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バンドマンに憧れて 第7話 「発声」と「smells like teen spirit」

 私が入学した中杉の軽音部では新入生歓迎会のようなカタチで、先輩が新入生を引き連れてお茶の水かなんかに繰り出し楽器屋巡りをするという催しがあった。新入生はそこでエレキギターなりベースなりを買うのだが、その経費は特に軽音部から支給される訳ではなく勿論自腹である。私は母との約束で志望校に受かったという理由でエレキギター代は心配なかったが、何万もするものだから生徒によっては買えない生徒もいただろう、と思うと何だか切ない。

 中杉軽音部の仕組みは新入生全員を4人か5人かで割って何組かバンドを作るというものだった。私の代は確か3組で1組はギャルバン、2組は男子のバンド。男子のバンドを作る際、HR/HM路線を嗜好するギターキッズ主流派バンドと「それ以外」、という風に別れた。私はもちろん「それ以外」だった。新入生歓迎ライブで先輩の男バンドはほぼHR/HM路線で、スピードとパワーと早弾きと甲高いボーカルの世界という感じで私はかなりがっくりきた。私の代の1組はそんな主流派路線を標榜したが、「それ以外」のメンバーはちぐはぐでHR/HM的なものも嫌いじゃないけど、みたいなはっきりしない感じだった。

 「それ以外」のギターは私で、スコアも持っていたことだしユニコーンをカバーしたい、と言った。ベースのマサツグは「BODYをやりたい」と言った。BODYというビジュアル系のバンドがあったのだ。ドラムのヤギはYOSHIKIに憧れているのに風貌が全く正反対の朴訥なタイプでちょっとおかしかったが、「Xをやりたい」と言った。私の所属したバンドでも1番浮いていたボーカルのミチゾウは「ACCESSをやりたい」と言って憚らなかった。ACCESSは当時一世を風靡したユニットだが、ビジュアル系よりややアイドル的要素が強かったのせいでメンバーが拒絶したため、確か、ACCESSだけはやらなかった、と記憶している。

 私のバンドはちぐはぐだったが穏やかな連中だったので何となく始まっていった。音楽室の物置きである1室がバンド練習室で、軽音部のバンドがローテーションで週に1回利用することができた。そこで、とにもかくにもみんなでスコアを見ながら試行錯誤バンド演奏にトライするのだが、何しろみんな素人なのだからヒドいものである。せっかちな私は悶々としたが、かといって自分も下手くそな自覚があったのでどうしようもなかった。

 中杉軽音部では週に2回か3回、「発声」という謎の儀礼があった。バンドを組んでしまうと、部員全員が顔を合わせることがなくなってしまうので組織を維持する為に週に数度、放課後に集まってその「発声」というのをやらされるのだ。音楽室の机を後ろに下げてスペースを作り、前方の黒板前に座った伴奏担当の先輩ギタリストを囲むようにして何列かに並んで立つ。伴奏の先輩が刻むアコースティックギターによる3コードに合わせて、並んだ部員が「ア(ド)ー、ア(ラ)ー、ア(シ)ー、ア(ド)ー」と発声する。これを半音ずつ上げていって、あるところまでいったら下がって戻ってこれを繰り返す、という半ば気合い系の行事なのだ。

 私はこの発声という無茶な試練のせいで自分が一般的より格段にキーが低いことを知ってショックを受けた。ビジュアル系にしてもミスチルにしてもその頃の日本の主流のロックは皆キーが高かった。高い方のA(ラ)くらい平気で出すような感じであったが私はE(ミ)の音が出るか出ないかでダメだった。この場合、その「発声」で高い方のミから上の間、声が出せない私は休むのが通常であると思うのだが、「発声」ではそれは許されなかった。先輩に「出なくても出せ」と言われた。「その内出るようになる」とも言われた。かわいがり的な暴力はなかったが、体質はやはりやや体育会系だったのだ。

 出なくても出せ、その内出るようになる、私はホンマかいな、と思いながらも頑張るしかなかった。時には「長尾ガンバレ」みたいな、明らかに一番キーの低い私を激励する優しい先輩、的な余計に空しくなる声援などもかけられた。かすれたヒーヒーした声音を絞り出し、いったいこれがロックとどう関係があるのだろうと思いながら空しくなることが度々だった。

 とはいえ、体育会系気質の最たる現場がその「発声」だっただけで、それ以外は普通に敬語を使って接していれば、先輩諸氏もまあ普通の人達だった。「発声」の前後には、それぞれがラフにバンド談義やら、早弾きの見せびらかし練習やらをしたり、和気あいあいとしていたのでそれはまあ嫌いではなかった。

 私が入部した94年4月の、その「発声」前後の団らんタイムであったが、それまでメタリカを弾いてた先輩がいきなりパワーコードで「ジャーンジャーンツクジャージャン♪ジャーンジャジャーンツクツクジャージャン」という単純な、それでいて超インパクトのあるリフを弾き出して私の耳がピーンとアンテナのようになった。何だこのかっちょいいフレージングは一体誰の曲なんだ!
「そ、それ、誰の曲なんすか?」聞いた私にその先輩は
「ニルバーナだよ知らないの?」とバカにした苦笑いをしたかと思うとまた「ジャーンジャーン」と得意げに弾き始めた。
今になってみれば早弾きしてたヤツがコロッと流行りもののニルバーナをしたり顔で弾いてる感じが寒いが、それどころではなかった。

 これは事件だった。先輩の話しによるとニルバーナのボーカルがその94年4月に亡くなった、というのだ。しかも銃による自殺。これ以上ロックなことがあるだろうか。私は興奮して実家で取っていた新聞を遡ってみた。先輩が「新聞にも出てたよ」と教えてくれたからだ。そして確かに朝日新聞に、小さなスペースではあったがカートコバーン自殺の記事が掲載されているのを発見し震えて読んだ。ロックだロックだ。

 私は私がロックバンドに夢中になっていることに対して涼しい視線を向けていた母親に新聞にロックの事件が載っている、ということを自慢し、ロックの重要さをアピールするつもりだったが、軽く流されて釈然としなかった。しかしニルバーナの「smells like teen spirit」の衝撃はデカかった。私は洋楽はまだpoliceとU2至上主義から脱していなかったのだが、ニルバーナの出現以降、アメリカのオルタナティブロックに興味を抱いていった。

 それにオルタナティブロックと呼ばれたその頃のアメリカのバンド達はパンクの影響を受けていたので早弾きとか、そういうスポーティーなものとかけ離れていたし、ハードロック系バンドの得意とする西欧的な美しいハーモニーともかけ離れていたし、歌の雰囲気も暗くてドロッとして重たくてそれが何だか私には心地よく、かっこいいもののように思われたのだ。

 私が所属したバンドはスコアを見ながらの、日本語のややメジャーなロックを演奏するのに四苦八苦していたのだが、私は段々とロックの嗜好が洋楽よりにスライドしていくのを止められなかった。しかし、そのオルタナティブロック的な音楽の話しを共有できる友達が部員の中にはいなかったのでどうにも歯がゆい気分になっていくのだった。早く私の私だけの理想的な個性的なバンドをやってみたい。そんな想いは募っていくばかりだった。

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