バンドマンに憧れて 第3話 その頃の私の音楽
ロックとの出会いはジュンスカ、たま、という2大事件がもたらしたのは間違いないのだが、単純に音楽ということで思い返すと、そもそも小学校低学年の頃から私はピアノを習っていた。私の父は公務員で母はそれなりの良家の娘だった。出会いは新堀ギターという、今では全国的に広がり定着した、クラシックギター教育のさきがけ的存在の組織でのことであった。つまり両親は音楽好きで、クラシックギターなどを嗜む景気のいい時代の公務員家庭となれば、子にピアノを習わせたい、となったのは不思議なことでもない。
私は2歳年上の姉が1人いて、勿論姉もピアノを習っていた。私が受けたピアノのレッスンというのはバイエルなどの教材楽譜を何度も何度も弾き、スムーズに弾けるようになると次の曲に進む、というありきたりのものだった。うまく弾けないと次に進めないので、当然予習復習をしないといけない。遊びたい盛りの小学生がピアノの予習復習に時間を割いていられるだろうか。
それに加えて、第一話でも書いた通り、私の小学校では、歌謡曲に興じる男子がバカにされたように、ピアノを習う男子もバカにされたので、ピアノを習っている間は妙な心苦しさがつきまとっていた(この、ピアノを習う男子がバカにされる、という前時代的な風習は私の地域だけのことではなさそうだった)。だから姉がどうだったかは分からぬが、私がピアノを望んで習っていたのかどうかはよく覚えていない。
それでもとにかく2年だか3年だかはピアノの稽古に通っていたはずだ。母が近所の先生を見つけてきて通わされていたのだと思う。私がピアノを習ってる間、1度だけ先生が変わった。そしてその変わった後の先生が何とも意地悪な感じのするおばさんで、早々にピアノの稽古が苦痛になった。
それでも私は母の期待を気にしていたのか、それなりに頑張っていた。年に1度か2度開催される「ピアノの発表会」なる催しものにも、蝶ネクタイなんかをつけ、正装して参加したものだった。観衆の眼差し降り注ぐステージに立つと、それ相応の興奮を覚えた──もちろん激しい緊張の中で、音楽的快楽を味わうどころではなかったが…。
しかし2人目の意地悪なおばさん先生に変わってから、ピアノの稽古そのものはもはや苦痛でしかなかった。先生の優しい笑顔なんてものは覚えていない。すごくヒステリックな眼で私の演奏を睨むので、私は萎縮していた。先生は私がうまく弾けないと叱責した。先生の叱責の仕方に疑問を感じ続けた私は母に懇願し、併行して習っていた野球を頑張る、といった体でピアノのレッスンは辞めさせてもらった。
そんなていたらくだったので、私の音楽との出会いは確かにピアノからだったかもしれないが、音楽が楽しいものだと気がついたのはピアノのおかげではなくて、結局光GENJIであり、ジュンスカでありたま、その他の日本のロックバンドのおかげだった。音楽を聞いて心がワクワクドキドキする、なんてことはピアノを習ってる時では体験できなかったから間違いない。
そして最高のワクワクドキドキを私に体験させてくれたジュンスカ生ライブの衝撃で、愚かにもロックンローラーになる、などと激しい思い込みに陥った中学生の私は、その頃からいつか「自分の自分だけの曲を作るんだ」ということを考え始めていた。何故なら目をつぶると私の頭の中では私だけの、私のオリジナルメロディーが流れていたからだ。頭の中で流れるメロディーをカタチにすれば曲は簡単に作れる、と得意満面に思った。私は自信家であった。
中学校の音楽の先生でヒッポウという姓のおじいちゃん先生がいた。先生に反抗することが本分であった生意気な中坊達は先生を呼び捨てにするのが常で、ヒッポウ、ヒッポウと言ってからかっていた。ヒッポウ先生はしかし我が道を行く朗らかな存在感で、しゃべり声もまるで歌声のように高く美しく、喋り、唄いながら舞うように授業をする先生だった。
私はそのヒッポウ先生を影ながら尊敬していたが、ヒッポウ先生がある時、作曲の授業というものを持ち込んだ。生徒に無理矢理楽譜を書かせて作曲させようという授業だ。私はこれはいいチャンスだと思い、頭の中で流れる名曲を楽譜に起こそうと、ピアノと格闘した(ピアノをやっていたので楽譜の読み書きが一応できたのだ)が、いざ譜面におこされたメロディーを弾いても頭の中で流れる名曲にはならず、何だかショボかった。私は簡単な挫折感を覚えた。曲を作るのは簡単なことじゃない、と気づいたのだ。
