Y棟の郵便ポストが開かない、とお客さんからクレームがあったようだ。ダイヤルを右や左やに回し、数字を合わせて解錠するタイプのヤツだ。とりあえずY棟のポストのダイヤルキーナンバーをメモり電話を切る。早速試してみると、何のこともなく開いた。こんなややこしい鍵のポストに慣れてない住人がよく分かりもしないでクレームしてきただけだろう。やれやれ。また営業に電話を掛け直し、まったく問題ない旨を伝えた。
そんなこんなでもう3時。予定してた退室業務でY棟に行く。退室するお客さんはアルジェリア人で名をスアド何某といった。スアドといえばスアド・マシというシンガーがいますね、と知ったかかますと、「ああ、それはエジプトね」と言って笑われた。聞くと日本に日本文学を学びに来たというので、どんな作家を読むのか聞いてみたら村上春樹だ、というのでビックリした。日本文学なんていったら夏目や鴎外、太宰や谷崎などの日本らしい文豪の名が飛び出してくると思ったのに。しかし考えてみれば村上春樹の海外評価の高さは並大抵じゃないらしいとも聞くので全く不思議なことではないが、まさかイスラム圏の国の学生でも村上春樹が読まれているとは。村上春樹は好きではないが、退室手続きを済ませてデポジットを返金し、お客さんが出て行ってから部屋中をまたいつもの要領で掃除していると、ベッドの下から村上春樹の文庫本が一冊出てきた時は何だか温かい気持ちになった。
退室作業が終わって、残された小1時間で朝やろうとしてできなかったY棟の「物件の庭をハーブ園に計画」の土作りをするという任務に再度あたった。普段はひたすら掃除をしてるのに土日出勤だとこんなイレギュラーの仕事もあるのだ。石がゴロゴロ混じってる土くれをスコップで掘り返し、プラの買い物カゴに入れて振るう。始めは楽しかったが、すぐに腰にきてしんどくなってきた。しかもなかなか骨の折れる作業である。あまり捗らないが、体裁を整える為にあまり深く掘らずに全体的に満遍なく耕した。時々ミミズが引っかかったりしたので土状態は悪くはないらしかった。最後に報告用に携帯で写真を撮っておいた。
オフィスに戻る帰途、オフィス近辺の裏道で、ショートカットを失敗してグルグルグルグル回り道をした。ここはアクセルバンドの練習スタジオにも近いので、迷わないはずだったのだが、歩きと車では訳が違うな、と予想以上に一方通行が多いことを知って反省した。ショートカットなのに失敗していつもの道で戻るより時間がかかってしまった。
今晩は一石二鳥堂で社会運動の勉強会があり、顔を出す予定になっていたので、オフィスに帰るとすぐにタイムカードを切って着替えた。開場時間には間に合わなそうだがまあ焦ることもない、と思い空腹だったので開き直って牛丼屋で牛メシを食べた。牛メシは美味しくないが、貧乏なので外食で切り詰める時はついつい使ってしまう。紅生姜と七味をたっぷりかけて食べた。
一石二鳥堂に着くと想像以上に盛況で座る場所もないし、立っている人も店の入り口まで溢れている。首を伸ばして覗いてみると、前方ではスペインだかどこだかでの市民運動の映像が流れている。何でもこのグローバル資本主義社会を牛耳っていると言われる「銀行」に対しユーモアによる反撃を試みよう、という愉快な市民運動であるらしい。華やかに仮装した人々が音楽を鳴らし踊り、叫びながら銀行に押しかけ、パーティー騒ぎをしている。みんな笑いながら見ているがオレは途中からなので笑いのツボがよく分からない。
海外の市民運動は日本と違って常に勢いがあり、新しいスタイルが様々に試されているようで感心するが、(日本人の肌には合わないものも多いよな)、そんなことをポツポツ考えながら最後列で足腰の疲れを我慢しながら映像、そしてそれに続くトークを見守っていた。隣に立っていたおじさんが誰に言うでもなく、疲れたぁ〜と小声でボヤいた。
小一時間くらい立っていたであろうか、トークも終わり、後は飲食とフリートークという感じになった。馴染みの知合いと挨拶したり歓談したりしていたら一石二鳥堂の近くの本屋、錯綜舎のHさんがやってきた。大分久しぶりである。
「ちっ、どうですか最近?」
ちっ、と舌打ちするのはHさんの口癖で、何か不快なことがあるわけではない。
「まあまあボチボチですね。相変わらずです。どうですかそちらは?」
「いやあもうダメ、ダメだね。本なんてさあ、ねえ、ホラ」
Hさんは二鳥堂の書棚の難しそうな分厚い本を手にとって開いて僕に見せる。
「ホラ、ね?字ばっか。これ全部文字だよ。本なんて字しか載ってないんだから、ねえ、まったくつまらないでしょう?」
当たり前のことを言ってるようだけど本屋の主人が力説することじゃないだろうから可笑しくてオレは笑っている。
「ねえ、こんなの誰が面白いがると思う?ねえ、そう思わない?」
「そうすね、もう、本もCDもダメですね。世知辛いですなあ」
あまり良い受け応えになっていないな、とその自分のコメントに反省していると、Hさんは近くにいた二鳥堂の主人Qさんを捕まえて
「ねえ、見てよこれ、全部字だよ、全部。頭おかしいよね。」
Qさんもコメントに窮してただ笑っている。二鳥堂も本を売っている本屋でもあるのだ。
Hさんが
「最近どう?本読んでる?」
とQさんに聞くと
「いや、それが実は最近全然本読んでなくてねー。」
「でしょ!そうだよ!」
本屋の主人2人の会話に満足したオレはその辺で暇乞いをした。店を出て新宿通りに出ると巨大なハリボテを乗せた「ロボットレストラン」の宣伝トラックがけたたましく通り過ぎて行った。
スポンサーサイト