バンドマンに憧れて 第6話 ロックンローラーになりたい!
バンドを始めるきっかけとして最適であろうと思われた「軽音楽部」があって、なおかつ男女共学の学校をみつけ目星をつけた私は、初めて塾通いというものを体験することになった。その頃、学歴社会、受験戦争、というものがすっかり日本に根付いていて、さらにそれをとりまく受験ビジネスも熾烈な雰囲気になっているのを、子供ながらになんとなく不気味に感じたものである。吉祥寺の東進ハイスクールという進学塾が、風変わりで奇抜な教え方をする名物先生を集めた経営スタイルとテレビCMで世間の注目を集めていた。
私が通ったひのき進学教室田無校にも風変わり先生やすぐキレる鬼先生がいた。生徒のちょっとしたミスで耳をつんざくような大声を上げてキレる先生や、指名されて答えを間違えた生徒の首すじを舐める、というあからさまな変態先生もいた。「首筋舐め」はさすがに女子にはやっていなかったが、今時そんな風な、パワハラに値するような体罰をしたら大問題になってるだろう。私が通った塾が特別だった訳じゃなく、そんな妙な雰囲気がどこの塾にもあったんじゃなかろうか。
生まれて初めて塾というものに通い、学校ではまったく習わないような難解な課題をひたすらこなす毎日が始まった。特に塾で追求されるような数学や国語の問題などは、果たしてこの勉強が将来どのように役に立つのだろうか、という素朴な疑問を常に抱かせる机上の代物ばかりで虚しさが付きまとった。が、これもロックンローラーへの道のりの1つの過程に過ぎないと自分に言い聞かせ、乗り切るしかなかった。
それまでは、学校の勉強で夜更かしをしたり徹夜するようなことはなかったが、塾通いをしながらも、周りに推されて運動会の応援団や、学園祭実行委員などを引き受けてしまった私は、睡眠時間を削るようになり、がむしゃらになった。初めて金縛りという身体異変を経験したのもこの頃であった。学校も学校の行事も塾も休まず一生懸命頑張ってるオレ、に恥ずかしながら気持ちよさすら感じていたのかもしれない。
冬を迎え、私は本命と、本命よりちょっと偏差値が高い難関校と、いわゆる滑り止めと、3校の入学試験を受け、難関校は落ちたが、見事に本命と滑り止めとに合格した。これで目出たくロックンローラーへの道を一歩踏み出したのだ、と思った。まさに心躍る春を迎えることができたのである。順風満帆、私の人生はこれからだ。私は胸を張って卒業式を迎えることができた。
卒業式といえば忘れられないことがある。私の通った中学校では、誰の発案なのか、卒業証書授与の際に、壇上で生徒1人1人にこれからの人生の抱負を発表させる、という気味の悪い儀式が執り行われていたのだ。しかもその抱負は書道の半紙に太字で書かれ、ステージ袖で1人1人の発表に合わせてめくられるという余計な演出まであった。そんなことわざわざ多くの生徒の前で言わせることに何の意味があるのだろう。言いたくない生徒だっているだろう。その気味の悪さに気づかなかった幼い私は、よし、ここぞとばかりに自分の抱負を堂々と発表してやろう、という気になって自己主張の機会に興奮していたのだ。
ロックスターを目指す上で好条件だったのは、私が無類の目立ちたがり屋だったことである。しかも天邪鬼の目立ちたがりだったので、この壇上での意思表明に関しても、他の誰もが絶対言わないような爆弾をドロップさせてやろうと思っていた。そして私は迷わず「溢れ出る感情をロックにしたいです!」と叫んだのだった。この暑苦しい自己主張に対する皆からの反応は、高揚感のせいかまったく覚えていないのだが、その後卒業生全員で合唱し、在校生に見送られる花道の途中で、私はこみ上げてくるものを抑えきれず生まれて初めて感動による涙を知った。しかも大号泣ってやつだ。塾やら学校行事やらに尽力し、金縛りにあいながらも本命校に入学した。そんな1年間はなかなかドラマチックだった。私の人生のマックスはこの時ではなかろうかと時々思う。
人生のマックスだったかどうかはさておき、ここが1つの分岐点だったことは間違いない。それまでは学校生活というものを肯定的に認め、謳歌すらしていたが、高校生になると段々ひねくれて学校生活の空しさの方をより意識するようになっていったのだ。その変化は私が入学した中央大学杉並高校、略して中杉の校風に依るところが大きかったのかもしれない。
中杉は私の住んでいた田無から西武新宿線で4つ上がった上井草という駅から歩いて行けた距離感だったため、交通の便は最高だった。そして前述の通り男女共学(当時の私立は共学じゃなく男子校や女子校も多かった)でしかも軽音楽部があるということで私は過度に期待を高めていた。軽音楽部のある高校もその頃は少なく、私は早くバンドをやりたかったので、そんな過剰な期待も無理からぬことであったと思う。
しかし、現実はいつもそう甘くはないものである。バイトの面接で受かって期待を高めて働いてみたらビックリ、っていうアレと同じなのである。率直に言って中杉は面白くなかった。ガリ勉タイプの大人しくて内向きな雰囲気の男子が多かったのである。勉強できるヤツもできないヤツもごっちゃに存在していたそれまでの公立中学校とは違い、勉強はできるけど…、というタイプの没個性な輩ばかりに私には思えてつまらなかったのだ。
そして肝心要の軽音楽部もやはり自分の想像していた愉快な場所ではなかった。軽音といえばどちらかというと文化部なのに、ちゃんと先輩後輩の上下関係ができあがっている集まりでまったく居心地はよくなかった。しかし私はただバンドをしたい、という一心で入部するしかなかったのだ。バイト探しのように別の軽音部がある訳ではなかったのだから。そんな風にして私のロックの第一歩が始まっていくのであった。