そのヒッポウ先生の授業でこんなこともあった。生徒1人1人、みんなの前に出て練習してきた歌を歌う、という課題が出されたのだ。それまでの音楽の授業でも合唱はポピュラーであったが、合唱でなく独唱で歌を歌うというのはちょっと気合いのいるものだった。まして将来はロックンローラーになる、と思い込んでいた自信過剰のガキにとっては勝負所だった。
私の順番になり、ガチガチに緊張した私が一生懸命唄い終わると、ミドリちゃんが私のところに来て「長尾くん、歌上手だね〜、なんでそんなに上手に歌えるのか分からない!」と感嘆して言うのだ。私は実は自分の歌にさして自信がなかったので。ホッと胸を撫で下ろしたのだ。
その後、ミドリちゃんの番がまわってきた。ミドリちゃんはあんなことを言ってたのにすごく上手に歌った。私はホントにミドリちゃんより上手に歌えたのだろうか、何だか少し不安になるほどだった。
その後しばらくしてバレンタインに私はミドリちゃんからチョコレートをもらい、しかも告白されたのである。私が女性から告白されたのは先にも後にもそれっきり。それ程貴重な機会だったのに関わらず私は、ミドリちゃんのことをいい子だけど好きだとは思ってなかったので、断わってしまった。何だか心苦しかったのは本当だが、もしかして、と思った。もしかして、あの時ヒッポウ先生の歌の授業で、私の歌を唯一あんなに褒めちぎったのはミドリちゃんだけだったけど、アレはミドリちゃんの過剰な贔屓によるものだったのではないか。あの時他の子はオレに何にも言ってくれなかったもんなあ。自信家の癖に凹み易い私はそう思い始めた。
歌にさして自信がなかったのは、母からも時々、あなたは歌わない方がいいわね、などとからかい半分に言われていたことも尾をひいていたと思う。そういう母も音痴なのであったが、音痴な母にディスられるのは腹が立つと同時にショックでもあった。自分サイコウ、と思いがちな自信家の私であったが、客観的な意見を無視できるほど盲目でもなかったのだ。歌は明らかに母より父の方が上手く、母の歌は旋律がブレる。もしかしたら私の歌唱力には母の音痴が遺伝したのじゃないだろうか。
その後私は高校に入り、軽音楽部に入り、そこで体験する発声練習という集団ボイストレーニング業で自分が明らかに人より音域が狭く、声量もなく、それなりの音痴であることを認めざるを得ないこととなるのだ。ああ、ロックンロール。
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私は2歳年上の姉が1人いて、勿論姉もピアノを習っていた。私が受けたピアノのレッスンというのはバイエルなどの教材楽譜を何度も何度も弾き、スムーズに弾けるようになると次の曲に進む、というありきたりのものだった。うまく弾けないと次に進めないので、当然予習復習をしないといけない。遊びたい盛りの小学生がピアノの予習復習に時間を割いていられるだろうか。
それに加えて、第一話でも書いた通り、私の小学校では、歌謡曲に興じる男子がバカにされたように、ピアノを習う男子もバカにされたので、ピアノを習っている間は妙な心苦しさがつきまとっていた(この、ピアノを習う男子がバカにされる、という前時代的な風習は私の地域だけのことではなさそうだった)。だから姉がどうだったかは分からぬが、私がピアノを望んで習っていたのかどうかはよく覚えていない。
それでもとにかく2年だか3年だかはピアノの稽古に通っていたはずだ。母が近所の先生を見つけてきて通わされていたのだと思う。私がピアノを習ってる間、1度だけ先生が変わった。そしてその変わった後の先生が何とも意地悪な感じのするおばさんで、早々にピアノの稽古が苦痛になった。
それでも私は母の期待を気にしていたのか、それなりに頑張っていた。年に1度か2度開催される「ピアノの発表会」なる催しものにも、蝶ネクタイなんかをつけ、正装して参加したものだった。観衆の眼差し降り注ぐステージに立つと、それ相応の興奮を覚えた──もちろん激しい緊張の中で、音楽的快楽を味わうどころではなかったが…。
しかし2人目の意地悪なおばさん先生に変わってから、ピアノの稽古そのものはもはや苦痛でしかなかった。先生の優しい笑顔なんてものは覚えていない。すごくヒステリックな眼で私の演奏を睨むので、私は萎縮していた。先生は私がうまく弾けないと叱責した。先生の叱責の仕方に疑問を感じ続けた私は母に懇願し、併行して習っていた野球を頑張る、といった体でピアノのレッスンは辞めさせてもらった。