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私が通ったひのき進学教室田無校にも風変わり先生やすぐキレる鬼先生がいた。生徒のちょっとしたミスで耳をつんざくような大声を上げてキレる先生や、指名されて答えを間違えた生徒の首すじを舐める、というあからさまな変態先生もいた。「首筋舐め」はさすがに女子にはやっていなかったが、今時そんな風な、パワハラに値するような体罰をしたら大問題になってるだろう。私が通った塾が特別だった訳じゃなく、そんな妙な雰囲気がどこの塾にもあったんじゃなかろうか。
生まれて初めて塾というものに通い、学校ではまったく習わないような難解な課題をひたすらこなす毎日が始まった。特に塾で追求されるような数学や国語の問題などは、果たしてこの勉強が将来どのように役に立つのだろうか、という素朴な疑問を常に抱かせる机上の代物ばかりで虚しさが付きまとった。が、これもロックンローラーへの道のりの1つの過程に過ぎないと自分に言い聞かせ、乗り切るしかなかった。
それまでは、学校の勉強で夜更かしをしたり徹夜するようなことはなかったが、塾通いをしながらも、周りに推されて運動会の応援団や、学園祭実行委員などを引き受けてしまった私は、睡眠時間を削るようになり、がむしゃらになった。初めて金縛りという身体異変を経験したのもこの頃であった。学校も学校の行事も塾も休まず一生懸命頑張ってるオレ、に恥ずかしながら気持ちよさすら感じていたのかもしれない。
冬を迎え、私は本命と、本命よりちょっと偏差値が高い難関校と、いわゆる滑り止めと、3校の入学試験を受け、難関校は落ちたが、見事に本命と滑り止めとに合格した。これで目出たくロックンローラーへの道を一歩踏み出したのだ、と思った。まさに心躍る春を迎えることができたのである。順風満帆、私の人生はこれからだ。私は胸を張って卒業式を迎えることができた。
卒業式といえば忘れられないことがある。私の通った中学校では、誰の発案なのか、卒業証書授与の際に、壇上で生徒1人1人にこれからの人生の抱負を発表させる、という気味の悪い儀式が執り行われていたのだ。しかもその抱負は書道の半紙に太字で書かれ、ステージ袖で1人1人の発表に合わせてめくられるという余計な演出まであった。そんなことわざわざ多くの生徒の前で言わせることに何の意味があるのだろう。言いたくない生徒だっているだろう。その気味の悪さに気づかなかった幼い私は、よし、ここぞとばかりに自分の抱負を堂々と発表してやろう、という気になって自己主張の機会に興奮していたのだ。
ロックスターを目指す上で好条件だったのは、私が無類の目立ちたがり屋だったことである。しかも天邪鬼の目立ちたがりだったので、この壇上での意思表明に関しても、他の誰もが絶対言わないような爆弾をドロップさせてやろうと思っていた。そして私は迷わず「溢れ出る感情をロックにしたいです!」と叫んだのだった。この暑苦しい自己主張に対する皆からの反応は、高揚感のせいかまったく覚えていないのだが、その後卒業生全員で合唱し、在校生に見送られる花道の途中で、私はこみ上げてくるものを抑えきれず生まれて初めて感動による涙を知った。しかも大号泣ってやつだ。塾やら学校行事やらに尽力し、金縛りにあいながらも本命校に入学した。そんな1年間はなかなかドラマチックだった。私の人生のマックスはこの時ではなかろうかと時々思う。
人生のマックスだったかどうかはさておき、ここが1つの分岐点だったことは間違いない。それまでは学校生活というものを肯定的に認め、謳歌すらしていたが、高校生になると段々ひねくれて学校生活の空しさの方をより意識するようになっていったのだ。その変化は私が入学した中央大学杉並高校、略して中杉の校風に依るところが大きかったのかもしれない。
中杉は私の住んでいた田無から西武新宿線で4つ上がった上井草という駅から歩いて行けた距離感だったため、交通の便は最高だった。そして前述の通り男女共学(当時の私立は共学じゃなく男子校や女子校も多かった)でしかも軽音楽部があるということで私は過度に期待を高めていた。軽音楽部のある高校もその頃は少なく、私は早くバンドをやりたかったので、そんな過剰な期待も無理からぬことであったと思う。
しかし、現実はいつもそう甘くはないものである。バイトの面接で受かって期待を高めて働いてみたらビックリ、っていうアレと同じなのである。率直に言って中杉は面白くなかった。ガリ勉タイプの大人しくて内向きな雰囲気の男子が多かったのである。勉強できるヤツもできないヤツもごっちゃに存在していたそれまでの公立中学校とは違い、勉強はできるけど…、というタイプの没個性な輩ばかりに私には思えてつまらなかったのだ。
そして肝心要の軽音楽部もやはり自分の想像していた愉快な場所ではなかった。軽音といえばどちらかというと文化部なのに、ちゃんと先輩後輩の上下関係ができあがっている集まりでまったく居心地はよくなかった。しかし私はただバンドをしたい、という一心で入部するしかなかったのだ。バイト探しのように別の軽音部がある訳ではなかったのだから。そんな風にして私のロックの第一歩が始まっていくのであった。
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