そんなていたらくだったので、私の音楽との出会いは確かにピアノからだったかもしれないが、音楽が楽しいものだと気がついたのはピアノのおかげではなくて、結局光GENJIであり、ジュンスカでありたま、その他の日本のロックバンドのおかげだった。音楽を聞いて心がワクワクドキドキする、なんてことはピアノを習ってる時では体験できなかったから間違いない。
そして最高のワクワクドキドキを私に体験させてくれたジュンスカ生ライブの衝撃で、愚かにもロックンローラーになる、などと激しい思い込みに陥った中学生の私は、その頃からいつか「自分の自分だけの曲を作るんだ」ということを考え始めていた。何故なら目をつぶると私の頭の中では私だけの、私のオリジナルメロディーが流れていたからだ。頭の中で流れるメロディーをカタチにすれば曲は簡単に作れる、と得意満面に思った。私は自信家であった。
中学校の音楽の先生でヒッポウという姓のおじいちゃん先生がいた。先生に反抗することが本分であった生意気な中坊達は先生を呼び捨てにするのが常で、ヒッポウ、ヒッポウと言ってからかっていた。ヒッポウ先生はしかし我が道を行く朗らかな存在感で、しゃべり声もまるで歌声のように高く美しく、喋り、唄いながら舞うように授業をする先生だった。
私はそのヒッポウ先生を影ながら尊敬していたが、ヒッポウ先生がある時、作曲の授業というものを持ち込んだ。生徒に無理矢理楽譜を書かせて作曲させようという授業だ。私はこれはいいチャンスだと思い、頭の中で流れる名曲を楽譜に起こそうと、ピアノと格闘した(ピアノをやっていたので楽譜の読み書きが一応できたのだ)が、いざ譜面におこされたメロディーを弾いても頭の中で流れる名曲にはならず、何だかショボかった。私は簡単な挫折感を覚えた。曲を作るのは簡単なことじゃない、と気づいたのだ。
そのヒッポウ先生の授業でこんなこともあった。生徒1人1人、みんなの前に出て練習してきた歌を歌う、という課題が出されたのだ。それまでの音楽の授業でも合唱はポピュラーであったが、合唱でなく独唱で歌を歌うというのはちょっと気合いのいるものだった。まして将来はロックンローラーになる、と思い込んでいた自信過剰のガキにとっては勝負所だった。
私の順番になり、ガチガチに緊張した私が一生懸命唄い終わると、ミドリちゃんが私のところに来て「長尾くん、歌上手だね〜、なんでそんなに上手に歌えるのか分からない!」と感嘆して言うのだ。私は実は自分の歌にさして自信がなかったので。ホッと胸を撫で下ろしたのだ。
その後、ミドリちゃんの番がまわってきた。ミドリちゃんはあんなことを言ってたのにすごく上手に歌った。私はホントにミドリちゃんより上手に歌えたのだろうか、何だか少し不安になるほどだった。
その後しばらくしてバレンタインに私はミドリちゃんからチョコレートをもらい、しかも告白されたのである。私が女性から告白されたのは先にも後にもそれっきり。それ程貴重な機会だったのに関わらず私は、ミドリちゃんのことをいい子だけど好きだとは思ってなかったので、断わってしまった。何だか心苦しかったのは本当だが、もしかして、と思った。もしかして、あの時ヒッポウ先生の歌の授業で、私の歌を唯一あんなに褒めちぎったのはミドリちゃんだけだったけど、アレはミドリちゃんの過剰な贔屓によるものだったのではないか。あの時他の子はオレに何にも言ってくれなかったもんなあ。自信家の癖に凹み易い私はそう思い始めた。
歌にさして自信がなかったのは、母からも時々、あなたは歌わない方がいいわね、などとからかい半分に言われていたことも尾をひいていたと思う。そういう母も音痴なのであったが、音痴な母にディスられるのは腹が立つと同時にショックでもあった。自分サイコウ、と思いがちな自信家の私であったが、客観的な意見を無視できるほど盲目でもなかったのだ。歌は明らかに母より父の方が上手く、母の歌は旋律がブレる。もしかしたら私の歌唱力には母の音痴が遺伝したのじゃないだろうか。
その後私は高校に入り、軽音楽部に入り、そこで体験する発声練習という集団ボイストレーニング業で自分が明らかに人より音域が狭く、声量もなく、それなりの音痴であることを認めざるを得ないこととなるのだ。ああ、ロックンロール。
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